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三河の名城巡り、吉田城の紹介です。戦国時代の築城当初には今橋城と呼ばれ、江戸時代に吉田城と呼び名が変わり、明治維新後には、吉田から豊橋の地名改名に伴い、豊橋城とも呼ばれました。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイド)

2018夏、三河の名城(3/7):吉田城(3):模擬鉄櫓、豊川、展示室、町家案内、大名行列

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2018/08/18 - 2018/08/18

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旅行記グループ 2018夏、三河の名城巡り

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旅人のくまさん

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三河の名城巡り、吉田城の紹介です。戦国時代の築城当初には今橋城と呼ばれ、江戸時代に吉田城と呼び名が変わり、明治維新後には、吉田から豊橋の地名改名に伴い、豊橋城とも呼ばれました。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイド)

交通手段
私鉄
  • 模擬鉄櫓から眺めた豊川の光景です。青空と白い雲が川面に写り込んでいました。右奥の方から流れてきた豊川が、大きく左側に湾曲し、写真には写っていませんが、右の方から小河川が合流する地点です。(同上)

    模擬鉄櫓から眺めた豊川の光景です。青空と白い雲が川面に写り込んでいました。右奥の方から流れてきた豊川が、大きく左側に湾曲し、写真には写っていませんが、右の方から小河川が合流する地点です。(同上)

  • 同じく、模擬鉄櫓から眺めた豊川の光景です。先程とほぼ同じ地点の光景です。右下に見える甍は、模擬鉄櫓のものです。(同上)

    同じく、模擬鉄櫓から眺めた豊川の光景です。先程とほぼ同じ地点の光景です。右下に見える甍は、模擬鉄櫓のものです。(同上)

  • 江戸時代に、幕府から各大名に義務付けされていた、『大名行列図』などです。大名家の石高に応じて、行列の規模などが決められていました。(同上)

    江戸時代に、幕府から各大名に義務付けされていた、『大名行列図』などです。大名家の石高に応じて、行列の規模などが決められていました。(同上)

  • 『行列図(部分)』のズームアップ光景です。上の図には『天王社祭礼巡行図』、左下の図には、『松平伊豆守行列図』、右下の図には『競馬図』のタイトルがありました。(同上)

    イチオシ

    『行列図(部分)』のズームアップ光景です。上の図には『天王社祭礼巡行図』、左下の図には、『松平伊豆守行列図』、右下の図には『競馬図』のタイトルがありました。(同上)

  • 『1 城下町・宿場町として発展した吉田』のタイトルがあった説明パネルの光景です。吉田が、城下町、宿場町、港町として発展してきた歴史の紹介と総括されていました。(同上)

    『1 城下町・宿場町として発展した吉田』のタイトルがあった説明パネルの光景です。吉田が、城下町、宿場町、港町として発展してきた歴史の紹介と総括されていました。(同上)

  • 『2 船町と田町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。船町は吉田24町の一つで、城下の西北隅に位置する、豊川下流の町です。田町は、その東に位置します。(同上)

    『2 船町と田町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。船町は吉田24町の一つで、城下の西北隅に位置する、豊川下流の町です。田町は、その東に位置します。(同上)

  • 『3 坂下町と上伝馬町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。坂下町は、田町の東端から東南に続く町で、戸数も少ない町と紹介されていました。上伝馬町は、坂下町の南に南北に続く町で、伝馬役を21匹負担し、西惣門があった場所と紹介されていました。(同上)

    『3 坂下町と上伝馬町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。坂下町は、田町の東端から東南に続く町で、戸数も少ない町と紹介されていました。上伝馬町は、坂下町の南に南北に続く町で、伝馬役を21匹負担し、西惣門があった場所と紹介されていました。(同上)

  • 『4 本町と札木町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。本町は、上伝馬町の南から東に折れた場所にあり、東西に長い町で伝馬役を15匹負担していたと紹介されていました。札木町は、吉田の中心街で、高札場があったことに因む名前です。1750年の記録では、戸数が51軒、人口が498人で、伝馬役を32匹負担していました。(同上)

    『4 本町と札木町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。本町は、上伝馬町の南から東に折れた場所にあり、東西に長い町で伝馬役を15匹負担していたと紹介されていました。札木町は、吉田の中心街で、高札場があったことに因む名前です。1750年の記録では、戸数が51軒、人口が498人で、伝馬役を32匹負担していました。(同上)

