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シベリア鉄道 旅の想い出 ― 出会い ―

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1982/01/01 - 1996/12/31

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JIC旅行センター

JIC旅行センターさん

■なつかしき、あの時間 ― 1982年

 大学に入ってすぐ友人4人と参加したはじめての海外旅行でロシアへ(当時はまだソ連だった)。イルクーツクからモスクワへの4泊5日をシベリア鉄道に乗車した。ロシア語も話せず、はじめは何かと不安だったが、隣の部屋に乗っていたロシア人家族と知り合いになってからは旅が楽しくなった。3人家族で、10歳の子どもをつれていた。その男の子はとてもフレンドリーで、何かというと私たちの部屋に遊びにきた。その子にルールを教えてもらい、何時間かロシアのトランプ遊びに興じたりした。その両親からはお菓子や飲み物を振る舞ってもらうこともあった。私たちはみなロシア語ができなかったのに、言葉がなくてもコミュニケーションがとれることがわかり、安心した。その家族は私たちより先に駅で下車した。急に寂しく感じたことを覚えている。

 車中にいるときは、話す以外には何もせず、ただ果てしなく続く平原を漠然と眺めるのが基本だった。社会人になった今から思うと、ぜいたくでとても貴重な時間だったという気がする。


■乗務員のやさしさに触れた ― 1989年

 夏、生まれて6ケ月余りの息子を抱えて、ヤロフスラブリ駅のプラットフォームで列車の到着を待っていた。待っこと約8時間。予定より大幅に遅れてようやく出発できた。行き先はウランバートル。乗ってみると、こちらは親子3人、相手もハンガリー人の母親と子供が二人。計7人が一部屋に押し込まれ、息苦しいぐらいだ。乗務員(車掌)と交渉したものの、埒があかず言い合いとなった。いくつかの駅を過ぎた頃、喧嘩した乗務員がやってきて空いた部屋を何とかみつけてくれたという。一部屋を家族で貸切状態にしてくれた。その後仲良くなり、夫婦で乗務していた彼らには、最後までお世話になった。例えば、シベリア鉄道にはシャワーがない。乗務員はどうするかというと、乗務員室からホースで引いた水を隣りのトイレ室の上部に取り付け、流し放しにして簡易シャワーにして使う。私達も利用させていただいた。国境を越える時は、申告書にない外貨を乗務員室に隠匿させてもくれた。その後も彼らは、モスクワからウランバートルまでの荷物を預かって届けてくれたりしたものだ。当時二人とも30歳半ばだった。元気であれば、今もシベリアのどこかで夫婦で乗務しているはずである。


■プロの仕事ぶりに感心 ― 1993年

 私が乗った車両は珍しく男性の車掌さん。若い女性ばかりの車両で居心地がよかったのか、毎日毎口お茶を持って遊びにきてはトランプをしたり、友人が持っていた折り紙に興味を示して学習したりした。やがて彼に連れられて、燃料・技術担当の若いお兄さんがやってきた。ちょっと暗めの彼は、「こんな仕事つまらない」「早く列車から降りて別の仕事をしたい。でも他にできる仕事もないからしょうがないんだ…」と愚痴ばかり。

 当初はなんだかいい加減な二人組みだな?と眺めていたのが、ひとたび列車が駅につくと、様子は一変。車掌はきびきびと乗客に指示を出し、技師さんは車両整備に機敏な動作で駆け回る。非常に頼れる、たのもしい存在に思えた。


■卓上の花 ― 1995年

 列車の旅の楽しみはやはり食堂車。でも僕らの乗った「ロシア号」、メニューは朝昼晩たったの1種類ずつしかなく、しかもロシア人にとっては高いものらしく、いつ行っても閑古鳥が鳴いていた。食事どきだというのに(時差の関係で、毎日その時間は少しずつずれていく)、がらがらの食堂車では、ウエイターのお兄ちゃんがたった一人でいつも頬づえをついていた。そんなところに僕たち日本人の若者が毎日、3度の食事時に必ずやってくるものだから、すぐに仲良しになった。東ドイツ製のちょっとくたびれぎみの食堂車。両側に4人向かい合わせがけの赤いビニール張りのいす。開けるとそこは食材の貯蔵庫になっている。機能的にはできているが、飾りっけもない。ある時、列車が信号待ちで停車した。窓の外を見ると、一面に野の花が咲いていた。ウエイターの彼は、思い立ったように手動のドアを開けると、外に降りた。列車がまた走り出すんじゃないかとひやひやする僕らをよそに、彼はのんびり、片手につかめるだけ花を摘むと、また列車に戻ってきた。そしてにこにこしながら、その色とりどりの花をテーブルの上に飾っていった。やがて列車は、それが終わるのを確かめたかのように汽笛を鳴らすと、ゆっくり動き出した。シベリアの真ん中の、のどかな風景の中だった。ほのぼのとした、あたたかい気持ちが僕らの旅の思い出として残った。


■チェスで対戦 ― 1996年

 無限に感じられるシベリア鉄道の旅では、延々と続く景色を見るのにも飽きてくると、今度は同じコンパートメントの乗客とのゲームの時間になる。私は、ウラジオストクから隣のコンパートメントにいた少年に、チェスのルールを教わっていた。そして、イルクーツクからの車内で一緒になったおじさんと対戦した。私は全くルールを知らなかったのに、時間があったせいか、道中で覚えることができた。チェスのセットは、車掌さんが貸してくれた。大抵のばあいは、長旅に備えて車掌室に備えられているようだった。私が対戦したおじさんは、かつてのフルシチョフ書記長に似た風貌で、田舎から出てきた感じの雰囲気の良い人だった。もちろん、チェス歴の長い彼に私が勝つことはなかった。


■酒に弱いロシア人 ― 1996年

 シベリア鉄道の旅で避けて通れないのは、ウオッカの洗礼。コンパートメントでは様々な乗客と時間を過ごすことになるが、大抵の場合、皆が持参してきた食料を分け合いながらの食事になる。そんな時、誰かが必ずウオッカを出してくる。私は、アルコールに弱いわけではなかったが、ウオッカを注がれたときには、彼らのペースで飲めるかどうか不安になった。しかし、私にウオッカを注いでくれたサーシャという若い男性は、4回ほど乾杯を重ねた後に真っ先に酔ってしまい、我慢できなくなってトイレに駆け込んだ。これには同じコンパートメントの女性もあきれていた。彼はトイレを汚し、車掌さんに厳しく叱られていた。私には、ロシア人が皆、酒に強いのではないかという先入観があったが、私より酒の弱いロシア人がいることを知り、妙に安心した。彼らの飲み方に従い、注がれたウオッカを一気に飲み干し、その直後にはバターを塗った黒パンやハム、そしてピクルスなどを食べなければいけないということを教わった。ピクルスは自家製の瓶詰めで、本当に美味しかった。


■友への電報 ― 1996年

 イルクーツクから、モスクワで私の到着を待ってくれている友人に、到着予定時刻を伝えないまま、時間がなかったので、シベリア鉄道に飛び乗ってしまった。一度列車に乗ってしまうと、モスクワの友人に連絡する手段は全くなかった。列車の番号さえも伝えることができなかったのだ。

 私は、友人に心配をかけてしまうことになると思い、いろいろと考えていると、事情を聴いた同室のおばあさんと孫娘の2人が協力してくれることになった。彼らは、モスクワまで行く私に対し、途中のチュメニで下車するので、モスクワの友人に、電報で到着時刻や列車番号を伝えてくれるというのである。チュメニからモスクワまでは、数日かかるので、その間にモスクワの友人に電報が届くというわけである。早速、私は車掌さんに到着目時を尋ね、それらを書いた紙と友人の連絡先をチュメニで下車する彼らに託した。結局、列車の遅れから到着時刻がずれてしまい、友人とすぐには会えなかったが、私の到着を知らせるチュメニからの電報はきちんと届いていた。その後、チュメニで降りたおばあさんと孫娘に会うことはないが、その厚意には本当に感謝したい。

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