2018/04/13 - 2018/04/14
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montsaintmichelさん
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伊那市高遠と言えば、小京都の町並み、会津松平家の保科家が転封した地、高遠城主 仁科五郎盛信(信玄の5男)の終焉の地、武田信玄の娘 松姫の逃避行の起点、そして絵島の流刑の地など、多くの歴史に彩られた町です。中でも高遠城址公園は、三峰川と藤澤川に削られた河岸段丘の突端に位置し、高遠桜で有名な公園です。長野県内には数多の桜の名所がありますが、その中でも伊那谷は東西両方に連なる南・中央アルプスの峰々を借景にした野山や街の景色に薄紅色が透け込む桜の里です。
高遠城は、武田信玄が遠江や三河に進出する拠点として軍師 山本勘助に命じて縄張りさせた自然地形を巧みに活かした甲州流の堅城で、城主は武田氏一門が務め、別名「兜山城」と呼ばれた名城でした。
1582(天正10)年、「高遠城の戦い」で城主 仁科五郎盛信は壮絶な死を遂げました。また、籠城していた信玄の娘 松姫と攻城軍の総大将 織田信忠は元婚約者の関係でもあり、落城にまつわる悲話として語り継がれています。結局、この戦いが武田氏の滅亡に繋がるのですが、幸いなことに盛信は妹 松姫(22歳)と自分の娘 督姫(4歳)を新府城へ逃がしました。これが「松姫逃避行伝説」の幕開けです。
その後、城は廃藩置県で取り壊され、唯一残されたのは藩校「進徳館」だけでした。1875(明治8)年、荒れるに任せていた城址を何とかしようと兼子八十治をはじめ旧藩士らが一念発起し、「馬の姿が花に埋もれて隠れた」と伝わる城の対岸にあった馬場の桜木を城址に移植したのが現在の高遠桜の始まりです。深い歴史を刻みながら、今年も平和に桜を咲かせていました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
-
高遠城址公園 勘助曲輪
バス専用駐車場に一番近い「グランゲート」から登城します。添乗員さんの話では、満開時はこの駐車場にバスを止めることができず、もっと下の方で駐車してシャトルバスに乗る必要があるとのことです。事実、ここを発つ際には満車状態でした。また、道中での交通渋滞も見込まれるため、余裕をもたせたプランが必要なことを改めて知りました。恐るべし、高遠桜!
高遠城は、信玄の命により軍師 山本勘助が縄張りしたと伝えられています。勘助曲輪の名称は、築城設計者の山本勘助に因みますが、築城当初はこの曲輪はなく、大手口を東側から西側へ移した際、新たに造成されたものと考えられています。
鋭く勘が働くことを「ヤマカン」と言いますが、彼の機敏な性質が言葉の由来との説もあります。
現在は観光バスの駐車場になっていますが、以前は高遠高校のグランドでした。かつて中央には堀があり、南側が勘助曲輪、北側が武家屋敷だったそうです。勘助曲輪の広さは800坪近くあり、曲輪内には櫓や祭事務所、硝煙小屋、稲荷神社がありました。このうち、稲荷社は幕末に城下へ払い下げられ、勘助稲荷として西高遠の相生町に祀られています。 -
高遠城址公園
高遠城址公園の桜は、「タカトオコヒガンザクラ」と呼ばれ、花びらはソメイヨシノよりも小振りですが、群れをなして咲くためボリューム感があり、また、赤みが強く満開の頃は公園全体を薄紅色に染め上げ、白いソメイヨシノとは一味違った桜が愉しめます。園内には樹齢130年を超える20本の古木をはじめ1500本もの桜があり、古くから「天下第一の桜」とも称され、「日本三大桜の名所」に数えられています。また、「さくら名所100選」にも選ばれ、桜樹林は「県の天然記念物」に指定されています。
見頃は気温等によって変動しますが、例年4月上~中旬とされ、公園が薄紅色に染まる桜のシーズンには25万人の観光客が一気に押し寄せます。開花から散りはじめまでは10日~2週間が目安です。貴重な「コヒガンザクラ」を愛でながら、高遠城の歴史に想いを馳せてみてはいかがでしょうか?
公園MAPです。
https://takato-inacity.jp/h30/wp-content/uploads/2018/02/92d4a5f84a180d02262ed32d09e7c2b0.pdf -
高遠城址公園 高遠閣
今年は、過去23年間で最も早い4月1日の開花宣言となり、満開宣言も4月4日でした。ネットで桜情報をチェックしていたのですが、これほど散ってしまっているとは想定外でした。3日前の春の嵐が大きなダメージになった模様です。それにしても潔すぎです…。
今年は全国的に桜の開花が例年より1週間程早まり、各地の「さくらまつり」の開催が危ぶまれました。弘前公園の桜もGW前半で桜吹雪だったようです。実は、統計的にも桜の開花は年々早まっています。桜が開花するメカニズムは、蕾が冬の低温に晒された眠りから覚める「休眠打破」がトリガーになり、気温上昇でスイッチが入ります。
気象庁によると、開花日はこの50年で全国平均で5日早まっています。東京は4日、名古屋で6日、大阪も4日、福岡は7日等々。簡単に言うと、10年で1日早まっている計算です。今まで新生活や年度初めの風物詩として親しまれてきた桜ですが、将来はその歳時記とタイムラグが生じることになります。
九州大 伊藤名誉教授は「開花が早まっているのは地球温暖化が原因の一つ」とアラートを発しています。「温暖化が進めば休眠打破が不十分になり、同じ木でもダラダラと開花して一斉に咲かなくなる。満開の桜が楽しめなくなる」と懸念されています。自然が我々にアラートを送ってくれているのですから、それに気付かなくてはなりません! -
高遠城址公園 高遠閣
ここも必見スポットのひとつです。
1936(昭和11)年に建造された高遠城址公園のランドマーク的存在です。東京帝国大学図書館や帝国ホテル、日本郵船本社などを手掛けた建築家 伊藤文四郎博士の設計となり、登録有形文化財にもなっています。博士と高遠にどんな縁があるかと言うと、長野県伊南村(現 駒ケ根市東伊那)出身だそうです。
満開時なら高遠閣が桜にまみれ、建物と桜のコントラストが鮮やかだろうと思います。歴史的建造物を借景に厳かな凛とした空気の中で咲き誇る桜花は、同じタカトオコヒガンサクラでも特段に美しく映るのでは…。 -
高遠城址公園 高遠閣
