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箱根登山鉄道「箱根板橋駅」から国道1号を小田原市街方向に戻り新幹線高架を越えた所にある居神神社(いがみじんじゃ、神奈川県小田原市城山)は戦国時代において小田原を拠点とし相模国平定をもくろむ北条氏によって攻撃を受けついに滅亡した三浦義同(みうら・よしあつ、出家後は道寸)を父とする三浦義意(みうら・よしおき、1496~1516)を御祭神の一人として祀っています。<br /><br />三浦氏は桓武平氏良文流の大族で、坂東八平氏の一つに数えられ、平良文(よしふみ)の曾孫にあたる平忠通(たいら・ただみち)が三浦氏の祖とされ、前九年の役で軍功をあげた平為通(たいら・ためみち)に三浦郷が与えられ当地域を本貫地として三浦姓を称して半島全域に発展、三浦半島全域だけでなく房総半島までの制海権を掌握するに至ります。<br /><br />宝治元年(1247)の宝治合戦で執権北条氏に敗れた三浦氏は滅亡、但し三浦一族でありながら北条氏に味方した佐原盛時は三浦氏を継ぐことが許されますが所領は三浦半島南部に限定、幕府では一御家人の地位しかなく最盛期とは比較にならぬほどの処遇を受けます。<br /><br />やがて鎌倉幕府が崩壊し建武を経て室町時代に入ると足利尊氏と弟直義(ただよし)の刻肉の争い(観応の擾乱)が起こり、この時山内上杉氏に属していた三浦高通(みうら・たかみち)は直義方として京都から東進してきた尊氏を薩埵山で迎え討つも尊氏方に敗れ戦後尊氏側に降り、敗走する直義を鎌倉に追い詰め降伏させることになります。<br /><br />尊氏から二代義詮(よしあきら)の時代となると鎌倉府首長の足利基氏(あしかが・もとうじ)体制では山内上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)が鎌倉府に復帰し関東管領に就任、同時に高通も尊氏から一度剥奪された相模守護に再補任となりますが足利持氏(あしかが・もちうじ)時代に起きた上杉禅秀(うえすぎ・ぜんしゅう)の乱後は周囲を親族で固めるとして高連(たかつら)・高明(たかあき)と世襲とされていた相模守護を持氏より解任されます。<br /><br />永享10年(1438)足利持氏は関東管領の上杉憲実(うえすぎ・のりざね)討伐のため武蔵国に着陣、逃れた憲実は幕府に救援を求め、持氏の横暴<br />を懸念した幕府は憲実支援を表明し鎌倉公方の抑え込みを図ります。<br /><br />この状況に公方に属していた三浦時高(みうら・ときたか)は幕府方に寝返って本拠の三浦半島から鎌倉に攻め込み同地を占領、この一連の動きが持氏にとって致命的となり持氏を自刃に追い込んでいます。<br /><br />永享の乱後三浦氏は相模・南武蔵一帯に影響を有する扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏を主家としますが、時高には継嗣いないため上杉持朝(うえすぎ・もちとも)の二男である高救(たかひろ)を迎えます。<br /><br />やがて隠居した時高より家督を譲られた高救でしたが、後に時高に実子高教(たかのり)が生まれ、高教を後継にしようとする時高と高救・義同(よしあつ)父子と対立することになります。<br /><br />この事態を有利に展開するため時高は主家の上杉定正(うえすぎ・さだまさ・高救の弟)と図り高救・義同父子を追放、追放された義同は母方の祖父である小田原城大森氏を頼り、後に出家して道寸(どうすん)と号し、明応3年(1494)大森氏の支援を受けて時高の拠点である新井城を攻めて時高・高教を滅ぼし三浦氏当主と相模守護代の地位を得ます。<br /><br />その後道寸は新井城を息子の荒次郎義意に譲り、自らは岡崎(現平塚市岡崎)に拠点を移し領土の拡大をもくろみますが伊豆から勢力を伸ばしてきた北条早雲(当時は伊勢新九郎盛時)によって小田原城を奪取されると北条氏に対抗することになります。<br /><br />永正9年(1512)早雲の急襲により道寸は岡崎城を退去し弟の道香(どうこう)が守る住吉城(逗子市)に逃れるも早雲の追撃厳しく住吉城は陥落、深手を負った道香は自害、脱出した道寸は南下し最後の拠点である新井城に撤退を余儀なくされます。<br /><br />新井城は鎌倉時代中期に三浦氏宗家が没落後、三浦氏を再興した佐原盛時が築城したと伝えられ、その城域は相模湾に突き出たリアス式海岸の岬にあって、北の小網代湾、南の油壷湾に囲まれ、しかも切り立った断崖という地形を最大限に活用した堅城で、唯一の陸路には深い堀切に二重の引橋が設置され、戦闘の際には木橋を城内に引いてしまえば新井城への侵攻は不可能とされていました。<br /><br />攻略の困難さを痛感した早雲は長期戦を覚悟する一方、道寸ら三浦氏の主家である扇谷上杉氏の後詰を遮断するため三浦半島の入口に玉縄城(現鎌倉市)を造り二男氏時(うじとき)を配し三浦氏の退路と補給路を断って次第に追い詰めます。<br /><br />永正10年(1513)扇谷上杉氏の命を受けた太田資康(おおた・すけやす)は三浦氏救援のため江戸城より出陣、しかしながら玉縄城付近で北条軍に迎撃され資康自身が討ち死して救援は失敗に終わります。<br /><br />唯一の補給を水軍による海路に求めながら約3年に亘って新井城の籠城戦が続けられますが永正13年(1516)兵糧が尽きた道寸・義意父子は残された将兵ともども城門を開けて北条軍に打って出て華々しい最期を遂げます。<br /><br /><br />大鳥居をくぐって右側に立てられた居神神社由緒に関して次のよう<br />に述べられています。<br /><br />「居神神社地小田原市指定重要文化財「古碑群」<br /><br />居神神社、または井神神社。祭神は木花咲耶姫命、火之加具土神、三浦荒次郎義意公の霊とされている。<br /><br />祭神三浦荒次郎については、壮絶なる創建伝説が伝わっている。<br /><br />三浦半島の新井城主であった三浦荒次郎義意は、伊勢新九郎守時(北条早雲)に攻城され永正13年(1516)7月11日、父陸奥守義同とともに自刃した。戦後義意の首を当神社の松の梢に晒し首にしたところ、3年間眼目せず通行人をにらみ、人々に恐れられたという。<br /><br />また一説には、義意自刃の際、その首は三浦半島から海を越えて小田原まで飛来し、井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間通行人をにらみつけたという。<br /><br />そこで、城下の僧が代る代る供養したが、成仏しなかった。これを聞いた久野総世寺の四世忠室存孝和尚が駆けつけ、松の下に立ってしばらく読経の後、「うつつとも夢とも知らぬひとねむり 浮世の隙を曙の空」と詠むと、さしもの怨霊も成仏し、たちまち白骨となって地に落ちた。その時、空より「われ今より当所の守り神にならん」との声があったという。そこで社を建て居神神社として祭ったといわれている。<br /><br />本殿左手に鎌倉時代末期の古碑群があり、その内板碑2基、陽刻五輪塔1基は、市街地に残る最も古いもので、小田原市の重要文化財に指定されている。」<br />

相模小田原 相模国平定を狙う新興小田原北条氏の3年に亘る猛攻に耐えかね父義同(道寸)とともに自害した新井城主三浦義意を祀る『居神神社』散歩

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2017/07/28 - 2017/07/28

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滝山氏照

滝山氏照さん

箱根登山鉄道「箱根板橋駅」から国道1号を小田原市街方向に戻り新幹線高架を越えた所にある居神神社(いがみじんじゃ、神奈川県小田原市城山)は戦国時代において小田原を拠点とし相模国平定をもくろむ北条氏によって攻撃を受けついに滅亡した三浦義同(みうら・よしあつ、出家後は道寸)を父とする三浦義意(みうら・よしおき、1496~1516)を御祭神の一人として祀っています。

三浦氏は桓武平氏良文流の大族で、坂東八平氏の一つに数えられ、平良文(よしふみ)の曾孫にあたる平忠通(たいら・ただみち)が三浦氏の祖とされ、前九年の役で軍功をあげた平為通(たいら・ためみち)に三浦郷が与えられ当地域を本貫地として三浦姓を称して半島全域に発展、三浦半島全域だけでなく房総半島までの制海権を掌握するに至ります。

宝治元年(1247)の宝治合戦で執権北条氏に敗れた三浦氏は滅亡、但し三浦一族でありながら北条氏に味方した佐原盛時は三浦氏を継ぐことが許されますが所領は三浦半島南部に限定、幕府では一御家人の地位しかなく最盛期とは比較にならぬほどの処遇を受けます。

