2017/04/26 - 2017/04/27
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norio2boさん
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堺の代表的な観光スポットといえば、
仁徳天皇陵をはじめとする古墳群と、
堺で生まれた茶人の千利休をめぐる「茶の湯」の世界ではないでしょうか?
堺までは、新大阪からなら地下鉄御堂筋線でなんば駅経由で南海高野線の堺東駅まで40分くらいです。梅田からなら30分です。
堺にある南宗寺でのお茶会に行きました。ついでに、前泊して堺の観光スポットをまわりました。
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千利休は1522年に堺の商家に生まれています。
当時の堺は貿易港として発展していました。堺の由来は摂津国と河内国と和泉国の「境、左海」であったことにあります。周囲に堀を作って商人が自から治める都市でした。千利休の考え方と彼が考案した「茶の湯」にはそういった堺の自由で独立した先進的な文化が背景にあるように思います。
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今は、人口83万人(大阪府で第2位)の堺市は大阪市の衛星都市的な存在になっています。
写真は千利休屋敷跡の入り口です。
宿泊は堺駅の近くの「コンフォートホテル堺」簡単な朝食がついて6300円でした。
ホテルに荷物を置いて出かけました。
大雨の中で仕方なくタクシーで観光スポットを回りました。
千利休屋敷跡では、2人の説明員が雨の中迎えてくれました。千利休屋敷跡 名所・史跡
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千利休屋敷跡は堺市の史跡として保存されています。説明員の話では、裏千家の所有になっているとの事でした。
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利休はこの井戸から汲み上げた水で茶を点てた。
千利休は若い頃から茶に親しみ武野紹鴎(1502~1555の茶人)に師事し、師の茶の湯(わび茶)を完成させます。
織田信長の茶頭として重用され、本能寺の変の後は豊臣秀吉にも重用されます。有名な北野天満宮の大茶会、秀吉が正親町天皇に茶を点てた時に作られた黄金の茶室の設計と数々の功績を残しています。 -
1591年69歳の時、豊臣秀吉に睨まれた千利休はこの堺での蟄居(ちっきょ 閉門の上、自宅に閉じこもり謹慎する事)を命令されます。
その後、京都に呼び出され(出発を弟子の古田織部と細川忠興が見送ります)聚楽屋敷で千利休は切腹します。
太平洋戦争以降、女子教育の一環として取り込まれた「茶の湯」は奇妙な変化(個人的見解です)をして行きます。
千利休の時代の茶は武士たちの物でした。戦功には領土が与えられましたが、目覚ましい戦功には茶道具(名品)が与えられました。
戦国時代において「茶の湯」は、戦場に向かう武士たちが平常心を取り戻すための「儀式」であったと思います。
戦に勝つために必要なことは(自分の力を最大限出して戦うためには)平常心です。
当時の武士たちがいくさの前に千利休の点てた一服の茶を所望し、出陣していったのはそういう「茶の湯」の効果があったからだと思っています。
千利休の弟子の古田織部も、江戸時代になると徳川家康に切腹をさせられています。 -
千利休屋敷跡の井戸の辺りから撮影した外の景色です。
大雨の中待ってもらっている黒いタクシーが見えます。 -
千利休屋敷跡の前(写真の右側)にあるのは堺市の観光スポット「さかい利昌の杜」です。
平成27年にオープンした堺の新名所です。千利休と与謝野晶子の「千」と「昌」で利昌の杜です。
今回は大雨のため省略させて頂きました。さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館 美術館・博物館
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次は仁徳天皇陵に向かいました。
タクシーは入り口の近くまで行ってくれました。
天皇陛下をはじめとする皇族方が参拝されます。アプローチの道は充分な整備がされていました。
仁徳天皇陵古墳は日本最大の前方後円墳です。ユネスコの世界遺産への登録活動も本格化しています。甲子園12個分の面積があります。仁徳天皇陵の周囲には10基、その他を含めると合計44基の古墳があります。これが「百舌鳥古墳群」です。
写真のように横から見ると鬱蒼とした緑の小山が見えるだけです。3万円くらいで古墳群の上空を遊覧飛行する観光があるようです。そんな話をタクシーのドライバーとしていたら堺市役所の最上階からの眺望がオススメと教えられて、このあと行ってみることになりました。仁徳天皇陵古墳 名所・史跡
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仁徳天皇陵の手前の井戸
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黄色いユニフォームを着た説明員が3人いました。
大雨の中、ようやく観光客が来た!という感じで迎えてくれました。 -
大雨です。写真を撮って失礼しました。
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仁徳天皇陵古墳の後は、運転手さんのアドバイスで堺市役所まで送って頂きました。
あちこちまわって貰って3000円でした。堺市役所21階展望ロビー 名所・史跡
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市役所の入り口を入ると千利休の時代の堺の絵図が描かれていました。
展望ロビーは21階です。エレベーターを降りると360度の眺望が望めます。天気が良ければ運転手の言う通りだったと思います。 -
展望ロビーの内側は堺の歴史と文化を紹介するコーナーになっています。
写真は当時に生産された「火縄銃」です。戦国時代に商人によって自治されていた堺は海洋貿易で大きな利益を上げていました。火縄銃は種子島から技術が伝えられ、月産3000丁もの銃が作られたと言う。堺で製造されたものは「堺筒」とよばれ、織田信長(早くから銃による戦を予想した)をはじめとする多くの武将に使われました。
堺の名産品に今でも包丁があります。品質の高い一級品と評価されています。これは江戸時代になって(平和な時代になって)火縄銃作り(売れなくなった)から、同じ設備と技術を持って作られる「打ち刃物」(包丁)を始めたことに由来しています。 -
風炉点前の配置です。
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千利休の書の軸が掛けられていました。
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千利休と茶の湯と堺の解説パネル
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堺市内が眺望出来ます。
雨が残念です。
昼は堺市役所の地下の従業員用の食堂でランチ(600円)を食べました。市の職員ではない近くの市民も食べていました。
早めに上がって夕食は
美々卯でうどんすきを楽しみました。
8500円で本家の味を満喫出来ました。堺市役所21階展望ロビー 名所・史跡
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翌日のお茶会の場所は南宗寺(なんしゅうじ)です。
多くの茶人がここで、禅の修業をし、禅の手法を茶の湯に生かして行きました。
千家一門の墓が並んだ区画がありました。中央に利休宗易居士の墓があり、左に裏千家(今日庵)、右に表千家(不審庵)、手前に武者小路千家(官休庵)の歴々が並んでいます。
お茶をやっている人はこの墓所をお参りすると、点前が驚くほど上手くなるというご利益があるそうです。南宗寺 寺・神社・教会
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千利休高弟の山上宗二の供養塔です。
千利休の高弟であった山上宗二は「千利休の茶」について記録を残しました。それが「山上宗二記」です。
千利休の茶の変化と成長の十年間が書き上げられています。この記録が無ければ茶の湯の今は違ったものになったと思います。秘伝書として、宗二は何冊か書き写していて数冊が現存しています。
今では、岩波文庫で「山上宗二記」として購入出来ます。
山上宗二は師の千利休が秀吉に命じられ切腹する(1591年)前に、秀吉の逆鱗に触れ一度は高野山に逃れますが、1590年には再度怒りを買います。
耳を削がれ
鼻を削がれ
打ち首になっています。 -
雨が残っています。
南宗寺は臨済宗(禅宗の一つ) 大徳寺派(京都にある大徳寺)の寺院です。山号は龍興山です。1526年に京都の大徳寺の住職であった古嶽宗旦が堺に作った寺「南宗庵」に由来しています。
南宗寺ゆかりの人々には茶人が多く
武野紹鴎(たけのしょうおう 千利休の師、村田珠光の弟子)
三好長慶(みよしながよし)
千利休
がいます。 -
古田織部好みと言われる「枯山水の庭」
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仏殿(大雄賓殿)は国の指定重要文化財です。
こじんまりした作りですが、本格的な禅宗の仏殿であるといいます。
天井には狩野信政の描いた「八方睨みの龍」があります。名前からしてどこから見上げても睨んでいるように見えるということだと思います。
雨の中、明かりが外から入らずうすぼんやりしていました。 -
仏殿の看板です
仏殿
国指定重要文化財1652年建立
大阪府唯一の純粋な禅宗様式の仏殿である、、、、
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写真はありませんが「家康の墓」がありました。
大坂夏の陣の茶臼山で真田幸村の奇襲を受け輿に乗って逃げ出した家康は、大坂方の猛将である後藤又兵衛の槍に突かれ、堺の南宗寺で絶命した。
と言うミステリー伝説があり、大きな墓「東照宮拝殿」がありました。
二代将軍秀忠、三代将軍家光が参拝したことを記した板額が掛かる建物「坐雲亭」がありました。
歴史好きの方はたずねてみる価値があるミステリーですね。
お土産には堺土産では有名な「くるみ餅」を買って帰りました。瀬戸物に入ったもので事前に注文しておかないと買えないというお土産です。2800円でした。味はお好みでしょうか?
お店のかき氷が美味しそうでした。
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