2016/07/08 - 2016/07/08
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アドリア海北部、イストラ半島の最南端にあって、円形闘技場はじめ、古代ローマ遺跡がたくさん残るプーラに行ってきましたので、ご報告します。
この旅行記で使う固有名詞ですが、日本語名が定着しているものついては、日本語名(クロアチア語、必要に応じて英語、ラテン語、イタリア語名)で表記し、定着していないものについてはクロアチア語のみを示します。また、固有名詞でも意味を持つものは、その意味を付加します。
付録にプーラの歴史を纏めましたので、お時間とご興味のある方はご覧ください。
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オパティア(Opatija)の宿泊ホテル:ブリストル(Hotel Bristol Opatija)のベランダからの風景。朝8:00ホテルを出発、国道66号線(Državna cesta D66)を通ってプーラ(Pula)に向かいます。
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プーラ湾(Pula Harbor)岸の観光バス駐車場につきました。最初にチトー広場にあったプーラのジオラマを使って、今回の観光の主たる施設と見学対象を、また観光ルートを赤線で示します。
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まずはプーラ円形闘技場(劇場、競技場、Amfiteatar u Puli(クロアチア語)、プーラ・アリーナ(Pula Arena(英語))に向かいます。南数分歩くと目の前にプーラ円形闘技場が見えてきました。曇ってるねえ。
ここでプーラ円形闘技場の説明をしておきます。
この円形闘技場はクロアチに残されている古代遺跡の中では最も良い状態で保存されています。プーラ湾に面した傾斜地に建てられており、長軸132.45 m、短軸105.10 mの楕円形で敷地面積π×132.45 m/2 ×105.10 m/2 = 約11,000 m2、内部の平らな競技スペースは長軸67.90 m、短軸41.60 mの楕円形で面積π×67.90 m/2 ×41.60 m/2 = 約2,200 m2、地面からの高さは海側が32.45 m、競技スペース周囲全体には階段状の観客席が設けられており、想定収容観客数23,000人で、現在世界に残されている約200のローマの円形闘技場の中では6番目の規模を誇ると同時に、その構造は特徴的です。傾斜地に建てることによって、観客席の半分は古代ギリシャの円形劇場のように、地面の上に直接観客席を作ることが出来ます。
傾斜地に建てられてはいますが、美しく安定した見栄えになるよう最上部は水平となっており、このため外壁は基礎部分を除いて海側で3層、丘側は2層構造となっています。壁の最上層は方形の小さめの開口部が、上から2、3層目は、半円形アーチを有する大きめの開口部が周上に規則的に並んでいます。その数は上から1、2層目がそれぞれ約70個、海側のみにある上から3層目はその約半分です。またこの闘技場は、現在残されているローマの闘技場の中では唯一、楕円の長軸および短軸に対して対称な位置4か所には幅が他の部分より厚い塔があります。この塔は円形闘技場全体の強度を高める役割を果たすと同時に、上部に雨水を貯める貯水槽と、壁を上るための木製の階段があります。観客席は雨および日よけシートで覆われ、雨が降った場合はその雨水が壁の上に設けられた樋に流れ込み、上記貯水槽に貯められます。この水は暑さの中で観客をリフレッシュするための噴水に使われました。
外壁は国内の石灰岩でできてます。外からは見えない基礎の内側部分や内部の廊下、通路や階段の壁は石膏で表面を滑らかにした小さめの石でできています。闘技場建設のための石は、プーラ周辺の海岸沿いの採石場から運ばれました。これは、今日まで保存されてきた印象的な闘技場の建設に必要な大きな石を運ぶ最も簡単な方法が、海路でプーラ港に運ぶことだったことによります。プーラ周辺には多く採石場がありますが、最も有名なのは依然としてロマーナ洞窟(Cave Romane)として知られているヴィンクラン(Vinkuran(クロアチア語))です。
最初の円形闘技場は、アウグストゥスの治世下にあったAD2年~AD14年に木材で建設され、クラウディウス帝(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus(ラテン語)、Emperor Claudius(英語))の治世(AD41年~AD54年)下で石造建築に建て替えらましたが、当時は今よりずっと小さいものでした。その後79年には、ウェスパシアヌス帝(Titus Flavius Vespasianus(ラテン語))が剣闘士の戦いに対応しできるよう拡張し、ティトゥス帝(Titus Flavius Vespasianus(ラテン語)、ウェスパシアヌス帝の長男で同名)治世下の81年に完成しました。この円形闘技場では、ホノリウス帝(Flavius Honorius Augustus(ラテン語))が禁止した5世紀まで剣闘士の戦闘が行われ、有罪判決を受けた者、とりわけ死刑判決を受けた者と野生動物との戦闘は、それが禁止される681年まで行われました。また、5世紀になると、地元の民衆によって円形闘技場の石が持ち出され始め、13世紀までに、アクレイリア(Aquileia)の総主教は円形闘技場からのさらなる持ち出しを禁じました。この円形闘技場は現在までその大部分が残っていますが、丘側の下層階客席などは復元され、収容観客数約5000人のコンサートや映画祭等の会場として用いられています。円形劇場 劇場・ホール・ショー
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プーラ円形闘技場(Amfiteatar u Puli)の西側、Valerijin park東側道路から東を望む。
こちらも3層構造部分ですね。 -
イスタルスカ通り(Istarska ul.) に出た所で東を望む
プーラ円形闘技場にある4つの塔の1つです。
ちょっと晴れてきましたかねえ。 -
現在の道路のプーラ円形闘技場側
発掘が進められています。現れたのは古代ローマ時代の道路です。まっ平だ。ローマの技術はたいしたもんですねえ。 -
南に回り込んで斜面を東に進み、プーラ円形闘技場を望む
手前の壁はは3層構造ですが、反対側(前方)は2層構造です。 -
プーラ円形闘技場の南側をさらに東に進んで、プーラ闘技場内部を望む
左側には大きなスクリーン、右側には観客席が見えます。
そういえば、明日から約1週間第63回プーラ映画祭(Pulski filmski festival)だ。
この映画祭は、ユーゴスラビア連邦人民共和国時代の1954年に「映画祭(Filmskim festivalom)」の名称でスタートしたクロアチアで最も古い映画祭で、1958年には「ユーゴスラビア映画祭(Festival jugoslavenskog filma)」に名称がかわり、同国で最も重要な映画祭となりました。1961年からは「ユーゴスラビア長編映画祭イン・プーラ(Festival jugoslavenskog igranog filma u Puli)」と名称が変わり、その後数十年にわたって国際的に高い知名度を得、国内の映画産業も発展しました。この映画祭は米国のアカデミー賞をモデルにしていますが、大きな違いはカンヌ国際映画祭等と同様に対象が公開前の映画である点です。1991年の映画祭はクロアチア紛争勃発とそれにともなうユーゴスラビア崩壊で中止となりましたが、1992年には「プーラ映画祭」に名称を変えて再開し、クロアチア紛争が終結した1995年にはクロアチアの独特の性格を強調した「クロアチア映画祭(Festival hrvatskog filma)」と改名されました。しかし、毎年リリースされる新タイトルはほんの一握りで、映画祭の人気は急落しました。これを是正するため、2001年に初めて外国映画部門も創設され、名称も「クロアチアとヨーロッパ映画祭(Festival hrvatskog i europskog filma)」となりましたが、映画祭誕生50周年となる2003年には再び「プーラ」を冠した「プーラ映画祭」に戻っています。以来、クロアチアの映画の上映とは別に、国際的なプログラムや様々な一回限りのテーマプログラムや回顧展も定期的に開催されています。 -