高遠閣は、公園内に公会堂を建てて町民の集会所や観光客の休憩所にすれば、これが町の発展に繋がるという「町を愛する精神」から発案されました。日本画家 池上秀畝氏、出版業 矢島一三氏、鉱山業 廣瀬省三郎氏、弁護士 小松傳一郎氏の寄附により、廣瀬常雄町長の協力の下、棟梁 竹内三郎氏を中心に建築が進められ、1936(昭和11)年に建てられました。
木造2階建、入母屋造、鉄板葺(建築当初は柿葺)、伝統的な要素として千鳥破風や唐破風を散らし、近代的な要素として開口部や車寄せ、内部の造作などに趣向を凝らした大規模建築物で、昭和時代初期の稀有な建物として国の有形文化財に登録されています。
外観は、東京銀座にあった歌舞伎座(第3期)の建築様式を採り入れたそうです。また、県天然記念物の桜樹林の中に高く聳える赤い屋根の偉容は遠方からも眺められ、高遠城址公園のランドマークにもなっています。
有料ですが史跡高遠城跡を訪れる観光客の休憩所等に利用されています。 -
高遠城址公園 桜雲橋(おううんきょう)
高遠城址公園内随一のお花見スポットとなるはずの「桜雲橋」ですが、残念なことになっています。
名の通り、老木の枝が大きく垂れ下がり、薄紅色の雲を彷彿とさせる桜花に覆われる橋です。本丸と二の丸を結ぶこの太鼓橋は、桜の季節には終日観光客で賑っています。橋の上からと下からで異なる風情を魅せるのが心憎いところです。
因みに、この「桜雲橋」は高遠城遺構ではなく、後世に造られた橋です。一昔前は岩国市にある錦帯橋のような丸い太鼓橋だったそうですが、観光客が滑って危険なため、カーブが緩やかな橋に架け替えたそうです。外観では見分けが付きませんが、完全な木橋ではなく一部にコンクリートが使われています。その理由は、橋を架ける際、「城ならば軍用車両が通行できる橋とすべし」と主張する輩がおり、景観を重んじる木造派と争った結果、折衷案が採用されたからだそうです。工事車両ならともかく、軍用車両とは物騒なことです。 -
高遠城址公園 ひょうたん池
桜はまた、その散り際も美しいものです。桜雲橋の下にある池では、満開を過ぎると散った桜が吹雪のように舞い、一面に絨毯のように敷き詰められた花筏が見られます。その様もまた美しく幻想的であり、儚さを滲ませます。
因みに、満開時、桜雲橋下の池畔からは桜花を額縁にしたハートの形をした蒼空が仰ぎ見られるそうです。また、池に映り込む逆さ桜も格別なことでしょうね! -
高遠城址公園 ひょうたん池
高遠の歴史をかいつまんで紹介しましょう。
高遠の町は、中世から近世において高遠城の城下町として発展し、江戸時代には高遠藩 内藤氏3万3000石の本拠となり、上伊那地方の政治・文化・経済の中心を担いました。明治時代の文豪 田山花袋が「高遠は山すその町 ふるき町 行きかう子等の美しき町」と謳ったように、高遠には今も街路や家並みに藩政時代の面影が偲ばれます。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によると、長谷村と高遠町は「黒河内(くろごうち)藤沢」と呼ばれ、黒河内藤沢庄という荘園の一画でした。荘園は黒河内郷と藤沢郷(高遠)からなり、いずれも諏訪大社(上社・下社)の領地であり、幕府の御家人だった藤沢氏が治めていました。
1333(元弘3)年、鎌倉幕府と北条氏が滅んだ後、藤沢郷を支配したのは、諏訪氏一門の高遠頼継でした。高遠氏は諏訪上社に大祝として奉仕した諏訪氏の一族です。高遠城を居城とし、天文年間に武田信玄に攻められるまで、7代200年間この地を治めました。因みに、武田氏の諏訪侵攻の口実を与えることになったのは、皮肉にも諏訪氏一族の内紛だったそうです。本来、外に向けるべきエネルギーを内に向けると足元を掬われます。企業も同じことです。 -
高遠城址公園 ひょうたん池
戦国時代は、信玄ですら同盟を結んで国を守りました。そんな折、側室 油川夫人に松姫が産まれ、信玄は上杉謙信との戦いに集中すべく織田信長や北条氏康と三国同盟を結び、信長の嫡男 信忠(11歳)と松姫(7歳)を婚約させました。しかし、信玄が徳川家康と三方ヶ原で戦った際、信長が家康に援軍を送ったことから婚約は破談になり、両家は敵対していきました。やがて信玄が上洛途上で病に倒れて亡くなると、信忠の許婚だった松姫は織田に親しい者との偏見から武田勝頼の元に居られず、松姫の実兄 仁科五郎盛信が保護しました。
天正7年、信長の勢力に危機感を募らせた勝頼は、伊那と甲斐を結ぶ要衝の高遠城に弟 盛信を配して守りを固めました。天正10年正月2日、韮崎の新府城落成記念と新年の祝いが済み、松姫は盛信に伴って高遠城入りしました。しかし、その2月、信長は、甲斐へ侵略すべく木曽義昌を寝返らせ、これを契機に武田領へ攻め入り、まず高嶋城(茶臼山城)を陥落させました。 -
高遠城址公園 ひょうたん池
やがて、高遠城へは信忠率いる5万の軍勢が侵攻。素早く危険を察した盛信は、松姫に自分の娘 督姫を託して新府城へ退避させました。そして勇猛で知られた盛信は、高遠城を死守せんと家臣と供に戦うも、圧倒的な戦力差から敢え無く自刃しました。許婚だった相手に実家を攻められるという非情な運命に翻弄された松姫をはじめ信玄の子らには、高遠城が永遠の決別の地になりました。
壮絶な壊滅戦への手向けとなる裏話が残されています。籠城していたと思われていた松姫と侵攻してきた信忠との悲恋話です。
信忠は、誰よりも早く石垣や塀を登って城内に入るという無謀な行動を取っています。攻め手に「鬼武蔵=森長可」や「鬼兵庫=各務兵庫」がいたことから、必死に元婚約者を救おうとしたと考えられています。しかし、目立つ甲冑を身に纏った総大将がこうした危険な行動をしながら傷ひとつ負わなかったのは、盛信が「妹の想い人だから」と城兵に「信忠を狙うのを禁じた」からとも伝わります。 まさしく戦国版『ロミオとジュリエット』です。 -
高遠城址公園 ひょうたん池
松姫は自害も考えましたが、幼い姫を託され、命の保証もないまま北条氏を頼り東へと逃れました。しかも甲府からは4つも峠を越えなくてはならない間道で、女子供には過酷な逃避行でした。
本能寺の変の直前、武蔵国八王子に松姫が生存していると知った織田信忠は、改めて妻に迎えたいと使者を送りました。そして松姫が信忠の元へ向かう途中、本能寺の変を知ったとの説があります。また別の説では、北条氏照の配慮により信忠からの迎えの輿を待つ運びとなるも、約束の輿は待てども来ず、信長が本能寺で死に、信忠も妙覚寺で死すとの知らせだけが届けられたとも伝えられます。
一方、信忠の子 秀信は母親がはっきりせず、一説には松姫とも言われています。武田氏と織田氏が敵対する2年前の生まれであり、可能性はあります。もし、本能寺の変が起こっていなければ、松姫の人生は大きく変わっていたことでしょう。 -
