2017/11/01 - 2017/11/01
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belleduneさん
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酷暑の続く7月23日の日経新聞に「陰影の美『目で涼む』極致」と題された紙面に、本法寺の床に映り込んだ緑が涼しげだったので、壁に貼って毎日見ていました。という訳で、ここ本法寺へやって来ました。7月頃の緑の葉はだいぶ散ってしたので、想像していた絵にはなりませんでしたが、また季節を変えて蓮の花が咲く頃に来てみるつもりです。
- 旅行の満足度
- 4.0
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市バス9番で、「堀川寺ノ内」でバスを降り、歩いて3、4分のところにあります。
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まず、内部非公開の本堂があります。叡昌山本法寺は、室町時代に日蓮宗・久遠成院日親上人が開設したそうです。永享12年(1440)、寛政元年(1460)と2度の破却に遭い、三条万里小路に移転して、一門の中心地となり、多くの僧侶が棲み、繁盛しました。その後、天文5年の法難で、都を追われ、一時大阪堺に避難したこともありましたが、天正15年(1587)に、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備で、現在の場所に移転しました。
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天明8年(1788)の大火で、経蔵と宝蔵だけが焼け残りました。
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まずは書院にある「巴の庭」を拝見しに行きます。
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十の庭(つなし)といい、庭に置かれている石は、十ではなくて、九つです。見る人の心にもう一つの石(意志)があることからこう名付けられたそうです。十をつなしと読ませるのは、一つ、二つと「つ」がつきますが、十だけは「つ」がつきません。このことから、「つなし」とされているそうです。
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本阿弥光悦(1558~1637)は、安土桃山から江戸時代にかけて活躍した芸術家でした。書・絵画・陶芸・漆芸など優れた作品を残しているそうです。本阿弥家は本法寺を菩提寺として支え、豊臣秀吉の命でここへ移転させられた際に、光悦は父と共に私財を投じて、伽藍の整備に尽力しました。この巴の庭は、光悦によって作られたとされています。室町期の書院風枯山水の影響を残す名庭で、国の名勝指定を受けています。
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光悦垣
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江戸時代末に刊行された京都名園案内書「都林泉名勝図会」に描かれっている本法寺の「巴の庭」の図解です。
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巴の形に築山が構成されています。近くへ行けないので、ちょっと分かり難かったです。
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こちら側が「巴の庭」です。書院の東側から南へ鍵形になっていて、広さは約200坪です。3箇所の築山で、巴を表現するので、「三巴の庭」と呼ばれていましたが、経年で、巴の形が見え辛くなっています。
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手前に蓮池があるのですが、花が終わっているので、ハスの頃に来ると綺麗なようです。
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中央奥に一つの巴の築山があります。蓮池は、切石で十角形の池が作られていて、日蓮宗の「蓮」を表しています。縁側前に半円を2つ組み合わせた円形石が、「日」となり、日蓮宗となります。
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中央奥に一つの巴の築山があるのですが、ちょっと見難いです。
東南隅に石組みの枯滝が配され、手前に置かれた縦縞文様の青石によって、流れ落ちる水を表現しているそうですが、この配置も広縁からでは、分かりません。 -
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本堂
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多宝塔は平成2006年に大規模な修理が終わりましたので、綺麗です。
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唐門です。後ろに光っているのは、宝物殿です。
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開山堂
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本堂前に立つ長谷川等伯の像。長谷川等伯の描いた「佛涅槃図」などを見て来ました。
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光悦翁が御手植えの松だそうです。
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鐘楼
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来た時とは反対側の仁王門から出ます。2層の瓦葺き門
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こちらの小川通りは茶道家通りのようです。堀川通りには茶道資料館などもありましたが、今日は休館でした。
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裏千家の「今日庵」です。
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着物姿のご婦人方が数人出ていらっしゃいました。お茶会が終わったのでしょうか。
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表千家の「不審庵」
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これが百々橋の礎石ですか。
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