2026/01/17 - 2026/01/19
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ゆきたびひろさん
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2026/01/17
2026/01/18
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有休がとれ、天気も良さそうなので、猪苗代と会津若松に行きました。
- 旅行の満足度
- 5.0
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松山空港にいます。今日から、福島県に行きます。北欧紀行やエジプト紀行でたまったJALのマイルを使って羽田空港に行きます。7時40分定刻のフライトです。
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9時に羽田空港に到着後、東京駅へ。やまびこ207号仙台行に乗り、10時11分に出発です。
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11時48分、郡山駅に到着です。
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JR磐越西線快速会津若松行に乗り、12時15分に出発です。
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12時52分、猪苗代駅に到着です。景色は一変しています。一面、雪景色です。気温も4度。
猪苗代駅 駅
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猪苗代に来たのは、野口英世(本名は清作)に興味があるからです。
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野口英世記念館に行きます。でも、いい時間のバスがないです。駅からタクシーで行きます。2100円でした。
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10分ほどで、野口英世記念館に到着です。世界的細菌学者、野口英世の生涯を辿れる非常に見応えのあるスポットです。
野口英世記念館 美術館・博物館
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入館料は、800円(記念館のみ)です。
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野口英世とその母・シカに興味を持ったのは、30年ほど前、この二人を主人公とした映画「遠き落日」を見たからです。有名な母・シカの「はやくきて」の手紙のシーンは、感動的でした。歴史秘話ヒストリアや知ってるつもりというテレビ番組も記憶に残っています。
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野口英世は、1876年に福島県猪苗代町に誕生します。記念館の敷地内には、生まれ育った当時の家がそのまま保存されています。
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1歳半の英世が落ちて左手に大火傷を負った、運命の囲炉裏があります。この事故で、英世は、指が癒着して不自由になってしまいます。しかし、この怪我が彼の人生を大きく変えました。小学校の恩師や友人たちの募金で受けた手術(1892年)に感動し、「自分も医者になって人を助けたい」と決意します。
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猛勉強し、独学で英語、フランス語、ドイツ語などを習得。1897年、20歳で医師免許を取得し、1900年、わずかな旅費を手に単身アメリカへ渡りました。ペンシルベニア大学のフレクスナー教授の助手となります。英世が上京する際、床柱に刻み込んだ「志を得ざれば再び此の地を踏まず」という有名な決意の言葉が残っています。
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1911年に、アメリカのロックフェラー医学研究所の研究員となり、世界的な発見を連発します。英世は「実験マニア」と呼ばれるほど研究に没頭し、寝る間も惜しんで働きました。彼は自分の座右の銘として「忍耐(Patience)」という言葉を好んで書きました。アメリカでは、24時間、眠らずに実験する男の異常なまでの勤勉さから「日本人の人間発電機」と驚かれました。最大の功績は、梅毒の病原体(スピロヘータ)が脳内にあることを証明しました。これは、心の病と思われていた一部の症状が、実は細菌感染によるものだと突き止めた世界的な発見です。
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2024年7月に新紙幣(北里柴三郎)が発行されるまで、約20年間にわたり「千円札の顔」を務めました。千円札のデザインに使われたのは、英世が37歳頃、アメリカのロックフェラー医学研究所で活躍していた全盛期の写真です。21世紀を迎え、科学技術の振興する中、「科学者」から初めて紙幣の肖像に選ばれました。 感染症と闘った彼の功績は世界中で知られており、国際的にも恥じない人物であったことも選考の理由でした。2022年11月、英世が肖像となっている千円札の最後の印刷が行われ、日本銀行から感謝状とともにこの記念館に贈呈されたそうです。これは野口英世千円札の最後の番号「HM300000A」のお札です。