さらに東に進んで、プーラ円形闘技場
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ちょっと東に進んで、プーラ円形闘技場内部
中央下部は闘技場として使われていた地下部分でしょうね。 -
坂を上って南東に回り込んで、プーラ円形闘技場
この辺りから、壁は2層になります。 -
東に回り込んで、プーラ円形闘技場内部
スクリーンの前の舞台も良く見えてきた。この舞台上で映画祭の表彰式をやるんでしょうね。
スクリーンの右奥の白い壁は補修中の塔でしょう。 -
少し引いて、プーラ円形闘技場
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さらに東に回り込んで、プーラ円形闘技場内部。
晴れてきましたね。まあ、この時期アドリア海は乾季ですからねえ。 -
さらに上って、プーラ円形闘技場東側の2層壁
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西を見ると、プーラ円形闘技場南側3層壁とプーラ港(Pula Harbor)
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アーチ壁上部は樋になっており、雨水は樋に開けられた孔から壁の溝を1層分下へ落ち、水平方向に流れて塔の貯水槽に貯められます。この方式は単に雨水を貯めるだけでなく、壁を流れる水を最小限にして石灰岩の壁の腐食を最小限にしていると思われます。なんせ、水は石灰岩を腐食しますからねえ*)。
*) 腐食の化学は https://4travel.jp/travelogue/11196050 の付録をご覧ください。 -
プーラ円形闘技場を離れてScalierova ul. を南西に向かいます。
南に見えたカトリック教会(Sveti Autun samostan i zupa)
教会のフェンスには赤、白、ピンクの花が満開だ。キョウチクトウですかねえ。 -
北をふり返って見たプーラ円形闘技場
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さらに進んで、Scalierova ul. の風景
黒地に白字の看板がありますが、若い頃ストックホルムでこの手の店に入ってビデオを見ていたら、一緒に見ていたスウェーデン人のオネエが私の体に触ってきて飛び出したことがあります。この店はどうか知りませんが、殿方はお気を付けください。 -
Park kralja Petra Kresimira にある Dr. Matko Laginja の胸像
Matko Laginjaはグラーツで法学博士号を取得した、クロアチアの弁護士および政治家です。 若い頃、彼はクロアチア民族主義の提唱者で「国の父」とも呼ばれる政治家:Ante Star?・evi?・の政治思想に共感し、VjekoslavSpin?・i?・、MatkoMandi?・と一緒にクロアチアの国家思想と地方のイタリア党およびイタリアナショナリズムに対する鋭い攻撃をイストラ半島の政治活動にもたらしました。地元の大手政治家として、彼はクロアチア解放のために30年間戦いました。1883年~1914年、彼はイストラ半島のクロアチア人民運動の指導者の1人であり、イストラ地方議会のメンバーでもありました。 ある期間、ウィーンの帝国評議会の大使ででしたが、その後、Star?・evi?・権利党の大統領となりました。 1918年の大混乱時、彼はイストラ半島の全国評議会の理事でした。第一次世界大戦後、イストラ半島のイタリア王国への合併により、彼はザグレブに定住しました。 1920年2月から12月にかけて、Laginjaはセルビア人、クロアチア人、スロベニア人の王国内での首相(Ban)でしたが、12月8日にザグレブのクロアチア農民政治家StjepanRadi?・による集会を許可した後、1920年12月11日にMilenko RadomarVesni?・の閣僚によって解任されました。その後。彼は憲法議会に選出されましたが、1921年6月1日、中央集権化と連邦制国家に反対する声明を10人のメンバーと共に発表して辞任し、公的生活から撤退しました。 -
ローマ霊廟(Roman Mausoleum)
ローマ人は衛生上の理由から死者を市の外に葬り、市の門のすぐ前の道路脇には一連の精巧なの墓が造られました。これらの墓はその上部に建物を有する立派なものでしたが、これは他の物事と同じように、死においても貴族たちが互いに見栄を張り合ったことによります。中世の間に墓石は建築材料として使用され、殆どの墓は破壊されました。この写真は、市壁に沿った道路の拡幅時に見つかった、1世紀に作られ2~3世紀:*) に改築された八角形の霊廟の下部です。 後ろのビルは、この霊廟を保存するように建設されています。
*) この霊廟はローマ皇帝コンスタンティヌス1世(Gaius Flavius Valerius Constantinus(ラテン語))の長男で、プーラに送られて処刑されたクリスプス(Gaius Flavius Julius Crispus、299?年~326年)のもの、との説もありますが、真偽の程は定かではありません。クリスプスに関しては日本語ウィキに面白い逸話が書かれています。紙面の都合でここでは省略しますが、興味のある方はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/クリスプス をご覧ください。 -
西を見ると、ツァラリナ通り(Carrarina ulica(クロアチア語))を挟んでローマ霊廟の反対側(西)側にある双子門(Dvojna vrata(クロアチア語)、Porta Gemina (イタリア語)、 Twin Gates(英語))、左の樹々の後ろにイストラ考古学博物館(Arhelo?・ki muzej Istre)が見えます。
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双子門
この門は市壁につけられた10の門(付録参照)の1つで、名前は見ての通り、半円形アーチを有する2つの開口部に由来します。最初の門は2世紀末頃造られ、その後3世紀にイオニア式とコリント式の複合柱頭を備えた3つの半柱で装飾されて、古代劇場(ローマ劇場(Rimsko kazali?・te(クロアチア語))への入口を飾る役割を担いました。門上部の四角い大理石のプレートには、市の水道網建設のために個人的な献金をした、上院議員:Lucija Menacija Priska の名前が刻まれています。このプレートは元からこの位置にあった訳ではなく、近くで発見されて19世紀後半にPietro Kandler によって組み込まれました。
現在はイストラ考古学博物館の正門として使われています。ツインゲート 建造物
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ツァラリナ通りを南に進みます。
