近江八幡・安土旅行記(ブログ) 一覧に戻る
紅葉の名所「臨済宗永源寺」は瑞石山(飯高山)と愛知川(音無川)の山中に寡黙に佇む古刹です。愛知川右岸に迫る断崖に建てられおり、山もみじが茂り、木々の彩りと寺の佇まいの調和が魅力の禅寺です。開山 寂室禅師の詩にも「屋後の青山、檻前(かんぜん)の流水」と詠われ、豊かな自然に抱かれた山紫水明な幽境です。<br />南北朝時代の後村上天皇の頃、近江国守護 佐々木六角氏頼が中国から帰国した寂室禅師を招いて建立した、近江路にある多くの名刹のうち唯一の禅寺であり、湖東きっての名刹です。しかも、初めから四来の修行者のために、一夏一冬、安禅弁道の場所として開かれた禅寺です。しかし、2度兵火(明応2年と永禄6年)に遭い焼失しており、現在の建物の多くは江戸時代中期以降に再建されたものです。<br />本尊は秘仏で「世継観世音菩薩」といい、氏頼の子 満高はこの観音様に祈願して世継ぎを授けられたと伝わります。また、日本遺産「琵琶湖とその水辺景観」を構成する文化財としても認定されています。<br />HPです。<br />http://eigenji-t.jp/

情緒纏綿 近江逍遥⑤永源寺(エピローグ)

595いいね!

2018/11/21 - 2018/11/21

3位(同エリア1177件中)

0

42

montsaintmichel

montsaintmichelさん

紅葉の名所「臨済宗永源寺」は瑞石山(飯高山)と愛知川(音無川)の山中に寡黙に佇む古刹です。愛知川右岸に迫る断崖に建てられおり、山もみじが茂り、木々の彩りと寺の佇まいの調和が魅力の禅寺です。開山 寂室禅師の詩にも「屋後の青山、檻前(かんぜん)の流水」と詠われ、豊かな自然に抱かれた山紫水明な幽境です。
南北朝時代の後村上天皇の頃、近江国守護 佐々木六角氏頼が中国から帰国した寂室禅師を招いて建立した、近江路にある多くの名刹のうち唯一の禅寺であり、湖東きっての名刹です。しかも、初めから四来の修行者のために、一夏一冬、安禅弁道の場所として開かれた禅寺です。しかし、2度兵火(明応2年と永禄6年)に遭い焼失しており、現在の建物の多くは江戸時代中期以降に再建されたものです。
本尊は秘仏で「世継観世音菩薩」といい、氏頼の子 満高はこの観音様に祈願して世継ぎを授けられたと伝わります。また、日本遺産「琵琶湖とその水辺景観」を構成する文化財としても認定されています。
HPです。
http://eigenji-t.jp/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス
利用旅行会社
クラブツーリズム

PR

  • 境内マップです。<br />http://eigenji-t.jp/<br />

    境内マップです。
    http://eigenji-t.jp/

  • 旦度橋(たんどばし)<br />愛知川に架かる赤い欄干がアクセントの旦度橋です。1932(昭和7)年に架けられました。<br />かつて永源寺の下は谷の両岸が戸の様に切り立った崖になっており、谷戸(たんど)と呼ばれていました。そこに架けられた「谷戸橋」が最初の名称です。これが江戸時代に旦渡橋に変わり、その後、1971(昭和46)年に現在の新橋が旧橋より下流5mの所に架けられました。その際、橋に携わった人の勘違いにより「旦度橋」と名盤に表示されたことにより地図上も旦度橋になっています。<br />愛知川は、鈴鹿山脈の滋賀県東部を流れる淀川水系の一級河川です。<br />鈴鹿山脈の御池岳、藤原岳、竜ヶ岳に水源を発する茶屋川と、御在所岳、雨乞岳、釈迦ヶ岳に水源を発する神崎川、御池岳を水源とする御池川が深い峡谷を刻みながら流れ下ります。神崎川源流の奥地では、かつて炭焼きが盛んであり、炭焼き窯の跡が多く見られます。<br />永源寺付近で茶屋川と神崎川が合流し北西へと流れを変えます。下流では彦根市と東近江市の境界線となりつつ琵琶湖へ注ぎます。

    旦度橋(たんどばし)
    愛知川に架かる赤い欄干がアクセントの旦度橋です。1932(昭和7)年に架けられました。
    かつて永源寺の下は谷の両岸が戸の様に切り立った崖になっており、谷戸(たんど)と呼ばれていました。そこに架けられた「谷戸橋」が最初の名称です。これが江戸時代に旦渡橋に変わり、その後、1971(昭和46)年に現在の新橋が旧橋より下流5mの所に架けられました。その際、橋に携わった人の勘違いにより「旦度橋」と名盤に表示されたことにより地図上も旦度橋になっています。
    愛知川は、鈴鹿山脈の滋賀県東部を流れる淀川水系の一級河川です。
    鈴鹿山脈の御池岳、藤原岳、竜ヶ岳に水源を発する茶屋川と、御在所岳、雨乞岳、釈迦ヶ岳に水源を発する神崎川、御池岳を水源とする御池川が深い峡谷を刻みながら流れ下ります。神崎川源流の奥地では、かつて炭焼きが盛んであり、炭焼き窯の跡が多く見られます。
    永源寺付近で茶屋川と神崎川が合流し北西へと流れを変えます。下流では彦根市と東近江市の境界線となりつつ琵琶湖へ注ぎます。

  • 大歇橋(だいけつきょう)<br />北山から流れる一水が愛知川と合流する谷川を幡桃渓と言い、この川に架かる石橋が大歇橋です。鈴鹿山脈の峰々を水源に琵琶湖へと流れる愛知川は、とても静かな流れをなしているところから「音無川」とも呼ばれています。かつてこの辺りに大歇亭があり正燈国師の真筆の額が掲げられていたそうですが、今は散失して橋の名だけが往時を偲ぶよすがとなっています。<br />橋の先の門前広場には出店が並んでいます。

    大歇橋(だいけつきょう)
    北山から流れる一水が愛知川と合流する谷川を幡桃渓と言い、この川に架かる石橋が大歇橋です。鈴鹿山脈の峰々を水源に琵琶湖へと流れる愛知川は、とても静かな流れをなしているところから「音無川」とも呼ばれています。かつてこの辺りに大歇亭があり正燈国師の真筆の額が掲げられていたそうですが、今は散失して橋の名だけが往時を偲ぶよすがとなっています。
    橋の先の門前広場には出店が並んでいます。

  • 羅漢坂<br />永源寺への入口となる大歇橋を渡ると現るのは120段余りの石段(羅漢坂)です。参道脇には大きな宝篋印塔が立ち、羅漢坂を登りつめると、 左手に釈迦や文殊、普賢像、十六羅漢の石仏が岩肌に刻まれています。これらは制作年代や作者も不詳ですが、歴代住持が祈念して彫られたものと伝わります。

    羅漢坂
    永源寺への入口となる大歇橋を渡ると現るのは120段余りの石段(羅漢坂)です。参道脇には大きな宝篋印塔が立ち、羅漢坂を登りつめると、 左手に釈迦や文殊、普賢像、十六羅漢の石仏が岩肌に刻まれています。これらは制作年代や作者も不詳ですが、歴代住持が祈念して彫られたものと伝わります。

