2018/05/10 - 2018/05/11
1230位(同エリア2160件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2018/05/10
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電車での移動
新幹線で岡山駅へ
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バスでの移動
岡山駅から下津井観光バスに乗り。姫路へ
この旅行記スケジュールを元に
5月の新緑の時期、久しぶりに1泊旅行を計画。妻は仕事の都合上中々長期の休みが取れないが1泊2日なら可能とのことでツアーを申し込みました。
そこで娘を誘ったところ一緒行きたいとのことで久々の家族旅行となりました。家族で旅行するのは実に13年振り。子供たちが大学進学すると部活などで日程の調整ができず、それぞれが他県に就職するとお盆や正月に集まることさえ難しくなりました。
今回の参加は娘だけですが、どんな旅行になるか楽しみです。一番楽しみにしていたのは妻かもしれません。
この度の旅行は中国地方のうち鳥取県、島根県、広島県の3県と兵庫県を巡る旅です。
観光先は姫路城、鳥取砂丘、足立美術館、出雲大社、三次ワイナリーで、初日は姫路城と鳥取砂丘です。娘はいずれも初めて訪れる場所なので、期待感が高まっていたようです。
<旅程>
5月10日
ーJR岡山駅ー姫路(姫路城)-鳥取砂丘ー大山(泊)
5月11日
大山ーお菓子の寿城ー足立美術館ーいずも勾玉の里伝承館ー出雲大社
ー三次ワイナリーーJR広島駅ー帰宅
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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5月10日 旅行一日目
JR新幹線で岡山駅へ。今回のツアーはJR博多駅発の新幹線に参加者が最寄りの駅から乗車し参加する方式でした。
写真は到着したJR岡山駅のホーム。なんと山陽新幹線で走っている新幹線エヴァンゲリオンが停車していました。 -
JR西日本の500系新幹線エヴァ。ラストランは5月13日なので丁度いいタイミングで出会えました。
ラストラン間近という事で多くの鉄道ファンからカメラのシャッターが切られていました。 -
500系タイプのエヴァ(エヴァンゲリオン)は山陽新幹線では見納めになります。この後はハローキティちゃんが走るそうです。
さて岡山駅の改札を出て観光バスに乗りましたが、観光バスは下津井電鉄でした。
ガイドさんはガイド歴うん十年の超ベテラン、現在は再雇用で勤務されている方で素晴らしいガイドさんでした。
岡山駅前から観光バスに乗り一路姫路に向かいました。 -
姫路城内堀沿いにある駐車場にバスは停車し、そこからは歩きでした。
姫路城の観光は今回で3回目、2回は伴に昭和の時代にきました。2回ともJR姫路駅から城まで徒きましたが、15分くらいで城に到着したと記憶しています。
1回目は高校2年生の春休みの時で、2回目は今から38年前私が関西の支店に転勤になった時でした。
もうずいぶん昔の話になりますが当時は観光客も少なく、ゆっくり見ることができました。外国人の観光客なんか全くいない時代でしたね。今思うと懐かしいです。
さて、ガイドさんの話によると平成の修理で漆喰壁を白く塗り直した後は観光客が大挙して押しかけ、平日でも入口は1時間から1時間30分待ち、土日は激混みのため観光バスのツアー客は天守に上れなかったそうです。
平成の修理完成から3年経過した今年、平日であれば入り口でさほど待つことはなくなったそうですがそれでも天守閣の上り階段は混み合うので、時間内にバスに戻るためには西の丸の化粧櫓や百間廊下の方には行かないようにと注意されました。
また、姫路城は修復が完了した当時は壁が白過ぎて浮いたような感じだったそうですが、3年過ぎた今の頃が調和が取れて一番美しいのではないだろうかと言われていました。
現在は堀の上に架けられた桜門橋から大手門を見ているところです。大手門が城の入口で、石垣の上には大天守が覗いていました。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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「史跡姫路城」の碑。
ここで姫路城の略歴を簡単に述べておきます。
1、鎌倉時代後期に護良親王の令旨を奉じて赤松円心が後醍醐天皇側に付き挙兵。京に兵を進める途中姫山に砦を築く。
2、赤松円心の二男赤松貞範が姫山に本格的な城を築く。
3、室松時代、嘉吉の乱で赤松氏は断絶。赤松氏を討った山名宗全が播磨の守護となり、姫路に入封。
4、応仁の乱において再興を許された赤松氏が弱体化した山名氏から播磨を奪え返し姫路の城に本丸などを築き城を拡張した。
5、赤松氏が本拠地に居所を移したことから配下の小寺氏、黒田氏が代々城代をつとめ、城代黒田孝高の時に羽柴秀吉の配下となり姫路城を秀吉に譲る。
これにより羽柴秀吉が城を大改修、三層の天守閣や城下町を造り姫路城を近世城郭に造り替えた。
6、以後羽柴秀長、木下家定と秀吉一族が入封した。
7、関ヶ原の戦いで東軍に付いた池田輝政が武功を認められて播磨52万石で姫路城主となりました。
8、池田輝政は城の大改修を行い、9年後に現在の大天守や小天守、多くの櫓や城壁などが完成しました。
9、息子の池田光政が鳥取に移封され、以後親藩・譜代大名が城主になりました。
姫路は山陽道の要衝で西国大名の抑えとして重要な場所でした。そのため家康は池田輝政に巨大城郭を造らせ、秀忠は池田氏を鳥取に移封させて以後親藩・譜代大名を配置して西国の外様大名に睨みをきかせたのです。
