2018/08/18 - 2018/08/18
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旅人のくまさんさん
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三河の名城巡りです。吉田城は、永禄7年(1564年)に松平(徳川)家康が城を攻略し、城主に酒井忠次を置きました。 天正18年(1590年)、家康の関東移封により、池田輝政が15万2千石で入城したこともある名城です。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイド)
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『鉄櫓(黒金櫓)』の入口付近に掲示してあった、『吉田橋』のタイトルがあったパネルの光景です。浮世絵の吉田橋に、直木賞作家の宮城谷昌光さんの吉田橋を巡る松平家と今川家とのせめぎあいの解説が添えられていました。『風は参賀より』の第1巻の『今橋城より』の抜粋でした。(同上)
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城内に展示してあった吉田城の説明パネルの紹介です。始まりには『1 吉田城 築城から廃城まで』のタイトルがありました。少し拾い読みしますと、吉田城は1505年、牧野古白が『今橋城』を築いたのが始まりです。徳川時代には22代の譜代大名が吉田城主となり、出世の登竜門となりました、廃城は明治時代の1873年です。(同上)
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次は、『2 牧野古白と吉田城』のタイトルの説明パネルです。16世紀のこの地方は、飯宝郡の牧野氏、渥美郡の戸田氏、西三河の松平氏、駿河の今川氏の豪族が覇権を争いました。その中で今橋城(吉田城)を築いたのは、一色城主(現豊川氏)の牧野古白でした。牧野古白は、徳上の翌年討ち死にし、その後70年に亘って今橋城の争奪戦が繰り返されました。(同上)
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続いて、『3 吉田城争奪戦・古絵図より1』のタイトルの説明パネルです。上の絵図は、豊川側から眺めた吉田城です。築城後70年の間に8回の争奪戦が行われ、その内の三つが紹介されていました。
①天文15年(1546年)、今川義元による吉田城攻略。以降、家康に攻略されるまでの18年間支配しました。
?永禄7年(1564年)、徳川家康による吉田城攻略。10カ月にわたる戦いを制し、酒井忠治に奪った吉田城を守らせました。
③元亀2年(1571年)、武田信玄による吉田城攻撃。辛くも酒井忠治が護り抜きました。(同上) -
『4 吉田城争奪戦・古絵図より2』のタイトルの説明パネルです。上の絵図には、『東宮天王社・水神社・三本松牧野氏塚』の副題がありました。下の絵図の合戦図1には、船を打ち壊して決戦に臨む牧野新三が描かれているようです。(同上)
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『5 吉田城争奪戦・古絵図より3』のタイトルの説明パネルです。上の絵図が陣営を整えた、合戦図3、下の図が『走る馬』の副題がついた合戦図3です。(同上)
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『6 吉田城争奪戦・古絵図より4』のタイトルの説明パネルです。上の絵図の合戦図4には、『首を持つ、火縄銃』の副題がありました。下の絵図は、上半分に吉田城が描かれた合戦図5です。(同上)
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『7 酒井忠治と吉田城』のタイトルの説明パネルです。酒井忠治(1527~1597年)は、徳川四天王の筆頭で、家康の配下で初めて城を与えられたのが吉田城でした。写真のお洒落な陣羽織は、織田信長が与えたものです。織田・徳川連合で武田氏と戦った天正3年(1575年)の長篠の戦いの後、信長から『背に目を持つごとし』と賞賛されました。長篠の戦いでは、分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行、鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げました。(同上)
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『8 池田輝政と吉田城』のタイトルの説明パネルです。1564年に清州で生まれ、始め信長に仕えてからの出世物語が略述されていました。岐阜城主だった輝政を、15万2千石の大大名の吉田城主にしたのは、豊臣秀吉です。(同上)
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『9 吉田城の縄張り』のタイトルの説明パネルです。吉田城の縄張りは、豊川や朝倉川を背後に、本丸を基点として二の丸・三の丸を前面と背面に配した、『後ろ堅固の城』と紹介されていました。本丸を背後から攻めにくいように腰曲輪を設けているのも特徴です。お城の全体の範囲は、東西約1400メートル、南北600メートルに及ぶ84ヘクタールの広大な規模でした。(同上)
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『10 吉田城本丸、二之丸略絵図』のタイトルの説明パネルです。略絵図のタイトルですが、櫓などもかなり詳細に描かれた絵図です。豊橋市立中央図書館蔵の絵図です。(同上)
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『11 九つの櫓で構成』のタイトルの説明パネルです。縄張図から九つの櫓をピックアップしますと、本丸四隅の鉄櫓、入道櫓、辰巳櫓と千貫櫓の四つと北側の川手櫓を含めて五箇所。二の丸が西北の雷櫓と二の丸口の到着櫓と評定櫓の3箇所、三の丸の太鼓櫓を含めて九箇所です。(同上)
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『12 吉田城の鳥瞰図』のタイトルの説明パネルです。鉄櫓の位置に5重の大天守が描かれ、土塁の部分も石垣で表された鳥瞰図です。実際には存在しない理想形を描いた絵図と考えられています。(同上)
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『13 吉田城と武家屋敷』のタイトルの説明パネルです。上の絵図面には『吉田藩士矢敷図』のタイトルがありました。矢敷図が記されたのは三の丸を取り巻く区画で、その中には寺社も散在していました。(同上)