  • 羅漢坂<br />羅漢坂の傍らには、眼鏡を掛けたお地蔵さんが佇みます。 <br />眼鏡を掛けると誰でも利発そうに見えますが、利発と言うよりも愛嬌の方が勝ります。合掌した手に念珠をかけ、眼鏡の奥から優しく見守っておられます。<br />それほど昔の石仏でもなさそうですが、何故、時代遅れの丸眼鏡を掛けさせたのでしょうか?<br />個人的には禅の円相をなぞらえたものと解釈しました。円相は、禅における書画のひとつで、図形の丸(円形)を一筆で描くものです。「円」は悟りや真理の象徴とされ、その解釈は見る人の感性に委ねられ、それ故に見る人の心を映し出す鏡でもあるとされます。

    羅漢坂
    羅漢坂の傍らには、眼鏡を掛けたお地蔵さんが佇みます。
    眼鏡を掛けると誰でも利発そうに見えますが、利発と言うよりも愛嬌の方が勝ります。合掌した手に念珠をかけ、眼鏡の奥から優しく見守っておられます。
    それほど昔の石仏でもなさそうですが、何故、時代遅れの丸眼鏡を掛けさせたのでしょうか?
    個人的には禅の円相をなぞらえたものと解釈しました。円相は、禅における書画のひとつで、図形の丸(円形)を一筆で描くものです。「円」は悟りや真理の象徴とされ、その解釈は見る人の感性に委ねられ、それ故に見る人の心を映し出す鏡でもあるとされます。

  • 羅漢坂<br />永源寺は、滋賀県東近江市永源寺高野町にある臨済宗永源寺派の大本山です。山号は「瑞石山」、南北朝時代の1361(興安元)年に近江国守護 佐々木六角氏頼がこの地に伽藍を創建し、入唐求法の高僧 寂室元光(正燈国師)を招いて開山したのが始まりです。当初は飯高山永源寺や山上寺と呼ばれ、寂室禅師の徳を慕って全国から集まった雲水は2千人を超え、56坊の末庵を擁しましたが、応仁の乱の頃には度々兵火にかかって衰微しました。<br />佐々木六角氏の滅亡後は、新たな庇護者を得るため1643(寛永20)年に後水尾天皇の命により一絲文守(いっしぶんしゅ:仏頂国師)を招いたことから東福門院(徳川和子)や彦根藩 井伊家の帰依を受け、昔日の盛観を取り戻しました。明治時代は政府の指導で臨済宗東福寺派になりましたが、その後、臨済宗の独立一派である永源寺派の大本山となり、専門道場を持ち、百数十の末寺を統轄して今日に至ります。

    羅漢坂
    永源寺は、滋賀県東近江市永源寺高野町にある臨済宗永源寺派の大本山です。山号は「瑞石山」、南北朝時代の1361(興安元)年に近江国守護 佐々木六角氏頼がこの地に伽藍を創建し、入唐求法の高僧 寂室元光(正燈国師)を招いて開山したのが始まりです。当初は飯高山永源寺や山上寺と呼ばれ、寂室禅師の徳を慕って全国から集まった雲水は2千人を超え、56坊の末庵を擁しましたが、応仁の乱の頃には度々兵火にかかって衰微しました。
    佐々木六角氏の滅亡後は、新たな庇護者を得るため1643(寛永20)年に後水尾天皇の命により一絲文守(いっしぶんしゅ:仏頂国師)を招いたことから東福門院(徳川和子)や彦根藩 井伊家の帰依を受け、昔日の盛観を取り戻しました。明治時代は政府の指導で臨済宗東福寺派になりましたが、その後、臨済宗の独立一派である永源寺派の大本山となり、専門道場を持ち、百数十の末寺を統轄して今日に至ります。

  • 羅漢坂<br />最上位置に釈迦三尊(脇侍は文殊菩薩、普賢菩薩)、その下に十六羅漢が鎮座して瞑想しておられます。<br />十六羅漢の中に、とてもいい表情をした石仏がおられます。目尻を下げ、おもいきり「ニカッ!」と笑った優しいお顔をなされています。<br /><br />永源寺の始まりは、寂室禅師が中国修行後に諸国を行脚して安土の桑実寺を訪ねていた折、近江守護職 佐々木六角氏頼が禅師に寺の創建を懇願したのがきっかけです。<br />禅師は、1290(正応3)年岡山県美作国勝山の藤原家に生まれ、一説には小野宮藤原実頼の後裔とされます。13歳で出家し、京都 東福寺や鎌倉 建仁寺で修行し、31歳で中国に渡って各地を巡り、天目山の中峰明本禅師に師事しました。寂室禅師の「寂室」は、幻住道人と号した中峰禅師から授けられた道号です。<br />俗世との交わりを一切絶って幽寂な山中で修行するという思想に影響を受け、天龍寺や建長寺など名刹からの誘いを断り、氏頼の懇願も断り続け、生涯黒衣の平僧で過ごそうとしました。諦めきれない氏頼は、最後に永源寺の地を禅師に見せました。禅師は氏頼の情熱に絆され、また、この地が中国留学中の天目山の光景と似ているのを気に入り、晩年の72歳で永源寺を開山し隠棲しました。その後、6年間で<br />禅師の徳を慕う修行僧が2千人も集まったそうです。<br />1367(貞治6)年に78歳で没。墓所は永源寺大寂塔 (開山堂)です。<br />後光厳天皇より円応禅師、昭和3年に昭和天皇より正燈国師の称号を贈られています。

    羅漢坂
    最上位置に釈迦三尊(脇侍は文殊菩薩、普賢菩薩)、その下に十六羅漢が鎮座して瞑想しておられます。
    十六羅漢の中に、とてもいい表情をした石仏がおられます。目尻を下げ、おもいきり「ニカッ!」と笑った優しいお顔をなされています。

    永源寺の始まりは、寂室禅師が中国修行後に諸国を行脚して安土の桑実寺を訪ねていた折、近江守護職 佐々木六角氏頼が禅師に寺の創建を懇願したのがきっかけです。
    禅師は、1290(正応3)年岡山県美作国勝山の藤原家に生まれ、一説には小野宮藤原実頼の後裔とされます。13歳で出家し、京都 東福寺や鎌倉 建仁寺で修行し、31歳で中国に渡って各地を巡り、天目山の中峰明本禅師に師事しました。寂室禅師の「寂室」は、幻住道人と号した中峰禅師から授けられた道号です。
    俗世との交わりを一切絶って幽寂な山中で修行するという思想に影響を受け、天龍寺や建長寺など名刹からの誘いを断り、氏頼の懇願も断り続け、生涯黒衣の平僧で過ごそうとしました。諦めきれない氏頼は、最後に永源寺の地を禅師に見せました。禅師は氏頼の情熱に絆され、また、この地が中国留学中の天目山の光景と似ているのを気に入り、晩年の72歳で永源寺を開山し隠棲しました。その後、6年間で
    禅師の徳を慕う修行僧が2千人も集まったそうです。
    1367(貞治6)年に78歳で没。墓所は永源寺大寂塔 (開山堂)です。
    後光厳天皇より円応禅師、昭和3年に昭和天皇より正燈国師の称号を贈られています。

  • 総門<br />寂室禅師は、弟子に対する最後の誡めとして、自らを埋葬した後、永源寺のある熊原の土地は氏頼に返上し、建物は地元高野村に付与し、弟子たちはそれぞれ「林下(主流派以外の寺院)」に散じ去れと述べています。禅師が永源寺に隠棲したのは、あくまでも氏頼との個人的な関係による一時的なことであり、決して「林下」としてのありようを曲げて権門の支援で布教することではありませんでした。それ故、禅師の死で氏頼との関係が消滅した際には、弟子たちにはそれに伴う柵を清算し、今まで通り山中や人里離れた禅寺で修行するよう誡めています。<br />因みに、「五山派」を「叢林」と呼んだのに対し、 その下の「叢林下」の意味で「林下」と呼びました。

