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アドリア海の真珠、ドゥブロヴニクに行って来ました。あまりに量が多いので、2回に分けてます。今回はドゥブロヴニク旧市街、スルジ山かおよびロヴリイェナル要塞から見た旧市街を中心にご報告します。<br />この旅行記で使う固有名詞ですが、日本語名が定着しているものついては、日本語名(クロアチア語、必要に応じて英語名)で表記し、定着していないものについてはクロアチア語のみを示します。また、固有名詞でも意味を持つものは、その意味を付加します。<br /><br />ドゥブロヴニクをよく知るためには、その歴史を知っていることが大前提となります。付録にドゥブロヴニクの歴史を載せましたので、ご興味のある方はご覧ください。<br />

クロアチア ドゥブロヴニク I

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2016/07/10 - 2016/07/10

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bunbun

bunbunさん

アドリア海の真珠、ドゥブロヴニクに行って来ました。あまりに量が多いので、2回に分けてます。今回はドゥブロヴニク旧市街、スルジ山かおよびロヴリイェナル要塞から見た旧市街を中心にご報告します。
この旅行記で使う固有名詞ですが、日本語名が定着しているものついては、日本語名(クロアチア語、必要に応じて英語名)で表記し、定着していないものについてはクロアチア語のみを示します。また、固有名詞でも意味を持つものは、その意味を付加します。

ドゥブロヴニクをよく知るためには、その歴史を知っていることが大前提となります。付録にドゥブロヴニクの歴史を載せましたので、ご興味のある方はご覧ください。

  • 朝8:00スプリット(Split)の宿泊ホテル:ダルミナ(Dalmina)を出発し、国道8号線を通ってドゥブロヴニク(Dubrovnik)に向かいます。

    朝8:00スプリット(Split)の宿泊ホテル:ダルミナ(Dalmina)を出発し、国道8号線を通ってドゥブロヴニク(Dubrovnik)に向かいます。

  • オミシュ(Omiš)の街。いいねえ、こういう岩山は。<br />オミシュはスプリット=ダルマチア郡(Splitsko-dalmatinska županija)に属する人工約1万5千人の町で、農業、漁業、繊維業、食品加工業、観光業で成り立っています。<br />

    オミシュ(Omiš)の街。いいねえ、こういう岩山は。
    オミシュはスプリット=ダルマチア郡(Splitsko-dalmatinska županija)に属する人工約1万5千人の町で、農業、漁業、繊維業、食品加工業、観光業で成り立っています。

  • オミシュ(Omiš)の街のツェティナ(Cetina)川の手前。右側の道路は国道6号線に合流する国道70号線です。

    オミシュ(Omiš)の街のツェティナ(Cetina)川の手前。右側の道路は国道6号線に合流する国道70号線です。

  • ツェティナ(Cetina)川を渡ります。橋の北側の風景。

    ツェティナ(Cetina)川を渡ります。橋の北側の風景。

  • ミミツェ(Mimice)の街の手前の山側の風景。

    ミミツェ(Mimice)の街の手前の山側の風景。

  • ミミツェ(Mimice)の街の山側。スーパーマーケット、カフェバー、ピザ屋、郵便局。

    ミミツェ(Mimice)の街の山側。スーパーマーケット、カフェバー、ピザ屋、郵便局。

  • ミミツェ(Mimice)の街の山側。<br />スプリット=ダルマチア郡に属する小さな町で、海側には2つの白く美しい公共ビーチがあり、子供から大人まで楽しめる休日の理想的な滞在地となっています。<br />

    ミミツェ(Mimice)の街の山側。
    スプリット=ダルマチア郡に属する小さな町で、海側には2つの白く美しい公共ビーチがあり、子供から大人まで楽しめる休日の理想的な滞在地となっています。

  • Dubokajの街の山側の風景。

    Dubokajの街の山側の風景。

  • ピサク(Pisak)とZadvarjeの街の境界付近の山側の風景。

    ピサク(Pisak)とZadvarjeの街の境界付近の山側の風景。

  • 休憩で立ち寄ったGostionica &quot;Šampion&quot; (旅館「チャンピオン」の意)から見た ブレラ(Brela)の街。<br />ブレラはスプリット=ダルマチア郡に属する人口約2千人の、Makarska Riviera(オミシュからNeretva Deltaまでの海岸地帯)の真珠とした知られる観光の町です。<br />

    休憩で立ち寄ったGostionica "Šampion" (旅館「チャンピオン」の意)から見た ブレラ(Brela)の街。
    ブレラはスプリット=ダルマチア郡に属する人口約2千人の、Makarska Riviera(オミシュからNeretva Deltaまでの海岸地帯)の真珠とした知られる観光の町です。

  • 1つ上の写真と同じ場所から見た山側。

    1つ上の写真と同じ場所から見た山側。

  • 南に向かう国道8号線の左(東)側に湖が見えてきた。バチナ湖群(Baćinska Jezera(クロアチア語)、Bacna Lakes(英語))のうち一番西に位置する湖とその東に位置する湖だ。

    南に向かう国道8号線の左(東)側に湖が見えてきた。バチナ湖群(Baćinska Jezera(クロアチア語)、Bacna Lakes(英語))のうち一番西に位置する湖とその東に位置する湖だ。

  • 国道8号線をさらに南下して見えたバチナ湖群のうち一番西に位置する湖。

    国道8号線をさらに南下して見えたバチナ湖群のうち一番西に位置する湖。

  • さらに南下すると国道8号線は湖を回るように東に向きを変える。左(北)側に見えた2つ上の写真の手前側の湖。

    さらに南下すると国道8号線は湖を回るように東に向きを変える。左(北)側に見えた2つ上の写真の手前側の湖。

  • さらに東進して見えた1つ上の写真の湖

    さらに東進して見えた1つ上の写真の湖

  • さらに東進して見えた4つ上の写真の奥の湖

    さらに東進して見えた4つ上の写真の奥の湖

  • さらに東進して見えた1つ上の写真の湖

    さらに東進して見えた1つ上の写真の湖

  • Komin の町を東西に走る国道8号線から見たネレトヴァ(Neretva)川と対岸(北側)の風景。一度に30万枚の古代硬貨がここで発見されたそうだ。<br />人口約1300人、郡都がドゥブロヴニク(Dubrovnik)のドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡(Dubrovačko-neretvanska županija)に属する。ドゥブロヴニクが近づいて来たな。<br />

    Komin の町を東西に走る国道8号線から見たネレトヴァ(Neretva)川と対岸(北側)の風景。一度に30万枚の古代硬貨がここで発見されたそうだ。
    人口約1300人、郡都がドゥブロヴニク(Dubrovnik)のドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡(Dubrovačko-neretvanska županija)に属する。ドゥブロヴニクが近づいて来たな。

  • Komin の町を東西に走る国道8号線から見たネレトヴァ川と対岸(北側)の風景

    Komin の町を東西に走る国道8号線から見たネレトヴァ川と対岸(北側)の風景

  • Komin の町を東西に走る国道8号線から見たネレトヴァ川と対岸(北側)の風景

    Komin の町を東西に走る国道8号線から見たネレトヴァ川と対岸(北側)の風景

  • 国境を越えて、ボスニア・ヘルツェコビナ(Bosna i Hercegovina(ボスニア語、クロアチア語))に入りました。国道8号線脇のホテル・オルカ(Hotel Orka)の庭から見たネウム(Neum)の町。<br />ネウムは人口約4600人のヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県(Hercegovačko-neretvanski kanton(ボスニア語)、Hercegovačko-neretvanska županija(クロアチア語))に属する町。ボスニア・ヘルツェコビナにおいてアドリア海に面する唯一の町で、観光とそれがもたらす商業はこの地域に大きく貢献しています。<br />アドリア海沿岸の街はどこも綺麗だねえ。<br />

    国境を越えて、ボスニア・ヘルツェコビナ(Bosna i Hercegovina(ボスニア語、クロアチア語))に入りました。国道8号線脇のホテル・オルカ(Hotel Orka)の庭から見たネウム(Neum)の町。
    ネウムは人口約4600人のヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県(Hercegovačko-neretvanski kanton(ボスニア語)、Hercegovačko-neretvanska županija(クロアチア語))に属する町。ボスニア・ヘルツェコビナにおいてアドリア海に面する唯一の町で、観光とそれがもたらす商業はこの地域に大きく貢献しています。
    アドリア海沿岸の街はどこも綺麗だねえ。

  • また国境を越えてクロアチア(Hrvatska(クロアチア語)))です。昼食をとるために国道8号線からはずれて国道414号線をペリェシャツ(Pelješcu)半島付け根のストン(Ston)の街にやって来ました。<br />城壁が山の上まで続いてますね。<br />

    また国境を越えてクロアチア(Hrvatska(クロアチア語)))です。昼食をとるために国道8号線からはずれて国道414号線をペリェシャツ(Pelješcu)半島付け根のストン(Ston)の街にやって来ました。
    城壁が山の上まで続いてますね。

  • ストンの街と城壁の説明板<br />古代この地域にはイリュリア人(llyrii/Illyri(ラテン語))とギリシャ人が住んでいましたが、BC167年からはローマ統治となります。2世紀にこの場所はローマにとって重要な戦略地となり、丘の南側(現在のストン、図の左端)と西側(現在のマリ・ストン(Mali Ston)図の右端)に拠点が設けられました。塩田もすでにローマ時代からあり、現在でもストンでは塩が作られています(図の左下隅)。1333年、ペリェシャツ半島はラグーザ共和国の領域となり、塩の生産は当時、経済の基礎を成し、ドゥブロヴニクの最も重要な収入源となっていました。また14世紀に要塞の建設が始まり、3箇所(現在のストン、山頂、マリ・ストン)の要塞はそれぞれ城壁によってつなげられました。5kmに及ぶ城壁には40箇所の塔が設けられ、これによってペリェシャツ半島の防衛が可能でとなりました。すべてが完成したのは1506年のことで、ヨーロッパでも長い城壁の一つとなっています。1996年の震災によって被害を受けた箇所もありますが、この要塞は中世の優れた建築物と見なされ、ストンはこの要塞で有名な街となっています。<br />

    ストンの街と城壁の説明板
    古代この地域にはイリュリア人(llyrii/Illyri(ラテン語))とギリシャ人が住んでいましたが、BC167年からはローマ統治となります。2世紀にこの場所はローマにとって重要な戦略地となり、丘の南側(現在のストン、図の左端)と西側(現在のマリ・ストン(Mali Ston)図の右端)に拠点が設けられました。塩田もすでにローマ時代からあり、現在でもストンでは塩が作られています(図の左下隅)。1333年、ペリェシャツ半島はラグーザ共和国の領域となり、塩の生産は当時、経済の基礎を成し、ドゥブロヴニクの最も重要な収入源となっていました。また14世紀に要塞の建設が始まり、3箇所(現在のストン、山頂、マリ・ストン)の要塞はそれぞれ城壁によってつなげられました。5kmに及ぶ城壁には40箇所の塔が設けられ、これによってペリェシャツ半島の防衛が可能でとなりました。すべてが完成したのは1506年のことで、ヨーロッパでも長い城壁の一つとなっています。1996年の震災によって被害を受けた箇所もありますが、この要塞は中世の優れた建築物と見なされ、ストンはこの要塞で有名な街となっています。

  • ストンとマリ・ストンの平面図

    ストンとマリ・ストンの平面図

  • 城壁を上る予定はないのですが、近くまで行ってみます。

    城壁を上る予定はないのですが、近くまで行ってみます。

  • 城壁に上る階段がある。

    城壁に上る階段がある。

  • 階段の横までやって来ました。

    階段の横までやって来ました。

  • ブーゲンビリアが綺麗だ。

    ブーゲンビリアが綺麗だ。

  • ストンを出て国道414号線を通り、国道8号線に向かいます。北東側の風景。アドリア海の入り江です。

    ストンを出て国道414号線を通り、国道8号線に向かいます。北東側の風景。アドリア海の入り江です。

  • 国道414号線から見た北側の風景。

    国道414号線から見た北側の風景。

  • Dubrovačka川(rijeka)に架かるdr. Franja Tuđmana橋(most)を渡ります。車窓の風景。「川」とは言っても入り江ですね。この橋を渡ると左手(南側)に後で出てくるグルージュ港(Luka Gruž(クロアチア語))があり、その先がいよいよドゥブロヴニクです。

    Dubrovačka川(rijeka)に架かるdr. Franja Tuđmana橋(most)を渡ります。車窓の風景。「川」とは言っても入り江ですね。この橋を渡ると左手(南側)に後で出てくるグルージュ港(Luka Gruž(クロアチア語))があり、その先がいよいよドゥブロヴニクです。

  • 城壁で囲まれたドゥブロヴニク旧市街の入口の1つ、ピレ(Pile)門の近くに着きました。中央にミンチェタ(Minčeta)要塞が見えますねえ。左の丘はスルジ(Srđ)山です。

    城壁で囲まれたドゥブロヴニク旧市街の入口の1つ、ピレ(Pile)門の近くに着きました。中央にミンチェタ(Minčeta)要塞が見えますねえ。左の丘はスルジ(Srđ)山です。

  • 堀に架かる橋の向こうはピレ門です。門の上にドゥブロヴニクの守護聖人である聖ヴラホ(Sveti Vlaho、St. Braise(英語))の像が見えますね。右上にたなびく旗はクロアチア国旗、左上はドゥブロヴニク旗です。

    堀に架かる橋の向こうはピレ門です。門の上にドゥブロヴニクの守護聖人である聖ヴラホ(Sveti Vlaho、St. Braise(英語))の像が見えますね。右上にたなびく旗はクロアチア国旗、左上はドゥブロヴニク旗です。

  • ピレ門上部ズームイン。中央は聖ヴラホ、上には大砲、下両端に見える鎖は、敵の来襲時に跳ね橋を引き上げるためのものです。

    ピレ門上部ズームイン。中央は聖ヴラホ、上には大砲、下両端に見える鎖は、敵の来襲時に跳ね橋を引き上げるためのものです。

  • 聖ヴラホズームイン。彼は生誕の地であるトルコのシヴァス(Sivas)の医者で、後にシヴァスの司教になった人物です。医者であった彼は、体と心を癒すことに優れ、市民のみならず野生動物までもが彼のもとを訪れたと言われています。313年のローマ帝国のキリスト教公認にもかかわらず弾圧は続き、316年には彼も捉えられて牢に連れて行かれ、殉教します。牢までの途中、魚の骨を喉に詰まらせて窒息しそうになっている1人息子を連れた母親が、彼の元にやって来たところ、彼は即座に救ってあげました。その後972年にヴラホはドゥブロヴニクの守護聖人となりました。上記言い伝えから、市民は喉の病気になると今でも聖ヴラボに祈るそうです。<br />手にしているのは街の模型です。<br />

    聖ヴラホズームイン。彼は生誕の地であるトルコのシヴァス(Sivas)の医者で、後にシヴァスの司教になった人物です。医者であった彼は、体と心を癒すことに優れ、市民のみならず野生動物までもが彼のもとを訪れたと言われています。313年のローマ帝国のキリスト教公認にもかかわらず弾圧は続き、316年には彼も捉えられて牢に連れて行かれ、殉教します。牢までの途中、魚の骨を喉に詰まらせて窒息しそうになっている1人息子を連れた母親が、彼の元にやって来たところ、彼は即座に救ってあげました。その後972年にヴラホはドゥブロヴニクの守護聖人となりました。上記言い伝えから、市民は喉の病気になると今でも聖ヴラボに祈るそうです。
    手にしているのは街の模型です。

  • 橋を渡ってピレ門に向かいます。橋の右側の見える城壁。中央の直方体部分は旧クラレ(Klare)修道院、右側に飛び出している丸い建物はボカール(Bokar)要塞です。

    橋を渡ってピレ門に向かいます。橋の右側の見える城壁。中央の直方体部分は旧クラレ(Klare)修道院、右側に飛び出している丸い建物はボカール(Bokar)要塞です。

  • ピレ門に向かって進みます。

    ピレ門に向かって進みます。

  • ここまで来れば木製の跳ね橋の様子がよく分かりますね。

    ここまで来れば木製の跳ね橋の様子がよく分かりますね。

  • ピレ門の下から、入って来た方向を振り返ります。黒いドアの向こうに鎖の付いた跳ね橋がありますが、白飛びしているから分かりにくいですかねえ。その鎖がドアの上の黒い球のついた鎖に繋がっています。このくさりを、その下側にある、

    ピレ門の下から、入って来た方向を振り返ります。黒いドアの向こうに鎖の付いた跳ね橋がありますが、白飛びしているから分かりにくいですかねえ。その鎖がドアの上の黒い球のついた鎖に繋がっています。このくさりを、その下側にある、

  • この巻き上げ機を使うことで、跳ね橋が持ち上がります。巻き上げ機には上下に大小2つの歯車があり、下の回転軸にハンドルを付けて回し、上の歯車で鎖を巻き上げます。ギア比が大きいので、小さな力で巻き上げられます。皆さんがお使いの自転車とは歯車の大小が逆と思って頂ければいいですね。

    この巻き上げ機を使うことで、跳ね橋が持ち上がります。巻き上げ機には上下に大小2つの歯車があり、下の回転軸にハンドルを付けて回し、上の歯車で鎖を巻き上げます。ギア比が大きいので、小さな力で巻き上げられます。皆さんがお使いの自転車とは歯車の大小が逆と思って頂ければいいですね。