高遠城址公園 桜雲橋
その後、松姫は、北条氏照の祈願寺 心源院で出家し、信松尼となり8年間を過ごしました。北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた頃は、八王子 御所水のあばら家に住み、尼僧の傍ら寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教える日々でした。生涯を終えるまで婚約者 信忠への愛を貫き通し、心優しい松姫は八王子の地元民からも慕われたと伝えられています。
徳川家康は、天下統一後、松姫が恩方にいるのを知り、元武田家臣で八王子の代官頭 大久保長安に支援を指示。長安は自分の家の近くに信松尼のために草庵を建てるなど、旧武田家臣が多かった貧しい八王子千人同心の心の支えにもなったと伝えます。こうした徳川家の支援に応え、松姫も恩を返します(このお話は後ほど)。やがて1616年に松姫が56年の生涯を閉じると、それを見届けたかのように家康も逝去しています。
ところで、松姫が出家した際の名は、「信松尼(信松院)」です。気になるのは、「信」の字を冠したことです。その由来は、信玄なのか、盛信か、それとも信忠??? -
高遠城址公園 問屋門
二の丸から本丸への入口「桜雲橋」の先に立つ問屋門は城門ではなく、城下の本町の問屋役所から移築された門です。江戸時代、主な街道には宿駅が定められ、問屋と称し、公用の荷物の継ぎ送りや旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人が置かれていました。
問屋役所の建物が取り壊しされる際、売却されたそうですが、歴史ある門が高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて1948(昭和23)年に現在地に移築しています。
現在では、桜雲橋と共に、城址には欠かすことのできない景観シンボルのひとつとなっています。 -
高遠城址公園 本丸跡
この満身創痍の桜木が、旧藩士らが植えた樹齢130年を超える古木なのでしょう。落城の際、「城主盛信は、割腹し、自らの手で腸を壁に投げ付けて果てた」と古書は伝えますが、それを彷彿とさせる桜木の姿ではありませんか…。
ガジュマルとかアコウのような絞め殺し植物を思わせますが、立札を読むと、これは「桜の若返り方法」によって蘇らせた桜のようです。親木の樹皮の上に発芽した若芽に壁土を付けて根を成長させたものだそうです。若木が成長すると土台となった親木が枯れても大丈夫だそうです。手前は、65年前に処置されたものです。見た目は武骨ですが、生命力の逞しさに脱帽です。後方の桜木の正面には若い幹が見られます。これで5年だそうです。 -
高遠城址公園 本丸跡
時折、名残りの桜吹雪が舞います。
高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二の丸、更にその外側に三の丸を廻らした城郭三段の城構えでした。
城主 仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な死を遂げた後、城主は保科氏、鳥居氏と移り替わり、1691(元禄4)年からは内藤氏が廃藩まで8代180年間に亘って務めました。
江戸時代、本丸には城主の権威の象徴となる天守はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあっただけだそうです。本丸御殿は政庁であると共に藩主の住居も兼ねましたが、廃城時、城内の建物は取り壊されています。
現在は、桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、この地で眠る幾多の志士への手向けにと散華が幾重にも降り注ぎ、ピンクの絨毯を敷き詰めます。 -
高遠城址公園 本丸 太鼓櫓
江戸時代には、太鼓を打って時刻を知らせていました。鼓楼は搦手門の傍らにあり、楼上に三鼓を備え、常に番人を置き、時刻が来ると予備の刻み打ちを繰り返した後、時の数だけ太鼓を打って知らせていました。
廃藩置県で城の建物などが撤去された折、対岸の白山に鼓楼が新設されて太鼓が移されましたが、1877(明治10)年頃に本丸 西南隅の現在地に戻し、現在の鼓楼は1912(明治45)年に建造されたものです。
因みに、高遠では、旧制通りに午前6時~午後6時まで偶数の時刻を打つことが1943(昭和18)年まで続けられていたそうです。戦後は高遠高校で太鼓を打って授業開始と終了を知らせていましたが、現在、その太鼓は高遠町歴史博物館に展示されています。
『高遠町誌』には、太鼓櫓の守役だった重盛四郎治氏の話が載せられています。
「彼は明治10年代から太鼓櫓の番人を引き受け、朝6時から夜の8時までいっとき(2時間)毎に太鼓を打って時を知らせた。大正6年、70歳で亡くなるまで雨の日も風の日も1日も休まず2時間おきに打ち続けた」とあります。
重盛氏のような実直な人達が高遠城下の時を支えてきたのだと思うと、この太鼓楼も愛おしく見えてきます。 -
高遠城址公園 白兎橋
文政の頃、高遠で酒造業を営み、藩の仕送役を勤めた廣瀬治郎左衛門は、その号を「白兎」と称し、謡曲・俳諧・和歌などを嗜む風流人でした。百姓一揆の際、自家の米蔵を開放して奉行所に押寄せた百姓らに分け与え、鎮火させたという逸話が残されています。また、弁財天橋を自費で修理するなど、公共のために尽力した徳のある人物としても知られています。
その曾孫 省三郎(奇璧)は私有地となっていた法憧院曲輪を買上げ、そこを公園として寄付しました。その際、南曲輪へ通じるこの橋を架け、曽祖父の俳号に因んで「白兎橋」と命名しました。
橋が架けられたのは1934(昭和9)年、現在の橋は1970(昭和45)年に架け替えられたものです。鉄筋コンクリート製の永久橋への架け替えは、省三郎の遺訓に従い、遺志金で賄われたそうです。
手前の独立柱となっている親柱が当初架設時の親柱と窺えます。 -
高遠城址公園 白兎橋
この橋からは、雪景色の中央アルプスが見渡せます。中央付近左が伊那前岳、中央雪の山は木曽駒ヶ岳、右は将棊頭山です。
名君として知られる3代将軍家光の異母弟 保科正之は、ここ高遠で育ち、高遠藩主となりました。後に会津藩主となり、徳川幕府の礎を築いた偉人です。江戸時代中期の3名君として、池田光政(備前岡山藩主)や 徳川光圀(常陸水戸藩主)と肩を並べます。因みに、本丸の南にある南曲輪が、保科正之が幼少の頃、母 お静の方と暮らした処だそうです。
