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箱根登山鉄道箱根板橋駅から徒歩5分、宝聚山・大久寺(だいきゅうじ、神奈川県小田原市城山)は小田原合戦後没落した北条氏の旧領である関東に入部した徳川家康の腹心として活躍した譜代大名の大久保忠世(おおくぼ・ただよ、1532~1594)開基による日蓮宗の寺院です。<br /><br />天正18年(159)秀吉の命によって関東(伊豆・武蔵・相模・上野・上総・下総及び下野一部)へ国替えとなり江戸に入った徳川家康は、本拠地防衛のため江戸を取り巻く要所に譜代の中でも信頼の厚い有力武将を配置、すなわち井伊直政を12万石で上野国箕輪城に、榊原康政を10万石で上野国館林城に、本多忠勝を10万石で上総国大多喜城に、そして大久保忠世を4万5千石を以て相模国小田原城にそれぞれ知行を与え新領地の安定した経営をめざします。<br /><br />文禄3年(1594)忠世死去、嫡男忠隣(ただちか、1553~1628)が家督を継ぎ自身が知行していた武蔵羽生の2万石をあわせて6万5千石を有するに至ります。<br /><br />慶長12年(1607)将軍を辞し駿府に移った大御所の家康を支える吏僚派側近の本多正信正純父子と、江戸において二代将軍となった秀忠を支える武断派の代表格忠隣との間で確執が生まれ二元政治の中で権力闘争が展開されます。<br /><br />やがてこの忠隣の武断派と本多正信の吏僚派との執拗な争いが思わぬ展開を見せることになります。<br /><br />慶長18年(1613)忠隣はキリシタン鎮圧のため上洛したところ幕命を帯びた京都所司代より所領没収の上近江配流を伝えられ、やがて彦根藩主井伊直孝の管理下に置かれ寛永5年(1628)に赦免のないまま配流先の近江国にて没します。<br /><br />寛永2年(1625)、忠隣の孫で忠職(ただとも、1604~1670)の代になって赦免され大久保家嫡流を再興、貞享3年(1686)忠職の跡を継いだ忠朝(ただとも、1632~1712)は再び相模国小田原藩主に復帰を果たすこととなり、以降明治維新まで続きます。<br /><br /><br />山門をくぐると左側に説明板が立ち、次の通り記されています。<br /><br />「大久寺<br /><br />大久寺は宝聚山随心院と号法華宗(現在は日蓮宗)の寺で、小田原大久保の初代七郎を開基とする寺である。<br /><br />天正18年(1590)の小田原合戦に、徳川家康に従って参戦した遠州二俣城主大久保忠世は、合戦後論行賞によって小田原城4万5千石が与えられていた。この時忠世は日頃から帰依していた僧自得院日英を二俣から招聘し、しばらくは石垣山三の丸(古称聖人屋敷)に仮住いでいた。そして忠世が開基となって建設をすすめ、翌年天正19年堂宇が完成すると、日英を開山とする大久保家の菩提寺とした。<br /><br />慶長19年(1614)二代目相模守忠隣の時、大久保家が改易になると衰退したので、寛永10年(1633)石川主殿忠聡(忠隣二男・石川日向守家成養子)が大久寺を江戸下谷に移した(教風山大久寺)。その後大久保新八郎忠任が石塔・位牌を戻して大久寺がこの地に再建された。<br /><br />墓石は正面右から小田原大久保氏三代加賀守忠常、二代相模守忠隣、藩祖七郎右衛門忠世、勤三郎忠良(忠勝五男)、五郎左衛門忠勝(忠俊の子)、常源忠俊(忠世の伯父)、忠良の娘の墓で、これらは前期大久保氏一族の墓所として小田原市の史跡に指定されている。<br /><br />大久保氏の墓所は、法華宗陣門流の大本山京都の本善寺、愛知県岡崎市の長福寺、東京青山の教学院にもある。」<br /><br /><br /><br /><br />

相模小田原 二代将軍秀忠を実現させた家康の武断派側近なれど吏僚派との権力争いに敗れ改易となり後に赦免復活の大久保氏の菩提寺『大久寺』散歩

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2017/07/28 - 2017/07/28

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滝山氏照

滝山氏照さん

箱根登山鉄道箱根板橋駅から徒歩5分、宝聚山・大久寺(だいきゅうじ、神奈川県小田原市城山)は小田原合戦後没落した北条氏の旧領である関東に入部した徳川家康の腹心として活躍した譜代大名の大久保忠世(おおくぼ・ただよ、1532~1594)開基による日蓮宗の寺院です。

天正18年(159)秀吉の命によって関東(伊豆・武蔵・相模・上野・上総・下総及び下野一部)へ国替えとなり江戸に入った徳川家康は、本拠地防衛のため江戸を取り巻く要所に譜代の中でも信頼の厚い有力武将を配置、すなわち井伊直政を12万石で上野国箕輪城に、榊原康政を10万石で上野国館林城に、本多忠勝を10万石で上総国大多喜城に、そして大久保忠世を4万5千石を以て相模国小田原城にそれぞれ知行を与え新領地の安定した経営をめざします。

文禄3年(1594)忠世死去、嫡男忠隣(ただちか、1553~1628)が家督を継ぎ自身が知行していた武蔵羽生の2万石をあわせて6万5千石を有するに至ります。

慶長12年(1607)将軍を辞し駿府に移った大御所の家康を支える吏僚派側近の本多正信正純父子と、江戸において二代将軍となった秀忠を支える武断派の代表格忠隣との間で確執が生まれ二元政治の中で権力闘争が展開されます。

やがてこの忠隣の武断派と本多正信の吏僚派との執拗な争いが思わぬ展開を見せることになります。

慶長18年(1613)忠隣はキリシタン鎮圧のため上洛したところ幕命を帯びた京都所司代より所領没収の上近江配流を伝えられ、やがて彦根藩主井伊直孝の管理下に置かれ寛永5年(1628)に赦免のないまま配流先の近江国にて没します。

寛永2年(1625)、忠隣の孫で忠職(ただとも、1604~1670)の代になって赦免され大久保家嫡流を再興、貞享3年(1686)忠職の跡を継いだ忠朝(ただとも、1632~1712)は再び相模国小田原藩主に復帰を果たすこととなり、以降明治維新まで続きます。


山門をくぐると左側に説明板が立ち、次の通り記されています。

「大久寺

大久寺は宝聚山随心院と号法華宗(現在は日蓮宗)の寺で、小田原大久保の初代七郎を開基とする寺である。

天正18年(1590)の小田原合戦に、徳川家康に従って参戦した遠州二俣城主大久保忠世は、合戦後論行賞によって小田原城4万5千石が与えられていた。この時忠世は日頃から帰依していた僧自得院日英を二俣から招聘し、しばらくは石垣山三の丸(古称聖人屋敷)に仮住いでいた。そして忠世が開基となって建設をすすめ、翌年天正19年堂宇が完成すると、日英を開山とする大久保家の菩提寺とした。

慶長19年(1614)二代目相模守忠隣の時、大久保家が改易になると衰退したので、寛永10年(1633)石川主殿忠聡(忠隣二男・石川日向守家成養子)が大久寺を江戸下谷に移した(教風山大久寺)。その後大久保新八郎忠任が石塔・位牌を戻して大久寺がこの地に再建された。

墓石は正面右から小田原大久保氏三代加賀守忠常、二代相模守忠隣、藩祖七郎右衛門忠世、勤三郎忠良(忠勝五男)、五郎左衛門忠勝(忠俊の子)、常源忠俊(忠世の伯父)、忠良の娘の墓で、これらは前期大久保氏一族の墓所として小田原市の史跡に指定されている。

大久保氏の墓所は、法華宗陣門流の大本山京都の本善寺、愛知県岡崎市の長福寺、東京青山の教学院にもある。」




交通手段
JRローカル 私鉄
  • 箱根板橋駅<br /><br />箱根登山鉄道にて次の駅で下車、駅前の国道1号線を小田原駅方向に戻ります。

    箱根板橋駅

    箱根登山鉄道にて次の駅で下車、駅前の国道1号線を小田原駅方向に戻ります。

  • 大久寺・寺門<br /><br />国道1号線に面した南側に大久寺石門が在り、その奥には山門が控えています。小田原城主の菩提寺として往時の寺域は広大だったでしょうが、現在は住宅に挟まれた参道は窮屈な形となっています。

    大久寺・寺門

    国道1号線に面した南側に大久寺石門が在り、その奥には山門が控えています。小田原城主の菩提寺として往時の寺域は広大だったでしょうが、現在は住宅に挟まれた参道は窮屈な形となっています。

  • 大久寺・寺標<br /><br />右側には「日蓮宗 大久寺」と描かれています。<br /><br />

    大久寺・寺標

    右側には「日蓮宗 大久寺」と描かれています。

  • 大久寺・石門<br /><br />左側には「小田原藩主 大久保家菩提寺」と記されています。

    大久寺・石門

    左側には「小田原藩主 大久保家菩提寺」と記されています。

  • 大久寺・山門

    大久寺・山門

  • 大久寺・説明板

    大久寺・説明板

  • 大久寺・境内

    大久寺・境内

  • 大久寺・本堂(全景)

