田島・南会津旅行記(ブログ) 一覧に戻る
やはりこういう伝統建築には雪が似合うと思います。宿場町はあまり行ったことがなかったので、雪の時期に来れたことが嬉しかったです。茅葺き屋根には、やはりこんもり積もった雪が合いますね。

雪の大内宿

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2017/12/14 - 2017/12/14

90位(同エリア307件中)

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belledune

belleduneさん

やはりこういう伝統建築には雪が似合うと思います。宿場町はあまり行ったことがなかったので、雪の時期に来れたことが嬉しかったです。茅葺き屋根には、やはりこんもり積もった雪が合いますね。

旅行の満足度
4.5

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  • 江戸時代、会津西街道(別名下野街道)の半農反宿の宿場でした。会津城下から南に約6里のところにあり、江戸までは5泊6日の行程だったそうです。<br />明治になって、鉄道開通で宿場としての用途はなくなりましたが、茅葺き屋根の民家が街道沿いに並ぶ集落は観光地となり、現在も受け継がれています。

    江戸時代、会津西街道(別名下野街道)の半農反宿の宿場でした。会津城下から南に約6里のところにあり、江戸までは5泊6日の行程だったそうです。
    明治になって、鉄道開通で宿場としての用途はなくなりましたが、茅葺き屋根の民家が街道沿いに並ぶ集落は観光地となり、現在も受け継がれています。

  • 南会津の山中に位置し、全長約450mの道の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が並んでいます。民宿、土産物屋、蕎麦屋などが並び、特に高遠そばは、箸の代わりにネギで食べるそうです。<br />週日のこの雪で、開いている店は少ないようです。

    南会津の山中に位置し、全長約450mの道の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が並んでいます。民宿、土産物屋、蕎麦屋などが並び、特に高遠そばは、箸の代わりにネギで食べるそうです。
    週日のこの雪で、開いている店は少ないようです。

  • 昭和46年(1971)から大川ダム、昭和49年(1974)から大内ダムの建設が始まると、住民はダムの保証金や建設工事の従事収入を得ました。また、農業から第二次、第三次産業で現金収入を得る暮らしへと移つるようになりました。住民は生活の近代化を望んでいたので、旧街道は舗装され、茅葺き屋根はトタン屋根に吹き替えられました。家の中も台所、風呂、トイレの近代化や家を増改築するようになりました。

    昭和46年(1971)から大川ダム、昭和49年(1974)から大内ダムの建設が始まると、住民はダムの保証金や建設工事の従事収入を得ました。また、農業から第二次、第三次産業で現金収入を得る暮らしへと移つるようになりました。住民は生活の近代化を望んでいたので、旧街道は舗装され、茅葺き屋根はトタン屋根に吹き替えられました。家の中も台所、風呂、トイレの近代化や家を増改築するようになりました。

  • その後、昭和55年(1980)になって「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され、この地区は、保存地区として選定されました。旧宿場としては、長野の妻籠宿、奈良井宿に続いて全国で3番目の選定でした。<br />大内宿保存会も設立されて、住民による町並み保存活動が始まりました。裏配電による旧街道の無電線化を実現し、旧街道のアスファルト舗装を撤去して、土の道を復元したり、住民による茅葺き屋根の復元や葺き替え技術の伝承が始まりました。平成になって磐西自動車道が開通すると、観光客も増えてきました。

    その後、昭和55年(1980)になって「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され、この地区は、保存地区として選定されました。旧宿場としては、長野の妻籠宿、奈良井宿に続いて全国で3番目の選定でした。
    大内宿保存会も設立されて、住民による町並み保存活動が始まりました。裏配電による旧街道の無電線化を実現し、旧街道のアスファルト舗装を撤去して、土の道を復元したり、住民による茅葺き屋根の復元や葺き替え技術の伝承が始まりました。平成になって磐西自動車道が開通すると、観光客も増えてきました。

  • 大内宿は数少ない「マメコバチ」の生息地で、4月上旬には巣箱を果樹園に設置するそうです。ハキリバチ科のマメコバチは、ミツバチの82倍の働きをします。竹や葦などの筒の中に餌の花粉団子を運んで、産卵するという習性を利用して、りんごや桃、梨などの花の受粉をさせています。

