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岐阜と愛知の名城巡りです。

2018春、岐阜と愛知の名城(8/12):大垣城(3):展示品、什器類、甲冑類、歴代藩主肖像

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2018/05/20 - 2018/05/20

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旅人のくまさん

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岐阜と愛知の名城巡りです。

交通手段
観光バス

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  • 『梨地蒔絵枕(なしじまきえまくら)』<br />横浜在住の戸田氏からの寄贈品<br />城主に所縁らしい人からの寄贈品です。『梨地』は、織物の生地表面が梨の皮や砂のようなざらざらの感じで、光沢感を消した織り方のことです。 タテ糸とヨコ糸を複雑に交差させることで、凹凸感のある生地表面が作り出されます。

    『梨地蒔絵枕(なしじまきえまくら)』
    横浜在住の戸田氏からの寄贈品
    城主に所縁らしい人からの寄贈品です。『梨地』は、織物の生地表面が梨の皮や砂のようなざらざらの感じで、光沢感を消した織り方のことです。 タテ糸とヨコ糸を複雑に交差させることで、凹凸感のある生地表面が作り出されます。

  • 『足付盥(あしつきたらい)』又は『布薩盥(ふさつたらい)』<br />東照宮拝領品<br />大垣城収蔵<br />布薩盥とは、寺院で、僧が集まって罪を懺悔するために行う布薩会において、手を浄める浄水を受ける盥のことです。

    『足付盥(あしつきたらい)』又は『布薩盥(ふさつたらい)』
    東照宮拝領品
    大垣城収蔵
    布薩盥とは、寺院で、僧が集まって罪を懺悔するために行う布薩会において、手を浄める浄水を受ける盥のことです。

  • 『足付盥(あしつきたらい)』又は『布薩盥(ふさつたらい)』の名札です。

    『足付盥(あしつきたらい)』又は『布薩盥(ふさつたらい)』の名札です。

  • 『九曜紋入茶台』<br />大垣城収蔵品<br />藩主や、その家族が使用した品のようです。

    『九曜紋入茶台』
    大垣城収蔵品
    藩主や、その家族が使用した品のようです。

  • 『紋入蒔絵矢筒と鞭』<br />横浜在住の田氏からの寄贈品

    『紋入蒔絵矢筒と鞭』
    横浜在住の田氏からの寄贈品

  • 『遠眼鏡(とおめがね)』<br />大垣藩使用<br />大垣城収蔵品

    イチオシ

    『遠眼鏡(とおめがね)』
    大垣藩使用
    大垣城収蔵品

  • 『桜蒔絵団扇(さくらまきえうちわ)』<br />東照宮拝領品<br />大垣城収蔵品<br />

    イチオシ

    『桜蒔絵団扇(さくらまきえうちわ)』
    東照宮拝領品
    大垣城収蔵品

  • 『桜蒔絵団扇(さくらまきえうちわ)』の名札です。横浜在住の藩主に所縁の方からの寄贈品のようです。

    『桜蒔絵団扇(さくらまきえうちわ)』の名札です。横浜在住の藩主に所縁の方からの寄贈品のようです。

  • 『印籠』<br />大垣城収蔵品

    『印籠』
    大垣城収蔵品

  • 唐子風の人物像の螺鈿細工の飾りが入った、『印籠』の名札の光景です。<br />

    唐子風の人物像の螺鈿細工の飾りが入った、『印籠』の名札の光景です。

  • 四重の堀に囲われた、かつての『大垣城』の縄張り図です。

    四重の堀に囲われた、かつての『大垣城』の縄張り図です。

  • 『庶民の生活』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上の中見出しが、『町民の生活』、下の中見出しが『農民の生活』でした。商人と職人とが町民とされ、身分は農民より下位とされましたが、お伊勢参りは盛んだったようです。また、農民が暮らす村には、庄屋を始めとする三役が置かれ、厳しい規制の下に生活が行われたようです。

    『庶民の生活』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上の中見出しが、『町民の生活』、下の中見出しが『農民の生活』でした。商人と職人とが町民とされ、身分は農民より下位とされましたが、お伊勢参りは盛んだったようです。また、農民が暮らす村には、庄屋を始めとする三役が置かれ、厳しい規制の下に生活が行われたようです。

  • 戸田一西(かずあき)公肖像<br />(1541~1603年)<br />藩祖<br />川地寿山画

    戸田一西(かずあき)公肖像
    (1541~1603年)
    藩祖
    川地寿山画

  • 戸田氏鉄(うじかね)公肖像<br />(1567~1655年)<br />初代藩主<br />川地寿山画

    戸田氏鉄(うじかね)公肖像
    (1567~1655年)
    初代藩主
    川地寿山画

  • 戸田氏信(うじのぶ)公肖像<br />(1599~1681年)<br />二代目藩主<br />川地寿山画

    戸田氏信(うじのぶ)公肖像
    (1599~1681年)
    二代目藩主
    川地寿山画

  • 戸田氏西(うじあき)公肖像<br />(1627~1684年)<br />三代目藩主<br />川地寿山画

    戸田氏西(うじあき)公肖像
    (1627~1684年)
    三代目藩主
    川地寿山画

  • 戸田氏庸(うじつね)公肖像<br />(1783~1841年)<br />八代目藩主<br />川地寿山画

    戸田氏庸(うじつね)公肖像
    (1783~1841年)
    八代目藩主
    川地寿山画

  • 戸田氏正(うじただ)公肖像<br />(1813~1876年)<br />九代目藩主<br />川地寿山画

    戸田氏正(うじただ)公肖像
    (1813~1876年)
    九代目藩主
    川地寿山画

  • 戸田氏彬(うじあきら)公肖像<br />(1831~1865年)<br />十代目藩主<br />川地寿山画

    戸田氏彬(うじあきら)公肖像
    (1831~1865年)
    十代目藩主
    川地寿山画

  • 戸田氏共(うじたか)公肖像<br />(1854~1936年)<br />十一代目藩主<br />川地寿山画

    戸田氏共(うじたか)公肖像
    (1854~1936年)
    十一代目藩主
    川地寿山画

  • 『石田三成の政権維持構想』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上の中見出しが『三成の構想』、中段の中見出しが『周りの状況』、下の中見出しが『三成の戦略』でした。豊臣家による治世を継続するためには、早い時期に徳川家との対決を画策していたとの解説になっていました。

    『石田三成の政権維持構想』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上の中見出しが『三成の構想』、中段の中見出しが『周りの状況』、下の中見出しが『三成の戦略』でした。豊臣家による治世を継続するためには、早い時期に徳川家との対決を画策していたとの解説になっていました。

  • 『その時三成は』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上の中見出しが『天下分け目の合戦に挑む三成の戦略』、下の中見出しが『西軍の弱点と三成の誤算』でした。内部の結束が重文でなく、情報戦でも負けて、東軍に手の内を見られていたようです。東軍が疲れている内に夜襲を掛けるなど、チャンスもありましたが、みすみすと見逃してしまいました。

    『その時三成は』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上の中見出しが『天下分け目の合戦に挑む三成の戦略』、下の中見出しが『西軍の弱点と三成の誤算』でした。内部の結束が重文でなく、情報戦でも負けて、東軍に手の内を見られていたようです。東軍が疲れている内に夜襲を掛けるなど、チャンスもありましたが、みすみすと見逃してしまいました。

  • 現代の劇画風に描かれた、太刀を抜き放った『石田三成』の甲冑姿です。右下に家紋が描かれていました。家紋は定かではなく、『大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)』、または『吉大一大万』が、足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像の裃に描かれています。石田氏は、九曜紋や桔梗紋を使用していたようです。

    現代の劇画風に描かれた、太刀を抜き放った『石田三成』の甲冑姿です。右下に家紋が描かれていました。家紋は定かではなく、『大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)』、または『吉大一大万』が、足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像の裃に描かれています。石田氏は、九曜紋や桔梗紋を使用していたようです。

  • 現代の劇画風に描かれた、槍を持った『島左近』の甲冑姿です。島左近は、『治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城』と謳われるほどの逸材でした。関ヶ原で果敢に戦い、討ち死にしました。家康にも同じような喩えがあります。『家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八』と言うものですが、『唐の頭』は西洋式の兜で、一時期、家康は洋装に凝っていて、部下たちに舶来の具足を着けさせていたようです。本多平八郎忠勝が生涯通して愛用し続けた剛槍が、『蜻蛉斬』です。『藤原正真作』の銘があり、『天下三名槍』の一つに数えられています。忠勝の戦場での数々の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは『まことに我が家の良将なり』と激賞されました。

    現代の劇画風に描かれた、槍を持った『島左近』の甲冑姿です。島左近は、『治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城』と謳われるほどの逸材でした。関ヶ原で果敢に戦い、討ち死にしました。家康にも同じような喩えがあります。『家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八』と言うものですが、『唐の頭』は西洋式の兜で、一時期、家康は洋装に凝っていて、部下たちに舶来の具足を着けさせていたようです。本多平八郎忠勝が生涯通して愛用し続けた剛槍が、『蜻蛉斬』です。『藤原正真作』の銘があり、『天下三名槍』の一つに数えられています。忠勝の戦場での数々の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは『まことに我が家の良将なり』と激賞されました。

  • 『その時家康は』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上の中見出しが『天下取りに懸けた家康』、下の中見出しが、『東軍の結束と家康の情報戦』でした。結果として成功した諜報戦の数々が列挙されていました。石田三成を大垣城から誘き出し、また、小早川を寝返りさせたことが大きかったようです。

    『その時家康は』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上の中見出しが『天下取りに懸けた家康』、下の中見出しが、『東軍の結束と家康の情報戦』でした。結果として成功した諜報戦の数々が列挙されていました。石田三成を大垣城から誘き出し、また、小早川を寝返りさせたことが大きかったようです。

  • 『紫糸素懸縅紋柄袖二枚胴具足』<br />『七十二間小星兜』<br />大垣城収蔵品<br />オリジナルの銅具足と兜のようでした。

    イチオシ

    『紫糸素懸縅紋柄袖二枚胴具足』
    『七十二間小星兜』
    大垣城収蔵品
    オリジナルの銅具足と兜のようでした。

  • 『紫糸素懸縅紋柄袖二枚胴具足』と『七十二間小星兜』の名前札の紹介です。赤穂事件(忠臣蔵)の事件の際、赤穂に使者として派遣された、大垣藩士の戸田源五兵衛が有事の備えに持参した品と紹介されていました。<br />

    『紫糸素懸縅紋柄袖二枚胴具足』と『七十二間小星兜』の名前札の紹介です。赤穂事件(忠臣蔵)の事件の際、赤穂に使者として派遣された、大垣藩士の戸田源五兵衛が有事の備えに持参した品と紹介されていました。

  • 『大垣城略年表』のタイトルがあった説明パネルの光景です。明応9年(1500年)の竹腰彦五郎による創建年説に始まり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの西軍・石田三成の本陣、明治2年(1869年)の版籍奉還などが紹介されていました。江戸時代の初めの石川氏は5万石でしたが、戸田氏に代わった寛永12年(1635年)から幕末までは、戸田氏の10万石が継続しました。

    『大垣城略年表』のタイトルがあった説明パネルの光景です。明応9年(1500年)の竹腰彦五郎による創建年説に始まり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの西軍・石田三成の本陣、明治2年(1869年)の版籍奉還などが紹介されていました。江戸時代の初めの石川氏は5万石でしたが、戸田氏に代わった寛永12年(1635年)から幕末までは、戸田氏の10万石が継続しました。

  • 『朱漆塗紺糸縅段替二枚銅具足』<br />大垣城収蔵品<br />レプリカのようにも見える綺麗な具足です。<br />

    『朱漆塗紺糸縅段替二枚銅具足』
    大垣城収蔵品
    レプリカのようにも見える綺麗な具足です。

  • 『朱漆塗紺糸縅段替二枚銅具足』のp名札の紹介です。使用者や製造年代などは記されていませんでした。<br />

    『朱漆塗紺糸縅段替二枚銅具足』のp名札の紹介です。使用者や製造年代などは記されていませんでした。

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