  • 『5 呉服町と曲尺手町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。呉服町は、札木町から大手門を横切って東に続く町で、通称が八軒町と紹介されていました。大手門脇には、吉田藩の御馳走屋敷があり、貴人が通過する時に接待していたと紹介されていました。曲尺手町は、呉服町の東に続く町で、ここで街並が曲尺のように90度折れ曲がっていたために付けられた、町の名前と紹介されていました。(同上)

    『5 呉服町と曲尺手町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。呉服町は、札木町から大手門を横切って東に続く町で、通称が八軒町と紹介されていました。大手門脇には、吉田藩の御馳走屋敷があり、貴人が通過する時に接待していたと紹介されていました。曲尺手町は、呉服町の東に続く町で、ここで街並が曲尺のように90度折れ曲がっていたために付けられた、町の名前と紹介されていました。(同上)

  • 『6 鍛冶町と下町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。鍛冶町は、曲尺手町の東に続く町で、その起源は1505年に遡り、牧野古白の徳上に伴う鍛冶職人の町と紹介されていました。『吉田鎌』が名産品となったことも紹介されていました。下町は、鍛冶町の東に続く町で、1750年での戸数は24軒、人口は127人と紹介されていました。(同上)

    『6 鍛冶町と下町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。鍛冶町は、曲尺手町の東に続く町で、その起源は1505年に遡り、牧野古白の徳上に伴う鍛冶職人の町と紹介されていました。『吉田鎌』が名産品となったことも紹介されていました。下町は、鍛冶町の東に続く町で、1750年での戸数は24軒、人口は127人と紹介されていました。(同上)

  • 『7 今新町と元新町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。今新町は、下町の東に続く町で、1750年での戸数は24軒、人口は127人と紹介されていました。今新町の東に続く町で、1750年での戸数は43軒、人口は143人と紹介されていました。位置図と詳細地図が添えてありました。(同上)

    『7 今新町と元新町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。今新町は、下町の東に続く町で、1750年での戸数は24軒、人口は127人と紹介されていました。今新町の東に続く町で、1750年での戸数は43軒、人口は143人と紹介されていました。位置図と詳細地図が添えてありました。(同上)

  • 『8 魚町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1750年の記録では、魚町は戸数119軒、人口608人で、吉田宿で最大の町で、魚問屋で栄えたと紹介されていました。(同上)

    『8 魚町』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1750年の記録では、魚町は戸数119軒、人口608人で、吉田宿で最大の町で、魚問屋で栄えたと紹介されていました。(同上)

  • 『9 伝馬朱印状』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1600年の関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康が、翌年正月から始めた東海道と宿場の整備の一つです。伝馬朱印状を通行手形としたようです。(同上)

    『9 伝馬朱印状』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1600年の関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康が、翌年正月から始めた東海道と宿場の整備の一つです。伝馬朱印状を通行手形としたようです。(同上)

  • 『10 悟真寺』のタイトルがあった説明パネルの光景です。かつては、吉田城の三の丸辺りにあった浄土宗のお寺と紹介されていました。葵のご紋を使ったお寺で、かつては家康、秀忠、家光らが宿泊、休憩した場所とも紹介されていました。(同上)

    『10 悟真寺』のタイトルがあった説明パネルの光景です。かつては、吉田城の三の丸辺りにあった浄土宗のお寺と紹介されていました。葵のご紋を使ったお寺で、かつては家康、秀忠、家光らが宿泊、休憩した場所とも紹介されていました。(同上)

  • 『11 湊町神明社』のタイトルがあった説明パネルの光景です。創建が白鳳期とされる古刹で、伊勢神宮とのかかわりが深い神社と紹介されていました。伊勢神宮に白絹布を奉納する儀式に因む『おんぞ(御衣)祭』は、吉田の三大祭りと紹介されていました。奉納品は、豊川の吉田湊から船で伊勢神宮に運ばれました。(同上)

    『11 湊町神明社』のタイトルがあった説明パネルの光景です。創建が白鳳期とされる古刹で、伊勢神宮とのかかわりが深い神社と紹介されていました。伊勢神宮に白絹布を奉納する儀式に因む『おんぞ(御衣)祭』は、吉田の三大祭りと紹介されていました。奉納品は、豊川の吉田湊から船で伊勢神宮に運ばれました。(同上)

  • 『12 キリスト教禁制』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1613年の幕府によるキリスト教弾圧が強まり、1628年、長崎で多くのキリスト教信者が処刑されました。1631年、吉田藩でもキリスト教信者が火あぶりの刑に処されたことが紹介されていました。(同上)

    『12 キリスト教禁制』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1613年の幕府によるキリスト教弾圧が強まり、1628年、長崎で多くのキリスト教信者が処刑されました。1631年、吉田藩でもキリスト教信者が火あぶりの刑に処されたことが紹介されていました。(同上)

  • 『13 吉田駅(宿)と高札場』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『駅』は、かつての飛脚や馬の中継所で、旅人の休憩・宿泊の場所の呼び名でしたが、後に『宿』の呼び名となったことが紹介されていました。『高札場』は、徳川幕府が農民や商人を取り締まる基本的な決まりを公示した場所のことです。(同上)

    『13 吉田駅(宿)と高札場』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『駅』は、かつての飛脚や馬の中継所で、旅人の休憩・宿泊の場所の呼び名でしたが、後に『宿』の呼び名となったことが紹介されていました。『高札場』は、徳川幕府が農民や商人を取り締まる基本的な決まりを公示した場所のことです。(同上)

  • 『14 吉田の名産』のタイトルがあった説明パネルの光景です。全国的に名が知られた名産品は、『吉田鎌』と、火打石の火種である『火口(ほくち)』と紹介されていました。その他に、吉田宿24町には含まれないものの、瓦町の『三州瓦』が名産とされ、右下の写真は、現存最古の大黒天の鬼瓦で、1689年の作です。(同上)

    『14 吉田の名産』のタイトルがあった説明パネルの光景です。全国的に名が知られた名産品は、『吉田鎌』と、火打石の火種である『火口(ほくち)』と紹介されていました。その他に、吉田宿24町には含まれないものの、瓦町の『三州瓦』が名産とされ、右下の写真は、現存最古の大黒天の鬼瓦で、1689年の作です。(同上)

  • 『15 吉田と花火』、『16 手筒花火』のタイトルがあった説明パネルの光景です。吉田神社の祇園祭の歴史は古く、平安中期の1124年に疫病が流行った時の『祇園会』が起源と紹介されていました。その吉田神社の神事が『手筒花火』です。(同上)

    『15 吉田と花火』、『16 手筒花火』のタイトルがあった説明パネルの光景です。吉田神社の祇園祭の歴史は古く、平安中期の1124年に疫病が流行った時の『祇園会』が起源と紹介されていました。その吉田神社の神事が『手筒花火』です。(同上)

  • 『手筒花火』の見本展示光景です。先程の説明パネルには、吉田神社の『奉納手筒花火』は神事として続けられ、中止となったのは、幕末に天皇が亡くなった時だけと紹介されていました。(同上)

    『手筒花火』の見本展示光景です。先程の説明パネルには、吉田神社の『奉納手筒花火』は神事として続けられ、中止となったのは、幕末に天皇が亡くなった時だけと紹介されていました。(同上)

  • 『17 吉田町中水払水道絵図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。江戸時代の1693年、吉田町内の水道が、後々、異論がないよう流路・堀幅等を吉田藩の役人に改めを受けたものをベースとして、1708年に流末が耕地化されたことで、新たに開削した部分を書き加えたものであることが紹介されていました。(同上)

    『17 吉田町中水払水道絵図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。江戸時代の1693年、吉田町内の水道が、後々、異論がないよう流路・堀幅等を吉田藩の役人に改めを受けたものをベースとして、1708年に流末が耕地化されたことで、新たに開削した部分を書き加えたものであることが紹介されていました。(同上)

  • 『18 魚町に残る能面』のタイトルがあった説明パネルの光景です。六面が写真紹介されていました。左上から時計回りに、『大天神(おおてんじん)』、『にべしみ』、『小飛出(ことびで)』、『平太(けいた)』、『姥(うば)』、『山姥(やまんば)』です。いずれも重要美術品の能面です。魚町には、能狂言の異称と面が360点残されていることも紹介されていました。(同上)

    イチオシ

    『18 魚町に残る能面』のタイトルがあった説明パネルの光景です。六面が写真紹介されていました。左上から時計回りに、『大天神(おおてんじん)』、『にべしみ』、『小飛出(ことびで)』、『平太(けいた)』、『姥(うば)』、『山姥(やまんば)』です。いずれも重要美術品の能面です。魚町には、能狂言の異称と面が360点残されていることも紹介されていました。(同上)

  • 『能面・小面(こおもて)』のズームアップ光景です。能面は、『翁(おきな)』、『尉(じょう)』、『鬼』、『男』、『女』の5種類に大別されます。『小面(こおもて)』は、若い女を表します。若い女性の面には、『小姫(こひめ)』、『万眉(まんび)』、『孫次郎(まごじろう)』、『若女(わかおんな)』や『増(ぞう)』、『増女(ぞうおんな)』など様々です。(同上)

    『能面・小面(こおもて)』のズームアップ光景です。能面は、『翁(おきな)』、『尉(じょう)』、『鬼』、『男』、『女』の5種類に大別されます。『小面(こおもて)』は、若い女を表します。若い女性の面には、『小姫(こひめ)』、『万眉(まんび)』、『孫次郎(まごじろう)』、『若女(わかおんな)』や『増(ぞう)』、『増女(ぞうおんな)』など様々です。(同上)

  • 『能面・般若(はんにゃ)』のズームアップ光景です。魚町能面同好会の原田さんの作品であることが記されていました。般若面は、『嫉妬や恨みの篭る女の顔』としての鬼女の能面とされます。(同上)

    『能面・般若(はんにゃ)』のズームアップ光景です。魚町能面同好会の原田さんの作品であることが記されていました。般若面は、『嫉妬や恨みの篭る女の顔』としての鬼女の能面とされます。(同上)

  • 『狂言面・鳶(とび)』のズームアップ光景です。魚町能面同好会の岩瀬さんの作品であることが記されていました。 天狗を表現し、鋭い口ばしを持ちます。 写実的ですが、滑稽感を秘めた狂言面とされます。(同上)

    『狂言面・鳶(とび)』のズームアップ光景です。魚町能面同好会の岩瀬さんの作品であることが記されていました。 天狗を表現し、鋭い口ばしを持ちます。 写実的ですが、滑稽感を秘めた狂言面とされます。(同上)

  • 『19 伊勢香炉としての吉田湊』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右上の図面が『海路の起点と吉田湊』、左上が『いせ出船所の旗』のタイトルがありました。その下の見開きの図絵には、『三河国名所図絵・伊勢出帆』のタイトルがありました。(同上)

    『19 伊勢香炉としての吉田湊』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右上の図面が『海路の起点と吉田湊』、左上が『いせ出船所の旗』のタイトルがありました。その下の見開きの図絵には、『三河国名所図絵・伊勢出帆』のタイトルがありました。(同上)

  • 『20 前芝灯明台』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1669年、吉田藩の御用船が、夜半に現在の蒲郡の三谷沖で暴風雨に逢い遭難したことが元で、その当時の藩主により造られたものと紹介されていました。名古屋市熱田区の『七里の渡しの宮灯台』とともに、愛知県指定史跡となっています。(同上)

    『20 前芝灯明台』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1669年、吉田藩の御用船が、夜半に現在の蒲郡の三谷沖で暴風雨に逢い遭難したことが元で、その当時の藩主により造られたものと紹介されていました。名古屋市熱田区の『七里の渡しの宮灯台』とともに、愛知県指定史跡となっています。(同上)

  • 試着用の能面・小面(こおもて)の紹介です。方面の顔には手を触れず、耳の部分を摘まむように持って顔に当て、目の位置を合わせるように説明されていました。試着して、自撮りが出来るようでした。(同上)

    試着用の能面・小面(こおもて)の紹介です。方面の顔には手を触れず、耳の部分を摘まむように持って顔に当て、目の位置を合わせるように説明されていました。試着して、自撮りが出来るようでした。(同上)

  • 南側方面から眺めた、吉田城の本丸部分の城郭模型の光景です。本丸の西北角に位置する、再建された模擬鉄櫓は、左奥の櫓になるようです。手前中央部分が、南御多門へ続く土橋になります。(同上)

    南側方面から眺めた、吉田城の本丸部分の城郭模型の光景です。本丸の西北角に位置する、再建された模擬鉄櫓は、左奥の櫓になるようです。手前中央部分が、南御多門へ続く土橋になります。(同上)

  • 『吉田城(本丸)復元模型』のひょぷじがあった部分から眺めた光景です。指導者の下で平成5年(1993年)に造られた、豊橋工業高校の建築科8名の皆さん達の作品であることが表示されていました。本丸御殿も復元されていました。(同上)

    『吉田城(本丸)復元模型』のひょぷじがあった部分から眺めた光景です。指導者の下で平成5年(1993年)に造られた、豊橋工業高校の建築科8名の皆さん達の作品であることが表示されていました。本丸御殿も復元されていました。(同上)

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