余談ですが姫路城と同様の指名を担った城が山陽道にもう一つあります。福山城です。福山藩(備後国)は10万石でしたが、石高からすると不相応なほど大きな城郭でした。
隣国の浅野や毛利、九州の外様大名の抑えとして大規模な城郭が建てられました。そのためこの藩も親藩や譜代大名が藩主になりました。
さて、現在の城を建てたのは池田輝政ですが彼も外様大名です。しかも豊臣恩顧の大名で秀吉にはたいそう可愛がられ、豊臣一族に準じて遇されています。
彼の父は池田恒興で織田信長の宿老でした。織田信長亡き後の清須会議では秀吉を支持し、以後秀吉の信頼が厚かった大名です。
徳川家康との小牧長久手の戦いでは秀吉に味方し参戦。池田恒興、森長可、堀秀政、豊臣秀次の四将を別動隊として徳川の本拠地三河を攻めようとしたが徳川軍に察知され、豊臣秀次軍が奇襲攻撃を受けて壊滅。池田恒興と嫡男元助は討ち死し、二男の恒興は命からがら戦場を離脱しました。
池田輝政にとって徳川家康は父や兄の敵、さらに豊臣恩顧の大名でありながら秀吉亡き後は徳川家康に急接近します。何故でしょうか?
石田三成憎しの一面はありましたが、池田恒興の継室は家康の娘なのでその関係からでしょうか?
たぶん黒田長政同様機を見るに敏な性格で、一転徳川方に組したのではないでしょうか。関が原では毛利・吉川・長曾我部が布陣した南宮山の抑えとして布陣していたものの、毛利本軍が吉川の妨害で動けなかったため参戦していません。
関ヶ原の前哨戦として岐阜城攻めに参加したのみながら破格の扱いを受けています。徳川一門としての待遇を受け、重要な拠点である姫路の守りを任された唯一の外様大名が池田輝政だったのです。
豊臣政権にさっさと見切りをつけ、仇でもある実力者の家康にすり寄った変わり身の早さは黒田長政も舌を巻くほどだったと思います。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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三の丸から写した大天守と小天守。この方向が天守閣の正面です。
さて、姫路城の大天守は何階建てと思いますか?外観からは屋根の数が5層で階建てに見えますが、内部は地下1階と地上6階の7階建てになっています。
そのため5層7階建ての大天守とよばれているそうです。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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三の丸(芝生の部分)と大・小天守、リの一渡櫓・リの二渡櫓と漆喰壁。
三の丸沿いに歩いて行くとチケットセンターと入場口があります。
幸運にも連休後の平日だったことで入場口では並ぶ必要も無くすぐに入場できました。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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ガイドさんは入場口まで同道してくれましたがその先には入れません。
城内には専門の案内人がいるそうで、ガイドさんは入れなくなっているそうです。
そのため事前にガイドさんから見所の説明がありましたが、とても全部覚えられるはずも無く、チケットと一緒に貰ったパンフを見ながら観光することにしました。
観光時間は1時間50分、買い物も含めた時間です。これで駐車場まで戻らないといけないので、余り長居はできそうもありません。やはり西の丸まで観光するのは難しそうです。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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これは菱の門、表玄関に相応しく格式高い櫓門です。
櫓門の片側だけを石垣の上に乗せた安土桃山様式の城門です。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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国宝姫路城。現在国宝に指定されているのは大・小天守および4棟の渡櫓です。
菱の門を潜り抜けて天守の方に行こうとすると通行止めの表示がされていました。ただ今撮影中との事で撮影関係者から西の丸を迂回して天守に上るように促されました。
ガイドさんの話では西の丸と天守閣の両方を観光する場合は時間が掛かりすぎるので集合時間には間に合わないとにことでした。
しかし撮影中で天守に上れないのなら西の丸を速やかに通過する外ありません。とにかく急いで西の丸を通過しましょう。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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イチオシ
西の丸入口の階段から写した天守閣です。
姫路城の写真は三国堀から写した写真が一番美しいと言われていますが、私は西の丸入口から見た天守閣が一番美しいと思います。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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桜の木の葉を入れたらそちらにピントが合ってしまい、城がピンボケになりました。
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西の丸の説明板。
西の丸は姫路城主本多忠政が大阪夏の陣の後、将軍徳川秀忠の長女千姫を娶った息子忠刻のために元和4年(1618年)に御殿を建てた所で、「中書丸」ともいわれました。
