近江八幡・安土旅行記(ブログ) 一覧に戻る
琵琶湖を巡る紅葉狩りバスツアーが多々ある中、このツアーを選んだ最大の理由が教林坊を訪れることでした。この教林坊を知ったのは白州正子著『かくれ里』に「石の寺」として紹介されたからです。<br />「麓の石寺という部落は、世捨人のような風情のある村で、かつては観音正寺の末寺が三十以上もあり、繁栄を極めたというが、現在は教林坊というささやかな寺が一つ残っているだけである。」とあります。<br />近江八幡市安土町と言えば、織田信長が築城した安土城が知られています。しかし、日本の原風景を留めた山裾の隠れ里「教林坊」の歴史は更に古く、聖徳太子の時代にまで遡ります。繖山(きぬがさやま)の麓に、太子によって605(推古13)年に創建された古刹です。別名「石の寺」は、太子の御詠歌に由来します。<br />「九十九折れ たずねいるらん 石の寺 ふたたび詣らな 法の仏に」。ここから、再度参りによる心願成就の寺として篤い信仰を集めてきました。<br />西国三十三札所 観音正寺の子院の中で現存する唯一の天台宗の寺院で、正式名は「繖山正覚院教林坊」といいます。古寺に関する様々な著書を執筆した白州女史も昭和44年1月に訪れ、著書では巨石を用いた桃山時代の庭園に深く触れられています。因みに、集落の名も「石寺」(近江八幡市安土町石寺)です。<br />お寺のHPです。<br />https://kyourinbo.jimdo.com/

情緒纏綿 近江逍遥④教林坊

1042いいね!

2018/11/21 - 2018/11/21

1位(同エリア1302件中)

0

74

montsaintmichel

montsaintmichelさん

琵琶湖を巡る紅葉狩りバスツアーが多々ある中、このツアーを選んだ最大の理由が教林坊を訪れることでした。この教林坊を知ったのは白州正子著『かくれ里』に「石の寺」として紹介されたからです。
「麓の石寺という部落は、世捨人のような風情のある村で、かつては観音正寺の末寺が三十以上もあり、繁栄を極めたというが、現在は教林坊というささやかな寺が一つ残っているだけである。」とあります。
近江八幡市安土町と言えば、織田信長が築城した安土城が知られています。しかし、日本の原風景を留めた山裾の隠れ里「教林坊」の歴史は更に古く、聖徳太子の時代にまで遡ります。繖山(きぬがさやま)の麓に、太子によって605(推古13)年に創建された古刹です。別名「石の寺」は、太子の御詠歌に由来します。
「九十九折れ たずねいるらん 石の寺 ふたたび詣らな 法の仏に」。ここから、再度参りによる心願成就の寺として篤い信仰を集めてきました。
西国三十三札所 観音正寺の子院の中で現存する唯一の天台宗の寺院で、正式名は「繖山正覚院教林坊」といいます。古寺に関する様々な著書を執筆した白州女史も昭和44年1月に訪れ、著書では巨石を用いた桃山時代の庭園に深く触れられています。因みに、集落の名も「石寺」(近江八幡市安土町石寺)です。
お寺のHPです。
https://kyourinbo.jimdo.com/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム
  • リーフレットからスキャンした境内マップです。

    リーフレットからスキャンした境内マップです。

  • 繖山(きぬがさやま)<br />繖山は、湖東平野の奥に聳える近江八幡市と東近江市にまたがる標高432.5mの山です。<br />繖山の名の由来は、その山容が貴人にさしかざす衣蓋(きぬがさ)に似ることに因むとされます。<br />別の説もあり、桑実寺の開祖が唐から桑の実を持ち帰り、この地で桑を栽培したことに因み、蚕が糸を散らす様子から名付けられたと伝わります。

    繖山(きぬがさやま)
    繖山は、湖東平野の奥に聳える近江八幡市と東近江市にまたがる標高432.5mの山です。
    繖山の名の由来は、その山容が貴人にさしかざす衣蓋(きぬがさ)に似ることに因むとされます。
    別の説もあり、桑実寺の開祖が唐から桑の実を持ち帰り、この地で桑を栽培したことに因み、蚕が糸を散らす様子から名付けられたと伝わります。

  • 参道<br />かつて、繖山には中世五大山城のひとつに数えられる近江守護 佐々木六角氏の居城「観音寺城」がありました。佐々木六角氏は、応仁の乱の頃からこの地に観音寺城郭を整え、16世紀前期に完成させたと伝わります。<br />安土城以前の城郭としては唯一と言える城域全体を石垣で築いた要塞であり、石垣を多用したため排水機能が備えられるなど、その技術の高さは屈指のものです。<br />一方、茶室なども備えていたと伝わり、風雅な文化生活も垣間見られました。<br />繖三観音(観音正寺、石馬寺、善勝寺)は、この繖山を取り囲むように位置しているのも興味深いところです。

    参道
    かつて、繖山には中世五大山城のひとつに数えられる近江守護 佐々木六角氏の居城「観音寺城」がありました。佐々木六角氏は、応仁の乱の頃からこの地に観音寺城郭を整え、16世紀前期に完成させたと伝わります。
    安土城以前の城郭としては唯一と言える城域全体を石垣で築いた要塞であり、石垣を多用したため排水機能が備えられるなど、その技術の高さは屈指のものです。
    一方、茶室なども備えていたと伝わり、風雅な文化生活も垣間見られました。
    繖三観音(観音正寺、石馬寺、善勝寺)は、この繖山を取り囲むように位置しているのも興味深いところです。

  • 参道<br />寺伝によると、聖徳太子が坊舎創建の場所を探し求めて彷徨っていたところ、繖山の麓にあった霊窟より光と共に観音菩薩が現れ、「この地に寺院を建立して我が教えを述べ、末代衆生 抜苦与楽の願を充たしむべし」と告げ、忽然と姿を消しました。太子はすぐさま寺院を建立し、その地で「法華経」という経典を講説されたそうです。

    参道
    寺伝によると、聖徳太子が坊舎創建の場所を探し求めて彷徨っていたところ、繖山の麓にあった霊窟より光と共に観音菩薩が現れ、「この地に寺院を建立して我が教えを述べ、末代衆生 抜苦与楽の願を充たしむべし」と告げ、忽然と姿を消しました。太子はすぐさま寺院を建立し、その地で「法華経」という経典を講説されたそうです。

  • 総門<br />石段を登ると境内への入口となる総門が現れます。<br />想定外に大きく吃驚させられる門は、江戸時代築の徳島県藍染の庄屋にあった長屋門を移築した葦葺門です。

    総門
    石段を登ると境内への入口となる総門が現れます。
    想定外に大きく吃驚させられる門は、江戸時代築の徳島県藍染の庄屋にあった長屋門を移築した葦葺門です。

  • 総門<br />門に掲げられた幔幕には、佐々木六角氏の家紋「隅立四ツ目結紋」を染め抜いています。<br />これは、この石寺地区が近江守護職 佐々木六角氏の城下として栄えたことに因みます。<br />

    総門
    門に掲げられた幔幕には、佐々木六角氏の家紋「隅立四ツ目結紋」を染め抜いています。
    これは、この石寺地区が近江守護職 佐々木六角氏の城下として栄えたことに因みます。

  • 総門<br />リーフレットには、「『寺社分限帳』によれば、1585(天正13)年に創立(再建)されたと記されています」とあります。時系列で考察すれば、本能寺の変が復興のターニングポイントと思われます。<br />戦国時代、観音寺山に城郭を築くに当たり近江守護職 佐々木六角氏は、観音寺をはじめその子院を麓の観音谷に下ろしました。しかし繖山全体が度々戦禍に遭い、1568(永禄11)年には織田信長によって全山が焼失するという憂き目に遭いました。その後、江戸時代初期に伊勢桑名藩主 松平定綱の帰依を受けた僧 宋徳法橋により復興され、この時に小堀遠州によって名勝の蓬莱庭園が作庭されたと伝わります。

    総門
    リーフレットには、「『寺社分限帳』によれば、1585(天正13)年に創立(再建)されたと記されています」とあります。時系列で考察すれば、本能寺の変が復興のターニングポイントと思われます。
    戦国時代、観音寺山に城郭を築くに当たり近江守護職 佐々木六角氏は、観音寺をはじめその子院を麓の観音谷に下ろしました。しかし繖山全体が度々戦禍に遭い、1568(永禄11)年には織田信長によって全山が焼失するという憂き目に遭いました。その後、江戸時代初期に伊勢桑名藩主 松平定綱の帰依を受けた僧 宋徳法橋により復興され、この時に小堀遠州によって名勝の蓬莱庭園が作庭されたと伝わります。

  • 参道<br />境内はこのように穴太積の石垣で囲まれています。

    参道
    境内はこのように穴太積の石垣で囲まれています。

  • 参道<br />鬱蒼とした竹林を縫うかのように参道が切り開かれています。

    参道
    鬱蒼とした竹林を縫うかのように参道が切り開かれています。

  • 参道<br />簡素な竹垣がナビゲートしてくれます。

    参道
    簡素な竹垣がナビゲートしてくれます。

  • 参道<br />左手にちらりと本堂の姿が垣間見られます。<br />本堂正面にはスペースがなく、正面全体の姿が見渡せるのはここに限られます。

    参道
    左手にちらりと本堂の姿が垣間見られます。
    本堂正面にはスペースがなく、正面全体の姿が見渡せるのはここに限られます。

  • 参道<br />参道の傍らに井桁状の木枠が置かれています。<br />何かしらと覗き込んでみると、「もみじの根を保護しています。」という札が付けられています。 <br />「もみじ寺」として人に知れるようになり拝観者が増えたことにより、その踏圧からもみじの根っこを守ろうという優しい心遣いです。<br />こうしたものを拝見するとほっこりさせられます。

    参道
    参道の傍らに井桁状の木枠が置かれています。
    何かしらと覗き込んでみると、「もみじの根を保護しています。」という札が付けられています。
    「もみじ寺」として人に知れるようになり拝観者が増えたことにより、その踏圧からもみじの根っこを守ろうという優しい心遣いです。
    こうしたものを拝見するとほっこりさせられます。

  • 表門<br />細くなだらかな参道を登り詰めると、素朴な生垣の奥に鄙びた表門が現れます。<br />この先は、俗世とは切り離された張り詰めた静謐な空気が漂う聖域です。

    表門
    細くなだらかな参道を登り詰めると、素朴な生垣の奥に鄙びた表門が現れます。
    この先は、俗世とは切り離された張り詰めた静謐な空気が漂う聖域です。

  • 表門<br />江戸時代後期に建立された、切妻屋根、瓦葺の薬医門です。

    表門
    江戸時代後期に建立された、切妻屋根、瓦葺の薬医門です。

  • 表門<br />門を潜ると、境内を取り囲む竹林の緑と今を盛りと燃え盛る紅葉の赤のコントラストが目にも鮮やかです。<br />

    表門
    門を潜ると、境内を取り囲む竹林の緑と今を盛りと燃え盛る紅葉の赤のコントラストが目にも鮮やかです。

  • 書院(庫裏:市指定文化財)<br />書院は、桁行6間半、梁間4間、入母屋合掌造、茅葺、周囲には桟瓦葺の裳階風庇を回しています。<br />まさに「かくれ里」に相応しい佇まいであり、この書院を見た刹那、時空を超えはるばる訪ねて来たと言う実感が込み上げてきます。

    書院(庫裏:市指定文化財)
    書院は、桁行6間半、梁間4間、入母屋合掌造、茅葺、周囲には桟瓦葺の裳階風庇を回しています。
    まさに「かくれ里」に相応しい佇まいであり、この書院を見た刹那、時空を超えはるばる訪ねて来たと言う実感が込み上げてきます。

  • 四合わせ(幸せ)地蔵尊<br />書院入口の手前、表門を潜った先の右手奥にある、地蔵尊です。<br />表門を潜ると書院が迫ってくるため、見逃さないようになさってください。<br />

    四合わせ(幸せ)地蔵尊
    書院入口の手前、表門を潜った先の右手奥にある、地蔵尊です。
    表門を潜ると書院が迫ってくるため、見逃さないようになさってください。

  • 四合わせ(幸せ)地蔵尊<br />605(推古13)年に聖徳太子が自ら8体の地蔵尊を石に刻み、山麓に安置したと伝わります。<br />重さ1トンの自然石に4体が刻まれており、一度に4つの願いを叶えると伝えられています。台形の石の下半身をよく観てください。

    四合わせ(幸せ)地蔵尊
    605(推古13)年に聖徳太子が自ら8体の地蔵尊を石に刻み、山麓に安置したと伝わります。
    重さ1トンの自然石に4体が刻まれており、一度に4つの願いを叶えると伝えられています。台形の石の下半身をよく観てください。

  • 表門<br />書院入口から表門方向を振り返ると、雰囲気のよい竹垣が設えてあります。真新しい竹垣が、表門と書院の間の約10mの小径の両脇に設けられています。<br />これは「教林坊垣」と呼ばれる竹垣です。有名な竹垣様式でしたが、暫くの間途絶えていたそうです。その教林坊垣を、住職の思いを受けたシニアボランティア「六林坊」が復活させたものです。<br />表門と書院の間は小さなスペースですが、ここには見逃しそうな見所が満載です。

    表門
    書院入口から表門方向を振り返ると、雰囲気のよい竹垣が設えてあります。真新しい竹垣が、表門と書院の間の約10mの小径の両脇に設けられています。
    これは「教林坊垣」と呼ばれる竹垣です。有名な竹垣様式でしたが、暫くの間途絶えていたそうです。その教林坊垣を、住職の思いを受けたシニアボランティア「六林坊」が復活させたものです。
    表門と書院の間は小さなスペースですが、ここには見逃しそうな見所が満載です。

  • 表門<br />教林坊垣は、太い竹(親柱)に等間隔に開けられた穴に支柱の役割をする竹(間柱)を差し込み、横2段に渡した半割竹に結わえるのが特徴です。一見、金閣寺垣にも似ていますが、シンプルながらも手の込んだ加工がなされ、親柱や間柱、滑板、棟竹を同時に建て込んでいます。<br />かつて昭和時代にかけて活躍した造園家 飯田十基氏が坊にあった教林坊垣の作り方を弟子たちに教えたそうですが、その後教林坊は20年間以上無住寺となり、教林坊垣も途絶えていました。<br />誰も気付かない所へも気を遣い、ものつくりをしていく…。<br />これが、禅です。

    表門
    教林坊垣は、太い竹(親柱)に等間隔に開けられた穴に支柱の役割をする竹(間柱)を差し込み、横2段に渡した半割竹に結わえるのが特徴です。一見、金閣寺垣にも似ていますが、シンプルながらも手の込んだ加工がなされ、親柱や間柱、滑板、棟竹を同時に建て込んでいます。
    かつて昭和時代にかけて活躍した造園家 飯田十基氏が坊にあった教林坊垣の作り方を弟子たちに教えたそうですが、その後教林坊は20年間以上無住寺となり、教林坊垣も途絶えていました。
    誰も気付かない所へも気を遣い、ものつくりをしていく…。
    これが、禅です。

  • 書院<br />書院は香道教授所としても利用されているようです。<br />「精神性が高い芸術」とされる香道は、香木を焚いて香りをたて、その香りを鑑賞するものです。推古天皇の時代、淡路島に漂着した香木を聖徳太子が稀有の至宝「沈香」として見い出し、手箱と観音像を作ったことに始まるとされます。<br />太子の創建と伝えられる教林坊で、千数百年の時空を超えて香道を愉しむのは極上の贅沢と言えます。<br />この周辺の繖山山麓は戦国時代には佐々木六角氏の城下として栄えたこともあり、寺には桃山時代の香道具も遺されているそうです。

    書院
    書院は香道教授所としても利用されているようです。
    「精神性が高い芸術」とされる香道は、香木を焚いて香りをたて、その香りを鑑賞するものです。推古天皇の時代、淡路島に漂着した香木を聖徳太子が稀有の至宝「沈香」として見い出し、手箱と観音像を作ったことに始まるとされます。
    太子の創建と伝えられる教林坊で、千数百年の時空を超えて香道を愉しむのは極上の贅沢と言えます。
    この周辺の繖山山麓は戦国時代には佐々木六角氏の城下として栄えたこともあり、寺には桃山時代の香道具も遺されているそうです。

  • 書院<br />入口には、教林坊がTVや映画のロケ地として使われた様子が掲示されています。<br />映画『最後の忠臣蔵』やTVドラマ『宮本武蔵』、映画『駆け込み女と駆け出し男』などの撮影で使われたそうです。<br />2014年の『宮本武蔵』のロケには、木村拓哉、真木ようこ、武田鉄矢らが訪れています。

    書院
    入口には、教林坊がTVや映画のロケ地として使われた様子が掲示されています。
    映画『最後の忠臣蔵』やTVドラマ『宮本武蔵』、映画『駆け込み女と駆け出し男』などの撮影で使われたそうです。
    2014年の『宮本武蔵』のロケには、木村拓哉、真木ようこ、武田鉄矢らが訪れています。

  • 庭園散策路<br />書院を出て小高い裏山を登りはじめると、竹林の緑のスクリーンに深紅の紅葉が映えます。

    庭園散策路
    書院を出て小高い裏山を登りはじめると、竹林の緑のスクリーンに深紅の紅葉が映えます。

  • 庭園散策路<br />この経蔵と書院の茅葺屋根には琵琶湖で採られた葦(ヨシ)が使われています。<br />古くから「かくれ里」に佇んでいた古刹のように映るのは、こうした手づくりの温もりが伝わってくるからなのでしょう。

    庭園散策路
    この経蔵と書院の茅葺屋根には琵琶湖で採られた葦(ヨシ)が使われています。
    古くから「かくれ里」に佇んでいた古刹のように映るのは、こうした手づくりの温もりが伝わってくるからなのでしょう。

  • 庭園散策路<br />竹林と石と花木に囲まれた書院の佇まいは、俗塵を払って風雅にも映ります。<br />子院の書院としては中規模だそうですが、建築様式から江戸時代前期に建てられたものと推定されており、本格的な質の高い造りです。<br />

    庭園散策路
    竹林と石と花木に囲まれた書院の佇まいは、俗塵を払って風雅にも映ります。
    子院の書院としては中規模だそうですが、建築様式から江戸時代前期に建てられたものと推定されており、本格的な質の高い造りです。

  • 庭園散策路<br />書院の西側に広がる蓬莱庭園の全景を俯瞰した絵です。<br />この庭園は、慶長年間(1596~1614年)に造営されたものです。<br />桃山時代を象徴する神仙蓬莱思想の池泉回遊式庭園で、地元では小堀遠州の作庭とも伝える名勝です。枯れ滝や三尊石組、鶴島、亀島などを配し、手前の池に浮かぶ巨石が亀島、その左手に鶴島と細長い鶴首石、右手には枯れ滝の石組を配しています。作庭は豪快であると共に豊かな情緒も醸し、豪壮さと繊細さが同居する幽玄な世界が広がっています。

    庭園散策路
    書院の西側に広がる蓬莱庭園の全景を俯瞰した絵です。
    この庭園は、慶長年間(1596~1614年)に造営されたものです。
    桃山時代を象徴する神仙蓬莱思想の池泉回遊式庭園で、地元では小堀遠州の作庭とも伝える名勝です。枯れ滝や三尊石組、鶴島、亀島などを配し、手前の池に浮かぶ巨石が亀島、その左手に鶴島と細長い鶴首石、右手には枯れ滝の石組を配しています。作庭は豪快であると共に豊かな情緒も醸し、豪壮さと繊細さが同居する幽玄な世界が広がっています。

  • 庭園散策路<br />厳密には作庭者は不詳のようですが、このように巨石を連ねた石組庭園は伝小堀遠州作の中でもあまり多くはないようです。小堀遠州の作庭で間違いないとされる「金地院庭園」などから察し、弱々しい意匠は遠州好みではないように思われます。それ故、力強い石組群に象徴される教林坊の石庭は、多分に遠州好みと言えると思います。

    庭園散策路
    厳密には作庭者は不詳のようですが、このように巨石を連ねた石組庭園は伝小堀遠州作の中でもあまり多くはないようです。小堀遠州の作庭で間違いないとされる「金地院庭園」などから察し、弱々しい意匠は遠州好みではないように思われます。それ故、力強い石組群に象徴される教林坊の石庭は、多分に遠州好みと言えると思います。

  • 庭園散策路 仲良し地蔵尊<br />苔生した地面に佇む仲良し地蔵尊です。<br />縁結びや夫婦円満にご利益があるそうです。

    庭園散策路 仲良し地蔵尊
    苔生した地面に佇む仲良し地蔵尊です。
    縁結びや夫婦円満にご利益があるそうです。

  • 庭園散策路<br />多数の巨石を配して高低差を造り、見事な池泉回遊式庭園に仕上げています。<br />しかし、それ以上に感性に訴えるのは背丈の高い古木紅葉の存在です。境内は2000坪、紅葉は200本近くあり、滋賀県屈指の紅葉の名所のひとつです。<br />白州女史がここを訪れたのは昭和44年、前住職が亡くなられた後、奥様が細々と管理されていた頃でした。女史が今のこの景色を目の当たりにされたら、どう表現されるのか興味深いところです。<br />1人の若き青年僧の無謀とも思えた果敢な挑戦が、ここに結実しました。廃寺に情熱を注ぎ、命を吹き込み、蘇生させ、この世とは思えないような観音浄土の世界を現世に再現してみせた夢幻なる庭園です。

    庭園散策路
    多数の巨石を配して高低差を造り、見事な池泉回遊式庭園に仕上げています。
    しかし、それ以上に感性に訴えるのは背丈の高い古木紅葉の存在です。境内は2000坪、紅葉は200本近くあり、滋賀県屈指の紅葉の名所のひとつです。
    白州女史がここを訪れたのは昭和44年、前住職が亡くなられた後、奥様が細々と管理されていた頃でした。女史が今のこの景色を目の当たりにされたら、どう表現されるのか興味深いところです。
    1人の若き青年僧の無謀とも思えた果敢な挑戦が、ここに結実しました。廃寺に情熱を注ぎ、命を吹き込み、蘇生させ、この世とは思えないような観音浄土の世界を現世に再現してみせた夢幻なる庭園です。

  • 庭園散策路<br />本堂は2004年に再建されたものです。<br />どこを切り取っても絵になる風景ですが、殊更、紅葉と苔や竹林とのコントラストが印象的な古刹です。<br />

    庭園散策路
    本堂は2004年に再建されたものです。
    どこを切り取っても絵になる風景ですが、殊更、紅葉と苔や竹林とのコントラストが印象的な古刹です。

  • 庭園散策路<br />2018年11月初旬、「教林坊」から360点程の古文書が発見されたことが話題に上りました。大半が比叡山延暦寺で伝承されてきた修法などに関する写本や木版本だそうですが、織田信長による焼討ち(1571年)以前の南北朝時代の貴重な古文書もあるそうです。焼討ちでは多くの古文書が焼失しており、貴重な文書が含まれていないか、市が調査をするようです。<br />焼討ちの際に誰かがこの寺へ持ち込んだものではないかと思っていますが、今後の新発見を期待したいものです。

    庭園散策路
    2018年11月初旬、「教林坊」から360点程の古文書が発見されたことが話題に上りました。大半が比叡山延暦寺で伝承されてきた修法などに関する写本や木版本だそうですが、織田信長による焼討ち(1571年)以前の南北朝時代の貴重な古文書もあるそうです。焼討ちでは多くの古文書が焼失しており、貴重な文書が含まれていないか、市が調査をするようです。
    焼討ちの際に誰かがこの寺へ持ち込んだものではないかと思っていますが、今後の新発見を期待したいものです。

  • 庭園散策路 太子の説法岩<br />苔生した大きな岩が「太子の説法岩」です。<br />この岩の上に聖徳太子が座り、教えを説いたと伝わります。<br />寺名にある「教林」は、太子が「林の中で教えを説かれた」ことに由来します。

    庭園散策路 太子の説法岩
    苔生した大きな岩が「太子の説法岩」です。
    この岩の上に聖徳太子が座り、教えを説いたと伝わります。
    寺名にある「教林」は、太子が「林の中で教えを説かれた」ことに由来します。

  • 庭園散策路 太子の説法岩<br />「太子の説法岩」の傍らには、小さな石仏が佇みます。<br /><br />

    庭園散策路 太子の説法岩
    「太子の説法岩」の傍らには、小さな石仏が佇みます。

  • 庭園散策路 本堂<br />桟瓦葺の屋根に桟瓦葺の裳階風庇を回した独特の造りです。

    庭園散策路 本堂
    桟瓦葺の屋根に桟瓦葺の裳階風庇を回した独特の造りです。

  • 庭園散策路 止観石<br />本堂を左手に見ながら趣のある石畳の坂を下って行くと、右手に聖徳太子がこの上で瞑想したと伝わる「止観石」が現れます。石の上には五輪塔が載せられています。<br />「止観」とは、「一切の妄念を止め、正しい知恵で対象を観察すること」とあります。止観石は「座禅石」とも呼ばれ、僧侶がその岩の上で座禅を組み瞑想をする石とされます。

    庭園散策路 止観石
    本堂を左手に見ながら趣のある石畳の坂を下って行くと、右手に聖徳太子がこの上で瞑想したと伝わる「止観石」が現れます。石の上には五輪塔が載せられています。
    「止観」とは、「一切の妄念を止め、正しい知恵で対象を観察すること」とあります。止観石は「座禅石」とも呼ばれ、僧侶がその岩の上で座禅を組み瞑想をする石とされます。

  • 庭園散策路 止観石<br />かつて繖山の山上には観音正寺があり、教林坊は山麓にあったその子院のひとつでした。体力的、肉体的に観音正寺まで参詣するのが困難な信仰者が、この石の上で観音正寺に向かって座禅し、瞑想を行った場所でもあったそうです。

    庭園散策路 止観石
    かつて繖山の山上には観音正寺があり、教林坊は山麓にあったその子院のひとつでした。体力的、肉体的に観音正寺まで参詣するのが困難な信仰者が、この石の上で観音正寺に向かって座禅し、瞑想を行った場所でもあったそうです。

  • 庭園散策路 止観石<br />作庭の歴史から考証すると、室町時代までの庭園には構成要素として「止観石」が散見されますが、江戸時代中期には見られなくなります。<br />これが、この枯山水が室町時代の遺構と比定される理由のひとつです。

    庭園散策路 止観石
    作庭の歴史から考証すると、室町時代までの庭園には構成要素として「止観石」が散見されますが、江戸時代中期には見られなくなります。
    これが、この枯山水が室町時代の遺構と比定される理由のひとつです。

  • 庭園散策路 本堂<br />比較的新しい堂宇ですが、侘び寂びの風情を醸しているのは不思議です。<br /><br /><br /><br />

    庭園散策路 本堂
    比較的新しい堂宇ですが、侘び寂びの風情を醸しているのは不思議です。



  • 庭園散策路 本堂<br />巨石が折り重なっていますが、左手下方が「本尊霊窟」、その上方にあるのが「太子の説法岩」です。

    庭園散策路 本堂
    巨石が折り重なっていますが、左手下方が「本尊霊窟」、その上方にあるのが「太子の説法岩」です。

  • 庭園散策路<br />葉の色が緑の楓も多いため、ここの紅葉の見頃はもう少し先のようです。

    庭園散策路
    葉の色が緑の楓も多いため、ここの紅葉の見頃はもう少し先のようです。

  • 本堂<br />「志欲静」と書かれています。「志は静ならんと欲す」と読みます。<br />この他、境内には仏教語を解説する立札が随所にあります。<br />気にすることもなく日常的に用いている「仏教語」ですが、?解説を読んでみると目から鱗です。例えば「あきらめる」という言葉。一般的には「仕方ないと断念する」というネガティブな意味が強いのですが、「明らかに見極める」というポジティブな意味もあり、仏教語では「諦」という字を「真理(さとり)」の意味で用いるそうです。思い通りに行かない時でも「明らかに見極める」という気持ちで「真理」を見つける事が大切とあります。<br />こうした心持を心がけたいものです。

    本堂
    「志欲静」と書かれています。「志は静ならんと欲す」と読みます。
    この他、境内には仏教語を解説する立札が随所にあります。
    気にすることもなく日常的に用いている「仏教語」ですが、?解説を読んでみると目から鱗です。 例えば「あきらめる」という言葉。一般的には「仕方ないと断念する」というネガティブな意味が強いのですが、「明らかに見極める」というポジティブな意味もあり、仏教語では「諦」という字を「真理(さとり)」の意味で用いるそうです。思い通りに行かない時でも「明らかに見極める」という気持ちで「真理」を見つける事が大切とあります。
    こうした心持を心がけたいものです。

  • 本堂<br />教林坊は通常、土日祝日のみ拝観できるのですが、毎年11月1日~12月15日に秋の特別拝観時期が設定されています。

    本堂
    教林坊は通常、土日祝日のみ拝観できるのですが、毎年11月1日~12月15日に秋の特別拝観時期が設定されています。

  • 本堂<br />堂宇の右側に本尊が祀られています。<br />

    本堂
    堂宇の右側に本尊が祀られています。

  • 本堂<br />手前には、身代わり文殊菩薩がおられます。この菩薩は「撫で仏」です。

    本堂
    手前には、身代わり文殊菩薩がおられます。この菩薩は「撫で仏」です。

  • 本堂<br />中央にお前立ち本尊「十一面観音菩薩」、その両脇に「仁王像」が安置されています。<br />本尊「赤川観音像」が納まった厨子は開帳されていますが、どこにもそのお姿がありません。また、背後も開帳され庭園の景色が見られます。<br />その訳は後ほど…。

    本堂
    中央にお前立ち本尊「十一面観音菩薩」、その両脇に「仁王像」が安置されています。
    本尊「赤川観音像」が納まった厨子は開帳されていますが、どこにもそのお姿がありません。また、背後も開帳され庭園の景色が見られます。
    その訳は後ほど…。

  • 本堂<br />秋の特別公開時のみ、左側の秘仏「願掛不動明王」がご開帳されます。<br />不動明王は、密教特有の尊格である明王の一尊であり、密教の根本尊である大日如来の化身とも言われます。また、五大明王の筆頭となる明王でもあります。<br />不動明王の教えの中に「生死即涅槃」というものがあります。「涅槃(悟りの世界)」と「煩悩(迷いの世界)」は対極のものであるが、双方があってこそ成り立つという意味だそうです。<br />また、不動明王は、「不動智=一つの所に留まらずに動きたいように動きながら、どんなことにも動揺したり捉われたりしない、明らかで正しい智慧」という教えを残しています。江戸時代前期に禅僧 沢庵宗彭が剣術家 柳生宗矩に与えた『剣禅一致』の教えもこれに拠ります。

    本堂
    秋の特別公開時のみ、左側の秘仏「願掛不動明王」がご開帳されます。
    不動明王は、密教特有の尊格である明王の一尊であり、密教の根本尊である大日如来の化身とも言われます。また、五大明王の筆頭となる明王でもあります。
    不動明王の教えの中に「生死即涅槃」というものがあります。「涅槃(悟りの世界)」と「煩悩(迷いの世界)」は対極のものであるが、双方があってこそ成り立つという意味だそうです。
    また、不動明王は、「不動智=一つの所に留まらずに動きたいように動きながら、どんなことにも動揺したり捉われたりしない、明らかで正しい智慧」という教えを残しています。江戸時代前期に禅僧 沢庵宗彭が剣術家 柳生宗矩に与えた『剣禅一致』の教えもこれに拠ります。

  • 本堂<br />本堂から庭園を眺めた様子です。<br />狭いお寺ですので、観光バス2台が押し寄せればご覧の通りの混雑ぶりです。閑静なこのお寺の本質を味わうには程遠い状態と言えます。<br />しかし、皆さん見所を知らないのか、一通り眺めてあっさりと引き上げられますので、混雑時には暫く様子見を決め込むのが正解です。

    本堂
    本堂から庭園を眺めた様子です。
    狭いお寺ですので、観光バス2台が押し寄せればご覧の通りの混雑ぶりです。閑静なこのお寺の本質を味わうには程遠い状態と言えます。
    しかし、皆さん見所を知らないのか、一通り眺めてあっさりと引き上げられますので、混雑時には暫く様子見を決め込むのが正解です。

  • 本堂 延命一字写経<br />置かれている石のひとつに、経文の中に書かれている好きな一文字を書いて奉納するものです。<br />

    本堂 延命一字写経
    置かれている石のひとつに、経文の中に書かれている好きな一文字を書いて奉納するものです。

  • 庭園散策路<br />本堂を抜けると庭園への入口です。<br />散策路の左側が「蓬莱庭園」、右側が「普陀落の庭」です。<br />「本尊霊窟」や「太子の説法岩」は、「蓬莱庭園」のパーツと言う位置付けです。<br /><br />

    庭園散策路
    本堂を抜けると庭園への入口です。
    散策路の左側が「蓬莱庭園」、右側が「普陀落の庭」です。
    「本尊霊窟」や「太子の説法岩」は、「蓬莱庭園」のパーツと言う位置付けです。

  • 庭園散策路 本尊霊窟<br />太子の説法岩の下方にある石窟が「本尊霊窟」です。<br />この石窟は、元々あった古墳の石室の蓋石をありのままに利用したものだそうです。<br />赤川観音の由来は、次のように伝えられています。<br />近くに住む村娘が子宝祈願をしたところ、懐妊したそうです。やがて出産の時、難産で娘の容態が悪くなり、再び祈願したところ、自らの腹に刃物を突き刺すよう神託を得たそうです。そして無事帝王切開で子供が産まれ、娘もすぐに傷が癒えたとのことです。<br />この切開により川が赤く染まったため、「赤川観音」と言われるそうです。この逸話から、「再度参りの観音」として知られ、難しい願いも2度参れば聞き届けられると伝えられています。

    庭園散策路 本尊霊窟
    太子の説法岩の下方にある石窟が「本尊霊窟」です。
    この石窟は、元々あった古墳の石室の蓋石をありのままに利用したものだそうです。
    赤川観音の由来は、次のように伝えられています。
    近くに住む村娘が子宝祈願をしたところ、懐妊したそうです。やがて出産の時、難産で娘の容態が悪くなり、再び祈願したところ、自らの腹に刃物を突き刺すよう神託を得たそうです。そして無事帝王切開で子供が産まれ、娘もすぐに傷が癒えたとのことです。
    この切開により川が赤く染まったため、「赤川観音」と言われるそうです。この逸話から、「再度参りの観音」として知られ、難しい願いも2度参れば聞き届けられると伝えられています。

  • 庭園散策路 本尊霊窟<br />「ここで私の興味をひいたのは、慶長時代の石庭で、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり、よく見ると、それは古墳を利用してあるのだった。石室の巨大な蓋石を、そのまま庭石に使ってあるのだが、不自然でなく、日本の造園の生い立ちといったようなものを見せられたような感じがする。」と白洲女史は記しています。<br />元々この辺りには古墳が多くあり、佐々木氏の名前の起源も「小さい崎(ささき)」が転じた「御陵(みささぎ)」が由来と伝わります。<br />こうした古墳の巨石を利用した庭園が広がっているのが、教林坊が「石の寺」と言われる所以です。

    庭園散策路 本尊霊窟
    「ここで私の興味をひいたのは、慶長時代の石庭で、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり、よく見ると、それは古墳を利用してあるのだった。石室の巨大な蓋石を、そのまま庭石に使ってあるのだが、不自然でなく、日本の造園の生い立ちといったようなものを見せられたような感じがする。」と白洲女史は記しています。
    元々この辺りには古墳が多くあり、佐々木氏の名前の起源も「小さい崎(ささき)」が転じた「御陵(みささぎ)」が由来と伝わります。
    こうした古墳の巨石を利用した庭園が広がっているのが、教林坊が「石の寺」と言われる所以です。

  • 庭園散策路 本尊霊窟<br />この石窟の中から光と共に観音菩薩が出現し、太子は一刀三礼してその姿を石に写し取ったと伝わります。石窟の奥には、その時に太子が刻んだとされる本尊の石仏「赤川観音」が安置されています。石窟の中は暗く、本尊のお姿はよく見えませんが、安産や子授け、良縁成就の観音様とされます。このように教林寺の本尊は本堂内に安置されているのではなく、この石窟内に祀られています。本堂に祀られている本尊御前立を拝むと、その背後に開けられた窓を通して石窟内の本尊が拝める仕組みです。

    庭園散策路 本尊霊窟
    この石窟の中から光と共に観音菩薩が出現し、太子は一刀三礼してその姿を石に写し取ったと伝わります。石窟の奥には、その時に太子が刻んだとされる本尊の石仏「赤川観音」が安置されています。石窟の中は暗く、本尊のお姿はよく見えませんが、安産や子授け、良縁成就の観音様とされます。このように教林寺の本尊は本堂内に安置されているのではなく、この石窟内に祀られています。本堂に祀られている本尊御前立を拝むと、その背後に開けられた窓を通して石窟内の本尊が拝める仕組みです。

  • 蓬莱庭園<br />書院や経蔵は江戸時代に造営されたもので、苔生した庭園や周囲の竹林の佇まいと相まって侘び・寂びの「かくれ里」の風情を湛えています。<br />白州女史が山裾の「かくれ里」として文藝新潮に記したのは、1969(昭和44)年1月にここを訪ねた時のことでした。現在の姿からは想像すらできませんが、その後、この寺は無住寺となり、勅願寺のため檀家も信者もおらず、寺は荒れるに早かったようです。<br />1995(平成7)年、この寺に普山したのが24歳の廣部光信師でした。訪ねる人もいない、実際に「かくれ里」と化したこの寺を、私財を投じ、地元の方々の協力を得ながら現在の姿に復興されました。<br />由緒も趣もある教林坊でしたが、昭和50年頃から後継者に恵まれず無住寺になり、「お化け寺」と呼ばれるほど荒れました。現住職による復興は、瓦を並べ直し、柱を入替え、雨漏りを直し、土塀を取替えるという孤軍奮闘の手作業から始まりました。やがて「若住職が毎日屋根に上ってがんばっておる」と噂になり、地元の方々が屋根を葦で葺き、竹林を開墾して園路を造り、駐車場を整備しました。以来、寺の復興は破竹の勢いで進み、「ライフワーク」と思われていた再興は数年でほぼ完成したそうです。2004年4月、聖徳太子による開創1400年の節目に合わせるかのように、教林坊は20年ぶりに一般公開されました。

    蓬莱庭園
    書院や経蔵は江戸時代に造営されたもので、苔生した庭園や周囲の竹林の佇まいと相まって侘び・寂びの「かくれ里」の風情を湛えています。
    白州女史が山裾の「かくれ里」として文藝新潮に記したのは、1969(昭和44)年1月にここを訪ねた時のことでした。現在の姿からは想像すらできませんが、その後、この寺は無住寺となり、勅願寺のため檀家も信者もおらず、寺は荒れるに早かったようです。
    1995(平成7)年、この寺に普山したのが24歳の廣部光信師でした。訪ねる人もいない、実際に「かくれ里」と化したこの寺を、私財を投じ、地元の方々の協力を得ながら現在の姿に復興されました。
    由緒も趣もある教林坊でしたが、昭和50年頃から後継者に恵まれず無住寺になり、「お化け寺」と呼ばれるほど荒れました。現住職による復興は、瓦を並べ直し、柱を入替え、雨漏りを直し、土塀を取替えるという孤軍奮闘の手作業から始まりました。やがて「若住職が毎日屋根に上ってがんばっておる」と噂になり、地元の方々が屋根を葦で葺き、竹林を開墾して園路を造り、駐車場を整備しました。以来、寺の復興は破竹の勢いで進み、「ライフワーク」と思われていた再興は数年でほぼ完成したそうです。2004年4月、聖徳太子による開創1400年の節目に合わせるかのように、教林坊は20年ぶりに一般公開されました。

  • 蓬莱庭園<br />現住職の『回顧録』には次のように吐露されています。「傍から見れば本堂を壊しているようだったというから、修復していると分からなかったかもしれない。だけど、屋根に上がって毎日ひとりで奮闘している姿を見ていてくれた人がいた。それもまた、かけがえのない尊いことだと思う。」<br />青年僧が「荒れ寺」の中に幻の風景を見出した時、地元の方々がそれを嘲笑するだけだったなら復興は遠ざかっていたことでしょう。青年僧がひとりで始めたことが大きなひとつの輪になり、一つの古刹を今に蘇らせました。情熱が成す力は、かけがえのなく尊いものだと改めて教えられました。

    蓬莱庭園
    現住職の『回顧録』には次のように吐露されています。「傍から見れば本堂を壊しているようだったというから、修復していると分からなかったかもしれない。だけど、屋根に上がって毎日ひとりで奮闘している姿を見ていてくれた人がいた。それもまた、かけがえのない尊いことだと思う。」
    青年僧が「荒れ寺」の中に幻の風景を見出した時、地元の方々がそれを嘲笑するだけだったなら復興は遠ざかっていたことでしょう。青年僧がひとりで始めたことが大きなひとつの輪になり、一つの古刹を今に蘇らせました。情熱が成す力は、かけがえのなく尊いものだと改めて教えられました。

  • 枯山水 普陀落の庭<br />書院南面庭園には、室町時代末期の作庭と伝わる「枯山水 普陀落の庭」が広がります。遠州庭園のスケールと比べると猫の額ほどのものですが、白砂48個の石を組んでいます。

    枯山水 普陀落の庭
    書院南面庭園には、室町時代末期の作庭と伝わる「枯山水 普陀落の庭」が広がります。遠州庭園のスケールと比べると猫の額ほどのものですが、白砂48個の石を組んでいます。

  • 枯山水 普陀落の庭<br />「補陀落」とは、サンスクリット語の「ポタラカ( Potalaka)」の音訳です。 他の音訳には、補陀洛迦や普陀洛などがあり、観音菩薩の降臨する霊場とされ、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山です。インドの南端の海岸にあり、八角形をした山とされます。つまり普陀落とは観音菩薩が居られる場所ですので、巨石のひとつ一つが観音様に見立てられます。<br />観音信仰が盛んになると、その霊地として「普陀落」の名称が各地で広まりました。特に中国では現在の浙江省にある舟山群島を普陀落(普陀落山)とした観音信仰が広がりました。日本でも熊野や日光が普陀落になぞらえられました。因みに、日光の地名は、普陀落~二荒(ふたら)~二荒(にこう)~日光となったという説もあります。<br />中世には、観音信仰に基づき、熊野灘や足摺岬などから小船に乗って普陀落を目指す「普陀落渡海」が盛んに行われたそうです。

    枯山水 普陀落の庭
    「補陀落」とは、サンスクリット語の「ポタラカ( Potalaka)」の音訳です。 他の音訳には、補陀洛迦や普陀洛などがあり、観音菩薩の降臨する霊場とされ、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山です。インドの南端の海岸にあり、八角形をした山とされます。つまり普陀落とは観音菩薩が居られる場所ですので、巨石のひとつ一つが観音様に見立てられます。
    観音信仰が盛んになると、その霊地として「普陀落」の名称が各地で広まりました。特に中国では現在の浙江省にある舟山群島を普陀落(普陀落山)とした観音信仰が広がりました。日本でも熊野や日光が普陀落になぞらえられました。因みに、日光の地名は、普陀落~二荒(ふたら)~二荒(にこう)~日光となったという説もあります。
    中世には、観音信仰に基づき、熊野灘や足摺岬などから小船に乗って普陀落を目指す「普陀落渡海」が盛んに行われたそうです。

  • 書院<br />住職 廣部光信師は、2009年に第33回正力賞 青年奨励賞を受賞されています。<br />「教林坊を目指して荒れ果てた竹藪を上っていた私の目の前に、突然まばゆい緑の空間が現れました。建物と庭園を包み込むように空を覆うもみじの新緑が、青いセロハンとなって苔生した地上をより一層輝かせ、鳥たちの鳴き声が響き渡る、観音浄土ともいうべき優雅な空間がそこにあったのです」と荒れ寺となっていた教林坊との出会いを語られています。<br />廣部師は、教林坊から200m程の距離にある天台宗光善寺に生まれ育ちました。大学ではドイツ文学を専攻し、東京の証券会社から内定をもらっていたそうです。しかし、就職すれば二度と寺に戻ってこないだろうと心配した両親の薦めで、叡山学院に入学することになりました。

    書院
    住職 廣部光信師は、2009年に第33回正力賞 青年奨励賞を受賞されています。
    「教林坊を目指して荒れ果てた竹藪を上っていた私の目の前に、突然まばゆい緑の空間が現れました。建物と庭園を包み込むように空を覆うもみじの新緑が、青いセロハンとなって苔生した地上をより一層輝かせ、鳥たちの鳴き声が響き渡る、観音浄土ともいうべき優雅な空間がそこにあったのです」と荒れ寺となっていた教林坊との出会いを語られています。
    廣部師は、教林坊から200m程の距離にある天台宗光善寺に生まれ育ちました。大学ではドイツ文学を専攻し、東京の証券会社から内定をもらっていたそうです。しかし、就職すれば二度と寺に戻ってこないだろうと心配した両親の薦めで、叡山学院に入学することになりました。

  • 書院<br />1995年に初めて教林坊を訪れてこの地に観音浄土を見た時、寺の復興後の姿が鮮明に浮かんだそうです。廣部師は、まさに太子のように観音様に導かれるようにこの寺に辿り着き、住職に就任しました。<br />しかし、24歳の青年僧にとり復興への道程は苦難の道でした。まず、建物と庭園の文化財的な調査を安土町に依頼し、調査の結果、庭園は桃山様式の名庭として名勝に指定され、庫裏は江戸時代前期の貴重な里坊建築として町の文化財となりました。これにより、本堂に先立って庫裏の修理を行うこととなり、修理費用4千万円の半額は行政からの補助で賄いました。しかし、勧募のために地元の家々を回った時には、罵声を浴びせられ、塩を撒かれることもあったそうです。一方、多くの里人が若住職の熱意を受け止め、貴重な浄財が寄せられました。私財も投じて資金を工面し、4年の歳月をかけて庫裏の修復を成し遂げたそうです。

    書院
    1995年に初めて教林坊を訪れてこの地に観音浄土を見た時、寺の復興後の姿が鮮明に浮かんだそうです。廣部師は、まさに太子のように観音様に導かれるようにこの寺に辿り着き、住職に就任しました。
    しかし、24歳の青年僧にとり復興への道程は苦難の道でした。まず、建物と庭園の文化財的な調査を安土町に依頼し、調査の結果、庭園は桃山様式の名庭として名勝に指定され、庫裏は江戸時代前期の貴重な里坊建築として町の文化財となりました。これにより、本堂に先立って庫裏の修理を行うこととなり、修理費用4千万円の半額は行政からの補助で賄いました。しかし、勧募のために地元の家々を回った時には、罵声を浴びせられ、塩を撒かれることもあったそうです。一方、多くの里人が若住職の熱意を受け止め、貴重な浄財が寄せられました。私財も投じて資金を工面し、4年の歳月をかけて庫裏の修復を成し遂げたそうです。

  • 書院 水琴窟<br />この水琴窟も小堀遠州が考案した作庭要素のひとつです。竹筒に耳を当てると、水が奏でる高い音色がのんびりのどかに響きます。<br />教林坊の水琴窟は、5ヶ所以上から水滴が落ちるように工夫されているのが特徴です。それぞれの水滴が奏でる美しい調べを味わうことができます。

    書院 水琴窟
    この水琴窟も小堀遠州が考案した作庭要素のひとつです。竹筒に耳を当てると、水が奏でる高い音色がのんびりのどかに響きます。
    教林坊の水琴窟は、5ヶ所以上から水滴が落ちるように工夫されているのが特徴です。それぞれの水滴が奏でる美しい調べを味わうことができます。

  • 書院 手水鉢<br />廣部師の行動を支えているのが、住職就任が決まった時に師匠の父親が語った言葉だそうです。それは、「動くとは力を重ねていくこと」というものです。師匠が伝えたかったのは、「荒れ寺を復興するならば、常に動く必要がある。勿論、住職自身の行動力が不可欠だが、それだけでは不充分だ。住職自身の力と、周りの多くの人々の力を重ねてこそ初めて復興できる」ということでした。その言葉に納得し現実にしたからこそ、教林坊の復興が適ったのでしょう。復興の先に何を見ていかれるのか、この目で確かめてみたいような気がします。

    書院 手水鉢
    廣部師の行動を支えているのが、住職就任が決まった時に師匠の父親が語った言葉だそうです。それは、「動くとは力を重ねていくこと」というものです。師匠が伝えたかったのは、「荒れ寺を復興するならば、常に動く必要がある。勿論、住職自身の行動力が不可欠だが、それだけでは不充分だ。住職自身の力と、周りの多くの人々の力を重ねてこそ初めて復興できる」ということでした。その言葉に納得し現実にしたからこそ、教林坊の復興が適ったのでしょう。復興の先に何を見ていかれるのか、この目で確かめてみたいような気がします。

  • 書院 掛軸庭園(安土町指定文化財)<br />書院には床の間がなく、付書院が最大の見所です。この付書院を通した庭園の眺めは「掛軸庭園」と称され、最も美しい眺めとされます。付書院の障子で自然を掛け軸の幅に切り取り、季節や気候で遷移する一幅の山水画に見立て、日本独自の侘び・寂びの感性が絶妙に活かされ、幽玄な仙境の地を思い起こさせます。このように極力無駄を省いた何気ない施しこそが、「おもてなし」の本質です。<br />白州女史は、この景観を「源光庵の悟りの窓」や「大原 宝泉院の額縁庭園」と並ぶ日本三窓のひとつと讃えています。

    書院 掛軸庭園(安土町指定文化財)
    書院には床の間がなく、付書院が最大の見所です。この付書院を通した庭園の眺めは「掛軸庭園」と称され、最も美しい眺めとされます。付書院の障子で自然を掛け軸の幅に切り取り、季節や気候で遷移する一幅の山水画に見立て、日本独自の侘び・寂びの感性が絶妙に活かされ、幽玄な仙境の地を思い起こさせます。このように極力無駄を省いた何気ない施しこそが、「おもてなし」の本質です。
    白州女史は、この景観を「源光庵の悟りの窓」や「大原 宝泉院の額縁庭園」と並ぶ日本三窓のひとつと讃えています。

  • 書院 掛軸庭園<br />書院の西側が庭に面した座敷となっており、大局的に言えば、左手に室町時代作の「補陀落の庭」、正面に「遠州の蓬莱庭園」が佇みます。<br />因みに、付書院は、室町幕府8代将軍 足利義政が築いた慈照寺(銀閣寺)東求堂「同仁斎」で初めて設けられたものであり、そこにも「掛軸庭園」が見られます。

    書院 掛軸庭園
    書院の西側が庭に面した座敷となっており、大局的に言えば、左手に室町時代作の「補陀落の庭」、正面に「遠州の蓬莱庭園」が佇みます。
    因みに、付書院は、室町幕府8代将軍 足利義政が築いた慈照寺(銀閣寺)東求堂「同仁斎」で初めて設けられたものであり、そこにも「掛軸庭園」が見られます。

  • 書院<br />釈迦如来坐像は室町時代に制作されたものです。像高36cmの小像ですが、意匠の優れた古仏として貴重なことから近江八幡市文化財に指定されています。<br />文化財に指定されたためか、お顔が拝見できないのは残念なことです。

    書院
    釈迦如来坐像は室町時代に制作されたものです。像高36cmの小像ですが、意匠の優れた古仏として貴重なことから近江八幡市文化財に指定されています。
    文化財に指定されたためか、お顔が拝見できないのは残念なことです。

  • 書院<br />釈迦如来坐像の隣には、聖徳太子孝養像も安置されています。<br />書院は、中央部が式台と寝間、東側が土間になっています。<br />

    書院
    釈迦如来坐像の隣には、聖徳太子孝養像も安置されています。
    書院は、中央部が式台と寝間、東側が土間になっています。

  • 蓬莱庭園<br />この蓬莱庭園のキモは、太子の説法岩と鶴・亀・蛙石の配置にあります。 <br />今まで撮った角度から石庭のテーマを読み取るのは困難かも知れませんが、書院側のこの角度からであれば頷けるはずです。<br />鶴の首の形をした鶴首石は、説法岩の方を向いています。つまり、太子の説法を傾聴している図です。亀石も同様です。しかし、蛙石だけは、説法岩に背を向けています。これは、蛙だけが太子の話しを聞いていなかったことを表わしています。

    蓬莱庭園
    この蓬莱庭園のキモは、太子の説法岩と鶴・亀・蛙石の配置にあります。
    今まで撮った角度から石庭のテーマを読み取るのは困難かも知れませんが、書院側のこの角度からであれば頷けるはずです。
    鶴の首の形をした鶴首石は、説法岩の方を向いています。つまり、太子の説法を傾聴している図です。亀石も同様です。しかし、蛙石だけは、説法岩に背を向けています。これは、蛙だけが太子の話しを聞いていなかったことを表わしています。

  • 蓬莱庭園 鶴首石<br />鶴の首の形をした鶴首石です。<br />焦点もなくぼんやりと庭園を眺めたり、境内を散策したりしていると、時折、俗世の新幹線が走り抜ける無粋なノイズが聞こえてきます。その刹那、現実に引き戻されてしまうのですが、すぐに元の静寂感に包まれ、現実が遠のきます。<br />新幹線も寂寥感を強調する効果音としてしまう教林坊…。<br />ただものではありません。

    蓬莱庭園 鶴首石
    鶴の首の形をした鶴首石です。
    焦点もなくぼんやりと庭園を眺めたり、境内を散策したりしていると、時折、俗世の新幹線が走り抜ける無粋なノイズが聞こえてきます。その刹那、現実に引き戻されてしまうのですが、すぐに元の静寂感に包まれ、現実が遠のきます。
    新幹線も寂寥感を強調する効果音としてしまう教林坊…。
    ただものではありません。

  • 蓬莱庭園 鶴首石<br />庭園のパーツを見て行きましょう。<br />鶴が長い首を伸ばし、太子の説法に傾聴している様子を表わしています。

    蓬莱庭園 鶴首石
    庭園のパーツを見て行きましょう。
    鶴が長い首を伸ばし、太子の説法に傾聴している様子を表わしています。

  • 蓬莱庭園 亀石<br />池に浮かぶ亀石は、この角度から見るとアリゲータのようにも見えなくも…。

    蓬莱庭園 亀石
    池に浮かぶ亀石は、この角度から見るとアリゲータのようにも見えなくも…。

  • 蓬莱庭園 蛙石<br />説法岩に背を向けているのが蛙石です。<br />法隆寺の因可池(よるかのいけ)には、「片目の蛙」の伝説があります。蛙の鳴き声が学問に差し支えると感じた太子が筆で目を突いたところ、この池の蛙は全て片目になったという伝説です。この故事から太子と蛙の関係をなぞらえて表現してあるのでしょうか?

    蓬莱庭園 蛙石
    説法岩に背を向けているのが蛙石です。
    法隆寺の因可池(よるかのいけ)には、「片目の蛙」の伝説があります。蛙の鳴き声が学問に差し支えると感じた太子が筆で目を突いたところ、この池の蛙は全て片目になったという伝説です。この故事から太子と蛙の関係をなぞらえて表現してあるのでしょうか?

  • 蓬莱庭園<br />池泉の北方(経蔵の手前)には、正覚泉と呼ばれる水源があります。これが院号「正覚院」の由来と思われます。<br />正覚泉の周囲には穴太積による土留めの石垣が築かれています。<br />

    蓬莱庭園
    池泉の北方(経蔵の手前)には、正覚泉と呼ばれる水源があります。これが院号「正覚院」の由来と思われます。
    正覚泉の周囲には穴太積による土留めの石垣が築かれています。

  • 蓬莱庭園 三尊石組<br />正覚泉の右脇には、三尊石組が立石で構成されています。<br />阿弥陀三尊を彷彿とさせる三尊構成の仏像になぞらえた石組みです。<br />日本庭園の基本的石組のひとつであり、三尊仏のように中央に背の高い主石(中尊石)を、その左右に主石よりも低い添石(脇侍石)を配します。

    蓬莱庭園 三尊石組
    正覚泉の右脇には、三尊石組が立石で構成されています。
    阿弥陀三尊を彷彿とさせる三尊構成の仏像になぞらえた石組みです。
    日本庭園の基本的石組のひとつであり、三尊仏のように中央に背の高い主石(中尊石)を、その左右に主石よりも低い添石(脇侍石)を配します。

  • 経蔵<br />書院の屋根を赤く染め上げている紅葉です。

    経蔵
    書院の屋根を赤く染め上げている紅葉です。

  • 参道<br />苔の上に折り重なる散紅葉も情緒を湛えています。<br />トルストイは宗教の世界に生きようとしたきっかけを『わが懺悔』で吐露しています。そのきっかけは、『法句譬喩経』にある「黒白二鼠の喩え」との出会いだと記しています。<br />「東洋には、旅人が荒野で猛獣におびやかされる、という大へん古い寓話がある。」と始まります。<br />旅人は、狂った象から逃れようと焦り、目の前の空井戸に垂れ下がっていた藤蔓に飛び付き間一髪助かった。しかし、井戸の底には毒龍が大口を開けて待っていた。そこでやむなく足を井戸の側面に突っ張ろうとしたところ4匹の大きな毒蛇が今にも噛みつこうとしている。やがて藤蔓を握りしめて恐怖に震えている旅人の目の前に黒と白の鼠がどこからともなく現れ、蔓をかじり始めた。旅人はそれを見て、自分が死ぬ運命であることを悟った。<br />すると、恐怖と絶望のあまりポカンと開けた旅人の口にポタリポタリと5滴の甘い雫が入った。藤蔓の根元に蜂の巣があり、そこから蜂蜜がしたたり落ちたのだ。その美味しさに我を忘れた旅人は、もっと蜂蜜を舐めてやろうと努力しはじめた。<br />この話は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中で女の子が語る「蠍の火」の逸話とも共通するテーマです。

    参道
    苔の上に折り重なる散紅葉も情緒を湛えています。
    トルストイは宗教の世界に生きようとしたきっかけを『わが懺悔』で吐露しています。そのきっかけは、『法句譬喩経』にある「黒白二鼠の喩え」との出会いだと記しています。
    「東洋には、旅人が荒野で猛獣におびやかされる、という大へん古い寓話がある。」と始まります。
    旅人は、狂った象から逃れようと焦り、目の前の空井戸に垂れ下がっていた藤蔓に飛び付き間一髪助かった。しかし、井戸の底には毒龍が大口を開けて待っていた。そこでやむなく足を井戸の側面に突っ張ろうとしたところ4匹の大きな毒蛇が今にも噛みつこうとしている。やがて藤蔓を握りしめて恐怖に震えている旅人の目の前に黒と白の鼠がどこからともなく現れ、蔓をかじり始めた。旅人はそれを見て、自分が死ぬ運命であることを悟った。
    すると、恐怖と絶望のあまりポカンと開けた旅人の口にポタリポタリと5滴の甘い雫が入った。藤蔓の根元に蜂の巣があり、そこから蜂蜜がしたたり落ちたのだ。その美味しさに我を忘れた旅人は、もっと蜂蜜を舐めてやろうと努力しはじめた。
    この話は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中で女の子が語る「蠍の火」の逸話とも共通するテーマです。

  • 参道<br />こうした喩え話について、釈迦は次にように教えています。<br />「旅人が荒野を彷徨う」のは、私達は立派に賢く生きているつもりでいるが本当は果てしない迷いの生活をしていることを表す。<br />「狂った象に追いかけられる」のは、人は皆無常の風に吹かれていることの喩え。「空井戸と」は、人が楽しみにしている自分の生活や生死の深淵のこと。<br />「井戸の底にうごめく毒龍」とは、死のこと。<br />「4匹の毒蛇」とは、人間の体を構成している地水火風のこと。<br />「藤蔓」とは、命綱。<br />「黒と白の二鼠」は昼と夜、つまり時間。<br />「5滴の蜂蜜」とは、人の五欲の喩え。<br /><br />後ろ髪を引かれながら教林坊を後にします。<br />この続きは、情緒纏綿 近江逍遥⑤永源寺(エピローグ)でお届けいたします。

    参道
    こうした喩え話について、釈迦は次にように教えています。
    「旅人が荒野を彷徨う」のは、私達は立派に賢く生きているつもりでいるが本当は果てしない迷いの生活をしていることを表す。
    「狂った象に追いかけられる」のは、人は皆無常の風に吹かれていることの喩え。「空井戸と」は、人が楽しみにしている自分の生活や生死の深淵のこと。
    「井戸の底にうごめく毒龍」とは、死のこと。
    「4匹の毒蛇」とは、人間の体を構成している地水火風のこと。
    「藤蔓」とは、命綱。
    「黒と白の二鼠」は昼と夜、つまり時間。
    「5滴の蜂蜜」とは、人の五欲の喩え。

    後ろ髪を引かれながら教林坊を後にします。
    この続きは、情緒纏綿 近江逍遥⑤永源寺(エピローグ)でお届けいたします。

1042いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP