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小幡山・崇福寺(そうふくじ、群馬県甘楽郡甘楽町小幡)は「天下布武」を旗印として国内統一をめざすも本能寺の変にて横死した織田信長の二男である信雄(のぶかつ、1558~1630)が江戸時代初期に大和国宇陀(3ま万石)と上野国小幡(2万石)を併せた5万石が与えられます。 <br /><br />但し宇陀領には信雄自身が入り大和宇陀藩を立藩、小幡領については信雄四男信良(のぶよし、1584~1626)の知行となり当地に陣屋を設けて支配、四代藩主信久(のぶひさ、1643~1714)の時、織田氏の菩提寺としていた宝積寺(ほうしゃくじ)から廃寺であった崇福寺を改築しそれまでの初代信雄、二代信良、三代信昌の墓石を当該寺に改葬させ信久以降の藩主の菩提寺とした臨済宗妙心寺派の寺院です。<br /><br />菩提寺の変遷については一般には種々理由がありましょうが、上述の経緯については定かではありませんが宝積寺は旧領主の小幡氏の菩提寺として格式高い古刹でありましたが、住職交代の普山式(しんさんしき)において席次が小幡氏や大柏氏に続く第三の席次であったことが信久の不満であったとも言われています。<br /><br />その後の崇福寺は宝暦8年(1758)焼失、再建後も明治4年(1871)火災によって全焼しましたが、歴代藩主の位牌は焼失を逃れ、昭和61年(1986)に新築された位牌堂にて安置されて現在に至っています。<br /><br /><br />右端の織田信雄五輪塔の前部に設置されている説明板には次の通り記載されています。<br /><br />「 織田氏七代の墓<br />             町指定史跡:昭和38年6月20日指定<br /><br />崇福寺(そうふくじ)は、小幡藩主織田信雄(のぶかつ)から信富(のぶよし)に至る7代の墓があります。<br /><br />元和元(1615)年、織田信長の二男である信雄は、大和松山(奈良県大宇陀町)と上野(群馬県)小幡合わせて五万石の領主となり、子の信良(のぶよし)が入封して小幡織田氏の藩政が始まりました。<br /><br />その後、明和4(1767)年の事件で、出羽高畠(山形県高畠町)に移封されるまで、8代152年にわたり小幡藩を統治しました。<br /><br />織田氏の墓石はいずれも五輪塔で、初代信雄から、信良(のぶよし)- 信昌(のぶまさ)- 信久(のぶひさ)- 信就(のぶなり)- 信右(のぶすけ)- 信富(のぶよし)の歴代順に並んでいて、大名家の墓所らしい風格を見せています。」 <br /><br />

上野甘楽 「天下布武」を旗印とした信長二男で江戸初期に家康により大名復帰を果たした織田信雄及び小幡藩初代から七代までが眠る『崇福寺』散歩

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2018/07/08 - 2018/07/08

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滝山氏照

滝山氏照さん

小幡山・崇福寺(そうふくじ、群馬県甘楽郡甘楽町小幡)は「天下布武」を旗印として国内統一をめざすも本能寺の変にて横死した織田信長の二男である信雄(のぶかつ、1558~1630)が江戸時代初期に大和国宇陀(3ま万石)と上野国小幡(2万石)を併せた5万石が与えられます。 

但し宇陀領には信雄自身が入り大和宇陀藩を立藩、小幡領については信雄四男信良(のぶよし、1584~1626)の知行となり当地に陣屋を設けて支配、四代藩主信久(のぶひさ、1643~1714)の時、織田氏の菩提寺としていた宝積寺(ほうしゃくじ)から廃寺であった崇福寺を改築しそれまでの初代信雄、二代信良、三代信昌の墓石を当該寺に改葬させ信久以降の藩主の菩提寺とした臨済宗妙心寺派の寺院です。

菩提寺の変遷については一般には種々理由がありましょうが、上述の経緯については定かではありませんが宝積寺は旧領主の小幡氏の菩提寺として格式高い古刹でありましたが、住職交代の普山式(しんさんしき)において席次が小幡氏や大柏氏に続く第三の席次であったことが信久の不満であったとも言われています。

その後の崇福寺は宝暦8年(1758)焼失、再建後も明治4年(1871)火災によって全焼しましたが、歴代藩主の位牌は焼失を逃れ、昭和61年(1986)に新築された位牌堂にて安置されて現在に至っています。