西側、市壁の向こうに見えるイストラ考古学博物館。イストゥラ考古学博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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ツァラリナ通りを南に進みます。
ヘラクレス門(Herkulova vrata(クロアチア語)、Porta Ercole(イタリア語)、 Gate of Hercules(英語))が見えてきました。
前の車が邪魔だなあ。ふつう、観光名所の前に駐車スペースをつくりますかねえ、プーラ市役所さん。 -
ヘラクレス門
10の門の1つです。(付録参照)門にヘラクレスの名前が付いている理由は、ローマ時代にヘラクレスはプーラの守護神で、プーラがColonia Pietas Iulia Pola Pollentia Herculanea(英語)と呼ばれていたことによります(付録参照)。開口部は幅3.6 m 、高さ4 m 以上のこの門は紀元前1世紀半ばに造られたもので、プーラでは最も古く、保存状態が良いローマ時代の建築でです。
「ヘラクレス門」に関する日本語ウィキの説明の一部は間違いです。ヘラクレス門 建造物
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ヘラクレス門上部
大分風化されてはいますが、アーチを作る上部の2つの石にはヘラクレスの頭部と彼のアトリビュート(attribute)*) である棍棒のレリーフ(それぞれ右とひとつおいた左)が彫られています。
*) 聖人等に関係する持ち物で、これによりその持ち主を特定できます。持ち主とアトリビュートの関係は神話や逸話に基いており、ヘラクレスの場合は棍棒でネメアーの獅子(Nem?・os l?・?・n(ギリシャ語))を殴ったことによります。
アトリビュートの他の例は
https://4travel.jp/travelogue/11305426
https://4travel.jp/travelogue/11198227
https://4travel.jp/travelogue/11184065
をご覧ください。 -
ヘラクレス門を後にして、
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Uspon Svetog Stjepana 通りを南西に進みます。
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前方にまた門が見えてきました。
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セルギウスの凱旋門(Slavoluk Sergijevaca(クロアチア語)、Triumphal Arch of the Sergi(英語)、セルギ門、黄金の門(Porta Aurea(ラテン語)、Zlatna vrata(クロアチア語)、Golden Gate(英語)))だ。
この門はセルギウス家(Sergius family(英語))*) 3兄弟、特にアクティウムの海戦(Actiaca pugna(ラテン語))(付録参照)で活躍し、オクタヴィアヌスの勝利に貢献したルキウス・セルギウス・レピドゥス(Lucius Sergius Lepidus)を記念して、BC27年頃建設されました。功績者として他にルキウス・セルギウス(Lucius Sergius)、ガイウス・セルギウス(Gnaeus Sergius)の名前が門に刻まれていますが、多分レピドゥスの兄弟と思われます。(私見です。)この門の建設に出資した女性として、レピドゥス妻:サルヴィア・ポストゥマ・セルギ(Salvia Postuma Sergia)が刻まれていますが、彼女はレピドゥスの妻、母、3兄弟の姉妹等諸説あり、本当の所は分かっておりません。
この門の裏側(西面)は様々なレリーフで美しく飾られていますが、ガイドさんは説明を省いてスルーしてしまいましたので、写真はありません。ご興味をお持ちの方は日本語ウィキ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%87%B1%E6%97%8B%E9%96%80_(%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%A9)
をご覧ください。説明文が正しいか否かの確認はしておりません。
*) セルギウス家は当地の強力な一家であり、彼らは何世紀にもわたって権力を保持していました。セルギ門 建造物
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セルギウスの凱旋門をくぐると、セルギ通り(Ul. Sergijevaca )のすぐ右(北)のカフェ・ウリクス(Caffe Uliks)の前に何やら銅像があります。
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これはジェイムズ・ジョイス(James Joyce 、1882年~1941年)の銅像です。
ジェイムズ・ジョイスはアイルランド出身の、20世紀初頭のモダニズム文学における代表的な小説家・詩人で、代表作に「ユリシーズ(Ulysses)」、「若き芸術家の肖像」等があります。生まれは中流家庭でしたが、父の破産によって没落が進み、1904年以降の殆どをヨーロッパ大陸のいくつかの国で過ごしています。当時オーストリア=ハンガリー帝国領であったプーラには、生計を立てるために就いた英語教師として1904年10月に赴任し、スパイ組織摘発による全外国人追放となる1905年3月までの約半年を過ごしました。
カフェ・ウリクスは1989年5月にオープンしましたので、時代の違いからして、ジェイムズ・ジョイスがこの店を訪れたことから、彼の銅像がここにある訳ではありません。実は以下に示すように、カフェ・ウリクスは、半年ではありますがプーラに滞在したジェイムズ・ジョイスの代表作:「ユリシーズ(Ulysses)」からその名前を取っており、そのため彼の銅像を置いています。「ユリシーズ(Ulysses)」はクロアチア語で、「ウリクス(Uliks)」となりますから、これが店名の語源です。これだけではよく分からないでしょうから、もう少し詳しく説明しますと、ジェイムズ・ジョイスは皆さんご存知の、ホメロスの「オデュッセイア(?δυσσε?・?・(ギリシャ語))と対応関係をもつ実験的なモダニズムの小説を書きました。“?δυσσε?・?・”はラテン語で“Ulysseus”であり、これが英語化して“Ulysses”となったことから、この小説名を“Ulysses”としました。一方クロアチア語で“?δυσσε?・?・”は“Uliks”となることから、“Uliks”はジェイムズ・ジョイスの代表作である“Ulysses”と同意となります。 -
セルギ通りを西に進みます。
この通りは北の丘を回るようにできていますので、徐々に北側へ方向を変えるようカーブしています。 -
セルギ通りを西に進みます。
セルギ通りから北に見える Uspon Franje Glavini?・a 通り。 -
セルギ通りを西に進みます。
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セルギ通りを西に進みます。
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セルギ通りを西に進みます。
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セルギ通りを西に進みます。
ん!この建物はひと際目立ちますねえ。 -
バロック様式か。昔の貴族の館ですかねえ。
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この辺にくると通りの方向は西北性です。
