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1333年に鎌倉幕府は滅んだが、このとき、新田義貞軍との<br />最後の合戦に敗れた幕府方数百名が、執権邸の裏手にある<br />東勝寺周辺で自害したという。<br /><br />後年その場所に横穴が掘られ、墓が据えられた。その場所<br />を腹切りやぐらという。<br /><br />自害した人数が多いだけにホラースポット扱いされている<br />が、そんなおどろおどろしい場所なのか。霊感なんて全く<br />ないし、信じてもいないので、気軽に見に行った。<br /><br />なお、やぐらとは漢字で櫓と書き、木材を組んで建てた高<br />い台のようなものを指すが、鎌倉時代から室町時代は、横<br />穴を掘った墓や供養堂のことをいう。ただし、鎌倉市周辺<br />にあるだけで、他の地域では見られない。

ヤバいとこに行ってきた!―数百人が自害した鎌倉幕府終焉の地、腹切りやぐら(神奈川県鎌倉市)

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2019/02/02 - 2019/02/02

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ハイペリオン

ハイペリオンさん

1333年に鎌倉幕府は滅んだが、このとき、新田義貞軍との
最後の合戦に敗れた幕府方数百名が、執権邸の裏手にある
東勝寺周辺で自害したという。

後年その場所に横穴が掘られ、墓が据えられた。その場所
を腹切りやぐらという。

自害した人数が多いだけにホラースポット扱いされている
が、そんなおどろおどろしい場所なのか。霊感なんて全く
ないし、信じてもいないので、気軽に見に行った。

なお、やぐらとは漢字で櫓と書き、木材を組んで建てた高
い台のようなものを指すが、鎌倉時代から室町時代は、横
穴を掘った墓や供養堂のことをいう。ただし、鎌倉市周辺
にあるだけで、他の地域では見られない。

旅行の満足度
3.5
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル
  • 大勢の中国人、韓国人観光客とともに根岸線の<br />鎌倉駅に降り立った。<br /><br />

    大勢の中国人、韓国人観光客とともに根岸線の
    鎌倉駅に降り立った。

  • とりあえず、土産物通りを通って鶴岡八幡宮へ行く<br />ことにする。大した繁盛ぶりだ。これも、中国人や<br />韓国人たちのおかげである。<br /><br />

    とりあえず、土産物通りを通って鶴岡八幡宮へ行く
    ことにする。大した繁盛ぶりだ。これも、中国人や
    韓国人たちのおかげである。

  • まずは鎌倉武士たちの守護神だった鶴岡八幡宮へ<br />お参り。<br /><br />平日の午前中ということで、参拝者はちらほらと<br />いう感じ。

    まずは鎌倉武士たちの守護神だった鶴岡八幡宮へ
    お参り。

    平日の午前中ということで、参拝者はちらほらと
    いう感じ。

  • 石段の右側には大銀杏があったのだが、倒壊してしまった。<br /><br />武士として初めて右大臣の位に登り詰めた三代将<br />軍、源実朝が雪が二尺(約7センチ)も積もった<br />1月27日、二代将軍頼家の子、公暁に暗殺された<br />場所とされている。<br /><br />二代目将軍頼家は独断専横がひどく、御家人の反<br />発を招き、彼を補佐していた比企氏が北条氏に滅<br />ぼされた後、伊豆の修善寺に幽閉された。そして<br />その後、北条方の手によって暗殺された。<br />

    石段の右側には大銀杏があったのだが、倒壊してしまった。

    武士として初めて右大臣の位に登り詰めた三代将
    軍、源実朝が雪が二尺(約7センチ)も積もった
    1月27日、二代将軍頼家の子、公暁に暗殺された
    場所とされている。

    二代目将軍頼家は独断専横がひどく、御家人の反
    発を招き、彼を補佐していた比企氏が北条氏に滅
    ぼされた後、伊豆の修善寺に幽閉された。そして
    その後、北条方の手によって暗殺された。

  • 頼家暗殺に直接手を下したのは実朝ではないが、<br />公暁の実朝に対する恨みは相当深かったようで、<br />食事の時でも実朝の首を手放さなかったという。<br /><br />生首に対する感覚が現在とは全く違うとはいえ、<br />あんなものを膝に置いて、よくめしがのどを通<br />るものだ。

