2017/11/03 - 2017/11/11
172位(同エリア453件中)
クリスさん
4回目のスペイン。今回タラゴナ県には立ち寄らなかったが、仏領カタルーニャを含めたカタルーニャ地方のロマネスクの教会を訪ね歩く。
【旅程】--------------------------------------------------
11/3(金)~11/11(土) 7泊9日
1日目 羽田→バルセロナ(カルドナ泊)
2日目 アルティエス
3日目 フォア
4日目 アルジュレス=シュール=ラメール
5日目 アルジュレス=シュール=ラメール
6日目 ベサルー
7日目 ペラタリャーダ
8日目 ペラタリャーダ→バルセロナ→フランクフルト→羽田
9日目 帰国
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
今回の旅行でどうしても行きたかった場所。
サン=リジェからは90km弱の距離になる。宿泊予定地のフォア(Foix)の町を通り越して、ここまで来た。到着時間は4時半近かった。
秋の日暮れの早い季節なので山上まで登る時間はとてもない。シャトー ドゥ モンセギュール 寺院・教会
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ここからは30分程の道のりと聞いているが、グーグルマップでは650m11分とある。経験上グーグルは高低差をまず無視していると考えられるので注意が必要だ。
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モンセギュールの村はここより1.4km程下になる。ここから村を望む事はできないが、モンセギュール陥落後に出来た村なので史跡とはあまり関係がない。
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この辺は山岳道路になるが、狩猟の季節なのか狩猟姿の人と車を途中見かける事があった。
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モンセギュールの山頂は標高1,200m。現在残されている城壁は17世紀の物で、カタリ派の物では無い。人がひとり降りて来た。時間的にもこの日最後の訪問客になるのだろう。
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登山道の最初の部分は整備されている。その先に慰霊碑が残されているので、せめてそこまでは行ってみたい。
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異端として処罰されたカタリ派。現世を悪ととらえ二元論を展開するグノーシス派、マニ教との共通性などが異端とされた理由である。
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一説ではこの場所で200名あまりの信者が火刑に処されたという。誰が添えたのか、わからないが献花された花束が置いてあった。
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カタリ派終焉の歴史は、吟遊詩人(トロヴァトーレ)に代表されるオクシタニア独自の文化圏の終わりを意味する。オクシタニアのフランスへの併合はこの時点でなされたと言ってよいだろう。
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モンセギュールの陥落は1244年の3月16日。この日がアルビジョワ十字軍の終焉の日になる。
1255年ケリビュス城(Château de Quéribus)でカタリ派が捕らえられ、これがカタリ派の最後といわれているが、十字軍は既に解散されており征討をしたのはフランス王国軍であった。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- shinkaiさん 2017/12/14 00:41:45
- モンセギュール
- こんにちは! あれぇ、また溜まってしまいましたが、でも私もやっとモンセギュールに到着です。
あれ、あの山上の城がそうなのかと思っていたのですが、17世紀の物ですか?
以前の城も内部に含まれているのでしょうか?
ずっとてっきりあの城がそうかと思っていたのでした。かなり古そうに見えますし・・。
と、あの慰霊碑はいつ頃の物なのでしょう? 異端として処刑されての地の慰霊碑というのは、やはりかなり後の物なのではないかと思いますが。
形としては素朴な古いイメージを受けますね。
佐藤賢一の「オクシタニア」は読んだことがありませんが、お勧めの作でしょうか?