やがて鎌倉幕府が崩壊し建武を経て室町時代に入ると足利尊氏と弟直義(ただよし)の刻肉の争い(観応の擾乱)が起こり、この時山内上杉氏に属していた三浦高通(みうら・たかみち)は直義方として京都から東進してきた尊氏を薩埵山で迎え討つも尊氏方に敗れ戦後尊氏側に降り、敗走する直義を鎌倉に追い詰め降伏させることになります。

尊氏から二代義詮(よしあきら)の時代となると鎌倉府首長の足利基氏(あしかが・もとうじ)体制では山内上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)が鎌倉府に復帰し関東管領に就任、同時に高通も尊氏から一度剥奪された相模守護に再補任となりますが足利持氏(あしかが・もちうじ)時代に起きた上杉禅秀(うえすぎ・ぜんしゅう)の乱後は周囲を親族で固めるとして高連(たかつら)・高明(たかあき)と世襲とされていた相模守護を持氏より解任されます。

永享10年(1438)足利持氏は関東管領の上杉憲実(うえすぎ・のりざね)討伐のため武蔵国に着陣、逃れた憲実は幕府に救援を求め、持氏の横暴
を懸念した幕府は憲実支援を表明し鎌倉公方の抑え込みを図ります。

この状況に公方に属していた三浦時高(みうら・ときたか)は幕府方に寝返って本拠の三浦半島から鎌倉に攻め込み同地を占領、この一連の動きが持氏にとって致命的となり持氏を自刃に追い込んでいます。

永享の乱後三浦氏は相模・南武蔵一帯に影響を有する扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏を主家としますが、時高には継嗣いないため上杉持朝(うえすぎ・もちとも)の二男である高救(たかひろ)を迎えます。

やがて隠居した時高より家督を譲られた高救でしたが、後に時高に実子高教(たかのり)が生まれ、高教を後継にしようとする時高と高救・義同(よしあつ)父子と対立することになります。

この事態を有利に展開するため時高は主家の上杉定正(うえすぎ・さだまさ・高救の弟)と図り高救・義同父子を追放、追放された義同は母方の祖父である小田原城大森氏を頼り、後に出家して道寸(どうすん)と号し、明応3年(1494)大森氏の支援を受けて時高の拠点である新井城を攻めて時高・高教を滅ぼし三浦氏当主と相模守護代の地位を得ます。

その後道寸は新井城を息子の荒次郎義意に譲り、自らは岡崎(現平塚市岡崎)に拠点を移し領土の拡大をもくろみますが伊豆から勢力を伸ばしてきた北条早雲(当時は伊勢新九郎盛時)によって小田原城を奪取されると北条氏に対抗することになります。

永正9年(1512)早雲の急襲により道寸は岡崎城を退去し弟の道香(どうこう)が守る住吉城(逗子市)に逃れるも早雲の追撃厳しく住吉城は陥落、深手を負った道香は自害、脱出した道寸は南下し最後の拠点である新井城に撤退を余儀なくされます。

新井城は鎌倉時代中期に三浦氏宗家が没落後、三浦氏を再興した佐原盛時が築城したと伝えられ、その城域は相模湾に突き出たリアス式海岸の岬にあって、北の小網代湾、南の油壷湾に囲まれ、しかも切り立った断崖という地形を最大限に活用した堅城で、唯一の陸路には深い堀切に二重の引橋が設置され、戦闘の際には木橋を城内に引いてしまえば新井城への侵攻は不可能とされていました。

攻略の困難さを痛感した早雲は長期戦を覚悟する一方、道寸ら三浦氏の主家である扇谷上杉氏の後詰を遮断するため三浦半島の入口に玉縄城(現鎌倉市)を造り二男氏時(うじとき)を配し三浦氏の退路と補給路を断って次第に追い詰めます。

永正10年(1513)扇谷上杉氏の命を受けた太田資康(おおた・すけやす)は三浦氏救援のため江戸城より出陣、しかしながら玉縄城付近で北条軍に迎撃され資康自身が討ち死して救援は失敗に終わります。

唯一の補給を水軍による海路に求めながら約3年に亘って新井城の籠城戦が続けられますが永正13年(1516)兵糧が尽きた道寸・義意父子は残された将兵ともども城門を開けて北条軍に打って出て華々しい最期を遂げます。


