2018/05/09 - 2018/05/10
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しにあの旅人さん
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5月9日続きです。
この日はこのあと新田神社に向かう予定でした。天気はいいし、少しは観光しようということで、番所鼻自然公園に寄ることにしました。
ところがここで、えらいモノを妻が見つけてしまいました。
2018/09/08 shimatabiさん提供の硫黄島から見た開聞岳の写真を追加しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー JALグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
この旅行で最初から気になっていたのは「頴娃」という地名です。読めませんでした。「えい」です。
場所は薩南、このあたり。赤い部分は現在の南九州市頴娃町ですが、古代から薩摩藩時代の頴娃郡はもっと広い地域を指しました。大体黒い線の範囲のようです。開聞岳は頴娃郡に入っておりました。
天平10年(718年)諸国の国郡図が作成されました。その中に「頴娃郡」があったようです。「頴娃」という地名の文献上の初出です。(ウィキペディア「令制国」より)
「頴」1字で「えい」と読み、「娃」は地名を2字にして、縁起のいい字にしろという朝廷からの指示で付け加えられた文字で、読みません。音読みは「え」「あい」です。この字は現代でも人名漢字で、「うつくしい」という意味です。
この例はほかによく知られたところで、「紀伊」があります。「紀」の国で、「伊」が付け加えられたのと同じです。「伊」は聖職者の意味だそうで好字です。
天平8年(735年)の「薩摩国正税帳」には、薩摩国には13郡があるとされ、その中に頴娃郡がありました。そこで興味深いのは「出水、高城のほかに隼人11郡」とあり、出水、高城郡以外は隼人の居住区であるとなっていることです。(ウィキペディア「薩摩国」)
つまり頴娃郡は隼人族の居住地であり、そこで話されていたのは隼人語ということになります。その隼人語は上代日本語と相当異なる言葉であったようですが、上代日本語の一部なのか、全く異なる言語なのか諸説あり、今となっては分かりません。
現代でも頴娃方言は鹿児島方言のなかでも最も難解で、同じ鹿児島県人でも分からないそうです。日本で最も難しい方言と言われています。
どんなモノかというと、
【頴娃語】鹿児島県南九州市の「頴娃弁」(えいべん)まとめ【日本一難しい方言】
https://matome.naver.jp/odai/2145605439193145701
をお聞きになってください。1回ではほとんど聞き取れません。車の中で私たちの話題は、もっぱらこの頴娃弁について。
もともと上代日本語に対しても方言であった頴娃の隼人語に、遠い昔、中国南部か南太平洋からこのあたりに渡ってきた海洋民族の言葉が残っているのではないかと。
東京中心の現代日本では想像できないことですが、鹿児島の南の先端が、先進文化の流入口、日本一イケている町だった証拠かもしれないと。
とか言っているうちに着きました。 -
番所鼻自然公園。開聞岳の全景を見るベストポイントだそうです。
-
美人が案内板を眺めております。
-
岩礁がぐるっと取り巻いております。一周できます。
竜宮城の入り口がここだという伝説もあるそうです。 -
沖合に竹島、硫黄島、黒島という島があるそうです。平家物語で俊寛が流された鬼界ヶ島が、硫黄島だと伝承されています。
さてそろそろどこかでお昼にしようと、駐車場の案内板を見ていた家内がまたまた見つけてしまいました。「鑑真和上上陸地の碑」
「ここからどのくらい?」妻の目らんらん。
秋目の浦というところで、36.8キロ、1時間くらいだ。
鑑真和上は揚子江あたりから中国を出航して、沖縄経由で秋目の浦に来ている。このコースなら、頴娃にだってこられる。
私たちの頴娃弁渡来の妄説にぴったり。
行ってみよう!!! -
こういう位置関係です。
