2018/05/10 - 2018/05/11
123位(同エリア309件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2018/05/11
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ロイヤルホテル大山を出発
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お菓子の壽城
この旅行記スケジュールを元に
旅行2日目、ホテルを出発してお菓子のテーマパーク「お菓子の壽城」で買い物。その後山陰海岸を西にひた走って島根県に入り、今回の旅行のメイン「足立美術館」に到着しました。
私も妻もかねてより一度は行ってみたいと思っていた美術館です。収蔵されている美術品もさることながら、日本庭園の素晴らしさ、美しさは評判通りで大満足でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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5月11日、旅行二日目。ホテルの朝食会場の様子です。
6時45分から会場に入れますが、会場が狭いのでツアー客が多いと混雑します。
座る席が無くなるので早めに行った方がいいでしょう。我々は6時50分ごろに行きましたが席はほとんど埋まっていました。幸運にも4人掛けの席がいくつか空いていたので席を確保して料理を選びにいきました。
ビュッフェスタイルですが、朝食の種類は多かったです。メルキュール鳥取大山リゾート&スパ 宿・ホテル
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朝食会場の様子。
メルキュール鳥取大山リゾート&スパ 宿・ホテル
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料理は和食と洋食から選べます。私は和食中心にチョイスしました。
今日は観光場所が多く長丁場になので朝食はしっかりいただくことにしました。
それでも海外旅行の時よりも少ないかな。今日の観光場所は「お菓子の壽城(地元名産品お買い物)」、「足立美術館」、「いずもまがたまの里伝承館(昼食)」、出雲大社、三次ワイナリー」です。メルキュール鳥取大山リゾート&スパ 宿・ホテル
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朝8時にホテルを出発しました。
写真は早朝の大山です。伯耆富士と呼ばれる大山は鳥取方面から見た方が山容が美しいです。大山(伯耆富士) 自然・景勝地
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最初の観光地は「お菓子の壽城」です。米子市にある寿製菓株式会社がお菓子のテーマパークとして平成5年4月にオープンした寿製菓の小売店舗です。
天守閣は米子城をモデルに造られたもので石垣の一部は米子城から移築して造られたそうです。
平成に建てられた天守は四層三階建てで、店内2階からエレベーターで3階の展望室に行けます。お菓子の壽城 グルメ・レストラン
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天守閣側から見た「お菓子の壽城」。(写真はホームページから借用しました。)
お菓子の壽城 グルメ・レストラン
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こちらの建物が店舗です。大きな看板が掲げてありました。
では中に入ってみましょう。 -
最初のコーナーは寿製菓の主力商品「とち餅」です。「とち餅」は丁寧にアク抜きしたとちの実をもち米とともに蒸して杵でついた後、地元の小豆で作った餡に合わせた和菓子です。
餡をとち餅で包んだものと、とち餅を餡で包んだものとの2種類があり、試食しましたが上品な味でどちらも美味しかったです。お菓子の壽城 グルメ・レストラン
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店内の様子。写真は土地の実茶と抹茶わらび餅のコーナー。
その他和菓子や洋菓子、ケーキの他に海産物の加工食品や地酒コーナー、果実加工食品などがありました。
和菓子や銘菓については全品試食ができます。
ガイドさんが勧めてくれたのが「すなば珈琲」です。鳥取県知事がダジャレで「当県は日本で唯一スタバは無いけれど砂場はある」との言葉から始まったと言われる鳥取県のご当地コーヒー店、ここでは1階と2階に店があります。
1階はテイクオフ専用で2階は喫茶店です。
すなば珈琲は飲みやすくて香りがよかったです。 -
土地の実の説明が書かれていました。
説明板の前に置いてあるのが土地の実です。私は初めて目にしました。
見た感じは栗に非常によく似ていますが、栗よりは一回り大きいそうです。 -
店舗の前には「とちの木」が植えてありました。
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白く咲いているのがとちの花です。