    大久寺・本堂(全景)

  • 大久寺本堂掲示の扁額<br /><br />山号である「實聚山」と揮毫された扁額が視野に入ってきます。

    大久寺本堂掲示の扁額

    山号である「實聚山」と揮毫された扁額が視野に入ってきます。

  • 大久保氏一族墓所全景

    大久保氏一族墓所全景

  • 大久保氏一族墓所説明<br /><br />「 小田原市指定史跡<br />     大久保一族の墓所<br /><br />大久寺(現在日蓮宗)は、徳川家康の重臣であった小田原城主大久保忠世が天正19年(1591)に開基(寺を建てた人)し、僧の日英が開山(寺を開いた僧)した大久保氏の菩提寺です。<br /><br />墓石は、正面向かって右から大久保忠常の墓、大久保忠隣の墓、大久保忠世の墓、大久保忠良の墓、大久保忠勝の墓、大久保忠俊の墓、忠良の娘の墓の順になっています。<br /><br />初代忠世の遺体の一部は、京都本禅寺に納めたといわれています。<br /><br />二代忠隣は、晩年流罪となり、近江国(滋賀県)佐和山石ケ崎で死亡しておりますので、この墓は供養塔と思われます。<br /><br />忠常は、忠隣の嫡男で小田原城中で死亡し、大久寺に葬られました。<br /><br />忠俊は、忠世の伯父で、大久保氏が小田原に移る以前の天正9年(1581)に死亡しておりますので供養塔と思われます。<br /><br />大久保勘三郎と刻んである墓は、忠勝の五男忠良のことでその娘と共に埋葬されておりますので、何か事情があったものと 思われております。<br /><br />なお、初代忠世の墓石は、宝塔として本市の代表的なものです。<br /><br />                   小田原市教育委員会  」

    大久保氏一族墓所説明

    「 小田原市指定史跡
         大久保一族の墓所

    大久寺(現在日蓮宗)は、徳川家康の重臣であった小田原城主大久保忠世が天正19年(1591)に開基(寺を建てた人)し、僧の日英が開山(寺を開いた僧)した大久保氏の菩提寺です。

    墓石は、正面向かって右から大久保忠常の墓、大久保忠隣の墓、大久保忠世の墓、大久保忠良の墓、大久保忠勝の墓、大久保忠俊の墓、忠良の娘の墓の順になっています。

    初代忠世の遺体の一部は、京都本禅寺に納めたといわれています。

    二代忠隣は、晩年流罪となり、近江国(滋賀県)佐和山石ケ崎で死亡しておりますので、この墓は供養塔と思われます。

    忠常は、忠隣の嫡男で小田原城中で死亡し、大久寺に葬られました。

    忠俊は、忠世の伯父で、大久保氏が小田原に移る以前の天正9年(1581)に死亡しておりますので供養塔と思われます。

    大久保勘三郎と刻んである墓は、忠勝の五男忠良のことでその娘と共に埋葬されておりますので、何か事情があったものと 思われております。

    なお、初代忠世の墓石は、宝塔として本市の代表的なものです。

                       小田原市教育委員会  」

  • 大久保氏一族墓石<br /><br />右から三代忠常(二代忠隣嫡男)、二代忠隣供養塔、藩祖忠世、忠良。

    大久保氏一族墓石

    右から三代忠常(二代忠隣嫡男)、二代忠隣供養塔、藩祖忠世、忠良。

  • 大久保氏一族墓石<br /><br />右から忠勝、忠俊が並び壇の下には忠良の娘の墓石となっています。

    大久保氏一族墓石

    右から忠勝、忠俊が並び壇の下には忠良の娘の墓石となっています。

  • 大久保忠世(藩祖)

    大久保忠世(藩祖)

  • 大久保氏一族墓石全景

    イチオシ

    大久保氏一族墓石全景

  • 本堂と鬼瓦

    本堂と鬼瓦

  • 鬼瓦近景

    鬼瓦近景

  • 箱根登山鉄道<br /><br />本寺はJR東海道線と箱根登山鉄道線の分かれる付近に位置しています。

    箱根登山鉄道

    本寺はJR東海道線と箱根登山鉄道線の分かれる付近に位置しています。

  • 箱根登山鉄道車両<br /><br />大久寺側に走る車両は箱根湯本駅から小田原駅に向かって走行しています。

    箱根登山鉄道車両

    大久寺側に走る車両は箱根湯本駅から小田原駅に向かって走行しています。

  • 大久寺山門(内側)<br /><br />境内から山門を通して国道1号線を捉えます。

    大久寺山門(内側)

    境内から山門を通して国道1号線を捉えます。

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