時間が惜しいので、コンビニでおにぎりを買って、食べながら進みます。おにぎりを買ったコンビニ、お客の男がみーんなイケメン、なぜだ?食欲の鬼の妻は気づかず、残念でした。鹿児島人の顔、彫りが深くて、二重まぶたがぱっちり。山田孝之、国生さゆりなどが典型です。今でも国際結婚のカップルの子供は男女とはず美形が多い。同じかもしれませんね。ただそのカップルができたのはやたらに昔でした。
枕崎通過。森進一の港町ブルースの「港 別府 長崎 枕崎」の枕崎だと妻。別府、長崎の後に来るには、ずいぶん小さい町だよ、記憶違いじゃないの、と私。妻が正解でした。
気楽なことを言っていたのはここまでで、坊津から国道226号は酷道に変わります。往復2車線の細い道路で、リアス式海岸ののこぎりの歯を全部伝って走ります。幸い対向車も同行車もほとんどなく、カーブミラーをたよりに亀の走りです。トシですので、反射神経に自信がないので、慎重だけが頼り。
いきなり、進行方向右に、 -
着きました。
内部は撮影禁止でした。鑑真和上渡航の経路、上陸想像のジオラマなどの展示です。 -
遠景です。
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秋目の浦全景です。
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秋目の浜。
鑑真和上はこのどこかに上陸しました。 -
浜方向。深い森に囲まれています。
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坊津方向です。
鑑真和上は753年10月23日に蘇州を出て、11月21日沖縄着12月6日同発、12月7日屋久島着18日同発12月20日秋目着。
沖縄以降は、19日に嵐に遭遇していますが、実質3日です。 -
記念館パンフレットよりスキャンしました。
ごらんのように、坊津は、坊浦、泊浦、久志浦、秋目浦の四つの入り江よりなっています。 -
記念館の女性キュレーターからうかがった話ですが、南からやってくる船は秋目浦の北、野間岳(標高591メートル)と南の開聞岳(924メートル)を目印に北上します。両方とも沖合数十キロから目視できるので、この二つの目印の間に船を持って行けば、必ず陸地にたどり着くのです。
またまた閑話休題。このキュレーターさんの奥ゆかしく、上品なこと。ますますこの地がただならぬ歴史の地であることを思わせます。 -
硫黄島から開聞岳までは約48キロ。目視できます。(4Travelブログshimatabiさんhttps://4travel.jp/travelogue/10449670)
shimatabiさんから写真の使用の許可とコメントを頂きました。「正確にいうと竹島から硫黄島に向かうフェリーから見た写真です。しかしながら硫黄島直近あたりだったので硫黄島からも十分に見えると思いますよ。」
水平線からはっきり開聞岳が見えます。硫黄島近くからこれだけはっきりと見えるのであれば、硫黄島のさらに屋久島よりからも目視できたでしょう。すばらしい海の目印です。数千年まえの海の旅人は、この景色を目にしたとき、うれしかったでしょうね。「やったぜ、ベイビー」とは、多分言わなかった。
shimatabiさんありがとうございます。海の旅人になりかわりまして、感謝します。
屋久島から硫黄島は約44キロ。標高703メートルの硫黄岳は見えます。(屋久島パーソナルエコツアーhttps://www.relaxin-yaku.com/wp/archives/412.html)
鑑真和上を乗せた船の船長は、まず開聞岳を目視、進路を西に寄せ、野間岳を目視、西に流されながら坊津の最も北の秋目浦に入ったのでしょう。
坊津は、伊勢の安濃津(あのうつ、現在の三重県津の近く)、博多津(現在の博多)とともに、日本三津(さんしん)と中国の歴史書にも記録が残るくらいで、海外貿易の根拠地として千年にわたって繁栄した港だそうです。
それは、南から黒潮にのって北上し、沖縄、屋久島、硫黄島と目印があり、最後は上記の二つの山をみつければあとはなんとかなるという、航海上のメリットが大きかったのでしょう。
くわえてリアス式海岸の深い入り江が嵐から船を守りました。
さてここからが、頴娃方言が日本語以外の言葉の影響をうけているのではないか、という妄想の出番です。
南からくる船が坊津に入りやすいということは、開聞岳のすぐ西、頴娃にも楽に来られるということじゃないかな。その時代が古ければ古いほど、縄文海進の名残で、海は今より内陸に入り込んでいたはずです。
