2016/04/03 - 2016/04/03
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junemayさん
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広島県には足を踏み入れたことがありますが、広島市と宮島のある廿日市には長年行きたい願望があったものの、チャンスはなかなか訪れませんでした。暫くの間LCCに浮気していたら、ある日JALさまからお便りが。あらあら!「マイルの有効期限が2月末で切れます」ですって。チャンス到来かしら? ディスカウントマイルなら、なんとか国内往復できる程度のわずかばかりのマイルしかないのだけれど。
2月中に席を押さえて、3月にすわ広島!と思ったのですが、3月は航空会社にとって稼ぎ時らしくて、まさかのディスカウントマイルの対象外。だったら4月は? 無理よね? と見てみたら、ばっちり対象月になっているじゃあないですか。
ラッキー!! 3月より4月が狙い目とは知りませんでした。こりゃあ行くっきゃないねと、その場で羽田⇔広島便をポチッとクリックして押さえました。いつものように、メインの行き先だけ決めて、宿を押さえて、心ウキウキ、まことにアバウトな旅の始まりです。
4月3日★ 羽田空港→広島空港→広島市
4月4日 広島市→岩国→広島市
4月5日 広島市→宮島→広島市
4月6日 広島市→竹原→広島市
4月7日 広島市→西条(東広島市)→広島空港→羽田空港
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JALグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝7:50発広島行き。土曜日のせいか、ラウンジもすいていて、一服する時間が持てました。
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小雨模様の羽田空港。広島は晴れているかしら? 雨女だから、期待しないで行きましょう。
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順調に飛んで、広島空港からバスで広島駅へ。1時間以上延々とかかって、到着したのが12時半頃だったので、こりゃあ丁度良い、広島育ちの友達に教わった「麗ちゃん」のお好み焼きを食べに行こうと駅ビル2階へ直行。知らない町なのに、嗅覚だけは鋭いのです。
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「広島風お好み焼き」やさんが軒を連ねている中で、麗ちゃんは別格の長蛇の列!
でも、お好み焼きですから、回転は速いはずよね。昔は、並んでまでは食べないと豪語してたのに、この頃平気で並ぶようになったなあ・・・(^^ゞ -
20分位で席に案内されました。これ、私の注文じゃあないけれど、目の前で広島焼きが仕上がっていくのを興味津々に見つめます。
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こうやって蓋をして、別個にうどんを炒める。そうそう、生イカ、生エビ入りのスペシャルを注文しました。麺は中華そばかうどんかを選べと聞かれて、とっさに食べたことのない「うどん」と答えてしまったのですが、後日友人曰く、「中華そばって言ったでしょうが」・・・
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やって参りましたよ。うどん入りスペシャル。見た限りではお好み焼き=こなもんというイメージではありません。広島焼きは別物ですね。
味はもちろん、天下一品でした。うまうま~!!! 並んだ甲斐がありました。それにしてもお腹いっぱい~! -
お腹がくちくなったところで外へ。幸いなるかな。雨は降っていません。まずは荷物を置きに、今日から4日間お世話になる「東横INN広島駅南口右」へ。
この名前に惚れて、ろくすっぽ調べもせず予約してしまってから調べたら、なんと駅から11分! てっきり駅前だと思ったのにうっそだろ・・・同じ間違いする人多いのでは? -
広島市の川といったら太田川だと思っていたら、これも正確には誤りでした。この川は猿猴川(えんこうがわ)。広島市はすべて太田川から分かれた6つの川が流れるデルタ地帯にあります。
蛇足ですが、猿猴ってなんだかご存知ですか? 広島及びその周辺の地方で、古くから伝えられている毛むくじゃらの河童のような生き物だそうですよ。かなり攻撃性が強く、ウィキペディアによると、肛門から手を入れて生き胆を抜き取る、こわ~い存在のようです。何故にそんな名前が付いたのでしょう? この川で猿猴が目撃されたのかしら?
季節は春。猿猴河岸も、桜が満開です。 -
毎度おなじみのマンホールの蓋。 広島市の第1号はこちら、カラーヴァージョンでした。色とりどりの折り鶴が、無言のうちに平和を訴えています。広島市に相応しい、美しい蓋でした。
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続いては、これも広島を代表するモミジのカラー版です。初めモミジに隠れて気が付かなかったのですが、黒い部分は鯉だそうです。勿論、カープの本拠地ですからね。
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駅から11分の「南口右」ホテルに荷物を置いて、早速町に繰り出します。と言ってももう午後2時になるところです。この時刻からどれだけ広島の町を見ることが出来るでしょうか?