    頼家暗殺に直接手を下したのは実朝ではないが、
    公暁の実朝に対する恨みは相当深かったようで、
    食事の時でも実朝の首を手放さなかったという。

    生首に対する感覚が現在とは全く違うとはいえ、
    あんなものを膝に置いて、よくめしがのどを通
    るものだ。

  • 公暁は後見人の備中阿闍梨宅か、乳母夫の三浦義時<br />の下に向かう途中、北条義時が差し向けた追手義時<br />邸の板塀のところで討ち取られた。<br /><br />源実朝に子はなく、彼の死によって河内源氏の血は<br />途絶えた。以後、鎌倉幕府は、京都の皇族を将軍と<br />して迎えることになる。

    公暁は後見人の備中阿闍梨宅か、乳母夫の三浦義時
    の下に向かう途中、北条義時が差し向けた追手義時
    邸の板塀のところで討ち取られた。

    源実朝に子はなく、彼の死によって河内源氏の血は
    途絶えた。以後、鎌倉幕府は、京都の皇族を将軍と
    して迎えることになる。

  • 鶴岡八幡宮にお参りした後、北条氏の私邸があった<br />宝戒寺へ向かった。<br /><br />この周辺は片側一車線の道路で両側とも車が数珠つ<br />なぎだ。<br /><br />かつて鶴岡八幡宮周辺を世界遺産に登録の申請を出<br />したが、ふざけた話だ。車が渋滞し、電柱が林立し、<br />電線が張り巡らされ、コンビニや土産物屋が軒を連<br />ねているところなんか世界遺産なもんか。鎌倉市の<br />連中は世界遺産をユネスコ指定の観光地くらいに考<br />えていないんじゃないのか。<br /><br />後ろから来る車に気をつけながら歩道のない道路を<br />数分歩くと宝戒寺に着く。<br /><br />入口に建てられていた大正時代の石碑によると、当<br />時は小町亭と呼ばれていた。<br /><br />

    鶴岡八幡宮にお参りした後、北条氏の私邸があった
    宝戒寺へ向かった。

    この周辺は片側一車線の道路で両側とも車が数珠つ
    なぎだ。

    かつて鶴岡八幡宮周辺を世界遺産に登録の申請を出
    したが、ふざけた話だ。車が渋滞し、電柱が林立し、
    電線が張り巡らされ、コンビニや土産物屋が軒を連
    ねているところなんか世界遺産なもんか。鎌倉市の
    連中は世界遺産をユネスコ指定の観光地くらいに考
    えていないんじゃないのか。

    後ろから来る車に気をつけながら歩道のない道路を
    数分歩くと宝戒寺に着く。

    入口に建てられていた大正時代の石碑によると、当
    時は小町亭と呼ばれていた。

  • 宝戒寺は、新田義貞の鎌倉攻めの際に焼かれた<br />北条氏邸の跡に、霊を鎮めるために建てられた。<br /><br />建立は幕府が滅亡して2年後の1335年である。

    宝戒寺は、新田義貞の鎌倉攻めの際に焼かれた
    北条氏邸の跡に、霊を鎮めるために建てられた。

    建立は幕府が滅亡して2年後の1335年である。

  • それほど広くない敷地に本堂があり、左側には<br />質素な庭があった。

    それほど広くない敷地に本堂があり、左側には
    質素な庭があった。

  • 美しい紋様が描かれた玉砂利が敷かれ、精密に計算<br />された医師が置かれ、池があるような豪華な庭園を<br />持つ京都の寺社とは違い、武人の建てたものらしく、<br />質素な造りである。<br /><br />北条氏が住んでいたころの様子はわからないが、<br />現在とそれほど違っていないのだろう。<br /><br />都の公家とは違って、質素な生活ぶりが偲ばれる。

    美しい紋様が描かれた玉砂利が敷かれ、精密に計算
    された医師が置かれ、池があるような豪華な庭園を
    持つ京都の寺社とは違い、武人の建てたものらしく、
    質素な造りである。