  • はあ、ありがたいことに地図がある。<br />この地図に赤線で今日の散策ルートを示します。<br />

    はあ、ありがたいことに地図がある。
    この地図に赤線で今日の散策ルートを示します。

  • ピレ門をくぐり抜けると、12世紀に砂浜は埋め立てられてできたプラツァ通り(Placa、別名「ストラドゥン(Stradun)」)*) にでます。通りの左(北)側手前は救世主教会(Crkva Svetog Spasa Dubrovnik(クロアチア語)、St. Saviour Church(英語))、その先はフランシスコ修道院(Franjevački samostan(クロアチア語)、Franciscan Church and Monastery(英語)、右)。<br /><br />*) 付録参照<br />

    ピレ門をくぐり抜けると、12世紀に砂浜は埋め立てられてできたプラツァ通り(Placa、別名「ストラドゥン(Stradun)」)*) にでます。通りの左(北)側手前は救世主教会(Crkva Svetog Spasa Dubrovnik(クロアチア語)、St. Saviour Church(英語))、その先はフランシスコ修道院(Franjevački samostan(クロアチア語)、Franciscan Church and Monastery(英語)、右)。

    *) 付録参照

  • プラツァ通りから少し右(南)に移動して見た、救世主教会(左)とフランシスコ修道院(右)。<br />救世主教会は以下でまた写真を出しますので、その時説明します。<br />フランシスコ修道院はフランシスコ会(Order of Friars Minor(英語))*) に属する、大きな複合施設で、修道院、教会、図書館、薬局から成ります。フランシスコ会は1234年頃ドゥブロヴニクやって着て、最初の修道院を城壁外西側、現在のヒルトン インペリアル ドゥブロヴニク(Hilton Imperial Dubrovnik)の位置に建設されました。しかし戦争の脅威からこの修道院を解体して、1317年、現在の位置に新しい修道院の建築を始め、何回にもわたる部分的再建築も含めで数世紀後に完成させました。1317年から開かれている薬局はクロアチア最古で世界でも3番目に古く、現在でも営業しています。1360年後期ロマネスク様式**) で作られた修道院はルネサンス様式**) の上階とロマネスク-ゴシック様式**) の回廊を有します。初期の段階でできた薬局はクロアチア最古で世界でも3番目に古く、現在でも営業しています。17世紀に造られた図書館は2000冊の本を有し、このうち1200冊の古書は重要な価値を有しています。1667の大地震***)では壊滅的な被害を受けますが、幸いにして被害から逃れた個所の一つが入り口です。これについては後程説明します。<br /><br />*) 1209年、アッシジのフランチェスコ(Francesco d&#39;Assisi(イタリア語))によって設立されたカトリック教会の修道会の総称。<br />**)  https://4travel.jp/travelogue/11198227<br />https://4travel.jp/travelogue/11192701 <br />https://4travel.jp/travelogue/11202688<br />***) 付録参照<br />

    プラツァ通りから少し右(南)に移動して見た、救世主教会(左)とフランシスコ修道院(右)。
    救世主教会は以下でまた写真を出しますので、その時説明します。
    フランシスコ修道院はフランシスコ会(Order of Friars Minor(英語))*) に属する、大きな複合施設で、修道院、教会、図書館、薬局から成ります。フランシスコ会は1234年頃ドゥブロヴニクやって着て、最初の修道院を城壁外西側、現在のヒルトン インペリアル ドゥブロヴニク(Hilton Imperial Dubrovnik)の位置に建設されました。しかし戦争の脅威からこの修道院を解体して、1317年、現在の位置に新しい修道院の建築を始め、何回にもわたる部分的再建築も含めで数世紀後に完成させました。1317年から開かれている薬局はクロアチア最古で世界でも3番目に古く、現在でも営業しています。1360年後期ロマネスク様式**) で作られた修道院はルネサンス様式**) の上階とロマネスク-ゴシック様式**) の回廊を有します。初期の段階でできた薬局はクロアチア最古で世界でも3番目に古く、現在でも営業しています。17世紀に造られた図書館は2000冊の本を有し、このうち1200冊の古書は重要な価値を有しています。1667の大地震***)では壊滅的な被害を受けますが、幸いにして被害から逃れた個所の一つが入り口です。これについては後程説明します。

    *) 1209年、アッシジのフランチェスコ(Francesco d'Assisi(イタリア語))によって設立されたカトリック教会の修道会の総称。
    **) https://4travel.jp/travelogue/11198227
    https://4travel.jp/travelogue/11192701 
    https://4travel.jp/travelogue/11202688
    ***) 付録参照

  • プラツァ通りから見たオノフリオの大噴水(Velika Onofrijeva česma (fontana)、 Large Onofrio&#39;s Fountain(英語))。この噴水はナポリのオノフリオ・デッラ・カヴァ(Onofrio della Cava)がドゥブロヴニクの北12 kmの水源から水を引いて、1438年に造ったものの1つで*)、正16角柱の上部に球面ドームが載った形をしています。角柱の各面には彫刻家ピエトロ・ダ・ミラノ(Pietro da Milano(イタリア語、Petar Martinov from Milan(英語)、Petar Martinov iz Milana(クロアチア語))作の人や動物のレリーフがあり、その口に水道管が付けられています。この噴水は1667年の大地震で*) 多くの装飾が失われ、つつましい姿になってしまいましたが、水道管が付けられたレリーフはそのまま残され、19世紀末まで一般家庭用に使われていました。今でもここから毎秒70 l 水が噴き出し、飲料水として飲むことができます。<br /><br />*) 付録参照<br />

    プラツァ通りから見たオノフリオの大噴水(Velika Onofrijeva česma (fontana)、 Large Onofrio's Fountain(英語))。この噴水はナポリのオノフリオ・デッラ・カヴァ(Onofrio della Cava)がドゥブロヴニクの北12 kmの水源から水を引いて、1438年に造ったものの1つで*)、正16角柱の上部に球面ドームが載った形をしています。角柱の各面には彫刻家ピエトロ・ダ・ミラノ(Pietro da Milano(イタリア語、Petar Martinov from Milan(英語)、Petar Martinov iz Milana(クロアチア語))作の人や動物のレリーフがあり、その口に水道管が付けられています。この噴水は1667年の大地震で*) 多くの装飾が失われ、つつましい姿になってしまいましたが、水道管が付けられたレリーフはそのまま残され、19世紀末まで一般家庭用に使われていました。今でもここから毎秒70 l 水が噴き出し、飲料水として飲むことができます。

    *) 付録参照

  • 南側に移動してもう一枚。オノフリオの大噴水。いろいろなレリーフがあって面白いですねえ。ということで以下にいくつかを示します。

    南側に移動してもう一枚。オノフリオの大噴水。いろいろなレリーフがあって面白いですねえ。ということで以下にいくつかを示します。

  • 噴水口のレリーフ。<br />これはお馬さんですかねえ。<br />

    噴水口のレリーフ。
    これはお馬さんですかねえ。

  • 噴水口のレリーフ。<br />これはお猿さんかなあ。<br />水が出てないな。乾季だからですかねえ。<br />

    噴水口のレリーフ。
    これはお猿さんかなあ。
    水が出てないな。乾季だからですかねえ。

  • 噴水口のレリーフ。<br />これは犬、ん、狐かなあ。<br />

    噴水口のレリーフ。
    これは犬、ん、狐かなあ。

  • 噴水口のレリーフ。<br />これはお猿さんでしょう。<br />これも水が出てない。<br />

    噴水口のレリーフ。
    これはお猿さんでしょう。
    これも水が出てない。

  • 噴水口のレリーフ。<br />間違いなく人間だ。<br />

    噴水口のレリーフ。
    間違いなく人間だ。

  • オノフリオの大噴水の西側から北を望む。<br />城壁と城壁に上る階段がある。遠くにスルジ山(Srđ(クロアチア語))も見えますね。<br />

    オノフリオの大噴水の西側から北を望む。
    城壁と城壁に上る階段がある。遠くにスルジ山(Srđ(クロアチア語))も見えますね。

  • カメラを少し右に振ると、救世主教会です。<br />救世主教会は1520年の地震後、街が大きな被害を受けなかったことに感謝する意味でドゥブロヴニク共和国議会が、コルチュラ島(Korčula(クロアチア語))のPetar Andrijić に設計を依頼して、1520年から建築がはじまり、1528年に完成しました。この教会はゴシック様式の交差リブ・ヴォールト*) の天井と側面に同じくゴシック様式の尖頭アーチ*) 窓を有する一郎式*) ですが、ファサードやアプス(後陣)*) はルネサンス様式になっています。1667年の大地震**) にも耐え、建築時の原型を留めていて、街の代表的なルネサンス建築のとなっています。<br /><br />*)  https://4travel.jp/travelogue/11198227<br />https://4travel.jp/travelogue/11192701 <br />https://4travel.jp/travelogue/11202688<br />**) 付録参照<br />

    カメラを少し右に振ると、救世主教会です。
    救世主教会は1520年の地震後、街が大きな被害を受けなかったことに感謝する意味でドゥブロヴニク共和国議会が、コルチュラ島(Korčula(クロアチア語))のPetar Andrijić に設計を依頼して、1520年から建築がはじまり、1528年に完成しました。この教会はゴシック様式の交差リブ・ヴォールト*) の天井と側面に同じくゴシック様式の尖頭アーチ*) 窓を有する一郎式*) ですが、ファサードやアプス(後陣)*) はルネサンス様式になっています。1667年の大地震**) にも耐え、建築時の原型を留めていて、街の代表的なルネサンス建築のとなっています。

    *) https://4travel.jp/travelogue/11198227
    https://4travel.jp/travelogue/11192701 
    https://4travel.jp/travelogue/11202688
    **) 付録参照

  • プラツァ通りを少し東に進んで、フランシスコ修道院の東側の入口。<br />この修道院は1317年に建設が始まりましたが、美しい南側の入口部分がドゥブロヴニクの彫刻家兄弟:Leonardo とPetar Petrović によって完成したのは1498年のことです。1667年の大地震でこの修道院も壊滅的な被害を受けましたが、この後期ゴシック様式の入口は上部彫像を含めては残されました。<br />

    プラツァ通りを少し東に進んで、フランシスコ修道院の東側の入口。
    この修道院は1317年に建設が始まりましたが、美しい南側の入口部分がドゥブロヴニクの彫刻家兄弟:Leonardo とPetar Petrović によって完成したのは1498年のことです。1667年の大地震でこの修道院も壊滅的な被害を受けましたが、この後期ゴシック様式の入口は上部彫像を含めては残されました。

  • 入口上部の彫像。<br />フランボワイアン様式*) で彫像された中央の葉の枠内にはほぼ等身大のピエタ、その左は、地震前の教会の模型を持ったダルマツッイア出身の聖ジェローム(St. Jerome(英語)、聖ヒエロニムス(Eusebius Sophronius Hieronymus(ラテン語))、右は洗礼者聖ヨハネ(バプテスマの聖ヨハネ(St. John the Baptist(英語)))、上は創造主なる父(Father Creator(英語))です。<br /><br />*)  https://4travel.jp/travelogue/11192701 <br />https://4travel.jp/travelogue/11198227<br />

    入口上部の彫像。
    フランボワイアン様式*) で彫像された中央の葉の枠内にはほぼ等身大のピエタ、その左は、地震前の教会の模型を持ったダルマツッイア出身の聖ジェローム(St. Jerome(英語)、聖ヒエロニムス(Eusebius Sophronius Hieronymus(ラテン語))、右は洗礼者聖ヨハネ(バプテスマの聖ヨハネ(St. John the Baptist(英語)))、上は創造主なる父(Father Creator(英語))です。

    *) https://4travel.jp/travelogue/11192701
    https://4travel.jp/travelogue/11198227

  • プラツァ通りを東に進みます。

    プラツァ通りを東に進みます。

  • プラツァ通りを東に進みます。

    プラツァ通りを東に進みます。

  • スルジ山側(北側)のPalmotićeva通り。<br />左側の建物の角上部のレリーフはドゥブロヴニクの紋章に似てますがねえ。<br />

    スルジ山側(北側)のPalmotićeva通り。
    左側の建物の角上部のレリーフはドゥブロヴニクの紋章に似てますがねえ。

  • さらに東に進んで、海側(南側)Široka通り。<br />カフェがいっぱいだ。<br />

    さらに東に進んで、海側(南側)Široka通り。
    カフェがいっぱいだ。

  • Široka通りに入って来ました。Puča通りとの交差点の手前の建物の壁に展示されていた写真。1991年に始まった、ユーゴスラヴィアからの独立を目指したクロアチア紛争*) の惨状を訴えるために、1993年4月4日~12月6日の間開催され展覧会の様子です。この展覧会は、1993年、ドゥブロヴニクで第59回国際ペン会議が開催されたのを機に、地元の画家Grbić が、ユーゴスラヴィア軍の爆撃によって破壊・焼かれた自宅を使って開催したインスタレーション(Installation art)です。<br /><br />*) 付録参照<br />

    Široka通りに入って来ました。Puča通りとの交差点の手前の建物の壁に展示されていた写真。1991年に始まった、ユーゴスラヴィアからの独立を目指したクロアチア紛争*) の惨状を訴えるために、1993年4月4日~12月6日の間開催され展覧会の様子です。この展覧会は、1993年、ドゥブロヴニクで第59回国際ペン会議が開催されたのを機に、地元の画家Grbić が、ユーゴスラヴィア軍の爆撃によって破壊・焼かれた自宅を使って開催したインスタレーション(Installation art)です。

    *) 付録参照

  • Široka通りとPuča通りとの交差点付近の建物の壁に展示されていた写真。左がPuča通りです。右側の写真の下には、<br />「忘れるな!<br />セルビアとモンテネグロのドゥブロヴニク攻撃20周年に際してのドキュメンタリー写真の展示」<br />右上には<br />「1991年12月6日」<br />の日付、<br />その下の矢印の先は、<br />「母の部屋(MAMINA SOBA)」<br />と書かれています。クロアチア紛争時の写真ですね。<br />

    Široka通りとPuča通りとの交差点付近の建物の壁に展示されていた写真。左がPuča通りです。右側の写真の下には、
    「忘れるな!
    セルビアとモンテネグロのドゥブロヴニク攻撃20周年に際してのドキュメンタリー写真の展示」
    右上には
    「1991年12月6日」
    の日付、
    その下の矢印の先は、
    「母の部屋(MAMINA SOBA)」
    と書かれています。クロアチア紛争時の写真ですね。

  • これもクロアチア紛争時の写真です。<br />「戦争で焼かれた階段の壁画」<br />「爆撃された宮殿のバルコニー」<br />「宮殿1階の焼かれたフレスコ画」<br />と書かれています。<br /><br />こういった歴史を風化させてはならない、というのはどこの国も同じです。<br />

    これもクロアチア紛争時の写真です。
    「戦争で焼かれた階段の壁画」
    「爆撃された宮殿のバルコニー」
    「宮殿1階の焼かれたフレスコ画」
    と書かれています。

    こういった歴史を風化させてはならない、というのはどこの国も同じです。

  • 左(東)に折れて、Puča通りを東に進みます。<br />「クロアチア純正土産」か。こんなのを見るとほっとしますねえ。<br />

    左(東)に折れて、Puča通りを東に進みます。
    「クロアチア純正土産」か。こんなのを見るとほっとしますねえ。

  • Puča通りを東に進みます。<br />少し先で交差する通りは、Nikole Božidarevića通りです。<br />

    Puča通りを東に進みます。
    少し先で交差する通りは、Nikole Božidarevića通りです。

  • Pu?・a通りの北側にあるセルビア正教会の受胎告知教会(Crkva sv. Blagovijesti(クロアチア語))。<br />1877年建設。<br />

    Pu?・a通りの北側にあるセルビア正教会の受胎告知教会(Crkva sv. Blagovijesti(クロアチア語))。
    1877年建設。

  • Puča通りを東に進みます。<br />通りの南側にGundulić広場(Gundulićeva poljana)が見えてきました。この広場は午前中青空市場が開かれますが、午後のこの時間(15:15)はカフェ・ロイヤル(Café Royal)のテーブルが並んでいます。この広場の中央には17世紀のドゥブロヴニクの詩人Ivanu Gundulićevの銅像が立っており(この写真では台座しか見えませんね)、広場には彼の名前が付けられています。<br />右上に見える黒いドームはドゥブロヴニク大聖堂(Dubrovačka katedrala)です。<br />後で説明します。<br />

    Puča通りを東に進みます。
    通りの南側にGundulić広場(Gundulićeva poljana)が見えてきました。この広場は午前中青空市場が開かれますが、午後のこの時間(15:15)はカフェ・ロイヤル(Café Royal)のテーブルが並んでいます。この広場の中央には17世紀のドゥブロヴニクの詩人Ivanu Gundulićevの銅像が立っており(この写真では台座しか見えませんね)、広場には彼の名前が付けられています。
    右上に見える黒いドームはドゥブロヴニク大聖堂(Dubrovačka katedrala)です。
    後で説明します。

  • Gundulić広場の西側の通り。

    Gundulić広場の西側の通り。

  • 1つ上の写真の通りを南に進んだところにあった建物。立派な建物だが、歴史的に重要ということでもないらしい。1回にはレストランやいろいろな店がはいっている。この建物の角を左(東)に曲がって、Gundulić広場の南側の通りを東に進みます。

