2017/06/24 - 2017/06/24
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旅人のくまさんさん
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日本百名城の山中城の紹介です。1万人で守備するように設計されたとも言われる広大な山城ですが、7万人に近い豊臣軍に対して4千人の守備隊では、半日での落城となりました。
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障子堀の光景です。三島市で纏められた、昭和48年(1947年)の第1次発掘調査から、平成4年(1992年)の第17次発掘調査結果の紹介です。遺物の出土が調査面積に比較し極めて数少ないことから、山中城が地域を領治する城郭とは異なり、国境警備の城であり、臨戦体制のみに人員が増強される軍事基地としての性格が強かったと総括されていました。
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発掘調査結果では、『山中城を最も特色付ける遺構であり調査の大きな成果の一つに、障子堀と呼ばれる堀の実態がはじめて明らかにされた』と紹介されていました。『本丸堀、西櫓堀、西ノ丸堀、出丸の堀等の調査によって、その形態が詳細に明らかになった』とも述べられ、畝堀の典型が、西櫓堀と紹介されていました。
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イチオシ
急斜面に設けられた階段と、その脇の細い水路の光景です。水路は、雨水を溜池に集めるための施設でした。発掘調査を基に再建された水路と階段のようでした。
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『溜池』のタイトルがあった説明パネルです。山田川支流の谷を堰き止めて利用した溜池で、本丸、北の丸、西の丸の雨水もここに溜められたようです。発掘調査の時、4メートル掘削しても、まだ底に達しなかったと解説されていました。
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先程の説明パネルで紹介されていた溜池の光景です。発掘調査の結果を踏まえ、山城における水の確保では、並々ならぬ努力がなされていたことを特筆されていました。
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三方に向けて表示があった、道案内標識の光景です。右が本丸跡、その反対側にむいた左側が障子堀跡、手前方向が元西櫓跡方向です。
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本丸方面に向かう途中の光景です。はっきりとはしませんが、通路の脇には、堀跡があるようにも見えました。樹木は、廃城後に成長してきたものでしょう。目を凝らせば、堀に設けられた畝も確認できるかもしれません。
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同じく、本丸方面に向かう途中の光景です。通路の両側に堀が設けられていた場所のように見えました。通路の脇は、両脇とも急傾斜になっていました。縄張り図に『帯曲輪』と記されてた場所かもしれません。
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旅行の後で確認したことですが、『西の丸跡』の見学の後、『北の丸跡』と『本丸跡』の見学のために遠田場所は、縄張り図からは、『帯曲輪』に間違いがないようでした。
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『本丸堀』の説明パネルの光景です。パネルの中の写真には、木々の間に見えていた畝の頂部について説明されていました。堀と直角に畝を設けることで、貯水も可能だったようです。
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前方に見えてきたのは、『北の丸堀』に架かる橋のようです。発掘調査を基に再建された架橋のようです。橋の先には、登り階段が続いていました。
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『北の丸跡』に到着しました。『本丸跡』とは、『架橋』で往来されていた曲輪です。前方にその曲輪を取り囲む土塁が見えていました。
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『北の丸堀』のタイトルがあった説明看板です。少し拾い読みしますと、『北の丸を囲む豪快な堀』と紹介されていました。400年以上経って、堀底に2メートル以上の堆積物があっても、この深い堀と、急傾斜の壁を評価していました。
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『北の丸堀』のタイトルがあった説明看板で、『豪快な堀』と評価されていた濠の横からの眺めです。人工ではなく、自然の谷の様な深さに見えました。
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土塁のズームアップ光景です。付近に生えている樹木の根元が土塁の下部に入り込んでいるように見えますから、近年に再建された土塁ではなく、長年月を経た土塁かもしれません。
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『北ノ丸跡』のタイトルがあった説明看板です。本丸に次ぐ高さの標高583メートルにあり、三方を堀と土塁で囲み、本丸との間には橋を架けて行き来していたとされる重要な曲輪と紹介されていました。
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広々とした『北の丸跡』の光景です。面積も1920平方メートル(約580坪)あります。寸ポを記した情報は見つかりませんでしたが、長方形と仮定すれば、40メートル*48メートル、あるいは35メートル*55メートルといったところでしょうか。
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綺麗に整地された、『北の丸』の周辺部分の光景です。復元された土塁で囲われていました。土塁の外側には濠があったようです。発掘調査結果では、『本丸北側、厩にみられる大土塁は基底幅15メートル、高さ4.5メートルの大きなものであり、通常規模の土塁でも高さ1.8メートル程度、法面の勾配はおおむね58度』と紹介されていました。
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『国指定史跡・山中城址』のタイトルがあった解説看板です。三島市教育委員会による発掘調査結果を踏まえた山中城址の特徴などが紹介されていました。末尾には、宗閑寺に眠る、敵同士であった北条軍と豊臣軍の武将についても紹介されていました。
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少し記憶が曖昧ですが、先程通ってきた『帯曲輪』の出入口だったかもしれません。ネット情報では、『北の丸虎口』の表示がありました。
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横から眺めた古い土塁の光景です。頂部が丸くなり、低くはなっていましたが、修復の手が入っていない、オリジナルの土塁跡かもしれません。
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イチオシ
北の丸と本丸との間に架けられた『架橋』の光景です。発掘調査の結果を踏まえて、復元された橋です。『史跡山中城跡調査専門委員会』に顧問として参加された、日大の宮脇泰一教授の指導による復元です。
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横から眺めた、畝堀らしい場所の光景です。『本丸堀』の説明パネルの写真で紹介されていたように、はっきりとは畝を確認できませんでしたが、畝がないとも断定できない光景でした。
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同じく、横から眺めた、畝堀らしい場所の光景です。畝を含めた堀跡を確認するには、樹木を伐採したうえでの発掘作業が必要な場所のようでした。
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『架橋』のタイトルがあった説明パネルです。発掘調査の結果、北の丸と本丸との間に架橋があったことが確認されたため、復元された橋についての説明でした。多くは土橋繋がれた山中城ですが、特に重要な箇所には防御に有利な『架橋』が用いられていたようです。
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写真を撮影している場所は、『天守櫓跡』だったようです。整地して、柵が設けてありました。林の先に見えているのは、『北の丸跡』だったようです。
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山中城址の中では最も高所になる、本丸跡の『天守櫓跡』から眺めた光景です。眼下に見えているのは『本丸址』です。
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イチオシ
同じく、本丸跡の『天守櫓跡』から眺めた光景です。遠くに霞ん℃で見えているのは、三島市街のようです。眼下の藤棚が、本丸広間があった場所と比定されています。その根拠は、江戸時代に描かれた絵図です。
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『天守櫓跡』のタイトルがあった説明パネルです。標高586メートルの山中城跡の最も高い場所に残されている天守櫓跡の紹介でした。天守櫓の基壇は、一辺が約7.5メートルの、ほぼ正方形と紹介されていました。
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天守櫓跡からの城内の眺望です。眼下に見えるのは、『本丸跡』のようです。こちらの『天守櫓跡』には、井楼(せいろう)や高櫓(たかやぐら)が建てられていたものと推定されています。発掘調査では、植栽で柱穴がかく乱されていたため、確認できなかったと解説されていました。
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