    総門
    寂室禅師は、弟子に対する最後の誡めとして、自らを埋葬した後、永源寺のある熊原の土地は氏頼に返上し、建物は地元高野村に付与し、弟子たちはそれぞれ「林下(主流派以外の寺院)」に散じ去れと述べています。禅師が永源寺に隠棲したのは、あくまでも氏頼との個人的な関係による一時的なことであり、決して「林下」としてのありようを曲げて権門の支援で布教することではありませんでした。それ故、禅師の死で氏頼との関係が消滅した際には、弟子たちにはそれに伴う柵を清算し、今まで通り山中や人里離れた禅寺で修行するよう誡めています。
    因みに、「五山派」を「叢林」と呼んだのに対し、 その下の「叢林下」の意味で「林下」と呼びました。

  • 手水舎 洗耳水<br />総門の手前左横には、散紅葉を湛えた手水舎があります。手水鉢が耳の形をしているのが特徴です。<br />普通、手水は手を洗って身を清めるものですが、こちらの禅寺では「洗耳水(せんじすい=耳を洗う水)」と書かれています。境内に入る前に、俗世で聞いた噂話や邪な話などの溜まった垢を洗い流すという趣向のようです。<br />中国には「耳を洗う岩下の水」という逸話があります。堯皇帝の時代、名を許由(きょゆう)という清廉潔白な隠士が皇帝から天子の位を譲ろうと言われ、これを拒んで山に隠れ、汚れた言葉を聞いてしまったと言って汚れた耳を清水で洗ったと伝わります。

    手水舎 洗耳水
    総門の手前左横には、散紅葉を湛えた手水舎があります。手水鉢が耳の形をしているのが特徴です。
    普通、手水は手を洗って身を清めるものですが、こちらの禅寺では「洗耳水(せんじすい=耳を洗う水)」と書かれています。境内に入る前に、俗世で聞いた噂話や邪な話などの溜まった垢を洗い流すという趣向のようです。
    中国には「耳を洗う岩下の水」という逸話があります。堯皇帝の時代、名を許由(きょゆう)という清廉潔白な隠士が皇帝から天子の位を譲ろうと言われ、これを拒んで山に隠れ、汚れた言葉を聞いてしまったと言って汚れた耳を清水で洗ったと伝わります。

  • 総門<br />五本の定規筋のある袖塀を持つ風格のある四脚門です。1361(康安元)年に佐々木六角氏頼によって創建されましたが、1390(明徳元)年に兵火にかかり焼失。以後、1464(寛正5)年に第16代 虚白文玄禅師が再建したもので、現存の寺内の建造物では最古の建物です。<br />創建当初から袖塀に5本線が引かれていたのかは不明です。<br />総門の手前左側には、芭蕉の門弟 森川許六の大きな句碑があります。許六は、彦根藩の藩士で蕉門十哲の一人でした。<br />「白雲に迄も染入る 紅葉かな」。<br />右手の戒壇石には、「不許酒肉五辛入門内」と刻られています。酒や肉など臭いの強い物を持ち込んむと人の心を乱すことから、修行の妨げになるため禁じられています。「五辛」とは、葱(ねぎ)、葫(にんにく)、韮(にら)、薤(らっきょう)、蘭葱(ひる)を指します。

    総門
    五本の定規筋のある袖塀を持つ風格のある四脚門です。1361(康安元)年に佐々木六角氏頼によって創建されましたが、1390(明徳元)年に兵火にかかり焼失。以後、1464(寛正5)年に第16代 虚白文玄禅師が再建したもので、現存の寺内の建造物では最古の建物です。
    創建当初から袖塀に5本線が引かれていたのかは不明です。
    総門の手前左側には、芭蕉の門弟 森川許六の大きな句碑があります。許六は、彦根藩の藩士で蕉門十哲の一人でした。
    「白雲に迄も染入る 紅葉かな」。
    右手の戒壇石には、「不許酒肉五辛入門内」と刻られています。酒や肉など臭いの強い物を持ち込んむと人の心を乱すことから、修行の妨げになるため禁じられています。「五辛」とは、葱(ねぎ)、葫(にんにく)、韮(にら)、薤(らっきょう)、蘭葱(ひる)を指します。

  • 参道<br />総門を潜ると山門への参道が開かれます。<br />参道を覆うカラフルに彩られた楓は「紅葉のトンネル」と呼ぶのに相応しい景観です。<br /><br />永源寺の名は、佐々木六角氏頼が出家した時の法号「大慈恩寺殿 雪江崇永 大居士」の「永」と宇多天皇を祖とする近江源氏の血が流れている佐々木六角氏の「源」から名付けられています。<br />つまり、永源寺は、その根本となる寺名からも氏頼との深い繋がりを伝えています。

    参道
    総門を潜ると山門への参道が開かれます。
    参道を覆うカラフルに彩られた楓は「紅葉のトンネル」と呼ぶのに相応しい景観です。

    永源寺の名は、佐々木六角氏頼が出家した時の法号「大慈恩寺殿 雪江崇永 大居士」の「永」と宇多天皇を祖とする近江源氏の血が流れている佐々木六角氏の「源」から名付けられています。
    つまり、永源寺は、その根本となる寺名からも氏頼との深い繋がりを伝えています。

  • 山門<br />佐々木六角氏は、近江源氏と呼ばれた名門 佐々木氏が4つに分家した内のひとつです。<br />源平合戦で活躍した佐々木一族は源頼朝の信頼を得て勢力を築きましたが、承久の乱では一族の多くが上皇方についたために没落し、幕府方に付いた信綱が佐々木氏の主流となりました。その信綱には4人の息子がおり、信綱が没すると所領は4分割されました。<br />三男 泰綱は宗家を継いで近江守護職に任じられ、観音寺城を居城にして南近江一帯を支配しました。佐々木六角氏と名乗ったのは、泰綱が京都六角東洞院の屋敷を得たからと言われています。佐々木六角氏は、織田信長の観音寺城侵攻までは近江中世史の立役者でした。<br />一方、長男 重綱は坂田郡大原荘の地頭職を得て大原氏の祖となり、次男 高信は高島郡田中郷 朽木荘の地頭となって高島氏の祖となり、四男 氏信は近江北六郡と京極高辻にあった信綱の館を与えられて京極氏の祖となりました。<br />このように三男と四男が厚遇された背景には、両人の母が執権 北条泰時の妹であったことが寄与したと伝わります。その他にも、幕府による佐々木氏の勢力を削ぐための措置だったとの説もあります。

    山門
    佐々木六角氏は、近江源氏と呼ばれた名門 佐々木氏が4つに分家した内のひとつです。
    源平合戦で活躍した佐々木一族は源頼朝の信頼を得て勢力を築きましたが、承久の乱では一族の多くが上皇方についたために没落し、幕府方に付いた信綱が佐々木氏の主流となりました。 その信綱には4人の息子がおり、信綱が没すると所領は4分割されました。
    三男 泰綱は宗家を継いで近江守護職に任じられ、観音寺城を居城にして南近江一帯を支配しました。佐々木六角氏と名乗ったのは、泰綱が京都六角東洞院の屋敷を得たからと言われています。佐々木六角氏は、織田信長の観音寺城侵攻までは近江中世史の立役者でした。
    一方、長男 重綱は坂田郡大原荘の地頭職を得て大原氏の祖となり、次男 高信は高島郡田中郷 朽木荘の地頭となって高島氏の祖となり、四男 氏信は近江北六郡と京極高辻にあった信綱の館を与えられて京極氏の祖となりました。
    このように三男と四男が厚遇された背景には、両人の母が執権 北条泰時の妹であったことが寄与したと伝わります。その他にも、幕府による佐々木氏の勢力を削ぐための措置だったとの説もあります。

