2015/04/28 - 2015/04/28
2位(同エリア273件中)
bunbunさん
- bunbunさんTOP
- 旅行記181冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 586,925アクセス
- フォロワー875人
バスでE15号線を、タラゴナからバレンシアまで移動しました。
本旅行記では、タラゴナの水道橋とタラゴナ-バレンシア間の風景、バレンシア旧市街のボルジア宮、サンタ・マリア大聖堂、デサンパラドスの聖母教会堂、聖カタリナ教会、ラ・ロンハ、サントス・フアネス教会、バレンシア中央市場、聖マルティン教会等を報告します。
本旅行記の最後に付録として、1.タラゴナの水道橋、2.スペインの言語とバレンシア語、カタルーニャ語、3.パエリャ(Paella、パエジャ)、4.バレンシアオレンジ、5.バレンシアの歴史、6.サンタ・マリア大聖堂(ヴァレンシア大聖堂(Catedral de Santa María de Valencia))、7.バレンシアの火祭りの詳細説明を載せましたので、お時間とご興味のある方はご覧ください。
-
タラゴナ(Tarragona)市街から北4 km 程のところにある、アウト・ピスタAP-7号線の駐車場でバスを降りて東へ100メートル程歩くと見えますねえ。ローマの水道橋「ラス・ファレラス」(Aqueducte de les Ferreres(カタルーニャ語)、Acueducto de las Ferreras(スペイン語))、別名「悪魔の橋」(Pont del Diable(カタルーニャ語))だ。(付録1参照)建造されたのは1世紀初頭のアウグストゥス帝時代です。2000年には円形劇場等と一緒にユネスコの世界遺産に登録されています。
-
長さ 217 m、高さは一番高いところで 27 m です。昔セゴビアの水道橋を見たことがありますが、こちらは長さ813 m、高さ28.5 m ですから、規模はセゴビアの方が圧倒的に大きいですね。この2つがスペインに残るローマ時代の代表的な水道橋ということですか。
-
こんな感じで水路を歩いて渡れます。しばらく前の写真を見ましたが、随分劣化していました。最近修復したんですかねえ。
-
橋を渡った対岸より。逆光ですね。
-
反対側に来ました。順光です。私のような素人カメラマンはやはりこの方がいい。「悪魔の峡谷」(Barranc del Diable(カタルーニャ語))(付録1参照)へ下りて見ますか。
-
少し下りたところより。
-
さらに下りて、後ろを振り返る。
-
前を見る。
-
さらに下ります。
-
このあたりが谷底ですか。
-
最初来た側に上ります。それにしてもローマの建設技術は大したもんですねえ。2000年たっても使える状態でしっかり残ってる。
-
さらに上ります。花の季節ですから、色とりどりの花が咲いてます。
-
白い綺麗な花ですねえ。
-
こちらはピンクか。
-
さらに上ってきました。
-
今度は黄色の花。
-
さらに上がってきました。
-
上りきりました。花と古代ローマの水道橋ですか。絵になるなあ。
-
駐車場へ戻る途中にあるシュロの樹と白い花の木。シュロの葉は、ガウディが初めて自然を建築に採用したという、カサ・ビセンス(Casa Vicens)の塀を思い出させますねえ。
-
シュロの葉と白い花の木。綺麗な花ですね。
-
黄色い花。デージーの一種ですかねえ。
-
ここにも黄色い花だ。
-
バスでAP-7号線をバレシア方向へ移動した、パーキングエリアにあった花。水道橋近くのあった黄色い花とよく似ていますが、色は薄いし、葉の形も違うんで別の種類ですね。
-
パーキングエリアにあった黄色の花。花や葉の形が上の写真と同じですね。色違いかな。
-
バレシア向かうバスから見た風景。オリーブの木ですかねえ。盆栽みたいな形ですねえ。
-
バレシア向かうバスから見た風景。
-
バレシア向かうバスから見た山の風景。いいですねえ、石灰岩の白っぽい地肌に点在する緑。
-
バレシア向かうバスから見た山の風景。好きだな、こういうやつ。いくら見てても飽きない。
-
オレンジ畑が見えてきた。(付録4参照)バレンシアに近づいて来ましたかねえ。
-
リュウゼツランの花芽と花だ。でっかい花だねえ。これじゃ木だ。
-
オレンジ畑が続き始めたぞ。
-
またリュウゼツランの花だ。間にあるなはオリーブの木ですね。地中海だなあ。
-
またオレンジ畑だ。
-
川が干上がっていますねえ。地中海性気候だからなあ。
-
地中海沿岸の街は家の壁が白くてどこも綺麗だ。
-
空に飛行機雲がいっぱいだ。ヴァレンシア空港に近づいたのかなあ。それにしても多すぎる。空軍基地は無いはずだし。
-
街の中に入って来た。
-
やはり、バレンシアか。新市街だね。
-
ジャカランダ(jacaranda)の花。ちょっと見頃を過ぎてるようですが、それでも綺麗な紫ですねえ。
-
さあ、バスから降りて旧市街の散策です。旧市街入口のセラーノスの門(Porta de Serranos. 「セラーノスの塔」とも訳されるようですが、直訳すると「セラーノスの門」ですし、外観も建造目的も「門」です。”porta” はバレンシア語で「門」、スペイン語(カスティーリャ語)の ”puerta”です。)イスラム教徒によって11世紀に街を取り囲む市壁が造られましたが、その入口として14世紀後半にゴシック様式で造られた門です。1864年には、街を拡張するため市壁は取り壊されましたが、門は残されました。(付録5参照)
