2018/04/28 - 2018/05/04
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nichiさん
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炎天下の暑い中、カバーニャ要塞をぐるっと見て回った後、カバーニャ要塞の中にあるゲバラ博物館へ。
ゲバラ日記を子供の時に読んでいた私は、ここを訪れることも今回のキューバ旅行の目的の一つでした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
ここがゲバラ博物館の入口です。
-
キューバ革命後、チェ・ゲバラは国立銀行総裁及び工業大臣に就任しました。
ここカバーニャ要塞の中にある執務室で仕事をしていたようです。
今ではゲバラ博物館になっています。 -
ここがゲバラの執務室。
ずいぶん細長い部屋です。
この部屋で落ち着いて仕事できたのかなー? -
ここで仕事をしていたんですね。
-
ゲバラが愛用していたラジオ。
短波放送も聞けるラジオで、世界各国の放送を聞くことができるラジオです。 -
こんな服も着ていたんですね。。
ゲバラの衣服は軍服のイメージが強いです。 -
この部屋にゲバラが愛用していた様々なものが展示されていました。
説明書きがスペイン語のみ。
英語の併記があればなーーーーー!!!!!
医師でもあったゲバラ。
彼が使用していた医療器具も展示されていました。 -
カバーニャ要塞を出てチェ・ゲバラ邸に向かいました。
警備員に道を聞いたら英語が通じて
「右へ行ってさらに右。あとはまっすぐ。歩いて10分だよ。」
と教えてくれましたが、道は教えられた通りでしたが徒歩20分もかかりました。
炎天下の中の徒歩20分だったので、きつかったです。
こんなことだったらタクシーに乗ればよかったです。
途中、戦闘機や軍用車の残骸が展示してある博物館の前を通りました。
キューバ革命の時の残骸を集めた博物館だと思われます。
ゲバラ邸に到着。
ここでチケット購入
CUC6×2人 -
チェ・ゲバラ邸に入ろうとしたら、スペイン語圏の方々の団体さんが大勢入る所。
じゃああのキリスト像でも見てから入りましょう。 -
私たち2人はキリスト像に向かって歩きます。
-
かなり大きなキリスト像であることが判ります。
-
キリストはハバナ湾を見下ろしています。
私たちはここで日陰のベンチに座り、ハバナ湾を見て暫くゆっくり。
日陰は涼しいです。 -
ここから見たハバナ湾の景色の写真は何故かこの1枚のみ。
撮り忘れました。 -
スペイン語圏の団体さんが帰っていくのが見えたので私たちはチェ・ゲバラ邸へ。
-
壁に大きく
che
と書かれています。
チェ・ゲバラのチェとは、
「ねえ」とか「やあ」と言う意味です。 -
なんと、スタッフが流ちょうな英語で説明を始めました。
ガイドツアーを申し込んではいません。
ハバナ旧市街での市立博物館におけるいやーな目撃経験が頭をよぎりました。
でも、綺麗な英語だし、そもそもチェ・ゲバラを感じることが今回の目的の一つでもあるので、謙虚に説明を聞くことにしました。
結果的には素晴らしい丁寧な解説で、チップも受け取りませんでした。 -
キューバ革命で独立を果たした後、この家に住んだチェ・ゲバラ。
国立銀行総裁に就任した際、それまでフルネームで行うことが慣例だった紙幣へのサインに「チェ」とだけ記したとのこと。 -
彼が愛用したタイプライターやラジオやカメラ。
-
超小型カメラも。
-
チェスの達人だったゲバラ。
彼を因んでチェスを指せるようになっています。 -
新キューバ政権下で国立銀行総裁や工業大臣を務めていた時の家がここです。
-
ガイドさん「あなた方は日本人ですか?」
家内「はいそうです」
そうしたら、初めて聞く話を伺うことができました。
チェ・ゲバラは1959年に日本を訪れていたとのこと。
車や飛行機、精密機器の工場を見学し、広島で原爆ドームに献花をして帰国したそうです。
「日本人は何故アメリカに対して、戦争で原爆を所要所たことを抗議しないのですか?」
と聞かれ、私たちはビックリ!