ホテルのある城南通りから、広電の通る大通りに向かうために左折すると、幟町小学校脇の道が真っ直ぐに続きます。この道でも、満開の桜が出迎えてくれました。 -
左手に見えてきたのは、カトリック幟町教会の世界平和記念聖堂の鐘楼です。原爆犠牲者を弔い,世界平和の実現を祈念する場として、世界各地の人々の寄付により、5年の歳月をかけて1954年(昭和29年)8月6日に完成、献堂されました。ちょうど被爆から9年目のことです。
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コンクリート打放しの特徴的なデザインは、建築家村野藤吾の設計。2006年には、戦後建てられた建物としては初めての国の重要文化財に指定されています。
無機質な聖堂の前で、艶やかなピンクの枝垂れがここぞとばかりに色を放っていました。 -
見事ですねえ・・・
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原爆投下時、この教会の主任司祭で自身も被爆したドイツ人神父フーゴー・ラサールは戦後、被爆者の霊を慰めるために聖堂を建てたいと願い、世界中のキリスト教徒に支援を仰ぎました。
ラサール神父および信者達の資金難との闘いはそれはそれは厳しいものだったそうです。彼らの献身的な努力により、資金のめどはつきましたが、今度は設計でもめました。
設計者は朝日新聞上で公募されたコンペにより選ばれるはずでしたが、177点の応募を8名の審査員で審査した結果、まさかの1等なし! そのため、審査員の1人だった村野藤吾が急遽神父によって設計者に選定されたのだそうです。ちなみに、この時2等だったのが丹下健三と井上一典による案でした。どんな設計だったか、興味ありますね。
下段にはめ込まれたオブジェ?は、イエス・キリストによって制定された「7つの秘跡」がテーマになっています。 -
鐘楼の付け根部分にある小さな礼拝堂のでっぱり部分です。チョココロネをぐるりと並べて乗せたような屋根がユニークでした。直線が多いので、屋根の曲線は目立ちます。
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よく見ると屋根の上に、完成した1954年(昭和29年)8月と記載のある碑文が書かれています。
此の聖堂は昭和20年8月6日廣島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし人々の追憶と慰霊のために また萬國民の友愛と平和のしるしとしてここに建てられたり -
1981年(昭和56年)2月25日、平和の巡礼者として広島を訪れた教皇ヨハネ・パウロ二世の胸像です。
ヒロシマを考えることは
核戦争を拒否することです
ヒロシマを考えることは
平和に対して責任をとることです
大変重い言葉が胸を打ちました。 -
聖堂内を見学したかったのですが、この日は後の予定が押していたので断念。ホテルから近いので後日またと思いながら、再訪果たせぬまま終わってしまいました。残念。
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ややも歩いて、ようやくメインストリート相生通りに出てきました。低床型の4両編成の広電(ひろでん)が駆け抜けていく姿を目撃。
調べてみたら、2005年から8年にかけて製造された5100形グリーンムーバーマックスでした。ドイツから輸入された5000形グリーンムーバーの後継車で、こちらは日本製です。
もう一つ、歩道の車道よりに駐輪スペースが設けられていて、自転車がきちんとお行儀よく並んでいるのが印象的でした。 -
ほらっ こんな鎖のついた駐輪システム、初めて見ましたよ。
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廣島一番の繁華街八丁堀。レトロな「単車」と呼ばれる車両も現役で走っていました。要は一輌編成のこと。この1900形は、1957年(昭和32年)製。もう60年以上走り続けていることになりますね。
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相生通りを右往左往しながら歩いて15分、映像は何度も見ていて、姿、形は直ぐに思い浮かべることのできるけれど、目にするのは初めてとなる原爆ドームと対面しました。
写真には写っていないけれど、広島中の観光客がここに集まったような盛況ぶり。中でも外国の方の姿が目立ちました。
ここは紛れもない観光名所なんだ・・・複雑な感情が脳裏をかすめました。 -
そう、負の遺産として世界遺産にも登録されていました。
焼けただれ、崩れ落ちた壁がその悲惨な過去を雄弁に物語っていました。 -
ここにきて、様々な感情がほとばしり出るのを感じました。
私達の先祖が戦争を起こした。でも私達は無実などという戦後の世代特有の甘い考えが若い時分はあったんですよね。いつ頃からでしょうか?それが一気に吹き飛んでいったのは。先祖の咎は私達が負って当然 ということに遅まきながら気が付いたからです。今までの人生において知らず知らずのうちに行ってきた 無視すること、目をそらすこと、無関心でいること は罪なんだと実感したからなんでしょうね。 -
原爆ドーム沿いに歩いていくと・・・
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旧相生橋の碑がある太田川河岸に出ました。右隣りには1983年(昭和58年)まで使われていた旧相生橋の欄干も残されています。
碑の背後に見えているのが現在の相生橋。 -
とても珍しいTの字形をした橋で、橋中央付近から左側に見える中洲(慈仙寺の鼻)へTの縦部分が伸びているのがわかります。
ここでもまた衝撃的な事実を知りました。原爆はこの「T」めがけて投下されたのです。実際には橋から300m逸れた場所で炸裂し、相生橋は被害を受けたものの、その後も長く使用に耐えました。 -
太田川(元安川)沿いの道を進みます。太田川本流の流れは中洲の反対側、手前は元安川と呼ばれています。
段々とドームのファサードに近づいて参りましたよ。原爆ドームという名称で呼ばれているこの建物については、殆ど知識がなかったので、少し調べてみました。
建物の正式名称は「広島県物産陳列館」。日清戦争を契機に発達した広島県産の製品販路を開拓する拠点として建てられた県の建物で、元は広島藩の米蔵があった場所でした。 -
手掛けたのはチェコ人建築家のヤン・レツル。彼についてはこれまで、全く知りませんた。ドーム屋根を見てもしやと思いましたが、思った通りウィーンにおける世紀末建築セセッションの影響を受けていました。レツルはオットー・ワーグナーの弟子だったそうです。
原爆ドームというのは、原爆の象徴、メモリアルであり、普段建物として考えることはなく、まして建築の様式を考えるに至りません。しかしこうやってぐるりと回って、身近に眺めることによって、ようやくここがかつて、広島をアピールするために建てられた建物であったことを認識したのです。
建物は1915年(大正4年)に完成し、農産物や工業製品を集めて陳列し、一般に公開してその優劣を競う品評会である共進会会場として使われてきました。 -
ここは広島の一等地、つまり人が沢山集まるところでした。アメリカはできる限り沢山犠牲者が出ることを期待して、相生橋をターゲットにしたに相違ありません。
中央入口から上を見上げます。入口の周りにはセセッションらしい装飾がはっきりと残っていました。 -
ドームを眺めながら、原爆投下を承認したハリー・トルーマンのことを思い出すと、いたたまれない気持ちになります。くるりと振り返って元安川を眺めれば、そこは平和そのものといった景色。ギャップが激しいです。ため息をついては川を眺め、安らぎを得る を暫く繰り返しました。
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ヤン・レツルが手掛けた建築は、東京の聖心女子学院校舎、修道院(1909年 現在はわずかに門が残るばかり)、雙葉女学院、東京カテドラル脇にあるルルドの洞窟(設計のみ)、築地精養軒、宮城の松島パークホテル等かなりの数に上りますが、火災、地震等で殆ど残っていません。
レツル自らも関東大震災で被災し、チェコに帰国、1925年に弱冠45歳で亡くなっていますが、彼には「手がけた建物が災害により次々と崩壊するのを目にして死んだ」建築家というありがたくない長~い形容詞を付けられています。彼の死後20年経って、またもや・・・ -
正面入口に向かって右側の緩やかな曲線を描いたウイングの先っぽです。
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原爆投下から71年。劣化が進む建物を保持するため、2016年3月までの間初めての耐震補強工事が行われていました。震度6程度の揺れに対応できるよう、外壁の一部に中から鋼材を当て、補強するのだそうです。外観を変えることなく、行わなければならない難しさがありますね。
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建物を過ぎた南側にあったのは、噴水池でしょうか? ここには洋風庭園があったようです。
風水中央の大きな六角柱に、細かい円の連続模様、周りの柱には直線の模様を確認することが出来ました。 -
噴水のすぐ奥に見える樹木には春の芽吹きを感じられました。
平和記念公園内の樹木は、1957年~8年(昭和32~3年9にかけて、全国から寄せられた「供木運動」により、植樹されたものだそうです。この木もその頃植えられたものかしら?
