2018/08/18 - 2018/08/18
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今川義元の統治下になった岡崎城を後方から支える城でしたが、永禄3年(1560年)5月、義元が桶狭間の戦いで討たれ、永禄8年(1565年)、今川氏を離反した松平家康によって攻略されました。(ウィキペディア)
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『吉田城の石膏模型』のタイトルがあった縮小模型の光景です。吉田城の復興鉄櫓は、昭和29年(1954年)の豊橋産業文化大博覧会の一環として建てられたことが紹介されていました。この石膏模型は、唯一残されたその当時のものです。日展審査員などを歴任した、『高木久成(1911~1996年)』氏による制作です。(同上)
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『21 吉田大橋』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1570年頃、酒井忠治が吉田川(豊川)に架けた吉田大橋(土橋)が始まりで、1590年以降、池田輝政が土橋を木橋にかけ替えたことが紹介されていました。東海道の重要な橋のため、江戸時代には幕府の直轄工事で維持・管理されてきたようです。(同上)
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『22 天下の奇祭・豊橋鬼祭(現代)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。940年に創建されたとされる『安久美神戸神明社の例祭』と紹介されていました。今川義元等、この地を治めた大名に庇護され、幼い頃の徳川家康も見物したことが紹介されていました。3枚の写真での紹介でした。(同上)
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『23 鬼祭(古図)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。こちらは3枚の古図による紹介でした。『鬼祭絵巻』の抜粋のようでした。それぞれの絵に、鬼に扮した人が描かれていました。(同上)
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『24 おんぞまつり(御衣祭)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。傘を差したグループは、女性と子供ばかりでした。『おんぞ(御衣)』は、新城市の赤引で造られた絹糸を、三ケ日の『初生衣(うぶぎぬ)神社』に運び、そこで織り上げられ、その布は、豊橋の湊町の神明社の裏の港から、伊勢神宮に運ばれたと解説してありました。(同上)
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『25 白山社祭礼1』のタイトルがあった説明パネルの光景です。新銭町の白山比咩(しらやまひめ)神社のお祭りが、『白山社祭』と呼ばれたことが紹介されていました。例祭では、神輿が吉田天神社と中柴諏訪社に渡御することも紹介されていました。白山比咩神社は、石川県白山市三宮町にある神社で、式内社、加賀国一宮で、末社は2千社程とされます。(同上)
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『26 白山社祭礼2』のタイトルがあった説明パネルの光景です。お祀りの模様が、二枚の古絵図で紹介されていました。上の絵には、花飾りを背負った行列が、下の絵には、幣で先導された神輿が描かれていました。(同上)
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『27 吉田駒曳銭』のタイトルがあった説明パネルの光景です。江戸時代の初期の1637年、幕府は全国8箇所に『鋳銭所』を指定し、『寛永通宝』を鋳造させました。その内の1箇所が吉田藩の白山権現者の境内に設けられ、『新銭町』の名前となりました。吉田藩が鋳造した『寛永通宝』のことは不明で、絵銭の『吉田駒曳銭』だけが今日確認されています。写真の『吉田駒曳銭』には、『吉田駒(?)』の文字と、動物らしい像が陽刻になっていました。(同上)
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吉田城の『本丸鉄櫓』から眺めた豊川の光景です。下流方向に、吉田大橋が見えていました。1570年頃、酒井忠治が土橋を作ったのが始まりで、その後、池田輝政が木橋に架け替えました。(同上)
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豊川が、大きく迂回する箇所の光景です。一級水系の本流で、平成17年(2005年)、全国一級河川の水質現況によれば、BOD平均値が全国20位(162河川中)となるなど清浄な水質の川であり、東三河地域における水がめともなっています。(同上)
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豊川の源流は、愛知県北設楽郡設楽町にある標高1152m段戸山です。ここから南流し、愛知県東部の山間部を流れ、長篠城址付近で宇連川を合わせ豊橋平野に流れます。豊川市行明町付近で豊川放水路を分け、豊橋市の西部でこれと再度合流しながら三河湾(渥美湾)に注ぎます。(同上)
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別の角度から紹介した、『吉田城の石膏模型』のタイトルがあった縮小模型の光景です。三の丸以内が表現された石膏模型で、本丸部分は、左上になります。(同上)
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『1 天守について』のタイトルがあった説明パネルの光景です。吉田城には、天守がなかったと言われてきましたが、数多くの絵図の中で、少なくとも7枚の絵図が、『本丸鉄櫓』を『天守』としていることが紹介され、四国の丸亀城を引用して、『本丸鉄櫓』が、『天守』とは呼ばれなかったものの、実質的には『天守』であったことを強調していました。(同上)
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床に設置された大きな地図の光景です。現在の豊橋市街図でした。左側に豊川、吉田城がその河畔にオレンジ色で記されていました。(同上)
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イチオシ