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野口英世の「遺品」や野口英世アンドロイドなどの展示品がある中、最も多くの人が足を止めるのが、母・シカから届いた直筆の手紙です。読み書きができなかった母が、アメリカにいる息子に会いたい一心で覚えた文字で書いた、涙を誘う直筆の手紙(朗読付き)は必見です。野口英世の成功の陰には、母・シカの想像を絶する献身と深い愛がありました。彼女の存在なくして、世界の野口英世は誕生していなかったと言っても過言ではありません。シカは、自分が農作業に目を離した隙に、幼い清作(英世の本名)が囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負わせてしまったことを一生の悔いとして背負いました。「この子の手は自分が不自由にしてしまった」という強い自責の念から、清作には農業ではなく学問で生きていく道を作ってあげたいと、泥まみれになって働き、教育費を捻出し続けました。
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アメリカで成功を収め、なかなか日本に帰ってこない息子へ、シカは一通の手紙を送ります。当時の彼女は読み書きができませんでしたが、近所の人に教わりながら、一生懸命に文字を覚えました。「おまイ(お前)の しせ(出世)には みな(皆)おどろ(驚)い(て)ます。……はやく(早く)きて(来て)くだされ、はやくきてくだされ、はやくきてくだされ……」。この「はやくきて」と何度も繰り返される、震える文字で書かれた手紙は、当時多忙を極めていた英世の心を激しく揺さぶり、15年ぶりの帰国を決意させる動機となりました。1915年、ついに帰国した英世は、年老いた母を連れて各地を旅行しました。英世は周囲の人に、「私の母は、学問こそないが、その魂は神様のように清らかで尊い」と誇らしげに紹介したといいます。シカは、息子が世界的な名声を得てもなお、おごることなく謙虚に「清作、偉くなったなあ」と涙を流して喜んだそうです。
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主な医学的功績は大きく、当時、不治の病と恐れられていた病気の解明に挑みました。梅毒スピロヘータの純粋培養に成功し、心の病だと思われていた症状が、実は脳に感染した梅毒菌によるものであることを証明しました。これらの功績により、計3回(1913年、1914年、1915年)もノーベル生理学・医学賞の候補に選ばれました。しかし、アフリカで流行していた「黄熱病」の研究で悲劇が起こります。当時はまだウイルスの存在が知られておらず、英世は光学顕微鏡で見える「細菌」が原因だと信じて戦いました。しかし、黄熱病の正体はより小さな「ウイルス」だったため、彼が開発したワクチンは効果がなく、1928年、アフリカのガーナにおいて、彼自身がその研究中に黄熱病に感染して51歳で亡くなってしまいました。英世が後半生を捧げた「黄熱病」や「狂犬病」の研究において、彼は原因を「細菌」だと信じて疑いませんでした。 当時はまだ、細菌よりもはるかに小さい「ウイルス」を観察できる電子顕微鏡が存在しなかったのです。英世が「梅毒」の研究だけで止まっていれば、受賞していた可能性は非常に高いと言われています。しかし、彼は常に新しい未知の病(黄熱病など)に挑み続け、その結果として当時の科学の限界にぶつかり、命を落としてしまいました。ノーベル賞という「結果」は逃しましたが、その「挑戦し続ける姿勢」こそが、彼が今も尊敬される最大の理由です。
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15時48分、記念館から駅まではバスで戻ります。10分ほどで猪苗代駅に着きます。
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鉄道との接続は良くないため、駅で1時間ほど待ち、JR磐越西線快速あいづ3号会津若松行に乗車。16時53分に出発です。
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17時21分、会津若松駅に到着です。
会津若松駅 駅
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駅近くの宿舎に入り、休みます。
東横イン会津若松駅前 宿・ホテル
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1月18日、夜明け前から朝散歩。7時頃、飯盛山へ来ました。
飯盛山 名所・史跡
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有料の動く坂道(エスカレーター)、飯盛山スロープコンベアがあります。冬季は運用していませんでした。
飯盛山スロープコンベア 名所・史跡
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階段は雪と凍結による転倒防止のため、立ち入り禁止です。
