2018/11/15 - 2018/11/15
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ドクターキムルさん
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江の島稚児ヶ淵(https://4travel.jp/travelogue/11418303)にある芭蕉句碑の横から雄大な富士山が望めることがわかり、こうした芭蕉句碑などの石碑群が建てられている立地に対し、特別な場所であるような気がしてくる。
そのためか、永瀬覇天朗の句碑は、最初、この句碑は昭和12年(1937年)に桟橋のところに建てられたが、波浪で破損し、江の島俳句協会をはじめ湘南地域7市町の俳句協会の協力によって昭和36年(1961年)に再建された。しかし、その後、再建された句碑も、先代と同じ運命を辿り、台風で破損し、半分は流失し、半分だけ上の岩場に残っている。数奇な運命さえ感じる。
(表紙写真は芭蕉句碑「疑ふ那 潮能花も 浦乃春 はせを」)
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「龍燈松」碑。文化6年(1809年)に江戸・深川新地の五明楼喜兵衛が建立。
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石碑。詳細は不明。
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「題目碑」(服部南郭詩碑)。 服部南郭(天和3年(1683年)~宝暦9年(1759年))は儒学者で漢詩人。
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「天籟源美徳書」。
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佐羽淡齊詩文碑。
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「芭蕉の句碑・佐羽淡齊の詩碑・服部南郭の詩碑」。
「芭蕉の句碑・佐羽淡齊の詩碑・服部南郭の詩碑
芭蕉の句碑(右から2番目)は、握り飯の半面を押しつぶしたような素朴な碑型の河原石で、「潮墳」の碑と称されて観光客に親しまれています。青緑の色濃い自然石を程よく活用して「疑ふな 潮の花も 浦の春 はせを」と彫りこまれたこの句は二見ヶ丘(三重県)での作ですが、ここの自然環境に溶けあっています。
佐羽淡齊の詩碑(右から3番目)は野火で碑面が剥落していたものを4代目の子孫が再建したものです。淡齊は上州桐生の人で、大窪詩佛門下の詩人です。全国の名所旧跡を遍歴して百詩碑建立を図り、江の島の碑はその第1号として建てられました。
服部南郭(右から4番目)の詩碑は、島内では一番古い詩碑で、高さ95cm、幅35cm表に七言詩、背面に文化2年(1805年)これをこれを建立したと識語してあります。南郭は、京都に生まれ、江戸に出て、儒学者荻生徂徠の門に学び、柳沢吉保に仕え、詩文をもって知られた人です。江の島には幾度も来遊し、そのたびごとに、江の島にちなんだ詩をのこしましたが、この詩は南郭の快心の作といわれています。」
「服部南郭の詩碑(右から4番目)」、「幅35cm、表に」、「残しましたが」の間違い。 -
芭蕉句碑「疑ふ那 潮能花も 浦乃春 はせを」。元禄2年(1689)芭蕉(寛永21年(1644年)~元禄7年(1694年))の春の作。「潮墳」の碑とも。
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寛政9年(1797年)建立。
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八雲庵碑(宝暦2年(1752年)銘)。「遊江嶋」と題する漢詩。臥龍軒一梁書。八雲庵遊江嶋詩碑とも。
「寶暦二年壬申十一月日 臥龍軒一梁書」とある。1753年初頭である可能性もある。 -
「かながわの景勝50選 江の島稚児ヶ淵」。
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「稚児ヶ淵・永瀬覇天朗の句碑」。
永瀬覇天朗は、藤沢大坂町坂戸(現藤沢2-1)の銅鉄商・日野銀の主人の永瀬登三郎(明治6年(1873年)~昭和12年(1937年))で、大正~昭和初期の藤沢町(宿場地域)における文化人のひとりである。当時の地方俳諧の最先端を歩み、句集「覇天朗」を成した。この句碑は昭和12年(1937年)に桟橋のところに建てられたが、波浪で破損し、江の島俳句協会をはじめ湘南地帯七市町の俳句協会の協力によって昭和36年(1961年)に再建された。しかし、その後、台風で破損し、半分は流失し、半分だけ上の岩場に残っている。この台風は平成29年(2017年)10月下旬に日本に上陸した2号のことであろうか。 -
「桟橋に 波戦える. 時雨かな」の句碑の残骸(再建時)。
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「桟橋に 波戦える. 時雨かな」の句碑の残骸(再建時)。
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