詳細は忘れましたが、原爆投下後、最初に芽吹いた樹木は夾竹桃だったと聞いたことがあります。広島に来てから、無意識に夾竹桃を探している自分がいましたが、この近辺では目にしなかったような記憶。 -
気が付けば、こんなに沢山の観光客が訪れていました。その殆どが欧米人。彼らの目には原爆ドームはどう映ったのでしょうか? とても気になりました。
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原爆ドームの南側には、約1万人の動員学徒の霊を慰めるために、1967年(昭和42年)7月、広島県動員学徒犠牲者の会により建立された「動員学徒慰霊塔が立っていました。原爆による犠牲者約6300名だけでなく、全国で動員中に戦禍に倒れた学徒達を含んでいます。
有田焼の陶板が五重塔部分の外側に貼られ、鈍い光を放っていました。塔の頂には平和の象徴鳩の姿がありますね。 -
正面祭壇の奥には、平和の女神像が立っていました。
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見た瞬間に違和感を覚えたのは、背中の羽でした。どうして? と思いましたが、調べてみたらこの像は3つの宗教を表わしているのだそう。
彫刻家圓鍔勝三の設計で、観音様のようなお顔は仏教、ベルトのバックル部分には神道の象徴である鏡、背中の羽は、言わずもがなキリスト教だそうですよ。手に持っている花はなんでしょうか? -
慰霊塔の背面にあった歯車や滑車のある工場で働く、男子学徒達のレリーフと
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女子学徒達のレリーフ。沢山のミシンがある縫製工場のようです。
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元安川にかかる元安橋を渡ります。以前の橋は、爆心地から一番近いにもかかわらず崩壊を免れ、1992年(平成4年)に現在の橋に架け直されるまで使われてきました。
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元安橋から見た原爆ドームと相生橋です。
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上の写真は望遠なので、実際にはもう少し距離があります。
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橋を渡り終わったすぐの場所にあったこちらのレストハウスという建物が、歴史ありそうで気になりました。現在は広島市の観光案内所兼休憩所となっていますが、思った通り戦前の建築でした。
鉄筋コンクリート造り3階建てで、1929年(昭和4年)に呉服屋として建てられたこちらの建物、戦時中は燃料配給統制組合に買い取られ、「燃料会館」という名前で呼ばれていました。元安川と太田川に挟まれた中洲である「中島」で唯一残った建物だそうです。広島市は老朽化したことから一時は取り壊す案を進めようとしましたが、市民団体、文化庁、ユネスコが猛反発。長年の抗議活動がようやく実り、近年永久保存が決まったようです。
しかし、何でもすぐ新しいものに作り替えたがるのは、日本人の悪い癖ですねえ。どうして過去の生き証人を壊したがるのでしょう? 私には理解できません。 -
元安橋から見て右手にあったのは「原爆の子の像」。被爆が原因の白血病で1955年(昭和30年)に亡くなった少女佐々木禎子さんの同級生らによる募金で、1958年に建立されました。
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中央に折り鶴を掲げ持ち、立っている少女の願いがどうか届きますように。二度と悲劇を繰り返しませぬように。
像の周りに設置された小さなボックスの中は、数え切れないほどの千羽鶴で一杯でした! -
元安橋から見て左側です。とうとう、ここまで来てしまいました。怖い気持ちで一杯ですが、しっかり目を見開いて、見て参りますよ。
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平和の池に浮かぶ「平和の灯」は1964年(昭和39年)8月1日からずっと消えずに燃え続けているそうです。
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足取りは重いです。花曇りの空同様、心の中は激しく動揺していました。テレビでおなじみの風景ですが、実際の風景はさらに重く、インパクトがありました。
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広島平和都市記念碑までたどり着きました。
安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから
本当に?
記憶力、忍耐力、判断力のない人間だから、定期的にここにも詣でなくてはね。 -
これは後程、広島平和記念資料館内から撮った1枚です。広島平和都市記念碑、平和の灯、原爆の子の像、原爆ドームが見えています。遠くに見えるのは武田山かな?