    北条氏が住んでいたころの様子はわからないが、
    現在とそれほど違っていないのだろう。

    都の公家とは違って、質素な生活ぶりが偲ばれる。

  • 当時の様式の墓石が並んでいる。<br /><br />おそらく北条氏かその取り巻きたちを供養するため<br />だと思われる。

    当時の様式の墓石が並んでいる。

    おそらく北条氏かその取り巻きたちを供養するため
    だと思われる。

  • ここ小町亭の最後の主、北条孝時は、病弱で政を顧<br />みず、田楽や闘犬に宇津々を抜かしていた暗君とい<br />う評価が定着している。<br /><br />しかし、これは滅ぼした側が書いた『太平記』によ<br />るところが大きく、かなりの色が付けられていると<br />考えた方が良いだろう。<br /><br />彼は13歳の時に執権の地位に就いた。今の感覚だと、<br />中1のガキである。こんな子供に執権職など務まる<br />わけがなく、彼には有力な御家人が後見人のような<br />形で付き、彼らが中心となって政治を執っていた。<br /><br />執権自体が将軍の代理として政治を行う役職だが、<br />その代理職にまで代理がいたのである。<br /><br />鎌倉幕府はある時期から将軍も執権も神輿に乗せ、<br />有力御家人たちによって動かされていた政権だった。<br /><br />北条高時には金沢貞顕が意思決定の中心となっていた。<br />高時は病気がちで、いつもぼーっとしているような<br />状態だったらしく、政治に関与することなどままな<br />らない状態だった。それが、遊びにばかり夢中にな<br />ボンクラというイメージになったのかもしれない。<br />

    ここ小町亭の最後の主、北条孝時は、病弱で政を顧
    みず、田楽や闘犬に宇津々を抜かしていた暗君とい
    う評価が定着している。

    しかし、これは滅ぼした側が書いた『太平記』によ
    るところが大きく、かなりの色が付けられていると
    考えた方が良いだろう。

    彼は13歳の時に執権の地位に就いた。今の感覚だと、
    中1のガキである。こんな子供に執権職など務まる
    わけがなく、彼には有力な御家人が後見人のような
    形で付き、彼らが中心となって政治を執っていた。

    執権自体が将軍の代理として政治を行う役職だが、
    その代理職にまで代理がいたのである。

    鎌倉幕府はある時期から将軍も執権も神輿に乗せ、
    有力御家人たちによって動かされていた政権だった。

    北条高時には金沢貞顕が意思決定の中心となっていた。
    高時は病気がちで、いつもぼーっとしているような
    状態だったらしく、政治に関与することなどままな
    らない状態だった。それが、遊びにばかり夢中にな
    ボンクラというイメージになったのかもしれない。

  • 鎌倉幕府滅亡は北条高時や金沢貞顕らの責任では<br />あるが、日本を取り巻く環境の変化に対処できな<br />かった面も大きかったと思われる。<br /><br />まず、14世紀ごろから数百年間続く寒冷期によっ<br />て、農作物の収穫量が不安定になった。当時の記<br />録をもとに出した京都の3月の平均温は6~9度<br />くらい。戦国時代は、平均6度くらいだった。桜<br />の開花が4月末日頃のこともあったというから、<br />相当気温が低い日々が続いたようだ。<br /><br />

    鎌倉幕府滅亡は北条高時や金沢貞顕らの責任では
    あるが、日本を取り巻く環境の変化に対処できな
    かった面も大きかったと思われる。

    まず、14世紀ごろから数百年間続く寒冷期によっ
    て、農作物の収穫量が不安定になった。当時の記
    録をもとに出した京都の3月の平均温は6~9度
    くらい。戦国時代は、平均6度くらいだった。桜
    の開花が4月末日頃のこともあったというから、
    相当気温が低い日々が続いたようだ。

  • 気温低下によって東国のコメの収穫量が不安定に<br />なった。そんな時期に後醍醐天皇の下に集まった、<br />幕府に不満を持つ者たちとの戦争が始まった。<br /><br />長引く戦に戦費は増大し、収穫が落ちた中小の御<br />家人たちの財政は圧迫された。

    気温低下によって東国のコメの収穫量が不安定に
    なった。そんな時期に後醍醐天皇の下に集まった、
    幕府に不満を持つ者たちとの戦争が始まった。

    長引く戦に戦費は増大し、収穫が落ちた中小の御
    家人たちの財政は圧迫された。

  • 千早城攻めに加わった新田義貞は仮病を使って<br />戦陣を離脱し、領地に戻っていた。<br /><br />そこに上洛軍に送るための兵糧米の徴収に鎌倉<br />から使者がやって来た。ここで小競り合いが起<br />き、新田側が鎌倉の使者を斬ってしまった。こ<br />こに新田義貞は挙兵し、坂東武者たちが呼応し、<br />1333年5月の鎌倉合戦へと進んでいく。<br /><br />おそらく、長雨や冷害で米の収穫が落ちている<br />ところへ際限のない兵糧の徴集が続くことに関<br />東の御家人たちも耐えられなくなっていたのだ<br />ろう。