右端の織田信雄五輪塔の前部に設置されている説明板には次の通り記載されています。

「 織田氏七代の墓
             町指定史跡:昭和38年6月20日指定

崇福寺(そうふくじ)は、小幡藩主織田信雄(のぶかつ)から信富(のぶよし)に至る7代の墓があります。

元和元(1615)年、織田信長の二男である信雄は、大和松山(奈良県大宇陀町)と上野(群馬県)小幡合わせて五万石の領主となり、子の信良(のぶよし)が入封して小幡織田氏の藩政が始まりました。

その後、明和4(1767)年の事件で、出羽高畠(山形県高畠町)に移封されるまで、8代152年にわたり小幡藩を統治しました。

織田氏の墓石はいずれも五輪塔で、初代信雄から、信良(のぶよし)- 信昌(のぶまさ)- 信久(のぶひさ)- 信就(のぶなり)- 信右(のぶすけ)- 信富(のぶよし)の歴代順に並んでいて、大名家の墓所らしい風格を見せています。」 

交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
  • 崇福寺・本堂(全景)

    崇福寺・本堂(全景)

  • 崇福寺・本堂(近景)<br /><br />本堂上部には「小幡山」の山号が掲載されています。<br /><br />

    崇福寺・本堂(近景)

    本堂上部には「小幡山」の山号が掲載されています。

  • 小幡織田宗家・位牌堂(全景)<br /><br />本堂の左側には小幡藩織田氏位牌堂が配されています。

    小幡織田宗家・位牌堂(全景)

    本堂の左側には小幡藩織田氏位牌堂が配されています。

  • 小幡織田家・位牌堂(近景)

    小幡織田家・位牌堂(近景)

  • 小幡織田家・位牌堂内部<br /><br />二代信良と七代信富を除く十代信美(のぶかず)までの位牌と二代大和松山藩主で四代小幡藩主信久の実父にあたる織田高長(たかなが)の位牌も保存されています。

    小幡織田家・位牌堂内部

    二代信良と七代信富を除く十代信美(のぶかず)までの位牌と二代大和松山藩主で四代小幡藩主信久の実父にあたる織田高長(たかなが)の位牌も保存されています。

  • 小幡織田家位牌堂・説明板

    小幡織田家位牌堂・説明板

  • 石造聖観音坐像

    石造聖観音坐像

  • 石造聖観音座像説明板

    石造聖観音座像説明板

  • 小幡織田家七代の墓・案内板

    小幡織田家七代の墓・案内板

  • 小幡織田家七代墓所

    小幡織田家七代墓所

  • 小幡織田家七代墓所・石段

    小幡織田家七代墓所・石段

  • 小幡織田家七代・墓所<br /><br />一番右側に配された織田信雄を先頭に左へ藩主の五輪塔が設置されています。

    小幡織田家七代・墓所

    一番右側に配された織田信雄を先頭に左へ藩主の五輪塔が設置されています。

  • 小幡織田家七代・墓所

    小幡織田家七代・墓所

  • 小幡織田家七代の墓・説明板<br /><br />「 甘楽町指定史跡<br />   織 田 氏 七 代 の 墓<br />                 甘楽町大字小幡字崇福寺1416<br />                 面積(墓地)1442平方メートル<br />                 昭和38年11月1日指定第6号<br /><br />織 田 氏<br />織田信長の二男の信雄が、元和元年(1615)、大和松山と上野小幡で5万石の藩主となった。これが小幡織田氏の始めである。のち、三代信昌は祖父信雄の遺命により5万石の領地のうち、松山3万石を叔父織田高長に譲り、父二代信良の遺領分小幡2万石のみの領主となった。<br /><br />その後、明和4年(1767)、山県大武等による幕府転覆の謀議に、八代信邦の家老吉田玄蕃が加担したとされる「明和事件」により信邦の養子信浮が出羽高畠2万石に移封されるまで、8代152年間の小幡藩主であった。<br /><br /><br />崇 福 寺<br />ここより南西に直線1.5キロメートル離れた場所に存する宝積寺は、曹洞宗の寺院であり、旧藩主小幡氏の菩提寺で格式も高かったので、織田氏も三代までこの寺を菩提寺としていた。<br /><br />しかし、四代信久は急に、廃寺であった崇福寺を3年間で改築、臨済宗に改めて菩提寺とし、宝積寺から先3代の墓跡をここに移した。その後、宝暦8年(1758)焼失。再建後、明治4年(1871)失火により再度全焼した。墓石の破損はこの時生じたものと言われる。<br /><br />この墓前の広場が寺跡であり、回廊が墓に達し、墓石には、一個ずつ上屋がついていたという。今、入口には「下馬」の碑が、また、石段上には高遠の石工による「三石一宮造」の勝れた「石殿」が残されている。<br /><br />七 代 の 略 伝<br /><br />初 代  信 雄<br />信長の二男、本能寺の変後、百万石の清州城主、のち所領を失い、大坂夏の陣後、小幡領主。寛永7年(1630)没、73歳。京都大徳寺に葬り、小幡宝積寺、大和室生山に分骨。法名、徳源院殿正二位前内府実厳常真公大居士。<br /><br />二 代  信 良<br />信雄の四男、父の所領5万石のうち、小幡2万石を相続、福島に住み、父に先立つ寛永3年(1626)、43歳で没、宝積寺に葬る。法名、心芳院殿前羽林次将松巌浄大居士。<br /><br />三 代  信 昌<br />信良の長男、2歳で父の遺領を相続。幼主の後見人は叔父高長。領内を検知。寛永19年(1642)小幡陣屋を完成、福島から移住。慶安3年(1650)没、26歳。宝積寺に葬る。法名(略)。<br /><br />四 代  信 久<br />高良の四男、のち信昌の養子となり、60余年間藩主として、用水・土地開発等、民生に尽くす。また、崇福寺を起す。正徳4年(1714)没。72歳。法名(略)<br /><br />五 代  信 就<br />信久の三男。享保16年(1731)没。71歳。法名(略)<br /><br />六 代  信 右<br />信就の長男。のち病体の為隠居。宝暦12年(1762)没。50歳。法名(略)<br /><br />七 代  信 富<br />信就の七男、信右の養子となる。明和元年(1764)没。42歳。法名(略)<br /><br /><br />墓石は、いずれも五輪塔で、初代から順々に並んでいる。後方の墓跡は領主の妻子であろう。また、八代信邦は執政中「明和事件」が起り、隠居蟄居となり、移封先の高畠で死去した。<br /><br />追記<br /><br />(一)織田氏領地の村々<br />小幡・昌・国峰・善慶寺・後賀・大島・上下高瀬・田篠・墨田・上下福島・上下白倉・金井・天引・長根・田島など・・・・・・・・・・。<br /><br />(二)織田氏の家臣<br />六代信右の宝暦3年の記録によると、士分143名、医師茶坊主11名、隠居2名、無格2名、足軽61名、計219名であった。<br /><br />(三)崇福寺中興の口伝<br />四代信久、宝積寺(朱印地30石)住職交代の替山式に当り、席次を小幡氏(旧藩主家)、小柏氏(大旦那 大施主)の下、第三席を与えられたことを怒り、急に先祖の墓石を移したと言い伝えられている。<br /><br />   令 和 2 年 3 月<br />               甘 楽 町 教 育 委 員 会 」<br /><br />

    小幡織田家七代の墓・説明板

    「 甘楽町指定史跡
       織 田 氏 七 代 の 墓
                     甘楽町大字小幡字崇福寺1416
                     面積(墓地)1442平方メートル
                     昭和38年11月1日指定第6号

    織 田 氏
    織田信長の二男の信雄が、元和元年(1615)、大和松山と上野小幡で5万石の藩主となった。これが小幡織田氏の始めである。のち、三代信昌は祖父信雄の遺命により5万石の領地のうち、松山3万石を叔父織田高長に譲り、父二代信良の遺領分小幡2万石のみの領主となった。

    その後、明和4年(1767)、山県大武等による幕府転覆の謀議に、八代信邦の家老吉田玄蕃が加担したとされる「明和事件」により信邦の養子信浮が出羽高畠2万石に移封されるまで、8代152年間の小幡藩主であった。


    崇 福 寺
    ここより南西に直線1.5キロメートル離れた場所に存する宝積寺は、曹洞宗の寺院であり、旧藩主小幡氏の菩提寺で格式も高かったので、織田氏も三代までこの寺を菩提寺としていた。