現在でも、開聞岳の西側では石垣川など7本の川、東では宮田川が東シナ海に流れ込んでいます。これらの川つたいに、海はおそらくかなり平野の奥まで侵入していたのではないでしょうか。
宮田川については面白いことに、枚聞神社のすぐ近くを通って、唐船峡まで遡ります。唐船峡、かつては唐船ケ迫(とうせんがさこ)とよばれました。「さこ」は九州では山間の小さな谷のことだそうです。
昔はここまで入り江が入り、唐船が来たという伝説が残っています。
この近くには新川という明治初めに開鑿された川があるので、宮田川もその新しい水系かと思い、川の近くの指宿市開聞支所に電話してみました。丁寧に調べてくださり、宮田川は古くからある川で、枚聞神社の近くの京田では、この川の水を利用して神社のお米を作っていたそうです。だから宮の田の川なのですね。
昔は、開聞岳の西側川尻海岸から海の旅人の船が入り江の奥まで入ってきていたのでしょう。
開聞岳全部と川尻海岸の一部は、明治初めまでは頴娃郡でした。
この「昔」がいつであったかですが、指宿市開聞支所の担当者の方は縄文時代と言っておられました。これは間違いないでしょう。縄文海進最盛期BC3000年、海水面は今より数メートル高かったそうです。
いつ頃まで船が頴娃内部まで入れたかは分かりません。海岸線はBC800年くらいには現在の線にもどっていたという研究もあります。
しかし唐船ケ迫の伝説が残っていることをみると、頴娃ではもっとあとの時代まで、船が入れたのではないでしょうか。
ではだれが来ていたのでしょう。
遣唐使船の往復のあった中国南部からはもちろん来ていたでしょう。
そのもっとはるか前は?
古代の海の旅人の航海術というのは、非常に優れていたそうです。
ウィキペディアに「オーストロネシア人」という項目があります。引用です。
「オーストロネシア語族を話す民族の総称である。台湾先住民、フィリピン諸民族、マレー人、メラネシア人、ミクロネシア人、ポリネシア人等が含まれる。卓越した航海技術によって、東南アジアから太平洋諸島、マダガスカルへと分布を広げた」
約6000年前に中国南部から台湾にわたり、東南アジア、太平洋諸島に広がりました。その一部はボルネオからマダガスカルまで8,300キロを直接航海したそうです。
彼らの航海術をもってすれば、台湾からはもちろん、太平洋諸島から、沖縄、屋久島を伝って薩南にやってくるのは、容易だったのではないでしょうか。
こうした海の旅人たちの一部は頴娃に住み着いたのではないか。その言葉が頴娃の人々の言葉に影響を与えたのではないか。
私たちの頴娃方言への想像の翼は、羽ばたいちゃってどこまでも飛んでいきます。
この日は新田神社には行かないことにしました。知覧を通って鹿児島に戻りました。
10日
前日の予定変更で新田神社は後回し、まず鹿児島神宮を訪れます。 -
大隅国一宮。枚聞神社とおなじ、鹿児島独特の唐風勅使殿。
主祭神は、
天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと、山幸彦)豊玉比売命(とよたまひめのみこと)天津日高彦火火出見尊の后。 -
勅使殿内部です。額に「正八幡宮」とあります。平安時代に八幡神が合祀されたそうです。
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拝殿内部です。勅使殿と直列しております。
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本殿です。
-
本殿屋根。鰹木は5本、千木は外削ぎです。
雨戸のようなもので覆われています。翌日新田神社で聞いたところによると、壁の装飾を保護するためのものだそうです。
創建は、神宮由緒記によれば、神代、神武天皇の御代となっております。つまり不詳です。「延喜式神名帳」(927年)に大社として記載されており、これが信頼できる史書における初出だそうです。この時代で大社ということは、それよりはるか前に創建され、この地域の豪族、住民に崇敬されていたのでしょう。
主祭神は、「天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと、山幸彦)、豊玉比売命(とよたまひめのみこと)山幸彦の后」となっておりますが、創建当時はどうでしょうか。