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「とちの木」の説明板。
ご当地銘菓の買い物を終え、島根県の安来市にある足立美術館に向かいました。 -
足立美術館に到着。専用の大型駐車場に駐車。平日にも関わらず多くの観光バスがすでに駐車していました。平日なら観光客が少ないだろうと想像していましたが、これは日程の選定を誤ったかもしれません。
早朝から観光できるように「お菓子の壽城」の観光をパスすればよかったのにと思っても後の祭りでした。
ガイドさんからは団体の予約時間が迫っているので急いで中に入るようにと急かされたので美術館入り口の写真を撮る暇がありませんでした。
入口から中に入ると廊下は観光客で一杯でした。我々の後から後からツアー客が押し寄せて来ます。
美術館の中ではガイドさんの説明はありません。1時間半の自由観光なので順路に沿って家族で見学しました。
ここは入口から入ってすぐ正面のガラス窓から見える景色です。
正面の庭が枯山水庭、右のこんもりした部分が苔庭です。足立美術館 美術館・博物館
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足立美術館の日本庭園は米国の「ジャーナル・オブ・ジャパニーズガーデニング」による庭園ランキングで15年連続日本一に選ばれている名園です。
創設者の足立全康氏は「庭園も一服の絵画である」という信念のもと、91歳で亡くなるまで心血を注がれたそうです。
枯山水庭をはじめ5万坪に及ぶ6つの庭園は四季折々にさまざまな表情を見せ、借景の自然の山々との調和は正に生きた日本画と言われています。
6つの庭園は「枯山水庭」、「苔庭」、「寿立庵の庭」、「白砂清松庭」、「池庭」、「亀鶴の滝」。
現在見えている庭が「枯山水庭」です。枯山水庭は足立美術館の主庭で庭園の中で最も大きな庭です。足立美術館 美術館・博物館
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「苔庭」。苔を主体とした京風の雅な庭園。緩やかな曲線を描いた苔の緑と、白砂の白との対比が美しいそうですが、訪れた時は苔は褐色で庭の大半が日陰になっていたため、説明に書かれた景色とは程遠いものでした。
この庭園を最上の状態で鑑賞するには訪れる時期や日の陰りを考慮して時間にも留意する必要があることを痛感しました。足立美術館 美術館・博物館
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「寿立庵の庭」。「寿立庵」は茶室で、その茶室に至る通路沿いの苔むした庭が「寿立庵の庭」です。
苔の状態は苔庭よりも良いようでした。 -
「寿立庵の庭」、茶室の前庭です。
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茶室寿立庵。
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寿立庵の説明。秋は茶室から眺める紅葉の景色が美しいようですね。
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「寿立庵の庭」のモミジ。紅葉の時期は美しいでしょうね。
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茶室寿立庵の次に見えてきたのが足立全康氏の銅像。銅像の背後の庭は「苔庭」です。
足立全康氏の略歴は以下の通り。
明治32年2月8日、現在の安来市古川町に生まれました。小学校卒業後すぐに生家の農業を手伝いますが、実を粉にして働いても報われない両親を見るにつけ、商売の道に進もうと決心します。
14歳の時、今の美術館より3㎞ほど奥の広瀬町から安来の港までの15㎞を大八車で木炭を運搬する仕事につきました。運搬をしながら思いついたのが炭の小売で、余分に仕入れた炭を安来まで運ぶ途中近在の家々に売り歩き、運賃稼ぎの倍の収入を得たことがいわば最初に手掛けた商いといえます。
その後紆余曲折様々な事業を興し、戦後大阪で繊維問屋、不動産関係などの事業の傍ら幼少の頃より興味を持っていた日本画を収集して、いつしか美術品のコレクターとして知られるようになっていました。また若い頃から何より好きであったという庭づくりへの関心も次第に大きくなっていきました。
そしてついに昭和45年、71歳の時に郷土への恩返しと島根県の文化発展の一助になればという思いで、財団法人足立美術館を創設しました。
(足立美術館HPより)
足立全康氏の自叙伝では・・・・。
小作農家の4人兄弟のただ一人の男として生まれる。幼少期は絵が大好きで身体は丈夫だが姉妹がいずれも成績優秀なのに彼だけは劣等生だった。小学校時代は気が弱くいじめられっ子で学校に行くのが嫌で嫌で仕方なかった。11歳の時に近くの雲樹寺という寺院の庭園を見て感動し、庭園への興味を覚えたという。
尋常小学校を卒業すると、父親は高等小学校へ進んだらどうかと言ってくれたのに本人は農業を継ぐことを希望して働き始めた。
炭を売り払った後の帰り道に、大八車が空であることに気付き赤貝を積んで帰って近所の店に卸したら利益が膨らんだ。こうして商売の妙味に興味を持つようになった。
16歳の時には人を雇って炭を運ばせ、商売を拡大した。こうして人を使って大金を得ることまで覚えた。
18歳の時に親戚の娘と結婚したが3か月で無理やり別れさせられという辛い経験をした。
20歳で松江の連隊に入隊。ひたすら上官のゴマスリに徹して村で初めての上等兵に昇進した。上官のゴマスリには徹したが、軍隊生活はまじめに務めたらしい。
除隊の後、大阪へ出て炭とタドンを扱う店に勤めた。懸命に働いて成績の良い売り手になると、タドンの製造方法を習った後に独立。タドンの製造販売を始めた。
商売は成功し故郷で事業を始めるために帰郷し23歳で結婚。
故郷で「山陰タドン合資会社」を設立したが地元では事業が拡大せず米の仲買に転業し、同時によろず屋(足立屋)を開業した。しかし手を広すぎたため24歳の時に事業に失敗し大阪に出向く。
まき直しを図るべく再び大阪に上京。バッタ屋とかかわりをつけ、倒産した会社や金繰りに困っている会社から割安で商品を仕入れ、田舎の商店に卸す仕事を始めた(28歳)。この商売が軌道に乗って米子の一等地に進出、「山陰地方繊維卸商」を設立した。この店は安売り店だったので店は大繁盛。その一方2番目の妻が死亡した。しかし商売は順調だったので余勢をかって35歳の時に大阪に進出、大阪でも「繊維卸商」を開業した。40歳の時に3人目の妻を娶るが戦時中の企業整備により廃業することとなり帰郷。足立美術館 美術館・博物館
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44歳の時に安来で陸海軍向けに軍刀を作るため「出雲刀剣株式会社」と「たまはがね製鉄会社」を設立。46歳の時敗戦により「出雲刀剣株式会社」を「株式会社大和利器製作所」と改称し48歳でその会社を譲渡。終戦後大阪に出て50歳の時再び繊維会社(丸全繊維株式会社)を設立し、副業として金融業や外車販売を行った。
この時期、心斎橋の骨董屋で横山大観の「蓬莱山」を見て深く感動する。ほとんど毎日この店に通いつめ、じっと眺める日が続いた。そして「きっと自分もこの絵を買い取ってやる」と決心したという。
52歳、「尼崎自動車工業株式会社」を購入し自動車販売業を併業する。
54歳の時には大同生命株式会社と共同出資で「新大阪土地株式会社」を設立し不動産業界に参入。そして58歳の時、念願の横山大観の作品を購入。さらに「新大阪地所株式会社」を設立し本格的に土地投資に踏み出す。まだ新大阪駅付近が田園地帯だったころ、次々と土地を買収していった。そして土地投資に成功し巨大な利益を手にした。
その後71歳の時に足立美術館を開館。
足立全康氏は足立美術館を独力で創建した人物ですが、巨大な企業を創設し大成功したような人物ではありません。いわば地方の中企業の社長といった感じでしょう。
早くから商才に恵まれましたが大成功するまでは波乱万丈の人生でした。その中で彼を成功に導いたのが横山大観の絵画でした。「自分も大観の絵が買えるようになりたい。」との一念が苦しい時の彼を支え成功への起爆剤になったのだと思います。
そして美術品の目利きと感性は一流でした。幼いころから絵を描くのが好きで上手だったそうです。若い頃から芸術的才能に目覚めていたのかもしれません。
写真は「苔庭」です。 -
そして見えてきたのが日本庭園でメインの「枯山水庭」。背後の山を借景として取り込んだ足立全康氏渾身の庭園です。
昭和45年、足立全康氏71歳の時に美術館が開館されましたが、当時わざわざ島根まで日本画を目当てに来る人は少なかったといいます。
そこで足立全康氏は客寄せの目玉の一つとして「日本一の庭園」を造ろうと考えましたが、そのこだわりが凄かった。
「枯山水庭」の借景となる背後の山は全て他人が所有する山でした。他人の山である限りいつ何時伐採などで風景が変わるかもかもしれない。
背景が変化すれば心血注いで造り上げた庭が死んでしまいます。「ならば、庭の借景となる山は残らず買い取ってしまえ。」
こうして全康氏の命令一下、周囲の山は買い占められました。現在庭園の規模はなんと5万坪に及ぶそうです。
さらに全康氏は大好きな横山大観の世界を庭で表現しようとしました。
横山大観の「白砂清松」をモチーフにしたのが「白砂清松庭」、名作「那智の瀧」をモチーフにしたのが「亀鶴の滝」です。
さらには床の間の掛軸のあった壁をくり抜いて「生の掛軸」とし、本当の景色が掛軸として見えるようにしました。
写真は「枯山水庭」の中央部分です。素晴らしい庭園ですが白砂に建物の屋根の影が映り込んでいました。この庭は緑と白砂の色の対比が素晴らしいのに、建物の影で魅力半減といったところでした。
現在は朝の9時30分です。庭の白砂に影を写していない時間というと何時頃なのでしょうか。
平日でも非常に混み合う美術館なので、旅行会社としては混まない時間帯(開館は朝9時です。)に入場予約したのでしょうが、まさか庭の白砂に影を落としているとは思いもしませんでした。足立美術館 美術館・博物館
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イチオシ
「枯山水庭」の中央部分。
借景の左の山が勝山。永禄年間(16世紀中頃)毛利元就と尼子義久が合戦した折、毛利方が陣を構えた山です。
その山から右に2つ目、コブのような山が京羅木山。標高473mでこの辺りの最高峰です。
中央左側の大きな岩は庭園の中心となる石で、滝口を持った峻厳なる山を表しているそうです。 -
中央部の右の景色。
美しい景色なのに何故か空に二筋の白い線がかかり景色が台無しでした。
庭の写真は建物のガラス越しに写していたので、ガラスに映り込んだ光かなと思いましたが、どうやら飛行機雲のようでした。
素晴らしい景色なのに邪魔者が悪さをしたようです。ただこれは写した写真で分かったことで、目視していた時には全く気付きませんでした。 -
それだけこの景色には魅せられて引き込まれていたのだと思います。
この写真はあくまでもガラス窓を通しての景色です。この庭園の素晴らしさ、美しさは写真などでは表現できません。
ぜひ自分の目で確かめていただきたい。ありきたりかもしれませんが、素晴らしい庭園です。
この庭園ではいつも同じ景色を見ることができると言われています。具体的にはどの庭木も枝ぶりや見える位置、角度が同じになるよう毎日朝庭師が細かく点検しているのです。
徹底した細かな管理体制が日本庭園を美しく保っているのです。
毎朝早朝に美術館の専属庭師が集合し、手分けして日本庭園を細かくチェックしていきます。この時点で枯れた小枝や松葉、葉などは取り除かれます。
さらに竹箒で白砂が掃き清められるそうです。
日本庭園で800本植えられている赤松は背の高さと枝の広がりは庭師によって抑えられますが、幹の太さだけは押さえることができず年々太くなっていきます。
そしてせっかく造った庭のイメージが変わってしまうことがあります。
そのため仮植場というスペースでストックを用意しています。5年もの、10年もの、20年ものなど様々な形や大きさの松を揃えています。赤松のストックは400本、日本庭園で使用している赤松の半数が別に用意されているのです。
いやー、すごい。驚きました。足立全康氏の庭園に対する思いと情熱はとてつも無く大きいことが分かります。 -
イチオシ
「枯山水庭」を左から順に見ていきましょう。
庭の左部分。 -
イチオシ
中央部分。枯山水庭の中心部分には縦長の岩があり、そこから流れる滝の水が緑の刈込や島の間を抜けながら、手前の白砂の海へ流れ着く様子を水を使わずに表現しています。
背後の山を借景にすることで、庭園を実際以上に広く奥行のあるものに見せています。足立美術館 美術館・博物館
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中央部分の右側。
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そして右端の景色です。右の赤松の奥に「亀鶴の滝」があるのですが、この角度からは見えません。
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アップにしてみましたが、やはり滝は見えませんでした。
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再び「枯山水庭」の全景。
足立美術館 美術館・博物館
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なんど見てもこの庭は素晴らしい。
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庭の配置図。
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同じく解説文。
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このように建物の中から庭を鑑賞しました。
この庭園は、庭の中を歩いて鑑賞するのでなく、部屋の中から絵画を鑑賞するように仕立てられていました。 -
まさに「庭園もまた一服の絵画である」。座って静かに鑑賞される方々もいらっしゃいました。
先ほどまでは日本人ツアー客や中国人ツアー客でごった返していましたが、写真を撮っている間に潮が引くようにツアー客は去って行き、静寂が戻って来た瞬間です。 -
「生の額絵」。「庭園もまた一服の絵画である。」、このコンセプトから設えられた額絵の窓です。
額絵となる窓はもっと横に広がっていたのですが、これ以上後ろに下がると人の姿が入り込んでしまうので、やむなく前で写した写真です。足立美術館 美術館・博物館
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同じ構図をアップにすると印象が変わりました。
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さらにアップにしてました。
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木を右に持って行くと額絵の景色がどう変化するか試してみました。
これ、私がよくやるカメラ遊び。 -
白砂が影でなければもっとコントラストが強調されたと思います。
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手前の白砂は、白砂として存在しなければ意味がないと思います。
この庭園を観光する場合は庭の白砂に影が映らない時間帯を選んで来るべきだと痛感しました。 -
この角度からは右端にある「亀鶴の瀧」が見えました。那智の滝をモチーフにしたと言われている滝です。
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アップにするとこんな感じ。
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遠景にすると瀧は見えにくいです。
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イチオシ
「生の額絵」。本館の見学を終えて出口に向かう途中、観光客がいなかったのでこれはチャンスだと写した写真です。
この額絵の隣には喫茶室「翠」があり、その向かいの壁には童画が展示されていました。
この童画が可愛いいですよ。娘はこれらの童画が一番のお気に入りでした。足立美術館 美術館・博物館
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庭園は写真が撮れますが、美術館内の美術品は全て撮影禁止です。そのためHPから借用しました。
林義雄の「こんにちは」です。
以下、林義雄の作品ですが、いずれもほんわかしていて、可愛くて、癒されます。
これらの作品はとても良かったです。足立美術館 美術館・博物館
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同じく「またきてね」。
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「天使のおひるね」
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「春の車」
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「森番さん」
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「枯山水庭」を過ぎると次は「池庭」です。
石橋から右の部分は美術館で一番古い部分で、昭和45年頃から作庭されたものです。昭和45年の開館時にはこちらが美術館入り口でしたが、昭和59年4月の「横山大観特別展示館」の増築に合わせて、池を中心とした庭園へと生まれ変りました。
池の水は地下水を使っており、冬場でも鯉は冬眠することなく泳いでいます。 -
池庭の中央部。ここが美術館で一番古い部分だそうです。
足立美術館 美術館・博物館
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池庭の左側。
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こちらは池庭の右側。
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「生の額絵」。背景は池庭です。
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池庭の側にある建物が足立全康氏の生家です。ここには「生の掛軸」と呼ばれる場所があるのですが、これは掛軸が飾ってあった床の間の壁を足立全康氏自らが金槌で穴を開けて「生の掛軸」にしたものです。
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こちらが「生の掛軸」です。ストロボを焚くと景色の色が飛ぶのではないかと思いノーフラッシュで写しましたが、景色が光ってしまい掛軸の様には見えませんでした。但し、これは写した写真の話。肉眼では掛軸のように見えました。
ここでの写真、写すのは順番待ちです。掛軸として見えているのは「白砂清松庭」の一部分なのですが景色の前の人が途切れることはありませんでした。足立美術館 美術館・博物館
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掛軸の景色がはっきりしないのでアップにして写した写真です。
これが生の掛軸の景色。 -
「生の掛軸」をフラッシュを焚いて写した写真がこれです。
フラッシュを焚けばこの様に見えるようです。本来の姿を知るためにHPから借用しました。 -
これは生の衝立ともいうべきものです。「生の掛軸」と同じように壁をぶち抜いて作ってありました。
この衝立は失敗作。衝立の中が光りすぎて景色がはっきりしません。 -
衝立の中の景色はこの様になっていました。
次回は「白砂清松庭」から出雲大社参拝の旅行記です。ご覧いただき有難うございました。
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