2019/02/02 - 2019/02/02
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ハイペリオンさん
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1333年に鎌倉幕府は滅んだが、このとき、新田義貞軍との
最後の合戦に敗れた幕府方数百名が、執権邸の裏手にある
東勝寺周辺で自害したという。
後年その場所に横穴が掘られ、墓が据えられた。その場所
を腹切りやぐらという。
自害した人数が多いだけにホラースポット扱いされている
が、そんなおどろおどろしい場所なのか。霊感なんて全く
ないし、信じてもいないので、気軽に見に行った。
なお、やぐらとは漢字で櫓と書き、木材を組んで建てた高
い台のようなものを指すが、鎌倉時代から室町時代は、横
穴を掘った墓や供養堂のことをいう。ただし、鎌倉市周辺
にあるだけで、他の地域では見られない。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル
-
大勢の中国人、韓国人観光客とともに根岸線の
鎌倉駅に降り立った。 -
とりあえず、土産物通りを通って鶴岡八幡宮へ行く
ことにする。大した繁盛ぶりだ。これも、中国人や
韓国人たちのおかげである。 -
まずは鎌倉武士たちの守護神だった鶴岡八幡宮へ
お参り。
平日の午前中ということで、参拝者はちらほらと
いう感じ。 -
石段の右側には大銀杏があったのだが、倒壊してしまった。
武士として初めて右大臣の位に登り詰めた三代将
軍、源実朝が雪が二尺(約7センチ)も積もった
1月27日、二代将軍頼家の子、公暁に暗殺された
場所とされている。
二代目将軍頼家は独断専横がひどく、御家人の反
発を招き、彼を補佐していた比企氏が北条氏に滅
ぼされた後、伊豆の修善寺に幽閉された。そして
その後、北条方の手によって暗殺された。 -
頼家暗殺に直接手を下したのは実朝ではないが、
公暁の実朝に対する恨みは相当深かったようで、
食事の時でも実朝の首を手放さなかったという。
生首に対する感覚が現在とは全く違うとはいえ、
あんなものを膝に置いて、よくめしがのどを通
るものだ。 -
公暁は後見人の備中阿闍梨宅か、乳母夫の三浦義時
の下に向かう途中、北条義時が差し向けた追手義時
邸の板塀のところで討ち取られた。
源実朝に子はなく、彼の死によって河内源氏の血は
途絶えた。以後、鎌倉幕府は、京都の皇族を将軍と
して迎えることになる。 -
鶴岡八幡宮にお参りした後、北条氏の私邸があった
宝戒寺へ向かった。
この周辺は片側一車線の道路で両側とも車が数珠つ
なぎだ。
かつて鶴岡八幡宮周辺を世界遺産に登録の申請を出
したが、ふざけた話だ。車が渋滞し、電柱が林立し、
電線が張り巡らされ、コンビニや土産物屋が軒を連
ねているところなんか世界遺産なもんか。鎌倉市の
連中は世界遺産をユネスコ指定の観光地くらいに考
えていないんじゃないのか。
後ろから来る車に気をつけながら歩道のない道路を
数分歩くと宝戒寺に着く。
入口に建てられていた大正時代の石碑によると、当
時は小町亭と呼ばれていた。 -
宝戒寺は、新田義貞の鎌倉攻めの際に焼かれた
北条氏邸の跡に、霊を鎮めるために建てられた。
建立は幕府が滅亡して2年後の1335年である。 -
それほど広くない敷地に本堂があり、左側には
質素な庭があった。 -
美しい紋様が描かれた玉砂利が敷かれ、精密に計算
された医師が置かれ、池があるような豪華な庭園を
持つ京都の寺社とは違い、武人の建てたものらしく、
質素な造りである。
北条氏が住んでいたころの様子はわからないが、
現在とそれほど違っていないのだろう。
都の公家とは違って、質素な生活ぶりが偲ばれる。 -
当時の様式の墓石が並んでいる。
おそらく北条氏かその取り巻きたちを供養するため
だと思われる。 -
ここ小町亭の最後の主、北条孝時は、病弱で政を顧
みず、田楽や闘犬に宇津々を抜かしていた暗君とい
う評価が定着している。
しかし、これは滅ぼした側が書いた『太平記』によ
るところが大きく、かなりの色が付けられていると
考えた方が良いだろう。
彼は13歳の時に執権の地位に就いた。今の感覚だと、
