大垣旅行記(ブログ) 一覧に戻る
岐阜と愛知の名城巡りです。

2018春、岐阜と愛知の名城(7/12):大垣城(2):模擬天守、城内展示品、城下町のジオラマ

15いいね!

2018/05/20 - 2018/05/20

173位(同エリア415件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

岐阜と愛知の名城巡りです。

PR

  • かつての大垣城の『時の太鼓』の展示のようです。打撃面に黒い九曜紋が記されていました。

    イチオシ

    かつての大垣城の『時の太鼓』の展示のようです。打撃面に黒い九曜紋が記されていました。

  • 『天気よければ大垣様の時の太鼓の音のよさ』の文字が墨書された額の光景です。汀園書の落款がありました。

    『天気よければ大垣様の時の太鼓の音のよさ』の文字が墨書された額の光景です。汀園書の落款がありました。

  • 『大垣の古謡』のタイトルがあった、説明パネルの光景です。先程の『天気よければ大垣様の時の太鼓の音のよさ』の解説が記されていました。大垣城の『時の太鼓』は、俵町柳口門の外にあり、毎日、時を報せていました。

    『大垣の古謡』のタイトルがあった、説明パネルの光景です。先程の『天気よければ大垣様の時の太鼓の音のよさ』の解説が記されていました。大垣城の『時の太鼓』は、俵町柳口門の外にあり、毎日、時を報せていました。

  • 『大垣城改修工事』のタイトルがあった説明パネルの光景です。

    『大垣城改修工事』のタイトルがあった説明パネルの光景です。

  • 『天守の外観』のタイトルがあった、説明パネルの光景です。

    『天守の外観』のタイトルがあった、説明パネルの光景です。

  • 中団が『懸魚(けぎょ)』、最下段が『鬼瓦(おにがわら)・邪鬼瓦(じゃきがわら)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。<br />

    中団が『懸魚(けぎょ)』、最下段が『鬼瓦(おにがわら)・邪鬼瓦(じゃきがわら)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。

  • 3つに分割して紹介した説明パネルの全体光景です。

    3つに分割して紹介した説明パネルの全体光景です。

  • 城内に展示してあった、かつての城下町のジオラマ展示です。

    城内に展示してあった、かつての城下町のジオラマ展示です。

  • かつての城下町のジオラマ展示です。

    かつての城下町のジオラマ展示です。

  • かつての城下町のジオラマ展示です。

    イチオシ

    かつての城下町のジオラマ展示です。

  • 『美濃路・大垣宿』のタイトルがあった絵図の展示光景です。

    『美濃路・大垣宿』のタイトルがあった絵図の展示光景です。

  • 大垣城所蔵の『鑑札』の展示光景です。時代表示はありませんでしたが、江戸時代ではなく、明治時代の木札かも知れません。

    大垣城所蔵の『鑑札』の展示光景です。時代表示はありませんでしたが、江戸時代ではなく、明治時代の木札かも知れません。

  • 大垣城所蔵の『鑑札』のズームアップ光景です。左下に、寄贈したらしい人の住所と名前が記されていました。

    大垣城所蔵の『鑑札』のズームアップ光景です。左下に、寄贈したらしい人の住所と名前が記されていました。

  • 太政官名での『高札』の展示光景です。日本の律令制は、中国の制度を参考にしながら、7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施されました。その時の司法・行政・立法を司る最高国家機関を太政官と呼んだのが初出です。明治元年(1868年)、明治維新政府に設けられた官庁名として名前が復活し、1885年(明治18年)、内閣制度が発足したことで廃止されました。

    イチオシ

    太政官名での『高札』の展示光景です。日本の律令制は、中国の制度を参考にしながら、7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施されました。その時の司法・行政・立法を司る最高国家機関を太政官と呼んだのが初出です。明治元年(1868年)、明治維新政府に設けられた官庁名として名前が復活し、1885年(明治18年)、内閣制度が発足したことで廃止されました。

  • 『寺社奉行所札』の展示光景です。『御用』の文字を中央に、右側に寺名、左側に『寺社下』らしい刻印がありました。

    『寺社奉行所札』の展示光景です。『御用』の文字を中央に、右側に寺名、左側に『寺社下』らしい刻印がありました。

  • 『寺社奉行所札』のタイトルがあった表示パネルの光景です。

    『寺社奉行所札』のタイトルがあった表示パネルの光景です。

  • 『城下町大垣』のタイトルがあった説明パネルの光景です。

    『城下町大垣』のタイトルがあった説明パネルの光景です。

  • 『大垣宿の成立』のタイトルがあった説明パネルの光景です。

    『大垣宿の成立』のタイトルがあった説明パネルの光景です。

  • 『大垣藩札』の展示品です。大垣藩の財政難は、戸田氏鉄入封の頃から始まっ多とされます。寛永14年(1637年)に島原の乱が起き、その時の戦費などが原因です。さらに慶安3年(1650年)の大洪水が財政難に拍車をかけました。そして三代氏西の代の延宝8年(1680年)に延宝の大暇といわれる家臣の整理を行いました。国許、江戸詰合わせて176人にのぼったとされます。藩札が発行されたのは、この年です。

    『大垣藩札』の展示品です。大垣藩の財政難は、戸田氏鉄入封の頃から始まっ多とされます。寛永14年(1637年)に島原の乱が起き、その時の戦費などが原因です。さらに慶安3年(1650年)の大洪水が財政難に拍車をかけました。そして三代氏西の代の延宝8年(1680年)に延宝の大暇といわれる家臣の整理を行いました。国許、江戸詰合わせて176人にのぼったとされます。藩札が発行されたのは、この年です。