-
ロケス通り(Carrer de les Roques. “carrer” はバレンシア語で「通り」、スペイン語(カスティーリャ語)の ”calle”です。)
-
ロテロス通り(Carrer de Roteros)
-
ロテロス通りとデン・ロダ通り(Carrer d’en Roda)のT字路付近にあるレストラン エル フォラートで昼食です。
-
レストラン内部
-
レストラン内部。左の額の真ん中はバレンシアの紋章です。その下のテーブルの上にパエリャ(Paella、パエジャ)の大きな鍋がありますね。
-
店員さんがパエリャの入った大鍋を見せてくれました。シーフードのパエリャですね。(付録3参照)これを皆に取り分けてくれます。
-
取り分けてもらった、メインのパエリャ。
-
店内に飾られた人形。白い柱の右真ん中は、ガウディがグエル別邸(Pavellons Güell)の「竜の鉄門」に使用して、彼を一躍有名にした西洋の竜ですね。
-
またセラーノスの門に戻ってきました。門の上にたなびく旗はバレンシア州・県旗です。まわりにジャカランダがたくさんありますね。
-
ナヴェジョス通り(Carrer de Navellos)。右側はPalau de les Corts Valencianes(バレンシア語)。「バレンシア議会宮殿」とでも訳すんですかねえ。ボルジア宮(Palau dels Borja(バレンシア語))またはベニカルロ宮(Palau de Benicarlo(バレンシア語))とも呼ばれる建物です。15世紀にバレンシア王国の首都であったこの地に、ボルジア家(付録6参照)の住居として購入されたもので、もとは1804年にゴシック+ルネサンス様式で建設された学校です。19世紀にベニカルロ家に売却されたため、名前が変遷しています。現在はバレンシア自治政府(Generalistat Valenciana)の立法府である、バレンシア議会の建物となっています。入り口に旗が3つ立ってますが、手前から欧州旗、スペイン国旗、バレンシア州・県旗です。
-
ナヴェジョス通り(Carrer de Navellos)。サンタ・マリア大聖堂(Catedral de Valencia)のミゲレテの塔(El Miguelete またはTorre del Miguelete またはTorre del Catedral)(付録6参照)が見えますねえ。
-
ヴィルヘン広場(Plaza de la Virgen、’Virgen’ は英語の‘Virgin’で「聖母マリア」の意)です。左側の建物は聖母デサンパラドス教会堂、中央奥はサンタ・マリア大聖堂とその鐘楼であるミゲレテの塔、右側はネプチューンの噴水です。
-
プチューンの噴水。中央で寝そべっているのが、地元の彫刻家シルヴェストレ・エデタ(Silvestre Edeta)作のネプチューンの像で、その周りに8体の裸婦像があります。
-
バレンシアの守護聖母マリアが祀られている、デサンパラドスの聖母教会堂(Real Basilica de Nuestra Señora de los Desamparados, または Basílica de la Virgen de los Desamparados、”Desamparados” は、「見捨てられた者たち」の意)。3月17~18日にはバレンシアの火祭り(付録7参照)の一環として、この教会堂の前のヴィルヘン広場で、民族衣装に身を包んだ女性たちによる聖母への献花祭がおこなわれます。
-
サンタ・マリア大聖堂の南西翼廊ファサード。後方の8角柱はクロッシングのドーム。
-
デサンパラドスの聖母教会堂。サンタ・マリア大聖堂と2回の渡り廊下でつながってますね。
-
ヴィルヘン広場から見た、聖母教会堂と反対(西)側。右奥(街灯の後ろ)は自治政府庁または自治政府の宮殿(Palau de la Generalistat Valenciana またはPalasio de la Generdidad)と呼ばれる建物。
-
Plaza de Decim Juni Brutの東にある建物。コンドミニアムですかねえ。あまりに綺麗なんでパチリ。
-
上の建物の北にある、Plaza Decimo Junio Bruto。プールとその右奥の建物はアルモイナ埋蔵文化財センター(El Centro Arqueologico de l'Almoina)です。プールの表面には水が張られてますが、底が透明なガラス板であるため、その下にある、1985~2005年に発掘されたローマ、イスラム時代の遺跡を見ることができます。
-
以下の説明が分かり易いよう、サンタ・マリア大聖堂(Catedral de Valencia)の平面図を示します。(付録6参照)この図はウィキペディア フリー百科事典の以下の図を元に作成してあります。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Catedral_Valencia_elements.jpg
Licensing
I, the copyright holder of this work, release this work into the public domain. This applies worldwide.