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白虎隊記念館と白虎隊酒井峰治と愛犬クマの銅像です。幕末、会津藩は迫りくる新政府軍に対抗するため、軍隊を年齢別に4つの部隊に分けました。朱雀隊(すざくたい)は主力部隊(18~35歳)、青龍隊(せいりゅうたい)は国境守備(36~44歳)、玄武隊(げんぶたい)は予備兵(50歳以上)、そして白虎隊(びゃっこたい)は最年少の予備兵(16~17歳)です。白虎隊は本来、お城を守る予備兵でしたが、戦況の悪化により急遽前線へと投入されることになりました。
白虎隊記念館 美術館・博物館
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太夫桜(たゆうざくら)。白虎隊記念館のすぐ脇に立つ、樹齢約300年の立派なエドヒガンザクラです。
飯盛山の太夫桜 花見
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白虎隊記念館の北側から登れます。
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会津飯盛山戸ノ口堰の洞穴方面を見ています。
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「さざえ堂」は、飯盛山の中腹にある、不思議な形をした木造のお堂です。正式名称は「旧正宗寺三匝堂(さんそうどう)」。
さざえ堂 寺・神社・教会
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上りと下りが一度もすれ違わないという、世界的にも極めて珍しい二重螺旋構造をしています。建築学的にも非常に価値が高く、国の重要文化財に指定されています。
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足元に気を付けながら、白虎隊士自刃の地へ向かいます。
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飯盛山で自刃(自害)したのは、白虎隊の中の「士中二番隊」と呼ばれる20名の少年たちです。戸ノ口原での激戦に敗れた彼らは、ボロボロになりながら冷たい水が流れる洞穴(戸ノ口洞穴)を潜り抜け、飯盛山へと辿り着きました。ここから鶴ヶ城(会津若松城)を眺めたとき、お城の周りから上がる火煙を見て「お城が燃えている(落城した)」と誤認してしまいます。実際には城下町が燃えていたのですが、彼らは「もはやこれまで。敵の手にかかって恥をさらすよりは、潔く自刃しよう」と決意しました。
白虎隊士自刃の地 名所・史跡
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鶴ヶ城の方を眺めています。20名のうち、飯沼貞吉(いいぬま さだきち)一人だけが奇跡的に一命を取り留めました。彼が後にこの悲劇を伝えたことで、白虎隊の物語が世に知られることになったのです。
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鶴ヶ城が見えます。
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白虎隊の物語がこれほどまでに人々の心を打つのは、単なる悲劇だからではありません。 「ならぬものはならぬ」という言葉に代表される会津の厳しい教育制度(什の掟)の中で、「主君への忠義」や「仲間の絆」を最後まで貫こうとした少年たちの純粋さが、現代にも響くからでしょう。
白虎隊の墓 名所・史跡
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ホテルに戻り、朝食後、会津若松駅へ。
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今日は、会津バスさんの冬の定期観光バス・鶴ヶ城と大内宿に参加します。6500円で、座席定員制、日帰り、バスガイドあり、昼食つき、鶴ヶ城入場料込み、会津若松駅発着です。とても、有意義な時間になり、申し込んで良かったです。10時50分、会津若松駅を出発です。
会津バス 乗り物
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11時に鶴ヶ城(若松城)に到着です。「若松城」とも呼ばれますが、その白く美しい姿には、幕末の激戦を耐え抜いた「難攻不落」の歴史が刻まれています。「鶴ヶ城」という名前の由来を調べました。戦国時代末期、それまでこの地を治めていた伊達政宗に代わり、豊臣秀吉の命で会津に入ったのが名将・蒲生氏郷です。彼はこの地を「若松」と名付け、本格的な近代城郭へと大改築しました。 氏郷の幼名は「鶴千代(つるちよ)」でした。自分のルーツである名前をお城に冠し、自身の飛躍を重ね合わせたと言われています。そして、当時完成した7層(現在の天守は5層)の黒漆塗りの天守が、白壁と相まって「まるで鶴が舞い降りたような姿」と称えられたことから、その名が定着しました。氏郷のあとも上杉氏、加藤氏、そして幕末まで続く松平氏(会津松平家)と城主は変わりましたが、「鶴ヶ城」の名は会津の人々に愛され続けました。
鶴ヶ城 (若松城、鶴ヶ城城址公園) 名所・史跡