    しかし、四代信久は急に、廃寺であった崇福寺を3年間で改築、臨済宗に改めて菩提寺とし、宝積寺から先3代の墓跡をここに移した。その後、宝暦8年(1758)焼失。再建後、明治4年(1871)失火により再度全焼した。墓石の破損はこの時生じたものと言われる。

    この墓前の広場が寺跡であり、回廊が墓に達し、墓石には、一個ずつ上屋がついていたという。今、入口には「下馬」の碑が、また、石段上には高遠の石工による「三石一宮造」の勝れた「石殿」が残されている。

    七 代 の 略 伝

    初 代  信 雄
    信長の二男、本能寺の変後、百万石の清州城主、のち所領を失い、大坂夏の陣後、小幡領主。寛永7年(1630)没、73歳。京都大徳寺に葬り、小幡宝積寺、大和室生山に分骨。法名、徳源院殿正二位前内府実厳常真公大居士。

    二 代  信 良
    信雄の四男、父の所領5万石のうち、小幡2万石を相続、福島に住み、父に先立つ寛永3年(1626)、43歳で没、宝積寺に葬る。法名、心芳院殿前羽林次将松巌浄大居士。

    三 代  信 昌
    信良の長男、2歳で父の遺領を相続。幼主の後見人は叔父高長。領内を検知。寛永19年(1642)小幡陣屋を完成、福島から移住。慶安3年(1650)没、26歳。宝積寺に葬る。法名(略)。

    四 代  信 久
    高良の四男、のち信昌の養子となり、60余年間藩主として、用水・土地開発等、民生に尽くす。また、崇福寺を起す。正徳4年(1714)没。72歳。法名(略)

    五 代  信 就
    信久の三男。享保16年(1731)没。71歳。法名(略)

    六 代  信 右
    信就の長男。のち病体の為隠居。宝暦12年(1762)没。50歳。法名(略)

    七 代  信 富
    信就の七男、信右の養子となる。明和元年(1764)没。42歳。法名(略)


    墓石は、いずれも五輪塔で、初代から順々に並んでいる。後方の墓跡は領主の妻子であろう。また、八代信邦は執政中「明和事件」が起り、隠居蟄居となり、移封先の高畠で死去した。

    追記

    (一)織田氏領地の村々
    小幡・昌・国峰・善慶寺・後賀・大島・上下高瀬・田篠・墨田・上下福島・上下白倉・金井・天引・長根・田島など・・・・・・・・・・。

    (二)織田氏の家臣
    六代信右の宝暦3年の記録によると、士分143名、医師茶坊主11名、隠居2名、無格2名、足軽61名、計219名であった。

    (三)崇福寺中興の口伝
    四代信久、宝積寺(朱印地30石)住職交代の替山式に当り、席次を小幡氏(旧藩主家)、小柏氏(大旦那 大施主)の下、第三席を与えられたことを怒り、急に先祖の墓石を移したと言い伝えられている。

       令 和 2 年 3 月
                   甘 楽 町 教 育 委 員 会 」

  • 小幡織田氏七代の墓・説明板

    小幡織田氏七代の墓・説明板

  • 初代織田信雄五輪塔<br /><br />全七基の五輪塔が横に並んでおり、その右端には初代藩主である織田信雄の五輪塔が設置されています。

    イチオシ

    初代織田信雄五輪塔

    全七基の五輪塔が横に並んでおり、その右端には初代藩主である織田信雄の五輪塔が設置されています。

  • 初代織田信雄五輪塔(近景)

    初代織田信雄五輪塔(近景)

  • 織田家家紋<br /><br />いわゆる「木瓜紋(もっこうもん)」と呼ばれる織田氏の家紋が刻されています。

    織田家家紋

    いわゆる「木瓜紋(もっこうもん)」と呼ばれる織田氏の家紋が刻されています。

  • 崇福寺の寺域跡<br /><br />信雄五輪塔から見渡す下段の畑一帯はかつては寺院の一部だったと思われます。<br /><br />

    崇福寺の寺域跡

    信雄五輪塔から見渡す下段の畑一帯はかつては寺院の一部だったと思われます。

  • 織田家歴代藩主五輪塔<br /><br />二代信良から七代信富に至る歴代藩主の五輪塔が並んでいます。

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    織田家歴代藩主五輪塔

    二代信良から七代信富に至る歴代藩主の五輪塔が並んでいます。

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