中1のガキである。こんな子供に執権職など務まる
わけがなく、彼には有力な御家人が後見人のような
形で付き、彼らが中心となって政治を執っていた。
執権自体が将軍の代理として政治を行う役職だが、
その代理職にまで代理がいたのである。
鎌倉幕府はある時期から将軍も執権も神輿に乗せ、
有力御家人たちによって動かされていた政権だった。
北条高時には金沢貞顕が意思決定の中心となっていた。
高時は病気がちで、いつもぼーっとしているような
状態だったらしく、政治に関与することなどままな
らない状態だった。それが、遊びにばかり夢中にな
ボンクラというイメージになったのかもしれない。 -
鎌倉幕府滅亡は北条高時や金沢貞顕らの責任では
あるが、日本を取り巻く環境の変化に対処できな
かった面も大きかったと思われる。
まず、14世紀ごろから数百年間続く寒冷期によっ
て、農作物の収穫量が不安定になった。当時の記
録をもとに出した京都の3月の平均温は6~9度
くらい。戦国時代は、平均6度くらいだった。桜
の開花が4月末日頃のこともあったというから、
相当気温が低い日々が続いたようだ。 -
気温低下によって東国のコメの収穫量が不安定に
なった。そんな時期に後醍醐天皇の下に集まった、
幕府に不満を持つ者たちとの戦争が始まった。
長引く戦に戦費は増大し、収穫が落ちた中小の御
家人たちの財政は圧迫された。 -
千早城攻めに加わった新田義貞は仮病を使って
戦陣を離脱し、領地に戻っていた。
そこに上洛軍に送るための兵糧米の徴収に鎌倉
から使者がやって来た。ここで小競り合いが起
き、新田側が鎌倉の使者を斬ってしまった。こ
こに新田義貞は挙兵し、坂東武者たちが呼応し、
1333年5月の鎌倉合戦へと進んでいく。
おそらく、長雨や冷害で米の収穫が落ちている
ところへ際限のない兵糧の徴集が続くことに関
東の御家人たちも耐えられなくなっていたのだ
ろう。 -
最初の合戦は埼玉県所沢市の小手指周辺で行われた。
この時、鎌倉方は踏ん張り痛み分けのような形と
なった。
次に鎌倉軍は一度退き、東京都東村山市久米川に
陣容を整えていた。
ここは、ぼくが住んでいるすぐ近くなので、久米
川合戦跡を見に行った。 -
狭い公園の中に久米川合戦跡の碑が建っているだけ
で、周囲は築浅の住宅地図建ち並び、当時の雰囲気
は全く感じ取ることはできなかった。 -
北側が丘陵になっていて、ここから新田勢が幕府軍
を急襲し、撃ち破った。
幕府軍は現在の東京都府中分倍河原にまで撤退し、
多摩川を背にまさに背水の陣を敷いた。
このころ、鎌倉には徴発した物資が滞りなく流れ
込んでいたので、新田勢が押し寄せてきているの
はわかってはいても、それほど切迫感はなかった
のではないか。 -
久米川合戦のあと、新田義貞は鎌倉方面が見える
よう、塚を築かせ、そこにしばらく逗留した。そ
れがこの将軍塚である。 -
おそらく当時は高い建物もなく、空気も住んでいた
だろうから、府中市あたりまでは容易に見渡せただ
ろう。 -
分倍河原の合戦で完敗を喫した鎌倉まで敗走した。
鎌倉幕府滅亡まであと数日といったところ。
鎌倉は、周囲を山に囲まれた要害の地である。外部
との往来は山の尾根を削った切通(きりとおし)を
通って行われていた。鎌倉には数カ所の張り通しが
あり、ここを塞いてしまえば、外敵の侵入を防ぐこ
とは可能である。しかしまあ、市内に立てこもる事
態になった時点で既にゲームオーバーと言えるのだ
が。
鎌倉合戦は、この切通を巡る攻防となった。 -
畿内で続いた後醍醐天皇勢との戦は、楠木正成の戦術
に代表されるようなゲリラ戦で、ジリジリとすりつぶ
されるような戦だったが、鎌倉合戦は、騎馬武者同士
が正面からぶつかり合う凄まじものとなった。
『太平記』には当時の模様が次のように書かれている。
現代語訳で記すと「義を重んじ、命を省みず、死に場
所をここと決め、子孫の代まで栄誉を残すべき合戦で
あった。我が子が打たれても助け起こさず、子の遺体
を乗り越えて敵に立ち向かい、主人が射ち落されれば、
郎党がその馬に乗って突っ込んでいった。大勢が打た
れたった一人が残り、大半の陣が破られてひとつだけ
が残っても、終わりが見えない戦いであった」
鎌倉という狭い土地の中で行われたすさまじい白兵戦