    千早城攻めに加わった新田義貞は仮病を使って
    戦陣を離脱し、領地に戻っていた。

    そこに上洛軍に送るための兵糧米の徴収に鎌倉
    から使者がやって来た。ここで小競り合いが起
    き、新田側が鎌倉の使者を斬ってしまった。こ
    こに新田義貞は挙兵し、坂東武者たちが呼応し、
    1333年5月の鎌倉合戦へと進んでいく。

    おそらく、長雨や冷害で米の収穫が落ちている
    ところへ際限のない兵糧の徴集が続くことに関
    東の御家人たちも耐えられなくなっていたのだ
    ろう。

  • 最初の合戦は埼玉県所沢市の小手指周辺で行われた。<br /><br />この時、鎌倉方は踏ん張り痛み分けのような形と<br />なった。<br /><br />次に鎌倉軍は一度退き、東京都東村山市久米川に<br />陣容を整えていた。<br /><br />ここは、ぼくが住んでいるすぐ近くなので、久米<br />川合戦跡を見に行った。

    最初の合戦は埼玉県所沢市の小手指周辺で行われた。

    この時、鎌倉方は踏ん張り痛み分けのような形と
    なった。

    次に鎌倉軍は一度退き、東京都東村山市久米川に
    陣容を整えていた。

    ここは、ぼくが住んでいるすぐ近くなので、久米
    川合戦跡を見に行った。

  • 狭い公園の中に久米川合戦跡の碑が建っているだけ<br />で、周囲は築浅の住宅地図建ち並び、当時の雰囲気<br />は全く感じ取ることはできなかった。

    狭い公園の中に久米川合戦跡の碑が建っているだけ
    で、周囲は築浅の住宅地図建ち並び、当時の雰囲気
    は全く感じ取ることはできなかった。

  • 北側が丘陵になっていて、ここから新田勢が幕府軍<br />を急襲し、撃ち破った。<br /><br />幕府軍は現在の東京都府中分倍河原にまで撤退し、<br />多摩川を背にまさに背水の陣を敷いた。<br /><br />このころ、鎌倉には徴発した物資が滞りなく流れ<br />込んでいたので、新田勢が押し寄せてきているの<br />はわかってはいても、それほど切迫感はなかった<br />のではないか。

    北側が丘陵になっていて、ここから新田勢が幕府軍
    を急襲し、撃ち破った。

    幕府軍は現在の東京都府中分倍河原にまで撤退し、
    多摩川を背にまさに背水の陣を敷いた。

    このころ、鎌倉には徴発した物資が滞りなく流れ
    込んでいたので、新田勢が押し寄せてきているの
    はわかってはいても、それほど切迫感はなかった
    のではないか。

  • 久米川合戦のあと、新田義貞は鎌倉方面が見える<br />よう、塚を築かせ、そこにしばらく逗留した。そ<br />れがこの将軍塚である。

    久米川合戦のあと、新田義貞は鎌倉方面が見える
    よう、塚を築かせ、そこにしばらく逗留した。そ
    れがこの将軍塚である。

  • おそらく当時は高い建物もなく、空気も住んでいた<br />だろうから、府中市あたりまでは容易に見渡せただ<br />ろう。

    おそらく当時は高い建物もなく、空気も住んでいた
    だろうから、府中市あたりまでは容易に見渡せただ
    ろう。

  • 分倍河原の合戦で完敗を喫した鎌倉まで敗走した。<br />鎌倉幕府滅亡まであと数日といったところ。<br /><br />鎌倉は、周囲を山に囲まれた要害の地である。外部<br />との往来は山の尾根を削った切通(きりとおし)を<br />通って行われていた。鎌倉には数カ所の張り通しが<br />あり、ここを塞いてしまえば、外敵の侵入を防ぐこ<br />とは可能である。しかしまあ、市内に立てこもる事<br />態になった時点で既にゲームオーバーと言えるのだ<br />が。<br /><br />鎌倉合戦は、この切通を巡る攻防となった。

    分倍河原の合戦で完敗を喫した鎌倉まで敗走した。
    鎌倉幕府滅亡まであと数日といったところ。

    鎌倉は、周囲を山に囲まれた要害の地である。外部
    との往来は山の尾根を削った切通(きりとおし)を
    通って行われていた。鎌倉には数カ所の張り通しが
    あり、ここを塞いてしまえば、外敵の侵入を防ぐこ
    とは可能である。しかしまあ、市内に立てこもる事
    態になった時点で既にゲームオーバーと言えるのだ
    が。