In some countries this may not be legally possible; if so:
I grant anyone the right to use this work for any purpose, without any conditions, unless such conditions are required by law. -
平面図だけでは分かりにくいでしょうから、ちょうど模型がありましたので、これで説明します。この方が立体構造がわかり易いですね。手前がほぼ北です。手前の8角柱はクロッシングのドームで、このドームが高さは40 mのラテン十字の交点に位置し、その後方は身廊、左右は翼廊、手前は内陣、少し低くなって内陣を囲むのが周歩廊です。右翼廊の右端が使徒の門(Puerta de los Apóstoles)、後方の高い塔は、鐘楼であるミゲレテの塔で高さ65 m です。身廊の右は側廊ですが、その上の新郎を支えるフライングバットレスがわかりますね。側廊の丸屋根の部分はチャペルです。
-
方向を変えましょう。手前がほぼ北東です。左翼廊の左端がアルモイナ門です。
-
手前がほぼ南です。左の高い塔がミゲレテの塔。そのすぐ南身廊の先端が鉄の門です。側廊、フライングバットレス、丸屋根の4つのチャペルがよく分かりますね。
-
方向をさらに変えましょう。手前がほぼ西です。右の高い塔がミゲレテの塔。上の写真と反対側の側廊、フライングバットレス、丸屋根の4つのチャペルがよく分かりますね。
-
サンタ・マリア大聖堂使徒の門(Puerta de los Apóstoles)
-
サンタ・マリア大聖堂の南西側チャペル(青い屋根)。その後ろはミゲレテの塔。
-
Plaza Decimo Junio Brutoからサンタ・マリア大聖堂を望む。真ん中上部の8角形はクロッシングのドームです。
-
Arzobispado de Valencia(バレンシア大司教館とでも訳すんですかねえ)
-
サンタ・マリア大聖堂南東翼廊ファサードとアルモイナ門(Puerta de la Almoina. ”almoina”はバレンシア語で、スペイン語(カスティーリャ語)にすると、”limosna” すなわち「施し」ですから、日本語に訳すと「施しの門」とでもなりますか。)この名前が付いた理由は門の隣に、貧しい人々に施しをする「施しの家」があったからだそうです。アルモイナ埋蔵文化財センターあたりですかねえ。
-
サンタ・マリア大聖堂南東翼廊ファサードと聖器保管所(右)
-
アルモイナ門
13世紀に最初に造られ部分です。ロマネスク様式で、門の上部は6層の半同心円状の幾何学的装飾が施された飾り縁アーチからなり、それらを柱頭に装飾を施された左右計12本の円柱で支えています。このスタイルはリェイダ(Lleida(カタルーニャ語)、Lerida(スペイン語)。1990年から前者が公式名)、ウエスカ(Uesca(アラゴン語)、Huesca(スペイン語))、フランスのラングドック(Languedoc)の建造物に通じるものがあります。これは多分これらの地から石工職人を連れてきたことによります。タンパン(http://4travel.jp/travelogue/11198227 参照)はなく、アーチの下まで扉になっています。
門の上の軒の下に人の頭部の彫刻が14個ありますね。拡大してみましょう。 -
拡大写真を左から、4人、4人、4人、2人に分けて縦方向に並べました。各2人は貴族の夫婦で、2人の間に名前が書かれています。彼らは寄進者(ステンドグラスに描かれることもあります。http://4travel.jp/travelogue/11198227参照)か、最初のキリスト教徒征服者との結婚することになっている、約300人のリェイダからの独身女性に付き添ってきた夫婦達と考えられています。
-
アルモイナ門左側柱頭部。
-
アルモイナ門右側柱頭部。彫刻は旧約聖書の創世記の内容を示しています。
-
参考までにアルモイナ門左側柱頭部の彫刻の一部を拡大してみました。左側は仕事に出かけるアダム(右)とイブ(左)。その間には楽園を守る天使がいます。右側柱頭の左はアベルの犠牲を、右はカインの罪を表しています。
-
アルモイナ門上部のステンドグラス。建築様式は基本的にアルモイナ門と同じですが、アーチは門と違って3層ですね。
-
ミゲレテの塔
-
鉄の門(Porta Ferros(バレンシア語)、Puerta de los Hierros(スペイン語))。
サンタ・マリア大聖堂のメインエントランスです。この門が鉄の門と呼ばれる理由は、入口ポーチの柵と扉が鉄製であることによります。
このファサードはドイツ人建築家コンラッド・ルドルフ(Konrad Rudolf)によって、1703年にバロック様式で設計が開始さえました。ルドルフはイタリアで学び、17世紀後半に最も進んだイタリアバロック様式をイベリア半島へ持ち込みました。しかしながら、彼はこのファサードの完成を見ないままこの地を去ります。その理由は彼が信奉したアークデューク・チャールズ(Archduke Charles)が、ブルボン家の継承戦争に敗れたことによります。彼の仕事は著名なイタリアのバロック建築家フランチェスコ・ボロミーニ(Francesco Borromini)と3人のスペインバロック彫刻家によって引き継がれます。その1人はフランシスコ・ストルス(Francisco Stols)、2人はフランシスコ・ヴェルガラ(Francisco Vergara)とイグナシオ・ヴェルガラ(Ignacio Vergara)親子です。このファサードは、市内で最も偉大なファサードの一つになっているとともに、スペインのすべてのバロック建築の中で最もボロミーニ的であると言われています。ステンドグラスの上のレリーフは「聖母被昇天」、下は聖母のモノグラムとです。 -