明治時代になり、その城址に旧藩士たちが植えた桜が、今や「天下第一の桜」として知られるようになりました。民の幸せのために尽くした正之の心持ちが、桜に化身したように思われてなりません。 -
高遠城址公園 白兎橋
2代将軍 徳川秀忠は、大奥で大姥局に仕える侍女 お静に想いを寄せていました。しかし苛烈な性格の正室お江の方の悋気に触れるのを恐れて最初の子を水子にせねばならず、2人目の懐妊では武田信玄の娘の見性院 信松尼(松姫)の庇護の下で産みました。その子が幸松、後の保科正之です。信玄の娘が家康の孫を育てるとは不思議な因果です。かつて家康が三方ヶ原でボコボコにされた宿敵 信玄の娘ですから…。
幸松は、7歳で信松尼の口利きで高遠藩保科家へ養子に出され、そこで仁政を学びました。この時、お静の方も伴って高遠へ来ています。21歳で養父 正光の逝去により名を正之と改め、高遠藩3万石の藩主となりました。
その頃、江戸城では3代将軍 家光が実弟 忠長の処遇に苦慮していたこともあり、幕府は正之が家光の異母弟と知りながら処遇を改めませんでした。しかし、家光が蛸薬師成就院の住職から正之が弟だと聞き、徐々に引き立てるようになりました。弟ではなく家臣として仕えようとする謙虚な姿に心打たれたのです。 -
高遠城址公園 保科正之とその母「お静」の像
やがて徳川家光に認められた保科正之は、26歳で最上山形20万石を与えられ、高遠から家臣を連れて転封。ここから政治家としての本領を発揮していくのですが、高遠保科家の重臣らが手足となって支えます。次第に幕政にも参画するようになり、武家諸法度の改定にも一役買いました。
33歳で会津23万石へ転封となり、この地で仁政を実行に移しました。家光逝去で4代将軍 家綱の後見を任され、以来20年以上会津へ帰えらず重臣達に藩政を委任して幕政に尽力しますが、大切な仁政は江戸から指示して藩政に反映させました。明暦の大火で焼失した江戸城天守の再建では、「今は国力を費やす時にあらず」と庶民の生活の安定を優先して再建を認めず、徳川幕府の磐石な基礎と平和な時代をつくり上げました。 -
高遠城址公園
保科正之は徳川秀忠の異母弟として出世街道を邁進したと思われるかもしれませんが、実はその人生は波乱万丈でした。幼少時は、お江の方の一派に命を狙われ裏長屋で暮らしました。何時か江戸城から迎えが来ると信じて待つもそれも叶わず、やがて高遠への逃避が始まりました。救われたのは、高遠藩士たちが将軍に仕えるのと同じ心で正之に尽くしてくれたことでした。正之はこれを生涯の恩とし、将軍から「姓を松平に改めよ」と言われても固辞しています。
一方、正之には子が15人いましたが、全員早逝しており、心が安まることはありませんでした。明暦の大火では江戸の町が廃墟になり、江戸城も類焼し、正之はその救済に奔走し、自分の屋敷を気遣うことすらできませんでした。その際、屋敷を守っていた嫡子 正頼は、疲労が祟って病死しています。正之はその悲しみを必死にこらえて江戸城へ赴き、江戸の再建に陣頭指揮を執りました。
50歳の頃から結核を病み、更には眼病を併発して晩年に失明するも、それでも自己や家族のことよりも万民の幸福を願い続けながら62年の生涯を閉じました。 -
絵島囲み屋敷
アナウンスによれば、このタカトオヒガンザクラが今日現在最も花を付けている木だそうです。
民謡『会津磐梯山』に「朝寝、朝酒、朝湯が大好き」と謡われる小原庄助も、保科正之と共に会津に赴いた高遠藩士の末裔だそうです。また、正之は無類の蕎麦好きであり、会津に転封する際に蕎麦打ち職人を同行させています。
会津と言えば、磐梯山や鶴ヶ城、白虎隊、野口英世、赤べこ、起き上がり小法師、会津漆塗りなどが思い浮かびますが、会津「高遠そば」なる蕎麦があります。TV番組や雑誌などでよく紹介される、曲がった1本のネギで食すのが大内宿の名物「高遠そば」です。そばつゆもユニークで、辛み大根の搾り汁に焼き味噌を溶いた「からつゆ」です。そこに刻んだ葱を入れて食べます。こうした素朴な味わいの「高遠そば」は、江戸時代からあったと伝わり、そば食の原点を感じさせます。しかし、「高遠そば」のルーツは、その名の通り、信州高遠に由来し、正之がその文化を会津に伝えたものです。
歴史にもしもはありませんが、松姫が高遠城を脱出していなかったら、「高遠そば」は現存しなかったかもしれません。 -
絵島囲み屋敷
武田信玄の5男が高遠城主 仁科五郎盛信です。母は信玄の側室 油川夫人で、4男の勝頼とは異母兄弟です。信玄が上杉景勝に寝返った信濃国安曇郡の名族 仁科盛政を滅ぼしたため、仁科家を継がされました。それ故に、仁科氏の通字「盛」の偏諱を受け継いでいます。「高遠城の戦い」で討ち死にしたのは26歳と伝えられています。首は京都で晒されたそうですが、遺体は領民によって高遠城からほど近い五郎山に手厚く葬られています。
長野県歌『信濃の国』の中でも「文武のほまれたぐいなく 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず」と謳われています。(歌詞では「信盛」となっています。)
何故、信玄を差し置いて盛信なのかと思われるかもしれませんが、長野県人にしてみれば、甲斐(山梨県)の信玄はむしろ侵略者でしかないのです。 -
絵島囲み屋敷
1582(天正10)年、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じ、諏訪攻略に転じました。伊那口から嫡男 信忠率いる5万の兵を侵攻させ、それに怖れをなした伊那谷の諸将は高嶋城(茶臼山城)を捨てて逃亡、あるいは降伏するなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠城へと迫りました。
城主 仁科五郎盛信は、降伏を勧める僧の耳を削ぎ落として追い返し、僅か3千の手兵で大軍を迎え撃ちました。古来「要害は必ず兵禍を被る」と言いますが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にも拘わらず、多勢の前には如何ともし難く、城兵たちは城頭の花と散りました。城主盛信は、割腹し、自らの手で腸を壁に投げ付けて果てたと古書は伝えます。
高遠の桜は、紅の色が一際濃いのが印象的です。これは、織田軍との戦いで散った城兵たちの血が地面に染みたからだと語り継がれています。この戦の後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害しました。高遠城の戦いは、強大を誇った武田氏滅亡の契機になった戦いでした。 -
絵島囲み屋敷