    1つ上の写真の通りを南に進んだところにあった建物。立派な建物だが、歴史的に重要ということでもないらしい。1回にはレストランやいろいろな店がはいっている。この建物の角を左(東)に曲がって、Gundulić広場の南側の通りを東に進みます。

  • 建物の間にドゥブロヴニク大聖堂が見えます。<br />後で説明します。<br />

    建物の間にドゥブロヴニク大聖堂が見えます。
    後で説明します。

  • さらに東に進んで、近づいて見たドゥブロヴニク大聖堂。

    さらに東に進んで、近づいて見たドゥブロヴニク大聖堂。

  • ドゥブロヴニク大聖堂の北側を通ってPred Dvorom通りに出ました。<br />右側の7本の列柱とその間のアーチが美しい建物は旧総督邸(Knežev dvor(クロアチア語)、Rector&#39;s Palace(英語)です。<br />スルジ山も見えますねえ。<br />

    ドゥブロヴニク大聖堂の北側を通ってPred Dvorom通りに出ました。
    右側の7本の列柱とその間のアーチが美しい建物は旧総督邸(Knežev dvor(クロアチア語)、Rector's Palace(英語)です。
    スルジ山も見えますねえ。

  • 旧総督邸<br />総督邸は13世紀には現在の地に要塞としてありましたが、14世紀には徐々にローマやベネチア風の宮殿に変わっていきます。この宮殿は1435年、弾薬庫にあった火薬の爆発によって崩落したため、ラグーサ共和国は上記噴水を造ったナポリのオノフリオ・デッラ・カヴァに新たな建築を依頼し、1463年に完成します。ゴシック-ルネサンス様式のファサードはオノフリオのデザインと考えられ、その他に多くの芸術家、建築家、石工がこの建築に参加しております。中でもミラノのピエトロ・ディ・マルティーノ(Pietro di Martino、ペトラ・マルティノヴァ(Petra Martinova))のゴシック様式装飾彫刻は特記すべき価値があります。この建物は完成直後の同1463年、再び火薬の爆発で破壊されました。再建はフィレンツェのミケロッツォ(Michelozzo di Bartolomeo Michelozzi)に依頼されましたが、彼が提出したプランはルネサンス様式を取り入れ過ぎているとのことで拒否されました。その後フィレンツェのユーライ・ダルマティナッツ(Juraj Dalmatinac)とサルヴィ・ディ・ミケーレ(Salvi di Michele)ミケロッツォによって、ゴシック-ルネサンス様式で再建がなされました。入り口のルネサンス様式柱頭はサルヴィ・ディ・ミケーレによるものです。この建物は1520年と1667年の地震によって建物内部がひどい損傷を受け、再建に30年を要します。再建当初は建築家であるローマのフランチェスコ・コルテス(Francesco Cortese)とパオロ・アンドレオッチ(Paolo Andreotti)がゴシックールネサンス様式で修復を進めましたが、1689年シチリアはパレルモの偉大な建築家であるトマッソ・マリア・ナポリ(Tommaso Maria Napoli)がバロック様式のアトリウムを再築しました。1638年にはアトリウムにドゥブロヴニク貿易商、銀行家、慈善家のミホ・プラツァト(Mihi Pracatu)の像が宮設置されています。1806年にはナポレオン1世((Napoléon Ier)の部下であるオーギュスト・マルモン(Auguste de Marmont)がダルマチア総督となり、1808年ラグーサ侯爵となると、総督邸は当初の宮殿として使われることになります。*)<br />この総督邸には総督の執務室や住居部分はもちろん、裁判所、武器弾薬庫、牢獄等までもが置かれていました。ドゥブロヴニク総督は宗主国の介入*) および独裁を防ぐための名誉職であり、実質的な権限はありませんでした。貴族の中から選ばれましたが任期は1ヶ月で再選は不可、住み込みで公務以外の外出不可、無給でした。<br /><br />*)付録参照<br />

    旧総督邸
    総督邸は13世紀には現在の地に要塞としてありましたが、14世紀には徐々にローマやベネチア風の宮殿に変わっていきます。この宮殿は1435年、弾薬庫にあった火薬の爆発によって崩落したため、ラグーサ共和国は上記噴水を造ったナポリのオノフリオ・デッラ・カヴァに新たな建築を依頼し、1463年に完成します。ゴシック-ルネサンス様式のファサードはオノフリオのデザインと考えられ、その他に多くの芸術家、建築家、石工がこの建築に参加しております。中でもミラノのピエトロ・ディ・マルティーノ(Pietro di Martino、ペトラ・マルティノヴァ(Petra Martinova))のゴシック様式装飾彫刻は特記すべき価値があります。この建物は完成直後の同1463年、再び火薬の爆発で破壊されました。再建はフィレンツェのミケロッツォ(Michelozzo di Bartolomeo Michelozzi)に依頼されましたが、彼が提出したプランはルネサンス様式を取り入れ過ぎているとのことで拒否されました。その後フィレンツェのユーライ・ダルマティナッツ(Juraj Dalmatinac)とサルヴィ・ディ・ミケーレ(Salvi di Michele)ミケロッツォによって、ゴシック-ルネサンス様式で再建がなされました。入り口のルネサンス様式柱頭はサルヴィ・ディ・ミケーレによるものです。この建物は1520年と1667年の地震によって建物内部がひどい損傷を受け、再建に30年を要します。再建当初は建築家であるローマのフランチェスコ・コルテス(Francesco Cortese)とパオロ・アンドレオッチ(Paolo Andreotti)がゴシックールネサンス様式で修復を進めましたが、1689年シチリアはパレルモの偉大な建築家であるトマッソ・マリア・ナポリ(Tommaso Maria Napoli)がバロック様式のアトリウムを再築しました。1638年にはアトリウムにドゥブロヴニク貿易商、銀行家、慈善家のミホ・プラツァト(Mihi Pracatu)の像が宮設置されています。1806年にはナポレオン1世((Napoléon Ier)の部下であるオーギュスト・マルモン(Auguste de Marmont)がダルマチア総督となり、1808年ラグーサ侯爵となると、総督邸は当初の宮殿として使われることになります。*)
    この総督邸には総督の執務室や住居部分はもちろん、裁判所、武器弾薬庫、牢獄等までもが置かれていました。ドゥブロヴニク総督は宗主国の介入*) および独裁を防ぐための名誉職であり、実質的な権限はありませんでした。貴族の中から選ばれましたが任期は1ヶ月で再選は不可、住み込みで公務以外の外出不可、無給でした。

    *)付録参照

  • 少し東に移動して、ドームが見える建物は聖ブラホ教会(Crkva sv. Vlaha)です。<br />後で説明します。<br />

    少し東に移動して、ドームが見える建物は聖ブラホ教会(Crkva sv. Vlaha)です。
    後で説明します。

  • 南に振り返ってドゥブロヴニク大聖堂南壁の上に建つ聖人達の像。

    南に振り返ってドゥブロヴニク大聖堂南壁の上に建つ聖人達の像。

  • 南に移動してMarina Držića広場にから見た、ドゥブロヴニク大聖堂ファサード。不思議なことにファサードは東向きです*)。 右端のニッチ内の彫像は聖ヴラホです。<br />ドゥブロヴニク大聖堂はローマカトリックのドゥブロヴニク教区大聖堂です。バロック様式の3郎式です。上から見ると長方形ですが、天井が低い側郎を除く高い部分はラテン十字形をしており、クロッシングの上部は高くて大きいドームで覆われています。祭壇は中央の1つと翼郎にそれぞれ1つずつの計3つ、加えて左右両側面にそれぞれ3つ、計6つのサイド祭壇(礼拝堂、チャペル)があります。この大聖堂は5、7、10、11、12世紀の大聖堂の跡地上に建設されています。12世紀の大聖堂はイギリスのリチャード獅子王(Richard the Lionheart、イギリス国王リチャード1世(Richard I of England))の資金援助の下にロマネスク様式で建て替えられました。 伝説によると、第3次十字軍遠征からの帰途、リチャード1世はアドリア海でひどい嵐にあい、沈没直前の船のなかで、「もし命が救われたなら、その地と祖国イギリスに教会を建てよう」と聖母マリアに誓ったそうです。船はロクルム島(Otok  Lokrum)近くで座礁し、リチャード1世は島民に救われました。彼は誓い通り、ロクルム島に教会を建てることを申し出ましたが、ロクルム島にはすでにベネディクト修道会の教会があったため、市民はドゥブロヴニクの大聖堂建て替えの献金を申し出、リチャード1世は10万ダカツ(ducats、最近の金額に換算すると約20億円)の献金をしました。この大聖堂は1669年の大地震*) で倒壊し、ウルビーノ(Urbino)のアンドレア・ブファリーニ(Andrea Bufalini)が2側郎付き身廊と丸屋根のバロック式大聖堂を提案し他、ジェノバのフランセスコ・コルテス(Francesco Cortese)やピエール・アントニオ・バッツィ(Pier Antonio Bazzi)、上記総督邸を担当したトマッソ・マリア・ナポリ(Tommaso Maria Napoli)といったイタリアの建築家が参加してバロック様式で設計され、建設は内外の石工によって1673年に始まり、1713年ドゥブロヴニクの建築家Ilija Katičićによってほぼ現在の形に完成しました。この間ナポリは当初の設計を大きく変えて、中央の身廊天井に交差ヴォールト、サイド祭壇上部にテラスと大きな上部窓を取り入れ、これによって内部は随分明るくなっています。その後1979年の地震による被害は数年で修復され、1991年のクロアチア紛争**) で被った被害も修復されています。<br /><br />*)  https://4travel.jp/travelogue/11180256 <br />**) 付録参照<br />

    南に移動してMarina Držića広場にから見た、ドゥブロヴニク大聖堂ファサード。不思議なことにファサードは東向きです*)。 右端のニッチ内の彫像は聖ヴラホです。
    ドゥブロヴニク大聖堂はローマカトリックのドゥブロヴニク教区大聖堂です。バロック様式の3郎式です。上から見ると長方形ですが、天井が低い側郎を除く高い部分はラテン十字形をしており、クロッシングの上部は高くて大きいドームで覆われています。祭壇は中央の1つと翼郎にそれぞれ1つずつの計3つ、加えて左右両側面にそれぞれ3つ、計6つのサイド祭壇(礼拝堂、チャペル)があります。この大聖堂は5、7、10、11、12世紀の大聖堂の跡地上に建設されています。12世紀の大聖堂はイギリスのリチャード獅子王(Richard the Lionheart、イギリス国王リチャード1世(Richard I of England))の資金援助の下にロマネスク様式で建て替えられました。 伝説によると、第3次十字軍遠征からの帰途、リチャード1世はアドリア海でひどい嵐にあい、沈没直前の船のなかで、「もし命が救われたなら、その地と祖国イギリスに教会を建てよう」と聖母マリアに誓ったそうです。船はロクルム島(Otok Lokrum)近くで座礁し、リチャード1世は島民に救われました。彼は誓い通り、ロクルム島に教会を建てることを申し出ましたが、ロクルム島にはすでにベネディクト修道会の教会があったため、市民はドゥブロヴニクの大聖堂建て替えの献金を申し出、リチャード1世は10万ダカツ(ducats、最近の金額に換算すると約20億円)の献金をしました。この大聖堂は1669年の大地震*) で倒壊し、ウルビーノ(Urbino)のアンドレア・ブファリーニ(Andrea Bufalini)が2側郎付き身廊と丸屋根のバロック式大聖堂を提案し他、ジェノバのフランセスコ・コルテス(Francesco Cortese)やピエール・アントニオ・バッツィ(Pier Antonio Bazzi)、上記総督邸を担当したトマッソ・マリア・ナポリ(Tommaso Maria Napoli)といったイタリアの建築家が参加してバロック様式で設計され、建設は内外の石工によって1673年に始まり、1713年ドゥブロヴニクの建築家Ilija Katičićによってほぼ現在の形に完成しました。この間ナポリは当初の設計を大きく変えて、中央の身廊天井に交差ヴォールト、サイド祭壇上部にテラスと大きな上部窓を取り入れ、これによって内部は随分明るくなっています。その後1979年の地震による被害は数年で修復され、1991年のクロアチア紛争**) で被った被害も修復されています。

    *) https://4travel.jp/travelogue/11180256
    **) 付録参照

  • 大聖堂の中にはいりました。<br />身廊と遠くに種祭壇が見えます。<br />

    大聖堂の中にはいりました。
    身廊と遠くに種祭壇が見えます。

  • 左側廊

    左側廊

  • サイド祭壇

    サイド祭壇

  • レリーフ中央の明るい部分は、レリーフを覆っているガラスによる窓の反射です。

    レリーフ中央の明るい部分は、レリーフを覆っているガラスによる窓の反射です。

  • サイド祭壇(聖十字架の祭壇(Altar of Holy Cross))

    サイド祭壇(聖十字架の祭壇(Altar of Holy Cross))

  • サイド祭壇

    サイド祭壇

  • サイド祭壇

    サイド祭壇

  • 洗礼盤

    洗礼盤

  • 左翼郎の祭壇(Altar of St. John of Nepomuk)

    左翼郎の祭壇(Altar of St. John of Nepomuk)

  • 右翼郎の祭壇(Altar of St. Bernard)

    右翼郎の祭壇(Altar of St. Bernard)

  • 右翼郎の祭壇の左側

    右翼郎の祭壇の左側

  • 主祭壇(聖Ivana Nepomukaの祭壇)<br />中央の絵はティツィアーノ(Tiziano Vecellio)の「聖母被昇天」*) です。<br /><br />*)  https://4travel.jp/travelogue/11198227 <br />

    主祭壇(聖Ivana Nepomukaの祭壇)
    中央の絵はティツィアーノ(Tiziano Vecellio)の「聖母被昇天」*) です。

    *) https://4travel.jp/travelogue/11198227

  • 大聖堂から城壁の下をくぐって昔の海洋貿易*) を支えた港(旧港、Graduska luka(クロアチア語))にやって来ました。天気はいいし、オレンジ色の屋根と白壁の家々も綺麗だし、最高だねえ。この港は現在もっぱら観光用に使われており、交易用はドゥブロヴニクの北西3 km 程の所にある上記のグルージュ港(Luka Gruž(クロアチア語))です。<br />右端に見えるのは聖イヴァン要塞(Tvrđava sv. Ivan(クロアチア語))です。後で説明します。<br /><br />*) 付録参照<br />

    大聖堂から城壁の下をくぐって昔の海洋貿易*) を支えた港(旧港、Graduska luka(クロアチア語))にやって来ました。天気はいいし、オレンジ色の屋根と白壁の家々も綺麗だし、最高だねえ。この港は現在もっぱら観光用に使われており、交易用はドゥブロヴニクの北西3 km 程の所にある上記のグルージュ港(Luka Gruž(クロアチア語))です。
    右端に見えるのは聖イヴァン要塞(Tvrđava sv. Ivan(クロアチア語))です。後で説明します。

    *) 付録参照

  • クルーザーが一杯だ。<br />茶色の船は多分観光用帆船。ドゥブロヴニクが交易で繁栄していた頃の帆船をモデルにしているのでしょうね。よく似ています。<br />左端上部がスルジ山です。<br />

    クルーザーが一杯だ。
    茶色の船は多分観光用帆船。ドゥブロヴニクが交易で繁栄していた頃の帆船をモデルにしているのでしょうね。よく似ています。
    左端上部がスルジ山です。

  • 帆船が出航していきますね。格好いいな。

    帆船が出航していきますね。格好いいな。

  • 帆船はあんなに遠くに行っちゃった。海の色も綺麗だし、気持ちいいでしょうねえ。

    帆船はあんなに遠くに行っちゃった。海の色も綺麗だし、気持ちいいでしょうねえ。

  • そろそろスルジ山に上る時間とのことで、この城壁の下を写真の左側にくぐって一旦旧市街に入ります。<br />参考までに写真の正面は公衆トイレです。<br />張り紙には7クーナ(Kn)もしくは2? と書かれています。<br />クロアチアはEUに加盟しましたが*) が2017年11月現在、公式通貨は依然クーナです。<br />ここではユーロも使えるようです。<br /><br />*) 付録参照<br />

    そろそろスルジ山に上る時間とのことで、この城壁の下を写真の左側にくぐって一旦旧市街に入ります。
    参考までに写真の正面は公衆トイレです。
    張り紙には7クーナ(Kn)もしくは2? と書かれています。
    クロアチアはEUに加盟しましたが*) が2017年11月現在、公式通貨は依然クーナです。
    ここではユーロも使えるようです。

    *) 付録参照

  • ルジャ広場に出ました。広場の南側にある聖ヴラホ教会。ファサードは中央上部の彫像は聖ヴラホです。後で詳しく説明します。<br />左奥のドームはドゥブロヴニク大聖堂です。<br />音楽のイベントが開催されるようですね。準備が進んでいます。<br />それにしても、バンは邪魔だなあ。と言うことでスルジ山からの帰りにまた寄ります。<br />

    ルジャ広場に出ました。広場の南側にある聖ヴラホ教会。ファサードは中央上部の彫像は聖ヴラホです。後で詳しく説明します。
    左奥のドームはドゥブロヴニク大聖堂です。
    音楽のイベントが開催されるようですね。準備が進んでいます。
    それにしても、バンは邪魔だなあ。と言うことでスルジ山からの帰りにまた寄ります。