「聖母被昇天」部分の拡大
-
聖母マリアのモノグラムの拡大。
MとAを重ねたモノグラムはラテン語の「マリアの庇護の下に」(AUSPICE MARIAE、アウスピケ・マリアエ)を表します。ミハスの無原罪懐胎説教会にも同じモノグラムがありました。http://4travel.jp/travelogue/11184027 このモノグラフを2人の天使が支えています。その上の別の2人の天使が支える王冠は聖霊の象徴です。 -
聖ヴィセンテ・マルティールのチャペル(Capilla de San Vicente Martir(スペイン語))
像は木製で銀メッキがされています。1798年、彫刻家ホセ・エステヴェ・ボネット(Jose Esteve Bonet)によって製作され、1999年に修復されています。ヴィセンテは3世紀末にウエスカ(Uesca(アラゴン語)、Huesca(スペイン語))で生まれました。古代ローマ皇帝ディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus, 245-313)のキリスト教迫害の時代は、サラゴサの司教聖ヴァレロ(San Valero)の助祭でしたが、303年2人は迫害を逃れてバレンシアにやって来ました。しかし、ヴィセンテはローマ軍に捕えられて、拷問を受けた後、304年1月22日に殉教します。この日は彼の聖人記念日で、バレンシアの祝日となっています。 -
聖ヴィセンテ・マルティールのチャペル内部。
-
身廊と祭壇
-
アルターピース(Altarpiece(英語)、祭壇背後のカベ飾り)の扉。
もともとこの扉は、1492年にイタリアの金細工師であるベルナーボ・タデオ(Bernabo Thadeo de Piero de Pone)が作製して聖母マリアに捧げた豪華な銀細工を保管するために造られました。しかし、銀細工はナポレオン戦争時の1812年にマヨルカ(Mallorca(カタルーニャ語、スペイン語)島で溶けてしまったため、現在はイグナシオ・ヴェルガラ(Ignacio Vergara)が1975年、カルトゥジャ・デ・ポルタコエリ(Cartuja de Portacoeli)の作品をもとに作製した、彩色された木の聖母マリア像が保管されています。扉には外側6枚、内側6枚、計12枚の絵が飾られています。その内容は聖母マリアの生涯で、作者はフェルナンド・ヤネス・デ・ラ・アルメディナ(Fernando Yanez de la Almedina)とフェルナンド・デ・ロス・リャノス(Fernando de Los Llanos)です。 -
祭壇に向かって左側の側廊(Nave(Lado)del Evangelio、「福音の(側)廊」の意)
-
キリストの洗礼(El bautismo de Cristo (スペイン語))。1535年, ヨアン・デ・ヨアネス( Joan de Joanes, 1507-1579)作。ヨアネスはスペインルネサンス期の最も優れた画家の一人で、この聖堂には彼の作品がたくさんあります。この絵はその中で一番大きく、当時の純イタリア様式で描かれています。
-
ステンドグラス。聖母被昇天ですかねえ。
-
奥は聖ペドロのチャペル(Capilla de San Pedro)、右側は鉄の門になります。さて、外に出ますか。
-
ベロニカ通り(Carrer de La Veronica)から見たミゲレテの塔
-
聖カタリナ教会(Iglesia de Santa Catalina)西側ファサード。
この教会は、レコンキスタによってハイメ1世(Jaime I, 1208-1276)がイスラム教徒からバレンシアを奪還した1238年、ハイメ1世の命により、モスクがあった場所に建設が始まり、1245年に完成しました。身廊が1つのみで、内陣が翼廊にあるといった特殊な構造をとっていました。1548年の火災のあと、部分的にルネサンス様式で再築されましたが、1785年にバロック様式に改装されました。1936年に共和党員によって焼かれ、1950年代に最初のゴシック様式で再築されました。 -
聖カタリナ教会の壁のタイル画。
SAN BUENAVENTURA(聖ブエナヴェントゥラ)
SUS DEVOTOS (彼らの信者達)
ANO 1888(1888年)
AYUNTAMIENTO DE VALENCIA(バレンシア市役所)
EL 3-2-1979(1979年2月3日) -
ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(Llotja de la Seda(バレンシア語)、La Lonja de la Seda(スペイン語)、「絹の商品取引所」)。北東(リョッジャ通り(Carrer de laLlotja))側を東から見る。
15世紀後半に建てられたゴシック様式の商品取引所で、1996年、世界遺産に登録されました。 -
近づいて。ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ。
-
上の写真の角にあった紋章。バレンシアの紋章ですかねえ。
-
ガーゴイル
-
ラ・ロンハ北東側入口
-
ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ
北東(リョッジャ通り(Carrer de laLlotja))側を北から見る。 -
イエズス会(JESUITES(バレンシア語))と書かれてましたが、ミッションスクールですかねえ。
-
ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ
北東(リョッジャ通り(Carrer de laLlotja))側を北から見る。 -
ラ・ロンハ・デ・ラ・セダの塔にたなびくバレンシア州・県旗。
-
サントス・フアネス教会(Iglesia de los Santos Juanes(スペイン語))。別名市場の聖ヨハネ教会(Església de Sant Joan del Mercat(バレンシア語)、Iglesia de San Juan del Mercado(スペイン語))。この教会はバレンシアで最も古い教会の1つです。14世紀にゴシック様式で建設されましたが、1552年に火災にあって、内部は全て改装され、さらに17世紀末から18世紀初頭にかけてバロック様式へと改装されました。中央の鐘楼の時計は、その形から Paradal de Sant Joan(バレンシア語、“聖ヨハネのつばめ”とでも訳すんですかねえ) と呼ばれています。
-
サントス・フアネス教会(Iglesia de los Santos Juanes(スペイン語))東側ファサード
-
サントス・フアネス教会(Iglesia de los Santos Juanes uanes)東側ファサードにある、Jacopo Bertesi 作のVirgen del Rozario(“ロザリオの聖母マリア”とでも訳すんですかねえ)のレリーフ。
-
ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ南西側の門
-
ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ南西側ファサード
-
バレンシア中央市場(Mercat Central(バレンシア語)、Mercado Central(スペイン語))が見えてきた。
-
バレンシア中央市場。建築家はバルセロナ建築学校(アントニ・ガウディもこの学校出身です。詳細はそのうち旅行記に書きます。)出身のフランセスク・グアルディア(Francesc Guàrdia)とアレサンドレ・ソレール(Alexandre Soler)で、1914年起工、1928年竣工のモデルニスモ様式です。約8,000平米もの面積を有する大市場であらゆる食材がそろっており、バレンシア市民の台所です。写真は北東側ファサードです。
-
バレンシア中央市場の北東側ファサード中央上部にあるバレンシアの紋章
-
レドナ広場(Plaza Redona(バレンシア語。Plazaの本来のスペルは’c’の下にひげが生えたような文字ですが、ここでは’z’で置き換えてます))と聖カタリナ教会の鐘楼先端部分。
-
レイナ広場(Plaza de la Reinaバレンシア語))に戻ってきました。中央やや左奥にサンタ・マリア大聖堂のミゲレテの塔と鉄の門が見えますね。
-
今度は聖マルティン教会(Parroquia de San Martin、(バレンシア語))にやって来ました。北西から見た、西側ファサードと鐘楼。ハイメ1世(Jaime I, 1208-1276)がイスラム教徒からバレンシアを奪還した1238年、ハイメ1世の命により、モスクがあった場所に最初の教会が建設されましたが、1372~1401年にゴシック様式に建て替えられました。その後1735~1753年にかけて、教会の全内装とファサードは、彫刻家のフランシスコ・ヴェルガラ(Francisco Vergara、サンタ・マリア大聖堂の鉄の門の担当者)と建築家のホセ・エレロ(Jose Herrero)によってバロック様式で改装されました。
-
聖マルティン教会(Parroquia de San Martin、(バレンシア語))西側ファサードと聖ヴィセンテ(San Vicente)の入り口
-
聖ヴィセンテの入り口の上部ニッチにある彫像。馬上の聖マルティンが彼の祭服を切り取って物乞いに手渡している場面です。1494年、ピエテル・デ・ベッケーレ(Pieter de Beckere)の作で、スペインルネサンス彫刻の傑作です。
-
南西から見た、聖マルティン教会(Parroquia de San Martin、(バレンシア語))西側ファサードと鐘楼。
-
聖マルティン教会南面。手前の青い屋根はルルド(ピレネー山脈の麓のフランスの小さな町。詳細説明は省略します。)の聖母マリアのチャペル(Capilla Virgen de Lourdes)、奥の青い屋根はバリバナ(バレンシアとバルセロナの間の海岸から約40km 内陸にある小さな町。詳細説明は省略します。)の聖母マリアのチャペル(Capilla Virgen de Vallivana)、二つのチャペルの間は聖マルティンの入口。
-
聖マルティン教会南面にある、聖マルティンの入口。
-
聖マルティンの入口の上にあるレリーフ。
-
聖マルティン教会内部。1廊式ですね。
-
祭壇の聖マルティン
-
-
聖母マリア
-
聖マルティン教会メインエントランス
-
メインエントランス上のレリーフ
-
レイナ広場(Plaza de la Reina)に戻ってきました。
-
サンタ・マリア大聖堂のミゲレテの塔と鉄の門をズームイン。
-
レイナ広場からみたバレンシア旧市街の街並み。
-
聖カタリナ教会の鐘楼
-
さてまた素晴らしい景色を眺めながらバスは次の目的地に向かって走る。Adios! Valencia!