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セルギ通りを西北西に進みます。
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セルギ通りに直交するからDe Villeov uspon 通りの北北東(丘)側。
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セルギ通りに直交するからDe Villeov uspon 通りの南南西(海)側。
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セルギ通り
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おや、またちょっと洒落た建物だ。
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壁の枠の中に彫像がありますが、誰のものか不明です。
由緒ある家なんでしょうね。 -
道なりなりにセルギ通りを進むと、名前がフォーラム(Forum)通りに変わります。
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フォーラム通りを北に少し進んで、フォーラム広場(Forum Square)にでました。
フォロ広場 広場・公園
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広場の北側。広場の北側。左はアウグストゥス神殿(Temple of Augustus(英語))、右は市庁舎(Gradska vije?・nica、Komunalna pala?・a(クロアチア語)、Communal Palace(英語))です。
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市庁舎
この場所にはもともと紀元前後に立てられた3つの神殿の1つである、ダイアナ神殿があり、公共施設として使われていました。この神殿は9世紀から初歩的な市庁舎として使われていましたが、街が繁栄するにつれて、専用の市役所が必要となり、神殿を解体して1296年にロマネスク様式の強い影響を受けた新市庁舎が建築されました。建築材料として、解体された神殿や他の建物の石が使われました。現在でも市庁舎は北側(裏側)の壁に、神殿の壁をそのまま利用したことが見て取れます。この建物は建築依頼何回か改築されています。15世紀末にはルネサンス様式で改築され、17世紀にはバロック様式で改築されました。その後19世紀~20世紀まで何回も行われましたが、現時点での最終改築は1988年です。 -
市庁舎3階中央の窓の上のレリーフとバルコニーの旗。旗は左から。欧州旗、クロチア国旗、イストラ群(Istarska ?・upanija(クロアチア語)、Regione Istriana(イタリア語)、Istria County(英語))旗、プーラ市旗、イタリア国旗
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市役所左端壁面のバルトロメオ(Bartolomeo dei Vitrei、Bartolomeo da Pola(クロアチア語)、Bartholomew from Pula(英語))のレリーフ
1296年、彼の政権の下で、ロマネスク様式の強い影響を受けた新市庁舎が建築されました。 -
紀元前後に立てられた3つの神殿の1つである、アウグストゥス神殿
アウグストゥス神殿 史跡・遺跡
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市役所東側壁面。
この壁は最も古い段階の建築様式が残されており、ロマネスク期からゴシック期の様々な建築様式が混在しています。ルネサンス様式の柱とバロック様式の窓の建物の右角上部にはセイレンの彫刻がありますが、これが建築様式の最後の変更です。 -
市役所東側壁面左角のセイレン(Sirena(クロアチア語)、sir?・na(イタリア語)、siren(英語))*) の彫刻
*) ギリシャ神話の出てくる人魚で、美声で船人を魅惑し難破させたという。 -
広場の東側。
右は観光案内所(Turisti?・ka zajednica grade Pule)、その奥はカフェ(Kunstkafe Cvajner)です。 -
広場の南側。左はカフェ・シレナ(Cafe Sirena)
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カフェ・シレナ
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フォーラム広場を出て、Kandlerova 通りをプーラ大聖堂へと向かいます。
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この建物も基本はバロック様式か。
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Kandlerova 通り
中央の窓がいいね。 -
Kandlerova 通り脇のカフェ
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Kandlerova 通り
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プーラ大聖堂(Pula Cathedral、 Cathedral of the Assumption of the Blessed Virgin Mary(英語))と鐘楼
この大聖堂は聖母マリア被昇天大聖堂(Katedrala uznesenja Bla?・ene Djevice Marije(クロアチア語)、 Cathedral of the Assumption of the Blessed Virgin Mary(英語))とも呼ばれ、エウフラシス聖堂(Eufrazijeva bazilika(クロアチア語)、Basilica Eufrasiana(イタリア語)、後日旅行記を投稿します。) と共に、ポレチ(Pore?・(クロアチア語)とプーラのローマカトリック教区の2つの公式司教座の1つです。 教会は、17世紀のヴェネツィアの砦がある丘のふもと、プーラ湾の南側に位置しています。 現在の教会の場所は、古代ローマ時代から宗教的研修会のために使われておりました。最初のキリスト教教会は4世紀後半から5世紀初頭に建てられ、時代を超えて一連の拡張と改築なされております。
ローマ時代には、現在の大聖堂位置に、ジュピターの神殿があったと考えられています。 考古学的発掘調査では、ローマ浴場の遺跡も明らかになり、ディオクレティアヌス迫害中に地元のキリスト教徒が秘密集会に使ったと思われます。
4世紀と5世紀には、古代キリスト教建築の複合施設が徐々に建設されました。 現在の大聖堂の身廊に対応する幅の小さな教会が最初に建てられ、4世紀半ばにはその隣に単身廊の聖トーマス教会が建てられました。 これら2つの教会は、5世紀初めに拡張ホールを有する1つの教会にまとめられました。 5世紀の後半には、ファサードにアプス・セット、後方が完全にフラット、といった、当時の北アドリア海地域で一般的な建築要素を取り入れた、3郎式の教会に改築されました*)。ほぼ同じ時期に、十字型の平面図と司教の住居を持つ洗礼堂が教会の前に建てられましたが、1828年に司教座がポレッチに移された後、1885年に解体されました。
