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三河の名城巡りです。続日本百名城の吉田城と、この後、日本百名城の岡崎城にも立ち寄りました。吉田城は、戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われました。戦国時代には三河支配の重要拠点として機能し、江戸時代には吉田藩の政庁として役割を果たしました。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイド)<br />

2018夏、三河の名城(1/7):吉田城(1):名古屋から電車で豊橋へ、路面電車で吉田城へ

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2018/08/18 - 2018/08/18

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旅行記グループ 2018夏、三河の名城巡り

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旅人のくまさん

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三河の名城巡りです。続日本百名城の吉田城と、この後、日本百名城の岡崎城にも立ち寄りました。吉田城は、戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われました。戦国時代には三河支配の重要拠点として機能し、江戸時代には吉田藩の政庁として役割を果たしました。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイド)

交通手段
私鉄

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  • 名古屋から名鉄電車の終点の豊橋駅で降り、駅前からは路面電車に乗って豊橋市役所前で降りました。中央奥に見えるのが豊橋市役所の建物です。続日本百名城の吉田城は、三河東部の豊橋市にあります。写真中央奥に見える豊橋市役所は、吉田城址に建っています。(同上)

    名古屋から名鉄電車の終点の豊橋駅で降り、駅前からは路面電車に乗って豊橋市役所前で降りました。中央奥に見えるのが豊橋市役所の建物です。続日本百名城の吉田城は、三河東部の豊橋市にあります。写真中央奥に見える豊橋市役所は、吉田城址に建っています。(同上)

  • 歩道にあった、マンホール蓋の紹介です。岡崎城が図柄にされていました。その左手前が、手筒花火の光景です。手筒花火(てづつはなび)は、1メートルほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う勇壮な花火で、吹き上げる花火は、高さ10メートルを超えます。発祥は豊橋市の吉田神社と伝わります。(同上)

    歩道にあった、マンホール蓋の紹介です。岡崎城が図柄にされていました。その左手前が、手筒花火の光景です。手筒花火(てづつはなび)は、1メートルほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う勇壮な花火で、吹き上げる花火は、高さ10メートルを超えます。発祥は豊橋市の吉田神社と伝わります。(同上)

  • 背後に見える建物は、国の登録祐家文化財の豊橋公会堂の建物です。その屋根飾りに使われていた羽を広げた二羽の鷲像の展示光景です。今は、新しい鷲像が屋根を飾っています。中村與資平の設計で建設が開始され、1931年に竣工した鉄筋コンクリート造の建物です。外観はロマネスク様式を基調としています。(同上)

    背後に見える建物は、国の登録祐家文化財の豊橋公会堂の建物です。その屋根飾りに使われていた羽を広げた二羽の鷲像の展示光景です。今は、新しい鷲像が屋根を飾っています。中村與資平の設計で建設が開始され、1931年に竣工した鉄筋コンクリート造の建物です。外観はロマネスク様式を基調としています。(同上)

  • 『豊橋公園』の入口門付近の光景です。その脇に残る、吉田城址の豪壮な石積光景です。大きな鏡石の姿がありました。吉田城は、永正2年(1505年)、宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村(豊橋市今橋町)の入道ヶ淵に臨む岡に築城したのが始まりとされます。(同上)

    『豊橋公園』の入口門付近の光景です。その脇に残る、吉田城址の豪壮な石積光景です。大きな鏡石の姿がありました。吉田城は、永正2年(1505年)、宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村(豊橋市今橋町)の入道ヶ淵に臨む岡に築城したのが始まりとされます。(同上)

  • 吉田城址の豪壮な石積のズームアップ光景です。その前に建っていた石標には、『三の丸口門跡』の表示がありました。当初の築城目的は、西三河で勢力を広げつつあった安祥城の松平長親による東三河進出に備えるため、もしくは、その松平氏の縁戚としての友好関係を保持しながら渥美郡全域で勢いをつけていた戸田宗光を警戒するためのものと考えられています。(同上)

    イチオシ

    吉田城址の豪壮な石積のズームアップ光景です。その前に建っていた石標には、『三の丸口門跡』の表示がありました。当初の築城目的は、西三河で勢力を広げつつあった安祥城の松平長親による東三河進出に備えるため、もしくは、その松平氏の縁戚としての友好関係を保持しながら渥美郡全域で勢いをつけていた戸田宗光を警戒するためのものと考えられています。(同上)

