木之本・余呉旅行記(ブログ) 一覧に戻る
長浜市木之本町古橋にある鶏足寺は、200本もの古木もみじが深紅に染まる絶景で知られる湖北随一の紅葉の名所です。緩やかな参道の石段や苔生した石垣には散紅葉が折り重なり、真紅の絨毯を彷彿とさせる幽玄な世界を演出します。<br />己高山(こだかみやま)山頂付近にあった観音寺の別院「旧鶏足寺」は、室町時代の『己高山縁起』によると、735(天平7)年に行基が開基した古寺「東光山常楽寺」が原形です。一度荒廃するも799年に伝教大師 最澄が再興し、鶏足寺に改名したと伝えられます。最澄が改名した旧鶏足寺は1933(昭和8)年冬に不審火で焼失し、現在は建物跡と墓地庭園等遺構を遺すのみです。 <br />中世には僧兵を擁するほどの大寺で、時の権力者の庇護を受け安定した寺運を続けましたが、江戸幕府の終焉と共に衰微しました。一時は己高山の五箇寺の中心寺院だった観音寺の別院 飯福寺(はんぷくじ)と合弁していました。<br />現在の鶏足寺は飯福寺の本堂等を受け継ぎ、己高山随一の「鶏足寺」の名を残すために再興されたものです。故に、ガイドブックなどの記述は「鶏足寺(旧飯福寺)」になっています。

情緒纏綿 近江逍遥②鶏足寺

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2018/11/21 - 2018/11/21

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

長浜市木之本町古橋にある鶏足寺は、200本もの古木もみじが深紅に染まる絶景で知られる湖北随一の紅葉の名所です。緩やかな参道の石段や苔生した石垣には散紅葉が折り重なり、真紅の絨毯を彷彿とさせる幽玄な世界を演出します。
己高山(こだかみやま)山頂付近にあった観音寺の別院「旧鶏足寺」は、室町時代の『己高山縁起』によると、735(天平7)年に行基が開基した古寺「東光山常楽寺」が原形です。一度荒廃するも799年に伝教大師 最澄が再興し、鶏足寺に改名したと伝えられます。最澄が改名した旧鶏足寺は1933(昭和8)年冬に不審火で焼失し、現在は建物跡と墓地庭園等遺構を遺すのみです。
中世には僧兵を擁するほどの大寺で、時の権力者の庇護を受け安定した寺運を続けましたが、江戸幕府の終焉と共に衰微しました。一時は己高山の五箇寺の中心寺院だった観音寺の別院 飯福寺(はんぷくじ)と合弁していました。
現在の鶏足寺は飯福寺の本堂等を受け継ぎ、己高山随一の「鶏足寺」の名を残すために再興されたものです。故に、ガイドブックなどの記述は「鶏足寺(旧飯福寺)」になっています。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム

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  • 鶏足寺周辺マップです。<br />http://www.sushikei.com/kinomoto/ikago/img/maho_lag.jpg<br />

    鶏足寺周辺マップです。
    http://www.sushikei.com/kinomoto/ikago/img/maho_lag.jpg

  • 距離感をつかみたい方のためのマップです。<br />http://kitabiwako.jp/wp_sys/wp-content/uploads/2014/11/2bffc4f237c179c1106a400d49f71e8d2.pdf

    距離感をつかみたい方のためのマップです。
    http://kitabiwako.jp/wp_sys/wp-content/uploads/2014/11/2bffc4f237c179c1106a400d49f71e8d2.pdf

  • 古橋集落<br />段々になった屋根瓦が特徴的な古橋集落を抜けていきます。<br />鶏足寺までの経路は、赤い幟がナビゲートしてくれます。<br />

    古橋集落
    段々になった屋根瓦が特徴的な古橋集落を抜けていきます。
    鶏足寺までの経路は、赤い幟がナビゲートしてくれます。

  • 與志漏神社(よしろじんじゃ)<br />山里を抜けて鶏足寺へ向かうルートは、途中、與志漏神社の境内を横切ります。<br />この神社は、この周辺一帯の地域「余領(よしろ)郷」の氏神として古来崇められてきた大社です。<br />祭神には神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)と波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祀り、前者は須佐之男命、後者は武内宿禰の子とされ、『古事記』では淡海(近江)臣の祖とされます。

    與志漏神社(よしろじんじゃ)
    山里を抜けて鶏足寺へ向かうルートは、途中、與志漏神社の境内を横切ります。
    この神社は、この周辺一帯の地域「余領(よしろ)郷」の氏神として古来崇められてきた大社です。
    祭神には神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)と波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祀り、前者は須佐之男命、後者は武内宿禰の子とされ、『古事記』では淡海(近江)臣の祖とされます。

  • 與志漏神社<br />社頭の石鳥居は風格を湛えています。<br />「よしろ」は八代の転訛とされます。東西2里・南北2里の広大な神域を有し、氏神として崇敬された大社だったと社伝にあり、平安時代の「延喜式神名帳」にある式内社とされます。平安時代から鎌倉時代にかけては己高山7大寺に数えられた鶏足寺の鎮守社として社運も隆盛しました。往古は世代大明神と称し、湖北3郡に氏子を擁するなど神威もまた絶大であったことが窺がえます。

    與志漏神社
    社頭の石鳥居は風格を湛えています。
    「よしろ」は八代の転訛とされます。東西2里・南北2里の広大な神域を有し、氏神として崇敬された大社だったと社伝にあり、平安時代の「延喜式神名帳」にある式内社とされます。平安時代から鎌倉時代にかけては己高山7大寺に数えられた鶏足寺の鎮守社として社運も隆盛しました。往古は世代大明神と称し、湖北3郡に氏子を擁するなど神威もまた絶大であったことが窺がえます。

  • 與志漏神社<br />古橋の里は「近江のまほろば」とも呼ばれます。己高山を中心とした仏教文化圏が花開き、その寺々の中心地が古橋でした。この山里は、敦賀や若狭に渡ってきた渡来人たちの安住の地だったのかもしれません。この地に伝承されたのは、渡来の製鉄技術をはじめとする先進技術だけではなく、仏教や仏像という先進文化でもありました。そのお陰で、湖北・湖東の美しい仏像が今に残されていると言えます。古橋には6~7世紀前期に造られた製鉄炉の遺跡もあります。そこ出土した石器や鉄屑などは、世代閣に展示されています。

    與志漏神社
    古橋の里は「近江のまほろば」とも呼ばれます。己高山を中心とした仏教文化圏が花開き、その寺々の中心地が古橋でした。この山里は、敦賀や若狭に渡ってきた渡来人たちの安住の地だったのかもしれません。この地に伝承されたのは、渡来の製鉄技術をはじめとする先進技術だけではなく、仏教や仏像という先進文化でもありました。そのお陰で、湖北・湖東の美しい仏像が今に残されていると言えます。古橋には6~7世紀前期に造られた製鉄炉の遺跡もあります。そこ出土した石器や鉄屑などは、世代閣に展示されています。