大鳥居をくぐって右側に立てられた居神神社由緒に関して次のよう
に述べられています。

「居神神社地小田原市指定重要文化財「古碑群」

居神神社、または井神神社。祭神は木花咲耶姫命、火之加具土神、三浦荒次郎義意公の霊とされている。

祭神三浦荒次郎については、壮絶なる創建伝説が伝わっている。

三浦半島の新井城主であった三浦荒次郎義意は、伊勢新九郎守時(北条早雲)に攻城され永正13年(1516)7月11日、父陸奥守義同とともに自刃した。戦後義意の首を当神社の松の梢に晒し首にしたところ、3年間眼目せず通行人をにらみ、人々に恐れられたという。

また一説には、義意自刃の際、その首は三浦半島から海を越えて小田原まで飛来し、井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間通行人をにらみつけたという。

そこで、城下の僧が代る代る供養したが、成仏しなかった。これを聞いた久野総世寺の四世忠室存孝和尚が駆けつけ、松の下に立ってしばらく読経の後、「うつつとも夢とも知らぬひとねむり 浮世の隙を曙の空」と詠むと、さしもの怨霊も成仏し、たちまち白骨となって地に落ちた。その時、空より「われ今より当所の守り神にならん」との声があったという。そこで社を建て居神神社として祭ったといわれている。

本殿左手に鎌倉時代末期の古碑群があり、その内板碑2基、陽刻五輪塔1基は、市街地に残る最も古いもので、小田原市の重要文化財に指定されている。」

交通手段
JRローカル 私鉄
  • 板橋口周辺・案内板

    板橋口周辺・案内板

  • 周辺案内図

    周辺案内図

  • 居神神社正面(全景)

    居神神社正面(全景)

  • 居神神社(近景)

    居神神社(近景)

  • 居神神社・第一鳥居

    居神神社・第一鳥居

  • 居神神社・御祭神

    居神神社・御祭神

  • 居神神社・由緒<br /><br />御祭神を記載した立て札の横には由緒が記されています。

    居神神社・由緒

    御祭神を記載した立て札の横には由緒が記されています。

  • 居神神社・第二鳥居<br />

    居神神社・第二鳥居

  • 拝殿への道<br /><br />石段(男道)を上るほか左側の坂(女道)を歩くこともできます。自分は往路は坂を帰路は階段を利用することにします。

    拝殿への道

    石段(男道)を上るほか左側の坂(女道)を歩くこともできます。自分は往路は坂を帰路は階段を利用することにします。

  • 神社拝殿<br /><br />坂を歩き境内に足をいれると丁度拝殿の左側に入っていきます。

    神社拝殿

    坂を歩き境内に足をいれると丁度拝殿の左側に入っていきます。

  • 拝殿への坂道<br /><br />今まで登った坂を振り返ります。

    拝殿への坂道

    今まで登った坂を振り返ります。

  • 居神神社・拝殿

    イチオシ

    居神神社・拝殿

  • 居神神社・境内

    居神神社・境内

  • 居神神社・境内

    居神神社・境内

  • 居神神社・拝殿(近景)

    居神神社・拝殿(近景)

  • 居神神社・拝殿上部の彫刻

    居神神社・拝殿上部の彫刻

  • 三浦氏家紋<br /><br />拝殿前に設置の賽銭箱前面には三浦氏の家紋、いわゆる「三つ引両」が施されているのがわかります。

    三浦氏家紋

    拝殿前に設置の賽銭箱前面には三浦氏の家紋、いわゆる「三つ引両」が施されているのがわかります。

  • 居神神社・境内

    居神神社・境内

  • 古碑群<br /><br />居神神社拝殿の左奥にひっそりとたたずんでいるのが見えます。

    古碑群

    居神神社拝殿の左奥にひっそりとたたずんでいるのが見えます。

  • 古碑群

    古碑群

  • 居神神社の古碑群説明板

    居神神社の古碑群説明板

  • 居神神社・境内<br /><br />古碑群説明板を振り返ると左手に拝殿とともに境内への登り口が見えます。

    居神神社・境内

    古碑群説明板を振り返ると左手に拝殿とともに境内への登り口が見えます。

  • 居神神社・本殿<br /><br />拝殿に続く本殿は何と白亜のコンクリ-ト製となって木製の拝殿と対照的です。

    居神神社・本殿

    拝殿に続く本殿は何と白亜のコンクリ-ト製となって木製の拝殿と対照的です。

  • 居神神社・祀堂(境内)

    居神神社・祀堂(境内)

  • 居神神社・拝殿

    居神神社・拝殿

  • 展望<br /><br />高台に配されているので神社境内から国道1号道路を展望します。

    展望

    高台に配されているので神社境内から国道1号道路を展望します。

  • 社務所

    社務所

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