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江尻城(えじりじょう、静岡県静岡市清水区江尻町)は甲斐戦国大名武田信玄(たけだ・しんげん、1521~1573)が駿河・遠江の雄今川義元(いまがわ・よしもと、1519~1560)が尾張国桶狭間にて織田信長に討ち取られ、これによって求心力を失った今川勢の凋落傾向を見逃さず、永禄11年(1568)甲相駿三国同盟を自ら破り駿河侵攻を果たし嫡男今川氏真(いまがわ・うじざね、1538~1615)を掛川に敗走せしめ、以降武田氏による駿河国経営における本拠となった城です。<br /><br />当地は歴代今川氏の時代から駿府の外港として物資の集積地で海運業の拠点として繁栄の地であり、加えて東には甲斐と駿河を繋ぐ身延道が走りまさに駿河経略を進める信玄にとっては海陸を抑える戦略的な位置にありました。<br /><br />永禄13年(1570)金谷に諏訪原城を構築の経歴を有する築城の名人馬場信春(ばば・のぶはる、1515~1575)により小田原北条氏の脅威に対抗するため築城開始、築城に際しては付近を流れる巴川(ともえがわ)を背景に扇形に廓を配した輪郭式で、併せて外堀・内堀には巴川の水を引き入れ防御を堅め、難攻不落の水城としました。<br /><br />元亀2年(1571)完成した江尻城には重臣の一人山県昌景(やまがた・まさかげ、1530?~1575)が入城しましたが天正3年(1575)に長篠の戦いにて昌景は徳川勢との戦いにて討死、信玄病死の後を引き継いだ武田勝頼(たけだ・かつより、1546~1582)は以降の駿河国経営については甲斐国南部の河内(かわうち)を国衆格として支配していた重臣の一人で興津・横山城主でもあった武田家一門衆筆頭の穴山信君(あなやま・のぶただ/梅雪(ばいせつ))、1541~1582)を城将として任命します。<br /><br />穴山氏支配の頃、浜松に本拠を移した徳川家康の遠江への軍事活動が活発になり、江尻城は駿河支配の重要拠点の位置づけが一層高まり、城郭の大幅改修工事が施されるとともに城下町の整備が具され目覚ましい発展が見られました。<br /><br />天正10年(1582)3月、新府城築城のため資材調達の命を受けた武将木曽義昌(きそ・よしまさ、1540~1595)の反逆を機に、織田・徳川連合軍による信濃・甲斐攻撃が始まると、既に勝頼の行く末に見切りをつけていた穴山梅雪は自らが取次窓口になっていた家康を通じて信長に寝返り、本領の河内と江尻領の安堵と武田惣領を嫡男勝千代に継がせる事が許されます。<br /><br />3月11日、天目山での勝頼自刃により武田氏が滅亡、同年5月梅雪は信長への感謝を示すため家康一行ともども安土城に向かいます。信長の歓待を受けて更に家康と共に京都見物をして堺に向かいます。<br /><br />堺滞在中に梅雪は家康と共に「本能寺の変」に遭遇、急遽帰国することにしますが梅雪は家康と別行動を取ったため、山城国宇治郡田原にて土豪一揆に襲われ従士ともども殺害されます。<br /><br />梅雪死去を受けて嫡男勝千代は家康より武田氏の後継者として認定され、加えて駿河における知行地を安堵され、事実上勝千代は家康の従属下に置かれます。<br /> <br />天正15年(1587)勝千代は元服し武田信治(たけだ・のぶはる、1572~1587)と名乗りますが直後に天然痘を患い死亡、継嗣なく茲に武田穴山氏は断絶となり梅雪が目指した武田氏再興の企ては頓挫するに至ります。<br /><br /><br />江尻小学校フェンス脇に建てられた江尻城跡説明板には次の通り記載されています。<br /><br /><br />「 江 尻 城<br /><br />昔この江尻小学校および中部電力清水営業所の敷地周辺に江尻城(小芝城)がありました。<br /><br />戦国時代駿河国を治めていた今川義元が、永禄3(1560)年尾張国の桶狭間で織田信長の奇襲にあい戦死した後、永禄11(1568)12月甲斐国の武田信玄は駿河に攻め入りこの地を占領しました。翌年信玄は東の北条氏、西の徳川氏に対抗するため、蛇行する巴川を利用して急いでここに城を築きました。<br /><br />10年後の天正6(1578)年城将であった穴山梅雪は、城を大改築して高層の楼閣を建て、「観国楼」と名付け、江尻を城下町とする本格的な城とまりましたが、天正10(1582)年3月西から攻めてきた徳川家康に降伏して江尻城を明渡しました。<br /><br />その後家康が江戸に移るとともに、豊臣氏、徳川氏と城将が代わりましたが、慶長6(1601)年城ができてから32年を経て廃城となりました。<br /><br />城があったことを物語るように本校の周辺の地名(小字名)として、櫓、本丸、東二の丸、西二の丸、硫黄堀、薬研堀、近習小路、代官小路等がありました。<br /><br />明治42(1909)年この地を所有していた本郷町の望月健吉氏は小公園を造り、江尻城があったことを祈念してこの「小芝城の碑」を建てました。<br /><br />大正12(1923)年小公園に工場が建設されるため、小芝八幡宮の境内に移され72年を経て元あった本校の校内に平成7年3月に移設されました。<br /><br />                   江尻城復元図と小字名<br /><br />        ( 略 )<br /><br />    平成7年3月吉日<br />             江尻まちづくり推進委員会  」<br /><br /><br /><br /><br /><br />

駿河清水 武田氏一門衆筆頭なるも勝頼凋落に離反し本能寺変の際宇治田原にて殺害された穴山梅雪が駿府外港地に駿河国支配拠点とした『江尻城』訪問

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2018/03/25 - 2018/03/25

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滝山氏照

滝山氏照さん

江尻城(えじりじょう、静岡県静岡市清水区江尻町)は甲斐戦国大名武田信玄(たけだ・しんげん、1521~1573)が駿河・遠江の雄今川義元(いまがわ・よしもと、1519~1560)が尾張国桶狭間にて織田信長に討ち取られ、これによって求心力を失った今川勢の凋落傾向を見逃さず、永禄11年(1568)甲相駿三国同盟を自ら破り駿河侵攻を果たし嫡男今川氏真(いまがわ・うじざね、1538~1615)を掛川に敗走せしめ、以降武田氏による駿河国経営における本拠となった城です。

当地は歴代今川氏の時代から駿府の外港として物資の集積地で海運業の拠点として繁栄の地であり、加えて東には甲斐と駿河を繋ぐ身延道が走りまさに駿河経略を進める信玄にとっては海陸を抑える戦略的な位置にありました。

永禄13年(1570)金谷に諏訪原城を構築の経歴を有する築城の名人馬場信春(ばば・のぶはる、1515~1575)により小田原北条氏の脅威に対抗するため築城開始、築城に際しては付近を流れる巴川(ともえがわ)を背景に扇形に廓を配した輪郭式で、併せて外堀・内堀には巴川の水を引き入れ防御を堅め、難攻不落の水城としました。

元亀2年(1571)完成した江尻城には重臣の一人山県昌景(やまがた・まさかげ、1530?~1575)が入城しましたが天正3年(1575)に長篠の戦いにて昌景は徳川勢との戦いにて討死、信玄病死の後を引き継いだ武田勝頼(たけだ・かつより、1546~1582)は以降の駿河国経営については甲斐国南部の河内(かわうち)を国衆格として支配していた重臣の一人で興津・横山城主でもあった武田家一門衆筆頭の穴山信君(あなやま・のぶただ/梅雪(ばいせつ))、1541~1582)を城将として任命します。

穴山氏支配の頃、浜松に本拠を移した徳川家康の遠江への軍事活動が活発になり、江尻城は駿河支配の重要拠点の位置づけが一層高まり、城郭の大幅改修工事が施されるとともに城下町の整備が具され目覚ましい発展が見られました。

天正10年(1582)3月、新府城築城のため資材調達の命を受けた武将木曽義昌(きそ・よしまさ、1540~1595)の反逆を機に、織田・徳川連合軍による信濃・甲斐攻撃が始まると、既に勝頼の行く末に見切りをつけていた穴山梅雪は自らが取次窓口になっていた家康を通じて信長に寝返り、本領の河内と江尻領の安堵と武田惣領を嫡男勝千代に継がせる事が許されます。

3月11日、天目山での勝頼自刃により武田氏が滅亡、同年5月梅雪は信長への感謝を示すため家康一行ともども安土城に向かいます。信長の歓待を受けて更に家康と共に京都見物をして堺に向かいます。

堺滞在中に梅雪は家康と共に「本能寺の変」に遭遇、急遽帰国することにしますが梅雪は家康と別行動を取ったため、山城国宇治郡田原にて土豪一揆に襲われ従士ともども殺害されます。

梅雪死去を受けて嫡男勝千代は家康より武田氏の後継者として認定され、加えて駿河における知行地を安堵され、事実上勝千代は家康の従属下に置かれます。
 
天正15年(1587)勝千代は元服し武田信治(たけだ・のぶはる、1572~1587)と名乗りますが直後に天然痘を患い死亡、継嗣なく茲に武田穴山氏は断絶となり梅雪が目指した武田氏再興の企ては頓挫するに至ります。


江尻小学校フェンス脇に建てられた江尻城跡説明板には次の通り記載されています。


「 江 尻 城

昔この江尻小学校および中部電力清水営業所の敷地周辺に江尻城(小芝城)がありました。

戦国時代駿河国を治めていた今川義元が、永禄3(1560)年尾張国の桶狭間で織田信長の奇襲にあい戦死した後、永禄11(1568)12月甲斐国の武田信玄は駿河に攻め入りこの地を占領しました。翌年信玄は東の北条氏、西の徳川氏に対抗するため、蛇行する巴川を利用して急いでここに城を築きました。

10年後の天正6(1578)年城将であった穴山梅雪は、城を大改築して高層の楼閣を建て、「観国楼」と名付け、江尻を城下町とする本格的な城とまりましたが、天正10(1582)年3月西から攻めてきた徳川家康に降伏して江尻城を明渡しました。

その後家康が江戸に移るとともに、豊臣氏、徳川氏と城将が代わりましたが、慶長6(1601)年城ができてから32年を経て廃城となりました。

城があったことを物語るように本校の周辺の地名(小字名)として、櫓、本丸、東二の丸、西二の丸、硫黄堀、薬研堀、近習小路、代官小路等がありました。

明治42(1909)年この地を所有していた本郷町の望月健吉氏は小公園を造り、江尻城があったことを祈念してこの「小芝城の碑」を建てました。

大正12(1923)年小公園に工場が建設されるため、小芝八幡宮の境内に移され72年を経て元あった本校の校内に平成7年3月に移設されました。

江尻城復元図と小字名

        ( 略 )

    平成7年3月吉日
             江尻まちづくり推進委員会  」





交通手段
JRローカル

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  • 清水区マップ<br /><br />JR清水駅を出た所には市街地図が立っています。

    清水区マップ

    JR清水駅を出た所には市街地図が立っています。

  • 清水駅前マップ<br /><br />江尻城の所在地を確認すると、JR清水駅前を北上し国道1号線の手前を左折して巴川に向かうと江尻小学校が在ります。

    清水駅前マップ

    江尻城の所在地を確認すると、JR清水駅前を北上し国道1号線の手前を左折して巴川に向かうと江尻小学校が在ります。

  • 江尻小学校正門<br /><br />江尻城跡は現在江尻小学校となっており、かつての遺構は見出せません。

    江尻小学校正門

    江尻城跡は現在江尻小学校となっており、かつての遺構は見出せません。

  • 江尻小学校プレ-ト

    江尻小学校プレ-ト

  • 「本丸門」プレ-ト<br /><br />学校の壁に城跡に関する「本丸門」を示すプレ-トが見られます。<br /><br />

    「本丸門」プレ-ト

    学校の壁に城跡に関する「本丸門」を示すプレ-トが見られます。

  • 江尻小学校校舎<br /><br />今来た通りを振り返って辺りを窺いますが、江尻城跡関係の遺構は全く感じられません。<br /><br />

    江尻小学校校舎

    今来た通りを振り返って辺りを窺いますが、江尻城跡関係の遺構は全く感じられません。

  • 江尻城跡説明板<br /><br />江尻小学校のフェンスに沿って歩くと江尻城跡説明板が見つかります。

    江尻城跡説明板

    江尻小学校のフェンスに沿って歩くと江尻城跡説明板が見つかります。

  • 江尻城跡説明板<br /><br />「江尻まちづくり推進委員会」制作の説明板が復元図を付して立っています。

    江尻城跡説明板

    「江尻まちづくり推進委員会」制作の説明板が復元図を付して立っています。

  • 江尻城跡復元図<br /><br />説明板には巴川に臨む江尻城と城下町が掲載されています。

    江尻城跡復元図

    説明板には巴川に臨む江尻城と城下町が掲載されています。

  • 江尻小学校風景<br /><br />もし説明板がなければ城跡など想像がつきません。

    江尻小学校風景

    もし説明板がなければ城跡など想像がつきません。

  • 巴川と江尻小学校

    イチオシ

    巴川と江尻小学校

  • 江尻小学校グラウンド

    江尻小学校グラウンド

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