2018/03/25 - 2018/03/25
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滝山氏照さん
横山城(よこやまじょう、静岡県静岡市清水区谷津)は鎌倉時代に地頭として当地を支配した興津(おきつ)氏が室町幕府成立後今川氏が駿河国守護大名として入部すると他の国人と同様に臣属し、延文年間(1356~1361)当主の興津美作守がそれまでの本拠であった興津館から移転築城し以降歴代の居城となります。
横山城は東海道から分かれて甲州に繋がる身延道から約3Kmほど北の地に、同道の東を並行して流れる興津川にせり出した山塊に築かれ、駿河湾沿岸部と内陸部とを連絡する身延道を監視する戦略的要衛の地と言われていました。
永禄11年(1568)甲相駿三国同盟を自ら破棄した武田信玄による駿河侵攻によって横山城は落城、身延道を確保すべく交通の要地である当該城の改修を行って掛川に落ち延びた今川氏真(いまがわ・うじざね)支援を名目に西進してくる小田原北条氏への防御態勢を構築します。
駿河侵攻を成功させた信玄はひとまず甲府に引き揚げ、横山城の城番には信玄が最も信頼する重臣のひとりで、駿河に隣接する河内の領主の穴山信君(あなやま・のぶただ、1541~1582)を命じます。
穴山氏は武田氏の庶流で七代当主穴山信君は信玄の姉を母とし、信玄の娘を室とする武田本家では親族衆筆頭の地位に在り、今まで信玄の委託を受け数々の外交交渉を長年に亘って担ってきた武将でもあり、従い今川氏のみならず小田原北条氏の事情についても明るい戦略家でもあります。
天正3年(1575)長篠の戦で重臣のひとりで江尻城主であった山県昌景(やまがた・まさかげ、1530?~1575)の討死を受けた後、信君は駿河東部の本拠である江尻城に移り活動、横山城はその支城として城代が配されましたが身延道を確保する役割は不変でした。天正10年(1582)織田軍に包囲された勝頼自刃による武田家没落後は廃城となります。
横山城跡石碑の傍らに設置の説明板には下記の如く詳細に記載されています。
「 横山城
この城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(又は近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎、「承久記」に興津左衛門の名があり、始めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上方上野郷の地頭も兼ねていたことが「大石寺文書」に見え、今川氏が駿河国守護として入部以来はその被官となった。
延文年間(1356~61)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き、山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。連歌師の宗長は興津氏と親交があり、しばしばこの城を訪れ、数種の歌が「宗長手記」に残されているが、大永5年(1525)の項には「興津横山の城にて、春の雲のよこやましるしなみの上」と記されている。
そして永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで、興津氏代々の居城であった。
この城を奪った武田氏は直ちに改修に着手し、翌12年2月には完了して穴山梅雪に守らせた。そしてこの年正月今川氏真救援のため出兵した北条氏康の軍(薩た山に陣をとる)と、4月29日に撤退するまで90日余にわたり興津川を挟んで対戦し、武田軍の拠る横山城に北条勢が来襲したり、逆に武田勢が薩た山を攻めた記録も残されている。
その後武田氏は横山城に城番を置き、支城の一つとして重要視したというが、天正10年(1582)武田氏の滅亡と共に廃城となった。」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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谷津交差点
静鉄ジャストラインバスにてJR興津駅から約10分「谷津」にて下車、谷津交差点から視線を北方向に向けるとパチンコ店のネオンサインが目印です。 -
横山城入口
GSの間の小道を左斜め方向に進みます。 -
横山城跡石標
T字道路の突き当りになにやら石碑や看板が認められます。 -
イチオシ
横山城跡石標
やや小柄ながら「横山城跡」と刻した石碑が立っているのが判ります。 -
横山城跡説明板
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横山城跡鳥瞰図
鳥瞰図によれば城主は平時は麓の館に住み、有事の際には山頂の城郭にて押し寄せる敵陣を撃退するスタイルで戦国時代によく見られる典型的な型です。 -