  • 『到着櫓跡』とされる小山の光景です。かつての縄張図を参照しますと、『到着櫓』は九つあった櫓の一つで、二の丸を取り囲む土塁の上に位置していました。東側の『評定櫓』と西側の『到着櫓』で『二の丸口』の虎口を形成し、二の丸と、二の丸御殿の重要な守りとなっていたようです。(同上)

    『到着櫓跡』とされる小山の光景です。かつての縄張図を参照しますと、『到着櫓』は九つあった櫓の一つで、二の丸を取り囲む土塁の上に位置していました。東側の『評定櫓』と西側の『到着櫓』で『二の丸口』の虎口を形成し、二の丸と、二の丸御殿の重要な守りとなっていたようです。(同上)

  • 『到着櫓跡』とされる小山の周りの石積光景です。綺麗な切込み接ぎの石ガキでした。後代に積まれたもののようです。亀甲積と布積が合成されたような外観でした。(同上)

    『到着櫓跡』とされる小山の周りの石積光景です。綺麗な切込み接ぎの石ガキでした。後代に積まれたもののようです。亀甲積と布積が合成されたような外観でした。(同上)

  • 石垣の周りの土が踏み固められ、何となく『到着櫓跡』への登り口になっていた場所の光景です。その場所を足掛かりに『到着櫓跡』に登りました。(同上)

    石垣の周りの土が踏み固められ、何となく『到着櫓跡』への登り口になっていた場所の光景です。その場所を足掛かりに『到着櫓跡』に登りました。(同上)

  • 小高い築山風の中央に建てられていた『到着櫓跡』の石標のズームアップ光景です。何度か目にした石標ですが、小山に登って撮影したのは初めてです。(同上)

    小高い築山風の中央に建てられていた『到着櫓跡』の石標のズームアップ光景です。何度か目にした石標ですが、小山に登って撮影したのは初めてです。(同上)

  • 『到着櫓跡』の上から眺めた『二の丸跡』の光景です。周りは、『豊橋公園』の一部として整備されていました。散策路は、すべて簡易舗装されていました。(同上)

    『到着櫓跡』の上から眺めた『二の丸跡』の光景です。周りは、『豊橋公園』の一部として整備されていました。散策路は、すべて簡易舗装されていました。(同上)

  • 『到着櫓跡』の上からの見学を終え、振り返って眺めた『到着櫓跡』の光景です。周りに土塁があった痕跡は見当たりませんでした。(同上)

    『到着櫓跡』の上からの見学を終え、振り返って眺めた『到着櫓跡』の光景です。周りに土塁があった痕跡は見当たりませんでした。(同上)

  • 『二の丸』のエリアに設置してあった顕彰碑の光景です。大きな石標に『中村道太碑』の文字が記され、ブロンズのレリーフが嵌め込まれていました。元吉田藩士で、明治時代の実業家だった人です。(同上)

    『二の丸』のエリアに設置してあった顕彰碑の光景です。大きな石標に『中村道太碑』の文字が記され、ブロンズのレリーフが嵌め込まれていました。元吉田藩士で、明治時代の実業家だった人です。(同上)

  • 大きな石標に嵌め込まれていた、『中村道太碑』のブロンズ像のズームアップ光景です。中村道太は天保 7年(1836年)生まれで、明治24年に現役を引退し、大正10年(1921)86才で亡くなった実業家です。朝倉積金所、 第八国立銀行、 好問社学習所設立、初代渥美郡長、 丸善社長、 正金銀行初代、 明治生命発起人、東京米商会所頭取などを歴任した人です。(同上)

    大きな石標に嵌め込まれていた、『中村道太碑』のブロンズ像のズームアップ光景です。中村道太は天保 7年(1836年)生まれで、明治24年に現役を引退し、大正10年(1921)86才で亡くなった実業家です。朝倉積金所、 第八国立銀行、 好問社学習所設立、初代渥美郡長、 丸善社長、 正金銀行初代、 明治生命発起人、東京米商会所頭取などを歴任した人です。(同上)

  • 先程紹介した『中村道太碑』はよく目立つ顕彰碑でしたが、こちらも奇抜な造りの顕彰碑のようでした。『天保7年生まれ、吉田藩士、藩籍奉還の際、藩を代表して政府の受取使と交渉した』の文字で始まり、『大小10年、86歳の生涯を閉じた』と締め括られていましたから、こちらも中村道太顕彰碑でした。(同上)