  • とりあえず、<br />聖ヴラホ、ズームイン。<br />

    とりあえず、
    聖ヴラホ、ズームイン。

  • 聖ヴラホ教会左(東)側は奥が、先ほど見た旧総督邸、その手前がかつての兵器庫を利用したアーセナル・シティ・カフェ(Gradska kavana Arsenal(クロアチア語))、さらにその手前は以下で説明する市鐘楼です。シティ・カフェ入り口の門柱の向こう側に小オノフリオの噴水(Mala Onofrijeva česma)*) がありますが、小さくて分かりませんかねえ。

    聖ヴラホ教会左(東)側は奥が、先ほど見た旧総督邸、その手前がかつての兵器庫を利用したアーセナル・シティ・カフェ(Gradska kavana Arsenal(クロアチア語))、さらにその手前は以下で説明する市鐘楼です。シティ・カフェ入り口の門柱の向こう側に小オノフリオの噴水(Mala Onofrijeva česma)*) がありますが、小さくて分かりませんかねえ。

  • 市鐘楼(Gradski zvonik(クロアチア語))<br />最初の時計付き鐘楼はこの地の職人:Grubačević、UtišenovićとRadončić1によって1444年に造られ、その高さは 31 m でした。司祭の息子であるルカ・ミホシン(Luka Mihočin)が、時計の金属性文字盤と針、時間を知らせる鐘を打つ木製人形を作りました。1506(1509)年には、ドゥブロヴニクの大砲作りの巨匠であるイヴァン・ラブフィアニン(Ivan Rabljanin)が、今日でも使われてる鐘を鋳造して取り替え、木製人形はブロンズ製に取り替えられました。その後1667年の大地震によってこの鐘楼は不安定となり、時とともにピサの斜塔(https://4travel.jp/travelogue/11180256)のように傾いて倒壊の危機に陥ったため、1929年に以前の形に建て替えられました。<br />市鐘楼左下のアーチのある通路が旧港につながっています。私はあのアーチをくぐってこの広場に来ました。<br />この後またあのアーチをくぐり、聖ドミニカ通り(Ul. Svetog Dominika(クロアチア語))を北に進んでスルジ山ロープウェイ乗り場を目指します。<br />

    市鐘楼(Gradski zvonik(クロアチア語))
    最初の時計付き鐘楼はこの地の職人:Grubačević、UtišenovićとRadončić1によって1444年に造られ、その高さは 31 m でした。司祭の息子であるルカ・ミホシン(Luka Mihočin)が、時計の金属性文字盤と針、時間を知らせる鐘を打つ木製人形を作りました。1506(1509)年には、ドゥブロヴニクの大砲作りの巨匠であるイヴァン・ラブフィアニン(Ivan Rabljanin)が、今日でも使われてる鐘を鋳造して取り替え、木製人形はブロンズ製に取り替えられました。その後1667年の大地震によってこの鐘楼は不安定となり、時とともにピサの斜塔(https://4travel.jp/travelogue/11180256)のように傾いて倒壊の危機に陥ったため、1929年に以前の形に建て替えられました。
    市鐘楼左下のアーチのある通路が旧港につながっています。私はあのアーチをくぐってこの広場に来ました。
    この後またあのアーチをくぐり、聖ドミニカ通り(Ul. Svetog Dominika(クロアチア語))を北に進んでスルジ山ロープウェイ乗り場を目指します。

  • 途中にあったドミニコ会修道院(Dominikanski samostan(クロアチア語))の入り口

    途中にあったドミニコ会修道院(Dominikanski samostan(クロアチア語))の入り口

  • さらに進むと城壁への上り口があります。<br />説明板の下に「ユーロはダメ。クレジットカードか現金のみ。120クーナ(KN)」と書かれています。<br />

    さらに進むと城壁への上り口があります。
    説明板の下に「ユーロはダメ。クレジットカードか現金のみ。120クーナ(KN)」と書かれています。

  • レヴェリン要塞(Tvrđava Revelin、Kula Revelin(クロアチア語))<br />この要塞はドゥブロヴニクをオスマン帝国街から守るため*) に造られたもので、街を囲む城壁の北東部の深い入り江で隔てられた城壁の外側にあり、街とは橋でつながっています。<br />レヴェリンでの要塞建設の必要性に関する議論は1449年に始まり*)、建設は1463年に始まりましたが、今日見られる強固な要塞は、ベルガモのAntonia Ferramolinaによって1538年に設計され、同年建設が開始されて1551年に完成しました。1667年の大地震*) の後、要塞はドゥブロヴニク共和国の行政中心となり、大蔵省の国庫と財務省に移管されました。<br />現在では、この要塞でドゥブロヴニク・サマー・フェスティバルが開催され、テラスでは様々なパファーマンスが行われ、要塞内ではコンサートが開催されています。<br />右下の門をくぐって先に進みます。<br /><br />*) 付録参照<br />

    レヴェリン要塞(Tvrđava Revelin、Kula Revelin(クロアチア語))
    この要塞はドゥブロヴニクをオスマン帝国街から守るため*) に造られたもので、街を囲む城壁の北東部の深い入り江で隔てられた城壁の外側にあり、街とは橋でつながっています。
    レヴェリンでの要塞建設の必要性に関する議論は1449年に始まり*)、建設は1463年に始まりましたが、今日見られる強固な要塞は、ベルガモのAntonia Ferramolinaによって1538年に設計され、同年建設が開始されて1551年に完成しました。1667年の大地震*) の後、要塞はドゥブロヴニク共和国の行政中心となり、大蔵省の国庫と財務省に移管されました。
    現在では、この要塞でドゥブロヴニク・サマー・フェスティバルが開催され、テラスでは様々なパファーマンスが行われ、要塞内ではコンサートが開催されています。
    右下の門をくぐって先に進みます。

    *) 付録参照

  • 橋からみた旧港<br />1つ上の写真のレヴェリン要塞右下のアーチをくぐって先に進みます。<br />

    橋からみた旧港
    1つ上の写真のレヴェリン要塞右下のアーチをくぐって先に進みます。

  • レヴェリン要塞の脇(南側)を進みます。<br />

    レヴェリン要塞の脇(南側)を進みます。

  • 門がありますね。プロチェ門(Vrata od Ploča(クロアチア語)))です。この門は1450年、Simon della Cava によって作られました。

    門がありますね。プロチェ門(Vrata od Ploča(クロアチア語)))です。この門は1450年、Simon della Cava によって作られました。

  • 門から出ると、敵の侵入を防ぐ木製の跳ね橋があります。ここから先は旧市街の外です。

    門から出ると、敵の侵入を防ぐ木製の跳ね橋があります。ここから先は旧市街の外です。

  • ロープウェイに乗ってスルジ山の山頂駅にやって来ました。<br />展望台から見たドゥブロヴニクの街とロクルム島。<br />

    ロープウェイに乗ってスルジ山の山頂駅にやって来ました。
    展望台から見たドゥブロヴニクの街とロクルム島。

  • ドゥブロヴニクの街とロクルム島<br />城壁で囲まれた旧市街右の海に飛び出した岩上の建物はロヴリイェナツ要塞(Tvrđava  Lovrijenac(クロアチア語))です。以下で説明します。また、今回の旅行ではこの後行きます。<br />

    ドゥブロヴニクの街とロクルム島
    城壁で囲まれた旧市街右の海に飛び出した岩上の建物はロヴリイェナツ要塞(Tvrđava Lovrijenac(クロアチア語))です。以下で説明します。また、今回の旅行ではこの後行きます。

  • ドゥブロヴニク旧市街

    ドゥブロヴニク旧市街

  • ロクルム島と旧港

    ロクルム島と旧港

  • 展望台の1つ上の階から見た、ドゥブロヴニクの街、ロクルム島、下の展望台テラス、屋外レストラン。

    展望台の1つ上の階から見た、ドゥブロヴニクの街、ロクルム島、下の展望台テラス、屋外レストラン。

  • 東方を望む。

    東方を望む。

  • ロヴリイェナツ要塞<br />この要塞はヴェネツィア共和国の攻撃に対抗するために造られました*)。海面から37 m の高さの岩の上にあり、3層式で上から見ると3角形の形をしています。海側の壁の厚さは最大12 m もありますが、市側の厚さは60 cm です。これは、この要塞が敵の手に落ちた時、すぐ脱出して市の要塞に逃げ込むためです。<br />今日では結婚式、ドゥブロヴニクのサマーフェスティバルにおいては、シェークスピアのハムレット等が公演される等、市民にとって重要な建物になっています。<br /><br />*) 付録参照<br />

    ロヴリイェナツ要塞
    この要塞はヴェネツィア共和国の攻撃に対抗するために造られました*)。海面から37 m の高さの岩の上にあり、3層式で上から見ると3角形の形をしています。海側の壁の厚さは最大12 m もありますが、市側の厚さは60 cm です。これは、この要塞が敵の手に落ちた時、すぐ脱出して市の要塞に逃げ込むためです。
    今日では結婚式、ドゥブロヴニクのサマーフェスティバルにおいては、シェークスピアのハムレット等が公演される等、市民にとって重要な建物になっています。

    *) 付録参照

  • ドゥブロヴニク旧港

    ドゥブロヴニク旧港

  • お気づきのように、展望台からですとロープウェイのロープが邪魔をしていまいちいい眺望が得られないので、展望台の西あるスルジ要塞(Utvrda Imperial na Srđu(クロアチア語))*) の西側の空き地に移動して眺めて見ましまし。<br />ドゥブロヴニクの街とロクルム島ですが、崖の草木が邪魔をしてここもいまいちですね。<br /><br />*)  スルジ山はドゥブロヴニクの市民にとっていつの時代も外敵から身を守る自然の要塞でした。ところが、1806年、ナポレオン1世(Napoléon Ier)(フランス語))がドゥブロヴニクを占領すると**)、ロシア帝国やモンテネグロの攻撃に備えて、この要塞を造ります。その後クロアチアはスルジ山北側周辺にいくつもの要塞を建造したため、1991年のクロアチア紛争勃発まで**) この建物が要塞として使われることはなく、ラジオ・テレビ電波送信器が置かれていました。しかしロアチア紛争が始まると、ミサイル搭載のユーゴスラビア空軍機の爆撃によってこの要塞は多大な被害を受け、放送・通信の機能が失われたため、アマチュア無線を利用することになります。この先は長くなりますので、結論だけ書きますと、クロアチアはこの要塞を地対空基地として利用し、勝利を収めます。<br />今日、この建物に一部はクロアチア紛争博物館、一部にはテレビ電波送信器が置かれています。<br /><br />**) 付録参照<br />

    お気づきのように、展望台からですとロープウェイのロープが邪魔をしていまいちいい眺望が得られないので、展望台の西あるスルジ要塞(Utvrda Imperial na Srđu(クロアチア語))*) の西側の空き地に移動して眺めて見ましまし。
    ドゥブロヴニクの街とロクルム島ですが、崖の草木が邪魔をしてここもいまいちですね。

    *) スルジ山はドゥブロヴニクの市民にとっていつの時代も外敵から身を守る自然の要塞でした。ところが、1806年、ナポレオン1世(Napoléon Ier)(フランス語))がドゥブロヴニクを占領すると**)、ロシア帝国やモンテネグロの攻撃に備えて、この要塞を造ります。その後クロアチアはスルジ山北側周辺にいくつもの要塞を建造したため、1991年のクロアチア紛争勃発まで**) この建物が要塞として使われることはなく、ラジオ・テレビ電波送信器が置かれていました。しかしロアチア紛争が始まると、ミサイル搭載のユーゴスラビア空軍機の爆撃によってこの要塞は多大な被害を受け、放送・通信の機能が失われたため、アマチュア無線を利用することになります。この先は長くなりますので、結論だけ書きますと、クロアチアはこの要塞を地対空基地として利用し、勝利を収めます。
    今日、この建物に一部はクロアチア紛争博物館、一部にはテレビ電波送信器が置かれています。

    **) 付録参照

  • ドゥブロヴニクの街

    ドゥブロヴニクの街

  • ドゥブロヴニク旧市街とロヴリイェナツ要塞

    ドゥブロヴニク旧市街とロヴリイェナツ要塞

  • ロープウェイで下に下ります。<br />ロープウェイからの風景。<br />

    ロープウェイで下に下ります。
    ロープウェイからの風景。

  • ロープウェイからの風景。

    ロープウェイからの風景。

  • ロープウェイからの風景。

    ロープウェイからの風景。

  • ロープウェイ東(左)側の風景。

    ロープウェイ東(左)側の風景。

  • ロープウェイ東(左)側の風景。

    ロープウェイ東(左)側の風景。

  • ロープウェイ東(左)側の風景。

    ロープウェイ東(左)側の風景。

  • ロープウェイ東(左)側の風景。

    ロープウェイ東(左)側の風景。

  • ロープウェイ東(左)側の風景。<br />そろそろ山麓駅に到着です。<br />

    ロープウェイ東(左)側の風景。
    そろそろ山麓駅に到着です。

  • ロープウェイから下りて、Zagrebačka ul. (クロアチア語、通りの名前です)を通り、ロヴイェナツ要塞に向かいまる。正面に城壁、中央やや左に市鐘楼が見えますね。この先を右折してイザ・グラダ通り(Ul. Iza Grada(クロアチア語))に入ります。

    ロープウェイから下りて、Zagrebačka ul. (クロアチア語、通りの名前です)を通り、ロヴイェナツ要塞に向かいまる。正面に城壁、中央やや左に市鐘楼が見えますね。この先を右折してイザ・グラダ通り(Ul. Iza Grada(クロアチア語))に入ります。

  • イザ・グラダ通りを旧市街の西側までやって来ました。振り向くとスルジ山です。右の丸く大きな建造物はミンチェタ要塞(Tvrđava Minčeta(クロアチア語))です。

    イザ・グラダ通りを旧市街の西側までやって来ました。振り向くとスルジ山です。右の丸く大きな建造物はミンチェタ要塞(Tvrđava Minčeta(クロアチア語))です。

  • スルジ山頂付近をズームイン。<br />中央がロープウェイ山頂駅と展望台。その左がスルジ要塞です。<br />

    スルジ山頂付近をズームイン。
    中央がロープウェイ山頂駅と展望台。その左がスルジ要塞です。

  • さらにズームイン。<br />ロープウェイ山頂駅と展望台です。<br />

    さらにズームイン。
    ロープウェイ山頂駅と展望台です。

  • ロヴリイェナツ要塞にやって来ました。大通から200  m くらいですが、細い道が入り組んでいて案内標識もないので、ちょっと苦労しました。<br />要塞から見た北から東側の街並みを順番に示します。<br />北のスルジ山方向。<br />

    ロヴリイェナツ要塞にやって来ました。大通から200 m くらいですが、細い道が入り組んでいて案内標識もないので、ちょっと苦労しました。
    要塞から見た北から東側の街並みを順番に示します。
    北のスルジ山方向。

  • 北北東方向<br />中央手前海側に飛び出している円柱形の建造物はボカール要塞(Kula Bokar(クロアチア語)))です。 <br />

    北北東方向
    中央手前海側に飛び出している円柱形の建造物はボカール要塞(Kula Bokar(クロアチア語)))です。

  • 北東方向

    北東方向

  • 東北東方向

    東北東方向

  • 東方向

    東方向

  • そろそろ旧市街にもどります。<br />帰り道で見た旧市街の城壁とボカール要塞<br />

    そろそろ旧市街にもどります。
    帰り道で見た旧市街の城壁とボカール要塞

  • スルジ山側

    スルジ山側

  • 新市街と旧市街の城壁

    新市街と旧市街の城壁

  • ボカール要塞

    ボカール要塞

  • ピレ門をくぐって旧市街のメインストリートであるプラツァ通りに戻って来ました。<br />正面に市鐘楼が見えますね。<br />

    ピレ門をくぐって旧市街のメインストリートであるプラツァ通りに戻って来ました。
    正面に市鐘楼が見えますね。

  • プラツァ通りを東に進みます。<br />もうすぐルジャ広場だ。<br />

    プラツァ通りを東に進みます。
    もうすぐルジャ広場だ。

  • さっきはいた邪魔なバンがいなぞ。ラッキー!<br />イベントの準備は終わったんだな。<br />

    さっきはいた邪魔なバンがいなぞ。ラッキー!
    イベントの準備は終わったんだな。

  • 聖ヴラホ教会(Crkva sv. Vlaha u Dubrovniku(クロアチア語))<br />ドゥブロヴニクの守護神である聖ヴラホを祭る教会です。もともとこの地には4世紀に建てられたロマネスク様式の教会がありました。この教会は1667年の大地震*) には持ちこたえたものの、1706年の火災で焼け落ちたため、ベネツィアの建築家Marina Gropellija(クロアチア語)の設計で1706~1715年、バロック様式で再建されました。1979年の地震と1991年のクロアチア紛争*) では屋根と北側のファサードが多大な被害にあいましたが、その後修復されています。<br />ファサード最上部には聖ヴラホの像が、広場前にはローラントの像(写真左端、以下で説明)があります。<br /><br />*) 付録参照<br />

