2017/12/14 - 2017/12/14
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belleduneさん
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偶然とは言え、屋根に雪が積もった鶴ヶ城は、綺麗でした。表紙の干飯櫓・南走長屋ですが、荒れ果てていた跡が平成13年に修復されて、このような美しい姿を見せています。屋根の赤瓦葺替工事は平成23年に完了しています。
歌人武将であった氏郷の歌
あもひきや 人の行方ぞ 定めなき 我ふる郷を よそにみむとは
この歌は、当時の武将の生涯をよく表しています。先祖が守り続けた故郷日野を生涯思っていました。中山道の武佐塾(近江八幡)から日野方向を眺めて詠んだと言われています。
- 旅行の満足度
- 4.5
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鶴ヶ城は、会津若松城と呼ばれることが多く、黒川城、単に会津城とされることもあります。1384年、蘆名氏7代当主・蘆名直盛が小田垣の館、又は東黒川館を造ったのが若松城の始まりだという。諸説あるそうですが、15世紀半ばまでには、黒川城とその城下が成立していました。戦国時代中後期には、蘆名盛氏が黒川城を中心として勢力範囲を広げました。
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天正17年(1589)、蘆名氏と戦いを繰り返していた伊達政宗が、豊臣秀吉の制止を無視して、蘆名氏を滅ぼし、黒川城を手に入れましたが、翌年、秀吉に臣従し、会津は蒲生氏郷に渡りました。
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蒲生氏郷は、文禄元年(1592)から大大名に相応しい近世城郭に改造しました。城下町を整備し、その町の名を黒川から出身地に近い神社の「若松の杜」に由来して、若松と改称しました。
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翌年、望楼型7重の天守が竣工し、鶴ヶ城と改称されました。近年の発掘調査で、蒲生時代の石垣基底部が確認され、鎧瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔を貼ったものが出土したそうです。
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慶長6年(1601)、蒲生秀行が再入城しましたが、子がなく、代わって、移封された伊予松山から加藤喜明が入封し、その子・秋成が西出丸、北出丸などを改築し、慶長16年(1611)の会津地震で倒壊した天守を層塔型天守に組み直しています。
北出丸虎口は大きく、出丸、主郭帯郭、櫓、隣接する出丸からの射撃が集中し、その防御の堅固さから「鏖丸(みなごろしまる)」と呼ばれていました。左の大腰掛と呼ばれている箇所は雪に覆われています。 -
平成22年(2010)から黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦に復元する工事を行われ、翌年に完成しました。本丸の御三階櫓も復元されるそうです。
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寛永20年(1643)、出羽国山形から3代将軍家光の庶弟・保科正之が入封し、明治維新まで会津松平家の居城となります。(保科氏から改名された松平家)戊辰戦争の時は、会津勢の立て籠もった若松城は1ヶ月持ち堪え、薩摩軍の援軍にも落ちることはありませんでしたが、その後、開城しました。戦後、傷みの激しい建物は、放置されたまま破局を迎えています。
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明治元年(1868)9月に開城して、新政府軍の手に渡り、翌年から兵部省の管轄となりました。その後、仙台鎮台が管理し、明治2年に若松県庁が本丸内の建物に置かれたことで、若松県が管理していました。
明治6年(1873)に城郭建造物取り壊しが決定し、天守をはじめとするすべての建造物が解体されました。
この石垣の特に大きな石は「遊女石」と言われています。石垣の内部を見ると、石材のすぐ後ろに、盛り土ではなくて、割栗、土砂と層状になっているそうです。石垣にかかる分散させる機能があり、更に排水性を高めて、石垣の歪みを抑えることにもなっていました。石垣の勾配の曲線は、上に載る建物の重さをうまく支える構造でもあるという。 -
しかし、明治3年(1870)、本丸にあった櫓の一つ「御三階」、本丸の大書院の唐破風の表玄関は、会津若松市七日町の阿弥陀寺に移築され、現存しているそうです。唐破風表玄関は、御三階の玄関に利用されているという。次回は行ってみたいです。
太鼓門は、北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、ここには多聞櫓が建てられ、直径五尺八寸(約1,8m)の太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、色々な合図に使われたことから、その名が付いたそうです。太鼓門は、 -
明治23年(1890)、明治政府から松平家に城地約29haが払い下げられました。
明治41年(1908)には、三ノ丸の東側と城外に陸軍の連隊練兵場が設置され、三ノ丸の一部とその濠や土塁約6haが撤去されましたが、本丸、二ノ丸、三ノ丸の一部、北出丸、西出丸及び付属する濠は残され、現在の史跡指定部分約23haは保存されました。 -