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広島平和記念資料館に入場しました。のっけからこのジオラマが衝撃的でした。広島がデルタに築かれた都市だということが良く分かります。
お昼過ぎ、右手前の広島駅から私がずっと歩いてきた道が全て焦土と化していました。 -
展示物は悲惨すぎるのでここでアップするのは差し控えたいと思いますが、1枚だけ。妙に目に焼き付いた三輪車とヘルメットです。
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外の景色が変わっていました。この平和記念資料館の中心から広島平和都市記念碑、平和の灯、原爆ドームが一直線に並んでいることに気が付きました。
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約1時間半の見学を経て外に出ると、あらら小雨模様。
この年東京は3月最終週には桜が満開になっていたので、ここにきて二度目の満開のお花見になります。ずっしりと重く沈んでいた頭のもやもやを吹き飛ばしてくれるのに十分な美しいサクラでした。 -
こちらは、ピンクの色が濃い八重咲の桜。
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降り始めた雨のしずくに濡れています。
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ソメイヨシノは花が開くにつれ、段々と花の色が濃くなっていく気がしますね。
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花越しに見る元安川。今は平和記念公園となっている中島地区はかつて市内有数の繁華街で、中島本町、材木町、天神町、元柳町、木挽町、中島新町という6つの町がありました。原爆投下後に残った建物は、先ほどのレストハウスのみで、今は、資料館の周りに旧町名跡が書かれた碑が立っているのみ。
折も折、まさにベストシーズンに訪れた私には、約300本もの桜の花が総てを覆いつくして、亡くなった方々を包み、安寧をはかっているように思えました。合掌。 -
沢山あった記念碑ですが、これも一つだけ紹介。アメリカの文芸評論家ノーマン・カズンズ氏記念碑です。向かって左側には、カズンズ氏のレリーフと彼の著書「Human Option」から引用した碑文が、右側の緑色のプレートには彼と日本との関りが書かれていました。
戦争で親を失った子らへの精神的な養父活動や、ケロイド跡のアメリカでの治療に大いに尽力した人物だそうです。 -
中島に別れを告げて、平和大通りに架かる平和大橋(相生橋より2本下流の橋)を東へ
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橋を渡りきったところで、ビルに囲まれた神社を見つけたので、いそいそと道路を渡ります。
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白神社。「しろじんじゃ」かと思ったら「しらかみしゃ」なのだそう。かつてこの辺りは海で、この地は海から突き出した岩礁でした。船が安全に航行できるよう、岩礁に白い紙=つまり「しらかみ」を立てたことが、神社の名前の由来と説明板にありました。
毛利輝元によって新しい社殿が建立され、広島の総氏神となった後は、広い境内を持つ神社となりましたが、原爆投下により焼失。社殿はそれから10年後の1955年(昭和30年)に再建されました。現在の社殿は更に1989年(昭和63年)に再建されたものです。 -
気が邪魔して岩礁がよく見えませんが、広島城が築かれた1591年(天正19年)当時には、海岸線であったこの付近に露出していたようです。太田川が運ぶ土砂、そして江戸時代の大規模な干拓により、海岸線は当時よりは3、4km程度後退しています。
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白神社の角を曲がって、元安川と平行に1ブロック北に歩くと、次なる被爆遺産旧日本銀行広島支店が見えてきます。
えっ これが被爆遺産なの? 原爆ドームとのあまりの違いにびっくりしました。 -
建物前に、原爆投下後の写真が展示されていました。爆心地から380m。外形は残ったものの、内部はすっかり破壊され、42名の犠牲者が出たと記されていました。それにしても、外形が完璧な形で残ったとは驚きです。1936年(昭和11年)の建造です。銀行の建物だから、一般の建物より頑丈に作られていたのでしょうね。
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内部が見学できるようなので入ってみました。現在は日本銀行から広島市へ無償貸与されていて、ギャラリーとなっています。
1階2階部分は吹き抜けとなっていて、創業当時に近い状態に復元されていました。6本の頑強な角柱がしっかりと天井を支えています。大理石のカウンターが美しいですね。使われていないのが勿体ないほど。 -
中央部分の明り取りの格子窓。
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被爆時には、今と同じように、窓の鎧戸が閉じていたことで、1、2階部分の被害は少なかったそうです。
被爆前の写真を見たら、角柱の柱頭部分にはアカンサスの装飾、2階を一周している回廊の欄干にも細かな細工が施されており、天井からシャンデリアが何本も下がっていました。 -
こうやって今見ると、コンクリート製の建物は外側だけはかろうじて残っていますね。
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こちらは2階にある支店長室です。立派な暖炉が目を引きました。
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「原爆投下時にガラスで傷ついた木製の腰板」という注釈があったので撮ってみましたが、通常の経年劣化でも見られる程度の傷で、言われなければ気が付かないと思います。
本当に頑丈な建物なんだと改めて実感。 -
3階通路から見た屋根の部分です。正面から見ると3階建てですが、反対側は2階建てで、三角形の屋根が乗っかっています。この屋根の下に、ガラス張りの天井のホールがあるのかしら?
