2018/05/08 - 2018/05/09
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しにあの旅人さん
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「神さびた」という言葉があります。静かな、人気の少ない神社をお参りするとこの言葉の意味が分かります。たとえば日向国狭野(さの)神社、武蔵二宮金鑽(かなさな)神社、志摩一宮伊雑宮(いざわのみや)、出雲国須佐(すさ)神社。
日本の神々は、自ら私たちに語りかけることはなさいません。ただそこに、鎮まっていらっしゃるだけです。
「なにごとのおはしますか知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
西行のこの歌が、私たちが神社をお参りする理由のすべてです。
なにかある尊いものとの出会いを求めて、神社を訪ねます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー JALグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
2018年5月8日
九州自動車道を南下しています。益城熊本空港ICを過ぎました。左手に見えるはずの阿蘇山は雲の中です。福岡を出てから、ずっと雨です。
えびのパーキングエリアまで来ました。
九州の一宮参りはこれで3回目。九州9カ国のうち、残るは壱岐、対馬、薩摩、大隅。
今回お参りするのは薩摩一宮枚聞(ひらきき)神社、一宮新田神社、大隅一宮鹿児島神社、そして薩摩国霧島神宮。
今日の目的地は鹿児島市、宿は4泊とも市内マリンホテル、放射状に旅をします。 -
2018年5月9日
鹿児島市を出て、指宿(いぶすき)有料道路に入りました。誘導路かと思いましたが、これが本道でした。往復2車線、山の稜線を伝う道路です。対向車も同行車もほとんどいません。快適なドライブです。
目的地は枚聞神社。 -
須々原展望台
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展望台からの眺望。残念ながら雲が低く、鹿児島湾の向こうに見えるはずの桜島は隠れています。
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角度を変えて。
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桜島は雲の中。
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錦江台展望公園。鹿児島方向。
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こちらの方向も雲。
頴娃(えい)で有料道路を下りて、県道17号、28号を一路南下します。 -
池田湖を過ぎると、中腹から上が雲に隠れた開聞岳が正面になります。
すると道路左に朱塗りの鳥居がありました。
一の鳥居の前に広い駐車場があります。 -
薩摩一宮枚聞神社です。
新田神社も同じく一宮を称しています。鎌倉時代以降一宮の地位を新田神社と争っているとのこと。御朱印をいただきにいくと、「新田神社には行かれるのですか」と念を押されました。「これから伺います」と答えておきましたが、いまでもライバル意識があるのでしょうか。
朱塗りも新しく、立派にメンテナされています。 -
勅使殿。曲線の唐風破風が印象的です。
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枚聞神社由緒記(以下由緒記)によれば、勅使殿は、鹿児島地方独特の建物で、勅使門の変形として殿となったものだそうです。この奥に拝殿、弊殿、本殿と連なります。
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本殿側面です。外部からは見えませんが、入母屋造妻入りだそうです。鰹木は5本、千木は外削ぎ、つまり外側で垂直に切られており、伊勢神宮の外宮タイプです。
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神社の建物は屋根の形で形式が決まるそうです。拡大しておきます。
由緒記によれば創建は神代、つまり不明です。歴史資料での初出は三代実録860年。「開聞神」とあります。読みは同じ「ひらきき」です。延喜式神名帳(927年)では「枚聞」と現在の文字が用いられています。
1200年島津氏により社殿再興、1571年戦乱で消失。現在の社殿は1610年に島津氏が寄進したもので、1787年に改築され、今日にいたります。
ただし、関東かいもん会のHP(1)によれば、かつて枚聞神社は現在の位置より約1キロ南であったとの伝承が地元にあるそうです。鳥居ケ原、現在開聞中学校のある位置です。874年の開聞岳大噴火により消失、その後現在の位置に再建されました。いずれにしてもこの時焼失したようで、現在の神社建物配置、祭神とは違いがありました。
したがって、1200年の社殿再興は、それ以前の建物を正確に再築したとしても、今、私は、874年以前の枚聞神社、つまりオリジナルの神社を見ることはできません。
創建当時の建物はどんなものだったのでしょう。それが今に残っていれば、薩南沖を行く海の旅人たちのロマンをうかがい知ることができたのにと、残念です。
関東かいもん会によれば874年以前の祭神は、国常立神(くにとこたちのかみ、記紀によれば天地開闢のおり最初にあらわれた神)、大日霊貴命(おおひるめのみこと、天照大神のこと)、猿田彦大神(さるたひこおおかみ、道案内の神)でした。
和漢三才図会(1712年)にも「祭神一座 猿田彦命(大日尊とも)」とあるそうです。(「ハッシー27のブログ 旅176 枚聞神社」)(2)
ところが、現在の主祭神は大日霊貴命(天照大御神)一柱となっています。(由緒記)
これは、「古代文化研究所HP 明治初年の枚聞神社ご祭神」(3)によれば、明治の初めに「官名を以て」大日靈命(おおひるめのみこと、天照大神)を枚聞神社の主祭神に決めたからです。
(なお「大日靈命」「大日霊貴命」など同じ神様が場合によって表記が違うのは、出典元の表記を優先するためです)
(1)
http://kaimon.lolipop.jp/index.php?%E9%96%8B%E8%81%9E%E6%98%94%E8%A9%B1#content_1_9
(2)
https://09270927.at.webry.info/201305/article_7.html
(3)
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/30856750.html?__ysp=5Y%2Bk5Luj5paH5YyW56CU56m25omAIOaYjuayu%2BWIneW5tOOBruaemuiBnuelnuekvuOBlOelreelng%3D%3D
今の枚聞神社は海まで直線4.5キロくらいです。古代の海岸線は、縄文海進により、もっと内陸だったはずです。縄文時代、日本の海面は現在より5メートルほど高かった。6500年から6000年前がピークだったそうです。東京湾はいまよりはるか内陸まで入り込み、房総半島は島だったのです。
薩南も同じでしょう。きっと枚聞神社の近くまで、海が入り込んでいたのではないでしょうか。
標高924mの開聞岳頂上からは屋久島が見えるそうです。逆に言うと数十キロ離れた海上から開聞岳は見えるということです。この山を目印にして、古くはこのあたりに、東シナ海を行く海の旅人が集まったのではないか。
そして、航海の安全を願って祈りの場を作った。
今日の旅は、出だしから、海の旅人との出会いから始まりました。
今、このブログを書くために、写真や資料をまとめています。
改めて心の中で神社にお参りしています。
本殿におられる神様、あなたの本当のお名前はなんとおっしゃるのですか。
大日霊貴命(おおひるめのみこと)ではないですよね。国常立神(くにとこたちのかみ)でもないと思います。
猿田彦大神(さるたひこおおかみ)とおっしゃいますか。軽くうなずかれたような気がします。道案内の神様ですから、ここに集まってきた海の旅人の神様としてふさわしいのではないでしょうか。
航海、道案内の神様であったことは間違いない。でも、あなたは今の私たちの発音で「さるたひこおおかみ」とは名乗られなかった。
もしかすると、上代日本語といわれる、「ふぁ」のように80以上の音節があり、5母音ではなく8母音の日本語であったかもしれません。
いや、もはや推測すらできない縄文日本語であったかもしれません。
うなずいて、首をかしげられました。
そうですね、ここ、開聞岳のふもとは、海の旅人の集まるところでした。その旅人は、黒潮に乗って、はるか太平洋の彼方から来たかもしれない。あなたのお名前は、今の私たちの言葉とは違った、しかし日本語の母体となる言葉であったのではないでしょうか。
なにもおっしゃらずに、ほほえんでおられます。 -
枚聞神社御朱印
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枚聞神社の北300mに玉の井があります。
玉の井全景です。立っているのは、神話でもイケメンで有名な山幸彦。
いまはごらんのようなちいさな井戸と木立です。「ええー、これがー」と思うのは私だけではないしょう。
上記(2)の関東かいもん会によれば、昔はここに、頴娃山玉井寺龍宝坊というお寺がありました。周囲5町6間、敷地約78,000平米という大きなお寺だったようです。なにもない野原に井戸があっただけでは、玉の井の伝説は成立しないはずです。昔はここに壮麗な寺院があったというので、ほっとしました。
典拠は1843年成立の「三国名勝図会」ですが、その図会は「また昔日は、頴娃山玉井寺龍宝坊といへる寺院ありしとぞ」と書いているので、この時点ではすでになかったということです。(図会原文は上記(3)で拝見しました)
山幸彦が、ここで竜宮城のお姫様、豊玉姫と出会ったのです。 -
玉の井本体
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井戸の左下にある塩とOneCupOzekiの拡大写真です。捧げ物と思われます。新しいもので、つい最近の供物でしょう。この写真は私が2018年5月9日に撮影したものですが、「KAGOSHIMA GUIDE」
https://kagoshimalove.com/oldest-well-tamanoi
の玉の井の写真に、同じ塩とOneCupOzekiが供物として撮影されています。緑の葉、花瓶も同じものです。HPの更新は2015年1月10日と思われます。
どなたかが、おそらく毎日供物を捧げておられるのではないでしょうか。著作権の関係で、写真を直接表示できないのは残念です。
伝説は今もなお生きているのです。 -
と言うことです。
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斎藤茂吉の歌碑です。
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丘というのは開聞岳のことかな。玉の井の正面です。はなはだ無粋な風景で恐縮です。
ご存じ海幸彦と山幸彦の話です。
(以下引用は角川ソフィア文庫中村啓信訳注古事記 現代語訳つき)
井戸の近くに綿津見神(わたつみのかみ)の宮があります。竜宮城です。
井戸のほとりにかつらの木があります。山幸彦がのぼって待つと、豊玉姫の侍女が井戸に来て水を汲もうとすると、 -
(Wikimedia Commonsより 著作者は1911年に亡くなっているので、この著作物は、著作権の保護期間が著作者の没後100年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります)
青木繁「わだつみのいろこの宮」
「井に人影が写った。仰ぎ見ると端正な男がいる」
それを豊玉姫(「姫」はこの字ではありませんが、変換できないので「姫」とします)に報告します。姫は外に出てみると、
「火遠理命(ほおりのみこと 海幸彦)の姿を見るなり感じ入り、目を交わし合って、その父に申すに、「私どもの宮の門前に立派な人がいます」と言った」
竜宮城では天孫の来訪ということで大歓迎をします。
「(海の神は)その娘豊玉姫を妻会わせ申し上げた。そして三年に及ぶまで火遠理命はその国にお住みになったのである」
火遠理命は無事なくした釣り針をとりもどし、地上に帰ります。海の神の教え通りにすると兄の火照命(ほでりのみこと、海幸彦)を屈服させることができました。
竜宮城はここだという伝説があり、山幸彦は、塩椎神(しおつちのかみ)が作った、目の詰んだ籠の小船でここまで来たのでした。
海は相当内陸まで入り込んでいたのです。
BC3000年ごろまでが縄文海進の時代だそうです。
そのころ、海の旅人たちがこのあたりに集い、数千年後枚聞神社と呼ばれる祈りの場をつくり、数千年後猿田彦大神と呼ばれる航海の守り神を祭り、数千年後竜宮城と呼ばれる物語を語った、勝手に古代のロマンを作らせていただきました。
海の旅人との出会い、2回目です。
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旅行記グループ
薩摩・大隅2018年
この旅行記へのコメント (3)
-
- kummingさん 2021/02/19 23:11:14
- 難しい(ーー;)
- 私にも竜宮城なら分かります♪
このシリーズも古事記、日本書紀、読まなきゃ、解読不能でしょうか?
と、たじろぐ…。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/20 07:06:36
- Re: 難しい(ーー;)
- うん、硬いですね。
こんなに面白い話を、なんでこうもつまらなく書くか。
この頃は、By妻が独立して書いていないのです。それが一因。
- kummingさん からの返信 2021/02/20 10:22:15
- Re: 難しい(ーー;)
- by妻さん登場されると、それはまた別の読み物?的な楽しみ方が出来ますが、難しい、と感じるのは、私に神社由来とかこの時代の神話伝承の知識がないからだと思います(;_;)イケメンで有名な山幸彦さん、上代日本語、日本語の母体となる言語、毎日捧げられるonecupoozeki,青木繁作品との繋がりも見られて、分からないなりに面白かったです♪この頃から古代ロマン創作者でいらっしゃる^o^
以後、しにあさんの執筆活動の妨げになるといけないので、コメント控えて、続編拝見~^ ^
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