    聖ヴラホ教会(Crkva sv. Vlaha u Dubrovniku(クロアチア語))
    ドゥブロヴニクの守護神である聖ヴラホを祭る教会です。もともとこの地には4世紀に建てられたロマネスク様式の教会がありました。この教会は1667年の大地震*) には持ちこたえたものの、1706年の火災で焼け落ちたため、ベネツィアの建築家Marina Gropellija(クロアチア語)の設計で1706~1715年、バロック様式で再建されました。1979年の地震と1991年のクロアチア紛争*) では屋根と北側のファサードが多大な被害にあいましたが、その後修復されています。
    ファサード最上部には聖ヴラホの像が、広場前にはローラントの像(写真左端、以下で説明)があります。

    *) 付録参照

  • ローラント像(Orlandov(クロアチア語))、Rolando、Roland(英語))<br />オーラントはヨーロッパにおける自由と独立の象徴とされる伝説の騎士です。当時、ハンザ同盟の遠隔都市は、ハンガリー・クロアチア王国*) との同盟と保護を象徴するローラントの石像を建てることが一般的でした。この像は地元の彫刻家AntunDubrovčaninと巨匠彫刻家Bonino di Milanoによって1418年に作られました。<br /> この像の右腕半分の長さ(右手の肘から手先まで)の51.2 cm は「ドゥブロヴニクの肘」と呼ばれ、当時織物等の商取引を行う際の長さに基準になっていました。<br /><br />*) 付録参照<br />

    ローラント像(Orlandov(クロアチア語))、Rolando、Roland(英語))
    オーラントはヨーロッパにおける自由と独立の象徴とされる伝説の騎士です。当時、ハンザ同盟の遠隔都市は、ハンガリー・クロアチア王国*) との同盟と保護を象徴するローラントの石像を建てることが一般的でした。この像は地元の彫刻家AntunDubrovčaninと巨匠彫刻家Bonino di Milanoによって1418年に作られました。
     この像の右腕半分の長さ(右手の肘から手先まで)の51.2 cm は「ドゥブロヴニクの肘」と呼ばれ、当時織物等の商取引を行う際の長さに基準になっていました。

    *) 付録参照

  • ファサード最上部には聖ヴラホの像<br />右手に持っているのは先の説明ように街の模型で、これが聖ヴラホのアトリビュート(https://4travel.jp/travelogue/11198227 )になっています。<br />

    ファサード最上部には聖ヴラホの像
    右手に持っているのは先の説明ように街の模型で、これが聖ヴラホのアトリビュート(https://4travel.jp/travelogue/11198227 )になっています。

  • 聖ヴラホ教会入り口上の天使の像

    聖ヴラホ教会入り口上の天使の像

  • ルジャ広場北側のスポンザ宮殿(Palača Sponza(クロアチア語))<br />この宮殿は1516~1522年にPaskoje Miličević Mihovによって、ゴシック、ルネサンス混合様式で建設されました。Logga と彫刻はAndrijić兄弟と他の石工たちによって作られました。この宮殿はゼ機関事務所、兵器、財務省、銀行、学校など、様々な公共機能を果たしてきました。 ラグーザ共和国の文化中心地となり、16世紀に文学アカデミーであるアカデミア・デイ・コンコルディが設立されました。 1667年の地震で被害を受けずに生き残り、宮殿のアトリウムは、貿易センターとビジネス会議場として機能しました。 この宮殿には現在、12世紀までの書類が保管されている書庫があります。最古の原稿は1022年からです。これらのファイルには、7000件以上の原稿と約10万点の原稿が含まれています。<br />

    ルジャ広場北側のスポンザ宮殿(Palača Sponza(クロアチア語))
    この宮殿は1516~1522年にPaskoje Miličević Mihovによって、ゴシック、ルネサンス混合様式で建設されました。Logga と彫刻はAndrijić兄弟と他の石工たちによって作られました。この宮殿はゼ機関事務所、兵器、財務省、銀行、学校など、様々な公共機能を果たしてきました。 ラグーザ共和国の文化中心地となり、16世紀に文学アカデミーであるアカデミア・デイ・コンコルディが設立されました。 1667年の地震で被害を受けずに生き残り、宮殿のアトリウムは、貿易センターとビジネス会議場として機能しました。 この宮殿には現在、12世紀までの書類が保管されている書庫があります。最古の原稿は1022年からです。これらのファイルには、7000件以上の原稿と約10万点の原稿が含まれています。

  • 宮殿内部のアトリウム北側

    宮殿内部のアトリウム北側

  • アトリウム北側アーチにラテン語で “ FALLERE NOSTRA VEANT ET FALLI PONDERA MEQVE PONDERO CVM MERCES PONDERAT IPSE DEVS“ と書かれています。 これを訳すと「重さを量る際の不正行為を禁じます。品物の重さを量る時は、神が一緒に量っていると思わなければなりません。」となります。かなり意訳です。

    アトリウム北側アーチにラテン語で “ FALLERE NOSTRA VEANT ET FALLI PONDERA MEQVE PONDERO CVM MERCES PONDERAT IPSE DEVS“ と書かれています。 これを訳すと「重さを量る際の不正行為を禁じます。品物の重さを量る時は、神が一緒に量っていると思わなければなりません。」となります。かなり意訳です。

  • 宮殿内部のアトリウム西側

    宮殿内部のアトリウム西側

  • 宮殿内部のアトリウム東側

    宮殿内部のアトリウム東側

  • 宮殿内部のアトリウム南側

    宮殿内部のアトリウム南側

  • また旧港にやってきました。 <br />おやおや?<br />

    また旧港にやってきました。
    おやおや?