    大内宿は数少ない「マメコバチ」の生息地で、4月上旬には巣箱を果樹園に設置するそうです。ハキリバチ科のマメコバチは、ミツバチの82倍の働きをします。竹や葦などの筒の中に餌の花粉団子を運んで、産卵するという習性を利用して、りんごや桃、梨などの花の受粉をさせています。

  • 2、3軒しか開いていないお土産物屋さんです。

    2、3軒しか開いていないお土産物屋さんです。

  • 佐藤家(玉屋)の由来:第七十七代後白河天皇の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が治承4年(1180)平家追討に失敗し、東海道から甲斐信濃の山地を越えて、上野栃木県から桧枝岐に出て、当時山本村と呼んでいた大内に着き、この家に入られたという。以来、高倉神社の永代御頭家として、半夏祭の神輿の渡御に当っては、当家、玉屋に休息された名誉ある家柄だそうです。昭和58年に修景復元されたものです。今日は開いていませんが、内部には玉屋に伝わる貴重なものが展示してあるそうです。

    佐藤家(玉屋)の由来:第七十七代後白河天皇の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が治承4年(1180)平家追討に失敗し、東海道から甲斐信濃の山地を越えて、上野栃木県から桧枝岐に出て、当時山本村と呼んでいた大内に着き、この家に入られたという。以来、高倉神社の永代御頭家として、半夏祭の神輿の渡御に当っては、当家、玉屋に休息された名誉ある家柄だそうです。昭和58年に修景復元されたものです。今日は開いていませんが、内部には玉屋に伝わる貴重なものが展示してあるそうです。

  • 古来から日本の村落共同体を支えてきたお互いに助け合うという精神で、茅葺き屋根の吹き替えにも見ることができます。茅葺の材料になるのは、ススキ、ヨシ、ワラ、篠竹など多様に亘っています。丈夫さではヨシですが、ススキは滑り難いので、高所作業には向いているそうです。ここ大内宿では、もっともススキが多く使われています。近くの茅場は、共同管理されていて、真直ぐな良い茅を育てるには、毎年きれいに刈り取り、日当たりをよくすることが大切です。また、民家20戸分の吹き替え量が入る茅倉庫があり、茅を貯蔵しています。供給先は広域に亘り、地域の茅屋根の保護に重要な役割を果たしています。

    古来から日本の村落共同体を支えてきたお互いに助け合うという精神で、茅葺き屋根の吹き替えにも見ることができます。茅葺の材料になるのは、ススキ、ヨシ、ワラ、篠竹など多様に亘っています。丈夫さではヨシですが、ススキは滑り難いので、高所作業には向いているそうです。ここ大内宿では、もっともススキが多く使われています。近くの茅場は、共同管理されていて、真直ぐな良い茅を育てるには、毎年きれいに刈り取り、日当たりをよくすることが大切です。また、民家20戸分の吹き替え量が入る茅倉庫があり、茅を貯蔵しています。供給先は広域に亘り、地域の茅屋根の保護に重要な役割を果たしています。

  • この黒いポストは、大内宿が江戸時代の宿場として史跡保存になっていることから、明治5年、ここに「大内郵便取扱所」が開局しましたが、明治17年に廃局しました。明治4年、郵便創業時に東京市内に設置されていたポスト(書状集箱と言っていた)を記念として設置したものだそうです。ちゃんと機能しているので、赤いポストと同様に利用されています。

    この黒いポストは、大内宿が江戸時代の宿場として史跡保存になっていることから、明治5年、ここに「大内郵便取扱所」が開局しましたが、明治17年に廃局しました。明治4年、郵便創業時に東京市内に設置されていたポスト(書状集箱と言っていた)を記念として設置したものだそうです。ちゃんと機能しているので、赤いポストと同様に利用されています。

  • 大内宿のほぼ中央にある「山形屋」は、縁側、板戸などを修復し、藩政時代の旅籠が復活しました。ここは民宿、土産屋、食事処です。「十一そば」は、地粉100%の手打ち蕎麦が食べられますが、昼食後だったので、囲炉裏端でコーヒーを頂きました。久しぶりの囲炉裏でした。このイワナは料亭から頼まれたものだですが、これを焼いて、酒の肴として食べるのが一番と言っていました。かなり大きな岩魚1匹500円也。