付録
1. タラゴナの水道橋(Aqueducte de les Ferreres(カタルーニャ語)、Acueducto de las Ferreras(スペイン語))
ローマ時代の水道橋で2000年には円形劇場等と一緒にユネスコの世界遺産に登録されています。この水道橋を日本語では「ラス・ファレラス」と呼ぶようですが、根拠がわかりません。’Fereres’や’Fereras’は人名で、発音は「フェレレス」や「フェレラス」です。Farreras、「ファレラス」という人名もありますが、水道橋とは無関係です。何故「ラス・ファレラス」なんですかねえ?las Ferrerasを英語式に発音すると「ラス・ファーレラス」となるでしょうから、ここからきているのでしょうか。だとしたらカタルーニャの人々に失礼ですが。(付録2参照)まっ、細かいことはいいですか。当然のことながらこの水道橋は長い水道のごく一部です。水は標高92 m のエル・ロウレル(El Rourell、橋の北約 10 km)近辺でフランコリ川(Riu Francoli)から取り込まれ、サイズの異なる水道官網で10 km 以上運ばれて、タラゴナ市に供給されます。ラス・ファレラス水道橋は長さ 217 m、幅約2 m、高さは一番高いところで 27 m です。2段アーチ構造ですが、下段は11個、上段は25個のアーチから構成されています。アーチ部分の幅は6.3 m、高さ5.7 m、厚さ1.86 m で隣り合うアーチ間の距離は 8 m です。水路部分は北側端より南側橋の方が40 cm 低くなっています。(説明板の値)約 2/1000 という非常に低い勾配ですが、通常ローマ水道は極めて精巧に造られており、その勾配は約 3.4/10000ですから、この水道橋の勾配は通常のローマ水道の約6倍にもなります。建造されたのは1世紀初頭のアウグストゥス帝時代です。
アーチは歴史的に見ても古くから橋や建物に使われていますが、その起源はBC3000年頃のメソポタミアでシュメール人の発明です。その後様々な文明によってアーチは使われてきましたが、多用されるようになったのは、古代ローマ時代からです。構造力学的に強度を見た場合、この種のアーチはその両側に堅固な岩壁等がある場合は問題ありませんが、平地に造る場合はアントニ・ガウディが発明した、カテナリーアーチが最も強固なアーチとなります。(時間がありましたら、そのうちバルセロナの旅行記で詳細を説明します。)ちなみに、「建築」は英語で ”architecture” ですが、その語源は「アーチ」すなわち “arch” です。
伝説によると、建築家がこの橋を造っているとき突風が橋を吹き飛ばしてしまいました。絶望の中で建築家は言いました。悪魔だけが1000年続く橋を造ることができるだろうと。すると、悪魔が現れて、「一晩で橋を造ろう。その代わり最初にこの橋を渡ってきた水を飲んだものの魂をもらう。」と。ところが最初の水を飲んだものはロバでした。ということで、悪魔はロバの魂を後生大事に持っているということです。(説明板。なおロバではなく、羊という伝説もあります。)この伝説からこの橋は、別名「悪魔の橋」(Pont del Diable(カタルーニャ語))とも呼ばれていますし、この橋が架かる谷は「悪魔の峡谷」(Barranc del Diable(カタルーニャ語))と呼ばれています。
2. スペインの言語とバレンシア語、カタルーニャ語
スペインは民族が異なる17の州から構成される国家です。もともと地方(州と思って頂ければいい)ごとに異なる言語が話されていますが、歴史的にはレコンキスタ後カスティーリャ王国がスペインを統一したことから、カスティーリャ語が現在のスペインの公式言語であるスペイン語となっており、どの地方であろうと、ある意味カスティーリャ語を話すことを強いられています。しかし、各地方の人々は自分たちの文化や言語に強い誇りを持っており、これまで使われていた言語は現在でも使われております。これらを「方言」と呼ぶこともありますが、地方によっては、日本の方言と異なって独立した言語と考える方が適切な場合もあります。本旅行記はバレンシアとタラゴナについて記述していますが、バレンシア州やその州都であるバレンシアではもともとバレンシア語が使われており、これはスペイン語とは独立した言語で、スペイン語の辞書を引いても、共通の単語を除いてバレンシア語は殆ど出てきません。したがって、バレンシア州民は少なくともスペイン語とバレンシア語を話すバイリングアルと言えます。同様なことは他の州、例えば本旅行記のタラゴナが属するカタルーニャ州にも言え、彼らはカタルーニャ語(カタラン語、Catala)を話します。バレンシア語はカスティーリャ語よりもカタルーニャ語に近く、カタルーニャ語の方言とされる場合もあります。なお、バレンシアの固有名詞は基本的にバレンシア語が使われています。
さて、何故このようなことを書くかというと、私が感じる日本語の素晴らしさの一つは、他国の固有名詞をその国の発音に近い形で表現している点です。ところが英語はその配慮に欠けています。例えば、イタリア語の “Italia” は日本語では「イタリア」、英語では “Italy”、”Venezia” は日本語では「ヴェネツィア」、英語では “Venice”、ドイツ語の “Deutschland” は日本語では「ドイツ」、英語では “Germany”、”Munhen”(uはウムラウト) は日本語では 「ミュンヘン」、英語では “Munich” ときりがありません。となると、バレンシア、タラゴナの旅行記をスペイン語で書くべきかバレンシア語やカタルーニャ語で書くべきか困惑します。そこで普及している固有名詞は何語かにかかわらずその言葉を用い、そうでないと思われる固有名詞はこの地方に敬意を表してバレンシア語またはカタルーニャ語とスペイン語を用いることにしました。
3.パエリャ(Paella、パエジャ)
パエリャの語源はこの料理を作るために使ったフライパン、バレンシア語のパエリャ(Paella)です。バレンシアが発祥の地ですが、もともとは稲作やサフランを持ち込んだイスラム教徒が考え出した料理です。レコンキスタは1492年に終結しましたが、時の女王イサベル1世は宗教に寛大で、イスラム教を禁止することはしませんでした。しかし、カトリック教徒からの要請もあり、1502年にはイスラム教徒に対し、キリスト教への改宗か国外退去かの二者択一をせまります。その結果約30万人が改修してスペインに残り、彼らをモリスコ(morisco(スペイン語))と呼びます。このモスリコが考え出した料理がパエリャの起源です。現在では本旅行記のように海産物を炊き込んだものが有名ですが、当初はウサギや鶏の肉、かたつむり、野菜等を用いていたそうです。パエリャの米は僅かに芯が残るように炊く、という話を聞いたことがあり、実際アンダルシアあたりでそのようなパエリャを食べたこともありますが、本場バレンシア地方では芯の残ったものは炊き方が悪いとして嫌われます。また鍋の底にソカラット(socarrat)と呼ばれる、香ばしいお焦げを作ることが重要とされています。
4.バレンシアオレンジ
オレンジの原産地はインド・ヒマラヤ山麓東部からアッサム地方と言われています。この地方の野生のミカンが約4000年前中国南部に伝わり、2世紀ごろイスラエルをへてローマや北アフリカに持ち込まれました。8世紀頃にはイスラム教徒によってイベリア半島に持ち込まれ、19世紀には米カリフォルニアに持ち込まれますが、それらの中から突然変異で新しいオレンジが生まれ、それを栽培していた農民が、バレンシア出身であったことから、バレンシアオレンジと名付けられたそうです。
バレンシアオレンジの起源には諸説あり、大航海時代の15世紀ごろ、ポルトガル人によって中国からイベリア半島に持ち込まれたとの説もありますが、以下の名前の語源を見ると、上記の説がもっともらしい気がします。
名前の語源はサンスクリット語のナガルンガで、これがペルシャ語のナラング、アラビア語のナラーンジャとなり、イベリア半島で現在のスペイン語の「オレンジ」を意味する “naranja(ナランハ)” となりました。英語の “orange” は、フランス語で「黄金」を意味する接頭語 “or” が付けられた “orange(オランジュ)” から来ています。
新鮮でおいしいオレンジジュースを1つ飲みたい場合は、“Un zumo de naranja, por favor.(スーモ・デ・ナランハ ポルファヴォール)” と注文してください。その場で絞ってくれます。「ジュース」を意味するスペイン語は “zumo” の他に “jugo(フーゴ)” がありますが、こちらは加工ジュースですから、気を付けてください。
ちなみに街中にはたくさんオレンジの木があり、美しい黄金のオレンジがたわわに実ってますが、これは観賞用で畑のオレンジと違って苦くて食べられないそうです。
5.バレンシアの歴史
バレンシアは紀元前138年、ローマによって植民都市として建設され、土地はローマ皇帝のために戦った兵士達に与えられました。その後バレンシアはセルトリウス戦争(BC80-BC72)で反ローマ勢力であるセルトリウス(BC123-BC72)を支持したため、ローマによって破壊されてしまいます。1世紀になってバレンシアは復活しますが、主要都市となったのは、その地域の首都であったサグント(Sagunt(バレンシア語)、Sagunto(スペイン語))が破壊された3世紀でした。5世紀には西ゴートの支配下となり、718年にはイベリア半島から侵入したイスラム教徒に占領されます。彼らはその後5世紀に渡ってバレンシアを支配し、11世紀には街を取り囲む市壁を造ります。この時人口は約1万5千人に増加していました。11世紀末、バレンシアはカスティーリャ王国の貴族、エル・シッド(El Cid, 1045-1099)によって奪還されますが、彼の死後再びイスラム教徒の支配下に落ちます。1238年アラゴン王ハイメ1世(Jaime I, 1208-1276)はイスラム教徒を打ち破り、住居をバルセロナからの新しい居住者に与え、イスラム教徒を郊外に追いやります。市壁外に市場を造り、市内に教会を建設しました。しかし、彼はイスラム教徒を迫害することはありませんでした。14世紀には公共穀物貯蔵庫:エル・アルムディン(El Almudin)が建設され、新しい市壁の建設がはじまりました。1498年には大学が設立され、ラ・ロンハなどの公共建築物が造られました。15~16世紀、バレンシアは地中海で重要な都市であり、ボルジア家は2人のローマ教皇:カリトゥス3世(Calixtus III, 1378-1458)、アレクサンデル6世(Aleexander VI)を排出します。17世紀後半、バレンシアは修道院の街として知られるようになり、41の修道院が造られました。19世紀初めにはナポレオン軍に占領され、王宮や多くの建物が破壊されましたが、幸い彼らは短期間で撤退することになります。1864年には、街を拡張するため、市壁が取り壊されます。スペイン陸軍が共和国政府に対して起こしたクーデターに始まるスペイン内戦(1936-1939)で共和国政府はバレンシアを臨時の首都としますが反乱軍に敗れ、フランコ独裁政権(1939-1975)がスタートします。フランコの死後民主化が進み、1982年にはバレンシア州が自治州として成立しました。19世紀末から20世紀にかけて街は海側へと拡張されました。1957年には市内を流れるトゥリア川(Riu Turia(バレンシア語)、Rio Turia(スペイン語)が大洪水を起こし、その再発を防ぐため、川の位置が市の南に変更され、川の跡地は広大な公園になっており、1996年には芸術科学都市も造られています。21世紀に入ってからもバレンシアは国際都市であり続け、多くの企業や大学の本拠地となっています。また、重要な農業センターであり、大規模港湾を有し、重要な経済センターとなっています。
6.サンタ・マリア大聖堂(ヴァレンシア大聖堂(Catedral de Santa María de Valencia))
最初の大聖堂は6世紀のローマ-西ゴート時代まで遡りますが、残されているのは建物のごく一部です。イスラム教徒支配下の8世紀には、この地にモスクが建設されました。1238年、イスラム教徒からバレンシアを奪還したアラゴン王ハイメ1世(Jaime I, 1208-1276)は、アラゴン連合王国(Corona d’Arago(スペイン語))の1つとなるバレンシア王国を建設し、この地に聖母マリアに捧げる大聖堂の建設を命じました。1262年、アルバラト(Albarat)の司教で修道士のアンドレス(Andres)が、現ゴシック様式大聖堂の最初の石を置きました。建設は最初の建築主任:アルナウ・ヴィダル(Arnau Vidal)によって、ロマネスク様式のアルモイナ門と回廊から始められました。この時から建設は断続的に、異なる時代に渡って進められたため、大聖堂はロマネスク様式からネオクラシック様式まで多くの建築様式が混在しています。鐘楼であるミゲレテの塔(Torre del Miguelete, El Miguelete, Miquelet, or Micalet)は1381~1424年に造られたもので、バロック様式です。1418年の聖ミカエル(バレンシア語、スペイン語:Miguel(ミゲル)、フランス語ではモン・サン=ミシェル( Mont Saint-Michel)のミシェル)の日に祝福を授けられたことからこのような愛称がついています。Miguel+et(e)の形になっていますが、これはバレンシア語で“小さなミカエル”の意味です。1429年、ボルジア(Borja、バレンシア語の発音は“ボルジャ”、スペイン語の発音は“ボルハ”。日本語では通常“ボルジア”と発音されます)家のアルフォンソ・デ・ボルジア(Alfonso de Borja、後のローマ教皇カリトゥス3世(Calixtus III, 1378-1458))がバレンシア司教になって以来、チェーザレ・ボルジア(Cesar Borja(バレンシア語、スペイン語),1475-1507)までこの司教区はボルジア家に受け継がれたため、ボルジア家と縁の深い大聖堂となっています。18~19世紀にかけては2つの大きな改築がなされました。その1つは、ゴシック様式の建物をネオクラシック様式のスタッコ(化粧漆喰)で覆ったことです。但しこのスタッコは1974年に大聖堂の主要部分から除去されています。もう1つは、スペイン内戦で破壊・除去された内陣を、内戦終了後に全く新しい構成で再築したことです。2005年からは、大聖堂を元のゴシック様式に戻す試みが続けられています。
この大聖堂はまた、キリストが最後の晩餐で実際に用いたとされる聖杯が保管されているとのことでも有名です。聖杯とされるものは、ヨーロッパだけでも約200個ありますが、この大聖堂の杯は、2006年、ローマ法王ベネディクト16世(Benedictus PP. XVI(ラテン語))がこれを用いてミサを行ったことから本物とされています。しかし、その後も歴史学者によって研究は続けられており、真偽のほどは定かではありません。最近では2014年にレオン大学の研究者が、2011年にカイロにあるアズハル大学で発見した複数の羊皮紙に書かれた文書から、レオンにあるサン・イシドロ教会(Basilica de San Isidro de Leon)の杯が本物だと発表しています。サンタ・マリア大聖堂の杯は直径15cm、高さ 7 cmのよく磨かれたメノウ製で、紀元前100~50年にアレキサンドリアで作られたものです。現在この杯はパール等の宝石で飾られた取っ手付きの台にのっていますが、この台は10~13世紀に作られたことがわかっています。この杯を大聖堂に持ち込んだのはアルフォンソ5世(Alfonso V(スペイン語)、1396-1458)で、1437年のことです。
7.バレンシアの火祭り
この火祭りはFalles(バレンシア語、ファジェス)またはFallas(スペイン語、ファジャス)と呼ばれますが、日本語ではファリャスと呼ばれることもあるようです。正式名称は ”Las Fallas de San Jose” で、キリストの父が大工であったことから、大工(転じて労働者)の守護聖人となった聖ヨセフ(San Jose)の祝日3月19日を祝う祭りで、毎年3月15日~19日に開催されます。セビリアの春祭り:フェリア・デ・アブリル・デ・セビリア(Feria de Abril de Sevilla(スペイン語、フェリア・デ・アブリル・デ・セビージャ、「セビリアの4月の市」の意)、牛追いで有名なパンプローナのサン・フェルミン祭り(Iruneko Sanferminak(バスク語)、Fiesta de San Fwemin(スペイン語))と並んで、スペインの3大祭りの1つです。もともとは中世に大工たちが、日の短い冬の仕事中に使っていたロウソクを保持する “parot” と呼ばれる木製の厚板を、春が来た時に、暗い冬の労働の終わりを祝って燃やしたことに始まります。その後、彼らは、parotを地方色豊かな個性の持ち主として認識してもらうため、衣服をつけました。これが今日の火祭りの人形ニノッツ(ninots)の前身です。このニノッツの集合体がファジャ(falla)です。このファジャは4日間展示され、投票によって1位になったものだけが博物館に保管され、他は祭りの最終日である聖ヨセフの祝日、3月19日に全て燃やされてしまいます。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
128