  • 山門(重文)<br />総門の先には巨大な山門が建っています。この門は、第142代 丹崖周桂禅師が山門がないのを嘆き、彦根城主 井伊家に図って1802(享和2)年に建造したものです。入母屋造、桟瓦葺、桁裄5間3戸、梁間2間、重層楼門が重厚な雰囲気を醸しています。<br />山門は、門の両側に上に登るための山廊が添えられているのですが、永源寺のものにはそれがなく、山と崖の間に挟まれた間に門を建てています。<br />尚、楼上には釈迦牟尼仏や文殊菩薩、普賢菩薩、十六羅漢像が奉安されていますが非公開です。1998年に大改修されています。

    山門(重文)
    総門の先には巨大な山門が建っています。この門は、第142代 丹崖周桂禅師が山門がないのを嘆き、彦根城主 井伊家に図って1802(享和2)年に建造したものです。入母屋造、桟瓦葺、桁裄5間3戸、梁間2間、重層楼門が重厚な雰囲気を醸しています。
    山門は、門の両側に上に登るための山廊が添えられているのですが、永源寺のものにはそれがなく、山と崖の間に挟まれた間に門を建てています。
    尚、楼上には釈迦牟尼仏や文殊菩薩、普賢菩薩、十六羅漢像が奉安されていますが非公開です。1998年に大改修されています。

  • 鐘楼<br />1772(安永元)年に再建された、袴腰、入母屋造、桟瓦葺、楼上に擬宝珠勾欄付廻縁、四方に花頭を散らした恰好のいい鐘楼です。<br />梵鐘は、戦争時に供出されましたが、1948(昭和23)年に再鋳されています。<br />

    鐘楼
    1772(安永元)年に再建された、袴腰、入母屋造、桟瓦葺、楼上に擬宝珠勾欄付廻縁、四方に花頭を散らした恰好のいい鐘楼です。
    梵鐘は、戦争時に供出されましたが、1948(昭和23)年に再鋳されています。

  • 経堂<br />1676(延宝4)年に第86代 南嶺禅師が再建された、方3間、宝形造、銅板葺の経堂です。<br />外観はシンプルですが、細部に至るまで多様な建築技法が用いられており、荘厳な雰囲気を有します。経堂には『明版大蔵経』が納められており、南嶺禅師が中国へ渡った際に譲り受けた経文です。

    経堂
    1676(延宝4)年に第86代 南嶺禅師が再建された、方3間、宝形造、銅板葺の経堂です。
    外観はシンプルですが、細部に至るまで多様な建築技法が用いられており、荘厳な雰囲気を有します。経堂には『明版大蔵経』が納められており、南嶺禅師が中国へ渡った際に譲り受けた経文です。

  • 方丈 (本堂)<br />安心寺と号し、佐々木六角氏頼によって創建されました。しかし、度重なる兵火や火災によって焼失し、現在の建物は1765(明和2)年に第112代 拙堂禅師の時、彦根城主 井伊家の援助により再建されたもので、桁裄8間、入母屋造、葦葺です。<br />琵琶湖の茅を葺いた方丈の屋根は国内屈指の広さ(約1000㎡)を誇り、本堂の重厚さも臨済禅の古刹の貫禄を示して誇らしげです。茅葺の屋根は厚さが1.5mもあるそうです。<br />室町時代初頭、武家社会の豪放さに対抗し、禅の閑かな豪放さを鈴鹿の山懐に抱かれたこの地から発信していたかのように感じられます。650余年の歴史の法灯は伊達ではありません。

    方丈 (本堂)
    安心寺と号し、佐々木六角氏頼によって創建されました。しかし、度重なる兵火や火災によって焼失し、現在の建物は1765(明和2)年に第112代 拙堂禅師の時、彦根城主 井伊家の援助により再建されたもので、桁裄8間、入母屋造、葦葺です。
    琵琶湖の茅を葺いた方丈の屋根は国内屈指の広さ(約1000㎡)を誇り、本堂の重厚さも臨済禅の古刹の貫禄を示して誇らしげです。茅葺の屋根は厚さが1.5mもあるそうです。
    室町時代初頭、武家社会の豪放さに対抗し、禅の閑かな豪放さを鈴鹿の山懐に抱かれたこの地から発信していたかのように感じられます。650余年の歴史の法灯は伊達ではありません。

  • 方丈 <br />扁額には山号「瑞石山」とあり、寂室禅師の遺誡(ゆいかい)の中では方丈を「茆庵(ぼうあん=茅葺庵)」と称しています。<br />「石」の文字には、「口」の上に点が付けられています。<br />

    方丈
    扁額には山号「瑞石山」とあり、寂室禅師の遺誡(ゆいかい)の中では方丈を「茆庵(ぼうあん=茅葺庵)」と称しています。
    「石」の文字には、「口」の上に点が付けられています。

  • 方丈 <br />山号「瑞石山」の右隣に掲げられた扁額です。<br />達筆すぎて読めません。<br />

    方丈
    山号「瑞石山」の右隣に掲げられた扁額です。
    達筆すぎて読めません。

  • 方丈には本尊 世継観世音菩薩が祀られています。秘仏として厨子の扉の奥に鎮座され、御開帳は四半世紀に一度だそうです。2016年に御開帳されていますので、当分拝めません。<br />この観音像には、開山にまつわる縁起が伝わります。<br />開山 寂室禅師が、中国での留学を終えて日本へ帰国する際、海上で嵐に遭いました。もはや海の藻屑かと思い、禅師が祈りを捧げたところ、海上に白衣の観世音菩薩が顕れ、ほど無くして濤風は鎮まり、無事に帰国することができした。<br />永源寺を開山したある日、東の峰から光明が輝き、禅師がそこを訪ねると、大きな石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。<br />「これは海上で難をお救い下さった観世音菩薩だ」と感嘆され、唐から仏師 悟都管を招き、かつて修行された中国の霊地の土で観音像を作らせ、その像の額の宝冠の中に件の小さな霊像を納めて本尊としました。<br />その観音像は、後世に「世継観音」と呼ばれるようになりました。寺伝によると、佐々木六角氏頼の子 満高が跡取りに恵まれず、この観音に一心に祈願したところ、世継を授かったという伝承に因むといいます。<br />以来、一心に念ずれば跡継ぎに恵まれ、子孫は安楽、会社は繁栄、功徳無量の霊験あらたかな観音様として篤い信仰を集めています。

    方丈には本尊 世継観世音菩薩が祀られています。秘仏として厨子の扉の奥に鎮座され、御開帳は四半世紀に一度だそうです。2016年に御開帳されていますので、当分拝めません。
    この観音像には、開山にまつわる縁起が伝わります。
    開山 寂室禅師が、中国での留学を終えて日本へ帰国する際、海上で嵐に遭いました。もはや海の藻屑かと思い、禅師が祈りを捧げたところ、海上に白衣の観世音菩薩が顕れ、ほど無くして濤風は鎮まり、無事に帰国することができした。
    永源寺を開山したある日、東の峰から光明が輝き、禅師がそこを訪ねると、大きな石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。
    「これは海上で難をお救い下さった観世音菩薩だ」と感嘆され、唐から仏師 悟都管を招き、かつて修行された中国の霊地の土で観音像を作らせ、その像の額の宝冠の中に件の小さな霊像を納めて本尊としました。
    その観音像は、後世に「世継観音」と呼ばれるようになりました。寺伝によると、佐々木六角氏頼の子 満高が跡取りに恵まれず、この観音に一心に祈願したところ、世継を授かったという伝承に因むといいます。
    以来、一心に念ずれば跡継ぎに恵まれ、子孫は安楽、会社は繁栄、功徳無量の霊験あらたかな観音様として篤い信仰を集めています。

  • 方丈 <br />佐々木六角氏頼が23歳の時に長男 義信が生まれるも、義信は僅か17歳で急死しました。その後、次男 満高が生まれたのは氏頼が44歳で没する前年のことでした。<br />一方、氏頼が永源寺を開基したのは、次男 満高が産まれる8年前のことでした。時系列から察し、氏頼が永源寺の観音様に「再び世継ぎが生まれますように」と祈ったとしても不思議ではありません。それも最晩年に産まれたのですから…。<br />つまり、満高が観音様に祈願して世継を授かったのではなく、氏頼が世継を授かったと考える方が自然です。もし満高が産まれていなければ、その跡取りの満綱もあったものではない訳ですから…。こうしたことから、他の旅行ブログでも氏頼と満高を混同して説明されているものが散見されます。<br />では何故、寺伝では主人公を敢えて満高としているのか?その謎解きに挑んでみましょう。<br />満高は幼少時から3代将軍 足利義満に近侍を許された愛童の1人とされ、余りに重用されていたために満高を義満の弟だと見る説もあります。それが真実なら、満高を氏頼の子であるかのように見せかけるために将軍家によって創作された壮大なフェイクニュースだったと言えるのでは?

    方丈
    佐々木六角氏頼が23歳の時に長男 義信が生まれるも、義信は僅か17歳で急死しました。その後、次男 満高が生まれたのは氏頼が44歳で没する前年のことでした。
    一方、氏頼が永源寺を開基したのは、次男 満高が産まれる8年前のことでした。時系列から察し、氏頼が永源寺の観音様に「再び世継ぎが生まれますように」と祈ったとしても不思議ではありません。それも最晩年に産まれたのですから…。
    つまり、満高が観音様に祈願して世継を授かったのではなく、氏頼が世継を授かったと考える方が自然です。もし満高が産まれていなければ、その跡取りの満綱もあったものではない訳ですから…。こうしたことから、他の旅行ブログでも氏頼と満高を混同して説明されているものが散見されます。
    では何故、寺伝では主人公を敢えて満高としているのか?その謎解きに挑んでみましょう。
    満高は幼少時から3代将軍 足利義満に近侍を許された愛童の1人とされ、余りに重用されていたために満高を義満の弟だと見る説もあります。それが真実なら、満高を氏頼の子であるかのように見せかけるために将軍家によって創作された壮大なフェイクニュースだったと言えるのでは?

  • 方丈 森周仙筆『紅葉鹿図』<br />森森周仙は江戸時代の絵師で、森周峰や森徹山らと同時代の森派のひとりと考えられていますが、詳しいことは判っていません。森派は江戸時代後期に活躍した大阪画壇の一派で、猿や鹿、猪、狸などの身近な動物の絵画を得意としていました。<br />森派の初代 森狙仙は初めは狩野派の勝部如春に師事しましたが、やがて円山応挙の影響から写生的なな画法に変わり、動物画を描くようになりました。猿画を描かせたら、応挙も及ばぬと言われた絵師です。応挙は、後に次のように語っています。「狙仙の猿画は、単なる写生ではない。迫真だ。いや、真を超えて古今無双だ」。そして、密かに狙仙の技法を徹底的に分析し、円山派の画風にとり入れています。

    方丈 森周仙筆『紅葉鹿図』
    森森周仙は江戸時代の絵師で、森周峰や森徹山らと同時代の森派のひとりと考えられていますが、詳しいことは判っていません。森派は江戸時代後期に活躍した大阪画壇の一派で、猿や鹿、猪、狸などの身近な動物の絵画を得意としていました。
    森派の初代 森狙仙は初めは狩野派の勝部如春に師事しましたが、やがて円山応挙の影響から写生的なな画法に変わり、動物画を描くようになりました。猿画を描かせたら、応挙も及ばぬと言われた絵師です。応挙は、後に次のように語っています。「狙仙の猿画は、単なる写生ではない。迫真だ。いや、真を超えて古今無双だ」。そして、密かに狙仙の技法を徹底的に分析し、円山派の画風にとり入れています。

  • 方丈 茶臼<br />井伊直弼が所有していた茶臼です。<br />直弼は「安政の大獄」の時の大老として知られていますが、茶人としての顔も持ちます。十四男に生まれ、「埋木舎」での不遇の時代に石州流茶道を学ぶと同時に過去の茶書を集め、研究し、その結果として記した『茶湯一会集』は、 彼の茶の湯の集大成と言える著作です。また、多くの茶道具を制作したことでも知られて います。 <br />また、この永源寺は直弼により復興されています。

    方丈 茶臼
    井伊直弼が所有していた茶臼です。
    直弼は「安政の大獄」の時の大老として知られていますが、茶人としての顔も持ちます。十四男に生まれ、「埋木舎」での不遇の時代に石州流茶道を学ぶと同時に過去の茶書を集め、研究し、その結果として記した『茶湯一会集』は、 彼の茶の湯の集大成と言える著作です。また、多くの茶道具を制作したことでも知られて います。
    また、この永源寺は直弼により復興されています。

  • 方丈 井伊直滋の甲冑<br />彦根藩井伊家 第2代当主 直孝の嫡男 直滋(1612~61年)の甲冑が特別展示されていました。2018年4月に永源寺で発見された、兜や具足、小手、すね当てなど8点です。朱漆が塗られ、「赤備え」と呼ばれる井伊家の甲冑の特徴が見られます。<br />直滋は剣が強く、文化人でもあり、井伊家の世継ぎとして3代将軍家光に取り立てられました。しかし、直孝が危機感を感じて藩主の座を譲らず、やがて俗世を離れて百済寺(東近江市)に出家して生涯を閉じたと伝わり、葬儀は永源寺で行われ、方丈には直滋の位牌が残されています。

    方丈 井伊直滋の甲冑
    彦根藩井伊家 第2代当主 直孝の嫡男 直滋(1612~61年)の甲冑が特別展示されていました。2018年4月に永源寺で発見された、兜や具足、小手、すね当てなど8点です。朱漆が塗られ、「赤備え」と呼ばれる井伊家の甲冑の特徴が見られます。
    直滋は剣が強く、文化人でもあり、井伊家の世継ぎとして3代将軍家光に取り立てられました。しかし、直孝が危機感を感じて藩主の座を譲らず、やがて俗世を離れて百済寺(東近江市)に出家して生涯を閉じたと伝わり、葬儀は永源寺で行われ、方丈には直滋の位牌が残されています。

  • 方丈 井伊直滋の甲冑<br />直滋は当主になれませんでしたが、兜には角のような「金の脇天衝(てんつき)」を立てる意匠が施されています。また、天衝も左右2本あり(長さ約50cm)、木地には金箔が施され、兜から外された状態で発見されています。同藩の家臣は天衝を兜の前部に取り付ける決まりがあり、家中の軍法で藩主だけが脇に立てることができたとされます。そうであれば、藩主にならなかった直滋のために藩主仕様の甲冑を作っていたことになります。これは、彦根藩の定説が覆る大発見と言えるのでは…。<br />同時に1692(元禄5)年に書かれた文書も発見され、井伊家の世話役から永源寺に宛て「江戸の屋敷の土蔵から(甲冑が)出てきた。焼くことも考えたが相談し、預ける」と記されています。