現代の大聖堂は、これらの既存の5世紀の建物の一連の拡張によって生まれました。 元の大聖堂は、フレスコ画と床のモザイクで豊かに装飾されていました。しかし、元のモザイクのわずかな部分だけが、結婚式の誓いの一部としてモザイクに出資した夫婦の名前である“DAMIANUS ET LAVRENTIA”の銘と共に、現在まで残っています。
1860年に、教会で石の石棺を含む墓が発見されました。 石棺には、Aquileiaの司教である聖エルマゴマスと聖フォルツナツスの描写で飾られた銀の箱が入っていました。この箱の中には、プーラとプーラ・ポレッチ教区の守護聖人である、Apostleの聖トーマスの聖遺物が入ったさらに小さな金の聖遺物箱が入っていたと考えられます。聖遺物はおそらく5世紀にコンスタンティノープルからここに持ち込まれ、今日ウィーンの美術史美術館(美術史博物館、Kunsthistorisches Museum(ドイツ語))で保管されています。
プーラの最初の司教座についたのは、アントニウス(Antonius)で、在位は510~547年です。ハンドギシウス(Handegisius)司教(857~862年)の治世の間に、南の壁に追加の入り口が建設されました。 今日この入り口は壁に覆われていますが、その輪郭はまだ南の壁に見えます。 1242年、大聖堂はヴェネツィアの襲撃とそれに続く火事で大きな被害を受けました。 建物が完全に修復されたのは、15世紀の大規模な再建後で、この時聖具保管室**) が追加されました。
1707年にバロック様式の自立型の鐘楼が、5世紀の洗礼堂の後地である大聖堂の前に追加されました。 鐘楼は、ローマ時代の円形闘技場から採取した石を使用して建てられました。 今日の大聖堂の古典的なファサードは、ボッタリ(Josip Marija Bottari)司教時代の1712年に建てられました。また彼の時代から、大聖堂と鐘楼の再建に関する広範な研究が始まり、最終的に1924年に完成しました。上記したように、洗礼堂は1885年に解体されましたが、オーストリアの19世紀の歴史学者であるピエトロ・カンドラー(Pietro Kandler)は、洗礼堂の絵を何枚も描いており、それらは今日でも残っています。これらの絵によると、この洗礼堂はポレチのエウフラシス聖堂のものと同じ六角形の洗礼盤を持っていました。大聖堂は、第二次世界大戦時にプーラの爆撃で再び大きな被害を受けましたが、1947年に再び修復された。
*) 教会の構造につきましては
https://4travel.jp/travelogue/11198227
https://4travel.jp/travelogue/11192701
https://4travel.jp/travelogue/11202688
で図面を用いて説明しましたので、ご興味のある方はご覧ください。
**) 聖具保管室の例は
https://4travel.jp/travelogue/11208101
https://4travel.jp/travelogue/11202688
に示しましたので、ご興味のある方はご覧ください。 -
プーラ大聖堂
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プーラ大聖堂の鐘楼
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プーラ大聖堂を離れKandlerova通りを東に進みます。
Kandlerova通りから見た Josipa Jurya Strossmayera 通りとプーラ湾。 -
通りの脇にあった、ネクタイに巻かれたプーラプーラ闘技場の写真。
写真の上に“Instalacija "Kravata oko Arene" autora Marijana Bu?・i?・a, u Puli 18 listopada 2003”と書かれています。
日本語にすると、「マリヤン・ブシチによる「プーラ闘技場に巻かれたネクタイ」のインスタレーション。2003年10月18日」となります。マリヤン・ブシチ(Marijana Bu?・i?・a)は1990年、ズラトコ・ペナヴィチ(Zlatko Penavi?・)と一緒に、ネクタイを製造販売するポトマック社を創業した人物です。同社が販売する「クロアタ」ブランドのネクタイは、クロアチアのファンション業界において最も有名なブランドで、世界的にも良く知られています。彼の考えに基づき、1997年、ネクタイ発祥の地(以下で説明します。)であるクロアチア、ヨーロッパ、世界の文化遺産の一環として、またコミュニケーションの特別媒体として、ネクタイを宣伝する使命を持つ非営利団体アカデミア・クラバティカ(Academia Cravatica)が設立されました。写真のインスタレーションはアカデミア・クラバティカのイベントとして行われたもので、クロアチアの異なるアイデンティティである古代と現代の価値観を結びつけ、世界中の注目を集めました。使われたネクタイは長さ808 m、最大幅25 mで、赤色の生地9015 m2から造られています。この芸術品の創作には、120 kmの糸、450Kgの布地、300時間以上の縫製を必要としました。
なお、このネクタイは世界最大のものとしてギネスブックにも登録され、また、2008年にはアカデミア・クラバティカによって10月18日が世界クラバットの日(Svjetski dan kravate(クロアチア語)、World Cravat Day(英語))と定められました。
クロアチアがネクタイの発祥の地となった経緯は以下の通りです。
ヨーロッパの大半を巻き込んだ30年戦争(1618~1648年)の最中、クロアチアの軽騎兵はパリに至りました。 興味深いことに、クロアチア兵は鮮やかな色のスカーフを首の周りに巻いていました。クロアチアでは兵士が戦争に赴くとき、彼らの妻や恋人が愛する人の無事を願い、スカーフを首に巻く習慣があったのです。ルイ14世治世の間、この魅力的なクロアチアスタイルは、ファッションに厳しいパリの人々の間で高い人気を集め、彼らは新しいファッションアイテムとしてこれを採用しました。このスカーフはその後ヨーロッパ全体に広がりましたが、クロアチア起源であったことから、ヨーロッパ各国ではその国の言葉でクロアチアを意味する名称を用い、フランス語では“cravate(クラヴァット)”、イタリア語では“cravatta(クラバッタ)”、ドイツ語では“Krawatte(クラヴァタ)”と呼ばれ、これらがネクタイの語源になりました。これに伴いクロアチア語でもネクタイは“Kravata(クラヴァタ)”と呼ばれています。 -
チトー公園(Titov Park)の前に出ました。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国チトー(Josip Broz Tito、1892~1980年 )大統領記念公園のようです。
公園内にジオラマのようなもの(写真右中程)があります。 -
チトー公園に入りました。
北側の風景。チトー公園 広場・公園
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プーラのジオラマ
方向を変えて何枚か示します。 -
プーラのジオラマ
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プーラのジオラマ
上部中央の噴水が吹き出している所が現在地です。 -
公園を出て、Amfiteatarska 通りを北東に進み、駐車場に向かいます。
途中にあった「ニンファエウム(nymphaeum(ラテン語)、古代ローマや古代ギリシャで泉の神ニンフを祀る場所または神殿)の聖ヨハネの墓地教会- 5世紀」の説明板
墓地教会は説明板左下の地図の〇で示された位置にありました。今回ここには行きませんが、説明文の和訳を以下に示します。
「 大きな古代の墓地が、トリエステとネサクティウムへと通ずるローマ街道の交差点の近く、市壁と円形闘技場の間にありました。 フランスの巡礼者、オーギュル・ダングール(Ogier d'Anglure)は、、1396年に円形劇場と海の間の領域に約400の墓があったと記録しています。記念教会は、通常、地元の聖人教団に敬意を表するために、墓地の領域、または初期キリスト教殉教者や聖職者、司教と関係する象徴的な記憶のある場所に建設されました。このように、聖ヨハネの墓地教会も、古代の泉のすぐ近くにある、市門の前に5世紀に建てられました。しかし、時がたつにつれで教会は破壊され、忘れ去られ、1906年に行われた考古学的発掘の結果、石積みの墓と石棺が南部の基礎部分に沿って発見されました。
幅約11 mの単廊式教会の平面図は長方形でした。正確に東を向いた内陣には聖職者のための半円形のベンチがありました。このタイプのいわゆる部屋型教会(chamber church、著者の勝手な訳です)は、5世紀の初期キリスト教徒の教区教会では一般的でした。内陣の多色のモザイクは幾何学的なモチーフ、すなわち、正方形と小さな十字を有する菱形からできたロゼット、正方形の中のねじり巻きと飾り結び、小さな十字形の四角形、ロゼット、四角形のひだと結び目、つながった小さな十字を有する円で飾られていました。地元の石灰岩から彫られた祭壇天蓋は、後日(おそらく11世紀の前半に)教会に建立されましたが、そのうち奉納碑文を有するほんの一部のコーニスが残っていました。
12世紀、神殿騎士団(テンプル騎士団)の指示によっては、プーラの噴水(Fons Nymphea)の隣に宿泊所が建てられました。指示が廃止された後、それはヴェネツィア当局が1357年に市壁の外に位置していたいくつかの器具を破壊したという戦略的理由のために、エルサレムの聖ヨハネの騎士団によって引き継がれ、ニンファエウムの聖ヨハネ教会はその1つだったようです。」 -
観光客用乗用車駐車場に来ました。
ここからですと、プーラ円形闘技場の全景がよく見えます。 -
これでプーラ観光は終わり。バスの駐車場にもどります。
プーラ湾。 -
プーラ湾。
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プーラ湾。
付録
プーラの歴史
以下の説明はできるだけ正確を期すよう、複数の日本語および英語の著書、日本語、英語、クロアチア語、イタリア語、ドイツ語等のネット上の市民権を得ている記事を参考に執筆しております。これだけ多くの資料を参照すると、資料間で矛盾が生じる場合が多々発生しますが、その時点での世界情勢を鑑み、時間・空間的に見て論理的な説明となるよう心掛けております。またもっと深く知りたい方のために、統一された日本語の固有名詞がある場合は、日本語とその後に現地語や英語を併記し、統一された日本語がない場合は現地語だけを記しております。
プーラ(Pula)はアドリア海北部のイストラ半島(Istarski poluotok)最南端に位置しますが、この近くのシャンダリャ(?・andalja)の洞窟で100万年前のホモ・エレクトゥス(Homo erectus)が存在していた証拠が発見されています。(この部分に関する日本語ウィキの説明は間違いです。)このホモ・エレクトゥスはアフリカで200万年前にホモ・ハビリス(Homo habilis)から進化した(最近の研究では、オーストラロピテクス(Australopithecus)からホモ・エレクトゥスもホモ・ハビリスも進化したとの異論も有り、この辺は混沌としています。)人類がドナウ氷河期(150万年前~100面年前頃)の終期である110万年前に移動してきたものです。しかし、7万年前にインドネシアのスマトラ島にあるトバ(Toba)火山が噴火を起こして火山灰が地球を覆うトバ事変(Toba event)によって、地球はヴュルム(W?・rm)氷期に入り、ホモ・エレクトゥスは全滅します。したがって、この人類は現在のイストラ半島の住民と何の関係もありません。一方、20万年程前にアフリカでホモ・エレクトゥスから進化した現生人類であるホモ・サピエンス(Homo sapiens)の一部はこの氷期を生き延び、4万年前頃にはヨーロッパ、アジア、オーストラリアへと拡散します。この過程で人類はアフリカのネグロイド(Negroid)から移動先の気候や地勢に応じて、大きくはそれぞれコーカソイド(Caucasoid)、モンゴロイド(Mongoloid)、オーストラロイド(Australoid)の人種に進化・分化しますが、各人種はさらに細分化していきます。
同じくプーラ近郊で発見された、新石器時代(BC6000~BC2000年)の陶器は、この時代、この付近には上記ホモ・サピエンスが居住していたことを示しています。青銅器時代(BC1800~BC1000年)には、丘上要塞タイプの新しい居住地がイストラ半島で見つかっています。青銅器時代後期には、プーラ周辺で骨性の孔あけ針や縫い針、青銅(ブロンズ)製の螺旋ペンダントも発見されています。イストラ半島で見つかったこれらの品々は、ドナウ川流域で見つかったものと類似しており、この辺一帯に同一の文化圏が形成されていたと考えられます。イストラ半島で知られている最も古い住民は、この青銅器時代のヒストリ(Histri)と呼ばれるイリュリア人(Illyians)部族です。
プーラ(Pula)の名前は、紀元前3世紀のギリシャ詩人であるカリマチャウス(Callimachus)とライコフロン(Lycophron)がまとめた「イアーソン(Jason)とメーディア(Medea)」の神話に由来します。イアーソンは金羊毛(Golden Fleece)を盗み、メーディアの助けを借りて船でアドリア海を北へと逃走します。コルキス(Colchis、黒海南東部にあった当時のギリシャ植民地)は2人を追いますが、卓越した操船技術を有する2人を捕まえることはできませんでした。2人は金羊毛を残してまで帰るえることはせず、イリュリア人部族が住むアドリア海北部のイストラ半島の街に定住しました。彼らはその街を、彼らの言葉で「避難の街」を意味する ” Polai” と名付けました。この ” Polai” の単数形が ” Pula” です。事実、この神話を裏付けるように、数世紀後、この地からギリシャの陶器やアポロ像の一部、その他ギリシャ文化の痕跡が発見されています。
イストア半島はBC177年にローマによって征服され、ローマ化の時代に入ります。街はジュリアス・シーザー(Julius Caesar)の下で、ローマ共和国後期の10番目の地域としてBC46-BC45年の間に植民市(コロニア)階級に昇格しました。 その時、街は成長して約3万人の人口を有する絶頂期を迎え、その管轄下に大きな周辺地域を持つ重要なローマの港になりました。