  • 與志漏神社<br />古橋や石道集落は古来観音信仰の篤い地域であり、「観音の里」としても知られています。井上靖著『星と祭』や水上勉著『湖の琴』の小説の舞台ともなった他、随筆家 白洲正子女史もこの地方に幾度も足を運び、『近江山河抄』を著しています。<br />紅葉の季節には観光スポットとなって久しいのですが、本来はひっそりとした里山に佇む里人の信仰の場です。

    與志漏神社
    古橋や石道集落は古来観音信仰の篤い地域であり、「観音の里」としても知られています。井上靖著『星と祭』や水上勉著『湖の琴』の小説の舞台ともなった他、随筆家 白洲正子女史もこの地方に幾度も足を運び、『近江山河抄』を著しています。
    紅葉の季節には観光スポットとなって久しいのですが、本来はひっそりとした里山に佇む里人の信仰の場です。

  • 與志漏神社 己高閣(ここうかく)<br />正面に見える山が「己高山」です。名の由来は、木ノ本町や高月町から見るとどっしりした大きな山容が仰げることから、山名はその敬称から来ているそうです。<br />与志漏神社の境内には旧戸岩寺の薬師堂、大日堂の他、己高閣、世代閣(よしろかく)と称する2棟の収蔵庫が建ち、旧鶏足寺をはじめ付近の寺院に伝わる仏像などが収蔵・公開されています。<br />己高閣は1963(昭和38)年に地元有志の浄財と国庫の補助によって建立された滋賀県最初の文化財収蔵です。己高閣は、旧鶏足寺の本尊 十一面観音像や七仏薬師像など20体ほどを安置しています。

    與志漏神社 己高閣(ここうかく)
    正面に見える山が「己高山」です。名の由来は、木ノ本町や高月町から見るとどっしりした大きな山容が仰げることから、山名はその敬称から来ているそうです。
    与志漏神社の境内には旧戸岩寺の薬師堂、大日堂の他、己高閣、世代閣(よしろかく)と称する2棟の収蔵庫が建ち、旧鶏足寺をはじめ付近の寺院に伝わる仏像などが収蔵・公開されています。
    己高閣は1963(昭和38)年に地元有志の浄財と国庫の補助によって建立された滋賀県最初の文化財収蔵です。己高閣は、旧鶏足寺の本尊 十一面観音像や七仏薬師像など20体ほどを安置しています。

  • 與志漏神社 己高閣 十一面観音像(重文)<br />旧鶏足寺は昭和時代初期に火災に遭って焼失しましたが、本尊 十一面観音像をはじめとする仏像たちは、1924(大正3)年に己高山の麓にある與志漏神社境内に遷仏されていたために災禍から難を免れました。 <br /><br />この画像は次のサイトから借用いたしました。<br />http://kitabiwako.jp/spot/spot_970/

    與志漏神社 己高閣 十一面観音像(重文)
    旧鶏足寺は昭和時代初期に火災に遭って焼失しましたが、本尊 十一面観音像をはじめとする仏像たちは、1924(大正3)年に己高山の麓にある與志漏神社境内に遷仏されていたために災禍から難を免れました。

    この画像は次のサイトから借用いたしました。
    http://kitabiwako.jp/spot/spot_970/

  • 與志漏神社 己高閣 十一面観音像<br />旧鶏足寺の本尊 十一面観音像は、一木造による平安時代前期(9世紀)の作とされ、純朴な中にも慈悲深い気品を湛えています。井上靖著『星と祭』では、村の内儀(かみ)さんがモデルと評された観音像です。<br />一方、己高山で修行中の最澄が十一面観音の頭部を発見し、霊木で胴体部を彫刻して付け足したとのエピソードもあります。 <br />四角張った面立ちに結ばれた口元は凛々しく、どっしりとしたその姿は衆生を救い、あまねく願いを叶えてくれるという力強さが漲り、まさに一歩を踏み出そうと立てた右足の親指はリアルです。こうした姿が村の女性の頼もしさと重なって見えたののかもしれません。 <br />頭上の小面はやや縦長で、石道寺の観音様よりも大きめで豪華です。また、額の中央には、白毫が嵌め込まれています。左手には蓮華の花を入れた水瓶を持ち、体に比べ長めの右手は中指と薬指を曲げて親指とで法印を結んでいます。身に纏う天衣も素朴ですが、かえって力強さを感じさせます。武骨ですが、それ故に神秘的な霊力を秘めた姿です。 <br />学術的には平安時代前期の木像と比定されており、最澄が雪の中から掘り出したとの伝説とは少し時代が合わないようです。 誰がどんな思いを込めて彫った観音像かは不明ですが、1200年を超える気の遠くなるような長い間、本尊として崇められ、多くの僧侶や民衆の篤い信仰を集めてきた矜持に満ちた面立ちです。<br />この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

    與志漏神社 己高閣 十一面観音像
    旧鶏足寺の本尊 十一面観音像は、一木造による平安時代前期(9世紀)の作とされ、純朴な中にも慈悲深い気品を湛えています。井上靖著『星と祭』では、村の内儀(かみ)さんがモデルと評された観音像です。
    一方、己高山で修行中の最澄が十一面観音の頭部を発見し、霊木で胴体部を彫刻して付け足したとのエピソードもあります。
    四角張った面立ちに結ばれた口元は凛々しく、どっしりとしたその姿は衆生を救い、あまねく願いを叶えてくれるという力強さが漲り、まさに一歩を踏み出そうと立てた右足の親指はリアルです。こうした姿が村の女性の頼もしさと重なって見えたののかもしれません。
    頭上の小面はやや縦長で、石道寺の観音様よりも大きめで豪華です。また、額の中央には、白毫が嵌め込まれています。左手には蓮華の花を入れた水瓶を持ち、体に比べ長めの右手は中指と薬指を曲げて親指とで法印を結んでいます。身に纏う天衣も素朴ですが、かえって力強さを感じさせます。武骨ですが、それ故に神秘的な霊力を秘めた姿です。
    学術的には平安時代前期の木像と比定されており、最澄が雪の中から掘り出したとの伝説とは少し時代が合わないようです。 誰がどんな思いを込めて彫った観音像かは不明ですが、1200年を超える気の遠くなるような長い間、本尊として崇められ、多くの僧侶や民衆の篤い信仰を集めてきた矜持に満ちた面立ちです。
    この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

  • 與志漏神社 己高閣 七仏薬師像<br />七仏薬師像は、旧鶏足寺の別院「法華寺」の本尊だったものです。どの仏像も、それぞれに表情が違っており、ほっこりさせられます。<br />余談ですが、法華寺と言えば、関ヶ原の合戦で敗れた西軍の総大将 石田三成が幼い頃、この寺の小姓をしており、そこで秀吉に拾われた話で知られています。<br />秀吉との出会いのエピソードとして知られる「三献茶」では、寮内視察の時に法華寺 三珠院に立ち寄った秀吉に、最初はぬるめのたっぷりのお茶を差し出し、次には少し熱く、最後は少しだけの熱いお茶を出して、秀吉を感心させたと伝わります。<br />関ヶ原の合戦に敗れた後、三成は法華寺の住職を頼り、母の故郷の古橋へと逃れました。三成はこの地で捕縛されましたが、寺跡の裏山には三成が匿われた「大蛇(おとち)の洞穴」があり、古橋の里には三成に関する伝承が数多く残っています。<br />この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