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お堀の水は凍っています。とても幻想的です。ちなみに、猪苗代町(いなわしろまち)に、かつて「亀ヶ城(かめがじょう)」と呼ばれたお城が存在しました。鶴ヶ城(若松城)に対して、対になるように「亀ヶ城」と名付けられました。会津藩の東の守りの要として、非常に重要な拠点でした。幕末の会津戦争では、新政府軍の進撃を食い止めるための激戦地となり、最後は自ら火を放って落城しました。江戸時代は一国一城令が出され、一つの藩に一つのお城しか認められませんでしたが、猪苗代城(亀ヶ城)はその重要性から、例外的に存続が認められていた珍しいお城です。
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城内を歩くと、場所によって石垣の積み方が違います。野面積み(のづらづみ)という自然石を積んだ、古くて力強い積み方。打込接(うちこみはぎ)という石を加工して隙間を減らした、整った積み方。鶴ヶ城でこれらが混在しているのは、長い歴史の中で何度も修復・拡張されてきた証拠です。写真は、「打込接(うちこみはぎ)」という技法です。大きな石の間に小さな「間詰石(まづめいし)」が詰まっています。これにより、敵が足をかけて登りにくく、かつ排水性も確保されています。
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鶴ヶ城の鏡石(かがみいし)です。城主の権力や財力を誇示するために、お城の正面や目立つ場所にこうした巨大な石を配置しました。魔除けとしての意味も持っていました。ここでは「遊女石(ゆうじょいし)」とも呼ばれます。美しく着飾った遊女を石の上で踊らせて、運び手たちの士気を高めたというエピソードがあるからです。直径は約2メートル、奥行きは3メートルにも及びます。
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太鼓門(たいこもん)。本丸へと続く非常に重要な正門(大手門)の役割を果たしていました。門の上には「多聞櫓(たもんやぐら)」という細長い建物があり、そこに直径約1.8メートル(約6尺)もの巨大な太鼓が置かれていました。藩主が登城する際の合図や、緊急事態を知らせるために打ち鳴らされました。その太鼓があったことから、いつしか「太鼓門」と呼ばれるようになりました。会津の太鼓は特に大きく、城下中にその音が響き渡ったと言われています。
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武者走り(むしゃばしり)です。天守のすぐ近く、石垣がV字型に凹んでいる場所があります。これは、兵士が一度に大人数で登り降りできるように設計された、鶴ヶ城独自の機能美です。
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鶴ヶ城稲荷神社(つるがじょういなりじんじゃ)。城内に神社があるのは珍しいです。
鶴ヶ城 稲荷神社 寺・神社・教会
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会津地方を代表する郷土玩具「赤べこ」。その愛らしい姿には、実は1,200年以上続く「粘り強さ」と「厄除け」の物語が込められています。「べこ」は会津の方言で「牛」を意味します。そのルーツは平安時代にまで遡ります。かつて会津で天然痘(てんねんとう)が流行した際、赤べこを持っていた子供だけが病気にかからなかった、あるいは軽く済んだという言い伝えがあり、「身代わり」や「厄除け」のお守りとして広く普及しました。
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明治時代、一度は政府の命令で取り壊された鶴ヶ城ですが、1965年に会津若松市民の熱い願いによって再建されました。さらに2023年には、展示内容が全面的にリニューアルされ、より体験型のミュージアムへと進化しています。天守閣の内部は塩蔵(しおぐら)から始まる博物館になっており、上に行くほど時代が進む構成になっています。
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天守閣と「雪吊り(ゆきづり)」の写真です。手前の松の木に施されている円錐状の縄は、雪の重みで枝が折れないように保護する「雪吊り」という伝統技法です。冬の東北・北陸地方で見られる季節の風物詩ですね。天守のすぐ下に見えるのは、加工されていない自然石を積み上げた、より古く野性味のある「野面積(のづらづみ)」の石垣です。
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幕末の戊辰戦争では、新政府軍(バスガイドの方の説明では「西軍」と言っていたのが印象的でした)の最新兵器による猛烈な砲撃(1日平均2,000~3,000発)を浴びました。しかし、約1ヶ月間持ちこたえ、「東北最強の城」としての名声を轟かせました。幕末の鶴ヶ城(会津戦争・1868年)の様子は、日本の城郭史上、最も壮絶で、かつ会津人の誇りが詰まった一ヶ月間でした。1868年8月23日、新政府軍が城下に突入し、約5,000人の藩士・家族らが城に立てこもる「籠城戦(ろうじょうせん)」が始まりました。敵軍は城の東にある「小田山」を占拠し、そこから天守閣を標的に毎日数千発の砲弾を撃ち込みました。当時の写真には、屋根や壁がボロボロになった痛々しい天守の姿が残っています。新政府軍は一度も、力ずくで城内に侵入することはできませんでした。武士だけでなく、城内の女性と子供たちも全員が戦っていました。撃ち込まれた砲弾が爆発する前に、女性たちが濡れた布団を被せて爆発を防ぐ「弾消し」を行いました。山本八重(新島八重)は、自らスペンサー銃を手に男装して戦いましたが、1868年9月22日、ついに降伏します。