    鎌倉合戦は、この切通を巡る攻防となった。

  • 畿内で続いた後醍醐天皇勢との戦は、楠木正成の戦術<br />に代表されるようなゲリラ戦で、ジリジリとすりつぶ<br />されるような戦だったが、鎌倉合戦は、騎馬武者同士<br />が正面からぶつかり合う凄まじものとなった。<br /><br />『太平記』には当時の模様が次のように書かれている。<br />現代語訳で記すと「義を重んじ、命を省みず、死に場<br />所をここと決め、子孫の代まで栄誉を残すべき合戦で<br />あった。我が子が打たれても助け起こさず、子の遺体<br />を乗り越えて敵に立ち向かい、主人が射ち落されれば、<br />郎党がその馬に乗って突っ込んでいった。大勢が打た<br />れたった一人が残り、大半の陣が破られてひとつだけ<br />が残っても、終わりが見えない戦いであった」<br /><br />鎌倉という狭い土地の中で行われたすさまじい白兵戦<br />の模様が描かれている。<br /><br />両軍が増援を繰り出す消耗戦となったが、稲村ケ崎の<br />海岸線を守る鎌倉側の軍勢がついに底をつき、新田軍<br />が市内になだれ込んだ。新田軍は市内に火を放ち、<br />このとき北条氏の邸宅である小町亭も延焼した。

    畿内で続いた後醍醐天皇勢との戦は、楠木正成の戦術
    に代表されるようなゲリラ戦で、ジリジリとすりつぶ
    されるような戦だったが、鎌倉合戦は、騎馬武者同士
    が正面からぶつかり合う凄まじものとなった。

    『太平記』には当時の模様が次のように書かれている。
    現代語訳で記すと「義を重んじ、命を省みず、死に場
    所をここと決め、子孫の代まで栄誉を残すべき合戦で
    あった。我が子が打たれても助け起こさず、子の遺体
    を乗り越えて敵に立ち向かい、主人が射ち落されれば、
    郎党がその馬に乗って突っ込んでいった。大勢が打た
    れたった一人が残り、大半の陣が破られてひとつだけ
    が残っても、終わりが見えない戦いであった」

    鎌倉という狭い土地の中で行われたすさまじい白兵戦
    の模様が描かれている。

    両軍が増援を繰り出す消耗戦となったが、稲村ケ崎の
    海岸線を守る鎌倉側の軍勢がついに底をつき、新田軍
    が市内になだれ込んだ。新田軍は市内に火を放ち、
    このとき北条氏の邸宅である小町亭も延焼した。

  • 北条高時らは、ここから少し坂を上ったところにある東<br />勝寺に最後の陣を布いた。

    北条高時らは、ここから少し坂を上ったところにある東
    勝寺に最後の陣を布いた。

  • 東勝寺は今も再建されておらず、更地のままフェンスに囲<br />われた状態だった。<br /><br />この時、高時とともに行動を共にしていたのは100人ほど。<br />ここで、長崎高重が決死隊を新田義貞の本陣に突っ込ませた。<br />これが掉尾の一戦となった。『太平記』はここからは長崎高<br />重隊の奮戦に紙数を割いている。<br />

    東勝寺は今も再建されておらず、更地のままフェンスに囲
    われた状態だった。

    この時、高時とともに行動を共にしていたのは100人ほど。
    ここで、長崎高重が決死隊を新田義貞の本陣に突っ込ませた。
    これが掉尾の一戦となった。『太平記』はここからは長崎高
    重隊の奮戦に紙数を割いている。

  • 木の枝をすごいスピードで走り回っている動物がいた。<br /><br />止まったところを撮ると、リスだった。しかし、ピント<br />が枝に合ってしまい、残念ながらピンボケ。<br /><br />

    木の枝をすごいスピードで走り回っている動物がいた。

    止まったところを撮ると、リスだった。しかし、ピント
    が枝に合ってしまい、残念ながらピンボケ。

  • こちらはまあなんとかピントが合った。<br /><br />ちなみにこのリスはタイワンリスという在来種だそ<br />うだ。<br /><br />宝戒寺の庭でも走り回る姿を見かけた。

    こちらはまあなんとかピントが合った。

    ちなみにこのリスはタイワンリスという在来種だそ
    うだ。

    宝戒寺の庭でも走り回る姿を見かけた。

  • 東勝寺からさらに坂を上るとハイキングコースになる<br />が、その前に北条高時以下数百人が自害したとされる<br />腹切りやぐらがある。

    東勝寺からさらに坂を上るとハイキングコースになる
    が、その前に北条高時以下数百人が自害したとされる
    腹切りやぐらがある。

  • 東勝寺よりも狭い土地で、入口はロープが張られ、<br />参拝者以外立ち入り禁止となっていた。<br /><br />参拝者のような顔をして入ればいいわけだが、外か<br />ら眺めるだけにした。