昭和2年(1927)までに城跡の所有者だった旧藩主・松平家との10年賦による土地譲渡契約の償還が終了し、若松市の所有となりました。本丸は、昭和35年(1960)までには現在の形状に復旧され、昭和40年(1965)には、鉄筋コンクリート造によって外観復興され、完成しました。
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現在の復元天守閣棟上には、鯱鉾が1対あげられていますが、復元工事を担当した「ハザマ」の当時の会長から寄贈されたものだそうで、全身の鱗は銀箔、牙は金製、瞳には2カラットのダイヤモンドが埋め込まれているそうです。名古屋城の金鯱と対になるようにと、銀鯱としたらしいです。
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武者走りは、太鼓門の上に兵が昇降するための石垣で今も残っています。
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桜も良いですが、雪も凄く良いですね。
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雪吊りの景色も冬ならではです。
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若松城の図面は一枚も残っておらず、その復元は手作業の発掘に掛かっていました。発掘調査での正確な基礎の構造、特徴や出土品から当時何に使われていた建物なのかを調べていったそうです。肥後名護屋城(唐津市)の天守を手本にしたということが分かっています。奥羽の地にこのような近世城郭は初めて建てられたのですが、それを実現したのは、石垣職人・穴太衆(あのう)をはじめとする高度な技術を身につけた上方の職人衆が氏郷の転封に従って、移住してきたことによるということです。石垣普請には、穴太源左衛門の子・奥泉が氏郷の招きで多くの石垣職人
を連れて活躍したと伝えらえています。古式の野積みで、内部2層となっているのは彼の仕事だという。 -
この写真は逆光だったおで、屋根瓦は黒く写っていますが、実際は赤瓦が使われています。若松城は築城当時は黒瓦が葺かれていましたが、寒さで凍み割れてしまうため、試行錯誤の末に生み出した赤瓦に徐々に葺き替えられました。出土した瓦も赤瓦が殆どで、この成分を分析して、これに近い瓦を使用したそうです。
当時、瓦は現在の会津本郷町で焼かれていたと言われています。 -
襖絵「泰西王侯騎馬図」は、南蛮絵師に描かせた逸品で、現在神戸市立博物館(池長盃コレクション)とサントリー美術館(八曲屏風)を文蔵しています。
青空に雪の天守は美しい! -
この奥の方に、東側の二ノ丸も馬出伏の郭ですが、高低差を利用できないため、堀切を水濠まで掘り下げ、約20mの高石垣として、橋は場内唯一の木橋(廊下橋)として防御しているという。出丸を持っていない本丸南側は、豪と湯川で三重に防御されています。
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修復が終わって、綺麗になった「干飯櫓・南走長屋」の雪を被った姿です。左奥に石垣東面石段が雪に埋もれていますが、天守台の野面積みとは異なり、ここの石垣は、
「布積み崩し」という積み方で、石を加工して、隙間を小さくすることで、堅固に積まれているということです。石垣の石が破損していたり、痛みが激しいものは、新しく掘り出した石山地区車山町の「御普請山」と昔呼ばれていた「慶山石」が使われました。城内の大部分の石垣にも使われていたもので、加藤氏の時代の大改修時にも同じものが使われていました。既存の石と区別できるように、交換した石には「平成9年度取替」と墨書きしてあるそうです。 -
鉄門辺りの石垣の積み方をよく見ると、隙間がほとんどありません。布積み崩しという積み方を間近に見られます。
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発掘で分かったことは、礎石には、基礎の木材を置いたところを削るという特徴が見られ、これによって本来の建物の規模や柱、壁などの基礎材を入れた位置が確認できました。干飯櫓では建物中央に2本の柱が立っていたことや南走長屋では、小部屋が3つ並んでいたことなどが確認できたそうです。
干飯櫓・南走長屋の屋根は、野地板の上に手で薄く割った木羽板を屋根全面に重ねて張る「土居葺」です。この上に本瓦葺という伝統的工法で葺かれ、美しい瓦屋根となっています。 -
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天守閣を見上げたところですが、現在緑色のシートが掛けられていて、工事中です。
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天守閣からの眺めた東方向です。
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やや北方向です。
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南走長屋が左下に見えています。黄色の矢印は、茶室・麟閣です。
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干飯櫓・南走長屋を真下に見ています。ここの発掘作業はすべて手作業だったそうです。遺構や出土品を損なわないように注意して少しずつ掘っていきました。鏃や屋根瓦なども発掘され、復元の貴重な資料となりました。
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南方向です。
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南東方向
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南西方向
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西方向
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1周したので、今から南走長屋へ行きます。
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干飯櫓は、十二ある二重櫓の中で、最大のものです。会津藩の正史「実世実紀」には、この櫓を「糒櫓」とも書かれています。米を備えると書く「糒」は干飯など食料の貯蔵庫として使用されていました。
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干飯櫓には、当時の武器や瓦が展示してあります。
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干飯櫓の桟から覗いた城内の雪景色。
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南走長屋の二階へ上がったところから見た堀。矢印のところには円の模様が氷が溶けたところにできています。手前には多くの鴨が泳いでいました。
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この穴から攻めて来る敵を目掛けて、石を落とします。
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二階から石垣の上に出られます。
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反対側も同じく
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こちらは銃で敵を狙って撃ちます。
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雪が積もっているので、この図にあるところは行けませんでした。
約400年前、千利休は豊臣秀吉の怒りに触れて、切腹を命じられました。会津領主・蒲生氏郷は利休の子・小庵を匿い、千家が再興できるように秀吉に願い出ました。その結果、秀吉の怒りが解けて、千家再興が許されました。この蒲生氏郷の恩義に報いるため、小庵が建てた茶室がここ「麟閣」と伝えられています。明治の若松城が解体される前に、薬種商であり、茶人の森川善兵衛が買い取り、移築保存していました。現在はここに戻されて復元されています。 -
麟閣を見に行きます。
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中門の向こうに少しだけ見えるのが、寄り付きです。
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蹲
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待屋
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待屋で座ってみました。
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待屋の天井
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こちらは茶室に隣接する「蒲鶴亭」鎖の間です。
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この床柱は小庵が削ったという赤松です。
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こちらが茶室「麟閣」です。茶人としても利休七晢の筆頭に数えられていますが、氏郷の作った竹茶杓が東京国立博物館に所蔵されています。流転の風雅人と言われた氏郷が偲ばれいます。
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躙口
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外からしか見ることができないのですが、雪景色の茶室は雰囲気があって良いものです。
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「麟閣」の扁額
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後ろも雪が積もっていて、もう少し引いて撮りたいのですが...
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茅葺の茶室はまだ新しくて、そのうちに年季が入って来ると、それはそれで良い感じだと思います。10年くらいしたら、また来てみようかな。
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天正18年から文禄4年の6年間に、氏郷が会津にまとまって居たのは、通算半年という戦争に明け暮れた生活でした。そういう多忙な日を送っていたため、文禄元年肥後名護屋城へ出陣した後、下血し、3年の上洛後に床に伏すことになります。翌年の元禄4年に40歳の生涯を閉じます。自らの運命に対する無念を表している辞世の歌
限りあらば 吹かねど花は 散るものを 心短かき春の山風
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