オクタヴィアヌス(Octavian(英語、))、マルクス・アントニウス(Marcus Antonius(ラテン語)、Mark Antony(英語))、マルクス・アエミリウス・レピドゥス(Marcus Aemilius Lepidus(ラテン語))によって、第二回三頭政治が行われていたBC42年、政府とジュリアス・シーザーの暗殺者であるマルクス・ユニウス・ブルトゥス(Marcus Junius Brutus(ラテン語)))、ガイウス・カッシウス・ロンギヌス(Gaius Cassius Longinus(ラテン語)))との間で内戦が勃発しました。この時、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスの兄弟カッシウス・ロンジノス(Cassius Longinus(英語))によって設立された街はカッシウス側に付きましたが、オクタヴィアヌスの勝利の後、街は破壊されましたた。 しかし、オクタヴィアヌスの娘ユリア(Iulia(英語))の要求ですぐに再建され、その後コロニア・ピエタス・ユリア・ポーラ・ポレンティア・ヘルクラネ(Colonia Pietas Iulia Pola Pollentia Herculanea(英語))と呼ばれました。 その後、、第二回三頭政治が崩れて、オクタヴィアヌスとアントニウスの対立が起こり、BC31年にアクティウムの海戦(Actiaca pugna(ラテン語))でオクタヴィアヌスがクレオパトラ(Cleopatra VII Philopator(ラテン語))と組んだアントニウスに勝利して、BC27年には自らがプリンケプス(Pr?・nceps(ラテン語)、元首)となる帝政ローマを確立し、元老院よりアウグストゥス(Augustus(ラテン語)、)の尊称を授与されて実質的な初代ローマ皇帝となります。この海戦の顛末は後に皆さんお馴染みのシェークスピアの戯曲「アントニ―とクレオパトラ(Antony and Cleopatra(英語))」となります。この海戦ではセルギウス家(Sergius family(英語))の功績があり、この栄誉を讃えてBC27年頃セルギウスの凱旋門(Slavoluk Sergijevaca(クロアチア語)、Triumphal Arch of the Sergi(英語)、セルギ門)が建てられました。市はアウグストゥスがBC7年頃、ローマが支配するイタリア半島(Roman Italy)を11の地域に分けた時に、ヴェネツィアと同じVenetia et Histria地域の一部となりましたが、この間偉大な古典的建築物が建てられ、そのうちのいくつかは現在でも残っています。
壮大な円形闘技場(劇場、競技場)プーラ・アリーナ(Pula Arena(英語)、世界で6番目の規模)は、最初アウグストゥスの治世下にあったAD2年~AD14年に木材で建設され、クラウディウス帝(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus(ラテン語)、Emperor Claudius(英語))の治世(AD41年~AD54年)下で石造建築に建て替えらましたが、当時は今よりずっと小さいものでした。その後79年には、ウェスパシアヌス帝(Titus Flavius Vespasianus(ラテン語))が剣闘士の戦いに対応しできるよう拡張し、ティトゥス帝(Titus Flavius Vespasianus(ラテン語)、ウェスパシアヌス帝の長男で同名)治世下の81年に完成しました。この円形闘技場では、ホノリウス帝(Flavius Honorius Augustus(ラテン語))が禁止した5世紀まで剣闘士の戦闘が行われ、有罪判決を受けた者、とりわけ死刑判決を受けた者と野生動物との戦闘は、それが禁止される681年まで行われました。また、5世紀になると、地元の民衆によって円形闘技場の石が持ち出され始め、13世紀までに、アクレイリア(Aquileia)の総主教は円形闘技場からのさらなる持ち出しを禁じました。この円形闘技場は現在でもその大部分が残っています。ローマ人はまた、市に上下水道システムを供給し、10の門を有する壁で市を城塞化させました。これらの門のうち、紀元前1世紀半ばに造られた最も古いローマ時代の建築であるヘラクレス門(Herkulova vrata(クロアチア語)、Porta Ercole(イタリア語)、 Gate of Hercules(英語)、都市の創設者の名前が彫られています)と双子門(Dvojna vrata(クロアチア語)、Porta Gemina (イタリア語)、 Twin Gates(英語))はまだ残っています。 セプティミウス・セウェルス(Septimius Severus(ラテン語))皇帝の治世の間、市の名前はレス・プブリカ・ポレンシス(Res Publica Polensis(ラテン語))に変更されました。市は326年までCrispus Caesar(英語)の治世下に、354年まではGallus Caesar(英語)の治世下にありました。425年に市は司教管轄区の中心となり、いくつかの宗教的建造物の基礎が残されています。
395年、ローマ帝国がイタリア半島とバルカン半島の間を境に東西に分離したとき、イストラ半島は西ローマ帝国に属しましたが、ゲルマン民族の大移動の結果、西ローマ帝国はやがて衰退し、476年には最後に残った現在のイタリアとクロアチア・ダルマチア地方のうち、イタリアとイストラ半島がゲルマン系のオドアケル王国(Kingdom of Odoacer)に取って代わられ、西ローマ帝国は終焉を迎えます。一方、ダルマチア地方内陸部には454年頃から、後にゲルマン系東ゴート王国となる勢力が現れて、徐々にその領土を拡大し、489年にはイストラ半島をも支配下に置きます。東ゴート王国によるストラ半島支配は539年に終わりますが、この間イストラ半島は荒廃が進みました。その後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国。両方の呼び方をしますが、区別する場合は、国の宗教がローマカトリックからギリシャ正教に変わっていった7世紀以降をビザンツ帝国と呼びます。)のラヴェンナ総督領(Exarchate of Ravenna、584~751年)の一部となり、この間プーラは大きく発展して、東ローマ帝国海軍の主要港となる一方、プーラ大聖堂や聖マリア・フォルモサ教会(Kapela Sv. Marije Formo?・e(クロアチア語))が建設されました。
7世紀になると、ゲルマン民族の大移動に続いて、東アルプス地域から移動してきた南スラブ人(現クロアチア人)がイストラ半島に入り込み、プーラ周辺に住み始めました。しかし、市の歴史は、その位置と重要性を維持し、地域全体としてはヨーロッパ強国の国境をまたぎ続けました。
この間、481年にかつてのローマ帝国ガリア属州の一部であるガリア・ベルギガ(Gallia Belgica(ラテン語)。現在のベルギー、オランダ、ドイツ西部、北東フランス。)付近に誕生したゲルマン系フランク王国(Fr?・nkisches Reich(ドイツ語)、Francia, Frankia, Kingdom of the Franks, etc.(英語))は徐々にその領土を広げ、カール大帝の時代である774年、現イタリアとイストラ半島を領土とするランゴバルド王国(Regno longobardo(イタリア語))に攻め入り、首都パヴィア(Pavia(イタリア語))を陥落させ、属国イタリア王国としてカール大帝が国王を兼任します。788年、その支配はプーラにも及び、1077年まで市はでイストリア選挙区の中心地となり、選挙で選ばれた統治者によって治められました。1148年に市はヴェネツィア人に占領され、1150年、プヴェネツィア共和国への忠誠を誓い、その配下となりました。その後数世紀にわたり、市はヴェネツィア共和国と親密な関係を保ちました。この間、1192年にはピサ(Pisa(イタリア語、英語)) に占領されましたが、すぐにヴェネツィアによってすぐに奪回しされました。
その後については日本語ウィキ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%A9_(%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%81%E3%82%A2)
を参照してください。私が調べた限りでは間違いはなさそうです。
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この旅行記へのコメント (4)
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- バロンさん 2018/04/01 12:09:13
- クロアチアにこんな良い場所があったのですね!!