御殿を囲むように築かれた長屋は「百間廊下」ともいい、約300mの長さになります。その内ヨの渡り口から北の部分が長局です。小さな部屋が廊下に面して並んでいて、西の丸の御殿で働く女中が住んでいました。
長局の北端に化粧櫓があります。大きく開放された窓や床の間、畳敷きなどほかの武骨な櫓に比べると人が居住できる拵えになっています。
千姫が男山にある天満宮を拝むため西の丸に来た際に、身づくろいをしたり休息した場所といわれています。
千姫は大阪夏の陣で燃え盛る大阪城の中から救出されましたが、その後本多忠刻と再婚します。
その時の化粧料(持参金)は10万石でした。城主の本多忠正はこの化粧料で西の丸の高台の整備を行いました。
まず石垣のかさ上げを行い、東北の隅に二層の櫓を建設し南西に向かって渡櫓と隅櫓を配して城壁を造りました。東北の隅の櫓は化粧櫓と呼ばれています。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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百間廊下の長屋は説明板の下の地図でワの櫓から北東の化粧櫓まで。入口はワの櫓、出口は化粧櫓でした。
平成の改修以降天守閣では武具・甲冑などの展示品が取り除かれましたが、百間廊下では以前同様展示品がありました。
しかし一々見ていると時間がないので一瞥するような状態で先に進みます。
百間廊下は城の遺構としては珍しいのでよく見ておくようにと妻と娘には伝えたのですが、時間が気になるようで先をどんどん歩いて行きます。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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姫路城歴代城主の紹介パネル。
私は池田輝政までは知っているので本多忠政以降の城主を写真に撮りました。
池田輝政の息子池田光正が鳥取に移封され伊勢桑名城から本多忠政父子が入封しました。以後山陽道の要衝姫路城は徳川の親藩・譜代大名が城主を勤めることになります。
池田光政が鳥取城に移封されたのは、若年のためこの重要拠点を納められないという事が理由だったそうですが、外様大名に山陽道の重要拠点は任せられないというのが幕府の本音だったのではないでしょうか。しかも当時の将軍は徳川秀忠です。かれは多くの外様大名や親藩・譜代大名を改易しているので当然この程度の思惑はあったはずです。
さて、本多忠正の時代に西の丸、三の丸、その他が増築されました。 -
親藩の松平氏が城主となりました。
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次は徳川四天王の榊原家が姫路に入封、城主となりました。
説明パネルによると榊原忠次は名君の誉れが高かったそうですが、榊原正岑は?原の高尾太夫を3000両で身請けするなど徳川吉宗の緊縮政策と対立し、幕府から隠居を命じられて越後高田に国替えさせられたそうです。
以後松平、本多、榊原各氏が城主となり、1749年から明治維新まで酒井氏が城主となりました。 -
百間廊下の様子。この先が長局でした。
姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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長局格子窓から眺めた百間廊下の城壁です。白漆喰が眩しいほどに綺麗でした。
姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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同じく百間廊下の城壁。
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百間廊下の先にあったのが化粧櫓。説明文は下記のとおり。
「千姫が本多忠に嫁いだ際に、将軍家から贈られた10万石の化粧料の一部を使用して建設されたといわれる櫓です。
階上には18畳、15畳、窓辺には6畳の3室をとって、天井には杉柾張り、壁面は全て黒い木枠に紙を張ったものをはめ、隅々まで技巧を凝らした住宅様式になっています。
千姫が城の西北にある男山天満宮を遥拝する際に、休憩所としてこの化粧櫓を使用したと言われています。
武蔵野御殿など、桃山時代の居館様式をもつ建物が姫路城内で消失している現在、化粧櫓の存在価値は非常に大きいものがあります。」姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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化粧櫓の入口で、白漆喰壁の奥の部屋が千姫が使用した和室です。
姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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千姫と化粧櫓の説明文
「千姫は徳川二代将軍秀忠の姫君に生まれ、政略によって豊臣秀頼に嫁したが、大阪落城の際に救い出され、のち本多忠刻に再嫁した。
元和三年忠政が伊勢桑名から姫路十五万石の城主となったとき、忠刻も千姫の化粧料として部屋住みのまま十万石を与えられ、姫路に移り住んだ。
忠刻と線暇の居館は西の丸に本館として中書丸を、桐の門内に下屋敷として武蔵(野)御殿をそれぞれ築き住んだ。
これらの建物は多く豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取りこわした用材を移して建てたもので、桃山時代の立派な書院造りの建物であった。
千姫は天満天神を信仰し、姫路に来てからは、西方の丘男山にこれを祀り、毎朝西の丸の長局の廊下から参拝した。このとき、この化粧櫓を休憩所として利用した。忠刻と千姫の夫婦仲は睦じく、姫路に来てから相次いで勝姫(のち池田光政室)、幸千代の二児をもうけ平和な日々を送ったが、長続きせず幸千代は三才で早逝、忠刻も寛永三年三十一才で世を去った。
千姫は、同年落飾して天樹院と号し、悲しみのうちに姫路を発って徳川目に帰った。
この化粧櫓は中書丸や武蔵御殿がないいま、わずかに千姫の面影を偲ぶただひとつの建物である。」とあります。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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化粧櫓内部の畳部屋の様子。
緋毛氈に座っているのは千姫人形。陶器の人形みたいでしたが、38年前に来た時は陶器の人形では無く日本人形でした。
和服に豪華な内掛けを着た美しい容貌の人形でした。
いつ頃からこの人形に替わったのでしょうか。綺麗な人形に替えてほしいと思います。
さて、化粧櫓で百間廊下の見学は終わりです。階段を下りて外に出ました。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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イチオシ
西の丸から、「はの門」に向かう途中に写した連立天守の景色。連立天守は西の丸側からの方が綺麗に見えました。
なおこの時は西の丸経由での天守閣観光のため、「いの門」「ろの門」は通過していません。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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正面に見える門が「はの門」です。右の城壁は「はの門南方土塀」。城壁には鉄砲、矢狭間が見えます。
ここは時代劇でお馴染みの撮影場所、「暴れん坊将軍」のオープニングで目にしていた所です。今日の撮影もひょっとしたらここだったのかもしれませんね。
さて、ここで写真右の「はの門南方土塀」を見てください。この狭間がある漆喰塀は以前の汚れたままの漆喰壁で、白く塗り直しされていません。しかし反対側の外から見える方の壁は塗装されています。
平成の改修で壁や塀は白き塗り直されたと聞いていましたが、塗り替えていない壁や塀があるようです。
このあと注意して見て回ると、塗り替えされていない箇所がかなりありました。いずれも外からは見えない箇所です。
逆に外から見える箇所は白漆喰で塗り直されていました。予算の関係で修復から外されたのでしょうか?いずれにしてもそんな場所が残っているなんて残念でした。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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同じ場所を横構成にして写真を写すとこんな感じになりました。
姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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「はの門」を通過し、「にの門」に向かう途中の様子です。
城内に侵入した敵兵は左上の城壁に開けられた狭間から弓、鉄砲の攻撃を受けることになります。城壁の櫓にあるのは石落とし。
「にの門」に到達するには上り坂の道を左に大きく折れ曲がります。すると今度は右の城壁に開けられた狭間から弓・鉄砲の攻撃を受けることになります。
天守閣に至る道は右に左に折れ曲がり、その度に城壁の狭間から攻撃を受けるように造られていました。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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にの門の破風に残っているのはキリシタン大名である黒田る官兵衛ゆかりの十字紋瓦。
にの門の上にあるのは間違いないが肉眼では見えないため、写真に撮ってみたが写っていない。この瓦は写真のさらに右の破風にあるらしく、この角度からは見えません。
実は「はの門」を通過した所の空き地から眺められたのですが妻と娘が先を急ぐあまり抜かしてしまったようです。 -
「ほの門」です。この門を潜ると天守の下に到達するため、防御側にとってはとても重要な門になります。そのため門全体が鉄板に覆われていました。
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「ほの門」を潜って右手に見えるそそり立つような築地壁が「油壁」です。この壁は白漆喰壁の姫路城のなかで唯一の土壁です。
この壁は粘土に玉砂利を混ぜ、もち米の研ぎ汁で練り合わせた土を型枠の中で叩き締めて築いたものと説明されていますがこの工法は非常に手間がかかる工法です。さらに専門家の見解では米のとぎ汁を混ぜたくらいでは頑丈な土壁はできないそうです。
そのため最近では菜種油を混ぜたのでないか。それで「油壁」と言う名前が残っているのではないかと考えられていますが、誰が何故このような手数がかかる壁をここに造ったのか謎が残ります。
パンフなどでは工法から推測し羽柴秀吉時代の遺構だとされていますが、土塀の下の石垣は秀吉時代の野面積みではありません。さらに周囲は石垣も壁も門も櫓も瓦も全て池田輝政時代のものです。
そのような中でわざわざこの壁のみ秀吉時代のものを残したのでしょうか。
私見ですがこの壁も池田輝政時代のものと考えた方が自然だと思います。
ではなぜ白漆喰壁にしなかったのでしょうか?
