2018/08/18 - 2018/08/18
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旅人のくまさんさん
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三河の名城巡り、岡崎城の紹介です。菅生曲輪から東曲輪にかけての発掘調査を基に、長塀と東隅櫓が再建されたことで、随分と景観を含めて遺跡展示が改善されました。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)
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イチオシ
西の端から眺めた、東隅櫓と土塀の光景です。東隅櫓は、平成22年(2010年)に再建されました。この東隅櫓は、城の中核となる二の丸に繋がる切り通しを守る最後の砦です。岡崎城が解体された明治初頭まで存在していた櫓とされます。(同上)
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菅生曲輪から眺めた錦多方面の光景です。先程下りて来た石段が、写真中央付近に見えています。(同上)
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菅生曲輪から見上げた東隅櫓と土塀の光景です。近年の発掘調査を基に再建されました。背後の高層マンションの姿がありますので、東隅櫓の姿がどうしても霞んでしまいます。東隅櫓は、二重二層の望楼式の櫓です。(同上)
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少し東側に場所を変えて眺めた、東隅櫓と土塀の光景です。東隅櫓の高さは、約4.9メートルとされます。(同上)
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正面からズームアップした土塀の光景です。土塀の上から頭を出しているのは、場所を変えて再建された大手門ですが、元々はこの辺りには、『七間門』があったようです。土塀の右下に見えるのは、発掘調査された石垣の一部の展示です。(同上)
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他の場所でも紹介した、桜が咲く『岡崎公園案内』のカラフルなイラスト図です。この案内図は、菅生曲輪の中にありました。(同上)
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次に見学に向かったのは、東隅櫓の東にある『切通し』と呼ばれる、かつての東曲輪への通路です。東隅櫓の大切な役割は、その入口にあった『枡形門』を横矢掛けで守ることにあったようです。(同上)
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切通しの南の入口付近にやって来ました。両側に古い石垣が残された狭い通り道です。左上方面が『東隅櫓』になります。(同上)
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切通しの両側に積まれた石垣のズームアップ光景です。この辺りは野面積ではなく、表面加工をした、打込み接ぎと呼ばれる石積でした。(同上)
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切通しから見上げた、東隅櫓の光景です。切通しが残されていたおかげで、跡で再建された東隅櫓の役割がクローズアップされました。見晴をよくするため、樹木も伐採されていました。(同上)
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イチオシ
路面が完全舗装されて歩き易くはなっていましたが、周り石垣の光景とは、どうしてもしっくりこないものがありました。現代風の割り切った工法ではなく、今一つ工夫が欲しいところです。(同上)
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昔のままの石垣が残されているように思えた急坂の光景です。この辺り石積は、両側とも野面積と打込み接ぎを折衷したような石垣でした。(同上)
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登ってきた後で、振り返って眺めた切通しの光景です。両脇に工事用の手摺りが設けられ、路面の改修工事が行われていました。勝手な推測ですが、切通しの存在の重要性が再認識されたのかも知れません。仕上がりが、単なるセメント舗装でしたら、少しがっかりです。(同上)
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梵字(サンスクリット語)が記されているらしい石標の光景です。その下には、『浄瑠璃姫之墳』の文字がありました。前にも紹介したことがありますが、東海道が矢作川と交差する矢作の里には、牛若丸(源義経)と浄瑠璃姫の悲恋の物語が伝えられています。(同上)
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『浄瑠璃姫』の慰霊碑方面の光景です。中央奥に見えるのが慰霊碑のようです。浄瑠璃姫の遺跡は、岡崎の各所に点在します。姫の草庵の跡は、後に岡崎城の敷地となり、その後公園化された一角に浄瑠璃姫供養塔が置かれています。ここは、その慰霊碑がある場所になるようです。(同上)
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少しズームアップした、『浄瑠璃姫』の慰霊碑方面の光景です。姫が入水した川の傍には成就院が建立され、そこに浄瑠璃姫の墓があるようです。浄瑠璃姫の父の兼高長者の住まいがあったといわれる場所には、誓願寺が建てられ、そこにも浄瑠璃姫の墓が作られ、薄墨の笛も寺宝として残されています。先を急ぐ旅の身の義経が、我が身の代わりに浄瑠璃姫に渡したのが薄墨の笛です。(同上)
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手書きで日本語と英語で記された、浄瑠璃姫の悲恋の物語です。浄瑠璃姫は薬師如来の申し子と紹介されていました。浄瑠璃姫は、源氏の御曹司の牛若丸(源義経)と別れた後、恋慕のあまり菅生川に身を投げ、そのお墓は平泉に向けて建てられたと物語られていました。その姫の庵があった場所が、かつての岡崎城の浄瑠璃曲輪とも紹介されていました。正確なことは分かりませんが、この場所辺りになるようです。(同上)
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『初代・市川團藏碑』の文字が刻まれた立派な石碑の光景です。『初代・市川團藏(1684~1740年)』は、初代・市川團十郎の門弟だった人です。三河屋を名乗りました。現在は九世・ 市川團蔵(1951~)を名乗っています。(同上)
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『初代・市川團藏碑』の裏面の紹介です。八世・市川團蔵(1882~1966年)の名前で初代・市川團藏が紹介されていました。昭和18年(1943年)秋に、生誕260年を記念して建てられた石碑でした。(同上)
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『浄瑠璃姫之墳』があった場所の少し東側から南方向を眺めた光景になるようです。左手に見えるのが一段低くなった菅生曲輪、二の丸の東には東曲輪、更に外郭に三の丸があり、備前曲輪や浄瑠璃曲輪もありました。二の丸と菅生曲輪以外は、現地では、はっきりとした輪郭が分かりませんでした。都市化した部分もあるようです。(同上)
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『消火栓』のカラーマンホール蓋の紹介です。薄いピンク色のはしご車が描かれていました。滑り防止の突起が全面に設けられ、三角文様も滑り止め目的のようでした。(同上)
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こちらは、カラーマンホールではありませんでした。描かれているのは、岡崎城天守と乙川を行く、五万石船です。岡崎藩の歴代藩主は全て譜代大名であり、徳川氏より信任が厚く、縁も深い人物がほとんどです。石高は5万石以上でした。(同上)
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乙川に架かる橋の袂までやってきました。殿橋です。この場所からは、岡崎城の天守が、丁度木々に隠れてしまいました。(同上)
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乙川に架かる殿橋の欄干光景です。一番手前に金属細工で描かれていたのは、岡崎城天守と花火、乙川の五万石船と、三つ葉葵の御紋です。(同上)
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イチオシ
乙川に架かる殿橋の上からですと、小さくはなってしまいますが、岡崎城の天守を眺めることができます。乙川に面した右岸からは2015年(平成27年)、岡崎城の絵図にも描かれた江戸時代前期の石垣『菅生川端石垣(すごうがわばたいしがき)』が発見されました。発掘調査により総延長は400mに亘り、現存する城壁としては国内最長とされます。(同上)
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屋号が『たぬき』のようです。お店の前の真っ赤な暖簾と、赤い蝶ネクタイ姿で、笠を被った狸さんの石像の光景です。生ビールのポスターが張ってありましたから、飲み屋さんのようです。(同上)
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岡崎駅近くで飲んで帰る予定でしたから、つい、居酒屋さん風のお店に目が行きました。このお店には、『四国郷土料理・藁屋88』の提灯がありました。(同上)
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殿橋の袂付近で撮影しておいた岡崎市街図です。目的地の東岡崎駅も記されていました。発掘調査で確認された、400メートルの長さの『菅生川端石垣』は、地下3メートルにまで及び、地上部分を含めると最大5メートルで、敵の侵入を防ぐための射撃用の突出部『横矢枡形(よこやますがた)』が3箇所確認されました。(同上)
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明輝夫東岡崎駅近くの光景です。軽く飲むのには、丁度いい時間になって来ました。ワイン飲み放題のお店がありましたので、駅近くのその店に決めました。(同上)
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ワインを飲み終えた後で撮影した、岡崎駅前付近の光景です。JRの快速電車に乗れば、20分ほどで、名古屋の金山駅に到着します。(同上)
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