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天守の内部にある展示の一つです。保科正之(ほしなまさゆき)の書です。「天地明察(てんちめいさつ)」(冲方丁著)において、保科正之は主人公・渋川春海(安井算哲)を支える非常に重要なキーマンとして描かれています。この作品は、江戸時代の暦(こよみ)の改訂に挑んだ算哲の物語ですが、保科正之がいなければその偉業は成し遂げられなかったと言っても過言ではありません。この本を読んで、彼に興味を持っていました。
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保科正之は、会津松平家の祖であり、会津の精神的支柱ともいえる名君です。江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠の隠し子として生まれましたが、その誠実な人柄と類まれな政治手腕で、後に「徳川幕府を最も支えた男」と称されるようになります。異母兄である3代将軍・徳川家光にその才能を見出されました。家光は死の間際、正之の手を握り「肥後(正之のこと)、宗家(徳川家)を頼むぞ」と遺言を残したといわれています。4代将軍・家綱が幼少だったため、叔父として後見人(副将軍格)となり、幕政を支えました。武断政治から文治政治へと見事に転換させます。浪人を増やす原因だった「末期養子の禁令」の緩和や、殉死(主君の後を追って死ぬこと)の禁止など、人命を尊重する画期的な改革を行いました。会津藩主となった正之は、現代でも通用するような福祉政策を次々と打ち出しました。社倉制(しゃそうせい)は、飢饉に備えて米を蓄える制度で、後に幕府もこれを手本にしました。養老扶持(ようろうふち)は、90歳以上の高齢者に身分を問わずお米を支給する、日本最古の年金制度ともいわれる仕組みを作りました。ならぬものはならぬという会津の厳しい教育方針の礎となった、徹底した「義」の精神を重んじる気風を育てました。正之は徳川家の血筋でありながら、自分を育ててくれた保科家への恩を忘れず、生涯「保科」姓を通しました(松平姓を名乗るようになったのは後の代からです)。そして、会津家訓十五箇条で、冒頭に「会津藩たるは将軍家を護るべき存在である」という誓いを記しました。この教えが、幕末の会津藩が最後まで徳川家のために戦い抜く「悲劇の誠実さ」につながっていきます。
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鶴ヶ城天守閣の最上階(五層目)は、周囲に高い建物がないため、会津盆地を360度見渡せる素晴らしい展望台となっています。回廊(屋外の通路)に出ることができるので、会津の風を感じながら歴史的な場所を特定できます。雪景色の庭園も見えます。
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日本唯一の「赤瓦(あかがわら)」です。これは鶴ヶ城最大の特徴です。 幕末当時の姿を再現したこの赤瓦は、表面に鉄分を含む釉薬(ゆうやく)を塗って焼き固められています。これにより、水分が染み込んで凍結し、瓦が割れるのを防いでいます。一般的な黒瓦よりも強度が強く、会津の厳しい凍結から屋根を守るための雪国ならではの知恵です。
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鶴ヶ城は、美しい城跡だけではなく、会津人の「不屈の精神」や誇りが詰まった場所でした。
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12時20分頃鶴ヶ城を出て、バスで大内宿(おおうちじゅく)に向かいます。
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13時10分頃、大内宿に到着です。大内宿は、江戸時代に会津若松と日光を結ぶ「下野街道(会津西街道)」の宿場町として栄えました。
大内宿 名所・史跡
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明らかに会津若松市内より、積雪が多いです。
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まずは、大内宿の三澤屋で昼食です。グルメに疎い私にとって、食事付きのツアーはありがたいです。大内宿といえば、「高遠(たかとお)そば(ねぎそば)」です。お箸の代わりに「一本の生ねぎ」を使って、器用にそばをすくい上げながら食べます。ねぎを箸代わりにするだけでなく、時々ねぎ自体をかじって「薬味」として楽しみます。
三澤屋 グルメ・レストラン
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囲炉裏もあり、あったかい店内でいただきます。囲炉裏はもちろん暖房の役割もありますが、家の中で囲炉裏を焚き、その煙(煤)が屋根に浸透することで、防虫・防腐効果が生まれます。煙は大内宿の家を長持ちさせるための「防腐剤」です。