多勢に無勢で城は1日で落ち、盛信は自刃。城内に残った400人は壮絶な最期を遂げたと伝えます。盛信勢は兵数が少なかった上、武田方の下伊那の城があまりにもあっけなく陥落し、高遠城を守る体制が整わなかったのも不運でした。織田軍の高遠城への侵攻前から武田方の戦意は衰え、諸将の逃亡、降伏、寝返りが相次ぎました。織田軍は降伏を勧告しましたが、盛信はそれを拒絶。甲斐・信濃で織田軍に抵抗らしい抵抗をしたのは盛信だけでした。
高遠城の落城悲話にオーバーラップするのが、安倍政権です。第2次安倍政権が4年目を迎えた2016年、首相は年頭所感で「築城3年、落城1日」という警句を引用しました。政権運営に緊張感を持って臨むため、慢心した自らを戒めました。あれから2年、首相の現在の心境は、まさにこの警句通りです。
高遠落城から9日後、追い詰められた勝頼も甲斐 天目山で敗死。こうして戦国最強と言われた武田氏が滅びました。正室の子でなかったために家臣との確執があり、世代交代がスムーズに進まなかったのが武田滅亡の遠因と言えるかもしれません。何時の時代も世代交代は批判や比較に晒されるものですが、勝頼の気の毒な点は信玄が広げた大風呂敷を片付けなければならなかったことです。 -
絵島囲み屋敷
高遠は「絵島生島」の悲話の里でもあります。
1714(正徳4)年、江戸城大奥で大スキャンダル事件が起きました。大奥に勤める関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件は、「絵島生島事件」と呼ばれています。
絵島が流刑生活を送った高遠城三の丸にあった屋敷が復元されています。格子戸で厳重に囲まれた質素な牢屋敷です。ここへは高遠城址公園への入場券で入場できます。
復元屋敷は、左手前が下女詰所、その奥が番人詰所です。 -
絵島囲み屋敷 絵島の間(八畳)
嵌め殺しの格子戸になっていますが、その気になれば女性の力でも壊せそうです。絵島は、ここに幽閉され、朝夕、一汁一菜の食事を摂り、酒、菓子類を口にすることを禁じられ、衣服も木綿の物のみと定められた生活の中、読経を行なって時を過ごしたそうです。
「絵島生島事件」の中心人物が大奥女中 絵島とその相手の歌舞伎役者 生島新五郎です。往時の年齢は、絵島が33歳、生島が43歳。絵島は旗本 白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の大奥で御年寄(総取締役)として強大な権力を握っていました。絵島は、徳川綱豊(家宣)の側室 お喜世の方(月光院)に仕え、綱豊が6代将軍 家宣として江戸城入りするのに従い、大奥入りして御年寄として出仕しました。
絵島が月光院の名代として寛永寺と増上寺に参詣した帰途、山村座で生島新五郎の芝居を見物し、その後、絵島は生島らを茶屋に招きました。宴に夢中になり大奥の門限に遅れ、大奥七ツ口の前での「通せ、通さぬ」の押し問答が大奥の風紀を正そうとしていた老中の耳に入り、取調べの末、絵島は高遠藩へお預けの身となりました。生島は三宅島へ流罪、更に絵島の兄 白井平兵衛勝昌は死罪となり、大疑獄事件に発展しました。
絵島は火打ち平らの囲み屋敷に幽閉され、質素な生活の中で日蓮宗に帰依して精進の日々を送りました。いわば江戸時代の女性版ネルソン・マンデラさんです。マンデラさんは27年で釈放されましたが、絵島はここで28年間過ごし、2度と江戸の土を踏むことなく61歳で病没し、ここからさほど遠くない蓮華寺に埋葬されました。 -
絵島囲み屋敷 絵島の間
町人文化が華開く江戸の大騒動も絵島の死で終焉を告げ、以来2世紀近く、某作家によって絵島の墓が発見されるまで、この事件は世間から葬り去られていました。
1916(大正5)年、高遠蓮華寺の墓石群から「信敬院妙立日如大姉」と記された小さな墓石を発見し、「えにしなれや もも年の後 古寺の中に見出し 小さきこの墓」と詠みました。その作家こそ田山花袋、墓は絵島のものでした。
花袋の父方は、「絵島生島事件」の折の訴訟責任者の老中 秋元但馬守の血統に代々仕えてきた家系だそうです。発見当時、お寺の方でも内藤家から預かったものの置き場所もなく、墓石は転々とした挙句その場所は消息不明でした。この歴史的発見を花袋が和歌にしたことで「絵島生島事件」は瞬く間に世間に広まり、芝居や映画にもなりました。
歴史上の真実は、このように苦労して発掘した者の努力によってベールが剥がされて判明するものです。こうしたことを学べた「絵島囲み屋敷」でした。もし桜が満開だったならここまで足を伸ばすことはなかったと思うと、何か因縁めいたものを感じずにはおられません。 -
絵島囲み屋敷
「浮世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光の影も恥ずかし」。
これは、絵島が江戸出発の折に詠んだと伝えられる句です。
屋敷の外塀は8尺(2.4m程)の高さがあり、その上に1m程の忍び返しが組まれています。28年もの長期間、10人程の武士や足軽に昼夜見張らせることは、時の高遠藩内藤家にとって重荷だったであろうことは想像に難くありません。 -
絵島囲み屋敷
手前は台所、奥は番人詰所(10畳)です。
絵島裁判は、僅か1ヶ月間に大勢を裁き、死罪や遠島、追放、所払いなど過酷で乱暴極まりない裁きを下しました。門限破りという軽微な犯罪をこうも大罪にしたのは、嫉妬から生まれた権力闘争でした。絵島は、大奥内での世継ぎ争いに利用されたと言っても過言ではありません。最も怖ろしいのは、人の心に巣食う権力の魔性です。
『墨海山筆』によると、「裁定者たちは、自責の念で死ぬだろう」という声が自然発生的に庶民の間から湧き起こり、処断の1ヶ月後に訴訟責任者の老中筆頭 秋元但馬守喬知が思い悩んだ挙句病死しています。喬知は処断の日から自宅に籠ったまま一歩も家の外に出なかったそうです。
高遠藩内藤家は、尾張徳川家と親しかったことで無理やり絵島を押し付けられものと窺えますが、厄介な預かり人に対し、高遠藩がやさしい心遣いで接してくれたことはせめてもの慰めです。(合掌) -
絵島囲み屋敷 十月亭の石碑
「物語まぼろしなりし わが江島 墓よやかたよ 今うつつな里」十月亭(画家 有島生馬の俳号)。
この地の歴史のなす業か、田山花袋をはじめ多くの文人が訪ね、数多の文学碑を残しています。伊那市の調査では、全部で36基もあるそうです。
因みに、有島生馬は、作家 有島武郎の弟で、竹久夢二と交友がありました。恋多きが故に苦労が絶えなかった夢二を支えたのが生馬でした。夢二の理解者として、夢二作品の箱書や墓名碑を書いていることなどからその交友の深さが窺われます。
1982年に新宿区と旧高遠町の両ライオンズクラブの 仲立ちにより、新宿区に「タカトオコヒガンザク ラ」10本が寄贈され、新宿中央公園に植樹されました。これを契機に交流が始まり、1986年に友好提携を宣言しています。
その後も友好提携の証として「タカトオコヒガンザクラ」の植樹が続けられ、西戸山公園や新宿御苑、大久保 新宿スポーツセンター前、中落合公園などで見られます。
新宿御苑一帯は、かつて旧高遠藩主だった内藤家の屋敷地であり、歴史的に縁がある場所です。 -
高遠湖
伊那谷は、日本列島のほぼ中央に位置し、諏訪湖から静岡県を経て太平洋まで213km流れ下る天竜川(国内第9位)を背骨に、その両側に連なる中央・南アルプスに囲まれた山岳地帯です。伊那市街地からは、標高3千m級の山を8座望むことができ、世界有数の山岳景観を誇る地域でもあります。 -
高遠湖 白山橋
高遠ダムの堤体の真正面に架かる豪快なアーチ状道路橋が白山橋です。
谷底まで伸びる巨大なアーチが橋梁を支える斬新な構造です。
本社が長野市にある国土監理株式会社が設計されています。
因みに、読み方は「はくさんきょう」と全て音読みします。 -
高遠湖 白山橋
橋の欄干には、『蒲団』などの自然主義文学の先駆者として知られる田山花袋の句が嵌め込まれています。
「高遠は山すその町 ふるき町 行きかう子等の美しき町」。
花袋の歌が何故高遠に残されているかは、先に記したように「富士を見に大正5年7月26日、入笠山を越えた」とあります。花袋はその足で蓮華寺を訪ね、絵島の墓を住職に尋ねたところ、「お上のお仕置きを受けて流されて来た者の墓ゆえか、案内などもってのほか」とけんもほろろに断られたようです。仕方なく境内を捜し回った末、墓地から少し離れた裏山の高く茂った夏草の中に埋もれて倒れている墓石を見つけたそうです。
因みに、花袋以外にも高遠を詠んだ文人は数多あります。
司馬遼太郎:「高遠、その地名の高雅さは、たかだかとした一幅の絵を見るようです」
太田水:「この町や ひとは幾たびかわれども 花は咲くなり 春くるごとに」
窪田空穂:「山峡は ここに極まる兜山 三峰川を前に 城は立ちけむ」
木俣修:「いにしえの 流人の秘話を思ふ眼に 時雨過ぎゆく 高遠の山」 -
高遠湖 白山橋
「タカトオコヒガンザクラ」は、エドヒガンとマメザクラもしくはキンキマメザクラの交雑種の「コヒガンザクラ」の一系とされますが、大木になることや花の違い、また高遠城址公園以外に群生が見られないことから(高遠から寄贈されたものを除く)、この地で交配された固有種と認められています。江戸時代初期にはすでに栽培されていたそうですが、1990年に高遠で開催された「国際さくらシンポジウム」で桜研究会の林弥栄会長より、コヒガンザクラとしては新種で花が最も美しく、高遠固有種として命名された貴重な桜です。
日本さくらの会選定の「さくらの名所100選」の一つに選ばれ、長野県の天然記念物にも指定されている桜の名木です。桜憲章の中では「門外不出」であり、町民であっても手に入れられないほど大切にされている桜です。 -
高遠ダム
1958(昭和33)年竣工の天竜川水系の三峰川を源流とする県営多目的ダムです。天竜川水系にかかるダムとしては小型の堤高30.9mの重力式コンクリートダムで、灌漑用水や発電に利用されています。太古より自然の恩恵と共に氾濫によって流域住民を苦しめてきた三峰川も、上流にある美和ダムとこの高遠ダムによって治水され、この地方の生活文化の向上に貢献しています。
ここのダムカードの写真は、「ダムマイスター」の星野夕陽氏が撮影した作品が使われているのもユニークな点です。個人が撮影した写真が使われる例は珍しいそうです。因みに、高遠湖は「ダム湖100選」に選ばれ、湖上ではボートやカヌーが愉しめます。 -
高遠湖
伊那市街地の高台に足を運んでまず目にするのは、優雅な曲線を描く緑の回廊「グリーンベルト」です。これは、何万年もかけて大地が営みを重ね、自然がもたらした恵みの風景です。山が隆起し、そこから流れ下る川が豊穣な土砂を運びながら、幾重もの河岸段丘をつくりました。その斜面には帯のように樹林帯が伸び、段丘のそこかしこから伏流水として豊富な水が流れでています。何万年という大地の胎動が目の前に広がる光景に自然への畏怖を感じざるを得ません。 -
高遠 勝間薬師堂の枝垂桜
上の写真の右端にある桜をズームアップしました。
鄙びた薬師堂を推定樹齢150年の3本の枝垂桜が取り囲んでいる様は遠目に見ても圧巻です。高遠城址公園の桜から1週間遅れで咲くそうです。
白山橋の南、直線距離で1km程の場所(秋葉街道の先)にあり、里人が幕末の安政年間に植えた桜だそうです。廃寺になった分光寺の跡地にあり、行基作と伝わる霊仏と笑い閻魔などの13仏が安置される薬師堂のみ残されています。白山橋から徒歩圏内と思いますが、時間の制約があり、ここは自重します。尚、車両は通行止めのようです。
地球温暖化と並行して桜の危機を助長しているのが中国原産のクビアカツヤカミキリです。2012年に渡来が確認された、新種の外来害虫です。この幼虫が桜や桃、梅などのバラ科の樹木を内部から食い尽くし、空洞になった樹木は 水分や養分を運べなくなり、枯れてしまいます。しかも、この カミキリを防除・駆除できる方法が、まだ開発されていないそうです。現在は、このカミキリを見つけたら速やかに捕殺するしか方法がないようです。成虫の体長は2.5~4cmで、全体的に光沢のある黒色、胸部(首部)が赤色、 麝香 (じゃこう)のような独特な香りを放つのが特徴です。このままでは数十年後に花見ができなくなるとアラートが発せられています。 -
高遠湖 さくらホテル
湖の湖畔に佇み、ロマンチックな雰囲気が漂うリゾート感満点のホテルです。伊那市の第三セクター「伊那市観光株式会社」が経営するため、市長さんが社長を兼務し、高遠の旗艦ホテルとして地元に根ざしたホテル経営を目指されています。
1991年、地下1500mの大深度から、毎分350リットルが汲み上がる温泉を掘り当てています。pH9.7の強アルカリ性単純温泉のためその泉質のトロトロ感は超一級品で、「美人の湯」と称されています。
効能:神経痛、関節痛、五十肩、慢性消化器病や冷え性など。 -
高遠湖
三峰川に架かる白山橋は、高遠湖や仙丈ヶ岳(標高3033m)の絶好のビューポイントです。赤石山脈北部にある仙丈ヶ岳は南アルプスの女王と呼ばれ、学生時代には夏季と冬季の2度登りましたが、優美な山容と共にスケール感が雄大であり、印象深い山でした。しかし、大変な恥ずかしがり屋のため、甲州側の平地から山姿を臨むことはできません。古くは、甲斐駒ヶ岳の前座として別名「前山(めえやま)」と呼ばれていました。その他、「お鉢岳」という異名もあり、これは発達した氷河地形(カール)に因む命名です。
高遠はまさに山峡の城下町だということが実感できるスポットです。 -
三峰川
高遠城址公園の南側には三峯川の浸食で形成された深い渓谷が横たわっています。高遠城址の本丸から谷底までの標高差は80mあります。谷間の遥か彼方にかすかに見える峰は、岡谷市と塩尻市との境にある高ボッチ山(標高1665m)と思われます。
何とも不思議な名前の山ですが、一説には、巨人の妖怪、あるいは国造りの神様とされる「ダイダラボッチ」が、この場所で腰を下ろして休んだという言い伝えが由来だそうです。 -
高遠城址公園 白山観音からのビュー
高遠城址桜の一番の鑑賞ポイントは、高遠城址公園の南西に位置する「白山観音」です。五郎山の中腹にあり、旅行会社のリーフレットに載せられたピンクの雲海を彷彿とさせる写真は、このポイントから撮影されたものです。当初は予定に入れていたのですが、鑑賞時間が60分に削られたこともあり、今回は断念しました。事前にルートをチェックしていましたので、情報を提供いたします。
高遠城址公園から片道徒歩30分程の距離にあり、知る人ぞ知る超穴場スポットです。山道を登るため、マニアックな方以外はほとんど寄り付かず、観光客で大混雑する公園内とは趣を異にします。ピンクの桜で埋め尽くされ、この世のものとは思えない桃源郷を彷彿とさせる幻想的な光景は、1500本の桜木のコラボで創られた「桜花の樹海」です。赤い屋根の建物は、高遠閣です。桜の名所は数多あれど、高遠の桜が「天下第一の桜」と称されるのが納得できるスポットです。「天下第一の桜」を余すところなく満喫したい方にお勧めです。
この写真は、次のサイトから借用いたしました。
https://www.travel.co.jp/guide/article/8438/ -
高遠城址公園 白山観音からのビュー
高遠城址公園南門を出て階段を下り、第1目標の高遠ダムを目指します。三峰川に架かる白山橋を渡り、高遠湖沿いに南へ暫く進むと前方にトンネルが見えてきます。その手前に右側へ誘う道標「五郎山登山口」があります。ここから舗装された林道を登ります。5分程して白山神社奥宮の鳥居が現れたら、神社の階段を上がってショートカットできます。再び林道と合流すると間もなく、右手に「白山観音」を示す小さな道標が現れます。そこから5分程山道を急登すれば、高さ5m程のコンクリート製円柱頂部に設けられた台座に観音像が安置されています。これが、「白山観音」です。林道はGoogle MAPのストリートビューでトレースでき、道標の位置も確認できます。
ここからは、こうした「茜雲がたなびくよう」と讃えられた通りの絶景が拝めます。「モフモフ」感、満点です。
この写真は、次のサイトから借用いたしました。
http://www.f-m-t.co.jp/bus/hato-bus/tour/h689a/ -
高遠城址公園 白山観音からのビュー
誤解のないように、白山観音の「真実」も紹介しておきます。
近年、白山観音の周囲は樹木が成長してきており、高遠城址公園が望める視界は年々狭まってきています。樹木の隙間から、良く言えば額縁効果的に見通せる程度ですので、実際はこの写真の眺望でしかありません。上のような写真を撮影するには、焦点距離300mm以上の望遠レンズが必要です。また、こうした視界が利くのは3人分程のスペースだけです。周りの迷惑を顧みず三脚を立てる輩もおられるようですが、譲り合いの精神でお願いしたいものです。
この写真は、次のサイトから借用いたしました。
http://neko440.blog27.fc2.com/blog-entry-212.html -
高遠城址公園 二の丸
靖国招魂碑の前にある手水鉢も名残の花弁を湛えています。
桜には「別れ」のイメージも強く、カルメン・マキさんが歌った『さよならだけが人生ならば』の歌詞が無意識に浮かんできます。寺山修司氏の作詞ですが、桜の散り際の潔さがそう思わせるのでしょう。
「さよならだけが人生ならば 又来る春はなんだろう
はるかな はるかな地の果てに 咲いてる野の百合なんだろう
さよならだけが人生ならば めぐり逢う日は何だろう
やさしい やさしい夕焼と ふたりの愛はなんだろう
さよならだけが人生ならば 建てた我家は何だろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りはなんだろう」。 -
高遠城址公園 二の丸 無字の碑
1949(昭和24)年、有志により高遠の名士 伊澤多喜男氏を顕彰するために建立された石碑です。伊澤氏は東京市長や台湾総督などの重要要なポストを歴任し、また、高遠を愛して治山治水に尽力されたこともあり、郷土の人々はその功績を顕彰すべきと頌徳碑の建立を計画しました。しかし、それを耳にした伊澤氏が「生存中に頌徳碑などまかりならぬ」と断固承知しなかったため、一切の字を刻むこと無く立てられたそうです。ですから、「無字の碑」と呼ばれています。
「さよならだけが人生ならば」のルーツを辿ってみると、オリジナルは唐の詩人 于武陵が友人への送別の宴で作った五言絶句 『勧酒』でした。
「勧君金屈巵 (君に勧む金屈卮)
満酌不須辞 (満酌辞するを須いず)
花発多風雨 (花発けば風雨多し)
人生足別離 (人生別離足る)」。
この詩に原作以上の名訳を授けたのが井伏鱒二(『厄除け詩集』)でした。
『コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ』。 -
高遠城址公園 二の丸 萩原井泉水の句碑
萩原井泉水は、自由律俳句の俳人であり、河東碧梧桐も加わった「層雲」を主宰して尾崎放哉や種田山頭火らを育てた人物です。
「花を 花に来て 花の中に坐り」と詠んでいます。俳号は、当初は本名 荻原幾太郎のイニシャル(I.O)から「愛桜(あいおう)」としており、桜が好きだったことが窺えます。
井伏鱒二が訳したフレーズ「さよならだけが人生だ」を好んで用いたのが寺山氏です。カルメン・マキさんは、高校2年生の時に寺山氏主宰の劇団「天井桟敷」の舞台に感銘してそのまま入団しました。そして初舞台の折、CBSソニーの関係者に見染められ、歌手デビューを果たしたシンデレラ・ガールです。
実は、詩『さよならだけが人生ならば』には、歌詞にはない2行があります。
「さよならだけが人生ならば
人生なんかいりません」。
さすがにシンデレラ・ガールが歌うには重過ぎますね!