    與志漏神社 己高閣 七仏薬師像
    七仏薬師像は、旧鶏足寺の別院「法華寺」の本尊だったものです。どの仏像も、それぞれに表情が違っており、ほっこりさせられます。
    余談ですが、法華寺と言えば、関ヶ原の合戦で敗れた西軍の総大将 石田三成が幼い頃、この寺の小姓をしており、そこで秀吉に拾われた話で知られています。
    秀吉との出会いのエピソードとして知られる「三献茶」では、寮内視察の時に法華寺 三珠院に立ち寄った秀吉に、最初はぬるめのたっぷりのお茶を差し出し、次には少し熱く、最後は少しだけの熱いお茶を出して、秀吉を感心させたと伝わります。
    関ヶ原の合戦に敗れた後、三成は法華寺の住職を頼り、母の故郷の古橋へと逃れました。三成はこの地で捕縛されましたが、寺跡の裏山には三成が匿われた「大蛇(おとち)の洞穴」があり、古橋の里には三成に関する伝承が数多く残っています。
    この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

  • 與志漏神社 己高閣 神猿(まさる)<br />湖北の古刹はどこも似通った伝承を持ちますが、それは近江に浸透していた白山信仰が叡山信仰と習合したからと思われます。鶏足寺の寺仏には本尊 十一面観音(白山信仰)とこの神像「 神猿」(日吉信仰)があり、湖北の地は両者が交わった接点であったことを窺わせます。神猿は日吉神社との結び付きで彫られたものと思われますが、木目を巧みに用いており、きょとんとした顔付にも愛嬌があります。<br />この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

    與志漏神社 己高閣 神猿(まさる)
    湖北の古刹はどこも似通った伝承を持ちますが、それは近江に浸透していた白山信仰が叡山信仰と習合したからと思われます。鶏足寺の寺仏には本尊 十一面観音(白山信仰)とこの神像「 神猿」(日吉信仰)があり、湖北の地は両者が交わった接点であったことを窺わせます。神猿は日吉神社との結び付きで彫られたものと思われますが、木目を巧みに用いており、きょとんとした顔付にも愛嬌があります。
    この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

  • 與志漏神社 世代閣(よしろかく)<br />己高閣の奥にある世代閣は、この地にあった旧戸岩寺の仏像を収蔵する施設として1989(平成元)年に建立され、薬師如来像や十二神将像、魚籃観音、十社権現像などを安置しています。 <br />ずらりと仏像が並び、それだけで圧倒されますが、十二神将像はいずれも木心乾漆像で滋賀県内ではこの3体しか確認されていない貴重なものです。これらは延暦十年(791年)銘の興福寺北円堂四天王像よりやや古いものと考えられています。<br />余談ですが、十二神将は5体あったそうですが、そのうち2体が盗難に遭ったことから、この世代閣を建ててここに収納するようにしたそうです。

    與志漏神社 世代閣(よしろかく)
    己高閣の奥にある世代閣は、この地にあった旧戸岩寺の仏像を収蔵する施設として1989(平成元)年に建立され、薬師如来像や十二神将像、魚籃観音、十社権現像などを安置しています。
    ずらりと仏像が並び、それだけで圧倒されますが、十二神将像はいずれも木心乾漆像で滋賀県内ではこの3体しか確認されていない貴重なものです。これらは延暦十年(791年)銘の興福寺北円堂四天王像よりやや古いものと考えられています。
    余談ですが、十二神将は5体あったそうですが、そのうち2体が盗難に遭ったことから、この世代閣を建ててここに収納するようにしたそうです。

  • 與志漏神社 世代閣 薬師如来像(重文)<br />薬師如来像(天平時代作)は、行基が開いたこの地の寺院「旧戸岩寺」の本尊だったものです。しかし、それ以前この像は己高山仏教寺院の中心寺院のひとつであった法華寺の旧本尊でもあったと考えられています。 薬師如来像は、湖国最古の仏像と伝わり、天平時代の仏像の特徴をよく伝える純朴な榧(カヤ)の一木造りです。左手には薬壺を持ち、右手は施無畏印を結んでいます。背後には後世の造作である緑色の輪光を配しています。 <br />全体的に肉厚でどっしりと安定感を湛えた姿は、奈良 唐招提寺に残る伝薬師如来像を彷彿とさせます。両腿には肉が盛り上がるように張り詰め、その両腿の間を衣紋が流れる線が優美です。 優しい目、微笑みを湛えた口元は、アルカイックスマイルにも共通します。こうした特長から、この地域の山岳仏教信仰が奈良時代からのものであり、南都仏教との深い繋がりがあったことが窺えます。 <br />脇侍の月光・日光菩薩像も重文です。(鎌倉時代作)<br />この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

    與志漏神社 世代閣 薬師如来像(重文)
    薬師如来像(天平時代作)は、行基が開いたこの地の寺院「旧戸岩寺」の本尊だったものです。しかし、それ以前この像は己高山仏教寺院の中心寺院のひとつであった法華寺の旧本尊でもあったと考えられています。 薬師如来像は、湖国最古の仏像と伝わり、天平時代の仏像の特徴をよく伝える純朴な榧(カヤ)の一木造りです。左手には薬壺を持ち、右手は施無畏印を結んでいます。背後には後世の造作である緑色の輪光を配しています。
    全体的に肉厚でどっしりと安定感を湛えた姿は、奈良 唐招提寺に残る伝薬師如来像を彷彿とさせます。両腿には肉が盛り上がるように張り詰め、その両腿の間を衣紋が流れる線が優美です。 優しい目、微笑みを湛えた口元は、アルカイックスマイルにも共通します。こうした特長から、この地域の山岳仏教信仰が奈良時代からのものであり、南都仏教との深い繋がりがあったことが窺えます。
    脇侍の月光・日光菩薩像も重文です。(鎌倉時代作)
    この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

  • 與志漏神社 世代閣 魚藍観世音菩薩像<br />一木造の魚藍観世音菩薩像(木造菩薩立像:高さ160cm)は、平安時代の9~10世紀の作とされ、弘法大師 空海が祀ったと伝えられています。胸の厚みと大腿部の盛り上がりを強調した作風は平安時代初期の特色を示しています。<br />魚藍観音は、中国では法華経が説く、いわゆる三十三観音の一つとされる観音様です。唐の時代、観音様が魚商の美女に姿を変え、法華経を広めたとの言い伝えに由来する像だそうです。<br />魚にまつわる故に、後世の造作ですが左手に魚藍(魚籠)を持ち、右手は摘むようにして持った蓮華の花を胸元に掲げています。 一般に菩薩が着ける条帛(じょうはく)を纏わまい半裸の姿は珍しく、ふくよかな丸顔はやさしい表情をなされています。 頭上には面を挿した跡が見られ、元々は十一面観音だった可能性があるそうです。<br />この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