『本丸鉄櫓』内から眺めた、本瓦で葺いた屋根の光景です。三河地区は、『三州瓦』の生産で有名な地域です。石州瓦、淡路瓦と並ぶ日本三大瓦の一つとされます。発掘調査により、奈良時代から平安時代には当地で壺や皿とともに瓦が焼かれていた事が判明しています。(同上)
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『本丸鉄櫓』内から眺めた、『本丸跡』の光景です。かつては、四隅を櫓で守られた『本丸御殿』が置かれていました。先に紹介した『吉田城の石膏模型』には、本丸御殿も再現されていました。(同上)
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『本丸鉄櫓』内の展示室の光景です。この階には、『吉田城の石膏模型』が置かれていました。そのガラスケースが、中央やや右手に見えます。床に、現在の豊橋市の大きな地図が展示してあった階です。(同上)
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この階は、本丸の模型が置かれている2階になるようです。ガラスケースに入った本丸模型が左手に見えました。『酒井忠治(1527~1596年)』が織田信長から拝領した、皮の陣羽織(複製)もこの階に展示してありました。(同上)
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徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている酒井忠治について、補足説明しておきます。竹千代(徳川家康)が、今川義元の人質として駿府に赴く時、竹千代に従う家臣の中では最高齢者(23歳)で同行しました。永禄7年(1564年)には吉田城攻めで先鋒を務め、守将を撤退させ、無血開城の戦功を立て、戦後、吉田城主となりました。(同上)
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酒井忠治は、家康の主な戦いには全て参加し、その戦功については数えきれないほどです。天正14年(1586年)10月に家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されました。天正16年(1588年)10月、長男の家次に家督を譲って隠居しました。慶長元年(1596年)10月、京都桜井屋敷で死去しました。享年70でした。墓所は知恩院の塔頭・先求院にあります。(同上)
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顔を出しての記念撮影用に置かれたパネルの光景です。池田輝政公(1565~1613年)の座像でした。大垣城主、岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となった築城の名手です。天正18年(1590年)、豊臣秀吉により東三河4郡を統べる15万2千石の城主となり、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601年)に播州・姫路に移封されました。(同上)
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イチオシ
吉田城の夕焼光景でしょうか、空も川も赤く染められ、その中間にある吉田城も夕焼光景です。本丸鉄櫓の川沿いに、川手櫓があった時代の光景です。『赤い吉田城』の題名がありました。(同上)
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ここからは、鉄櫓の城内の見学を終え、その周辺の見学です。豊川の流れを眺めるのに好都合な場所に生まれ変わった、『武具櫓跡』の光景です。石標が建てられていました。(同上)
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北東側から眺めた、『本丸鉄櫓』の光景です。吉田城は、豊川と朝倉川を北の背後に控える、いわゆる『後堅固』と呼ばれる縄張りでした。鉄櫓の北側には、更に川手櫓が配置されていました。石垣からはみ出した部分は、石落しのようです。(同上)
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イチオシ
『武具櫓跡』から眺めた、豊川の光景です。江戸時代、川下に当たる吉田(現在の豊橋市中心部)を洪水から守るため、その上流に霞堤と呼ばれる不連続な堤防が建設されました。昭和に入り、治水のために豊川放水路事業が開始され、豊川放水路は昭和40 年(1965年)7 月に通水式を迎え、2015年に50周年の式典を迎えました。(同上)
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豊川では、洪水を霞から溢れさせることで中心市街地を水害から守ってきましたが、霞地区の農地開拓が進み、その被害も拡大してきました。そこ で、豊川流域の洪水被害を根本的に解決する手段として考え出されたのが、下流部に放水路を作り、洪水時にはこの二つの川で洪水調節を行う計画でした。こうして完成したのが、全長6.6kmの豊川放水路です。(同上)
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『北御多門跡』の光景になるようです。河川を背後にした縄張りの欠点は、背水の陣を強いられた時、渡河され、背後から本丸を直接攻撃される可能性があることです。このため、吉田城は本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く強固なものとしてその弱点を補っています。(同上)
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徳川家康は、豊川を後背地とする背水の陣となるのを嫌ったのか、本城として用いずに信任の厚い重臣の酒井忠次を吉田城代に任命しました。また、南方の田原城の城代に本多広孝を配置し、吉田城を中心として戸田氏や牧野氏、西郷氏などの東三河4郡の諸豪族を統率させました。(同上)
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『ようこそ吉田城へ』のタイトルがあったパンフレットの紹介です。上の絵は、浮世絵の『吉田』、下の写真は、模擬再建された『本丸鉄櫓』の光景です。(同上)
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同じく、『ようこそ吉田城へ』のタイトルがあったパンフレットの紹介です。『ご案内』と題されたページには、かつての縄張り図が紹介され、模擬再建された『本丸鉄櫓』内の2~4階の展示内容について紹介してありました。(同上)
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