鹿児島市内に鹿児島神社があります。「神宮」ではなく「神社」です。
主祭神は、鹿児島県神社庁のHPによれば、
天津日高彦火火出見命(アマツヒダカヒコホホデミノミコト)
豊玉彦命(トヨタマヒコノミコト)
豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)
豊受大神(トヨウケノオオカミ)
一番目と三番目の2柱は鹿児島神宮と同じです。
豊玉彦命は豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)のお父さんで、竜宮城の主、海の海、龍神です。
日本三代実録(901年成立)には、貞観2年(860年)にはすでに存在し、「氏神は鹿児島の地主神なり」と記されているそうです。その後、年代の記述はありませんが、現在の主祭神に替わっています。
つまりもともとこの神社の祭神は、地元の海の神、多分女神で、大和朝廷によって豊玉姫に置き換えられた。男神もいて、豊玉彦命となった。そしてヤマト朝廷と大隅の地の民、つまり隼人との融和の象徴として、主祭神を天津日高彦火火出見命、つまり山幸彦とした。
「ちょっと飛躍しすぎじゃない?」妻からダメ出しが入りました。
でも大筋はこんなところじゃないかな。
「おそらく鹿児島神宮の主祭神も同様に、創建当時は地元の地主神だった、と言いたいわけね」
あたり。文献初出が「延喜式神名帳」(927年)と、最初から大社なのに、鹿児島神社より遅いのが気にならない? なにかゴタゴタがあったのではないかと。
このあたりは大隅隼人の根拠地でしたので、隼人族の神であったに違いありません。 -
本殿の右隣に、摂社や末社にしては立派な神社がありました。
-
四所(ししょ)神社 これは4柱の神を祭った神社という一般名詞で各地に同じ名の神社があります。
御祭神
大雀命(おおささぎのみこと 仁徳天皇)
石姫命(いわのひめのおおきさき 仁徳天皇の皇后)
荒田郎女(あらたのいらつめ 応神天皇の皇女)
根鳥命(ねとりのみこと 応神天皇の皇子)
私が「大雀命」を「おおすずめのみこと」と読んで、妻に怒られました。岩姫命は大変な焼き餅焼きですが筋を通す女性で、妻がファンです。仁徳天皇の浮気話は古事記でももっとも面白いところで、この二人が祭られているというので、さぞやと思って調べたのですが、特に縁起もなにもないです。あとの二人との関係も不明。
これが雌鳥皇女(めとりのひめみこ)と隼別皇子(はやぶさわけのみこ)だったりしたら、兄と妹の悲恋物語。しかも兄が、仁徳天皇が求婚した妹を横取りして、あげくのはてに天皇から討手をおくられるという古事記最高の悲劇ですから、面白いのに。古代史ではよくある、「・・・は***の誤記である」というわけにはいきませんかね。無理でしょうね、字が違いすぎる。残念。 -
摂社の稲荷神社です。長い階段に苦労しましたが、登り切ると、
-
きれいな稲荷神社でした、
妻にはおいなりさんを信心している姪がいます。美人なのにまったく嫁に行く気がありません。良縁がありますようにと、稲荷神社にはかならずお参りすることにしています。
妻が神社の案内板を見ていて、「わ!!!」
またなにか見つけた?
「卑弥呼神社がある!」と叫びました。
卑弥呼とくれば、私たちの目の色が変わります。
鹿児島神宮の境内です。
行ってみると、 -
なにやら、いい。わくわく。
-
うん? 新しそう。
-
あらゆる女性は多かれ少なかれ卑弥呼の末裔なのです。
-
なるほど、郷土史家の方の熱意には敬意を表します。
-
「神代聖跡高千穂宮跡」とあります。
天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと、山幸彦)の宮殿があった場所とされています。
山幸彦は、海幸彦との神話以外に記紀に記述がありません。どこに宮を構えたか、神話にしても歴史書は何も語っておらず、数カ所に宮跡という伝説があるようです。そのうちの一つです。 -
御朱印をいただきました。
-
Shimatabiさんから許可をいただいた写真です。
有り難うございました。
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旅行記グループ 薩摩・大隅2018年
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