  • 『大垣藩札』のタイトルがあった表示パネルの光景です。藩札を最初に発行したのは、寛文元年(1661年)の福井藩です。福井藩は相次ぐ減封で藩財政が窮乏し、遂に領内でのみ通用する紙幣を発行しました。用紙は領内の五箇村で造られた特殊な『御留紙』で、この製造技法は藩の極秘事項とされていました。

    『大垣藩札』のタイトルがあった表示パネルの光景です。藩札を最初に発行したのは、寛文元年(1661年)の福井藩です。福井藩は相次ぐ減封で藩財政が窮乏し、遂に領内でのみ通用する紙幣を発行しました。用紙は領内の五箇村で造られた特殊な『御留紙』で、この製造技法は藩の極秘事項とされていました。

  • 筆書きの文字の下に焼き印が押された木製の『合印鑑』と、その包装紙の展示品です。包装紙の文字だけが異なっているようでした。江戸時代の通行手形の1種かもしれません。通行手形の発行は、武士の場合は藩庁に申請し、庶民の場合は在住地の町役人・村役人または菩提寺に発行を申請しました。これにはお寺の名前が記されていました、

    筆書きの文字の下に焼き印が押された木製の『合印鑑』と、その包装紙の展示品です。包装紙の文字だけが異なっているようでした。江戸時代の通行手形の1種かもしれません。通行手形の発行は、武士の場合は藩庁に申請し、庶民の場合は在住地の町役人・村役人または菩提寺に発行を申請しました。これにはお寺の名前が記されていました、

  • 『合印鑑(あわせいんかん)』の展示パネルの光景です。先程の木札に、『合印鑑』の文字がありました。通行手形は、現代のパスポートのようなものでしたが、時代背景により、武家の女性は移動について庶民よりも厳しく、女手形が必須でした。俗に、『入り鉄砲に出女』とも揶揄されました。

    『合印鑑(あわせいんかん)』の展示パネルの光景です。先程の木札に、『合印鑑』の文字がありました。通行手形は、現代のパスポートのようなものでしたが、時代背景により、武家の女性は移動について庶民よりも厳しく、女手形が必須でした。俗に、『入り鉄砲に出女』とも揶揄されました。

  • 3種類の『寛永天保通宝』の展示品です。右端の小判型の貨幣が『天保通宝』、その左側の二つの円形の通貨が、『寛永通宝』です。

    3種類の『寛永天保通宝』の展示品です。右端の小判型の貨幣が『天保通宝』、その左側の二つの円形の通貨が、『寛永通宝』です。

  • 『寛永天保通宝』の展示パネルの光景です。『寛永通宝(かんえいつうほう)は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨で、寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造されました。『天保通宝(てんぽつうほう)は、天保6年(1835年)に創鋳され、明治にかけて流通した銭貨です。天保銭(てんぽうせん)とも呼ばれ、小判を意識した楕円形で、中心部に正方形の穴が開けられています。

    『寛永天保通宝』の展示パネルの光景です。『寛永通宝(かんえいつうほう)は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨で、寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造されました。『天保通宝(てんぽつうほう)は、天保6年(1835年)に創鋳され、明治にかけて流通した銭貨です。天保銭(てんぽうせん)とも呼ばれ、小判を意識した楕円形で、中心部に正方形の穴が開けられています。

  • 『櫛(くし)・簪(かんざし)・笄(こうがい)』の展示品です。大垣城所蔵の江戸時代の品です。『笄(こうがい)』は『髪掻』からきている言葉といわれ、主に鬢を作り、乱れた髪を整える際に使用する棒状の道具でしたが、次第に髪飾りに変化していったようです。

    『櫛(くし)・簪(かんざし)・笄(こうがい)』の展示品です。大垣城所蔵の江戸時代の品です。『笄(こうがい)』は『髪掻』からきている言葉といわれ、主に鬢を作り、乱れた髪を整える際に使用する棒状の道具でしたが、次第に髪飾りに変化していったようです。

  • 『お歯黒染め用具』の表示があった展示品です。大垣城所蔵の江戸時代の品です。お歯黒(おはぐろ)は、明治時代以前の日本や中国南西部・東南アジアの風習です。主に既婚女性、稀に男性などの歯を黒く染める化粧法でした。

    『お歯黒染め用具』の表示があった展示品です。大垣城所蔵の江戸時代の品です。お歯黒(おはぐろ)は、明治時代以前の日本や中国南西部・東南アジアの風習です。主に既婚女性、稀に男性などの歯を黒く染める化粧法でした。

  • 右下に、『せいろ凾』の表示あった展示品です。その敷物のように見えました。黒い円の中に描かれているのは、正体不明の動物に見えました。

    右下に、『せいろ凾』の表示あった展示品です。その敷物のように見えました。黒い円の中に描かれているのは、正体不明の動物に見えました。

  • 金属製の丸い容器の展示品です『せいろ凾』のようでした。現代でも、金属製の『せいろ蒸し器』は使われています。

    金属製の丸い容器の展示品です『せいろ凾』のようでした。現代でも、金属製の『せいろ蒸し器』は使われています。

  • 2種類の七つ珠算盤の展示品です。中国で古くから使われた算盤とされ、各桁に五つ玉が2個ずつあります。また、1の珠も各桁に5個ずつあります。現代日本のそろばんは、五つ球が各桁に一つで、一つ球が四つずつです。

    2種類の七つ珠算盤の展示品です。中国で古くから使われた算盤とされ、各桁に五つ玉が2個ずつあります。また、1の珠も各桁に5個ずつあります。現代日本のそろばんは、五つ球が各桁に一つで、一つ球が四つずつです。

  • 七つ珠算盤の展示品の説明プレートです。大垣城所蔵の複製品との表示がありました。

    七つ珠算盤の展示品の説明プレートです。大垣城所蔵の複製品との表示がありました。

15いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP