2016/01/26 - 2016/01/27
59位(同エリア280件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 168,518アクセス
- フォロワー41人
2015年10月の成田⇔奄美大島便が国内LCC利用の第1弾となりましたが、実はその前に予約してたLCCフライトがありました。はっきりとした記憶はないのですが、多分2015年の8月頃、中国資本の春秋航空が成田→佐賀便を開設するに当たり、特別キャンペーンを開催していたのです。
成田⇔佐賀便 就航記念キャンペーンでワンコイン!
えっ! 九州まで500円で飛べちゃうの? それは行くっきゃないでしょう。ところがです。キャンペーンページに飛んで、フライトを検索してみても、500円なんていう破格値はどこにも見当たりません。一体どこにあるんだろう??? と検索すること数分。
ありましたよ。ありました。5か月も先の行き2016年1月20日、帰り2016年1月27日。たった1便ずつの500円の設定が見つかりました。他のフライトは全て6000円以上なのに、この日のフライトだけ1ケタ確かに少なかった。キラキラッ☆!
考えることなくクリック。スケジュールも翌年の事なのですぐには入れられず。そのまま殆ど忘れかけていたのですが、新しい年のスケジュール帳を用意する頃になって、そう言えば、ポチッとやったわ と思い出し、寒い季節の九州横断の旅の計画を立て始めました。今回の旅は福岡と大分がメイン。予想外の雪で、楽しみにしていた国東半島には行けませんでしたが、のんびり緩い旅程で1週間、例によって知らない街をうろついて参りました。
1/20 東京→成田空港→佐賀空港→吉野ケ里遺跡→久留米
1/21 久留米→柳川→久留米
1/22 久留米→大分
1/23 大分→臼杵→大分
1/24 大分→別府→大分
1/25 大分→別府→大分
1/26★ 大分→日田→久留米
1/27 久留米→佐賀空港→成田空港→東京
今日は4日間滞在した府内(大分市)を発って、佐賀空港に近い久留米の町に戻ります。途中、以前団体旅行で訪れて、「30分」の自由時間を与えられ、歩いた記憶のある日田で途中下車。2日前凍り付くような寒い日に外湯巡りなんてハイカラ?なことをしちゃった私、この日はそのせいか少々風邪気味で調子が出ない1日でした。2日前の雪の残る山間の町は、今日も雪がちらついていました。さて九大本線最後の訪問地。ゆっくりマイペースで歩こうっと!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
昨日、別府からの帰りに駅員に尋ねた時にははっきり決まっていなかった久大本線のダイヤ。今朝になったら、何事もなかったかのように平常に戻っていました。なんだかんだ言っても、私って強運の持ち主なんだと旅の神様に感謝。8:20発のゆふ2号で日田に向かいます。
-
車窓の景色は、雪のない平野部をあっという間に抜けると・・・
-
一面の銀世界。遠くに見えるのは頂上が雲に隠れているけれど、別府の鶴見岳に大平山かしら?
-
この雪の量なら、2日間の運休もやむを得なかったんだと納得しました。JR九州さん 疑ってごめんなさい。九州も、福岡や佐賀等の西側に比べると大分は雪が少ないのですが、山間の多い久大本線は時に豪雪に見舞われるんですね。
-
やがて列車は、国鉄時代恵良線へのジャンクションとして重要拠点だった豊後森駅に停車しました。
-
この駅には経済産業省の近代化産業遺産と国の登録有形文化財ダブルの指定を受けた、旧豊後森機関区の建物が残っており、急いでカメラを向けたのですが、間に合わず。 豊後森機関庫ミュージアムだけを何とか捉えることが出来ました。
英語でRoundhouse Museumと書かれていましたが、このラウンドハウスというのは、前に転車台のある扇形機関庫を指すそうです。京都駅近くの梅小路機関区のような、風情ある機関庫でした。 -
そして10時20分、予定より30分以上遅れて日田に到着。ジャンボ下駄が出迎えてくれました。
下駄のサイズが半端でない! 幅180cm、長さ380cm、高さ75cm。おそらく世界一だということ。日本以外に下駄の文化圏はないから、日本一だとしたら間違いなく世界一ですね。日田名産の杉で作られています。 -
日田駅待合室もご覧の通り、土足で上がるのが躊躇されるような、美しい日田杉が敷かれていました。ここであれば、列車を待つ時間が苦になりません。
夏はものすごく暑く、冬は滅茶苦茶寒い。そんな日田の気候が、非常に柔らかな材質でありながら、強度に優れた杉を生むのだそうですよ。 -
日田駅は外観も素敵! 全体的に濃いグレーの地味な色合いですが、明るい日田杉で枠組みされた出入口部分を際立たせています。2015年(平成27年)3月に改装工事が完了したとのことですから、まだ1年経っていません。
-
早速駅前の観光案内所で地図をゲット。見どころも教えてもらいました。一番の見どころはこのポスターの日田祇園山鉾会館であるようです。
どんよりとした曇り空。時折雪がちらつく中、山鉾会館とは反対方向の日田の観光の中心豆田町に向かいます。 -
知らない街に行くと、まずは目を皿のようにしてマンホールをチェック。普及版の幾何学模様のマンホールを使用している町や市も多いのですが、その町や市独自のマンホールを見ると、親近感が大いに増します。
これは鵜飼ですね。岐阜の長良川以外にも鵜飼の名所があるんだと初めて知りました。日田の鵜飼は1966年(昭和41年)に大分県の無形民族文化財の指定を受けています。 -
こちらは後刻豆田町で見かけたミニマンホール。上のマンホールの右側の鵜だけをピックアップしたヴァージョンのように見えます。
-
豆田町は地図のピンク色部分で日田の中心部、江戸時代初期に築かれた城下町です。南北2筋、東西5筋の通りから成る小さな町ですが、関ケ原以降に入封した石川家が下総国佐倉に移封になった後の1639年(寛永16年)には幕府の天領となり、九州北部の交通の要所を生かした商業や、花月川(筑後川の支流)の水運業やで大いに栄えました。
豆田町には江戸時代の商家や土蔵が数多く残っており、町並みがそっくり保存されています。10年ほど前に30分だけ歩いて感銘を受けた町なのですが、どうも記憶が曖昧。誰かに連れて来てもらうと、町の印象は唐突に始まって、前後が切れた状態。自分で調べて苦労してたどり着くと、そこに至るまでの道程も旅の一部になります。 -
というわけで、今回の日田の散策は、駅から久大本線沿いに西に歩いたところにある咸宜園(かんぎえん)から始めます。
こちらの門から入ろうとしましたが、鍵がかかっていました。 -
木の塀沿いにぐるっと回ってみます。どこから入るのでしょう? この建物が咸宜園?
-
少々離れてしまいましたが、先ほどの咸宜園と思しき建物に続く公園?から中に入ることが出来ました。他にも何棟か建物が建っています。どこから見れば良いのかわからず躊躇していると、写真とは反対側にある建物から人が出て来て、周り方を教えてくださいました。後で調べたら、その建物は咸宜園に関する調査研究を行う施設 教育研究センターでした。
-
咸宜園は、江戸時代末期の思想家広瀬淡窓によって1805年(文化2年)に作られた全寮制の私塾で、当時の日本では最も規模の大きな学校でした。最盛期には230人もの塾生が学び、卒業生は4800人にも及んだとのこと。
咸宜とは、「咸く宜し」(ことごとくよろし)という意味で、塾生一人一人が個性と意思を発揮する場となるよう、淡窓が願ったことからつけられた名前だそうです。
現存する建物はわずかで、左側に見える1849年(嘉永2年)に移築された遠思楼と、その右奥に見える秋風庵 のみ。秋風庵は1781年(天明元年)に建築された淡窓の住居で、淡窓はここで亡くなりました。主要建物であった東塾、西塾の塾舎は明治、大正時代に撤去されています。 -
淡窓67歳の時に書斎としてここに移築された二階建ての建物遠思楼の急な階段です。
淡窓はこの建物をとても気に入っていて、2階部分で思索にふけったり、門弟や知人たちと詩会を催したり、小宴を楽しんだりしたようです。 -
そしてこちらの秋風庵。先ほど門から入れなかった建物です。「あかあかと日はつれなく秋の風」という芭蕉の句から命名されたそうです。
-
玄関が開いていて、内部を見学できるようでしたが、寒さ故靴を脱ぐのがためらわれ、外から見学することにしました。
また雪交じりの雨が降りだしました。寒いよ~ -
壁に貼ってあった塾の教科および塾生に関する資料には興味津々。
咸宜園出身者で、後に「世に名をはせし人々」の中には高野長英、大村益次郎等々そうそうたる顔ぶれが! 高野長英は蘭学者として著名ですが、岩手県水沢藩の出身。家族の反対を押し切りはるばる長崎までやって来て蘭学を学んだ後、豊後の国まで足を伸ばしたんですね! 大村益次郎は長州藩の出身。医師、西洋学者であり、日本陸軍の創始者でもあります。靖国神社に銅像がありますね。 -
こちらは秋風庵の台所です。頑丈そうなかまどは高い位置に作られていて、調理がしやすそうに思いました。
-
表に出て見つけたこの井戸も咸宜園時代の遺構です。東塾井戸と呼ばれていました。ほぼ当時の面影を残しているそうです。
士農工商関係なく、実力主義で人を育んだ私塾は、入塾すると身分、年齢、学歴が反故にされたと言います。数は少なかったものの女性もいたと聞きました。天領であればこその自由な気風の賜物でしょうか。今まで訪れた藩校とは明らかに異なる淡窓の私塾。今までその存在を全く知らなかったことを恥じる思いでした。 -
咸宜園跡を過ぎてすぐ左手にあった淡窓不動尊 明王寺です。最初「淡窓」と聞いて、広瀬淡窓と関係があるのかしらと思ったのですが、淡窓はこの地の地名にもなっていたことからついた名前でした。
四国霊場88箇所を参拝したことにより、病気が治癒した人からの寄付で1888年(明治21年)に建立された、真言宗醍醐派の寺です。本堂に向かって左手に沢山の石仏が見えていました。 -
寺の前の道をなおも進んでいくと、右手にあったのが小鹿田焼(おんたやき)の店大原。小鹿田焼は日田の生んだ優れた焼き物で、バーナード・リーチが紹介して全国に知られるようになりました。
-
うなぎで有名な「いた屋本家」は本日定休日でした。あら残念。
-
豆田町の中心に近づいてきて、家並みがそれらしくなってきましたよ。城下町特有のクランクに差し掛かりました。ここからが豆田みゆき通り。
-
左側に見えるなまこ壁の大きな建物は、国指定の重要文化財となっている「草野家住宅」。製蝋業を主として酒造業、掛屋(幕府や諸藩の公金出納を扱った商人)、庄屋などを代々務めた名家で、元禄時代の建築です。
-
こちらが正面から見た草野家 そのパート1。今の時期はご覧の通りのさびしい有様でしたが、年4回、雛祭り、端午の節句、祇園祭、天領祭の時期に一般公開されるようです。
水色の壁というのは不思議な感じですねえ。 -
こちらがパート2。常に誰かが使っていないと、家としての輝きを失ってしまうと思ったのは気のせいかしら?
-
草野家の対面には、漆芸工房、和菓子屋、雑貨屋などが入った長屋、そして右端に日田杉で作られた下駄を売っているお店がありました。
この南北を貫く2本の通りと・・・ -
東西を結ぶ5本の小路(石畳になっています)が、豆田町の全て。本当に小さな城下町です。
-
日本全国どこもかしこも判で押したように「おひなまつり」。いささか食傷気味ではありますが、その土地特有の雛人形を愛でる楽しみは残されています。
この年(2016年)、日田のお雛祭りは、2月15日から3月いっぱいでしたので、まだ始まっていませんでした。 -
草野家の並びに「天領日田資料館」があったので、ここで勉強していきましょう。
結果としては、うーん。残念ながら、掛屋を中心とした町人文化が花開いた日田の歴史についてはあまり解説がなく、分からなかったなあ。ただものや書類を展示するより、解説を充実させていただきたいなと思いました。 -
天領日田資料館から数軒先にあったのは、市山亭懐古館(しざんていかいこかん)。江戸時代から続いた料亭をそのまま生かした資料館とありましたが、料亭を訪れた文人墨客たちの写真や彼らの使った食器、茶碗を見てもなあ・・・と入場しませんでした。
後で元オーナーの個人的な趣味で、かなりきわどい春画のコレクションがあったと聞きましたので、興味のおありの方はどうぞ。 -
気が付けば、もうお昼の12時を回っていたので、市山亭懐古館の向かいにあった手造りおはぎ 田舎庵で昼食をとることにしました。
臼杵以来、ぜんざいを見るとなびきます。 -
まずは肉そばととろろご飯のセット。ボリュームたっぷり!
寒いから、温かいお蕎麦で良かったぁ。 -
ぜんざいのデザート付きです。てへへ・・・
-
田舎庵の前から、来た方向を振り返った1枚。電信柱がなくて、すっきりした通りです。
-
そして反対側。蔵造りの町並みが続きます。満腹になったところで、さあ頑張って歩きましょう。
-
化粧品、小物雑貨のお店水田屋。2階の窓枠の漆喰装飾が新鮮でした。西洋風な丸みを付けた窓枠は珍しいですね。鬼瓦も迫力あり。1882年( 明治15年)建立。
-
看板が出ていないけれど、水田金物屋かな? 2階の波と千鳥の鏝絵いいですねえ。江戸後期の建物です。
-
靴の北川屋は1889年(明治22年)の建物。木製の看板に歴史を感じます。
-
木下酒店は1898年(明治31年)建立。以前この町にやってきた時に薫長という醸造所を見学したなあ。「薫長」という文字を見て、一気に記憶が蘇りました。
-
蕎麦酒處 麦屋。ここにもお蕎麦屋さんありました。日田の里というギャラリーを通り抜けた奥の土蔵が蕎麦屋になっていて、まあ素敵。食べちゃったから仕方ないけれど、ここまで我慢すればよかったかしら?
-
数軒先の梅干しのお店。壁一面に描かれた鏝絵に見入ってしまいました。左側に波と飛び跳ねた魚。右側には魚を銜えた鵜、2階の窓の上には菖蒲の花が描かれていました。
-
花月川に突き当たり、右に折れたところで、
おっ! 「酒は薫長」と書かれた煙突発見。
その手前に酒蔵博物館。前に訪れた場所に戻って参りました。なんだかとても懐かしい。 -
煙出しのある屋根が特徴的な建物の脇を通って、正面に廻ると・・・
-
着いたぁ~
ここです。ここです。前に見学に来たのは。薫長醸造元 酒蔵資料館。ただ今~ という気分になりましたって大げさかなあ・・・ -
折角なので、もう一度見学しましょうか。
あれ~??? 薫長酒造の見取り図を見て、なんだかおかしいことに気が付きました。煙出し付き屋根の真四角な建物が右下にありますが、先ほど川沿いに建物の脇を歩いてきた道がこの図にはありません。川沿いにはびっしりと家が建ち並んでいます。車が走っているから、そんなに昔の図とは思えないのですが、一体いつ頃の図なのでしょう?
川と平行して建つ奥の2棟は、1702年(元禄15年)から1826年(文政9年)に建てられた江戸時代の建物。他は明治、大正に建てられましたが、いずれも建て替えられることなく全て現役なのだそうです。凄ーい! -
日田の祇園山鉾を描いた絵に注目しました。絵の後ろの飾り物は山鉾の物かしら? 空中楼閣を見るのは初めて。珍しい・・・
-
1826年(文政9年)に建てられた酒蔵の2階の資料館をささぁ~と見学。急な階段を上っていくと、屋根裏のような場所で天井低~い。
泡盛や紹興酒の醸造所のようなかめが沢山並んでいました。日本酒にも使ったのかしら? -
こちらは味わい深い色をした桶。立派なタガがついています。タガが外れるとよく言いますが、この桶見ていると意味が良く分かるなあ。
当方ずっとタガが外れっぱなしで、バラバラになった木片を見てはため息をついている人生でございます。 -
桶の一つに、酒蔵の祝日が記されていました。これは伝統的な江戸時代からのめでたい日。一つ一つ読んでいくと、なーる程と納得させられます。
-
ずらりと並んだ酒の徳利、お銚子、杯、酒燗器などなど。こんなの、前に見たっけ?
蔵と蔵元ショップ を回ってみたけれど、どこも記憶なし。まっ そんなもんです。 -
酒蔵から出て、再度入口の建物を眺めます。この建物だけいつの建造だか書いていないので、きっと新しいのでしょう。和洋折衷で、大きな窓と窓枠が大変モダン。庇の下の支えのような装飾もなかなか凝っています。
また降ってきたわ。雪。 -
1枚に収められなかったので、その先の建物を別に撮りました。火災除けのうだつが上がっています。
さあ、ここからは、豆田町もう一本のメインストリート豆田上町通りを歩きますよ。 -
店舗はそう古くないけれど、現在の店主は6代目という、江戸時代(慶応元年)から続く和菓子屋旭饅頭を横目に見ながら進んでいくと、
-
九州最古の浄土真宗の寺長福寺がありました。門前には「祝 日本遺産認定 近代日本の教育遺産群 長福寺本堂」という看板が。
1584年(天正12年)に武内山城守により開山。本堂は1669年(寛文9年)に建造開始されたという歴史ある寺と書かれていたので、覗いて行こうと思ったのですが、山門に通せんぼがあって入れません。 -
工事中なのかな? 横道から入れそうでしたが、写真1枚だけ写し、遠慮しておきました。障子張りの本堂の周りをぐるりと取り囲むような白い外陣壁が目を惹きました。江戸時代初期の様式を今に伝えているそうです。
-
東西の小路油屋町を通り過ぎると、右手に「天領まちの駅」の駐車場が見えてきました。あいにくのお天気で今日は車もほとんど止まっていません。
-
町の駅と通りを挟んだ向かいに、大変目立つ建物「岩尾薬舗」が軒を並べていました。
-
江戸時代から昭和初期にかけて、何度も建て増し、改築されたこちらの建物は国の登録有形文化財に指定されていました。店の15代主の岩尾昭太郎が1887年(明治20年)、日本丸(にほんがん)という丸薬の製造に成功し、その後販路を国内外に広めたことから、この建物は日本丸館(にほんがんかん)と呼ばれています。3階に展望楼がありますねえ。
-
天領日田というと、真っ先に思い浮かべるのがミネラルウォーターではありませんか?
天然水を飲んでみたかったのに、なぜか囲いが。これでは飲めませんねえ・・・ -
雪交じりの雨は降るし、寒いしで、やはりいつものようには楽しめません。豆田上町通りも人通り少なくて、寂しげでしょう。
-
横道と出会う地点に「とまって」と日田の下駄マークが。なかなか良いアイディアですねえ。
-
いつの間にか、上町通りの終点まで歩いていました。最後のお店は串揚げで評価の高いじーわん。写真の白い蔵造り2階屋です。
-
これ以上歩いても、あまり変わり映えしないようだったので、横道に逸れてみました。漆喰の蔵造りの家並みが続きます。絶えず手入れを行っているから、この白さが保てるのでしょうね。暗い縦板の色と白の絶妙なコントラスト。目に染みます。
-
気が付いたら、また草野本家前まで戻っていました。ショーウインドウの中はお雛様。外には七福神。お正月と桃の節句が同居しています。
-
東西を結ぶ小路立町通りには、うだつの上がった町並みが続きます。ここが咸宜園の主 広瀬淡窓の生家です。今は彼の遺品、著書類および当時の生活用品等を集めた「広瀬資料館」となっています。
-
入口の左側が母屋。奥に蔵が二つ。1号館と書かれた蔵の裏にもう一つ2号館となっている蔵があります。広瀬家の財を決定的にしたのが、淡窓の弟で家督を継いだ久兵衛。淡窓の影響を受け、私利私欲に走らず、商人達の結束を図り、日田の繁栄を築いた人と言われています。
とはいえ、久兵衛も幕府の後ろ盾により、とりっぱぐれのなかった日田金(ひだがね)と呼ばれる金を大名を中心に貸し付けを行った、いわゆる掛屋商人の一人。兄淡窓の塾をバックアップするのには十分な金を稼いでいたのでしょうね。
今となっては信じられませんが、日田が九州の産業、交通、そして金融の中心地だった時代があったことを再認識しました。蛇足ですが、四国の交通の要衝で、藍の集積場にもなっていた脇町とも類似点があるように思いました。 -
お次は住吉町通り。表通りから裏道に入ると、途端に足元が悪くなります。滑らないように気を付けながら歩いていくと、道の向こうに3階建ての塔のような建物が出現!
1階と3階は和風だけれど、2階は洋風、もしくは擬洋風です。こちらは旧船津歯科医院。開業医のお宅で古い建物って結構残っていますねえ。 -
元はと言えば1914年(大正3年)に建てられた長屋の一棟を1928年(昭和3年)に改装して洋風の2階を建て増し。更に戦時中の1943年(昭和18年)に3階部分を増築したとのこと。
いささかひどい写真ですが、なぜかこの1枚しか撮っていないのであしからず。2階の壁が気になりますが、モルタルを凸凹状に吹き付けしたドイツ壁なのだそうです。窓の格子も美しいですね。
2010年(平成22年)に所有者が市に寄贈したため、現在は市所有となっています。私が訪問した当時はまだ公開されていませんでしたが、歴史交流館としてオープンすると伝え聞きました。 -
歯医者さんのお向かいは、落ち着いた雰囲気のレストラン秋子想(ときこそう)。築200年の酒蔵を改装したお店だそうで、欧州懐石が大変好評です。誰かと語らいあいながらのランチなら、ここが一番お勧め。
-
こうした水路が張り巡らされているところは、柳川を彷彿させます。
-
雪が積もっていなければ、絶対歩いたんだけれどね・・・
豆田町。まだまだ見逃したところはありそうだけれど、二つの南北の通りと五つの東西の小路はくまなく歩きましたよ。そろそろお暇 というわけで次参ります。 -
そう言えば、大分はどんこも有名でしたね・・・
-
豆田町から、久大本線の南側にある隈町へ。元は日隈城の城下町でした。
こちらは途中にあった妙栄寺。日蓮宗のお寺です。 -
居酒屋さん「味坊主」前に架かっていた看板
素材厳選 腕二流
味と満足を売る店
堂々と腕二流を誇るところがいいねえ・・・
とありました。腕二流でも味一流なら大いに結構! -
豆田町から歩いて20分弱。ようやく日田祇園山鉾会館に到着です。
豆田町は豪商の町という印象が強かったのですが、実は豪商が役人代わりを務める「役所の町」。それに引き換え、隈町はもっと庶民的な「商人の町」だったようです。町の南側を流れる三隈川を利用した水運業も盛んでした。 -
日田の祇園山鉾祭りは京都の祇園祭をモデルとした、いわゆる山車(ここでは山鉾)による曳山巡行をメインとしたお祭りで、300年の歴史を誇ります。看板にも三百年という文字が見えますね。
-
祇園山鉾祭りの元となる神社がこちら。山鉾会館の目の前にあります。
かつては日隈城の中にあったという八坂神社。その神社が日隈城の廃城と共にここ隈町に移されたのをきっかけに厄除け神事としてこのお祭りが行われるようになったのだそうですよ。 -
中に入るとさっそう現れましたよ。2階の天井にくっつきそうな大きな山鉾が4台!
全国の山鉾、山車、山笠、屋台と呼ばれるものを見て参りましたが、皆それぞれ特徴があって、興味深いですね。ウキウキ気分になります。
早速薫長酒造で見かけた空中楼閣?を見つけましたよ。山鉾は一つ一つテーマを持って作られていて、向かって右端は「本朝廿四孝奥庭狐火の場」とありました。
「本朝廿四孝」とは享保年間の浄瑠璃作家近松半二の書いた浄瑠璃で、信玄と謙信の確執が素材になっています。そのクライマックスが諏訪湖の白狐伝説。左手に狐憑きとなった八重垣姫の姿がありますね。 -
中央の二台は、右側が「土蜘蛛葛城山の場」。左側が「寿曽我対面」。
「土蜘蛛葛城山」は、弘前のねぷたでもありました。女性に化けた土蜘蛛が源頼光を毒殺しようとする話だと記憶しています。同じ題材でも山車によってこうも違うという見本を見ているようです。
「寿曽我対面」は曽我兄弟による敵討ちの話。
どちらも空中楼閣?(なんて呼ぶのでしょう?)があり、清水のような舞台の上に人形が舞っている。そして背後に三重塔や塔屋が聳えていますね。 -
向かって左側は「甲越川中島合戦」。これは説明不要でしょう。
江戸時代には10mを越えていた山鉾は、ここでも明治になると電線が邪魔になり、大幅に低くなりました。近年、電線の地中化、電線の高架化等により、少しずつ高さを取り戻しつつあるらしいですよ。 -
イチオシ
こちらの模型は、実物の五分の一のサイズで作られた「模型山鉾」です。江戸の文化・文政期、それぞれの町内が高さを競いあって作っていた頃には20mを越えていた山鉾が、1900年(明治33年)町内に張り巡らされた電灯線のために、ついに巡行中止に追い込まれてしまいます。1903年、後世の人々に山鉾の勇姿を伝えたいと、隈町の旧家の主が作らせたのがこちらの精巧な模型だと説明板にありました。
五所川原の立佞武多の最大のものが、やはり20mありましたから、ほぼ同じ高さ。複雑に重なりあって上に伸びていく舞台(私の言う空中楼閣)が誠に優美で、うっとりしてしまいました。 -
日田の祇園祭で、もう一つ忘れてならないのが、山鉾の後ろに垂らす「見送り幕」。
赤い布地に金糸などを使って、獅子や龍、猛者などが刺繍されています。豪華絢爛です。 -
こちらは、旗でしょうか。見送り幕、水引幕塔とお揃いの赤地で作られています。天の四方の方角を司る四神が全部揃っていました。
東の「青龍」 -
南の「朱雀」に
-
ボケてしまいましたが、北の「玄武」。亀に巻き付いた蛇・・・ではなく、蛇に巻き付かれた亀ですかね。
-
一番気に入ったのはこちら 西の「白虎」。顔が小さく、猫のようにも見えますが、眼光鋭いですよ。
この祇園山鉾会館。天井が高くて暖房があまり入っていないので寒いんです。ずっと座りっぱなしの係の方も大変だなあと思って見ると、アーラ偶然、私が家で愛用している電気ストーブと同じものを使っていらっしゃるではないですか。「このストーブ、見かけより暖かいんですよね」なんて話をしながら、隈町の事を色々聞いてしまいました。一旦おしゃべりしだすと止まりません。 -
さーて、これからどうしましょう。隈町の情報はあまり持っていないのですが、もう少しだけぷらぷらしましょうか。
-
山鉾会館前の道をそのまま南に進むと、マルマタ醤油の三連の蔵が見えました。1859年(安政6年)創業の醤油・味噌醸造所です。ずっと壁ばかりが続くので、こちらの道には入口ないのかしら? と思っていたら・・・
-
地味な入口がその先にありました。創業者の合原(ごうばる)又七郎の又にちなんで、〇に又が商標です。
右側にある、ややぐったりめの雪だるま味がありますねえ。 -
いろんなもの、並べてみました。恵比寿様の唇と鯛だけ赤く塗られているのが不気味だなあ・・・
-
マルマタ醤油の先の角を左に曲がって、暫く行ったら、また醤油屋さんがありましたよ。
-
原次郎左衛門の味噌・醤油蔵です。こちらは1899年(明治32年)創業で、現在4代目主が「美味しい」「不易流行」という2つの理念の元、世界に通用する醤油の創作に余念がありません。
-
銘木店。流石日田ですねえ・・・
-
真宗大谷派のお寺廣圓寺。立派な石橋に続き山門がありましたが、門を閉ざしていました。
-
隈町で3軒目の醤油屋さん 計屋(ハカリヤ)醤油。ここは醸造元ではなさそうですが、ガラス戸に書かれた文字に見とれて1枚。
-
やがて、筑後川の上流三隈川岸までやって参りました。今、下流の方を見ながら立っています。「上流」とはいえ、もうこんなに幅広い川になっていたんですね。
古くから日田杉を始めとする木材の集積地で、筏流しが行われていました。
前の橋の奥、灰色の建物の背後にこんもりとした緑(瓶山公園)が見えますが、豆田町を流れていた花月川とはあの辺りで合流します。 -
川岸に沢山の屋形船が見えてきました。日田では、夏の暑さが大変厳しいために、古くから夏の間には屋形船に乗って涼をとる習慣が生まれたのだそうです。町で最初に見かけたマンホールの図案にあった鵜飼も、そんな三隈川の風物詩の一つだったんですね。
-
写真には写っていないけれど、川を渡って先の高瀬本町は、昔ながらの材木の町、製材所が並んでいました。