    方丈 井伊直滋の甲冑
    直滋は当主になれませんでしたが、兜には角のような「金の脇天衝(てんつき)」を立てる意匠が施されています。また、天衝も左右2本あり(長さ約50cm)、木地には金箔が施され、兜から外された状態で発見されています。同藩の家臣は天衝を兜の前部に取り付ける決まりがあり、家中の軍法で藩主だけが脇に立てることができたとされます。そうであれば、藩主にならなかった直滋のために藩主仕様の甲冑を作っていたことになります。これは、彦根藩の定説が覆る大発見と言えるのでは…。
    同時に1692(元禄5)年に書かれた文書も発見され、井伊家の世話役から永源寺に宛て「江戸の屋敷の土蔵から(甲冑が)出てきた。焼くことも考えたが相談し、預ける」と記されています。

  • 鈴鹿山脈を挟んで東側の三重県いなべ市にも永源寺の一部があったと伝わり、実際に永源寺跡とされる石垣が遺されています。<br />いなべ市の伝承では、永禄年間(1558~70年)に織田信長の家臣 滝川一益の軍勢が北伊勢地方の寺を焼き払いながら迫って来たため、いなべの永源寺の僧は兵火を逃れるため、寺の宝物などを持ち竜ヶ岳の南側にある鈴鹿山脈の石榑峠を越え、近江の永源寺へ逃れたとしています。近江の永源寺の記録には記されていないそうですが…。

    鈴鹿山脈を挟んで東側の三重県いなべ市にも永源寺の一部があったと伝わり、実際に永源寺跡とされる石垣が遺されています。
    いなべ市の伝承では、永禄年間(1558~70年)に織田信長の家臣 滝川一益の軍勢が北伊勢地方の寺を焼き払いながら迫って来たため、いなべの永源寺の僧は兵火を逃れるため、寺の宝物などを持ち竜ヶ岳の南側にある鈴鹿山脈の石榑峠を越え、近江の永源寺へ逃れたとしています。近江の永源寺の記録には記されていないそうですが…。

  • 禅語に「放下著(ほうげじゃく)」という言葉があります。<br />「放下」とは、「投げ捨てる、放り出す、捨て切る」の意です。「著」は命令の助辞、放下の意を強めるために用います。「放下著」とは、すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよということです。<br />因みに、老眼がきつくなると下品ながら「放下着」とも読めてしまします。<br />厳陽尊者が趙州に問う「一物不将来 (ふしょうらい) の時如何(何もかも捨て去って一物持っておりませんが、そんな時は如何致しましょう)」。<br />趙州「放下著(投げ捨ててしまえ)」。厳陽「已に是れ一物不将来、這の什麼をか放下せん(すでに何も持っていないのに、何を捨て去れと言われるのですか)」。<br />趙州「恁麼ならば即ち担取し去れ(それなら、担いでいきなさい)」。<br />余談ですが、西郷隆盛は、「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬ人が、一番扱い難い」と語りました。これは「放下著」を体得した人のことではなかったでしょうか?<br />何かと自己顕示欲の旺盛な昨今、「放下著」の語に参ずるのも必要かもしれません。

    禅語に「放下著(ほうげじゃく)」という言葉があります。
    「放下」とは、「投げ捨てる、放り出す、捨て切る」の意です。「著」は命令の助辞、放下の意を強めるために用います。「放下著」とは、すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよということです。
    因みに、老眼がきつくなると下品ながら「放下着」とも読めてしまします。
    厳陽尊者が趙州に問う「一物不将来 (ふしょうらい) の時如何(何もかも捨て去って一物持っておりませんが、そんな時は如何致しましょう)」。
    趙州「放下著(投げ捨ててしまえ)」。 厳陽「已に是れ一物不将来、這の什麼をか放下せん(すでに何も持っていないのに、何を捨て去れと言われるのですか)」。
    趙州「恁麼ならば即ち担取し去れ(それなら、担いでいきなさい)」。
    余談ですが、西郷隆盛は、「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬ人が、一番扱い難い」と語りました。これは「放下著」を体得した人のことではなかったでしょうか?
    何かと自己顕示欲の旺盛な昨今、「放下著」の語に参ずるのも必要かもしれません。

  • 長野県飯山市に「正受庵」という禅寺があり、高僧 正受老人(道鏡恵端禅師)が住していました。その老人が村人相手にやさしい言葉で語った教えに「一日暮らし」があります。因みに、老人は真田幸村の兄 信之の子とも伝わります。<br />「一日が一生だと思い、朝起きて晩寝るまで一所懸命に、しかも自然体で生きていきなさい」という教えです。<br />人生で一番大切なのは、今日ただいまの自分の心である。それを疎かにすれば、明日はない。今日をきちんと一生懸命に務めるように心がけなければ、明日も堕落した日になる。今日一日をしっかりと務め、明日もまたそのような一日がくるようにしなくてはならない。<br />ありがたいお言葉です。

    長野県飯山市に「正受庵」という禅寺があり、高僧 正受老人(道鏡恵端禅師)が住していました。その老人が村人相手にやさしい言葉で語った教えに「一日暮らし」があります。因みに、老人は真田幸村の兄 信之の子とも伝わります。
    「一日が一生だと思い、朝起きて晩寝るまで一所懸命に、しかも自然体で生きていきなさい」という教えです。
    人生で一番大切なのは、今日ただいまの自分の心である。それを疎かにすれば、明日はない。今日をきちんと一生懸命に務めるように心がけなければ、明日も堕落した日になる。今日一日をしっかりと務め、明日もまたそのような一日がくるようにしなくてはならない。
    ありがたいお言葉です。

  • 松尾芭蕉の句碑<br />方丈と法堂の間にある小さな囲い庭に、「開山お手植え」とされる紅白一対の老梅があります。その梅の間には、俳聖 松尾芭蕉の句碑「こんにゃくの さしみもすこし 梅の花」が立ちます。芭蕉が弟子の去来に宛てて亡くなった妹への追慕の思いを認めた句で、永源寺で詠んだものではないそうです。芭蕉の故郷の伊賀では、こんにゃくのさしみを仏前に供えるそうです。また、こんにゃくは、ウリや蕎麦切、豆腐、酒と並んで芭蕉の好物だったそうです。

    松尾芭蕉の句碑
    方丈と法堂の間にある小さな囲い庭に、「開山お手植え」とされる紅白一対の老梅があります。その梅の間には、俳聖 松尾芭蕉の句碑「こんにゃくの さしみもすこし 梅の花」が立ちます。芭蕉が弟子の去来に宛てて亡くなった妹への追慕の思いを認めた句で、永源寺で詠んだものではないそうです。芭蕉の故郷の伊賀では、こんにゃくのさしみを仏前に供えるそうです。また、こんにゃくは、ウリや蕎麦切、豆腐、酒と並んで芭蕉の好物だったそうです。

  • 松尾芭蕉の句碑<br />この句を墨書した軸を所蔵されている方から、「永源寺=こんにゃくの名所」&「梅の花」になぞらえ、句を石に刻んで寄進されたものだそうです。俳聖も草葉の陰で苦笑いしているかもしれません。<br />因みに、「永源寺こんにゃく」は、開山 寂室禅師が中国から蒟蒻芋を持ち込んだことに始まるとされます。この地方のこんにゃくは色が赤いのが特徴で、派手好みの織田信長が作らせたと伝わります。また、彦根藩の「赤揃え」に倣ったものとも伝えられます。この赤色は、三二酸化鉄という食品添加物の色素によります。

    松尾芭蕉の句碑
    この句を墨書した軸を所蔵されている方から、「永源寺=こんにゃくの名所」&「梅の花」になぞらえ、句を石に刻んで寄進されたものだそうです。俳聖も草葉の陰で苦笑いしているかもしれません。
    因みに、「永源寺こんにゃく」は、開山 寂室禅師が中国から蒟蒻芋を持ち込んだことに始まるとされます。この地方のこんにゃくは色が赤いのが特徴で、派手好みの織田信長が作らせたと伝わります。また、彦根藩の「赤揃え」に倣ったものとも伝えられます。この赤色は、三二酸化鉄という食品添加物の色素によります。