の模様が描かれている。
両軍が増援を繰り出す消耗戦となったが、稲村ケ崎の
海岸線を守る鎌倉側の軍勢がついに底をつき、新田軍
が市内になだれ込んだ。新田軍は市内に火を放ち、
このとき北条氏の邸宅である小町亭も延焼した。 -
北条高時らは、ここから少し坂を上ったところにある東
勝寺に最後の陣を布いた。 -
東勝寺は今も再建されておらず、更地のままフェンスに囲
われた状態だった。
この時、高時とともに行動を共にしていたのは100人ほど。
ここで、長崎高重が決死隊を新田義貞の本陣に突っ込ませた。
これが掉尾の一戦となった。『太平記』はここからは長崎高
重隊の奮戦に紙数を割いている。 -
木の枝をすごいスピードで走り回っている動物がいた。
止まったところを撮ると、リスだった。しかし、ピント
が枝に合ってしまい、残念ながらピンボケ。 -
こちらはまあなんとかピントが合った。
ちなみにこのリスはタイワンリスという在来種だそ
うだ。
宝戒寺の庭でも走り回る姿を見かけた。 -
東勝寺からさらに坂を上るとハイキングコースになる
が、その前に北条高時以下数百人が自害したとされる
腹切りやぐらがある。 -
東勝寺よりも狭い土地で、入口はロープが張られ、
参拝者以外立ち入り禁止となっていた。
参拝者のような顔をして入ればいいわけだが、外か
ら眺めるだけにした。 -
横穴の前に卒塔婆が1本立っていた。
目を凝らして、穴を見ると、当時の様式の墓が見えた。
宝戒寺にあったものと同じ様式のものである。 -
しかし、この程度の広さのところで数百人が一斉に
自害などできるものだろうか。
北条氏ら一族郎党が自害する前には、この辺りはす
でに戦死者の死体が累々と横たわる凄惨な現場だっ
たに違いない。
『太平記』には、高時の自害を見て、今が死に時と
次々に死んでいったとある。 -
新田勢は鎌倉を西側から攻めたので、東側の朝比奈切
通は空いていた。脱出しようと思えば、ここからでき
たはずだが、かれらは鎌倉から落ち延びるということ
を全く考えていなかったようだ。
一族郎党数百人が一斉に自害するという、100年以上
にわたって日本を支配した層の最期にしてはあまりに
も壮絶である。
その凄惨さ故にか、ここがロープで立ち入りを規制さ
れ人の立ち入りを許さず、ろくに手入れもされていな
い理由なのかもしれない。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- yamayuri2001さん 2019/03/10 16:54:58
- ハイペリオンさん、こんにちは。
- 鎌倉の旅行記、ハイペリオンさんのバージョンで拝見すると
なんと、おどろおどろしい事か・・・
鎌倉までは、JRで4駅の横浜在住の私は
鎌倉にはよく行きますが・・・
このような歴史背景を深く知っていらっしゃる
ハイペリオンさんは、何者?
といつも考えてしまいます。
生首をいつもそばに置いて
食事など、考えられませんね・・・
次に鎌倉に遊びに行く時は、
少し冷気の混じった風を感じられそうです。
勉強になりました。
ありがとうございます。
yamayuri2001
- ハイペリオンさん からの返信 2019/03/11 06:55:26
- RE: ハイペリオンさん、こんにちは。
- おはようございます。
投票と書き込みありがとうございます。
最近はダークツーリズムの真似ごとみたいなことを
していて、死者がたくさん出たようなところばかり
に行っています。そのうち何かに憑かれるかも・・・。
どこにでもいる、特別じゃない♪、私、おじさんA
ですよ。
まあ、こういうところなので、少しはお勉強はしま
したが・・・。
ところで、コンチネンタルホテルでスキミングに遭
われたとか。ベトナム戦争当時、開高健や有名なジ
ャーナリストたちが逗留していたような、伝統も格
式も最高ランクのホテルでなぜ? という感じです。
東南アジアはその手の犯罪被害を本当によく耳にし
ます。やっぱり油断ならないですね。キャッシュレ
スが進んでいますが、旅はやっぱり現金主義がいい
のかなと思います。
では、失礼します。
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