「ほの門」を潜ると連立天守の下に到達できるため、「ほの門」から「水の一門」にかけては重要な防御拠点です。
そのため漆喰壁より強固で防御に優れた「油壁」が用いられたのではないでしょうか。
「油壁」の左奥の門が大天守に続く「水の一門」です。写真左の石垣は乾小天守の石垣、写真には写っていませんが石垣の左中程に「姥ケ石」があります。
なお、観光中はこの塀を見逃さないようにと注意していたつもりでしたが、上り階段の右上にあったことと、階段を上がり切るとすぐ目に付いたのが「姥ケ石」で石垣の上ばかりみていたため「油壁」には気付かず、写真も撮っていません。
そのため写真はWikipediaから拝借しました。 -
門から階段を上ったところにあるのが乾小天守。その石垣に金網籠で覆われた白い石がありましたが、これが「姥ケ石」です。
羽柴秀吉が黒田官兵衛から城を譲り受け、に姫山に三層の天守を築いている時に、大幅な石材不足に陥りました。困り果てた秀吉が城下に石を供出するよう触れを出したところ、城下に住む貧しい老婆が自分が使っている石臼を秀吉に差し出しました。秀吉は大変喜びこの石臼を現在の乾小天守の石垣に使ったそうです。その話を聞きつけた城下の人は我先にと石を供出したため、お城は間もなく完成したそうです。
姫路城には転用石と呼ばれる五輪塔や宝篋印塔、古墳の石棺や墓石、石臼や石地蔵や灯篭の台座などが石垣の石として利用されています。
しかし、「姥ケ石」がある乾小天守はじめ天守台の石垣は池田輝政時代の石垣であり、秀吉時代の石垣ではありません。つまり「姥ケ石」の石臼とは時代が合いません。秀吉時代に積まれた天守の石垣は池田輝政時代に特られた天守台の石垣の中に取り込まれており、表に出るはずもないのです。
姫路城にはこの他腹切り丸や御菊の井戸など伝承と呼ばれるものがありますが、いずれも姫路城の本丸二の丸などが陸軍省から姫路市に払い下げられて、大正元年姫山公園として一般公開された時の面白エピソードとして作り上げられたものだと考えられています。 -
水の四門から大天守と西小天守。
水の四門を抜けると水の五門を経て大天守の地下にある入り口に到達します。さらにそこから左に折れて水の六門から中に入ったところが地階です。
姫路城の大天守は地下1階が入口になっていました。
水の一門を潜ると天守台の周りを水の二門、三門と潜っていくのですが、水の一門を通り過ぎると道が下り坂になっていました。二の門を過ぎてもまだ下り坂です。
この下り坂は「水の三門」まで続いています。
我々は天守に上るために今まで坂道を上ってきました。観光順路通りに歩いてきたのですが道が下り始めました。順路が分からない人、例えば敵の軍勢だったらどう思うでしょうか?
下り坂になれば天守に向かう道では無いと錯覚を起こすのではないでしょうか?
そうなんです。この下り坂はそのような錯覚を敵兵に起こさせるように仕組まれて作られていたのです。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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城の地階に到着しました。天守の見学は地階から始まります。
写真は地階の説明板。このような説明板が各階ごとに設置されていました。
地階の見所は厠と流しと東西の大柱です。
ここは照明が当たっているので明るいのですが、中に入るとかなり暗かったです。
そのため厠も流しも場所が分からず見つけられませんでした。 -
地階の様子。ノーフラッシュで撮影すると暗くて写真の写りが悪かったので、この写真は画像を明るく補正しています。
姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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地階の様子。これもノーフラッシュで写しましたが、この写真は補正していません。
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城内の西大柱(心柱)奥にあるのが東大柱(同じく心柱)です。東大柱は一本の樅の木ですが西大柱は2本のヒノキの木を3階の床の上で繋いであります。
築城当時は上部が栂の木、下部が樅の木で繋いでありましたがともに腐食していたため、昭和の大修理では東の心柱と同じように一本材にしようと長さ25メートル以上のヒノキが探されました。
しかし見つかったヒノキは1本目は伐採の途中に折れ、次に見つかったヒノキの木は運搬の途中に真ん中から折れてしまいました。
そのため、やむなく二本のヒノキ材を途中で繋ぐ方法に切り替えたそうです。
姫路城の大天守は中央に2本の心柱を建て、その心柱に梁を通して各階のブロックの固定化を図って横揺れを防ぐ構造になっています。
この方法通りに下の方から梁を通して各階を固定していくと、上の階では2本の心柱に梁を通すことが出来ないことが建設の過程で分かって来ました。
築城時の工法では西の心柱は途中から繋がれていましたが、元々そうしないと心柱に梁が通せない構造になっていたのです。
当時の宮大工の棟梁は胸をなでおろすと伴に先人の知恵に舌を巻いたそうです。 -
東西2本の心柱は6階の床下まで伸びていて最上階の6階にはありません。
西大柱は築城時と同じように3階で繋いであります。 -
再び地階の様子。
地階は籠城に備えて流し台や厠が設けてありますが、厠は使用された形跡がないそうです。
私は場所が分からず実物を見ていません。と言うか妻と娘がどんどん先を行くのでゆっくり見る暇がないのです。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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1階です。廊下の窓側には石落としがありました。
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1階は大広間と3つの武器庫の部屋があり、武器庫の外周は武具掛けがありました。
柱の上にあるのは黒い6枚の葉をデザインした釘隠し。
高校時代や38年前に来た時には大天守では鎧兜や武具などが展示されていましたが平成の修理以降は一切展示されていません。
これは天守そのものを見てもらおうというコンセプトから撤去されたそうです。
しかし私は展示してほしいと思いました。姫路城で展示されていた鎧兜は戦国期のものが多く、特に兜は前立が奇抜なものが多かったと記憶しています。
これらの兜は見てみたいと思いました。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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2階の廊下です。廊下の天井には大きな梁が渡されていました。
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2階の案内図。間取りは1階とほぼ同じで大広間と武器庫が3部屋でした。
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2階の武器掛け。
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3階の東大柱。
ここで不思議なことに気が付きました。3階は西大柱のつなぎ部分がある所。東大柱と比較するために写真を撮ったのに写っていません。
実は写っていない写真はこれだけではありません。3階や4階にあった石打棚の写真、窓が床面よりかなり高いため棚を設けてこの上から射撃できるようにした防御施設ですが珍しいので写真を写しました。
さらに最上階の6階から何枚も写した外の景色などの写真が全く写っていませんでした。
私はデジカメで写した写真が間違いなく撮れているかどうかその場では一々確認していないので、写真が撮れていないことに気付いたのはこの旅行記を書き起こした時でした。
最初は写真を写したことが記憶違いかとも思いましたが、そうではありません。石打棚や西大柱の写真などは確かに写しましたし、シャッターは確実に押しています。
カメラに不具合があって撮れなかったかのかと思い、写真の番号を確認しましたが番号の欠落はありませんでした。
カメラに不具合があればシャッターは切れないはずですし、画像に不具合があれば何らかの形跡が残っていると思うんですが、そんな形跡はありません。
さらに大天守を観光して三国堀に行く手前の石垣の扇の勾配や鏡石の写真も撮れていませんでした。
鏡石については説明板がなかったものの、そこの警備員から説明を受けました。
そこではわざわざ2枚の写真を写したことをはっきり覚えていましたが、これも撮れていませんでした。
姫路城には怨霊や妖怪など奇怪な話が残されています。そんな怨霊にいたずらされたのでしょうか?文明が発展している現在では考えられないような話ですが、こんな不思議なことは初めてです。
不思議な体験でした。カメラの不具合だと思いながらも釈然としません。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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という事で途中の写真はありませんが順路に沿って1階に降りてきました。
ここは1階の通路、板壁には武具掛けがズラリとありました。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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武具掛けの奥には2階に上がる階段がありました。
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さて大天守の1階を順路通りに進んでイ渡櫓から東小天守の入口にやって来ました。大天守の観光はここで終り、これからは小天守の観光です。
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人がいなくなった東小天守入口。写真左の階段はイ渡櫓に上がる階段です。
奥が東小天守で手前がイ渡櫓。
小天守内部には展示品がありました。城の瓦や立体模型、城の縄張りの模型やジオラマ、戦前戦後の城の写真、昭和の大修理の写真などが展示されていました。
この他にもありましたが、先を急ぐため一瞥しただけなのであまり記憶にありません。
その中でも記憶に残っているのが米軍の空襲を受けて焼け野原になった姫路の町の写真。焼け野原のなかで凛として立ち続けていたのが姫路城でした。
幸運にも姫路城は焼かれずに済みましたが、空襲を避けるために黒く染めた偽装網で城の主要部分を覆い隠していたそうです。
その甲斐があってか爆撃を免れたという事ですが、実際には大天守に焼夷弾が直撃し西の丸にも2個の焼夷弾が落とされました。
大天守に落ちた焼夷弾は幸運にも不発弾で、西の丸の落ちた焼夷弾は不発と消し止められたそうです。三の丸にあった中学校は焼夷弾で焼失したそうですが、幸い城に投下された焼夷弾が少なかった事と非常に運の良い城だったことで焼失を免れたようです。
我々は小天守を巡って階段を下り、水の六門から外にでました。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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さらに順路に従い進んだ先が備前丸でした。
写真は備前丸に行く途中に写した小天守の写真。たぶん西小天守だと思います。 -
イチオシ
ここが備前丸、広い更地の空間です。これは備前丸から写した連立天守の写真。
備前丸には池田輝政の居館が建っていました。その当時は長局と櫓が備前丸を取り巻いていたそうです。
池田輝政の後に城主となった本多忠政は三の丸に居館を建てましたので、備前丸の建物はそれ以降に取り壊されたと考えられています。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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備前丸から見上げた大天守と乾小天守と西小天守。
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備前丸の出入口として設けられた備前門。備前門の石垣には古墳の石棺が転用石として使用されています。
写真の石垣で上から4段目、長方形の大きな石が石棺です。 -
さらにもう一か所、備前門の右の石垣に石棺が転用されています。写真で縦に細長い石が石棺です。
備前門を出ると緩い下りの道が続きますが、左にあるのが帯ノ櫓です。帯ノ櫓の脇から階段を下りた所に腹切丸と呼ばれる場所があります。正式名は井戸曲輪ですがこの曲輪にあるのが帯郭櫓。この櫓と井戸曲輪を合わせて腹切丸と呼んでいます。
私が38年以上も前に姫路城を訪れた時は「曲輪の中にあるのは首洗いの井戸、帯郭櫓の石打棚が検視役人の席で下の板場が切腹の場所」と言われていました。
確か説明板でもそのように言われていると書かれていたと記憶しています。
さらに周囲の白漆喰壁には切腹の時に飛び散ったであろう血痕と思しき黒い染みが無数に染み込んでいました。
現在では全くの作り話で、ここで切腹が行われたことは無いと言われていますが、当時は首洗いの井戸や血痕が染みついた白漆喰壁など臨場感がありすぎてここで切腹が行われていたと思い込んでいました。
これも大正元年に一般公開が行われた時に創作された話とのことですが、当時の印象が強く腹切丸を見る気にはなりませんでした。
それに腹切丸まで見に行く時間もなかったのでスルーするには都合が良かったと思います。 -
次に「りの門」を通って出て来た所が上山里丸です。
ここには超有名な「お菊の井戸」があります。このお菊さん、播州皿屋敷の主人公です。
お菊さんの井戸と言えば「一枚~、二枚~」のあのお菊さんです。
井戸の側の説明板には播州皿屋敷の話とお菊の井戸の由来が書かれてありました。
姫路城にあるお菊の井戸も大正元年の一般公開に際し創作された話です。
「姥ケ石、切腹丸、お菊の井戸」は姫路城の三大フィクション、そして播州皿屋敷は江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎で上演された創作劇です。この物語に登場したお菊の井戸は姫路城の井戸であったという事にしたのです。
なお、お菊の井戸の説明板には「播州皿屋敷」の話が書かれており、その「お菊の井戸」が姫路城にある井戸だと言われていると書かれていました。
それではどんなお話かご存知でない方もいらっしゃるでしょうからここに記しておきましょう。
「姫路城第9代城主小寺則職の代(1519年以降)、小寺則職の執権であった青山鉄山がお家乗っ取りを計っていたので、それを察知した則職の家臣衣笠元信は愛妾お菊を女中にし鉄山の屋敷に住みこませて鉄山の計略を探らせました。
お菊は、鉄山が増位山で花見の宴を開き則職を毒殺しようとしていることをつきとめます。
お菊からその事を聞いた元信は花見の席に切り込み小寺則職を救出しました。乗っ取りに失敗した鉄山は渦中に密告者がいたとにらみ、家臣の町坪弾四郎に調査を命じました。ほどなく弾四郎は密告者がお菊だったことを突き止めましたが、かねてよりお菊に思いを寄せていた弾四郎はこれを好機としてお菊を脅し、妾になれと言い寄りますがお菊は断固これを拒否。
すると立腹した弾四郎はお菊が預かるように命じられていた10枚組の家宝の皿の1枚を隠し、皿を紛失した罪をお菊に擦り付けて切り殺し古井戸に投げ込んでしまいました。(この古井戸は弾四郎宅の井戸と言われています。)
以来、井戸からは夜な夜な「一枚、二枚・・・」とすすり泣きまがら皿を数えるお菊の悲しげな声が聞こえたそうです。
やがて衣笠元信たちにによって鉄山一味は討たれ、姫路のお城は則職の元に返りました。
その後則職はお菊のことを聞き、死を哀れんで十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったそうです。
井戸そのものは大きく深い井戸でした。背後に写っているのは太鼓櫓と「りの門」です。
さて、写したはずの写真が残っていませんが「ぬの門」を潜った先に見える石垣が扇の勾配。開いた扇の曲線ににていることから「扇の勾配」と呼ばれています。上に行くほど石垣が反り返っていました。
そしてこれまた写したはずの写真が残っていないのが「扇の勾配」の手前にある石垣で鏡石と呼ばれている場所。
アプリケーションの説明ポイントだけど説明板がありませんでした。「鏡石ってどれだろう?」と私が妻に話していると、そばにいた若い警備員が「私が説明しましょうか。」と言って教えてくれました。
鏡石とは扇の勾配の右隣りにある石垣のこと。この石垣をよく見るとなんと人の顔に見えるではありませんか。なので人の顔を写している鏡のような石から鏡石と呼ばれるようになったそうです。
但し人為的に意図したものでは無くあくまでも偶然にできたものだそうです。
だから写真を撮ったのに何故か写っていない。ほんと不思議なことがあるものだ。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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鏡石から「るの門」を通り抜けるとそこが三国堀。
彫りの周囲に漆喰塀がめぐらされ櫓や連立天守が見える場所で写真撮影スポットとして知られている場所で、ガイドさん一押しの場所です。 -
連立天守と「りの一渡櫓」。
姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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三国堀から眺めた連立天守。ここからの天守も綺麗だけど、私は西の丸から眺めた景色の方が見栄えがすると思います。
姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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ここからは堀と漆喰塀、櫓が写真に取り込めます。
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三国堀から眺めた姫路城天守。
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姫路城連立天守。小天守は乾小天守と西小天守。
姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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イチオシ
三国堀からの写真はこんな感じがいいかも。
姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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イチオシ
入場門の近くから写した大天守。
余り時間がないので駐車場まで急いで帰ろう。すでに妻も娘を私を置いて駐車場に向かっていました。
私は写真を撮るのに時間がかかるので、待ちきれなくて先に行ったようでした。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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イチオシ
三の丸から写した姫路城大天守。この向きの姫路城もいいよね。
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大手門の所で姫路城のパネルを写しました。世界文化遺産なのにユネスコ世界遺産のマークがないよ。
ここから駐車場まで5分くらいかかったかな。大通り沿いに出ると先を歩いているはずの妻と娘の姿が見えない。と思ったら大通りの向かい側で手を降っていた。大通りの向こうで側で待っていてくれたみたい。駐車場の方向をお互い指差して速足で急げ、急げ。こうして無事時間内に集合場所に辿りつきました。
姫路城はこれで終わり、次は鳥取砂丘をお送りします。
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