    大内宿のほぼ中央にある「山形屋」は、縁側、板戸などを修復し、藩政時代の旅籠が復活しました。ここは民宿、土産屋、食事処です。「十一そば」は、地粉100%の手打ち蕎麦が食べられますが、昼食後だったので、囲炉裏端でコーヒーを頂きました。久しぶりの囲炉裏でした。このイワナは料亭から頼まれたものだですが、これを焼いて、酒の肴として食べるのが一番と言っていました。かなり大きな岩魚1匹500円也。

  • パンフレットにあった山形屋の昭和8年頃の間取りを平成になって修復した見取り図です。

    パンフレットにあった山形屋の昭和8年頃の間取りを平成になって修復した見取り図です。

  • 大内宿町並み展示館へ行ってみます。嘗ての問屋本陣跡を再建したものです。江戸時代の部屋や写真、生活用具1300点余りが展示してありました。本陣は、大名の宿舎で、防備の工夫がされており、身分の高い人だけが出入りする乗込み(玄関)や雪隠)トイレ)、風呂がありました。当時の輸送は、宿場毎に荷物を馬に付け替えて運んでいました。その中継点が問屋でした。馬と人足の手配は、問屋本陣には大変貴重な役割でした。大内宿には、江戸時代の問屋本陣は残っていませんでしたが、貴重な建物なので、下郷町で復元されました。しかし、当時の図面は残っていなかったため、同じ会津西街道の川島本陣、糸沢本陣を参考に設計されたそうです。

    大内宿町並み展示館へ行ってみます。嘗ての問屋本陣跡を再建したものです。江戸時代の部屋や写真、生活用具1300点余りが展示してありました。本陣は、大名の宿舎で、防備の工夫がされており、身分の高い人だけが出入りする乗込み(玄関)や雪隠)トイレ)、風呂がありました。当時の輸送は、宿場毎に荷物を馬に付け替えて運んでいました。その中継点が問屋でした。馬と人足の手配は、問屋本陣には大変貴重な役割でした。大内宿には、江戸時代の問屋本陣は残っていませんでしたが、貴重な建物なので、下郷町で復元されました。しかし、当時の図面は残っていなかったため、同じ会津西街道の川島本陣、糸沢本陣を参考に設計されたそうです。

  • 復元された間取り図です。

    復元された間取り図です。

  • 最初に2階へ上がると、蚕の籠や生糸を繰る器械やマブシオリキなどが展示してありました。天井は低く、160cmほどでしょうか。

    最初に2階へ上がると、蚕の籠や生糸を繰る器械やマブシオリキなどが展示してありました。天井は低く、160cmほどでしょうか。

  • マブシオリキ

    マブシオリキ

  • 1階に下りて、展示してある資料を見ました。

    1階に下りて、展示してある資料を見ました。

  • 大内宿の位置が記されています。

    大内宿の位置が記されています。

  • 藩政時代には両側に各24戸の家があり、敷地間口は約6~7間(10,5~13m) 、奥行きは約30~33間(55~60m)で、約210坪を基準として割られていたと推定されるそうです。茅葺き寄棟造で、妻は旧街道側に面するように、また二座敷を並置する旧宿駅住居の形式だったそうです。二座敷の表、その前後を化粧垂木で飾る軒形式が特徴でした。

    藩政時代には両側に各24戸の家があり、敷地間口は約6~7間(10,5~13m) 、奥行きは約30~33間(55~60m)で、約210坪を基準として割られていたと推定されるそうです。茅葺き寄棟造で、妻は旧街道側に面するように、また二座敷を並置する旧宿駅住居の形式だったそうです。二座敷の表、その前後を化粧垂木で飾る軒形式が特徴でした。

  • 1階には、当時の生活用具が展示してあります。

    1階には、当時の生活用具が展示してあります。

  • 右手に囲炉裏があります。

    右手に囲炉裏があります。

  • チョウガンナがありました。熱海の起雲閣へ行った時、山小屋風の部屋の梁や柱が全てチョウガンナで荒削りしてあり、それを模様として使ってありました。それ以来、チョウガンナを見たかったのです。これで、あんな風にうまく削れるんですね。