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『14 本丸・二之丸御殿図』のタイトルの説明パネルです。上の絵図には『御本丸御殿御屋形絵図』下の図面には『二の丸絵図』のタイトルがありました。いずれも現存しませんが、移築された建物が残っています。(同上)
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『14 吉田城図の天守』のタイトルの説明パネルです。鉄櫓の位置に、吉田城にはなかったとされる天守が記された絵図面です。この絵図面を含め、天主の記述のある絵図面は7枚あるようです。(同上)
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『16 三河・吉田図(諸国当城之図)』のタイトルの説明パネルです。堀、土塁等が色分けされ、一部の施設には規模の注記がある図面です。その注釈によれば、本丸の広さは1161坪、石垣の高さは1丈9尺と紹介されていました。1丈9尺は、約5.7メートルです。(同上)
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『17 吉田城・石垣の刻印(所在場所)』のタイトルの説明パネルです。刻印が見付かった12カ所が写真で紹介され、その場所が縄張り図に記されていました。吉田城で石垣が造られたのは本丸だけで、名古屋城の残石が使われた解説されていました。その根拠となった刻印です。(同上)
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『18 歴代の城主』のタイトルの説明パネルです。今川氏の命により築城したとされる初代の牧野古白(1505年)に始まり、最後は松平(大河内)信古(1849年)までが一覧で紹介されていました。池田輝政の15万2石が最高で、その後は10万石以上の例はありませんでした。(同上)
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『19 吉田の大橋』のタイトルの説明パネルです。上の絵図は、『三河国名蹟総録』の中の吉田大橋です。橋の架け替えは、江戸幕府の直轄工事だったようです。東海道では、岡崎の『矢作橋』、大津の『瀬田の唐橋』と並ぶ重要な橋とされたようです。(同上)
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『20 宝永地震破損所絵図』のタイトルの説明パネルです。170年に発生した宝永大地震の被害を取り纏め、江戸幕府に報告した絵図の写しとされます。本丸御殿をはじめ、二の丸、三の丸の櫓や建物、石垣や土塁などに大きな被害が出ました。本丸御殿は、この被害以降、再建されることはありませんでした。(同上)
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『21 明治期・大手門の写真』のタイトルの説明パネルです。明治初期に撮影された写真です。大手門は、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政(1565~1613年)が1594年に築いたと伝わります。輝政公は、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となり、姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことでも知られます。 (同上)
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『22 明治期・吉田城の写真』のタイトルの説明パネルです。お城の北側を流れる豊川の対岸(下地町付近)から、明治期に撮影された写真です。右手の川沿いに建っているのは川手櫓で、鉄櫓が既に無くなった後の写真のようです。(同上)
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『23 廃城』のタイトルの説明パネルです。1869年(明治2年)、最後の吉田藩主の松平(大河内)信古は版籍奉還を受入れ、新政府から藩名替えを命じられ、吉田改め、豊橋藩知事となったことなどが紹介されていました。写真右下の図面は、豊橋歩兵第18連隊時に使用した時の城内跡の平面図です。(同上)
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『24 甲冑』のタイトルの説明パネルです。右下に『紺糸縅腹巻(銘・明珍式部紀宗介)』の表示がありました。長く大河内家に伝わった甲冑で、1929年に安久美神戸神明社に寄贈された品と紹介されていました。左に記された文字は、この甲冑の各部名称です。当世具足ではなく、伝統的な具足と紹介されていました。(同上)
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『26 吉田城関連年表』のタイトルの説明パネルです。歴代城主のパネルと同様に、今川氏の命により築城したとされる初代の牧野古白(1505年)から始まっていました。締め括りは、最後の藩主の松平(大河内)信古による1869年(明治2年)の版籍奉還でした。2度の地震被害のことも記されていました。宝永4年(1707年)と、安政元年(1854年)の地震です。(同上)
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『25 明治期・吉田城の元家臣像』のタイトルの説明パネルです。明治16年(1883年)に撮影された旧藩士24名の記念写真です。全員裃の着物姿ですが、髷を結った人は既にいません。当時40~70代の方達と紹介され、大変珍しい写真とも紹介されていました。(同上)
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『模擬鉄櫓』内の展示状況です。再建された『模擬鉄櫓』を支える石垣は、池田輝政当時のものといわれます。吉田城に天守は無く、隅櫓の一つである鉄櫓が天守の代わりをしていたと考えられています。(同上)
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ケースに収まった、立ち姿の甲冑の展示です。由緒がありそうに見える、実線で使われたらしい甲冑でした。残念ながら、由来は分かりませんでした。(同上)
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三つ葉葵によく似た丸に酢漿草紋が入った陣羽織の展示光景です。その下には、赤と黒の亀甲紋が散らしてありました。丸に酢漿草紋は、酒井氏の紋として有名です。確認はできませんでしたが、革製の陣羽織と同様、酒井忠治が信長公から配慮した品でしょうか。(同上)
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