- bunbunさん こんにちは
この場所を知りませんでした。自分がツアーで行った場所とその周辺くらいしか
しらず、お恥ずかしい限りです。こんな凄い遺跡が残っているなんて
是非行って見たかったです。bunbunさんの旅行記で堪能させてもらいます。
再度の私のつたないブログに訪問いいねのポチを本当にありがとうございます。
これからもbunbunさん旅行記で勉強させて頂きます。
宜しくお願いします。
- bunbunさん からの返信 2018/04/01 23:19:05
- RE: クロアチアにこんな良い場所があったのですね!!
- バロンさん、こんばんは。
またのご訪問、私の拙い旅行記に投票ありがとうございます。
この旅行で行きたかった所は、ドゥブロヴニク、プリトヴィツェ、ブレッド、コトル、モスタル辺りだったのですが、ツアーには他に何ヶ所か含まれており、プーラもその一つで、私も全く知りませんでした。ガイドブックにも大した説明はなく、ウィキペディアでそこそこ予習していきましたが、貴重な円形闘技場はじめ、多くのローマ遺跡をじかに見ることが出来てとてもよかったと思います。これまでローマ遺跡は、イタリア、スペイン、フランス、ドイツ、トルコ等で見てきましたが、今回ローマ帝国の偉大さを改めて知らされました。
ベルリンにはもう30年以上も前の東西冷戦時代に、ダーレム博物館に行ったことがあります。街の中もあちこち回った気がするのですが、今回バロンさん旅行記を拝見して思い出せるのはブランデンブルク門くらいです。私も「ベルリンの壁とは東ドイツと西ドイツの国境を分ける壁」だと思っておりましたが、「西ベルリンを囲む壁」だったことは、バロンさん旅行記で初めて知りました。
ドレスデンやプラハにはまだ行ったことがありません。どちらも素敵な街ですね。ドレスデンのフラウエン教会の主祭壇は見事なもんです。アルテマイスター絵画館もいいですね。フェルメール、ラファエロ、ブリューゲル、ルーベンス、レンブラント等々皆素晴らしいです。ブリューゲルのあのバベルの塔は初めて見ました。クラナハの描く人物の独特な体の比率も好きです。ドレスデンはたしかシューマンが一時期滞在していた街ですよね。中学生のころ伝記を読んだことがあります。プラハの建築や彫像はどれも素晴らしい物ばかりですね。特にゴシック建築の聖ヴィート大聖堂は見事です。3枚目のステンドグラスですが、あのように小さくて鮮やかな色ガラスで作られたものは初めて見ました。プラハはスメタナが音楽を学び活動をした街ですよね。交響詩「わが祖国」第2曲「モルダウ」は大好きな曲の一つです。あの曲を聴くと胸が熱くなります。
私も行けたらいいのですが。
素敵な旅行記をありがとうございました。
これからもバロンさんの旅行記を楽しみしております。
bunbun
-
- cheriko330さん 2018/03/18 01:59:24
- ローマ帝国の歴史残る街、プーラ ♪
- bunbunさん、こんばんは☆彡
ご無沙汰していました。
クロアチアの旅行記の続き、お待ちしていました。
オパティアからプーラへ行かれたのですね。
私も同じでした。
bunbunさんより2年前に行きましたが、行くまでは
こんなにローマ遺跡が多いとは思っていませんでした。
bunbunの旅行記には詳しく書かれていて知識がないもの
ですから、色々と勉強させていただいていますm(__)m
円形闘技場は見応えがありましたよね。私たちは
プーラの街は、サラッと見ただけだったので、目抜き
通りなどは行ってなくて楽しませていただきました。
由緒ある建物、彫刻なども見たかったです。
桜も開花宣言でこれから次々とお花の季節になりますね。
何だか気持ちもウキウキしますね☆
また続きを楽しみにしています。
cheriko330
- bunbunさん からの返信 2018/03/18 23:50:35
- RE: ローマ帝国の歴史残る街、プーラ ♪
- cheriko330さん、こんばんは。ご無沙汰です。
またのご訪問、私の拙い旅行記にいつも投票ありがとうございます。
いつも旅行記を丁寧にご覧頂き、感謝致します。
cheriko330さんにお待ちされていたとは、光栄の至りです。ただ私はなんでも知りたい質で、徹底的に調べ尽くしますので、なかなか旅行記が進みません。いろいろ調べていて気が付くことは、如何にガイドブックの情報量が少ないか、日本語はもちろん英語のネット記事や本に至るまで、実にいい加減な説明が多いことかと言うことです。現地語の公式HPや、原著論文にまで行かないと、本当の所はわかりません。という訳で、次はいつになるかわかりませんが、またクロアチアの続きを投稿しようと思います。その節はお読み頂けますと幸いです。
ギリシャ以外のバルカン半島の国々は、これまで未知の領域でしたが、自然や街の風景、文化や歴史等、面白いことばかりです。今度車でゆっくり回りたいと思いますが、私ももう歳ですのでできるかどうか。
>何だか気持ちもウキウキしますね☆
そうですね。いい季節になってソワソワしております。
これからもcheriko330さんの素敵な旅行記を楽しみにしております。
bunbun
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