    先程紹介した『中村道太碑』はよく目立つ顕彰碑でしたが、こちらも奇抜な造りの顕彰碑のようでした。『天保7年生まれ、吉田藩士、藩籍奉還の際、藩を代表して政府の受取使と交渉した』の文字で始まり、『大小10年、86歳の生涯を閉じた』と締め括られていましたから、こちらも中村道太顕彰碑でした。(同上)

  • 前方に本丸の周りの石垣が見えて来ました。三の丸口門から入場し、三の丸と二の丸を通過し、本丸の南側までやって来ました。(同上)

    前方に本丸の周りの石垣が見えて来ました。三の丸口門から入場し、三の丸と二の丸を通過し、本丸の南側までやって来ました。(同上)

  • 二の丸の北側と、本丸の南側に位置する土橋の袂付近の光景です。江戸時代の縄張図にも、木橋ではなく、土橋が描かれていました。土橋の南側(二の丸)には冠木門が、北側(本丸)には南御多門が置かれていました。(同上)

    二の丸の北側と、本丸の南側に位置する土橋の袂付近の光景です。江戸時代の縄張図にも、木橋ではなく、土橋が描かれていました。土橋の南側(二の丸)には冠木門が、北側(本丸)には南御多門が置かれていました。(同上)

  • 二の丸と本丸の間にある土橋の南側の袂から眺めた左手(西北側)方面の光景です。石垣の裾から、同じ傾斜の土塁が続いていました。その背後には、更に高石垣があり、南三御多門付近の守りが厳重だったことが窺われます。(同上)

    二の丸と本丸の間にある土橋の南側の袂から眺めた左手(西北側)方面の光景です。石垣の裾から、同じ傾斜の土塁が続いていました。その背後には、更に高石垣があり、南三御多門付近の守りが厳重だったことが窺われます。(同上)

  • 同じく、二の丸と本丸の間にある土橋の南側の袂から眺めた左手(西北側)方面の光景です。右手が本丸側、左手が二の丸側になります。空堀は落ち葉などで、かなり埋まっているように見えました。(同上)

    同じく、二の丸と本丸の間にある土橋の南側の袂から眺めた左手(西北側)方面の光景です。右手が本丸側、左手が二の丸側になります。空堀は落ち葉などで、かなり埋まっているように見えました。(同上)

  • 二の丸と本丸の間にある土橋の南側の袂から眺めた右手(東北側)方面の光景です。手前に見える石垣が空堀の北側、その奥に見える高石垣が、本丸を取り囲む石垣の一部になるようです。(同上)

    二の丸と本丸の間にある土橋の南側の袂から眺めた右手(東北側)方面の光景です。手前に見える石垣が空堀の北側、その奥に見える高石垣が、本丸を取り囲む石垣の一部になるようです。(同上)

  • 同じく、土橋の上から眺めた、右手(東北)方面の光景です。本丸の周りの石垣と空堀の光景です。左側が本丸、右側が二の丸になります。(同上)

    同じく、土橋の上から眺めた、右手(東北)方面の光景です。本丸の周りの石垣と空堀の光景です。左側が本丸、右側が二の丸になります。(同上)

  • 『吉田城』のタイトルがあった、真新しい説明看板の光景です。中央の絵図が彩色された『吉田城本丸・二の丸略絵図』、右下の図面が城内に残る8箇所の主な石垣の刻印、左下の絵図が、『東海道五十三次之内吉田』の浮世絵図です。(同上)

    『吉田城』のタイトルがあった、真新しい説明看板の光景です。中央の絵図が彩色された『吉田城本丸・二の丸略絵図』、右下の図面が城内に残る8箇所の主な石垣の刻印、左下の絵図が、『東海道五十三次之内吉田』の浮世絵図です。(同上)

  • 中央やや右下に見える石標には、『南御多門跡』の文字が刻まれていました。『二の丸』と『本丸』の間にあった門跡のようです。その周りに積まれた高石垣の光景です。(同上)

    中央やや右下に見える石標には、『南御多門跡』の文字が刻まれていました。『二の丸』と『本丸』の間にあった門跡のようです。その周りに積まれた高石垣の光景です。(同上)

  • 『南御多門跡』を潜って眺めた、『本丸跡』の光景です。正面奥に『模擬鉄櫓』が見えています。鉄櫓は、本丸の西北隅に位置していた隅櫓です。(同上)