私はクリスさんがモンセギュールに、というので、堀田善衛の「路上の人」を読み返し、カタリ派についてもまた改めて知ることがありましたが、当時の人々がああいう思想に傾いた、というのも大きな疑問です。
それだけ実際の世間やカトリック社会が、ああいう思想に傾くほど酷かったのか、とも思いますが・・。
でも、これは一読をお勧めします。
- クリスさん からの返信 2017/12/14 18:20:28
- RE: モンセギュール
- shinkaiさん書き込みありがとうございます。
カタリ派のモンセギュールの城は破却されてしまったので、当時の物はまったく残っていないという事です。
慰霊塔がいつの時代かはわかりませんでした。おそらくフランス革命より後の時代の物だと思います。
佐藤賢一の「オクシタニア」は長編ですがお薦めします。小説として面白い。いろいろな出来事も知る事ができますし。
個人的な考えですが、カタリ派については教義の違いというより、オクシタニアにおける就任権闘争の様なものかと思います。
カタリ派が教皇庁にどうしても受け入れなかった争点は、
1.教会税として徴収する税金を教皇庁に納めず独自の資金としていた事
2.領主、司教等の任命権を勝手に行っていた事
の2点でしょうね。
トゥールーズ伯レイモン7世に使者を送り、この2点について勝手を行わないよう詰問しますが、答えは使者の暗殺でした。レイモン7世にすれば、教皇庁の任命権を受け入れれば、自分たちの任命権も否定されるとともにフランス王の格下に成り下がる事になる。それが承服できないという理由での軽挙妄動でしたが、イノケンティウス3世の怒りを買い鉾先がカタリ派に向けられた。異端の理由付けはその後の事です。
私としては、中央で成功した商社が、一地方の優良企業の地盤を奪い取るような紛争に見えます。
初期の教皇庁というのは、まだ自分達の教義もそれほど確固たる物はなく、宗教改革後に確立されていくんですね。中世の信仰、諸聖人信仰とか聖遺物信仰、男神であるはずのキリスト教が、なぜ聖母マリアを高く崇めたかも。これらはプロテスタントの批判によりカトリック内で再定義化されていく。
アッシジのフランチェスコは良い方に転びましたが、カタリ派は悪い方に転んだという言い方も出来るかな。
長くなりましたが、これもひとつの意見として聞いていただけたら。
- shinkaiさん からの返信 2017/12/17 15:52:13
- Re: モンセギュール
- こんにちは!
確かに仰る所の税収、任命権の問題もあったのかと思います。これが通らないと教皇庁の存在も意義も無くなりますものね。
未だに確固たる国家とか教皇庁の権限も曖昧だった時代なのですね。
はい、フランチェスコ派は確かに良い受け入れをされましたが、その結果はフランチェスコが亡くなると同時に、当初とはまるで別の宗派となり、教皇庁に同化して行きますものね。
ドメニコ会派などは自分たちが異端ではない事を証明するために、異端審議で大きな活躍をして見せたりで・・。
それにしても、モンセギュールは悲惨でした。
- クリスさん からの返信 2017/12/17 19:20:33
- RE: Re: モンセギュール
- shinkaiさん、再び書き込みありがとうございます。
モンセギュールは、もう大勢が決した後の事でしたので改宗すれば命だけは助けられたという事ですが、一番悲惨だったのは最初に落されたベジェの町民たちでしょうか。
この時は、カタリ派であるなしを問わず全員が殺戮された。恐れをなした主周辺の人々はイタリアに逃走し、ミラノへの移民が急激に伸びたそうです。これが後々ミラノの発展につながったとか。
歴史って、いろいろな事が繋がりあって面白いものですね。
-
- マリアンヌさん 2017/12/03 19:12:20
- モンセギュール
- モンセギュールに行かれたなんて、すごいですね。
以前、ツール・ド・フランスを見ていて空撮でモンセギュールの城壁を見た時、感動しました。
カタリ派については、佐藤賢一の「オクシタニア」ミステリの帚木蓬生の「聖灰の暗号」などで呼んだくらいなんですが、興味深いです。
ローマ・カトリック教会に異端とされ、殲滅され、二元論とか完徳者とか教義についても謎に包まれているところに魅かれますね。
何より多くの人々が殉教し処刑された地には心が動かされます。
誰が添えたのか、わからないが献花された花束が素敵でした。
マリアンヌ
- クリスさん からの返信 2017/12/03 20:28:35
- Re: モンセギュール
- マリアンヌさん書き込みありがとうございます。佐藤賢一の「オクシタニア」は私も読んでいます。オクシタニア地域圏というのはフランスでも好きな地域ですが、まず歴史文化に憧れます。ロマネスクにも見るべきものがありますし、フランスへの併合過程でおきたこのカタリ派の弾圧の哀史には心打たれます。お城まで登れればなお良いのですが、ペイルペルテューズとかケルビュスとかの城も見たいと思っているので、次の機会を期待したいと思います。
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