  • 瑞石<br />芭蕉の句碑の左手前には「瑞石」が安置されています。<br />この「瑞石」は、山号の由来となった世継観世音菩薩が出現されたと伝わる「霊石」です。方丈普請の際に礎となった飯高山の霊石を運ぶ際、数百人の人手が必要な重さにも拘わらず十数人で持ち上げることができ、そのうえ霊石が自ら動いたと伝わります。そのため、霊石は「瑞石」と名付けられました。<br />「瑞石」には「石」の文字の「口」の上に点が付けられています。これは『漢語大辞典』にある「石」の異体字で、こちらの禅寺では石が角張っているという意味で用いられています。山で採れた石は河原にある石のように丸くなっていないため、意図的に石に点を付けているそうです。

    瑞石
    芭蕉の句碑の左手前には「瑞石」が安置されています。
    この「瑞石」は、山号の由来となった世継観世音菩薩が出現されたと伝わる「霊石」です。方丈普請の際に礎となった飯高山の霊石を運ぶ際、数百人の人手が必要な重さにも拘わらず十数人で持ち上げることができ、そのうえ霊石が自ら動いたと伝わります。そのため、霊石は「瑞石」と名付けられました。
    「瑞石」には「石」の文字の「口」の上に点が付けられています。これは『漢語大辞典』にある「石」の異体字で、こちらの禅寺では石が角張っているという意味で用いられています。山で採れた石は河原にある石のように丸くなっていないため、意図的に石に点を付けているそうです。

  • 法堂(大雄宝殿)<br />1728(享保13)年に第104代 朴宗禅師が再建した、桁裄5間、梁間3間、寄棟造、桟瓦葺の建物です。正面には後水尾天皇が寄進された釈迦牟尼佛、迦葉尊者、阿難尊者の三尊像が安置されています。

    法堂(大雄宝殿)
    1728(享保13)年に第104代 朴宗禅師が再建した、桁裄5間、梁間3間、寄棟造、桟瓦葺の建物です。正面には後水尾天皇が寄進された釈迦牟尼佛、迦葉尊者、阿難尊者の三尊像が安置されています。

  • 法堂<br />芭蕉は大津の「幻住庵」に隠居を構えました。この庵の名は、芭蕉が門人の膳所藩士 菅沼曲水の叔父 幻住(げんじゅう)老人の住み捨てた庵を修理して住んだところから付けられたとの説があります。<br />一方、開山 寂室禅師の中国の師である中峰明本和尚の所縁の地に因んだとも伝えられています。その名とは、中峰和尚が住んでいた庵「斬江省の天目山 幻住庵」です。<br />永源寺には芭蕉と意外な接点があったようです。

    法堂
    芭蕉は大津の「幻住庵」に隠居を構えました。この庵の名は、芭蕉が門人の膳所藩士 菅沼曲水の叔父 幻住(げんじゅう)老人の住み捨てた庵を修理して住んだところから付けられたとの説があります。
    一方、開山 寂室禅師の中国の師である中峰明本和尚の所縁の地に因んだとも伝えられています。その名とは、中峰和尚が住んでいた庵「斬江省の天目山 幻住庵」です。
    永源寺には芭蕉と意外な接点があったようです。

  • 池<br />「永源寺」の文字が鏡文字になっています。ただし、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿のように左右の鏡文字ではなく、上下の鏡文字になっており、水鏡に映った文字が通常の文字に見えるようになっています。<br />この鏡文字には、禅問答のような深い意味があるのかもしれません。


    「永源寺」の文字が鏡文字になっています。ただし、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿のように左右の鏡文字ではなく、上下の鏡文字になっており、水鏡に映った文字が通常の文字に見えるようになっています。
    この鏡文字には、禅問答のような深い意味があるのかもしれません。

  • 大悲閣<br />法堂と開山堂の間には、聖観音菩薩を祀る小さな堂宇です。

    大悲閣
    法堂と開山堂の間には、聖観音菩薩を祀る小さな堂宇です。

  • 開山堂<br />1725(享保10)年に彦根藩主 井伊直惟より能舞台の寄進を受け再建された、桁裄3間、梁間4間、入母屋造、銅板葺、1間向拝付です。<br />本尊には開山 寂室禅師が祀られています。

    開山堂
    1725(享保10)年に彦根藩主 井伊直惟より能舞台の寄進を受け再建された、桁裄3間、梁間4間、入母屋造、銅板葺、1間向拝付です。
    本尊には開山 寂室禅師が祀られています。

  • 開山堂<br />大寂堂とも呼ばれ、扁額「大寂」は寂室禅師が師事した元の中峰明本の直系の大禅師である黄檗宗の祖 隠元の直筆とされます。また、天井からは墨絵の雲龍が静かに見下ろしています。<br /><br />禅語には「没蹤跡(もっしょうせき)」という言葉があります。元々は老子の言葉だそうですが、何事も虚心坦懐に行ない、執着もせず、心に跡を留めない生き方を意味します。<br />例えば、自分は素晴らしい資格を取ったとの思いがあると、その思いが痕跡となり、心に拘りが生まれ、自分を誇示したい気持ちが湧きます。この慢心を寂室禅師は徹底的に嫌いました。そうしたポリシーがあったからこそ、中峰禅師から授かった印可状にすら執着しなかったのです。また、その後の人生でも名利を離れ一所不住の生活を続けることができたのでしょう。

    開山堂
    大寂堂とも呼ばれ、扁額「大寂」は寂室禅師が師事した元の中峰明本の直系の大禅師である黄檗宗の祖 隠元の直筆とされます。また、天井からは墨絵の雲龍が静かに見下ろしています。

    禅語には「没蹤跡(もっしょうせき)」という言葉があります。元々は老子の言葉だそうですが、何事も虚心坦懐に行ない、執着もせず、心に跡を留めない生き方を意味します。
    例えば、自分は素晴らしい資格を取ったとの思いがあると、その思いが痕跡となり、心に拘りが生まれ、自分を誇示したい気持ちが湧きます。この慢心を寂室禅師は徹底的に嫌いました。そうしたポリシーがあったからこそ、中峰禅師から授かった印可状にすら執着しなかったのです。また、その後の人生でも名利を離れ一所不住の生活を続けることができたのでしょう。

  • 開山堂<br />「屋後の青山、檻前(らんぜん)の流水。 <br /> 鶴林(かくりん)の双趺(そうふ)、熊耳(ゆうじ)の隻履(せきり)。<br /> 又是れ空華(くうげ)、 空子を結ぶ。」<br />寂室禅師が死の直前にその境地を記した『遺偈 (ゆいげ)』です。(永源寺蔵:重文)<br />永源寺はこの句に尽きます。

    開山堂
    「屋後の青山、檻前(らんぜん)の流水。
     鶴林(かくりん)の双趺(そうふ)、熊耳(ゆうじ)の隻履(せきり)。
     又是れ空華(くうげ)、 空子を結ぶ。」
    寂室禅師が死の直前にその境地を記した『遺偈 (ゆいげ)』です。(永源寺蔵:重文)
    永源寺はこの句に尽きます。