    與志漏神社 世代閣 魚藍観世音菩薩像
    一木造の魚藍観世音菩薩像(木造菩薩立像:高さ160cm)は、平安時代の9~10世紀の作とされ、弘法大師 空海が祀ったと伝えられています。胸の厚みと大腿部の盛り上がりを強調した作風は平安時代初期の特色を示しています。
    魚藍観音は、中国では法華経が説く、いわゆる三十三観音の一つとされる観音様です。唐の時代、観音様が魚商の美女に姿を変え、法華経を広めたとの言い伝えに由来する像だそうです。
    魚にまつわる故に、後世の造作ですが左手に魚藍(魚籠)を持ち、右手は摘むようにして持った蓮華の花を胸元に掲げています。 一般に菩薩が着ける条帛(じょうはく)を纏わまい半裸の姿は珍しく、ふくよかな丸顔はやさしい表情をなされています。 頭上には面を挿した跡が見られ、元々は十一面観音だった可能性があるそうです。
    この画像は絵葉書をスキャンしたものです。

  • 鶏足寺 参道<br />眼下には田畑が広がり、その中を縫うように参道が通されています。<br />参道の傍らには、地産品の販売所や無人の農産物の販売所が点在しています。

    鶏足寺 参道
    眼下には田畑が広がり、その中を縫うように参道が通されています。
    参道の傍らには、地産品の販売所や無人の農産物の販売所が点在しています。

  • 鶏足寺 参道<br />道端にはコスモスも咲いています。

    鶏足寺 参道
    道端にはコスモスも咲いています。

  • 鶏足寺 参道 あづま屋<br />茶店の先にあづま屋があり、ここで「紅葉散策協力金」200円を納めます。

    鶏足寺 参道 あづま屋
    茶店の先にあづま屋があり、ここで「紅葉散策協力金」200円を納めます。

  • 鶏足寺 参道<br />あづま屋の先はS字を描いた石畳の緩い登り坂ですが、距離はしれています。

    鶏足寺 参道
    あづま屋の先はS字を描いた石畳の緩い登り坂ですが、距離はしれています。

  • 鶏足寺 参道<br />坂を登りきると一気に視界が開けます。<br />秋色に染まった草紅葉の先には、小高い丘陵の斜面に茶畑が広がっています。

    鶏足寺 参道
    坂を登りきると一気に視界が開けます。
    秋色に染まった草紅葉の先には、小高い丘陵の斜面に茶畑が広がっています。

  • 鶏足寺 参道<br />高原を彷彿とさせる風景にも出会えます。

    鶏足寺 参道
    高原を彷彿とさせる風景にも出会えます。

  • 鶏足寺 参道 湿原<br />山からの湧水があるのか、この辺りには湿原が広がっています。

    鶏足寺 参道 湿原
    山からの湧水があるのか、この辺りには湿原が広がっています。

  • 鶏足寺 参道 湿原<br />季節外れですが、「かきつばた」が一輪ひっそりと咲いています。<br />今年の秋は台風の影響で早めに葉が散って桜や梅が狂い咲きしましたが、これもその影響なのでしょうか?

    鶏足寺 参道 湿原
    季節外れですが、「かきつばた」が一輪ひっそりと咲いています。
    今年の秋は台風の影響で早めに葉が散って桜や梅が狂い咲きしましたが、これもその影響なのでしょうか?

  • 鶏足寺 参道<br />今度は杉の樹林帯です。<br />刻一刻と景色が変化するため疲れを感じさせません。

    鶏足寺 参道
    今度は杉の樹林帯です。
    刻一刻と景色が変化するため疲れを感じさせません。

  • 鶏足寺 参道 亀山<br />湿原の先に視界が広がる場所があり、北国には珍しく緩やかな丘陵に茶畑が広がっています。この丘は「亀山(丸山)」と呼ばれ、飯福寺の本尊 薬師如来像を彫り出した際、その「木けら」を埋めたと伝わる丘です。ここで産出された茶葉は石田三成ゆかりの「三献茶」として市販されています。<br />古橋地区は、古くから茶の産地として知られた里でした。立札には「由緒は平安の昔、鶏足寺を再興した最澄が、古橋村に相応しい薬の木として茶の木を植えさせたことに始まる」とあります。古橋は薬師如来鎮座の古皇村ゆえ、薬の木に結びついたようです。

    鶏足寺 参道 亀山
    湿原の先に視界が広がる場所があり、北国には珍しく緩やかな丘陵に茶畑が広がっています。 この丘は「亀山(丸山)」と呼ばれ、飯福寺の本尊 薬師如来像を彫り出した際、その「木けら」を埋めたと伝わる丘です。ここで産出された茶葉は石田三成ゆかりの「三献茶」として市販されています。
    古橋地区は、古くから茶の産地として知られた里でした。立札には「由緒は平安の昔、鶏足寺を再興した最澄が、古橋村に相応しい薬の木として茶の木を植えさせたことに始まる」とあります。古橋は薬師如来鎮座の古皇村ゆえ、薬の木に結びついたようです。

  • 鶏足寺 参道 亀山<br />ススキと茶畑のコラボです。

    鶏足寺 参道 亀山
    ススキと茶畑のコラボです。

  • 鶏足寺 参道 亀山<br />茶の樹は、9~11月にかけて白い楚々とした花を咲かせます。黄色い密集した雄蕊が特徴的です。「椿」や「サザンカ」の花と似ていますが、それは茶の樹も同じツバキ科ツバキ属の常緑樹だからです。<br />しかし、茶の花は、お茶の生産家からは歓迎されず、摘まれてしまうそうです。それは、茶の花やその実が本来は葉に滋養してもらいたい養分を奪う存在だからです。また、茶の花が沢山咲くのは、異常気象だったり、茶の樹が弱っている表れとも言われます。<br />一方、茶の花の効用が最近の研究で判ったそうです。古来、中国では茶の花を食べたり、飲んだりする習慣があるそうです。現在注目されているのは「フローラテアサポニン」という成分です。この成分には、糖や脂肪の吸収を抑制する働きや、脂肪の形成や蓄積を抑制する働きがあるため、糖尿病や肥満予防に効果的だそうです。現代病のメタボリックシンドロームの予防にも効果的であるとして研究が進められています。

    鶏足寺 参道 亀山
    茶の樹は、9~11月にかけて白い楚々とした花を咲かせます。黄色い密集した雄蕊が特徴的です。「椿」や「サザンカ」の花と似ていますが、それは茶の樹も同じツバキ科ツバキ属の常緑樹だからです。
    しかし、茶の花は、お茶の生産家からは歓迎されず、摘まれてしまうそうです。それは、茶の花やその実が本来は葉に滋養してもらいたい養分を奪う存在だからです。また、茶の花が沢山咲くのは、異常気象だったり、茶の樹が弱っている表れとも言われます。
    一方、茶の花の効用が最近の研究で判ったそうです。古来、中国では茶の花を食べたり、飲んだりする習慣があるそうです。現在注目されているのは「フローラテアサポニン」という成分です。この成分には、糖や脂肪の吸収を抑制する働きや、脂肪の形成や蓄積を抑制する働きがあるため、糖尿病や肥満予防に効果的だそうです。現代病のメタボリックシンドロームの予防にも効果的であるとして研究が進められています。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />與志漏神社から10分程で鶏足寺への分岐点に到着です。<br />深紅の散紅葉が緩やかな石段を埋め尽くした風景が定番の鶏足寺ですが、その散紅葉の元になる楓群です。ここから左へ登れば本堂へ、前方へ下れば定番の参道(大門跡)の前に出ます。<br /><br />旧鶏足寺の原形は東光山常楽寺と言い、東大寺の大仏造立に携わった僧 行基が山岳信仰の修験道場として威容を誇った己高山(923m)の山頂近くに十一面観音を祀るために草創した庵です。己高山は、伊香郡木之本町古橋にある伊吹山地の一支峰で、主峰 伊吹山から北西15kmの位置にあります。この己高山は、近江国の鬼門に当たり、古代から霊山・修行の場だったと伝わります。奈良時代には白山信仰の祖 泰澄(修験道)もここで修行し、行基と共に己高山を開いたと伝わります。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    與志漏神社から10分程で鶏足寺への分岐点に到着です。
    深紅の散紅葉が緩やかな石段を埋め尽くした風景が定番の鶏足寺ですが、その散紅葉の元になる楓群です。ここから左へ登れば本堂へ、前方へ下れば定番の参道(大門跡)の前に出ます。