    『南御多門跡』を潜って眺めた、『本丸跡』の光景です。正面奥に『模擬鉄櫓』が見えています。鉄櫓は、本丸の西北隅に位置していた隅櫓です。(同上)

  • 本丸の周りの石垣光景です。石段もオリジナルのもののようですが、危険防止のため、『立ち入り禁止』の表示と綱が張られていました。(同上)

    本丸の周りの石垣光景です。石段もオリジナルのもののようですが、危険防止のため、『立ち入り禁止』の表示と綱が張られていました。(同上)

  • 『本丸御殿跡』の文字が刻まれた石標の光景です。通路脇にひっそりと建てられていました。静岡県湖西市にある本興寺の静岡県指定有形文化財の奥書院と湖西市指定有形文化財の山門は、三河吉田藩主の久世氏により寄進されたものとされます。億書院は、本丸御殿か二の丸御殿の建物の一部のようです。(同上)

    『本丸御殿跡』の文字が刻まれた石標の光景です。通路脇にひっそりと建てられていました。静岡県湖西市にある本興寺の静岡県指定有形文化財の奥書院と湖西市指定有形文化財の山門は、三河吉田藩主の久世氏により寄進されたものとされます。億書院は、本丸御殿か二の丸御殿の建物の一部のようです。(同上)

  • 樹齢300年とされる、古樹の光景です。豊橋市の名木100選の一つ、『イスノキ(蚊母樹)』の光景です。マンサク科イスノキ属の常緑高木です。日本では関東以西、四国、九州、琉球列島に生育し、海外では済州島、台湾、中国南部に分布します。(同上)

    樹齢300年とされる、古樹の光景です。豊橋市の名木100選の一つ、『イスノキ(蚊母樹)』の光景です。マンサク科イスノキ属の常緑高木です。日本では関東以西、四国、九州、琉球列島に生育し、海外では済州島、台湾、中国南部に分布します。(同上)

  • 豊橋市の名木100選の一つ、『イスノキ(蚊母樹)』の前から眺めた、模擬鉄櫓の入口門付近の光景です。開館していることが目視できました。鉄櫓は月曜と歌謡が休みで、平日でも15時までですから注意が必要です。(同上)<br />

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    豊橋市の名木100選の一つ、『イスノキ(蚊母樹)』の前から眺めた、模擬鉄櫓の入口門付近の光景です。開館していることが目視できました。鉄櫓は月曜と歌謡が休みで、平日でも15時までですから注意が必要です。(同上)

  • イスノキの根元付近に建てられていた、『鉄櫓(くろがねやぐら)跡』の文字が記された、石標の光景です。イスノキは、材が非常に堅く、家具、杖の素材にされるほか、木刀の材料としても有名です。(同上)

    イスノキの根元付近に建てられていた、『鉄櫓(くろがねやぐら)跡』の文字が記された、石標の光景です。イスノキは、材が非常に堅く、家具、杖の素材にされるほか、木刀の材料としても有名です。(同上)

  • 『鉄櫓跡』の石標近くから眺めた、模擬鉄櫓の光景です。太平洋戦争後、三の丸内側は一部を除き豊橋公園として整備され、本丸には1954年(昭和29年)に隅櫓(鉄櫓)が模擬再建されました。後ほど紹介しますが、隅櫓(鉄櫓)の中は資料館となっています。入場は無料です。(同上)

    イチオシ

    『鉄櫓跡』の石標近くから眺めた、模擬鉄櫓の光景です。太平洋戦争後、三の丸内側は一部を除き豊橋公園として整備され、本丸には1954年(昭和29年)に隅櫓(鉄櫓)が模擬再建されました。後ほど紹介しますが、隅櫓(鉄櫓)の中は資料館となっています。入場は無料です。(同上)

  • 『鉄櫓』の前から眺めた、本丸の周りの光景です。吉田城は、2017年(平成29年)4月、続日本100名城の151番に選定されました。天下普請で改築され、名古屋城よりも広い縄張りを持つ城跡とされます。(同上)

    『鉄櫓』の前から眺めた、本丸の周りの光景です。吉田城は、2017年(平成29年)4月、続日本100名城の151番に選定されました。天下普請で改築され、名古屋城よりも広い縄張りを持つ城跡とされます。(同上)

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