    チョウガンナがありました。熱海の起雲閣へ行った時、山小屋風の部屋の梁や柱が全てチョウガンナで荒削りしてあり、それを模様として使ってありました。それ以来、チョウガンナを見たかったのです。これで、あんな風にうまく削れるんですね。

  • 茅葺の道具としては、大ハサミ、ナタ、ガギン棒の3つが基本的に必要なもので、茅ヌキ、押し切りなども使います。ナワトリは、針を使わず、ナワトリ棒を使わずに、全て手作業だったそうです。ガギン棒は、杉の根元材を使って自分たちで作っていました。茅葺き屋根の茅を噴いた後、ガギン棒で突ついて、整えるのに使います。

    茅葺の道具としては、大ハサミ、ナタ、ガギン棒の3つが基本的に必要なもので、茅ヌキ、押し切りなども使います。ナワトリは、針を使わず、ナワトリ棒を使わずに、全て手作業だったそうです。ガギン棒は、杉の根元材を使って自分たちで作っていました。茅葺き屋根の茅を噴いた後、ガギン棒で突ついて、整えるのに使います。

  • 囲炉裏の煙で燻された屋根の梁や屋根材

    囲炉裏の煙で燻された屋根の梁や屋根材

  • 大内宿の家屋の屋根は、寄棟造か半切り妻づくりの茅葺となっています。棟(屋根の頂部、グシと呼んでいます)は傷みやすいため、「棟押え(棟仕舞)」で保護されています。ここでは、千木を載せない低い三角形の収まりを基準としているそうです。胸の上の小さな屋根は、「煙出し」といって、居間や土間の上部に作られていて、竃や囲炉裏のの煙を排気するためです。

    大内宿の家屋の屋根は、寄棟造か半切り妻づくりの茅葺となっています。棟(屋根の頂部、グシと呼んでいます)は傷みやすいため、「棟押え(棟仕舞)」で保護されています。ここでは、千木を載せない低い三角形の収まりを基準としているそうです。胸の上の小さな屋根は、「煙出し」といって、居間や土間の上部に作られていて、竃や囲炉裏のの煙を排気するためです。

  • 左は修理、修景が終わった半切妻屋根の家屋、右は修理が終わった寄棟屋根の家屋です。写真が鮮明ではありませんが、形が異なるのが分かります。

    左は修理、修景が終わった半切妻屋根の家屋、右は修理が終わった寄棟屋根の家屋です。写真が鮮明ではありませんが、形が異なるのが分かります。

  • 当館の屋根の茅葺替え工事の模様です。今まで、吹き替えの様子を見たことがなかったので、興味深いものでした。茅の根元を両手で握った量を一把(いっぱ)といい、4把で一把です。6把で一段と数えます。一把は直径5寸、約15cmです。屋根を丸ごと吹き替える場合は、330段程度が必要になります。この数え方は、地域や集落によって異なるそうです。

    当館の屋根の茅葺替え工事の模様です。今まで、吹き替えの様子を見たことがなかったので、興味深いものでした。茅の根元を両手で握った量を一把(いっぱ)といい、4把で一把です。6把で一段と数えます。一把は直径5寸、約15cmです。屋根を丸ごと吹き替える場合は、330段程度が必要になります。この数え方は、地域や集落によって異なるそうです。

  • 茅屋根の茅葺作業は、足場掛けから始まります。軒より低い高さで作業し、トタンで覆われた屋根は、トタンと下地を剥ぐと、古い茅が現れます。茅屋根の解体を「ヤコボシ」といい、ヤコボシは棟から行われ、「結い」の人手を中心にして行います。再利用できる茅は、25年程度で葺替える場合で、三分の一くらいです。大体茅の葺き替えは20年~30年で必要になるということです。

    茅屋根の茅葺作業は、足場掛けから始まります。軒より低い高さで作業し、トタンで覆われた屋根は、トタンと下地を剥ぐと、古い茅が現れます。茅屋根の解体を「ヤコボシ」といい、ヤコボシは棟から行われ、「結い」の人手を中心にして行います。再利用できる茅は、25年程度で葺替える場合で、三分の一くらいです。大体茅の葺き替えは20年~30年で必要になるということです。