身延路標柱
説明板の向こうには「身延路」と書かれた標柱が立っていますが、何を示すのかよくわかりません。 -
馬頭観音石碑
横山城跡の石碑から左方向に小道を進むと「馬頭観音」と刻された石物が道端に配されています。 -
石物と標柱
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「身延路」標柱(拡大)
甲州と連絡する身延路が山越えル-トになっているようですが、この先に横山城跡が控えているとは思えません。(実は2週間前の3/11に当地に来て横山城跡を試みましたが舗装された道が延々と続いて途中で探索を取りやめた経緯があります。) -
法泉寺旧趾石標
馬頭観音の先を左折すると右手に「法泉寺旧趾」と刻された石標が存在するだけで、横山城に繋がる遺跡は見当たりません。(当該寺院は弘安7年(1284)日朝上人が創建、元禄5年(1688)十六世日忍上人の時世に清水区八木間町に移転した由です) -
身延路(国道52号)【3/11撮影】
セブンイレブンの先に横山城跡に繋がる入口と思われる路が左側に見え、ここから横山城跡を狙います。 -
横山城跡脇道【3/11撮影】
舗装された道路を進みますが、あまりにも立派なので横山城の一部にたどり着く雰囲気が感じられません。 -
小島町方向展望【3/11撮影】
脇道を途中で振り返り国道52号の小島町方向を展望します。 -
横山城脇道【3/11】
脇道の途中には危険を知らせる看板が付され、これを見て一瞬たじろぎますが引き返すわけには行かずこのまま前進します。 -
井戸跡【3/11】
横山城の一部で井戸跡なのでしょうか? -
身延路標柱【3/11】
登り切った所はアスファルト道路が敷かれ、その脇には「身延路」と表記された標柱が立っています。 -
身延路【3/11】
右手は登り坂となっています。車輛通行可能の道路となっており、城郭に通じる路とは思われません。 -
身延路【3/11】
左手は下り坂となっています。(この道を下ると3/25に見た「身延路」標柱に出くわすようです) -
小島方向展望【3/11】
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興津方向展望【3/11】
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興津海岸方向展望【3/11】
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ミカン畑風景【3/11】
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レ-ル設備とミカン畑【3/11】
畑で採れたミカンを麓に運ぶレ-ルが配置されています。 -
茶畑風景1【3/11】
この茶畑はかつては横山城の一部だったのでしょうか? -
茶畑風景2【3/11】
辺り一面には茶畑が階段状に配せられ見事な風景が展開されています。 -
竹林1【3/11】
風景はやがて竹林に変化、地面もアスファルトから土に変わっていきます。 -
竹林2【3/11】
更に進むと道はやがて行き止まりとなります。やむなく引き返すしかありません。 -
急崖【3/11】
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小島町方向街並み【3/11】
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城郭跡の一部?【3/11】
道路から脇に入ったところに更地がありますが、この風景は横山城跡の一部かも知れません。 -
通信塔【3/11】
なだらかな道路を上っていけば右手に電波塔が視野に入ります。 -
通信塔(近景)【3/11】
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ドコモの通信塔【3/11】
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茶畑風景1【3/11】
通信塔の隣にはきれいにカットされた茶畑しかありません。 -
茶畑風景2【3/11】
茶畑の隣には空地がありますが、これが横山城跡の一部だったんでしょうか? -
茶畑【3/11】
かなり高く登りましたが横山城跡には出会いません。しかしながら行き届いた茶畑の向こうには小島町の街区が見事に展望できます。 -
遠景1【3/11】
南方向に視線を転ずると興津市街、更に興津海岸や清水港を望むことができます。 -
展望2【3/11】
風景を手前に戻すと東海道新幹線の高架が認められ、時折車両通過の音が耳に入ってきます。それにしても城郭は眼前に現れません。
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