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食後は栃餅(とちもち)。栃餅は、山に自生する「栃の実」を、もち米と一緒に蒸しあげてついたお餅です。香ばしいナッツのような香りと、わずかなほろ苦さ、そして素朴な甘みが特徴です。米が貴重だった時代、山間部では栃の実は大切な「救荒食物(きゅうこうしょくもつ)」でした。大内宿の厳しい冬を生き抜くために、先人たちが苦労してアク抜きの手法を見つけ出し、大切に繋いできた文化の結晶と言えます。
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大内宿は、1640年(寛永17年)頃、会津藩によって整備されました。 会津若松と日光を結ぶ「会津西街道(下野街道)」の宿場町として、重要な役割を担っていました。会津藩主をはじめ、新発田藩や米沢藩などの参勤交代の大名行列がここを通って江戸へ向かいました。当時の住民は、農業を営みながら旅人を泊める「半農半宿」というスタイルで生活していました。
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現在も約30軒以上の茅葺き民家が立ち並んでいます。これは住民の方々が「売らない・貸さない・壊さない」という原則を守り、景観を維持してきた努力の賜物です。昭和56年に、国の重要伝統的境物群保存地区に選定され、日本を代表する宿場跡の一つとなっています。
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江戸末期の1868年、会津戦争(戊辰戦争)の際には、大内宿も戦火にさらされました。 実は、村全体が焼き払われる危機があったのですが、当時の名主が「村を焼かないでほしい」と両軍の将に命懸けで交渉し、奇跡的に戦火を免れたという逸話が残っています。
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実は、大内宿が今の姿で残っているのは、明治時代に「忘れられた存在」になったからです。明治17年、新しい幹線道路(現在の国道121号)が別の場所に開通しました。さらに鉄道も開通したことで、大内宿を通る人は激減しました。交通の要所から外れたことで、皮肉にも建物を作り変える必要がなくなり、茅葺き屋根の街並みがそのまま取り残されることになったのです。
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昭和40年代、高度経済成長の中で「失われゆく日本の原風景」として注目を浴びるようになります。この美しい風景は日本人だけではなく、外国人も魅了しています。観光客は、日本人と外国人が半々くらいだと思います。ホテルでも外国人の方が多く、中国や東南アジアからの観光客が多い印象でした。特に、タイやマレーシアの人も多いです。雪景色や会津若松で見られる侍文化は「伝統的な日本」を見られるとして人気が高いそうです。
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大内宿の象徴である「茅葺き(かやぶき)屋根」。あの独特の厚みとフォルムには、実は驚くべき知恵と、村の人々の「絆」が詰まっています。茅葺き屋根は天然のエアコンです。茅(ススキやヨシ)の茎は中が空洞になっており、そこに空気を溜め込みます。そのため、「夏は涼しく、冬は暖かい」という最高の断熱材になります。湿気を逃がし、通気性が良いため、日本の蒸し暑い夏でも家の中が腐りにくいようになっています。
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屋根の寿命は、環境にもよりますが約20年~30年。大内宿では、毎年どこかの家が葺き替えを行っています。かつては、村中の人々が無償で集まって作業を助け合う「結」という仕組みで行われてきました。「今日はあそこの家、明日はうち」とお互い様で助け合う精神です。現在は専門の職人さんも入りますが、この相互扶助の心は今も息づいています。一軒の家を葺き替えるには、トラック何台分もの大量の茅が必要です。大内宿では、自分たちで使う茅を育てる「茅場(かやば)」を管理し、材料も自給自足しています。
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大内宿にとって、「火」は最大の天敵です。密集した茅葺き屋根は非常に燃えやすく、一度火が出れば村全体が焼失してしまう危険があります。大内宿のメインストリートを歩いていると、道の両脇に小さな茶色の木箱が並んでいます。これらはすべて「放水銃」の格納箱です。48基あります。火災が発生した際、この箱の中から強力な放水銃がせり出し、茅葺き屋根を水のカーテンで包み込むよう設計されています。景観を壊さないよう、普段は目立たない木箱に隠されています。毎年5月(例年5月19日前後)には、全住民が参加する一斉放水訓練が行われます。設備の点検だけでなく、住民の防災意識を高め、迅速な初期消火ができるようにするために行われています。雪まつりに打ち上げられる花火も、火災予防のため夏には行わず、屋根が雪でおおわれる冬にするそうです。
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道の両脇を流れる澄んだ水路には、飲み物やスイカが冷やされている光景が見られます。夏場は涼しげですが、冬場はこの水があることで独特の風情が生まれます。