実はこの質問、来日時にゲバラが日本の新聞記者に対して聴いていたそうです。
夜、ホテルに帰ってググってみたら、1,959年にゲバラ来日の件の情報がいくつもありました。
当時はあまりニュースにもならなかったとも。。
ゲバラが来日した翌年、日本とキューバの通商協定が締結されています。 -
そもそもかなり美男子だったゲバラです。
ジョン・レノンはゲバラのことを
「世界で一番格好良い男」
と言ったそうです。
外観だけでなく、その生き方のことを言ったんでしょうね。
知りませんでした。 -
団体さんが入ってきました。
ガイドさんが大声で説明しています。
スペイン語です。 -
カストロとゲバラの2ショット。
2人は深い絆で結ばれていました。 -
キューバ政府の要職に就いていたゲバラがなぜコンゴ動乱後,
混乱が続く現地で革命の指導を試みたのか?
何故ボリビアで亡くなったのか?
ここで色々とガイドさんの説明を受けました。
医師であるが故、病んでいる人をほっておけない。
よって、国が病んでいると革命と言う処方箋を持ってその国の国民を救いたい。
という理解でした。 -
こんな小さなベッドで寝ていたんですね。
-
「彼は39歳という若さで亡くなっているからこそ英雄になったのかもしれない。」
とのガイドさんの発言に私たちは、
「そういう考えもあるんだー」 -
思ったより小さくて質素な寝室です。
-
「人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか?」
ゲバラ日記の中に出てくるゲバラの有名な言葉です。
ガイドさんからこの話が出てきた時、少しうれしかったです。 -
革命家であったゲバラは医師でもあり写真家でもありました。
一番愛用したのはNIKONの一眼レフS2だったようですが、こんな二眼レフも使っていたんですね。
この二眼レフは旧ソ連製のようです。 -
キューバ革命を成功させたカストロとゲバラ。
何故、ゲバラの肖像画や顔のアートのみでカストロのそれが無いのか?
それは、カストロが肖像画になることを極端に嫌ったからだそうです。
ガイドさんの説明に私たちは
「へーーーっ。そうなんだー」 -
自宅の執務室。
-
葉巻好きだったゲバラ。
彼が愛用した葉巻ケースがテーブルの上にありました。
そんなゲバラは喘息持ちで、晩年まで喘息に苦しめられたそうです。
葉巻はゲリラ戦での虫除けにも用いらました。
また、キューバの特産品でもあるため、これを世界に向けてアピールする狙いもあったと言うことです。
知りませんでした。 -
ガイドさんの説明が面白く、つい色々質問しちゃいました。
帰り際にCUC10のチップを渡そうとしたら断られました。
「これが私の仕事だから」
とも。。。
なんか頭が下がります。 -
随分勉強になりました。
-
ゲバラ邸の前から。。。。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- たらよろさん 2018/06/06 12:46:47
- ジョンレノンも
- こんにちは、nichiさん
ジョンレノンが憧れて、
一番格好良い男と行ったのにはびっくりです。
何となく、風貌も全然違うので、結びつかない感じで・・
確かに、どこの国でも英雄は早く亡くなってしまったから英雄になっている節はありますね。
チェ・ゲバラさんもそのような見方もされていたんですね~
でも、やはり見れば見るほど男前です。
たらよろ
- nichiさん からの返信 2018/06/07 12:08:42
- RE: ジョンレノンも
- たらよろさん
こんにちは。
そうなんですよねーー
恐らくですが、ジョン・レノンはゲバラの生き方にカッコ良さを感じたんだと思います。
キューバで国の高い地位に就いたにもかかわらず,全てを捨てて他国の為に働くなんてなかなかできないでしょうし。
ビートルズ解散後にオノ・ヨーコと行った平和運動なども、ゲバラの影響を受けていたのかもしれませんね。
でも男前。
ベレー帽に葉巻は絵になりますね。
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