  • 小屋組は、梁と桁にサスを斜めに差し込み、棟木を支えています。サスに直行して、ヤナカ(母屋)を3尺間隔に「ナガ結び」で結わえます。次に荷重が集中する垂木を補修し、ヤナカに1尺間隔に「イボム結び」で結わえます。その上に茅が屋根裏にぶら下がらないように「エズリ」を1尺間隔に結びます。これを「エズリカキ」と言います。垂木の先端には、軒の最初に載せる茅が揺れるのを防ぐ「カヤオイ(ネズ)」や軒天井の杉板を取り付けます。

    小屋組は、梁と桁にサスを斜めに差し込み、棟木を支えています。サスに直行して、ヤナカ(母屋)を3尺間隔に「ナガ結び」で結わえます。次に荷重が集中する垂木を補修し、ヤナカに1尺間隔に「イボム結び」で結わえます。その上に茅が屋根裏にぶら下がらないように「エズリ」を1尺間隔に結びます。これを「エズリカキ」と言います。垂木の先端には、軒の最初に載せる茅が揺れるのを防ぐ「カヤオイ(ネズ)」や軒天井の杉板を取り付けます。

  • スミは、熟練の職人が行います。スミキ両側のナワトリを基準として、軒のシタヅケ1枚目は、オガラなどの良い茅を「ヘネ」で抑え、シタヅケ2枚目に古い茅を多めに載せ、「オシボコ」を踏み、ヘネで抑えます。新しい茅の「メヌキ」を2枚重ねて、更に「クチガヤ」を抑え、「中ノベ」で勾配を調整し、新しい長い茅を「カエリガヤ」として一ヘイ載せ、強く抑えます。軒からグシまでの平(ひろ)は、短い茅、やや長めの茅を一ヘイずつ重ねて、三ヘイ目と長い新茅で「オシガヤ」として、繰り返しこの作業を行なって、葺いていくのです。

    スミは、熟練の職人が行います。スミキ両側のナワトリを基準として、軒のシタヅケ1枚目は、オガラなどの良い茅を「ヘネ」で抑え、シタヅケ2枚目に古い茅を多めに載せ、「オシボコ」を踏み、ヘネで抑えます。新しい茅の「メヌキ」を2枚重ねて、更に「クチガヤ」を抑え、「中ノベ」で勾配を調整し、新しい長い茅を「カエリガヤ」として一ヘイ載せ、強く抑えます。軒からグシまでの平(ひろ)は、短い茅、やや長めの茅を一ヘイずつ重ねて、三ヘイ目と長い新茅で「オシガヤ」として、繰り返しこの作業を行なって、葺いていくのです。

  • 屋根の最高部のグシ(棟)は、風雨に曝され、傷みやすいので、丈夫な屋根にする工夫があります。目立つ箇所なので、装飾性も大切です。ここでは、千木を載せない低い三角形の「ヤロウグシ」が基本となっています。頂部は、「ホコギ」で固く固定し、「ウワマル」として胴切りの裏茅を二連互い違いに載せて、「アマコロガシ」の茅を馴染ませ、縄で締めます。更に、「ウワマル」を杉皮で覆い、「ケントギ」と「サンギ」を渡して、固定します。

    屋根の最高部のグシ(棟)は、風雨に曝され、傷みやすいので、丈夫な屋根にする工夫があります。目立つ箇所なので、装飾性も大切です。ここでは、千木を載せない低い三角形の「ヤロウグシ」が基本となっています。頂部は、「ホコギ」で固く固定し、「ウワマル」として胴切りの裏茅を二連互い違いに載せて、「アマコロガシ」の茅を馴染ませ、縄で締めます。更に、「ウワマル」を杉皮で覆い、「ケントギ」と「サンギ」を渡して、固定します。

  • 屋根が輝いて見えるように刈るのが、茅手の腕前だそうです。葺き方にムラがないことは勿論ですが、屋刈りの技術も必要となります。スミや軒は、特に念入りに作業し、熟練者が当たります。反りをつけ四隅のバランスを取りながら、刈っていきます。<br />

    屋根が輝いて見えるように刈るのが、茅手の腕前だそうです。葺き方にムラがないことは勿論ですが、屋刈りの技術も必要となります。スミや軒は、特に念入りに作業し、熟練者が当たります。反りをつけ四隅のバランスを取りながら、刈っていきます。

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