2018/04/04 - 2018/04/04
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ドクターキムルさん
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鎌倉中(かまくらちゅう)とは鶴岡八幡宮から七里の結界を示し、源頼朝にとっての精神的結界であったと考えられる。
密教で、七里結界とは魔障を入れないように、七里四方に境界を設けることをいう。あるいは、「弘法大師行状記」に「悪魔等は皆結界七里の外に出去」とあり、これを七里結界という。
これを示す浜七里が腰越の手前にある結界であり、現在では七里ヶ浜に転じている。腰越は鎌倉中の外に当たる「田舎」で、頼朝の時代には源義経が鎌倉中に入るのを拒まれて腰越に留め置かれた。七里ヶ浜は海浜の長さが7里あるという意味の地名ではない。
鎌倉時代には陰陽師(おんみょうじ)が鎌倉中からその外へ悪鬼・悪霊退散を祈祷する「四境祭」を行っていた。鎌倉時代には武家の都・鎌倉は政治の中心となり、人口が集中して行った。それに伴い、鎌倉中も次第に広くなって行った。
また、鎌倉時代には鎌倉中は平安京でいえば「洛中」であり、奈良の平城宮でいえば「奈良中」を意味した。
一方、鶴岡八幡宮の鬼門方向にある七里の結界の地が野七里である。現在では横浜市栄区野七里1~2の町名、丁名になっている。
昭和40年(1965年)の上郷の1/3,000の地形図(http://www.city.yokohama.jp/me/machi/kikaku/cityplan/gis/map30s/76-3.html)を見ると、現在の埋蔵文化財センター(野七里2)の北東(野七里1・上郷町)に神奈川県警察本部射撃場と戸塚警察職員寮がある。現在の県警射撃場がある辺りには「長者ヶ久保」と記載されている。上郷町の小字である。この長者ヶ久保の西には「野七里谷」と記載された等高線がなだらかな平地がある。区分は中野町で、北側が辛うじて野七里に掛かっている。この平地は昔からの地形なのか、ゴルフ場造成でできたグリーンなのかは不明であるが、現在はゴルフ場のコースのグリーンになっている場所である。しかし、「野七里谷」は古くからの土地のようで、殆んどが中野町に属しており、「野七里」には僅かしか掛ってはいない。
「野七里」は「野七里谷」の北に伸び、原宿六浦線(現在の環状4号線)の神戸橋(現在の新神戸橋)辺りまでの地域の上郷町の小字のようだ。天園峠から北に尾根道が伸び、ここ野七里の尾根から分かれて東側の八軒谷戸辺りに下りる道と北上し谷を下って神戸橋辺りに下りる道がある。しかし、この尾根道もゴルフ場開発、宅地開発されて、造成時には消滅してしまっている。今では緩やかな傾斜の碁盤の目に道路がある住宅地に変わっている。しかし、「野七里」が稲荷川(現在のいたち川)流域の平地に通じる尾根道がある山地やその谷(「野七里谷」)であるのは納得できないことである。
横浜市栄区上郷町が「鎌倉中」とされるのは野七里の中にあるからであろう。殆んど人が住まないような山地や谷を結界の地としても何も意味がないだろう。
それにしても原宿六浦線(現在の環状4号線)を跨いで、中野町と上郷町が入り組んでいる。この中野町もかつては広大だった山林を含む町域が宅地造成され、現在ではいたち川を挟んで、本郷ふじやま公園の南側と本郷富士見ヶ丘団地だけと小さくなってしまっている。すなわち、この地域で最高峰である大平山の北部は昭和40年(1965年)当時は中野町と上郷町に分けられていたのだ。しかし、町内に「本郷小」もあり、「上郷」に対する「本郷」である。すなわち、古くから人が住んでいた稲荷川(現在のいたち川)流域の平地が鎌倉中としての意味を持つはずだ。なお、「下郷」は戸塚区戸塚町の南部に見える。
ここで注目すべきは野七里1の11時方向の1.4km先に五峰山一心院證菩提寺(https://4travel.jp/travelogue/10652825)があることである。
治承4年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝を逃すために討死にした佐那田与一(父は三浦義明の弟・岡崎義実)の霊を弔うために、建久8年(1197年)に源頼朝が創建したと伝えられる古刹である。かつては1km四方と言われる広大な敷地を持っていたために、本堂があった位置すら分かってはいない。この寺は、鎌倉の鬼門にあたり、一大穀倉地帯である「山内本郷」の中心にあり、鎌倉時代には鎌倉中に組み入れられていた地でもある。寺の住職は鶴岡八幡宮寺から派遣されており、戻ることが多かったために、歴代住職の墓は少ないのだという。明治維新で鶴岡八幡宮寺は神社に変わったが、ここ證菩提寺は高野山真言宗の寺のままで残った。昭和40年(1965年)の円海山の1/3,000の地形図(http://www.city.yokohama.jp/me/machi/kikaku/cityplan/gis/map30s/75-9.html)には稲荷川(現在のいたち川)に架かる青葉橋の南の袂に(地図で寺院を示す卍はないが)證菩提寺がある。
すなわち、頼朝の時代に「野七里」とした地域は稲荷川(現在のいたち川)流域の本郷・上郷の平地の集落ではあるまいか?その地名もその後は荘園開発が進んで付けられた本郷や上郷の地名に戻ってしまった(。あるいは変わってしまった)。頼朝の時代に野七里であるが故に頼朝は大寺・證菩提寺を建立したと考えるべきであろう。
そして、その後、野七里の中心に至る尾根道や谷がある人が住まない鄙びた場所に「野七里」や「野七里谷」の地名が残ったのでないか?
一方、七里ヶ浜には頼朝が創建した寺社は知らない。しかし、七里ヶ浜にも頼朝以前には地名があったはずだ。例えば、「腰ヶ浜」とか「腰前ヶ浜」とか。それが頼朝の時代に浜七里に変えられ、その後に、七里ヶ浜に変わって行ったのではあるまいか。そして、その結界も腰越を越えて片瀬まで広がって行く。そこには江ノ島があり、江島神社が鎮座している。江島神社の奥津宮入口の石鳥居は、源頼朝寄進と伝えられている。 「吾妻鏡」によれば、源頼朝は、養和2年(1182年)に奥州平泉の藤原秀衡調伏のため、足利義兼、北条時政、新田義重、畠山重忠、下河辺行平、結城朝光、上総広常、足立遠元、土肥実平、佐々木定綱・盛綱、和田義盛、三浦義連などの御家人衆を引き連れて、文覚上人に弁才天を江ノ島の岩屋に勧請し、鳥居を寄進したとされる。その後も江島神社は歴代の鎌倉幕府将軍・執権から崇敬を受けた。野七里に頼朝が創建した證菩提寺があるように、頼朝没後には浜七里も頼朝と縁が深い江島神社の入口に移されていったのではあるまいか?
頼朝は建久2年(1191年)に鎌倉からは鬼門の方角に当たる富岡(横浜市金沢区)に摂津の西宮の恵比寿様をお祀りし、その後の安貞元年(1227年)には八幡大神を併せ祀り、富岡八幡宮(https://4travel.jp/travelogue/10541138)となっている。富岡は鎌倉幕府の重要な湊である六浦や北条氏が住んだ金沢文庫の北にある。頼朝の鎌倉の町造りは意外と広い目で見ていたことになる。野七里とて同様であろう。
(表紙写真はこの北に野七里谷があった)
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