材木を川に流す運搬は、1950年代を最後に行われなくなりましたが、隈町の歴史を肌で感じる町並みを歩いて、先ほど渡った三隈大橋から見えていた、一つ下流の橋 銭淵橋に向かいます。 -
帰る頃になってようやく晴れ間がのぞいてきました。
三隈川の中にも、雲の中にお日様が顔を覗かせています。 -
銭淵橋を渡ったら、今度は左に折れて、日田の温泉街を歩いてみます。日田は温泉が湧くことでも有名。温泉に入って、屋形船に乗って、鵜飼を見て、花火を愛でる。確かに最高の贅沢かもしれません。
写真の建物前には、日田代官御用達の旧家 という看板が立っていました。 -
この先、よろづや、亀山亭、山陽館と旅館が続きます。
-
レトロな雰囲気の和菓子屋さん発見。そば饅頭とカステラの老舗「中村家」です。大きな看板、味わい深いです。
-
中村家の角を右に曲がったら、先ほど歩いた原次郎左衛門の味噌・醤油蔵に戻って来てしまいました。
駆け足になってしまいましたが、最後の方は体調やや悪く、疲れがたまっていると判断したので、早めに(といっても16時ですが、)最終目的地久留米に向かうことにしました。 -
久留米では、いつもの東横インでまったり。早めに夕飯食べて、なんと12時間も寝てしまい、目が覚めたら朝でした。(@_@)!
睡眠をたっぷりとったら、体調完全復活。よっしゃぁ~!!! -
最終日は午前中空いているので、久留米の生んだ産業人 ブリヂストン創業者の石橋正二郎が久留米市に寄贈した石橋文化センターを訪れます。
旅2日目に見たカラーマンホールとは違うヴァージョン発見しましたよ。こちらは、耳納(みのう)連山と久留米つつじ、そして筑後川の揃い組。 -
石橋文化センターの中心はなんといっても、世界的美術収集家でもあった石橋正二郎のコレクションを中心とした石橋美術館です。
2016年の秋、石橋美術館は50年の歴史に幕を閉じ、その後は美術館運営母体を久留米市に移し、市の美術館として再出発すると聞きました。ということは、今回が最初で最後の石橋美術館訪問となります。 -
美術館では、待望の青木繁 「海の幸」、藤島武二 「天平の面影」、坂本繁二郎 「放牧三馬」を見ることが出来ましたが、勿論撮影禁止なので、写真はありません。
久留米市立美術館となる段階で、これらは東京のブリジストン美術館に移管されるので、待っていればそのうち東京で見られることになるのですが、上記の三人の内、藤島は鹿児島人ですが、青木と坂本は久留米生まれ。郷土の生んだ偉大な画家の絵が東京に行ってしまうというのは、久留米の人達にとって、寂しすぎるのではと、複雑な気持ちになりました。
写真は訪問当時、石橋美術館本館と呼ばれていましたが、現在は久留米市美術館になっています。 -
美術館別館と噴水池を挟んで、反対側には久留米市立図書館が、同じような色調で向かい合っていました。
-
まだ少し時間があるので、文化センター内の庭園を歩きます。美術館を中心に、池や森が続く、都会のオアシスです。
池を回って反対側に出ると、ツバキ園に出ました。2010年に久留米市で開催された国際ツバキ会議(そんなものがあるんだ!)において、国際優秀ツバキ園にも認定されたという立派なツバキ園でした。ツバキにもこんなに種類があるとは驚きで、久留米、園芸品種実生、香り、日本、世界とゾーンごとに様々なツバキが楽しめます。盛りは3月のようで、ちょっとまだ早かった。 -
ボケてしまいましたが、春風(しゅんぷう)という一重のツバキは新潟原産。こんな色のツバキ、初めて見ました。
-
イチオシ
そして、久留米原産の、まことに艶やかなツバキ福炎(ふくえん)。八重牡丹咲きで、大輪です。ツバキのイメージがすっかり変わってしまいました。
冬のさ中から楽しめる石橋文化センターのツバキ園。お勧めです。 -
ツバキ園の先にあったのが、坂本繁二郎の旧アトリエです。坂本は青木茂の2歳年下。青木の影響を受け上京し、二期会の創立にも参加しました。
1921年(大正10年)にはフランスに渡り、明るい光の自然に驚き、大いに影響を受けて帰国。1924年に郷里に戻ってから、八女にアトリエを建て、終生この地で制作を続けました。 -
このアトリエは、八女市から1980年(昭和55年)に移設されたもの。
一見、アトリエとは感じませんが・・・ -
表に廻ると、ほらっ ご覧の通り。太陽がさんさんと差し込むよう、窓が大きく取られています。
坂本繁二郎の馬、静物、能面等のシリーズものは、このアトリエで生まれたものだそうですよ。イベントの時以外は入場できないようでした。 -
石橋正二郎は、ブリジストンが順調に業務を拡大していく一方、空襲で市街の三分の二を焼失した故郷久留米に心を痛め、欧州で視察して感銘を受けた文化的施設と公園の建設を決意。自ら設計に加わって、1956年(昭和31年)に会社発祥の地である久留米市に建設寄贈したのです。
当初は美術館(石橋美術館)、体育館(現在は図書館)、50メートルプール、野外音楽堂、公園施設などが作られましたが、後年、音楽(文化)ホールと日本庭園が加わりました。 -
それから半世紀。誰もが自由に出入りできる日本庭園は、しっとり、落ち着いた雰囲気の癒しの場として、まさに都会のオアシス的存在。これほどの規模の庭園を含む文化施設を一企業が寄贈するというのは、他にあまり例がないのではないでしょうか?
-
竹林を見上げたり・・・
-
梅林を回ったりしながら、スローテンポの散策を楽しみました。今日はせかせか歩かなくても他に予定はありません。
-
見上げれば、数輪の早咲きの梅。
-
赤いのも見っけ!
-
飛び石を行けば・・・
-
こんな小さな滝にも出会えますよ。
-
ほとめきの町久留米。ほとめきとは筑後地方の方言で「おもてなし」の意味だそうです。
その久留米に寄贈された旨を記した碑が、正門に日本語と英語で書かれていました。 -
反対側には石橋正二郎自身の筆跡で「世の人々と幸福のために」という言葉がこちらも二か国語で刻まれていました。石橋の理念は生涯変わらなかったそうです。
-
さあ、思いがけず手に入れたワンコイン航空券を元に、1週間に渡り歩き続けた旅もそろそろお終い。西鉄久留米駅まで戻って参りました。帰りはここから佐賀国際空港まで乗り合いタクシーを利用します。前日までに予約が必要ですが、便に合わせた時間を指定してくれるのでとても楽です。所用時間50分で1000円でした。
-
空港に行くときに通った国道264号線の豆津橋から見た筑後川です。
-
この先、空港への道はほぼ筑後川に沿っていました。佐賀国際空港と筑後川の河口は1kmも離れていなかったことに気がつきました。筑後川の河口にある大きな中洲の北半分が福岡県、南半分が佐賀県。県境にもなっていたんですね。
-
30分ほどで空港到着です。
-
空港ビルに入ってみると、来るときには、もちろんなかった大関琴奨菊の優勝を称える横断幕が目につきました。
-
それからこちらの佐賀国際空港スタートの大きな幕。2016年1月16日スタートだとすると、私は国際空港開港早々に利用したことになるんですね。
-
帰り14:05発春秋航空です。シートは指定すれば追加料金掛かるので、あくまでも500円にこだわって航空会社の仰せの通りにいたしましたが、行きは通路側、帰りは窓側。行きも帰りも真ん中の席だったバニラ・エアと比べて断然評価高いです。
前のシートとの間隔も文句ありません。行きも帰りもワンコインのみで、1週間も滞在した暇人は、あまりいないのではないかなあ・・・交通費はもちろんのこと、滞在費も安めに上がったので、本当にお財布に優しい旅となりました。でも思い出だけはてんこ盛りです。 -
ここからはおまけ。離陸した途端、そこは有明海のど真ん中でした。行きに、佐賀の吉野ケ里遺跡まで運んでくれたタクシーの運転手さんが、「昨年の有明海の海苔は豊作だったんですよ。」と話していたのを思い出してしまいました。
凄~い! 一面に海苔の養殖場が広がっています。 -
ムツゴロウが飛び跳ねているような泥の海がどこまでも続くと想像していたのですが、全く印象が異なりました。
-
イチオシ
海苔づくりは冬場の今がピーク。海苔は寒い冬の海で次第に成長していき、海苔芽が15cm~20cmに育つ頃に収穫を行います。海水温度が20度以下でないと育たないそうなので、温暖化は海苔づくりに深刻な影響を与えてしまいます。
幾何学模様が合わさって生まれた大海原の芸術作品に酔いしれました。 -
西の空が夕焼けに染まる16時半頃、大きな川の上空を通過しました。成田に到着する直前だったから、利根川かしら? これまた贅沢な眺めです。
いつもは通路側専門でしたが、お天気が良かったので、外の景色を思いのほか楽しむことが出来ました。きっかけは「片道500円」から始まった佐賀への1週間の旅。今回もまた「私らしい旅」になってしまいましたね。長々とお付き合いいただきありがとうございました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
日田(大分) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
140