    旧鶏足寺の原形は東光山常楽寺と言い、東大寺の大仏造立に携わった僧 行基が山岳信仰の修験道場として威容を誇った己高山(923m)の山頂近くに十一面観音を祀るために草創した庵です。己高山は、伊香郡木之本町古橋にある伊吹山地の一支峰で、主峰 伊吹山から北西15kmの位置にあります。この己高山は、近江国の鬼門に当たり、古代から霊山・修行の場だったと伝わります。奈良時代には白山信仰の祖 泰澄(修験道)もここで修行し、行基と共に己高山を開いたと伝わります。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />その後、一度荒廃するも799年に天台宗の宗祖 最澄が再興し、奈良仏教や十一面観音菩薩を祀る白山信仰、比叡山天台密教の影響を受け、観音信仰を基調とする独自の「己高山仏教文化圏」が築かれていきました。『己高山縁起』(鶏足寺蔵)によると、最澄が白山白翁と名乗る老人の勧めで再興したとあります。<br />桓武天皇からも庇護を得、寺領として伊香郡を賜り、国家鎮護の祈祷所として重要な役割を担いました。1269(文永6)年には下野国 薬師寺の僧 慈猛が総本山を奈良県桜井市の長谷寺とした真言宗豊山派に改宗し、室町~戦国時代には、浅井氏三代の加護の後、豊臣氏からも祈祷所として庇護され多くの僧兵を擁しました。隆盛を極めた頃には僧坊120宇と記録され、「湖北の比叡山」と称されるほどの大伽藍と僧兵の数を誇りました。江戸時代も京都所司代から寺領を保護されましたが、明治時代になると廃仏毀釈による仏教弾圧や地理的な悪条件の影響で衰退が進み、1933(昭和8)年に本堂が焼失してからは廃寺となりました。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    その後、一度荒廃するも799年に天台宗の宗祖 最澄が再興し、奈良仏教や十一面観音菩薩を祀る白山信仰、比叡山天台密教の影響を受け、観音信仰を基調とする独自の「己高山仏教文化圏」が築かれていきました。『己高山縁起』(鶏足寺蔵)によると、最澄が白山白翁と名乗る老人の勧めで再興したとあります。
    桓武天皇からも庇護を得、寺領として伊香郡を賜り、国家鎮護の祈祷所として重要な役割を担いました。1269(文永6)年には下野国 薬師寺の僧 慈猛が総本山を奈良県桜井市の長谷寺とした真言宗豊山派に改宗し、室町~戦国時代には、浅井氏三代の加護の後、豊臣氏からも祈祷所として庇護され多くの僧兵を擁しました。隆盛を極めた頃には僧坊120宇と記録され、「湖北の比叡山」と称されるほどの大伽藍と僧兵の数を誇りました。江戸時代も京都所司代から寺領を保護されましたが、明治時代になると廃仏毀釈による仏教弾圧や地理的な悪条件の影響で衰退が進み、1933(昭和8)年に本堂が焼失してからは廃寺となりました。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />飯福寺は、鶏足寺と同様に735(天平7)年に行基が開基し、1490(延徳2)年に実盛法印により隆盛を迎え、実盛は中興の名僧と呼ばれました。本尊には薬師如来像を祀り、室町~戦国時代には小谷城主 浅井氏3代の祈願所として栄え、羽柴秀吉より境内山林除地御判物並に制札を受けています。この地を治めた京極氏や浅井氏からも庇護を受け、隆盛を極めてきました。一時、南都 興福寺の末寺となったこともあります。<br />江戸時代も寺領を与えられるなど大寺の風格を保ってきましたが、明治時代になって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で衰微し、鶏足寺と合弁するもやがて廃寺の憂き目を見ました。<br />1696( 元禄9)年の『古橋村寺社差出帳』によると、本堂や薬師堂、権現社、宝寿院、金剛院など5塔頭があったと伝えます。現本堂は1723(正徳3)年、護摩堂(五大堂)は1732(享保17)年の建立とされます。<br />余談ですが、「三献茶」のエピソードの地は、定説では法華寺 三珠院とされますが、古橋の地は石田三成の母親の出身地であることから、この飯福寺あるいは石田郷に近い観音寺だったとの説もあります。(小和田哲男著『石田三成 「知の参謀」の実像』)関ヶ原の合戦で敗走した光成は古橋に逃れてきましたが、他の村から養子に来た男に密告され捕まったと伝わります。それ以来、古橋では永い間よその村から養子はとらなかったそうです。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    飯福寺は、鶏足寺と同様に735(天平7)年に行基が開基し、1490(延徳2)年に実盛法印により隆盛を迎え、実盛は中興の名僧と呼ばれました。本尊には薬師如来像を祀り、室町~戦国時代には小谷城主 浅井氏3代の祈願所として栄え、羽柴秀吉より境内山林除地御判物並に制札を受けています。この地を治めた京極氏や浅井氏からも庇護を受け、隆盛を極めてきました。一時、南都 興福寺の末寺となったこともあります。
    江戸時代も寺領を与えられるなど大寺の風格を保ってきましたが、明治時代になって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で衰微し、鶏足寺と合弁するもやがて廃寺の憂き目を見ました。
    1696( 元禄9)年の『古橋村寺社差出帳』によると、本堂や薬師堂、権現社、宝寿院、金剛院など5塔頭があったと伝えます。現本堂は1723(正徳3)年、護摩堂(五大堂)は1732(享保17)年の建立とされます。
    余談ですが、「三献茶」のエピソードの地は、定説では法華寺 三珠院とされますが、古橋の地は石田三成の母親の出身地であることから、この飯福寺あるいは石田郷に近い観音寺だったとの説もあります。(小和田哲男著『石田三成 「知の参謀」の実像』)関ヶ原の合戦で敗走した光成は古橋に逃れてきましたが、他の村から養子に来た男に密告され捕まったと伝わります。それ以来、古橋では永い間よその村から養子はとらなかったそうです。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />秋にはかつての寺院の隆盛を彷彿とさせるかのように色鮮やかな景色を魅せます。散り敷く紅葉が真っ赤な絨毯のように堆積し、その先に燃え立つような紅葉がまるでトンネルのように続く光景は他に類を見ないものです。 <br />この景観を保つため、モミジが散り始めると「大門跡」の碑の立つ周辺の石段は「落葉保存区域」となり、立入禁止になります。勿論、石段の脇にある参道は自由に歩けるため、参拝や観光には何ら支障はありません。<br />このお蔭で絶えず美しい散紅葉の景観が保たれています。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    秋にはかつての寺院の隆盛を彷彿とさせるかのように色鮮やかな景色を魅せます。散り敷く紅葉が真っ赤な絨毯のように堆積し、その先に燃え立つような紅葉がまるでトンネルのように続く光景は他に類を見ないものです。
    この景観を保つため、モミジが散り始めると「大門跡」の碑の立つ周辺の石段は「落葉保存区域」となり、立入禁止になります。勿論、石段の脇にある参道は自由に歩けるため、参拝や観光には何ら支障はありません。
    このお蔭で絶えず美しい散紅葉の景観が保たれています。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />楓は、樹齢200年を越える古木と言うこともあり、紅葉の妙だけでなく、うねるような力強い枝ぶりや太い幹の風格も見所です。<br />前もって皆さんの旅行ブログを拝見し、日中の撮影は日射の関係で発色が鈍くなることを知りました。その対策として採った策は、PLフィルタの装着と露光をマイナス側に設定することです。日中ではこれで限界に近いと思います。ですから、裸眼で見た景色はもっと白っぽい涸れた印象です。<br />ここに限っては雨天や早朝、夕刻の撮影の方が鮮やかな発色が期待できます。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    楓は、樹齢200年を越える古木と言うこともあり、紅葉の妙だけでなく、うねるような力強い枝ぶりや太い幹の風格も見所です。
    前もって皆さんの旅行ブログを拝見し、日中の撮影は日射の関係で発色が鈍くなることを知りました。その対策として採った策は、PLフィルタの装着と露光をマイナス側に設定することです。日中ではこれで限界に近いと思います。ですから、裸眼で見た景色はもっと白っぽい涸れた印象です。
    ここに限っては雨天や早朝、夕刻の撮影の方が鮮やかな発色が期待できます。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />こちらの画像がPLフィルタの機能を殺した、生身の撮影画像です。<br />「なんだかなぁ~」とボヤキが吐露されるような、同じ場所を撮っているとは思えない画像です。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    こちらの画像がPLフィルタの機能を殺した、生身の撮影画像です。
    「なんだかなぁ~」とボヤキが吐露されるような、同じ場所を撮っているとは思えない画像です。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />旧鶏足寺には、十一面観音信仰を表す逸話が残されています。<br />最澄が行基の聖跡を慕ってこの辺りまで来た折、山頂付近に輝く不思議な光を見ました。その光を求めて這い登っていくと、不思議な鳥の声と雪の上に残った鳥の足跡に導かれ、朽ち果てた寺院跡に辿り着きました。その時、雪に埋もれた十一面観音の仏頭を発見し、それを修復し、この地に仏殿を建てて観音像を安置したのが「旧鶏足寺」の起こりです。この逸話が寺名の由来とされます。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    旧鶏足寺には、十一面観音信仰を表す逸話が残されています。
    最澄が行基の聖跡を慕ってこの辺りまで来た折、山頂付近に輝く不思議な光を見ました。その光を求めて這い登っていくと、不思議な鳥の声と雪の上に残った鳥の足跡に導かれ、朽ち果てた寺院跡に辿り着きました。その時、雪に埋もれた十一面観音の仏頭を発見し、それを修復し、この地に仏殿を建てて観音像を安置したのが「旧鶏足寺」の起こりです。この逸話が寺名の由来とされます。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />白山信仰の白山神と結びついた湖北の十一面観音は、「観音菩薩(人々の声を広く聞く、修行中の仏様)」の一種です。 「観音菩薩」は、求められればどんな姿にも身を変えて人々を救済するという象徴的な意味から33の姿に変身できるとされ、勢至菩薩像と共に阿弥陀如来像の傍で脇侍を務めて阿弥陀三尊像を成します。<br />釈迦が悟りを開く前の王子時代をモデルにした仏像のため、まだ修行中の身であり、悟りの境地に至った如来よりも人間に近く、親しみ易い存在とされます。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    白山信仰の白山神と結びついた湖北の十一面観音は、「観音菩薩(人々の声を広く聞く、修行中の仏様)」の一種です。 「観音菩薩」は、求められればどんな姿にも身を変えて人々を救済するという象徴的な意味から33の姿に変身できるとされ、勢至菩薩像と共に阿弥陀如来像の傍で脇侍を務めて阿弥陀三尊像を成します。
    釈迦が悟りを開く前の王子時代をモデルにした仏像のため、まだ修行中の身であり、悟りの境地に至った如来よりも人間に近く、親しみ易い存在とされます。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />何故、白山三所の主峰「御前峰」の白山神の本地仏が十一面観音なのでしょうか?<br />平安時代後期に盛んとなる浄土信仰の中で、浄土を主宰する阿弥陀如来を奥之院(大汝峰)の本地仏、阿弥陀の脇侍たる観音を御前峰の本地仏で象徴したものと思われます。<br />白山は富山にある霊峰ですが、白山を開いたのが己高山を開いた僧 泰澄です。夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけで白山へ登拝した折、御前峰にある池から白山神の本地仏 十一面観音の垂迹である九頭龍王が出現し、自らを伊弉冊(イザナミ)の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗ったと伝わります。こうして、「白山信仰」は泰澄とその弟子によって全国に広まっていきました。<br />泰澄を訪ねた行基は、共に白山に登って語り合ったといいます。哲学者 梅原猛氏は、この時、行基は泰澄から「本地垂迹」の考え方を学び、また仏を木に彫ることも学んだのではないかと推察されています。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    何故、白山三所の主峰「御前峰」の白山神の本地仏が十一面観音なのでしょうか?
    平安時代後期に盛んとなる浄土信仰の中で、浄土を主宰する阿弥陀如来を奥之院(大汝峰)の本地仏、阿弥陀の脇侍たる観音を御前峰の本地仏で象徴したものと思われます。
    白山は富山にある霊峰ですが、白山を開いたのが己高山を開いた僧 泰澄です。夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけで白山へ登拝した折、御前峰にある池から白山神の本地仏 十一面観音の垂迹である九頭龍王が出現し、自らを伊弉冊(イザナミ)の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗ったと伝わります。こうして、「白山信仰」は泰澄とその弟子によって全国に広まっていきました。
    泰澄を訪ねた行基は、共に白山に登って語り合ったといいます。哲学者 梅原猛氏は、この時、行基は泰澄から「本地垂迹」の考え方を学び、また仏を木に彫ることも学んだのではないかと推察されています。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />季節により遷移する白山の山容が、観音菩薩の変化身と重なったとも考えられます。十一面観音像の姿を見れば明白ですが、観音像自体を女性的に捉えていたとすれば、「白山ひめ」という女神を戴く白山の本地には十一面観音が相応しいと思えます。<br />平安仏教にある十一面観音信仰の影響を受けたものにせよ、白山が持つイメージと符号したが故に、十一面観音を御前峰の白山神の本地仏としたとは考えられないでしょうか?

    鶏足寺(旧飯福寺)
    季節により遷移する白山の山容が、観音菩薩の変化身と重なったとも考えられます。十一面観音像の姿を見れば明白ですが、観音像自体を女性的に捉えていたとすれば、「白山ひめ」という女神を戴く白山の本地には十一面観音が相応しいと思えます。
    平安仏教にある十一面観音信仰の影響を受けたものにせよ、白山が持つイメージと符号したが故に、十一面観音を御前峰の白山神の本地仏としたとは考えられないでしょうか?

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />紅葉のトンネルが延々と続きます。<br />本堂まで一直線の参道両側には石垣が積まれ、城郭寺院の面影を偲ばせます。左右にある古刹の遺構には石碑が立てられており、隆盛期には大寺であったことを窺わせます。<br />この護摩堂は比較的新しい建造物のように見ますが、こちらも機能している様子はありません。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    紅葉のトンネルが延々と続きます。
    本堂まで一直線の参道両側には石垣が積まれ、城郭寺院の面影を偲ばせます。左右にある古刹の遺構には石碑が立てられており、隆盛期には大寺であったことを窺わせます。
    この護摩堂は比較的新しい建造物のように見ますが、こちらも機能している様子はありません。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />鶏足寺の紅葉が全国から多くの人を寄せてやまないのは、紅葉と共にあるこの里山全体の雰囲気にあります。<br />歩を進めれば、カサカサと落葉が囁き。<br />歩を休めた途端、シ~ンと鎮まる中に流れる張り詰めた凛とした空気。<br />苔生した石段と燃え立つような深紅の紅葉のコントラスト。<br />豊かな自然と篤い里人の信仰の場、それを見守る観音様たち…。<br />里山に流れるゆったりとした時間や風、そんな紅葉狩りが愉めます。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    鶏足寺の紅葉が全国から多くの人を寄せてやまないのは、紅葉と共にあるこの里山全体の雰囲気にあります。
    歩を進めれば、カサカサと落葉が囁き。
    歩を休めた途端、シ~ンと鎮まる中に流れる張り詰めた凛とした空気。
    苔生した石段と燃え立つような深紅の紅葉のコントラスト。
    豊かな自然と篤い里人の信仰の場、それを見守る観音様たち…。
    里山に流れるゆったりとした時間や風、そんな紅葉狩りが愉めます。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />石段の最上部に本堂が佇みますが、現在は廃寺になっており、寺院としての機能はなく、住職や檀家もいません。それ故、この景観は地元の方々の努力によって成り立っており、気持ち程度ですが「紅葉散策協力金」にも納得できます。<br />無住寺が「幽遂の仙境遠く俗塵を離れたる古刹」を偲ばせるのは、並大抵の努力ではありません。古橋の里に住まれる方々の熱い思いにより大切に守られている絶景は、心温まる心象風景でもあります。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    石段の最上部に本堂が佇みますが、現在は廃寺になっており、寺院としての機能はなく、住職や檀家もいません。それ故、この景観は地元の方々の努力によって成り立っており、気持ち程度ですが「紅葉散策協力金」にも納得できます。
    無住寺が「幽遂の仙境遠く俗塵を離れたる古刹」を偲ばせるのは、並大抵の努力ではありません。古橋の里に住まれる方々の熱い思いにより大切に守られている絶景は、心温まる心象風景でもあります。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />最奥にある堂宇から登り来た道を振り返ると、暫くの間、時を忘れて見とれてしまいます。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    最奥にある堂宇から登り来た道を振り返ると、暫くの間、時を忘れて見とれてしまいます。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />十一面観音も観音菩薩が変身する姿のひとつであり、本来の顔の他に頭上に10もしくは11の顔を持ちます。十一面の数の由来は不詳ですが、インド土着の神々やヒンドゥー教の複数の顔と腕を持つ破壊と殺戮の女神カーリーの影響を受けて7世紀頃に成立したとされ、バラモン教にも十一面の神が存在することからそれとも関係すると考えられています。一方、中国では7世紀に十一面観音が流行し、敦煌の壁画にも見られます。<br />これらの影響を受けながら日本に渡来したと考えられています。奈良時代には病気や天災の苦悩から人々を救い、現世利益を求める人々の間で篤い信仰がなされたそうです。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    十一面観音も観音菩薩が変身する姿のひとつであり、本来の顔の他に頭上に10もしくは11の顔を持ちます。十一面の数の由来は不詳ですが、インド土着の神々やヒンドゥー教の複数の顔と腕を持つ破壊と殺戮の女神カーリーの影響を受けて7世紀頃に成立したとされ、バラモン教にも十一面の神が存在することからそれとも関係すると考えられています。一方、中国では7世紀に十一面観音が流行し、敦煌の壁画にも見られます。
    これらの影響を受けながら日本に渡来したと考えられています。奈良時代には病気や天災の苦悩から人々を救い、現世利益を求める人々の間で篤い信仰がなされたそうです。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />十一面観音は、観音菩薩の中では聖観音に次いで像数が多く、「観音」の名の通り、衆生の「音声」を「観る」という意味があります。ご利益がストレートに表現されたその容姿も相俟って信仰の対象になったようです。<br />一方、全方向を見守る十一の面は、苦悩する人を見つけるためだけではなく、各々の顔は人々をなだめたり、叱咤激励する役割を持ちます。まず、頭上の正面には阿弥陀如来のミニチュア風の化仏があります。これは阿弥陀如来の化身を表わしています。そして通常、頭上の顔には5種類の表情があります。<br />頭頂に仏頂面:1面<br />頭上の正面側に菩薩面:3面<br />仏像の左の頭部に瞋怒面(しんぬめん):3面<br />右の頭部に狗牙上出面(くげじょうしゅつめん):3面<br />拝観者からは見えない後頭部に暴悪大笑面(ぼうばくだいしょうめん):1面<br />菩薩面は穏やかな慈悲の表情を見せ、瞋怒面は眉をつり上げ、口を「へ」の字にして邪悪な衆生を戒めて仏道へと向かわせる怒りの表情をしています。狗牙上出面は牙を見せ、行ないの良い衆生を励まして仏道を勧めます。<br />こうした様々な表情があるのは、祈りを捧げる人それぞれに相応しい道を示すためとされます。瞋怒面が小さいながら怒りの表情を浮かべるのは、欲や甘えを持ってすがる衆生に対し、敢えて厳しい道を示しているように思えます。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    十一面観音は、観音菩薩の中では聖観音に次いで像数が多く、「観音」の名の通り、衆生の「音声」を「観る」という意味があります。ご利益がストレートに表現されたその容姿も相俟って信仰の対象になったようです。
    一方、全方向を見守る十一の面は、苦悩する人を見つけるためだけではなく、各々の顔は人々をなだめたり、叱咤激励する役割を持ちます。まず、頭上の正面には阿弥陀如来のミニチュア風の化仏があります。これは阿弥陀如来の化身を表わしています。そして通常、頭上の顔には5種類の表情があります。
    頭頂に仏頂面:1面
    頭上の正面側に菩薩面:3面
    仏像の左の頭部に瞋怒面(しんぬめん):3面
    右の頭部に狗牙上出面(くげじょうしゅつめん):3面
    拝観者からは見えない後頭部に暴悪大笑面(ぼうばくだいしょうめん):1面
    菩薩面は穏やかな慈悲の表情を見せ、瞋怒面は眉をつり上げ、口を「へ」の字にして邪悪な衆生を戒めて仏道へと向かわせる怒りの表情をしています。狗牙上出面は牙を見せ、行ないの良い衆生を励まして仏道を勧めます。
    こうした様々な表情があるのは、祈りを捧げる人それぞれに相応しい道を示すためとされます。瞋怒面が小さいながら怒りの表情を浮かべるのは、欲や甘えを持ってすがる衆生に対し、敢えて厳しい道を示しているように思えます。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />仏様のご利益には、生きてる間に授かれる現世利益と死んでからの後世利益があります。十一面観音のご利益は10種勝利と4種果報とされます。<br />10種類の現世利益(病から逃れ、財産や衣服、飲食は満たされ、毒虫や熱病に冒されず、人から刀や杖で害されず、水難火難もなく、非業の死を遂げない)と4種類の後世利益(臨終には阿弥陀如来に会える、地獄に生まれ変わらない、早死にしない、極楽浄土に生まれ変わる)の計14種類のメニューをカバーした幅広いご利益があります。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    仏様のご利益には、生きてる間に授かれる現世利益と死んでからの後世利益があります。十一面観音のご利益は10種勝利と4種果報とされます。
    10種類の現世利益(病から逃れ、財産や衣服、飲食は満たされ、毒虫や熱病に冒されず、人から刀や杖で害されず、水難火難もなく、非業の死を遂げない)と4種類の後世利益(臨終には阿弥陀如来に会える、地獄に生まれ変わらない、早死にしない、極楽浄土に生まれ変わる)の計14種類のメニューをカバーした幅広いご利益があります。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />観音様の優しい表情、くびれた腰、その立ち姿などを観ていると女性に見えてきます。仏像は性別を超越した中性的な存在だとされますが、阿弥陀如来の脇侍として対をなす勢至菩薩や僧侶の姿をした地蔵菩薩と比べると女性的なのが際立ちます。<br />諸説ありますが、これは中国の観音信仰が東シナ海域や黄海に広がった際、航海安全を祈念する民族信仰などの女神と習合したものとされます。母親のような慈悲を象徴し、また「観音経」では女性の姿に変身して人々を救済すると記されていることから、女性的なイメージが定着したのかもしれません。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    観音様の優しい表情、くびれた腰、その立ち姿などを観ていると女性に見えてきます。仏像は性別を超越した中性的な存在だとされますが、阿弥陀如来の脇侍として対をなす勢至菩薩や僧侶の姿をした地蔵菩薩と比べると女性的なのが際立ちます。
    諸説ありますが、これは中国の観音信仰が東シナ海域や黄海に広がった際、航海安全を祈念する民族信仰などの女神と習合したものとされます。母親のような慈悲を象徴し、また「観音経」では女性の姿に変身して人々を救済すると記されていることから、女性的なイメージが定着したのかもしれません。

  • 鶏足寺(旧飯福寺)<br />十一面観音は「水」と深い縁があります。元々インドで天候や雨を支配していたエーカダーシャムカをベースにしていることもあり、十一面観音の祀られている周辺には水にまつわる水源や川、湖などが存在します。また、多くの十一面観音が左手に持つ水瓶には命の源となる「水」が入っています。砂漠にあるオアシスのように、乾ききった世の中で与えられる仏の救いを麗しい指先に持つ水瓶で象徴しています。<br />因みに、東大寺二月堂の本尊も十一面観音です。そして二月堂と言えば「お水取り」です。お水取りは、3月12日の深夜に二月堂脇の「若狭井」から水を汲む行事です。このお水は加持の行法により霊力を増した「お香水」となり、それを十一面観音にお供えしてご加護を祈願します。<br />『二月堂縁起』では、次のように「お水取り」の由来を伝えています。<br />実中和尚が十一面観音に悔過(けか)の行法を行ない全国の神の名を唱えて勧請した折、若狭国の遠敷明神が遠敷川で魚を獲っていて二月堂への参集に遅れた。その責任を取って「遠敷川から水を贈る」と言って祈願したところ、地中より2羽の白と黒の鵜が飛び立ち、そこから聖水が湧き出し、それを十一面観音に奉納した。<br /><br />この続きは、情緒纏綿 近江逍遥③石道寺でお届けします。

    鶏足寺(旧飯福寺)
    十一面観音は「水」と深い縁があります。元々インドで天候や雨を支配していたエーカダーシャムカをベースにしていることもあり、十一面観音の祀られている周辺には水にまつわる水源や川、湖などが存在します。また、多くの十一面観音が左手に持つ水瓶には命の源となる「水」が入っています。砂漠にあるオアシスのように、乾ききった世の中で与えられる仏の救いを麗しい指先に持つ水瓶で象徴しています。
    因みに、東大寺二月堂の本尊も十一面観音です。そして二月堂と言えば「お水取り」です。お水取りは、3月12日の深夜に二月堂脇の「若狭井」から水を汲む行事です。このお水は加持の行法により霊力を増した「お香水」となり、それを十一面観音にお供えしてご加護を祈願します。
    『二月堂縁起』では、次のように「お水取り」の由来を伝えています。
    実中和尚が十一面観音に悔過(けか)の行法を行ない全国の神の名を唱えて勧請した折、若狭国の遠敷明神が遠敷川で魚を獲っていて二月堂への参集に遅れた。その責任を取って「遠敷川から水を贈る」と言って祈願したところ、地中より2羽の白と黒の鵜が飛び立ち、そこから聖水が湧き出し、それを十一面観音に奉納した。

    この続きは、情緒纏綿 近江逍遥③石道寺でお届けします。

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