    東勝寺よりも狭い土地で、入口はロープが張られ、
    参拝者以外立ち入り禁止となっていた。

    参拝者のような顔をして入ればいいわけだが、外か
    ら眺めるだけにした。

  • 横穴の前に卒塔婆が1本立っていた。<br /><br />目を凝らして、穴を見ると、当時の様式の墓が見えた。<br />宝戒寺にあったものと同じ様式のものである。<br />

    横穴の前に卒塔婆が1本立っていた。

    目を凝らして、穴を見ると、当時の様式の墓が見えた。
    宝戒寺にあったものと同じ様式のものである。

  • しかし、この程度の広さのところで数百人が一斉に<br />自害などできるものだろうか。<br /><br />北条氏ら一族郎党が自害する前には、この辺りはす<br />でに戦死者の死体が累々と横たわる凄惨な現場だっ<br />たに違いない。<br /><br />『太平記』には、高時の自害を見て、今が死に時と<br />次々に死んでいったとある。

    しかし、この程度の広さのところで数百人が一斉に
    自害などできるものだろうか。

    北条氏ら一族郎党が自害する前には、この辺りはす
    でに戦死者の死体が累々と横たわる凄惨な現場だっ
    たに違いない。

    『太平記』には、高時の自害を見て、今が死に時と
    次々に死んでいったとある。

  • 新田勢は鎌倉を西側から攻めたので、東側の朝比奈切<br />通は空いていた。脱出しようと思えば、ここからでき<br />たはずだが、かれらは鎌倉から落ち延びるということ<br />を全く考えていなかったようだ。<br /><br />一族郎党数百人が一斉に自害するという、100年以上<br />にわたって日本を支配した層の最期にしてはあまりに<br />も壮絶である。<br /><br />その凄惨さ故にか、ここがロープで立ち入りを規制さ<br />れ人の立ち入りを許さず、ろくに手入れもされていな<br />い理由なのかもしれない。

    新田勢は鎌倉を西側から攻めたので、東側の朝比奈切
    通は空いていた。脱出しようと思えば、ここからでき
    たはずだが、かれらは鎌倉から落ち延びるということ
    を全く考えていなかったようだ。

    一族郎党数百人が一斉に自害するという、100年以上
    にわたって日本を支配した層の最期にしてはあまりに
    も壮絶である。

    その凄惨さ故にか、ここがロープで立ち入りを規制さ
    れ人の立ち入りを許さず、ろくに手入れもされていな
    い理由なのかもしれない。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • yamayuri2001さん 2019/03/10 16:54:58
    ハイペリオンさん、こんにちは。
    鎌倉の旅行記、ハイペリオンさんのバージョンで拝見すると
    なんと、おどろおどろしい事か・・・
    鎌倉までは、JRで4駅の横浜在住の私は
    鎌倉にはよく行きますが・・・
    このような歴史背景を深く知っていらっしゃる
    ハイペリオンさんは、何者?
    といつも考えてしまいます。

    生首をいつもそばに置いて
    食事など、考えられませんね・・・

    次に鎌倉に遊びに行く時は、
    少し冷気の混じった風を感じられそうです。
    勉強になりました。
    ありがとうございます。

    yamayuri2001

    ハイペリオン

    ハイペリオンさん からの返信 2019/03/11 06:55:26
    RE: ハイペリオンさん、こんにちは。
    おはようございます。

    投票と書き込みありがとうございます。

    最近はダークツーリズムの真似ごとみたいなことを
    していて、死者がたくさん出たようなところばかり
    に行っています。そのうち何かに憑かれるかも・・・。

    どこにでもいる、特別じゃない♪、私、おじさんA
    ですよ。

    まあ、こういうところなので、少しはお勉強はしま
    したが・・・。

    ところで、コンチネンタルホテルでスキミングに遭
    われたとか。ベトナム戦争当時、開高健や有名なジ
    ャーナリストたちが逗留していたような、伝統も格
    式も最高ランクのホテルでなぜ? という感じです。
    東南アジアはその手の犯罪被害を本当によく耳にし
    ます。やっぱり油断ならないですね。キャッシュレ
    スが進んでいますが、旅はやっぱり現金主義がいい
    のかなと思います。

    では、失礼します。

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