2018/07/08 - 2018/07/08
443位(同エリア687件中)
滝山氏照さん
吉井山・玄太寺(げんだじ、群馬県高崎市吉井町吉井)は天正18年(1590)小田原戦役後関東に入府した徳川家康に従い2万石の所領を与えられ当地に陣屋を構えた譜代大名菅沼定利(すがぬま・さだとし、生誕不詳~1602)によって創建された曹洞宗の寺院です。
定利は東三河における山家三方衆(やまがさんぽうしゅう、設楽郡を中心とする奥三河に割拠した作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、田峯の菅沼氏を中心とする有力土着領主)のうち、惣領家である田峯菅沼氏の出身で、戦国時代の奥三河は南進する武田氏と西進する今川氏の草刈り場で各地領主は自勢力保全のため、双方の勢力の変化に対応してある時は武田氏、ある時は今川氏と主家を変えていました。
永禄3年(1560)今川義元が桶狭間合戦で殺害され、今川氏から独立し西三河を統一した徳川家康が奥三河に侵攻、当地域では武田氏と徳川氏のいずれかに属するかの綱引きがおこなわれるなか、元亀2年(1571)惣領家田峯の実父菅沼定吉が武田氏に与したことに異を唱え、定利は庶流に当たる菅沼定盈(すがぬま・さだみつ、1542~1604)に合流し徳川方に属することになります。
武田氏滅亡に伴い武田氏に与した宗家菅沼定吉らは没落、田峯菅沼家の名跡を継いだ定利は信濃国の領有化実現をめざす家康命により同国伊那郡に入部し定利出身の旧田峯菅沼の部将勢力を掌握して同地における勢力安定化に務め、更に秀吉に臣属した越後上杉氏との国境設定交渉に携わるなど重要な使命にあたります。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦で定利は秀忠軍に従い真田昌幸の上田城攻撃に参戦、慶長7年(1602)に死去、遺体は当時菩提寺とされた仁叟寺(じんそうじ、吉井町神保)に埋葬されますが、150年後菅沼一族後裔で三河国新城三代藩主の菅沼定用(すがぬま・さだもち、1701~1768)によって玄太寺に改葬され現在に至っています。
尚定用は上述の田峯家の庶流にあたる野田菅沼氏系で、六代定昭(さだあきら)に嗣子なく23歳で死去、丹波亀山の3万8千石が無嗣改易となります。しかしながら幕府は定盈以来の忠勤の家系を絶やすことを惜しみ異母弟定実(さだざね)に遠祖の地である設楽郡1万石を与えて菅沼家を復活させる温情の処置がなされます。
大名格を有する1万石の定実(さだざね)は弟に知行3千石を与え、自らは7千石の交代寄合の身分に収まります。定用は定実から数えて三代目ということになります。
定利墓石の傍らに設置の説明板には下記の通り記載されています。
「 町指定史跡
菅沼定利墓碑 指定年月日 平成6年7月27日
所 有 者 玄 太 寺
天正18年(西暦1590)北条氏が滅びると、徳川氏が関東にはいり、今の吉井町から藤岡市にかけては平岩地区を除いて家臣の菅沼定利(すがぬまさだとし)の所領となった。菅沼定利は今国道となっている吉井町の大通りを整備し、吉井の宿場を造った。そして慶長5年(1600)自分の菩提寺として玄太寺を創建した。関ヶ原の戦いのあった年である。定利は慶長7年(1602)に亡くなった。
墓碑には「隆興院殿五位下前上 吉井領主広山玄太大居士 、慶長七年十月二十二日、菅沼織部政限定要塞収保焉、宝暦六丙子冬」とある。宝暦6年は1756年で、菅沼定用(さだもち)は徳川家譜代の家臣である。
高崎市教育委員会 」
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