2018/09/08 - 2018/09/09
2153位(同エリア7873件中)
あおしさん
先週末、JALの「どこかへマイル」で熊本へ。
残念ながら土日とも雨だったので鍾乳洞の球泉洞と水俣病資料館に行ってきました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- JALグループ JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
「どこかへマイル」は通常往復15000マイルのところを6000マイルで往復できるのでありがたいのですが、場所はどこになるかわからないのと、10日前までに予約しないといけないので天気が読めない。
今回も週末の熊本は土日との雨の天気予報・・・
朝のフライトで熊本空港に着くとやっぱり雨雨。
というわけで雨でも関係ないところを回ることにします。熊本空港 (阿蘇くまもと空港) 空港
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1枚残っていた「18きっぷ」を使って熊本から南熊本県の中心都市・八代へ。
さらに肥薩線というローカル線に乗り換えます。
1両のデイーゼルカーだがピカピカの新車でなかなか快適でした。
肥薩線は日本3大急流の1つ、球磨川沿いを走ります。
天気が良ければ緑の山々と青い球磨川のコラボが美しかったことでしょう。球磨川 自然・景勝地
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熊本から約2時間、八代から約1時間で球泉洞駅に到着しました 。
ここから迎えの車で球泉洞へ行きます。球泉洞駅 駅
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球泉洞は九州屈指の鍾乳洞です。
一般コースと1100円と探検コース1900円がありました。
ちょっと高いですが、探検コースへ。
一般コースはこれで1100円は高いなあ、と思えるほどの簡単・短いコースでさほど見どころもありません。
中央部にある大きな「広場」球泉洞 自然・景勝地
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20分ほどで一般コースをさっとみおわって、その後探検コースへ。
探検コースはヘルメット着用、ガイドさんと一緒に一般コースから奥に入っていきます。
歩道もあまり整備されていらず梯子を延々と40m近く降ります。
13階建てのビルを梯子で降りるようなもので、高所恐怖症の人は降りられなさそうです。
下まで降りていくところにあった鍾乳洞の中の滝です。
鍾乳洞は石灰岩の岩を地下水が溶かすことで穴を大きくするもの。
今日は雨で地下水が増水しているのかなかなかの迫力でした。 -
滝から鍾乳洞の中を川沿いに「探検」していきます。
足場はよくないですが、「探検」気分になります。 -
最後はガイドさんいわく「シャンデリアのような風景」の場所が終点です。
少々苦労したけどやはり3大鍾乳洞に比べると迫力は今一つの鍾乳洞だったかな。 -
球泉洞駅の隣にあるのが一勝地駅。
「縁起がいい」ということで、受験を控えた学生や試合を迎えるスポーツ選手などが入場券を買ったりするそうです。
私も1枚、記念に購入しました。一勝地駅 駅
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再度肥薩線に乗って、球磨川沿いに八代へ戻ります。
球磨川は急流なので、ラフティングが盛んに行われています。
今日は雨なのに、やはりラフティングをやってる人が結構いました。
天気がよかったら、「体験ラフティング」に参加してみたかったな。 -
JR八代駅に戻り、ここから肥薩おれんじ鉄道に乗り換えます。
肥薩オレンジ鉄道は九州新幹線の開業と引き換えに、旧鹿児島本線を地元が引き取った第三セクター鉄道です。
八代駅から2つ目の日奈久温泉駅で降ります。日奈久温泉駅 駅
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今晩の泊まりは、600年の歴史を持つ日奈久温泉というところです。
ここは晴れだったら、八代湾に沈む夕焼けがきれいだっただろうけど、残念ながら雨…
さらにこの時期だと夜の海上に「火」が見えることもあります。
「不知火」と呼ばれる蜃気楼なのだが、それも雨でダメですね。
この温泉街は漁村の中に温泉宿があるようなひなびた温泉で、江戸時代は細川家や島津家がよく利用してとても栄えたとのことです。
今でも古くは明治時代からの旅館が点在していました。
ただ、今は温泉客も少なく、寂れている感じではありましたが・・・熊本・日奈久温泉 ひらやホテル 宿・ホテル
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今日の泊まる宿は「ひらやホテル」
1泊2食で10000円の安いホテルです。
今ではすっかり古くなってしまいましたが、温泉もあるし、昭和30年代から40年代は高級ホテルだったようで大きなお座敷があったり、その頃宿泊した有名人、仲代達也、岸田今日子、田中邦衛、神山繁などの有名スターの色紙なども多数ありました。
当時はさぞかし団体客などでにぎわったのでしょう。
海沿いの温泉なので夕食は魚介類がほとんど。
一番大きな魚はひらめのから揚げです。熊本・日奈久温泉 ひらやホテル 宿・ホテル
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夕食後は近くの大きな旅館の日帰り入浴が夜9時までなので行ってみます。
この旅館の建物は明治43年、日露戦争後に建てられた建物で有形文化財です。
明治時代に木造3階建ての建物は当時の最先端の建物で、今でいえば50階の高層高級ホテルみたいなものだったでしょう。日奈久温泉 金波楼 宿・ホテル
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かつては高級旅館として貴族や政治家や軍人も多く宿泊したようで当時の宿帳も展示されていました。
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さすがに明治時代の建物だけあって、廊下、階段、応接室、庭園などとても風情がありました。
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翌日は日奈久温泉駅からさらに肥薩おれんじ鉄道で、さらに南へ向かいます。
この鉄道は八代海の海沿いを走るローカル線です。
天気が良ければさぞかし美しい車窓だったでしょう。
この鉄道では車窓を楽しみながら食事ができる特別列車も走っています。
夕日や不知火の美しい海ですが、同時にこの海は悲惨な歴史を持つ海でもあります。八代海 自然・景勝地
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八代海は南熊本から鹿児島にかけての九州と天草諸島に囲まれた海です。
魚が多く取れて、昔から天然の漁場として栄えてきました。 -
1時間で水俣駅に到着。
ここからバスで10分ほど八代湾に面した場所にある水俣病資料館へ行きます。
昭和30年代から40年代は日本は高度経済長時代で経済は高成長、一般庶民の給料も毎年10%~20%も上がり多くの日本人には希望に満ちた幸福な時代でした。
しかし同時に公害の時代でもありました。
その公害の時代の「公害病」の始まりが水俣病です。
その水俣病の悲惨な歴史についての展示を行ってるのが水俣病資料館です。水俣駅 駅
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この資料館は「無料」
写真については係員さんから、「患者さんの写真は撮らないでください」と言われました。 -
ここ水俣では地元大企業だったチッソがこの八代湾に垂れ流した有機水銀により、その有機水銀を摂取した魚介類を食べた多くの漁民が原因不明の「奇病」に苦しめられ始めました。
昭和30年代初めのころです。 -
この「奇病」はチッソの排水が原因ではないか、と言われ始めましたが、それでもなかなか排水は止められませんでした。
水俣市はチッソの企業城下町。
工場長が市長を兼ねていたり、人口の7割がチッソの恩恵を受けており、工場廃止になるようなことはできなかったのです。
結果、最終的に原因が確定するため、長い時間がかかり、その間にも患者は増えつづけました。 -
病気による症状も大変でしたが、病気で漁に出られなくなった多くの漁師は生活苦となり、その日の食事もない飢餓にも苦しめられたそうです。
私が生まれたのは昭和40年代ですが、私の生きている時代に、食べ物がない人がいたことに驚きます。
少なくとも昭和40年代、子供だった私も幼馴染も食べ物に苦労した記憶なんてありませんでした(親には戦後の食糧不足の時代のことは聞いた程度です)。 -
さらに原因特定が昭和45年と時間がかかったために、それまでは水俣に住む人だけの病気ということで風評被害、いじめ、迫害なども醜かったようです。
実際私も水俣と言えば「水俣病」が真っ先に思いつくし。 -
原因究明まで15年以上かかり、被害者への補償のための裁判や被害者救済法の整備にも長い時間がかかり、最終的に解決したのは2014年(平成26年)、つまり現在の安倍内閣時代というのも驚きます。
戦争や原爆の話と異なり、決して過去の話ではないのです。 -
当時多くの被害者を出した海岸は今は埋め立てられて公園になっています。
多くの悲惨な歴史を生んだこの場所も、今はのんびりと釣りをしている人や散歩をしている人が歩いていました。エコパーク水俣 公園・植物園
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水俣病の被害者の慰霊碑です。
この公園内には「道の駅」もあり、そこはドライブの人たちで大変にぎわっていました。道の駅 みなまた 道の駅
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水俣駅から再度肥薩おれんじ鉄道で八代駅へ戻ります。
八代駅には途中で1泊50万円もする豪華寝台列車、JR九州の自慢の「ななつ星」が停車していました。八代駅 駅
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水俣病の被害者の餓えや苦しみを見た後に、1泊50万円を支払ったお客さんで満員のピカピカの豪華列車の対比にはとても不思議な感覚がしました。
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