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3階から見た階段室。空間を広く取ってあることが分かります。
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2階部分、ぐるりと一周できる回廊部分から見下した1枚。
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そして地下1階には、巨大な金庫があり、その中で収蔵資料展が行われていました。この金庫の厚みも凄い! 日銀本店の金庫に匹敵する厚みです。
この時には「熱と炎のつめ跡」という展示が行われていました。ここでは広島平和記念資料館が所蔵する約2万点の被爆資料の中から、推定3、4千度で焼かれ変形した生活用品等が展示中でした。 -
衝撃的だった変形したガラス瓶と金属の蓋の塊。
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部屋の奥にあった金庫はアメリカ製。全くの無傷で1992年(平成4年)まで現役だったとのこと。
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こちらがその金庫の分厚い扉です。
1992年に日銀が移転した後、日銀はこの建物を売却しようとしていましたが、広島市が広島復興のための法律「広島平和記念都市建設法」を根拠に待ったをかけたため、所有は日銀、運営管理は広島市という中途半端な使用が続いているのだそうです。
これだけのスペースを無償の見学スペースのみに使用するのは、それこそ「勿体ない」の一言に尽きます。現在は市の重要文化財。日銀は国の重要文化財に指定されれば市に無償譲与することを決定しているようですが、その見込みは全く立っていないとか・・・立派な生き証人なのだから、壊したり別の用途に使ってほしくないけれど、画期的なアイディアの活用方法思い浮かばない・・・ -
被爆後の貴重な写真を2枚紹介しましょう。アメリカ海軍の従軍カメラマンだったウェイン・ミラー氏による被爆後1か月の広島の町です。
こちらは広島駅。建物よりも、日傘をさし、男の子をおぶった中央の女性の姿がとても印象に残りました。 -
幟町電車通りから撮った1枚。幟町国民学校の塀の背後にあるのは、広島流川教会の会堂です。後で調べたら、今回の宿泊先から目と鼻の先でした。
中央に見える傾いた木は炎に焼かれたはずですが、けなげにも葉が何枚か残っていました。 -
旧日本銀行広島支店の建つ鯉城通り(まっすぐに広島城に向かう通り)から横道に逸れます。
恥をさらしますが、広島城のことを「鯉城」(りじょう)と呼ぶことを知ったのは正にこの時です。ああ、それで野球チーム名もカープになったんだと合点がいきました。まっことお粗末でしたぁ。 -
旧銀行のお隣にあったのは頼山陽史跡資料館。頼山陽と言ったら「日本外史」しか浮かばない、戦後教育を受けました。イベントと年号、人物と代表作。丸暗記するのが歴史だと思っていたんですね。はい。
話が逸れました。頼山陽は広島藩の儒学者の息子で江戸時代後期の歴史家・思想家。大阪で生まれ、広島、江戸で教育を受けました。老中松平定信に献上した「日本外史」は彼の代表作の一つで、源、平から徳川に至る武士の歴史を記しています。
ここは彼の父である頼春水とその妻が暮らしていた家で、現在は県が管理しています。彼について調べていたら、九州日田の広瀬淡窓とも交流があったということを知りました。ちょうど同じ頃の人だったんですね。こうやってつながりを見つけると、歴史への興味はどんどん膨らんでいきます。 -
丁度閉館時間になったばかりの時刻(17時過ぎ)で、すでに門は閉ざされていました。
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中を覗くと、都会のオアシスのような緑濃い庭園が見えました。この中に何本か被爆樹木があるそうです。そしてその奥に意外と新しい資料館の建物が見えました。1995年(平成7年)に再建されたそうですよ。
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次の角を左折して鯉城方面に向かいます。爆心地に近いこの辺りには、沢山のモニュメントが溢れていました。
一見モダンに見えるこちらの建物ですが、よく見ると古いコンクリートの部分が残されています。こちらは爆心地から460mのところにあった旧袋町国民学校(現市立袋町小学校)で、奇跡的に残った被爆建物の一つです。 -
道路に面した小さな一角がマルセル・ジュノー広場と名付けられていました。戦後すぐに国際赤十字の一員として来日した、スイスの医学者マルセル・ジュノー。彼はこの残された袋町国民学校の西校舎で、1日100人以上の人々の治療を行った広島の恩人の一人です。
博士の生誕100年に当たる2004年に、小さな肖像レリーフと説明板、そして広島城から運ばれた石垣の一部を組み合わせて、小さな広場が誕生しました。 -
被爆直後の袋町国民学校の外観です。残ったとはいえ、外壁のみの状態ですが、救護所として利用され、多くの人々の命が救われました、玄関前に赤十字の旗がはためいていますね。