  • 寂室禅師は、後光厳天皇から天龍寺に、将軍足利義詮から建長寺に招聘されましたが、いずれも固辞して永源寺で清貧の禅を貫きました。その精神性の高さ故か、筆跡には独特の力と美しさが宿るとされます。遺墨の中でも、その禅の境地を詠んだ『風撹飛泉詩 』を自書した墨跡はとりわけ美しいそうです。<br />仏教哲学者 西田幾多郎は禅師の脱俗的な生きざまを敬慕していましたが、この詩に感化されて書斎を「骨清窟」と名付けています。死んでから骨を谷川に捨ててくれたなら、さぞかし骨も清められるであろうという禅師の願望になびいています。<br />重文『風攪飛泉詩』<br />風攪飛泉送冷声(風、飛泉(滝)を攪(か)いて冷声を送る)<br />前峰月上竹窓明(前峰、月上りて竹窓明らかなり)<br />老来殊覚山中好(老来殊に覚ゆ山中の好きことを)<br />死在巌根骨也清(死して巌根に在らば骨也(ま)た清し) <br />この詩からも、寂室禅師が自然と共に生き、自然に溶け込んでいる姿が伝わってきます。

    寂室禅師は、後光厳天皇から天龍寺に、将軍足利義詮から建長寺に招聘されましたが、いずれも固辞して永源寺で清貧の禅を貫きました。その精神性の高さ故か、筆跡には独特の力と美しさが宿るとされます。遺墨の中でも、その禅の境地を詠んだ『風撹飛泉詩 』を自書した墨跡はとりわけ美しいそうです。
    仏教哲学者 西田幾多郎は禅師の脱俗的な生きざまを敬慕していましたが、この詩に感化されて書斎を「骨清窟」と名付けています。死んでから骨を谷川に捨ててくれたなら、さぞかし骨も清められるであろうという禅師の願望になびいています。
    重文『風攪飛泉詩』
    風攪飛泉送冷声(風、飛泉(滝)を攪(か)いて冷声を送る)
    前峰月上竹窓明(前峰、月上りて竹窓明らかなり)
    老来殊覚山中好(老来殊に覚ゆ山中の好きことを)
    死在巌根骨也清(死して巌根に在らば骨也(ま)た清し)
    この詩からも、寂室禅師が自然と共に生き、自然に溶け込んでいる姿が伝わってきます。

  • 『風攪飛泉詩』は、寂室禅師が諸方を行脚した後、暫く但馬の金蔵山に侘び住まいした時のものとされ、60歳頃の作とされます。死してなお、骨の髄まで清くなりたいという潔癖さには頭が下がります。<br />翻って、己はどうか?馬齢を重ねてきただけで、心は騒がしく身は欲望の澱に晒されたままです。さりとて、生没年も生没地も不詳の小野小町の辞世のように「吾れ死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 痩せたる犬の 腹を肥やさん」と自らの人生を自然生態系の中に置く覚悟もありません。<br />果たしてどんな落日を迎えるのやら…。

    『風攪飛泉詩』は、寂室禅師が諸方を行脚した後、暫く但馬の金蔵山に侘び住まいした時のものとされ、60歳頃の作とされます。死してなお、骨の髄まで清くなりたいという潔癖さには頭が下がります。
    翻って、己はどうか?馬齢を重ねてきただけで、心は騒がしく身は欲望の澱に晒されたままです。さりとて、生没年も生没地も不詳の小野小町の辞世のように「吾れ死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 痩せたる犬の 腹を肥やさん」と自らの人生を自然生態系の中に置く覚悟もありません。
    果たしてどんな落日を迎えるのやら…。

  • 隆盛を誇った佐々木六角氏が織田信長の侵攻によって滅亡したのは、瞬く間の出来事でした。<br />その顛末は次のようなものです。<br />将軍 足利義昭は、朝倉氏の家臣 明智光秀の仲介で岐阜城の織田信長を頼り、将軍家再興の助力を要請しました。湖北の浅井長政と同盟を結んでいた信長はこの要請を受け、義昭を奉じて上洛の途に着きました。しかし、湖南の佐々木六角承禎、義治(義弼)父子は、三好三人衆と手を結んでいたことや佐々木源氏の嫡流との誇りもあり、信長の上洛をよしとせず、観音寺城に立て籠もり、信長の上洛阻止を企てました。<br />これに対抗して信長は観音寺城を目指し、中山道を南下しました。こうして信長によって観音寺城の支城 和田山城が落とされると、他の支城は次々に無血降伏し、観音寺城の佐々木六角父子も甲賀へ敗走しました。こうして絶大な勢力を誇った佐々木六角氏も、たった1日、たった一城の敗戦により滅亡の憂き目を見ました。家臣たちも信長に攻められ雲散霧散したというのが定説です。

    隆盛を誇った佐々木六角氏が織田信長の侵攻によって滅亡したのは、瞬く間の出来事でした。
    その顛末は次のようなものです。
    将軍 足利義昭は、朝倉氏の家臣 明智光秀の仲介で岐阜城の織田信長を頼り、将軍家再興の助力を要請しました。湖北の浅井長政と同盟を結んでいた信長はこの要請を受け、義昭を奉じて上洛の途に着きました。しかし、湖南の佐々木六角承禎、義治(義弼)父子は、三好三人衆と手を結んでいたことや佐々木源氏の嫡流との誇りもあり、信長の上洛をよしとせず、観音寺城に立て籠もり、信長の上洛阻止を企てました。
    これに対抗して信長は観音寺城を目指し、中山道を南下しました。こうして信長によって観音寺城の支城 和田山城が落とされると、他の支城は次々に無血降伏し、観音寺城の佐々木六角父子も甲賀へ敗走しました。こうして絶大な勢力を誇った佐々木六角氏も、たった1日、たった一城の敗戦により滅亡の憂き目を見ました。家臣たちも信長に攻められ雲散霧散したというのが定説です。

  • 公益財団法人 仏教伝道協会主催の第1回「輝け!お寺の掲示板大賞2018」の大賞受賞作が「おまえも死ぬぞ」に決まりました。とてもインパクトがある言葉ですが、受賞者(投稿者)の中田さんは「生も死も同等にあること、特別なことで はなく当たり前の感覚として、自分に染 み込ませたいです」とコメントされています。<br />釈迦の教えを伝える原始仏典『サンユッタニカーヤ』には、「生まれたものが死なないということはあり得ない」と記されています。願蓮寺(岐阜県郡上市)では、この文言を基に岐阜教区でつくられた掲示伝道の用語集に載っていたものを掲示されたそうです。<br />因みに、願蓮寺は真宗大谷派の寺院で、蓮如の弟子となった地頭の家臣が1494(明応3)年に創立した古刹です。<br />http://www.bdk.or.jp/kagayake2018/publication.html

    公益財団法人 仏教伝道協会主催の第1回「輝け!お寺の掲示板大賞2018」の大賞受賞作が「おまえも死ぬぞ」に決まりました。とてもインパクトがある言葉ですが、受賞者(投稿者)の中田さんは「生も死も同等にあること、特別なことで はなく当たり前の感覚として、自分に染 み込ませたいです」とコメントされています。
    釈迦の教えを伝える原始仏典『サンユッタニカーヤ』には、「生まれたものが死なないということはあり得ない」と記されています。願蓮寺(岐阜県郡上市)では、この文言を基に岐阜教区でつくられた掲示伝道の用語集に載っていたものを掲示されたそうです。
    因みに、願蓮寺は真宗大谷派の寺院で、蓮如の弟子となった地頭の家臣が1494(明応3)年に創立した古刹です。
    http://www.bdk.or.jp/kagayake2018/publication.html

  • ここのライトアップは、控え目なのが救われます。<br />昼間とは一味違う幽玄な雰囲気の「もみじの里 永源寺」を満喫できました。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    ここのライトアップは、控え目なのが救われます。
    昼間とは一味違う幽玄な雰囲気の「もみじの里 永源寺」を満喫できました。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

この旅行記のタグ

関連タグ

595いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP