2018/04/20 - 2018/04/21
222位(同エリア470件中)
naoさん
旅の行程
4月20日 福島宿、上松宿、寝覚
4月21日 中津川宿、大井宿
東の信濃国境から西の近江国境に至る中山道の美濃路には、落合宿から鵜沼宿までの「東美濃九宿」と、加納宿から今須宿までの「西美濃七宿」の、総称して「美濃十六宿」と呼ばれる宿場町がありました。
岐阜県中津川市は、木曽路を抜けた中山道の美濃路にある町で、「美濃十六宿」と総称される16の宿場町の東側から2番目、かつ、江戸日本橋から数えて45番目の中津川宿が開かれました。
享和元年(1801年)の資料によると、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋2軒、旅籠屋27軒で構成される宿場町だった中津川は、同時に信濃と隣り合う東美濃の中心地として古くから六歳市で賑わったところで、町の中程を流れる四ツ目川を挟んで、本陣、脇本陣、問屋があるエリアと、塩、味噌、酒、呉服、紙、綿などを扱う商家が軒を連ねる商人町のエリアに分かれていました。
現在の中津川宿には本陣の遺構は残っていませんが、枡形や復元された脇本陣とともに、本卯建をあげた重厚な町家が点在しており、中山道の美濃路でも有数の宿場町だった往時の面影をしのばせる町並みが続いています。
中でも、享保3年(1718年)から明治時代初頭まで中津川の庄屋を勤め、島崎藤村の「夜明け前」にも登場する肥田家住宅は、江戸時代中期に建てられたと推定される豪壮な建物で、黒漆喰塗の木造2階建の両端には本卯建があげられ、格式の高さが窺い知れます。
なお、肥田家住宅は明治30年代に曽我家が譲り受け、現在は医院を開業されています。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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これは中津川宿の手前にある「尾州白木改番所跡」です。
明治時代以前、尾張藩の直轄地だった木曽谷から採伐した木材の内、丸太類の重量材は木曽川の流れに乗せて搬出し、白木類(木の皮を剥いた素地のままの木材)などの軽量材は牛、馬により搬出されていました。
このため搬出数量確認と抜け荷監視を目的に、川筋の各所に「川番所」を、また、中山道には「白木改番所」を設けて厳しい取締りが行われていました。 -
「尾州白木改番所跡」の横に立てられた中山道の石標。
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旭ヶ丘伏見稲荷神社の朱塗りの鳥居が・・・
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社殿へと続いています。
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これは芭蕉の句碑です。
「山路来て なにやらゆかし すみれ草」 -
句碑の傍らに立つ阿修羅像の石碑。
阿修羅像の石碑とは珍しいですね~、初めて見ました。 -
芭蕉の句碑の先には・・・
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中山道の石畳が復元されています。
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そろそろ中津川宿に入るようで、文化3年(1806年)の古い絵図が掲げられています。
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こちらは高札場跡です。
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高札場跡は茶屋坂という坂道の途中にあります。
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高札場跡の隣に立つ常夜燈。
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中津川市の小型の汚水枡の蓋。
市の花「サラサドウダン」がモチーフになっています。 -
土蔵造りの町家です。
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右側の建物では、詳細な構造様式や蔀戸などを見ることができます。
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反対側の腰壁は、全面下見板張りになっています。
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歩道に置かれたオブジェ。
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中津川宿の町並みです。
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こちらは元禄年間(1688年~1704年)創業の老舗和菓子屋さんです。
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こちらのお店の代表銘菓が「栗きんとん」だからでしょうか、店先に栗のオブジェが置かれています。
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木曽けやきの大看板に書かれた「すや」の文字は、良寛さんの書を使っているそうです。
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こちらの町家の出格子は壮観です。
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文化勲章受章者の前田青邨画伯は中津川の御出身だったんですね。
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中津川市の汚水桝の蓋。
中津川の夏まつり「おいでん祭」で踊られる「風流おどり」と、市の花「サラサドウダン」が描かれています。 -
こちらは、中津川宿を復元した小公園「往来庭」です。
町家の外観のみを再現して、中津川宿の町並みの雰囲気を表現しています。 -
歩道に設置された「おいでん祭」のモニュメント。
ちなみに、「おいでん祭」は毎年8月12日と13日に行われます。 -
町の中程を流れる四ツ目川が見えてきました。
この川を境に、ここまで歩いてきた商家が軒を連ねる商人町のエリアと、本陣、脇本陣、問屋があるエリアとに分かれています。 -
上小路にあるナマコ壁の土蔵。
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小さな祠をお祀りする町家です。
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中津川宿の本陣跡です。
現在、説明板があるだけで遺構などは残っていません。 -
無着色の中津川市の汚水桝の蓋。
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中津川宿の脇本陣跡です。
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こちらは再現された脇本陣跡の上段の間。
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上段の間の前面に広がる庭園。
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ナマコ壁の土蔵も再現されています。
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脇本陣跡の向かいには、板を張った土塀をめぐらせた豪壮な旧肥田家のお屋敷があります。
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道路の勾配に合わせて斜めに延びる土塀に、垂直に切り込んがくぐり戸が開けられています。
広大な敷地を有するが故の面白い光景で、ちょっと珍しいですね・・・。 -
旧肥田家は、屋号を「田丸屋」と言う旅籠屋を営むかたわら、享保3年(1718年)から宿場制度が廃止された明治5年(1872年)まで、中津川宿の庄屋を務めた旧家で、当時の当主が島崎藤村の「夜明け前」に「小野三郎兵衛」の名で登場しています。
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明治30年代に旧肥田家からこの建物を譲り受けた曽我家は、中津川最初の医院を開業され、現在に至っています。
この建物は江戸時代中期に建てられたものと推定されていて、切妻屋根平入りの木造2階建てで、大屋根の両妻には本卯建が掲げられています。 -
大屋根の両妻にあげられた本卯建。
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玄関の両脇には、門に変わって石柱が立てられています。
ちなみに、「中津川村庄屋跡」の石碑は観光案内用です。 -
本卯建と黒漆喰塗の外壁が格式の高さを物語っています。
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中津川宿の町並みです。
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軒下に鯉のぼりを飾って、そろそろ端午の節句ですね。
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この辺りは本陣や脇本陣があったエリアなので、町並みでは旅籠行燈をよく見かけます。
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左右の町家は、それぞれ様式が異なるように見受けるんですが、これで1軒のお宅のようです。
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上の写真西側の小公園に立っている常夜燈。
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中津川宿の町並みです。
少し先に枡形が見えてきました。 -
こちらの町家も端午の節句の準備ができています。
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千本格子の町家です。
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枡形に差し掛かりました。
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枡形の角に建つ町家は、菅笠などで宿場町の雰囲気を盛り上げておられます。
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枡形の石標は新しく設けられたようです。
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枡形を曲がって現れた光景です。
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逆に、枡形を振り返った光景です。
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枡形の先に連なる町並みには・・・
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美濃路でも有数の宿場町だった当時の面影を色濃く残す、重厚な町家が集まっています。
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こちらは老舗和菓子屋さんです。
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その店先に設けられた道標。
「右 木曽路」の文字が見えます。 -
ナマコ壁の建物も老舗和菓子屋さんのものです。
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こちらの町家は江戸時代中期に建てられたもので、旅籠屋を営んでいたそうです。
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所々に建築当初の姿を残しています。
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厨子2階建ての町家は改修工事の真っ最中です。
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本卯建の上がったこちらの町家は、観光客向けの休憩所やイベント会場として使われています。
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突き当たりがもう一方の枡形です。
中山道はこの枡形を右に曲がって行きます。 -
こちらは履物屋さんでは・・・
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手作りの可愛い鯉のぼりが格子を飾っています。
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履物屋さんの煙出しの越屋根と本卯建。
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履物屋さんの左側の妻壁は直線なので本卯建は真っすぐなんですが、右側の妻壁は微妙に出入りがあるので、本卯建も複雑に折れ曲がっています。
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ここまでの枡形の町並みを振り返って見たところです。
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こちらは、もう一方の枡形の先に続く町並みです。
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造り酒屋さんに飾られた酒樽。
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造り酒屋さんの本卯建が延々と連なっています。
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杉玉を吊る、懸魚のある庇も見事です。
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地元の方と外人観光客が談笑しています。
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これだけ本卯建が並ぶと壮観です。
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造り酒屋さんの建物群。
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郵便ポストのために石橋が架けられています。
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この町家でも鯉のぼりが泳いでいます。
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下見板張りの戸袋をしつらえた町家です。
この先に「ミニ中山道」と名付けられた遊歩道が整備されているので行ってみます。 -
「ミニ中山道」にやって来ました。
「ミニ中山道」は、JR中津川駅から分岐していた旧本州製紙中津川工場専用線の廃線敷を遊歩道として再生したものなんだそうです。 -
石垣を積んだ掘割は、ゆるやかな勾配のカーブが連続し、廃線跡の面影を留めています。
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「ミニ中山道」でデザインの違う中津川市の汚水桝の蓋を見つけました。
「恵那山」の山並みを囲むように、市の花「サラサドウダン」が描かれています。
では、中津川宿の町並みに別れを告げて、この旅最後の目的地へ向かいます。
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