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現在保存されているのは、3階建ての校舎の内の一部分で、2002(平成14)年4月に「平和資料館」として整備されたものです。
電気は付いていましたが、人気がなかったので、入場するのは遠慮しました。 -
前庭でもう一つ発見。被爆した旧元安橋の欄干です。先ほど原爆ドームから平和記念資料館に向かう際に渡った橋でしたね。
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旧袋町国民学校前の道をそのまま真っ直ぐに進むと、やがて本通り商店街のアーケードにぶつかります。広電の通る相生通りの2本南側の通りで、
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ご覧の通り、凄い賑わいでした。東京でもおなじみのお店が並んでいて、ここから見た限りでは広島らしさは、天井から下がっている広告くらいかなあ・・・
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アーケードを離れて、1本相生通り寄りの道を進んで行ったら、屋上になんともレトロな展望レストランがある建物発見。「空庭Bisとろ KuRu KuRu」という名前ですって。広島国際ホテルの14階にあって、2時間で一周するとのことです。広島の町を見ながらゆっくり食事をすれば一回りですかねえ。
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相生通りを渡り、元の鯉城通りに戻って更に進むと、右側に、いかにもお役所という佇まいの建物あり。そう、広島県庁です。
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その対面には、斬新なデザインのビルが聳えていましたよ。そごう広島店新館とNTTクレドホールの入る商業棟とその隣には宿泊棟で超高層のリーガロイヤルホテル広島が入るNTTクレド基町ビル。新しい広島の顔のようです。
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新館の隣が、前からあったそごう広島店。そうそう、そごうの中には長距離バスターミナルである広島バスセンターもあります。4日目に竹原に行くときは、ここから乗車する予定です。
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リーガロイヤルホテルを過ぎると、急に緑濃くなって、広島県立美術館のある公園になります。ボストン美術館ヴェネツィア展をやっている!っと一瞬色めきましたが、4月9日からでした。1月も大分で1日違いで振られましたが、またもや肩透かしを食いました。
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鯉城通りが終わって、ようやく城南通りに出てきましたよ。ここを右折すれば今宵の宿泊先に戻れます。広島中心部をぐるっと一周してきましたね。
折角なので、まだ日があるうちに鯉城(またの名を在間城)を見に行きましょう。 -
広島城は1945年(昭和20年)まで天守閣を含めた城郭が残されていましたが、原爆によりことごとく倒壊。現在見る建物は全て1958年(昭和33年)以降の再建です。
石垣は残されたものを利用していると思われますが、目の前にある平櫓は石垣まで新品に見えるんですけれど・・・目の錯覚かしら? -
堀にかかる御門橋を渡ると、まずくぐるのが表御門。右にあるのが平櫓です。幸いにも資料が多く残っていたため、城内の建物は倒壊前と同じスタイルで再建されています。
表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定されていて、焼失するまで350年もこの地を護ってきました。現在の表御門は築城400年を記念し、1991年(平成3年)に再建されています。 -
内側から見た表御門です。礎石が残っていたため、昭和の初めに陸軍が測量した実測図をもとに 礎石の上に忠実に蘇らせたと説明板に書かれてありました。
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とても狭い長方形をした二の丸ですが、平櫓から太鼓が置かれた太鼓櫓まで、横に長い多聞櫓(長い廊下)が伸びていました。櫓の数がとても多かったのが広島城の特徴で、なんと全部で88基の櫓が置かれていたそうです。
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二の丸がとても狭いのに驚きました。空から見ると二の丸も本丸も堀に浮かぶ島のように見えるはず。
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二の丸から土橋を通って本丸へ。
東西を太田川のデルタで囲み、その中にかつては内堀、中堀、外堀の3つの堀で守られていた堅牢な城です。今あるのは内堀のみで、後は埋め立てられてしまいました。 -
本丸の入口に位置する場所にある中御門跡。原爆投下により激しく燃えて赤く変色した跡があるそうですが、気が付きませんでした。
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天守閣があるのは、中御門から対角線上、一番遠い奥の北西角地。最後の最後まで攻められませんよという奥地に作られています。
途中礎石が残っていたのは、お城ではなく、1894年(明治27年)に始まった日清戦争を指揮するために設置された大日本帝国軍の最高統帥機関、広島大本営です。当時、東京からの鉄道の終点は広島だったため、兵士たちは広島の宇品港から出征、そして明治天皇は実際にここで陣頭指揮を執ったそうです。
この地は元々広島藩の本丸御殿があった場所で、建物は1877年(明治10年)に、木造2階建ての広島鎮台として建設されました。1896年(明治29年)大本営が解散すると、国の史跡として保護され、一般に開放されていました。 -
ややもしばらく進むと、ようやく小高い丘(人工的な丘?)の上に、天守閣が姿を現しました。ここも桜に彩られていましたよ。
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再び雨が降り出してきました。広島城の天守閣は、初代天守を忠実に再現するという大方針の元、1958年(昭和33年)に復元されました。初代の天守には、東と南に渡り櫓で結んだ三層の小天守が連結されていましたが、明治初期に取り壊されていて、その部分については復元から外されています。ちょっと残念。
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石垣の高さだけで12.4m。五層の部分は26.6mにもなります。毛利輝元によって1599年に築かれたということしか知らず、全く期待してこなかった城でしたが、あまりの立派さに驚きました。入母屋破風と千鳥破風が美しい!
戦前は国宝に指定されていたということも初めて知りましたよ。 -
お城の中は御多分に漏れず博物館になっていて、最上階の天守からはかなりの眺望が期待できそうです。今日は時間が遅く、もう閉まっていましたが、天気の良い日に眺望を楽しみたい城でした。
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ほらっ ライトアップも始まっていて、今の季節は夜桜も楽しめそうです。
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反対側は高層ビル群でイマイチかしら?
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階段の下からもう1枚。
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昭和33年再建の天守閣は鉄筋コンクリート製のため、オリジナルの天守閣の礎石は天守閣下の空き地に原寸原型のまま移されていました。
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ピンクのじゅうたんが敷き詰められた場所で、二人のマレーシア人女性が、無邪気に花びらを集めては投げ合って戯れていました。
桜マジック。やりたくなる気持ちはインターナショナルですかねえ。 -
赤っぽい葉っぱだから、山桜かしら?
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本丸の北西角に天守閣、南西角には広島護国神社がありました。ここでは第二次大戦までの戦死者、原爆投下で亡くなった勤労奉仕中の動員学徒および女子挺身隊等、約92000柱が祭神です。
雨がひどくなってきたので、拝殿まで行かずに、鳥居から参拝させていただきました。さあ、帰りましょう。 -
帰りに二の丸を歩いていたら、見慣れない葉っぱを一杯に茂らせた木がありました。何本か群生しているのかと思ったら、たった1本の幹から四方に枝を広げた巨大なユーカリでした。
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これが、数少ない被爆樹木の1本、被爆ユーカリとの感動的な出会いでした。1875年(明治8年)頃日本にやってきたユーカリの木は、爆風と炎にあおられ、真っ黒こげとなりながらその後の70数年間を生き抜いてきました。
ユーカリは「癒し」のシンボルだそうです。言葉では到底言い表せない重苦しい感情が渦巻いていた私の心にも、この木は安らぎを与えてくれました。
「沢山の支柱があなたの元気を、あなたの逞しさを支えてくれていますよ。ありがとう! これからも達者でね。」思わずそう話しかけてしまった私。 -
いつもの宿にチェックインして眺めた広島の町並みは、雨にけぶっていました。今日という日のお終いにはふさわしい雨でしたが、どうか明日は天気になりますように。なんて虫の良いおねだりでしょう( ^ω^)・・・
この続きは、サクラ満開 春爛漫の山陽路 その2 岩国でね。
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