  • さっきは気が付きませんでしたが、これはLazareti検疫施設ですねえ*)。<br /><br />*) 付録参照<br /><br />

    さっきは気が付きませんでしたが、これはLazareti検疫施設ですねえ*)。

    *) 付録参照

  • さっきちょっと見えた聖イヴァン要塞の全容

    さっきちょっと見えた聖イヴァン要塞の全容

  • 今夜宿泊のグランド・ホテル・パーク(Grand Hotel Paark)に付きました。<br />明日は城壁巡りとクルーズです。<br /><br />付録<br />ドゥブロヴニクの歴史<br /><br />以下の説明はできるだけ正確を期すよう、複数の日本語および英語の著書、日本語、英語、クロアチア語、イタリア語、ドイツ語等のネット上の市民権を得ている記事を参考に執筆しております。これだけ多くの資料を参照すると、資料間で矛盾が生じる場合が多々発生しますが、その時点での世界界情勢を鑑み、時間・空間的に見て論理的な説明となるよう心掛けております。またもっと深く知りたい方のために、統一された日本語の固有名詞がある場合は、日本語とその後に現地語や英語を併記し、統一された日本語がない場合は現地語だけを記しております。かなり長文となりますので、個人名は必要不可欠な場合を除き、記載しておりません。<br /><br />アドリア海に面したバルカン半島(Balkans(英語)、Balcania(ラテン語))西岸のダルマチア(Dalmacija(クロアチア語)、Dalmatia(英語))地方に位置するドゥブロヴニク(Dubrovnik(クロアチア語)、Ragusa(イタリア語))の起源には諸説ありますが、ここでは近年の考古学調査に基づく一番新しい説を紹介します。<br />現在のドゥブロヴニクの地は、かつてはバルカン半島と砂浜で繋がった大きな岩塊でした。この地は古代ギリシャ人の航海の中継基地として利用され、岩塊はギリシャ人が住む街となります。その後紀元前3世紀頃にはダルマチア地方はローマ統治に変わって、やがてドゥブロヴニクもローマ人の住む街として発達し、5世紀頃には初期の教会や城壁も造られました。この城壁はその後補強が進み、9世紀中半には現在よりはずっと小規模だったものの、イスラム帝国アッバース朝による15ヶ月の包囲にも持ちこたえたと言われています。5世紀頃のドゥブロヴニクはラグーサ(Ragusa(イタリア語)、Ragusium(ラテン語))と呼ばれていました。その語源はギリシャ語で「石」を意味する”Laas”または”Laus”であるとか、イタリア語(民衆の話し言葉としてのラテン語が変化した言語)で「潟」を意味する”laguna”であるとか諸説ありますが、本当のところは定かでありません。<br />395年、ローマ帝国がイタリア半島とバルカン半島の間を境に東西に分離したとき、ラグーサは西ローマ帝国に属しましたが、ゲルマン民族の大移動の結果、西ローマ帝国はやがて衰退し、476年には最後に残った現在のイタリアとダルマチア地方のうち、イタリア部分がゲルマン系のオドアケル王国(Kingdom of Odoacer)に取って代わられ、西ローマ帝国は終焉を迎えます。ドゥブロヴニクが属する残されたダルマチア地方は480年までローマ帝国の一州として生き延びますが、その後はオドアケル王国の支配地となります。一方、ダルマチア地方内陸部には454年頃から、後にゲルマン系東ゴート王国となる勢力が現れて、徐々にその領土を拡大し、488年にはダルマチア地方をも支配下に置きます。その後、彼らは東ローマ帝国(ビザンツ帝国。両方の呼び方をしますが、区別する場合は、国の宗教がローマカトリックからギリシャ正教に変わっていった7世紀以降をビザンツ帝国と呼びます。)の内紛に絡んで、497年にはオドアケル王国を征服し、イタリアやダルマチア地方を含む地域を領土とする東ゴート王国を設立します。東ゴート王国はその東側を東ローマ帝国と接していたため、両者の間で紛争が絶えず、535年にはダルマチア地方が東ローマ帝国の支配下に入ります。その後も東ローマ帝国は西側に勢力を拡大し、553年には東ゴート王国を征服します。<br />632年頃になると、ゲルマン民族の大移動に続いて、東アルプス地域から移動してきた南スラブ人(現クロアチア人)がラグーサと砂浜を隔てた対岸の東ローマ帝国領であるスルジ山の斜面に住み始めました。食料と水の確保に苦しんだラグーサの人々はスラブ人に金貨を払い、対岸の陸地を耕す許可を得ました。南スラブ人はその後ダルマチア地方の南北に領地を広げ、700年頃には現在のスロベニア、クロアチア、セルビア等の原型となる地域が形成されます。この間、481年にかつてのローマ帝国ガリア属州の一部であるガリア・ベルギガ(Gallia Belgica(ラテン語)。現在のベルギー、オランダ、ドイツ西部、北東フランス。)付近に誕生したゲルマン系フランク王国(Fränkisches Reich(ドイツ語)、Francia, Frankia, Kingdom of the Franks, etc.(英語))は徐々にその領土を広げ、803年にはダルマチア地方北部を支配下に収めます。843年フランク王国が東、中、西フランク王国に分裂するにおよび、ダルマチア地方北部は東フランク王国領となりますが、870年にはビザンツ帝国がダルマチア地方に勢力を伸ばし、コトル(Kotor(クロアチア語、英語))、ラグーサ、スプリット(Split(クロアチア語、英語))、トロギル(Trogir(クロアチア語、英語))等の港湾都市を支配下に置きます。このとき、ラグーサはビザンツ帝国に年貢を納めることで帝国内での自由貿易の許可を得、海洋商業都市として発展します。<br />879年、ダルマチア地方北部はローマ教皇ヨハネス8世(Ioannes VIII(ラテン語)、Pope John VIII(英語))からの承認によって、東フランク王国から独立し、924年にはパンノニア(Pannonia(英語)、Panonija(クロアチア語))地方南部を併合、926年にはクロアチア王国を名乗ります。しかし928年、国王の死後王国は不安定な状態が続き、1102年には、9世紀末にパンノニア平原に現れて1000年にローマ教皇から承認を受けたハンガリー王国の支配下に入ります。<br />一方ラグーサが位置するダルマチア地方南部はというと、1113年にRascia、Hum、Zeta等の小国に分裂し、1118年にはセルビア(Serbia(英語)、Srbija(セルビア語))の前身となるRasciaの名前でビザンツ帝国の支配下となりますが、1149年にはその支配から脱します。この頃になると、ローマ人のラグーサと対岸の南スラブ人の町は合併し、砂浜は埋め立てられて平坦な陸続きとなりました。この部分が今日のプラツァ通り(Placa、別名「ストラドゥン(Stradun)」)です。ドゥブロヴニク(Dubrovnik)の語源は古いスラブ語で「樫」を意味する”dub”もしくは「樫の森」を意味する”dubrava”に由来すると言われています。ちなみに、樫はアドリア海を含む地中海地域原産で、スラブ神話やローマ神話にも登場する重要な木です。この「ドゥブロヴニク」と言う名称はこのころから使われていたようです。その後13世紀に入ると約30年かけてこの町の周りに新たな城壁が造られ、現在のドゥブロヴニクの原型が完成しました。14世紀以降、城壁にはミンチェタ要塞(Tvrđava Minčeta(クロアチア語)、Minceta Fortress、Minceta Tower(英語))、聖イヴァン要塞(Tvrđava Sv. Ivan(クロアチア語)、Fortress of St. Ivana (St.John)(英語))など、今も残る要塞が次々と追加され、このような補強はその後400年以上にわたって続きます。<br />さて、その一方で697年に建国して10世紀以降海運業で栄えたベネツィア共和国(Serenissima Repubblica di Venezia(イタリア語))が、ダルマチア地方の諸都市を次々と海運の中継基地となる植民化していき、1205年にはドゥブロヴニクもその統治下に入ります。このベネツィア共和国支配下の13世紀中半、セルビアのプルスコヴォ鉱山で銀、銅、鉄、鉛等の鉱物資源の採掘が始まり、ドゥブロヴニクはこれら鉱物資源をアドリア海、さらには西法に運ぶ仲買商人として活躍し、莫大な利益をドゥブロヴニクにもたらします。これは、スラヴ語を話せるクロアチア人がバルカン半島内陸部との交易を一手に引き受け、ヴェネツィアには手が出せなかったことによります。こうした繁栄の中でブロヴニクでは福利厚生制度が整備され、1301年には医療制度が確立1317年には現在でも営業している世界で3番目に古い薬局が開店し、1347年には養老院も開設されました。<br />ここで、後に世界的に重要となるドゥブロヴニクの検疫の説明をちょっとしておきます。14世紀初頭中国で猛威を振るったペストは中央アジア、クリミア半島を経由して1347年にはコンスタンティノープルに至り、その後数年でヨーロッパに大流行をもたらします。この大流行は14世紀末には終結しますが、その間ヨーロッパでは人口の約1/3となる数千万人が犠牲になったと推定されています。交易商人が多く出入りするドゥブロヴニクも例外ではなく、ラ福利厚生に熱心なラグーサ共和国(下記参照)議会はペストの流入や拡散を防ぐため、1377年に世界で初めて検疫制度を導入することを決めます。(日本大百科全書や日本語のウィキではヴェネツィア共和国が最初としていますが、これは多分間違いでしょう。その理由は、ヴェネツィア共和国が最初としているのは日本語の資料だけで、クロアチア語、英語、ドイツ語、はてはイタリア語の資料に至るまで、ドゥブロヴニクが最初としているからです。)この制度では、ドゥブロヴニク市民か否かにかかわらず、ペスト汚染地域からやって来た人々は、ドゥブロヴニクの南東約10 km のツァヴタット(Cavtat(クロアチア語))沖にあるツァブタット諸島(Cavtatski Otoci(クロアチア語))のMrkan島、Bobara等にペストの潜伏期間である1ヶ月隔離され、発症がないと確認された者だけが、ドゥブロヴニクに入ることができました。さらに1397年になると、外国船はMplunat(クロアチア語、ドゥブロヴニクの南東約30 km)の西側(ドゥブロヴニク側)、およびムドゥブロヴニクの西約40 km にあるムリエト(Mljet(クロアチア語)))島より西に直接入ることを禁じられ、それぞれ当時フランシスコ会修道院があったMrkan島、およびベネディクト修道院のあったムリエト島の修道院で検疫期間を過ごすことが義務付けられます。これらの修道院は当初バラック造りでしたが後に石造で建て替えられます。しかしながら、これらの隔離場所はドゥブロヴニクからあまりに遠く、また戦略的理由から15世紀になると、検疫施設はドゥブロヴニクの近くに設けることに決められ、1457年にはその建設がドゥブロヴニクの西約1 km にあるDančeeで教会建設とともに始まります。検疫施設はよく組織されて、良好に機能したため、ツァブタット諸島における検疫は廃止されます。1533年には、ドゥブロヴニクに最も近いロクルム島(Otok  Lokrum)に大規模な検疫施設の建設が始まりましたが、完成することはなく、もちろん利用されることもありませんでした。ペストの大流行が終結したにも関わらす、このような検疫施設建設していった理由は、ペストがそれまで何回も大流行を引き起こしており、その後の流行が懸念されたことによります。15世紀末には内陸を海との交易が交わるドゥブロヴニク東端プロチェ(Ploče(クロアチア語)))に検疫施設を造ることが決定されます。建設は1590年に始まり、1642年に完成します(現在はLazareti検疫施設として知られています。)が、隔離期間は1ヶ月から40日に延長され、kacamortiと呼ばれる検疫従事者が検疫規定の実施と遵守を監視しました。この隔離期間40日の「40」はイタリア語で “quaranta” と言いますが、「検疫」を意味する英語の “quarantine” はこれが語源になっています。なおペスト菌は絶滅してはいないものの、大流行が収まったのは、1894年にアレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin(フランス語))と北里柴三郎がペスト菌を発見し、その治療薬となるストレプトマイシン、クロラムフェニコール等の抗生物質が開発された20世紀中ごろ以降です。<br />時代は前後しますが、1358年にはヴェネツィア共和国とのハンガリー王国の間でザダル和平条約(Peace-treaty of Zadar(英語))が締結され、ハンガリー王国のダルマチア地方にあったヴェネツィア共和国領がハンガリー王国領となります。これを機にドゥブロヴニクもハンガリー王国領となりますが、ビザンチン帝国の場合と同様、ハンガリー王国に年貢を支払う等巧みな外交政策で実質的な独立を勝ち取り、一般にはこの年をラグーサ共和国((Dubrovačka Republika(クロアチア語)、Repubblica di Ragusa(イタリア語)、Republic of Ragusa(英語)。日本語名は多分英語から来ていると思いますが、現地語に敬意を表するなら「ドゥブロヴニク共和国」とすべきで、そのような名称で呼ばれる場合もあります。ただ一般的な「ドゥブロヴニク」というと共和国の主都となる都市部を指すようです。)の建国年としています。その後ダルマチア地方南部は、1377年頃にはボスニア(Bosnia(英語))、そのアドリア海沿岸部は1420年頃までに再びヴェネツィア共和国の領土となります。また、1299年にアナトリア(Anatolia(英語)、Anadolu(トルコ語))に建国されたオスマン帝国(Ottoman Empire(英語))が1453年にビザンツ帝国を滅ぼしてダルマチア地方南部にまで領土を拡大し、1463年頃には上記ボスニア領、1526年にはハンガリーをも征服し、バルカン半島のほぼ全域を支配下に収めます。この間、ドゥブロヴニクは一貫して上記外交政策によって独立を維持し、この状態はフランス第一帝政(Le Premier Empire(フランス語))のナポレオン軍に占領される1806年まで続きます。<br />岩塊の上に建設され、川がないドゥブロヴニクは水の確保が大変で、雨水を貯めたり、水源から船で水を運んだりしていました。それでも水は不足したため、ラグーサ共和国はナポリの建築士オノフリオ・デッラ・カーヴァ(Onofrio della Cava)に上水道の建設を依頼しました。彼はドゥブロヴニクの北側12 km の水源から水を引き、1438年ピレ門(Vrata od Pila)脇のオノフリノオの大噴水(Velika Onofrijeva česma (fontana))が完成しました。その後同年、彼はプラツッア通りの東端にあるルジャ広場(Trgu Luža)に小オノフリオの噴水(Mala Onofrijeva česma)と呼ばれる小さな噴水を造りました。これらの噴水の水は無料で使うことができ、市民生活は大変便利になりました。<br />上記オスマン帝国のダルマチア侵入以前の1447年、オスマン帝国の将来を予見したラグーサ共和国はこれまで同様年貢という外交手段でオスマン帝国とバルカン諸国で自由な商業活動を行える条約をオスマン帝国と結びます。こうしてオスマン帝国がバルカン半島に侵入して以降の15~16世紀、ラグーサ共和国は現在のイタリア、スペイン、イギリス、ベルギー、インド、アメリカ等を相手に、鉱物、羊毛や絹といった繊維とその加工品、塩、塩漬けの魚等多種類の貿易品は取り扱い、海洋貿易都市としての繁栄を謳歌します。<br />17世紀になると、1667年に起こったドゥブロヴニク直下を震源とするプレート( https://4travel.jp/travelogue/11196050 )起源の史上最大となる震度7(英語の論文からの換算値です。この震度は日本の気象庁独自のもので、外国では通用しません。)の地震によって街の建造物の3/4以上が破壊され、街の人口の半分にあたる約3000人(クロアチア語の資料ではこの説が、英語の資料では5000人という説が多い)が犠牲となりました。この大災害に加え、15世紀末に始まった大航海時代によって貿易の中心はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ラグーサ共和国は徐々に衰退していきます。<br />この間、ハプスブルク帝国の勃興によって1526年ハンガリー王国がその支配下に入ると、ヴェネツィア共和国がザダル和平条約で失ったダルマチア地方の領土を再び得ることになり、隣接するオスマン帝国との間で紛争が始まります。この紛争に巻き込まれることを防ぐため、1699年ラグーサ共和国は領土の一部であるネウム(Neum,(ボスニア語、クロアチア語、英語)、Неум(セルビア語)、現在のボスニアヘルツェゴビナにあって唯一アドリア海に面する都市)をオスマン帝国に売却し、難は逃れたものの衰退はさらに進みます。<br />843年フランク王国が分裂してできた、東フランク王国はその後フランス王国、フランス第一共和政としてほぼその領土を維持してきましたが、ナポレオン1世(Napoléon Ier)(フランス語)、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte(フランス語)))が1804年に皇帝として即位して成立したフランス第一帝政の時代になると、その天才的な戦略によって破竹の勢いで、ヴェネツィア共和国、中世イタリア王国、スペイン帝国等、隣国を次々と撃破していきます。ラグーサ共和国も例外ではなく1806年にはその軍門に下り、ナポレオン統治のイタリア王国に組み込まれて、北部ダルマチア地方と共にフランス領イリュリア州(Provinces illyriennes(フランス語))となり、ラグーサ共和国はここで終焉を迎えます。しかし、1814年にロシア帝国侵略に失敗したナポレオン1世は失脚して獲得した領土の殆どを失い、イリュリア州はロシア帝国に連合国の一員とした加わったオーストリア帝国(Kaisertum Österreich(ドイツ語)。パプスブルグ帝国中期の別称。)の支配下に入ります。この支配はオーストラリア帝国がその人種構成からと国名をオーストリア=ハンガリー帝国(Österreichisch-Ungarische Monarchie(ドイツ語)と変えた1867年以降も続きます。<br />オスマン帝国支配のバルカン半島では人口増加による生活苦から、各地で帝国に対する蜂起が始まりますが、19世紀になると西欧の影響もあって、こうした蜂起が民族独立運動へと変わって行きます。こうして1832年にはギリシャ独立戦争によってギリシャが、露土戦争後の1878年にはセルビア王国、ルーマニア王国、モンテネグロ王国が独立し、さらに1908年にはブルガリアが、1913年にはアルバニアが独立を果たします。ただし、ボスニアヘルツェゴビナは露土戦争後の1878年にハプスブルク帝国の配下に入り1908年には併合されます。これらの国々はフランスやベルギーの自由主義的憲法をモデルとしてそれぞの憲法を制定し、立憲制の議会主義に基づく政治を導入します。<br />1914年、ハプスブルク帝国の帝位継承者であるフランツ・フェルディナンド(Franz Ferdinand(ドイツ語))大公夫妻が、属州であるボスニアの州都サラエボ(Sarajevo(ボスニア語))を訪れた際、ボスニアの解放と南スラブの統一を主張する組織:「青年ボスニア(Mlada Bosna、(セルビア・クロアチア語、)、Young Bosnia(英語))」の一員:ガヴリロ・プリンツィプ(Gavrilo Princip(セルビア語)によって暗殺されます。このいわゆるサラエボ事件を発端にハプスブルク帝国、オスマン帝国、ブルガリアからなる中央同盟と他のバルカン諸国、イギリス帝国(British Empire(英語))、フランス第三共和国(Troisième République、フランス語))、ロシア帝国を中心とする連合国の間で第一次世界大戦が勃発します。この戦争は1918年、連合国の勝利で終わり、戦勝国となったセルビア王国とンテネグロ王国は1918年、ハプスブルク帝国の南部のスロヴェニア、ダルマツィア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナと共にセルビア主導の南スラブ統一国家をつくり、1929年にはその名称をユーゴスラヴィア王国(Kraljevina Jugoslavija(セルビア・クロアチア・スロベニア語))とします。<br />バルカン諸国に導入された西欧型の議会政治は自由や民主主義に基づく政治体験に乏しい国民のもとでは円滑に進まず、1920年から30年にかけて、機能不全に落ちっていきます。初めに国王独裁が宣言されたのはユーゴスラヴィアで、1921年、前年の選挙で第3党に躍進した共産党が非合法化されます。また国内最大の問題はセルビア中心の集権主義と、クロアチア農民党を中心とする連邦主義の対立であり、1928年にはセルビア急進党議員の発砲でクロアチア農民党党首が命を落としてしまいます。この事態を収拾するため、1929年、国王は独裁制を宣言して議会の解散と憲法停止を命じ、中央集権を徹底するために民族名をつけた政党活動を禁止しますが、国会議員で、ファシスト集団ウスタシャ(Ustaše(クロアチア語))を結成したアンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić(クロアチア語))を含め、クロアチアの自治を求める動きはさらに強まって行きました。<br />1939年に始まった第二次世界大戦は日本、第一次世界大戦末期、ドイツ革命によって成立したヴァイマル共和国(Weimarer Republik(ドイツ語))の政権を1933年にアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler(ドイツ語))が奪取して成立したナチス・ドイツ(Deutsches Reichドイツ語))、およびイタリア王国による日独伊三国同盟を中心とする枢軸国と、イギリス、1917年の社会主義革命でロシアを中心として成立したソビエト連邦、アメリカ、中華民国を中心とする連合国との闘いとなりますが、バルカン諸国も様々な形でこの対戦に巻き込まれいきます。ユーゴスラヴィアはこの大戦の直前、懸案となっていたクロアチアの自治を認めます。大戦勃発後、ユーゴスラヴィアを含めた多くのバルカン諸国は中立を宣言しますが、その後他のバルカン諸国が三国同盟に加盟して枢軸国側に付くに及び、ユーゴスラヴィアもこれにならいます。しかし、ユーゴスラヴィアではこれに反対する軍のクーデターが成功します。これに激怒したヒトラーは1914年ユーゴスラヴィアを占領し、同盟国イタリアとの間で領土を分け合います。このとき独立志向の強いクロアチアに関しては、上記中世クロアチア王国の領土にボスニア・ヘルツェゴビアを加えて傀儡国家:クロアチア独立国を作り、クロアチア独立国軍を置きます。しかし、スラヴコ・クヴァテルニク(Slavko Kvaternik(クロアチア語))を総司令官とする亡命先のイタリアでウスタシャの活動していたアンテ・パヴェリッチが国家元首としてウスタシャ軍とともに帰国し、ウスタシャ軍はクロアチア独立国軍に形式上組み込まれます。こうした占領に対し、ユーゴスラヴィア内で起こったクロアチアと関係する2つの抵抗運動があります。その一つは1941年、ドラジャ・ミハイロヴィッチ(Draža Mihailović(セルビア・クロアチア語))を中心としたセルビア将兵によって結成され、大セルビア主義、反共主義を掲げるチェトック(Četnik(セルビア・クロアチア語)、Chetnik(英語))であり、もう一つは同じく1941年、戦前非合法化された共産党によって結成された、ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito(セルビア・クロアチア語))を中心とするユーゴスラヴィア人民解放軍およびパルチザン部隊(Narodnooslobodilačka vojska i partizanski odredi Jugoslavije(セルビア・クロアチア語)、略称NOV i POЈ、以下簡単に「パルチザン」とします。)です。この2つはその方針の違いから折り合いが悪く、1941年末には、これら2つの組織にウスタシャを加えた三つどもえのユーゴスラビア人民解放戦争(Narodnooslobodilački rat(セルビア・クロアチア語)))が勃発します。この時ユーゴスラヴィア設立当初からセルビアに不満を抱いていたアンテ・パヴェリッチはウスタシャ軍によるセルヴィア人大虐殺を行い、その犠牲者は100万とも200万人とも言われています。このときのセルヴィア人の遺恨が後のクロアチア紛争に表れることになります。この戦争はその後パルチザン優勢で進み、バルカン諸国は次々と解放されて、1945年3月にはチトーを首班とした民主連邦ユーゴスラヴィア臨時政府が樹立します。<br />連合国の勝利が確実になりつつあった1945年2月、連合国であるアメリカ、ソ連、イギリスによるヤルタ会談が開かれ、戦後の世界のあり方を決めますが、早くもこれが東西冷戦の始まりとなります。同年5月には、枢軸国で唯一残されていたドイツが無条件降伏することでヨーロッパを舞台とした第2次世界大戦は終了します。これを受けてユーゴスラヴィアでは1945年11月、憲法制定会議総選挙が実施され、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6共和国と、コソボ・メトヒア自治区からなるユーゴスラヴィア連邦人民共和国が成立します。このユーゴスラヴィアを含め、共産主義を掲げるパルチザンが重要な役割を演じたバルカン諸国やロシアが侵略した東欧諸国は共産党の1党独裁が進んで共産主義国家となりとなります。これに危機感を覚えた資本主義国は1949年、北体制条約を締結して、北大西洋条約機構を発足させ、これに対抗する形で共産主義国は1955年にワルシャワ条約を締結してワルシャワ条約機構を発足させ、資本主義国家と共産主義国家の間で東西冷戦の構図が完成します。しかし計画経済で成長を進める社会主義国と市場経済で成長を進める資本主義国との間の経済格差は年と共に顕著となり、1989年11月には東西を分断するベルリンの壁が崩壊し、同年12月2日~3日、地中海のマルタにおいて共産主義国の盟主であるソビエト連邦と資本主義国の盟主であるアメリカ合衆国との間の会談(マルタ会談)で、米ソ冷戦の終結が宣言され、東西冷戦は終わりを告げます。<br />ユーゴスラヴィアでは1990年、共和国ごとに選挙が行われましたが、共産主義系の政党が勝利したのは、セルビアとモンテネグロだけで、他のスロヴェニア、クロアチ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビアは民主主義系の政党が勝利しました。この結果を受けてユーゴスラヴィア連邦を構成する6共和国間で連邦を維持するか否かの話し合いが持たれましたが、合意は得られず、1991年6月にクロアチアとスロヴェニアが、同年11月にはマケドニアが、1992年3月にはボスニア・ヘルツェゴビアがユーゴスラヴィアからの独立宣言をしました。これに対し1992年、残されたセルビアとモンテネグロは1992年4月、2国のみのユーゴスラヴィア連邦共和国を宣言しました。このような状況の中、クロアチアについて見ると、クロアチア人と国内にいて独立に反対するセルビア人との間で1991年6月の独立宣言以降戦闘が散発し、同年9月、ユーゴスラヴィア軍(と言っても実質的にはセルビア軍)がザグレヴを攻撃にするに及んで、クロアチアとユーゴスラヴィア連邦の戦争に発展しました。クロアチア紛争(クロアチア内戦、でクロアチア独立戦争(Croatian War of Independence(英語))です。この戦争は国連の仲介によって同年11月末に停戦合意が成立しますが、その後も戦闘は続き、最終的に戦争が終結したのは1995年8月です。<br />クロアチア経済は1993年から年率5%程度の成長を続けましたが、リーマンショック後の2009年以降はほぼゼロ成長で、2013年にEUに加盟した後もEUの経済停滞で改善は見られませんでした。しかし、2015年以降の成長率は3%程度と上向いおり、1017年の名目GDPは520億ドル、1人あたり12,000ドルと想定されています。産業構造は2010年で見ると、GDPの66%が観光を含むサービス業、27%が鉱工業、、7%が農業です。このうち観光業の比重は大きく、2014年見ると、GNPの20%を占めます。<br />

    今夜宿泊のグランド・ホテル・パーク(Grand Hotel Paark)に付きました。
    明日は城壁巡りとクルーズです。

    付録
    ドゥブロヴニクの歴史

    以下の説明はできるだけ正確を期すよう、複数の日本語および英語の著書、日本語、英語、クロアチア語、イタリア語、ドイツ語等のネット上の市民権を得ている記事を参考に執筆しております。これだけ多くの資料を参照すると、資料間で矛盾が生じる場合が多々発生しますが、その時点での世界界情勢を鑑み、時間・空間的に見て論理的な説明となるよう心掛けております。またもっと深く知りたい方のために、統一された日本語の固有名詞がある場合は、日本語とその後に現地語や英語を併記し、統一された日本語がない場合は現地語だけを記しております。かなり長文となりますので、個人名は必要不可欠な場合を除き、記載しておりません。

    アドリア海に面したバルカン半島(Balkans(英語)、Balcania(ラテン語))西岸のダルマチア(Dalmacija(クロアチア語)、Dalmatia(英語))地方に位置するドゥブロヴニク(Dubrovnik(クロアチア語)、Ragusa(イタリア語))の起源には諸説ありますが、ここでは近年の考古学調査に基づく一番新しい説を紹介します。
    現在のドゥブロヴニクの地は、かつてはバルカン半島と砂浜で繋がった大きな岩塊でした。この地は古代ギリシャ人の航海の中継基地として利用され、岩塊はギリシャ人が住む街となります。その後紀元前3世紀頃にはダルマチア地方はローマ統治に変わって、やがてドゥブロヴニクもローマ人の住む街として発達し、5世紀頃には初期の教会や城壁も造られました。この城壁はその後補強が進み、9世紀中半には現在よりはずっと小規模だったものの、イスラム帝国アッバース朝による15ヶ月の包囲にも持ちこたえたと言われています。5世紀頃のドゥブロヴニクはラグーサ(Ragusa(イタリア語)、Ragusium(ラテン語))と呼ばれていました。その語源はギリシャ語で「石」を意味する”Laas”または”Laus”であるとか、イタリア語(民衆の話し言葉としてのラテン語が変化した言語)で「潟」を意味する”laguna”であるとか諸説ありますが、本当のところは定かでありません。
    395年、ローマ帝国がイタリア半島とバルカン半島の間を境に東西に分離したとき、ラグーサは西ローマ帝国に属しましたが、ゲルマン民族の大移動の結果、西ローマ帝国はやがて衰退し、476年には最後に残った現在のイタリアとダルマチア地方のうち、イタリア部分がゲルマン系のオドアケル王国(Kingdom of Odoacer)に取って代わられ、西ローマ帝国は終焉を迎えます。ドゥブロヴニクが属する残されたダルマチア地方は480年までローマ帝国の一州として生き延びますが、その後はオドアケル王国の支配地となります。一方、ダルマチア地方内陸部には454年頃から、後にゲルマン系東ゴート王国となる勢力が現れて、徐々にその領土を拡大し、488年にはダルマチア地方をも支配下に置きます。その後、彼らは東ローマ帝国(ビザンツ帝国。両方の呼び方をしますが、区別する場合は、国の宗教がローマカトリックからギリシャ正教に変わっていった7世紀以降をビザンツ帝国と呼びます。)の内紛に絡んで、497年にはオドアケル王国を征服し、イタリアやダルマチア地方を含む地域を領土とする東ゴート王国を設立します。東ゴート王国はその東側を東ローマ帝国と接していたため、両者の間で紛争が絶えず、535年にはダルマチア地方が東ローマ帝国の支配下に入ります。その後も東ローマ帝国は西側に勢力を拡大し、553年には東ゴート王国を征服します。
    632年頃になると、ゲルマン民族の大移動に続いて、東アルプス地域から移動してきた南スラブ人(現クロアチア人)がラグーサと砂浜を隔てた対岸の東ローマ帝国領であるスルジ山の斜面に住み始めました。食料と水の確保に苦しんだラグーサの人々はスラブ人に金貨を払い、対岸の陸地を耕す許可を得ました。南スラブ人はその後ダルマチア地方の南北に領地を広げ、700年頃には現在のスロベニア、クロアチア、セルビア等の原型となる地域が形成されます。この間、481年にかつてのローマ帝国ガリア属州の一部であるガリア・ベルギガ(Gallia Belgica(ラテン語)。現在のベルギー、オランダ、ドイツ西部、北東フランス。)付近に誕生したゲルマン系フランク王国(Fränkisches Reich(ドイツ語)、Francia, Frankia, Kingdom of the Franks, etc.(英語))は徐々にその領土を広げ、803年にはダルマチア地方北部を支配下に収めます。843年フランク王国が東、中、西フランク王国に分裂するにおよび、ダルマチア地方北部は東フランク王国領となりますが、870年にはビザンツ帝国がダルマチア地方に勢力を伸ばし、コトル(Kotor(クロアチア語、英語))、ラグーサ、スプリット(Split(クロアチア語、英語))、トロギル(Trogir(クロアチア語、英語))等の港湾都市を支配下に置きます。このとき、ラグーサはビザンツ帝国に年貢を納めることで帝国内での自由貿易の許可を得、海洋商業都市として発展します。
    879年、ダルマチア地方北部はローマ教皇ヨハネス8世(Ioannes VIII(ラテン語)、Pope John VIII(英語))からの承認によって、東フランク王国から独立し、924年にはパンノニア(Pannonia(英語)、Panonija(クロアチア語))地方南部を併合、926年にはクロアチア王国を名乗ります。しかし928年、国王の死後王国は不安定な状態が続き、1102年には、9世紀末にパンノニア平原に現れて1000年にローマ教皇から承認を受けたハンガリー王国の支配下に入ります。
    一方ラグーサが位置するダルマチア地方南部はというと、1113年にRascia、Hum、Zeta等の小国に分裂し、1118年にはセルビア(Serbia(英語)、Srbija(セルビア語))の前身となるRasciaの名前でビザンツ帝国の支配下となりますが、1149年にはその支配から脱します。この頃になると、ローマ人のラグーサと対岸の南スラブ人の町は合併し、砂浜は埋め立てられて平坦な陸続きとなりました。この部分が今日のプラツァ通り(Placa、別名「ストラドゥン(Stradun)」)です。ドゥブロヴニク(Dubrovnik)の語源は古いスラブ語で「樫」を意味する”dub”もしくは「樫の森」を意味する”dubrava”に由来すると言われています。ちなみに、樫はアドリア海を含む地中海地域原産で、スラブ神話やローマ神話にも登場する重要な木です。この「ドゥブロヴニク」と言う名称はこのころから使われていたようです。その後13世紀に入ると約30年かけてこの町の周りに新たな城壁が造られ、現在のドゥブロヴニクの原型が完成しました。14世紀以降、城壁にはミンチェタ要塞(Tvrđava Minčeta(クロアチア語)、Minceta Fortress、Minceta Tower(英語))、聖イヴァン要塞(Tvrđava Sv. Ivan(クロアチア語)、Fortress of St. Ivana (St.John)(英語))など、今も残る要塞が次々と追加され、このような補強はその後400年以上にわたって続きます。
    さて、その一方で697年に建国して10世紀以降海運業で栄えたベネツィア共和国(Serenissima Repubblica di Venezia(イタリア語))が、ダルマチア地方の諸都市を次々と海運の中継基地となる植民化していき、1205年にはドゥブロヴニクもその統治下に入ります。このベネツィア共和国支配下の13世紀中半、セルビアのプルスコヴォ鉱山で銀、銅、鉄、鉛等の鉱物資源の採掘が始まり、ドゥブロヴニクはこれら鉱物資源をアドリア海、さらには西法に運ぶ仲買商人として活躍し、莫大な利益をドゥブロヴニクにもたらします。これは、スラヴ語を話せるクロアチア人がバルカン半島内陸部との交易を一手に引き受け、ヴェネツィアには手が出せなかったことによります。こうした繁栄の中でブロヴニクでは福利厚生制度が整備され、1301年には医療制度が確立1317年には現在でも営業している世界で3番目に古い薬局が開店し、1347年には養老院も開設されました。
    ここで、後に世界的に重要となるドゥブロヴニクの検疫の説明をちょっとしておきます。14世紀初頭中国で猛威を振るったペストは中央アジア、クリミア半島を経由して1347年にはコンスタンティノープルに至り、その後数年でヨーロッパに大流行をもたらします。この大流行は14世紀末には終結しますが、その間ヨーロッパでは人口の約1/3となる数千万人が犠牲になったと推定されています。交易商人が多く出入りするドゥブロヴニクも例外ではなく、ラ福利厚生に熱心なラグーサ共和国(下記参照)議会はペストの流入や拡散を防ぐため、1377年に世界で初めて検疫制度を導入することを決めます。(日本大百科全書や日本語のウィキではヴェネツィア共和国が最初としていますが、これは多分間違いでしょう。その理由は、ヴェネツィア共和国が最初としているのは日本語の資料だけで、クロアチア語、英語、ドイツ語、はてはイタリア語の資料に至るまで、ドゥブロヴニクが最初としているからです。)この制度では、ドゥブロヴニク市民か否かにかかわらず、ペスト汚染地域からやって来た人々は、ドゥブロヴニクの南東約10 km のツァヴタット(Cavtat(クロアチア語))沖にあるツァブタット諸島(Cavtatski Otoci(クロアチア語))のMrkan島、Bobara等にペストの潜伏期間である1ヶ月隔離され、発症がないと確認された者だけが、ドゥブロヴニクに入ることができました。さらに1397年になると、外国船はMplunat(クロアチア語、ドゥブロヴニクの南東約30 km)の西側(ドゥブロヴニク側)、およびムドゥブロヴニクの西約40 km にあるムリエト(Mljet(クロアチア語)))島より西に直接入ることを禁じられ、それぞれ当時フランシスコ会修道院があったMrkan島、およびベネディクト修道院のあったムリエト島の修道院で検疫期間を過ごすことが義務付けられます。これらの修道院は当初バラック造りでしたが後に石造で建て替えられます。しかしながら、これらの隔離場所はドゥブロヴニクからあまりに遠く、また戦略的理由から15世紀になると、検疫施設はドゥブロヴニクの近くに設けることに決められ、1457年にはその建設がドゥブロヴニクの西約1 km にあるDančeeで教会建設とともに始まります。検疫施設はよく組織されて、良好に機能したため、ツァブタット諸島における検疫は廃止されます。1533年には、ドゥブロヴニクに最も近いロクルム島(Otok Lokrum)に大規模な検疫施設の建設が始まりましたが、完成することはなく、もちろん利用されることもありませんでした。ペストの大流行が終結したにも関わらす、このような検疫施設建設していった理由は、ペストがそれまで何回も大流行を引き起こしており、その後の流行が懸念されたことによります。15世紀末には内陸を海との交易が交わるドゥブロヴニク東端プロチェ(Ploče(クロアチア語)))に検疫施設を造ることが決定されます。建設は1590年に始まり、1642年に完成します(現在はLazareti検疫施設として知られています。)が、隔離期間は1ヶ月から40日に延長され、kacamortiと呼ばれる検疫従事者が検疫規定の実施と遵守を監視しました。この隔離期間40日の「40」はイタリア語で “quaranta” と言いますが、「検疫」を意味する英語の “quarantine” はこれが語源になっています。なおペスト菌は絶滅してはいないものの、大流行が収まったのは、1894年にアレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin(フランス語))と北里柴三郎がペスト菌を発見し、その治療薬となるストレプトマイシン、クロラムフェニコール等の抗生物質が開発された20世紀中ごろ以降です。
    時代は前後しますが、1358年にはヴェネツィア共和国とのハンガリー王国の間でザダル和平条約(Peace-treaty of Zadar(英語))が締結され、ハンガリー王国のダルマチア地方にあったヴェネツィア共和国領がハンガリー王国領となります。これを機にドゥブロヴニクもハンガリー王国領となりますが、ビザンチン帝国の場合と同様、ハンガリー王国に年貢を支払う等巧みな外交政策で実質的な独立を勝ち取り、一般にはこの年をラグーサ共和国((Dubrovačka Republika(クロアチア語)、Repubblica di Ragusa(イタリア語)、Republic of Ragusa(英語)。日本語名は多分英語から来ていると思いますが、現地語に敬意を表するなら「ドゥブロヴニク共和国」とすべきで、そのような名称で呼ばれる場合もあります。ただ一般的な「ドゥブロヴニク」というと共和国の主都となる都市部を指すようです。)の建国年としています。その後ダルマチア地方南部は、1377年頃にはボスニア(Bosnia(英語))、そのアドリア海沿岸部は1420年頃までに再びヴェネツィア共和国の領土となります。また、1299年にアナトリア(Anatolia(英語)、Anadolu(トルコ語))に建国されたオスマン帝国(Ottoman Empire(英語))が1453年にビザンツ帝国を滅ぼしてダルマチア地方南部にまで領土を拡大し、1463年頃には上記ボスニア領、1526年にはハンガリーをも征服し、バルカン半島のほぼ全域を支配下に収めます。この間、ドゥブロヴニクは一貫して上記外交政策によって独立を維持し、この状態はフランス第一帝政(Le Premier Empire(フランス語))のナポレオン軍に占領される1806年まで続きます。
    岩塊の上に建設され、川がないドゥブロヴニクは水の確保が大変で、雨水を貯めたり、水源から船で水を運んだりしていました。それでも水は不足したため、ラグーサ共和国はナポリの建築士オノフリオ・デッラ・カーヴァ(Onofrio della Cava)に上水道の建設を依頼しました。彼はドゥブロヴニクの北側12 km の水源から水を引き、1438年ピレ門(Vrata od Pila)脇のオノフリノオの大噴水(Velika Onofrijeva česma (fontana))が完成しました。その後同年、彼はプラツッア通りの東端にあるルジャ広場(Trgu Luža)に小オノフリオの噴水(Mala Onofrijeva česma)と呼ばれる小さな噴水を造りました。これらの噴水の水は無料で使うことができ、市民生活は大変便利になりました。
    上記オスマン帝国のダルマチア侵入以前の1447年、オスマン帝国の将来を予見したラグーサ共和国はこれまで同様年貢という外交手段でオスマン帝国とバルカン諸国で自由な商業活動を行える条約をオスマン帝国と結びます。こうしてオスマン帝国がバルカン半島に侵入して以降の15~16世紀、ラグーサ共和国は現在のイタリア、スペイン、イギリス、ベルギー、インド、アメリカ等を相手に、鉱物、羊毛や絹といった繊維とその加工品、塩、塩漬けの魚等多種類の貿易品は取り扱い、海洋貿易都市としての繁栄を謳歌します。
    17世紀になると、1667年に起こったドゥブロヴニク直下を震源とするプレート( https://4travel.jp/travelogue/11196050 )起源の史上最大となる震度7(英語の論文からの換算値です。この震度は日本の気象庁独自のもので、外国では通用しません。)の地震によって街の建造物の3/4以上が破壊され、街の人口の半分にあたる約3000人(クロアチア語の資料ではこの説が、英語の資料では5000人という説が多い)が犠牲となりました。この大災害に加え、15世紀末に始まった大航海時代によって貿易の中心はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ラグーサ共和国は徐々に衰退していきます。
    この間、ハプスブルク帝国の勃興によって1526年ハンガリー王国がその支配下に入ると、ヴェネツィア共和国がザダル和平条約で失ったダルマチア地方の領土を再び得ることになり、隣接するオスマン帝国との間で紛争が始まります。この紛争に巻き込まれることを防ぐため、1699年ラグーサ共和国は領土の一部であるネウム(Neum,(ボスニア語、クロアチア語、英語)、Неум(セルビア語)、現在のボスニアヘルツェゴビナにあって唯一アドリア海に面する都市)をオスマン帝国に売却し、難は逃れたものの衰退はさらに進みます。
    843年フランク王国が分裂してできた、東フランク王国はその後フランス王国、フランス第一共和政としてほぼその領土を維持してきましたが、ナポレオン1世(Napoléon Ier)(フランス語)、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte(フランス語)))が1804年に皇帝として即位して成立したフランス第一帝政の時代になると、その天才的な戦略によって破竹の勢いで、ヴェネツィア共和国、中世イタリア王国、スペイン帝国等、隣国を次々と撃破していきます。ラグーサ共和国も例外ではなく1806年にはその軍門に下り、ナポレオン統治のイタリア王国に組み込まれて、北部ダルマチア地方と共にフランス領イリュリア州(Provinces illyriennes(フランス語))となり、ラグーサ共和国はここで終焉を迎えます。しかし、1814年にロシア帝国侵略に失敗したナポレオン1世は失脚して獲得した領土の殆どを失い、イリュリア州はロシア帝国に連合国の一員とした加わったオーストリア帝国(Kaisertum Österreich(ドイツ語)。パプスブルグ帝国中期の別称。)の支配下に入ります。この支配はオーストラリア帝国がその人種構成からと国名をオーストリア=ハンガリー帝国(Österreichisch-Ungarische Monarchie(ドイツ語)と変えた1867年以降も続きます。
    オスマン帝国支配のバルカン半島では人口増加による生活苦から、各地で帝国に対する蜂起が始まりますが、19世紀になると西欧の影響もあって、こうした蜂起が民族独立運動へと変わって行きます。こうして1832年にはギリシャ独立戦争によってギリシャが、露土戦争後の1878年にはセルビア王国、ルーマニア王国、モンテネグロ王国が独立し、さらに1908年にはブルガリアが、1913年にはアルバニアが独立を果たします。ただし、ボスニアヘルツェゴビナは露土戦争後の1878年にハプスブルク帝国の配下に入り1908年には併合されます。これらの国々はフランスやベルギーの自由主義的憲法をモデルとしてそれぞの憲法を制定し、立憲制の議会主義に基づく政治を導入します。
    1914年、ハプスブルク帝国の帝位継承者であるフランツ・フェルディナンド(Franz Ferdinand(ドイツ語))大公夫妻が、属州であるボスニアの州都サラエボ(Sarajevo(ボスニア語))を訪れた際、ボスニアの解放と南スラブの統一を主張する組織:「青年ボスニア(Mlada Bosna、(セルビア・クロアチア語、)、Young Bosnia(英語))」の一員:ガヴリロ・プリンツィプ(Gavrilo Princip(セルビア語)によって暗殺されます。このいわゆるサラエボ事件を発端にハプスブルク帝国、オスマン帝国、ブルガリアからなる中央同盟と他のバルカン諸国、イギリス帝国(British Empire(英語))、フランス第三共和国(Troisième République、フランス語))、ロシア帝国を中心とする連合国の間で第一次世界大戦が勃発します。この戦争は1918年、連合国の勝利で終わり、戦勝国となったセルビア王国とンテネグロ王国は1918年、ハプスブルク帝国の南部のスロヴェニア、ダルマツィア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナと共にセルビア主導の南スラブ統一国家をつくり、1929年にはその名称をユーゴスラヴィア王国(Kraljevina Jugoslavija(セルビア・クロアチア・スロベニア語))とします。
    バルカン諸国に導入された西欧型の議会政治は自由や民主主義に基づく政治体験に乏しい国民のもとでは円滑に進まず、1920年から30年にかけて、機能不全に落ちっていきます。初めに国王独裁が宣言されたのはユーゴスラヴィアで、1921年、前年の選挙で第3党に躍進した共産党が非合法化されます。また国内最大の問題はセルビア中心の集権主義と、クロアチア農民党を中心とする連邦主義の対立であり、1928年にはセルビア急進党議員の発砲でクロアチア農民党党首が命を落としてしまいます。この事態を収拾するため、1929年、国王は独裁制を宣言して議会の解散と憲法停止を命じ、中央集権を徹底するために民族名をつけた政党活動を禁止しますが、国会議員で、ファシスト集団ウスタシャ(Ustaše(クロアチア語))を結成したアンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić(クロアチア語))を含め、クロアチアの自治を求める動きはさらに強まって行きました。
    1939年に始まった第二次世界大戦は日本、第一次世界大戦末期、ドイツ革命によって成立したヴァイマル共和国(Weimarer Republik(ドイツ語))の政権を1933年にアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler(ドイツ語))が奪取して成立したナチス・ドイツ(Deutsches Reichドイツ語))、およびイタリア王国による日独伊三国同盟を中心とする枢軸国と、イギリス、1917年の社会主義革命でロシアを中心として成立したソビエト連邦、アメリカ、中華民国を中心とする連合国との闘いとなりますが、バルカン諸国も様々な形でこの対戦に巻き込まれいきます。ユーゴスラヴィアはこの大戦の直前、懸案となっていたクロアチアの自治を認めます。大戦勃発後、ユーゴスラヴィアを含めた多くのバルカン諸国は中立を宣言しますが、その後他のバルカン諸国が三国同盟に加盟して枢軸国側に付くに及び、ユーゴスラヴィアもこれにならいます。しかし、ユーゴスラヴィアではこれに反対する軍のクーデターが成功します。これに激怒したヒトラーは1914年ユーゴスラヴィアを占領し、同盟国イタリアとの間で領土を分け合います。このとき独立志向の強いクロアチアに関しては、上記中世クロアチア王国の領土にボスニア・ヘルツェゴビアを加えて傀儡国家:クロアチア独立国を作り、クロアチア独立国軍を置きます。しかし、スラヴコ・クヴァテルニク(Slavko Kvaternik(クロアチア語))を総司令官とする亡命先のイタリアでウスタシャの活動していたアンテ・パヴェリッチが国家元首としてウスタシャ軍とともに帰国し、ウスタシャ軍はクロアチア独立国軍に形式上組み込まれます。こうした占領に対し、ユーゴスラヴィア内で起こったクロアチアと関係する2つの抵抗運動があります。その一つは1941年、ドラジャ・ミハイロヴィッチ(Draža Mihailović(セルビア・クロアチア語))を中心としたセルビア将兵によって結成され、大セルビア主義、反共主義を掲げるチェトック(Četnik(セルビア・クロアチア語)、Chetnik(英語))であり、もう一つは同じく1941年、戦前非合法化された共産党によって結成された、ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito(セルビア・クロアチア語))を中心とするユーゴスラヴィア人民解放軍およびパルチザン部隊(Narodnooslobodilačka vojska i partizanski odredi Jugoslavije(セルビア・クロアチア語)、略称NOV i POЈ、以下簡単に「パルチザン」とします。)です。この2つはその方針の違いから折り合いが悪く、1941年末には、これら2つの組織にウスタシャを加えた三つどもえのユーゴスラビア人民解放戦争(Narodnooslobodilački rat(セルビア・クロアチア語)))が勃発します。この時ユーゴスラヴィア設立当初からセルビアに不満を抱いていたアンテ・パヴェリッチはウスタシャ軍によるセルヴィア人大虐殺を行い、その犠牲者は100万とも200万人とも言われています。このときのセルヴィア人の遺恨が後のクロアチア紛争に表れることになります。この戦争はその後パルチザン優勢で進み、バルカン諸国は次々と解放されて、1945年3月にはチトーを首班とした民主連邦ユーゴスラヴィア臨時政府が樹立します。
    連合国の勝利が確実になりつつあった1945年2月、連合国であるアメリカ、ソ連、イギリスによるヤルタ会談が開かれ、戦後の世界のあり方を決めますが、早くもこれが東西冷戦の始まりとなります。同年5月には、枢軸国で唯一残されていたドイツが無条件降伏することでヨーロッパを舞台とした第2次世界大戦は終了します。これを受けてユーゴスラヴィアでは1945年11月、憲法制定会議総選挙が実施され、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6共和国と、コソボ・メトヒア自治区からなるユーゴスラヴィア連邦人民共和国が成立します。このユーゴスラヴィアを含め、共産主義を掲げるパルチザンが重要な役割を演じたバルカン諸国やロシアが侵略した東欧諸国は共産党の1党独裁が進んで共産主義国家となりとなります。これに危機感を覚えた資本主義国は1949年、北体制条約を締結して、北大西洋条約機構を発足させ、これに対抗する形で共産主義国は1955年にワルシャワ条約を締結してワルシャワ条約機構を発足させ、資本主義国家と共産主義国家の間で東西冷戦の構図が完成します。しかし計画経済で成長を進める社会主義国と市場経済で成長を進める資本主義国との間の経済格差は年と共に顕著となり、1989年11月には東西を分断するベルリンの壁が崩壊し、同年12月2日~3日、地中海のマルタにおいて共産主義国の盟主であるソビエト連邦と資本主義国の盟主であるアメリカ合衆国との間の会談(マルタ会談)で、米ソ冷戦の終結が宣言され、東西冷戦は終わりを告げます。
    ユーゴスラヴィアでは1990年、共和国ごとに選挙が行われましたが、共産主義系の政党が勝利したのは、セルビアとモンテネグロだけで、他のスロヴェニア、クロアチ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビアは民主主義系の政党が勝利しました。この結果を受けてユーゴスラヴィア連邦を構成する6共和国間で連邦を維持するか否かの話し合いが持たれましたが、合意は得られず、1991年6月にクロアチアとスロヴェニアが、同年11月にはマケドニアが、1992年3月にはボスニア・ヘルツェゴビアがユーゴスラヴィアからの独立宣言をしました。これに対し1992年、残されたセルビアとモンテネグロは1992年4月、2国のみのユーゴスラヴィア連邦共和国を宣言しました。このような状況の中、クロアチアについて見ると、クロアチア人と国内にいて独立に反対するセルビア人との間で1991年6月の独立宣言以降戦闘が散発し、同年9月、ユーゴスラヴィア軍(と言っても実質的にはセルビア軍)がザグレヴを攻撃にするに及んで、クロアチアとユーゴスラヴィア連邦の戦争に発展しました。クロアチア紛争(クロアチア内戦、でクロアチア独立戦争(Croatian War of Independence(英語))です。この戦争は国連の仲介によって同年11月末に停戦合意が成立しますが、その後も戦闘は続き、最終的に戦争が終結したのは1995年8月です。
    クロアチア経済は1993年から年率5%程度の成長を続けましたが、リーマンショック後の2009年以降はほぼゼロ成長で、2013年にEUに加盟した後もEUの経済停滞で改善は見られませんでした。しかし、2015年以降の成長率は3%程度と上向いおり、1017年の名目GDPは520億ドル、1人あたり12,000ドルと想定されています。産業構造は2010年で見ると、GDPの66%が観光を含むサービス業、27%が鉱工業、、7%が農業です。このうち観光業の比重は大きく、2014年見ると、GNPの20%を占めます。

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この旅行記へのコメント (11)

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  • kiju-jiさん 2021/06/23 16:05:46
    bunbunさん。kju-jiです。
    色々な文献をお読みになっての解説。勉強になりました。
    クロアチアの旅行記は、bunbunさんの旅行記を読んで執筆すれば良かった。長崎市の旅行記も楽しく読まさせて頂いています。ではまた・・・。

    bunbun

    bunbunさん からの返信 2021/06/24 17:25:43
    RE: bunbunさん。kju-jiです。
    kiju-jiさん、こんにちは。

    またのご訪問、私の拙い旅行記に投票ありがとうございます。

    私の旅行記を丁寧にお読みいただき、感謝致します。
    私は何でも知りたい質で、疑問に思ったことは徹底的に調べ上げ、旅行記にも書き込んでしまうため、どうしても冗長で読みにくくなってしまいます。あるときメンバーさんからこの点を指摘されましたので、細々としたことは付録にまわして、興味の有る方だけにお読み頂くようにしましたが、それでもまだ冗長で申し訳なく思っております。

    kiju-jiさんのクロアチア旅行記、拝読致しました。私が行かなかった所も沢山行かれていてとても勉強になりました。それに要領よく簡潔に纏められていてとても読みやすかったです。
    素晴らしい旅行記をありがとうございました。

    これからもkiju-jiさんの旅行記を楽しみにしております。

    bunbun
  • Hotty Pottyさん 2019/06/03 14:56:42
    フォロー&いいねをありがとうございますー('ヮ' )
    bunbunさま

    こーんにちわー、Hotty Pottyですー('ヮ' )
    フォローといいねをありがとうございましたー!
    昨年、Pottyもクルーズ船でドゥブロヴニクに半日寄港しましたー。そのときは、某海外ドラマのロケ地ツアーに参加したのですが、美しい街並に、また来ようと思いましたー。
    bunbunさんの旅行記は情報量が、すごいので、次回行くときにも参考にさせていただきますねー('ヮ' )
    こんな詳しく旅行記を書いている方に、フォローしていただくのは、分不相応な小さな生きものですが、今後ともよろしくお願いしますー('ヮ' )

    bunbun

    bunbunさん からの返信 2019/06/03 23:34:44
    RE: フォロー&いいねをありがとうございますー('ヮ' )
    Hotty Pottyさん、こんばんは。

    ご訪問、私の拙い旅行記への投票、フォローありがとうございます。

    私は何でも知りたがり屋で、気になったことはできる限り調べ、調べたことはみんな旅行記に書いてしまいます。ある時メンバーさんから、「長すぎて読みにくい」とお叱りを受けましたので、その後細かいことは付録に回して、ご興味を持って頂けた方にのみお読み頂くようにしております。もしお役に立てるようでしたら、こんなうれしいことはありません。

    Hotty Pottyさんはじめ、多くの方が素晴らしい旅行記を書かれていますので、いつも興味津々で拝読させて頂いております。
    花は(と言いますか何でもですが)大好きなんで飛びつきます。シンガポール植物園には豪華で珍しいランがいっぱいですね。バラ同様結構有名人の名前がついているようで、知った人の名前を見つけると楽しくなります。

    「分不相応」なんてとんでもないですよ。

    こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

    bunbun
  • パパさん 2017/12/15 16:47:03
    こんにちは。
    bunbun さん、こんにちは。

    クロアチアの旅行記を楽しく読ませていただきました。
    アドリア海の真珠と言われるだけのことはありますね。
    とても街並みや遺跡など参考になりました。

    来年8月にクルーズで寄港することになっています。
    半日では全て見ることは出来ないと思いました。
    ここだけは見て来た方が良いところが教えてください。

    パパさん

    bunbun

    bunbunさん からの返信 2017/12/16 11:52:10
    RE: こんにちは。
    パパさん、こんにちは。はじめまして。

    ご訪問、私の拙い旅行記に投票ありがとうございました。

    クルーズですか。羨ましいですね。私には手がでません。
    美しい街並みをご希望でしたら、まずスルジ山をお勧めします。ただロープウェイのロープがほんのちょっとだけ気になります。これを避けるためにスルジ要塞の西に回ると今度は崖の草木が邪魔をします。私は時間の関係でロープウェイで下りましたが、景色を見ながら徒歩で下りるのもいいかもしれません。ロヴリイェナツ要塞や海からの眺めも綺麗ですが、クルーズ船からご覧になれるでしょうから必要ないかも知れません。後は城砦巡りがお勧めです。私は1時間強かけて1週しましたが、旧市街や要塞、新市街がとても綺麗に見えます。
    歴史がお好きでしたら、修道院、教会・大聖堂、博物館、旧総督廷、オノフリオの大・小噴水等がお勧めです。残念ながら私は時間がなくて、大聖堂とスポンザ宮殿しか入れませんでした。
    後余計な事ですが、東欧に行っていつも思いますが、スラブ系の女性は皆綺麗です。奥様に叱られるかも知れませんね。すみません。

    「ビデルボ」拝読しました。綺麗な村ですね。イタリアには今まで3回行きましたが、ビデルボには行ったことがありません。旅行が好きですので、テレビの紀行番組は殆ど録画してBDに落としています。もう5000番組程になりましたが、バックの美しい曲とともに始まるBS日テレの「小さな村の物語イタリア」はお気に入りで、いつか時間をかけてあんな村々を回れたらいいな、と思っています。

    素敵な旅行記をありがとうございました。

    これからもパパさんの旅行記を楽しみにしております。

    bunbun

    パパ

    パパさん からの返信 2017/12/18 10:51:59
    RE: RE: こんにちは。
    bunbunさん こんにちは。

    返事が遅くなってすみませんでした。
    回答ありがとうございます。
    ケーブルカーに乗って一望してみたいと思います。
    寄港時間がどれくらいあるかによって、博物館なども見てみたいと思います。

    ビデルボの旅行記にある村は、チヴィタベッキアです。これは、世界遺産に登録されていると思います。
    ビデルボの町は見ていません。コメンナサイ。
    ビデルボは温泉が出るイタリアの保養地の一つです。

    この後書く旅行記には、イスキア島が出てきます。
    ナポリから船で行くことが出来ます。
    ここも素敵なところです。

    >旅行が好きですので、テレビの紀行番組は殆ど録画してBDに落としています。もう5000番組>程になりましたが、バックの美しい曲とともに始まるBS日テレの「小さな村の物語イタリア」はお気に入りで、いつか時間をかけてあんな村々を回れたらいいな、と思っています。

    上の番組は、私も知っています。
    気に入った村があれば、時々録画しています。

    パパさん
  • なぽさん 2017/12/03 22:56:30
    はじめまして♪
    bunbunさん

    はじめまして♪
    私の稚拙な旅行記に投票下さり大変嬉しく感謝しております。

    ドゥブロヴニクの旅行記、とても興味深く勉強になりました!
    実は今年の夏に行って来たのですが、
    うちは主人と息子が街歩きを好まずすぐに退屈してしまうため
    ただなにも考えずブラブラして来ただけでして・・・
    bunbunさんの旅行記でじっくり観光し直しさせていただいた気分です。

    北海道の旅行記も楽しく読ませていただきました。
    真っ赤なもみじがすごく綺麗ですね。
    昔・・大昔ですが、3年ほど住んでいたことがありまして・・
    然別湖にも少しいたことがあり、
    鹿追町・ナイタイ高原牧場もすごく懐かしかったです。

    bunbunさんの旅行記があれば、ガイドブックも不要ですね。
    素晴らしい旅行記を本当にありがとうございます♪

    なぽ







    bunbun

    bunbunさん からの返信 2017/12/04 23:08:18
    RE: はじめまして♪
    なぽさん、こんばんは。はじめまして。

    ご訪問、私の拙い旅行記にいつも投票ありがとうございます。

    私の旅行記が少しでもなぽさんのお役に立てましたなら光栄です。
    旅行の目的は人それぞれですから、いろいろな楽しみ方があっていいと思っています。
    私は何でも知りたい質でして、ツアーで行ったときはガイドさんにまつわり付いて根掘り葉掘り聞きまくります。旅行記を書く段になって、分からないことが出てくると、本、ネット、原著論文、それでも分からない場合は、ガイドさんや専門家にメールで聞きます。

    「アイスランド」拝読しました。私はまだアイスランドにいったことがありません。絶景ですね。ラグーンも柱状節理の滝も氷河もオーロラも素晴らしいです。また行きたいところが一つ増えました。

    素敵な旅行記をありがとうございました。

    これからもなぽさんの旅行記を楽しみにしております。

    bunbun
  • リリーさん 2017/11/24 20:23:41
    bunbun さん、こんにちは。
    絵画のように美しいお写真が続き、クロアチアがこんなに素晴らしい国だなんて知りませんでした。クロアチアと言えば親日国というイメージです。観光国でもあるのですネ。

    bunbun

    bunbunさん からの返信 2017/11/25 22:28:17
    RE: bunbun さん、こんにちは。
    リリーさん、こんばんは。

    またのご訪問、私の拙い旅行記にたくさんの投票ありがとうございます。

    クロアチアの人気が出てきたのは多分東西冷戦が終了し、クロアチア紛争も終了して治安が安定してきた前世紀末くらいからではないでしょうか。私は10年程前から行きたいと思っており、2015年にツアーを予約しましたが、危険レベルが0から1に上がったので、急遽行先をスペインに変更しました。クロアチアは自然の風景も街も綺麗ですのでお勧めです。2014年の統計では、GNPの20%が観光業によるものです。

    クロアチアと日本の関係ですが、第二次世界大戦では同盟国でしたし、クロアチは紛争時には一早く国交を樹立しました。この旅行で行ったプーラは碧南市と姉妹都市になっているそうです。また東日本大震災の時には、一般国民からの寄付金と政府からの寄付金が義援金として送られています。このように、クロアチアと日本は極めていい関係にあると思います。

    「ダンスパーティー」拝読しました。そうですね、外国語を習得するには幼少期からネイティブスピーカーの集団の中で生活するのが一番だと思います。私は日常生活に支障がない程度には英語が話せると思っていますが、ネイティブスピーカーと話しをするようになったのは社会に出てからですので、自分の英語を録音して聞いてみると日本語訛があります。どうしてもうまくできない発音はまさに “party” です。ただ、一応通じますので今は諦めています。あのような環境にどっぷり浸かれるお子さん達が羨ましいです。

    これからもリリーさんの旅行記を楽しみにしております。

    bunbun

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