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街の中ほどにある「大内宿町並み展示館」は、かつての本陣(殿様が泊まった宿)を復元したものです。会津藩の初代藩主、保科正之も江戸参勤のためにこの街道を利用し、ここで昼食をとったという記録が残っています。この時の行列の総人数は約600人で、宿場内はたいへんにぎわったそうです。「町並み展示館(旧本陣)」では、身分の高い大名が泊まるための「玄関」や、一段高い「上段の間」など、当時の厳格な階級社会をそのまま形にしたような建築構造が見られます。
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街並みの一番奥にある階段を登ると、見晴台(みはらしだい)があり、宿場全体を上から見下ろすことができます。まさにこの場所を訪れる最大のハイライトです。ここに上がるには、急な石階段を使います。階段は少し急ですが、手すりがあります。しかし、相当、滑ります。ほとんどの人は、階段の脇にある緩やかな坂道の迂回路(子安観音堂への参道)を使っていました。
大内宿見晴台 名所・史跡
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電柱や電線がすべて地中に埋められているため、視界を遮る現代的なものがなく、カメラを向けるだけで「江戸時代に描かれた浮世絵のような写真」が撮ることができます。左右に並ぶ屋根のラインが美しく、遠くの山々が背景となって奥行きのある完璧な構図です。
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地元ではなかなか見ることができない、雪景色に見とれてしまいます。
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大内宿は単なる「古い街並み」ではなく、「江戸時代のシステムが息づく生きた博物館」でした。
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14時40分、バスに乗り、大内宿を出発します。
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15時30分、会津若松駅に到着。素晴らしい旅をコーディネートしてくれたガイドさんと写真撮影。充実したツアーとなりました。
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1月19日、早朝散歩。昨日と同じルートです。飯盛山は会津の人々にとって非常に大切な「祈りの場」。私も手を合わせに今日も訪問させていただきました。
白虎隊士自刃の地 名所・史跡
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ホテルの朝食。ビュッフェ形式。たらふく食べます。
東横イン会津若松駅前 宿・ホテル
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10時20分、JR磐越西線郡山行に乗り、会津若松駅を出発します。「森と水とロマンの鉄道」を楽しみます。
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復路では、見事に磐梯山(ばんだいさん)が見えました。この独特の形から「会津富士」とも呼ばれ、地元の人々に深く愛されている山です。民謡「会津磐梯山」でも「宝の山」と歌われています。写真で見ると左側が綺麗な円錐形をしていますが、実は1888年(明治21年)の大噴火で山体崩壊を起こし、北側(裏磐梯)は荒々しい姿をしています。見る角度によって全く表情が違います。
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磐梯山は、 古くから修験道の山として信仰され、会津藩士たちは、この雄大な磐梯山を毎日眺めながら武士の精神を養っていたと言われています。手前に見える「柵」は、雪国ならではの防雪柵(ぼうせつさく)。私にとっては新鮮な光景で、車窓を楽しみます。
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郡山駅で乗り換えです。12時06分郡山駅発のJR新幹線やまびこ52号東京行に乗ります。復路は、「常盤(ときわ)グリーン」「飛雲(ひうん)ホワイト」「はやてピンク(つつじピンク)」の「3つの色」で系を彩られたE5系です。
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東京駅で乗り換えます。総武本線快速(成田空港行き)に乗り、14時15分、東京駅を出発します。
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15時43分、成田空港空港第2ビル駅に到着です。歩いて第3ターミナルへ行きます。
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成田空港からはジェットスターにお世話になりました。18時05分、定刻のフライトでした。素敵な思い出をありがとうございました。また、最後までご覧いただき、ありがとうございました。
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