日本人の多くは、「花=桜」と連想し、唐詩でも同様に解釈しています。それでも何の違和感もないからです。しかし、中国の基本は「花=牡丹」です。風雨に打たれるのは牡丹でしかないのです。しかし、牡丹の花は、こうした状況下では未練たっぷりの散り様を見せます。それでは興醒めですので、 日本人は散り際が潔い桜を重ねてしまうのです。 -
高遠城址公園 二の丸
「さまざまのこと思い出す 桜かな 」。
夏井先生に「ど凡人!」と喝破されそうな句ですが、作者を知ると途端に名句に化けるから不思議です。詠み人は、俳聖 松尾芭蕉。俗に「富士山の句に名句なし」と言われるように、桜の名句も生まれ難いそうですが、この句は平易に叙して読み手の心に響きます。
日本人なら誰しも桜花を見ると色々な思い出が甦ってきます。自分や家族の「入学」や「卒業」、「就職」といった人生の門出を演出するのが桜花であり、桜花の情景と共に記憶が鮮やかに甦るのかもしれません。
一方、思い出は現実性を削げば削ぐほど美しくなるものです。歳を重ねて濾された思い出には、純度の高い幻想のみが宿ります。
しかし、決して忘れることのできない記憶に苛まれ、忘れようともがくことでしか逃れることのできないこともあります。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」とは言い得て妙です。 -
高遠城址公園 二の丸
真下から桜を見上げるのも乙なものです。薄い花弁から空が透ける感じも神秘的です。
高遠城址公園の桜木をはじめ、伊那市内には1万2000本もの桜木があり、それらを守り育てているのが桜守です。桜が花を付けるまで見守る人を「桜守」と言います。山桜のような野生種を除き、大半の桜は育てるのが難しく、何らかの人的介添えが求められます。根元の雑草抜きにはじまり、ツタ類の除去、折れた枝の除去、施肥などを丹念に行なわないと大きく育ちません。
伊那市では、桜を守り育てるため、専門技術を持った桜守が年間を通じて活躍されています。また、桜守の技術を伝承し、地域全体の桜にも手をかけていこうと、市民への桜守講習が開催されています。
こうした活動が結実し、高遠城址を中心とした城下町は2015年に「日本で最も美しい村」連合の認定を受けました。初夏の新緑、そして秋の紅葉。満開の季節だけでなく、四季折々に移り変わる表情にも出会える、そして先人たちの思いや歴史にも出会えるスポットです。 -
高遠城址公園 高遠城大手門
江戸時代には近世城郭だったとされますが、それを偲ぶ遺構はほとんど残されていません。
勘助曲輪の道向かいに建つ大手門は、かつてこの地にあった高遠高校(1984年廃校)の正門でもありました。1954(昭和29)年に伊那市の那須退蔵氏から寄贈されたものだそうです。
明治政府の廃城令により、城内にあった大手、二ノ丸、本丸、搦手の4つの櫓門は、他の建造物や樹木と共に民家や寺院へ払い下げられました。この門は、そのうちの大手門ですが、民間に払い下げられたためにその形は切り詰められ、往時の姿を留めていません。幅もそうですが、高さも馬にまたがって潜る余裕はありません。 -
高遠城址公園 (国の史跡)
高遠藩最後の藩主 内藤頼直が藩士養成のために1860年に創設した、松代の文武学校と並ぶ、信州を代表する藩校のひとつです。
当初は「三ノ丸学問所」と呼ばれましたが、昌平坂学問所の林大学頭学斎により、 五経の一つの『易経』にある「君子は進徳脩(修)業、忠信(真心を尽くすこと)は徳の進む所以なり」に因んで命名されました。文武両道を目指して漢学・国史・兵学・ 算術・剣術・総術・柔術・弓術を教えると共に、当時最先端の洋学も教え、輸入された蔵書も豊富だったそうです。廃藩置県により1872(明治5)年に廃止されるまでに通算500人もの生徒が学び、日本の近代化を担った多くの偉人を輩出しています。(日本画家 池上秀畝、伊澤多喜男など)
尚、内部には入ることはできません。
田山花袋が高遠の子どもたちに感心したのも、進徳館の教えが明治時代にも生きていたからに違いありません。改憲議論に拍車が掛かっていますが、時代に合わせて変えてよいのものと、そうでないものを見抜く力量が政治家や国民に求められています。「立憲的意味の憲法」を憲法観の中心に据え、国家権力の制限が憲法制定の主目的であることを忘れてはなりません。つまり、ライオンと言う国家権力を囲う檻が憲法なのです。また、9条「加憲」には「後法優先の原則」というトリックが仕掛けられています。後に成立した法律が優先され、現在の9条の精神は「死に体」になります。武力によって平和を導くことはできないことを歴史や他国の現状から学ばなくてはなりません。
潔く散った高遠桜と高遠を彩る深い歴史観が綯い交ぜになった酩酊状態の中、悶々とした気持をバスに揺らされながら最終目的地へ向かいます。
この続きは、芳葩爛漫 伊那・諏訪紀行⑨駒ヶ根 光前寺(エピローグ)でお届けいたします。
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