2017/06/24 - 2017/06/24
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日本百名城の山中城紹介の締め括りです。ガイドさんの案内で、揃って見学した『宗閑寺』には、かつては敵味方に分かれて戦った武将たちの墓や慰霊碑が仲良く並んでいました。
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ガイドさんの案内で、揃って見学した『宗閑寺』方面への道案内看板です。このお寺は、山中城で討死した間宮康俊の娘、お久の方が亡父の菩提を弔うため、山中城の一隅に寺を建てることを願い出て許され、了的上人を招いて山中落城より30年後に父の法名をとって宗閑寺と称して建立したのが始まりと伝えられます。お久の方は、徳川家康の侍女でした。
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斜面に咲く青いアジサイ(紫陽花)の光景です。写真工法の坂道は、三の丸から二の丸への通路だったようです。この後は、豊臣秀吉による1590年の小田原城攻めに関して、山中城攻防戦について紹介します。関連する小田原城と韮山城の攻防については、それぞれのお城巡りで紹介します。
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豊臣秀吉による小田原攻めの背景です。小田原征伐の大義名分は、惣無事令(そうぶじれい)に後北条家が違反したこととされ、後陽成天皇は秀吉に討伐の勅書を発しなかったものの、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ戦いとされます。豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄などの主力が約17万人、長宗我部元親等の水郡が約1万人、前田利家、上杉景勝などの北方隊が約3万5千人とされます。
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イチオシ
間宮康俊の法名に因む『宗閑寺』の本堂光景です。山中城守備軍は約4,000人、主な武将は城主・松田康長、援将・北条氏勝、他間宮康俊、松田康郷、蔭山氏広等でした。攻める豊臣軍は、約6万8千人とされます、その内訳は、右軍の池田輝政ら1万8千余、豊臣秀次らの約2万弱、左軍の徳川家康の約3万人です。
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『宗閑寺』の文字だ認められた、まだ新しい扁額の光景です。山中城の戦いの豊臣秀次の陣立ては先鋒右翼に中村一氏、左翼に一柳直末を配置。第二陣に山内一豊、堀尾吉晴らが配されていました。後方にいた秀吉は、中村一氏を呼び、 『岱崎出丸を攻めて攻撃のための根小屋にせよ』と命じました。その先陣となったのが渡辺勘兵衛です。戦いの口火が切られたのは、3月29日 8:30頃でした。
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『宗閑寺と武将の墓』の題字があった説明パネルです。徳川家康の侍女の尾久の方の願い出で建てられた宗閑寺には、今は、豊臣側、北条方の武将が静かに眠ります。山中城の戦いの続きです。渡辺勘兵衛が塀の上に取りついた時、秀吉の陣所で法螺貝が吹かれました。『岱崎出丸』から攻め入った勘兵衛は、激しい銃撃を受け三の丸の逆茂木の前で一刻(2時間)程釘付けになりました。
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400年以上も前のことを想い出させるような顔付きの彫り物の光景です。三の丸の入口に攻め入った官兵衛達には、三間から五間(約5~10メートル)の至近距離で、鉄砲が50~60発ほど撃ち込まれたようです。官兵衛についてきた4人の仲間がここで即死したとされます。
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先程の像が吽形なら、こちらの像は阿形の像になるようです。北条方は無勢、やがて豊臣方は搦手に回り、官兵衛も三の丸の門を打ち破って、橋を渡って二の丸まで攻め込みました。二の丸まで攻め込むと、やがて、高見から200人ほどが集まった本丸の位置が確認できました。山中城が陥落したのは、3月29日 11:00頃でした。勘兵衛はただちに本丸詰の櫓に中村一氏の馬印を立て掛けました。
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間宮康俊の法名に因む『宗閑寺』は、静岡市の華陽院(けよういん)の了的上人(後の芝増上寺十四世上人)が開山しました。元和6年(1620年)に双方の武将・兵たちの菩提を弔うため、山中城三ノ丸跡に建立されました。やがて荒廃したお寺が再建されたのは、明治時代です。一柳直末の子孫の子爵が墓を整備し直し、今日に至っています。
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一柳直末の事蹟を刻んだ石碑です。『一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての、豊臣臣下の武将で大名でした。秀吉の信頼が厚かった人とされます。豊公記では、直末討死の報告を聞き『直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった』と嘆き、3日間ほど口をきかなかったと伝わります。
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イチオシ
左側に見える、三基の五輪塔の台座になっている檀主間宮三郎兵衛尉正次による石碑文によれば、『北條氏直幕下忠臣□ 普光院殿武月宗閑潔公居士 間宮豊前守源康俊七十三歳 圓誉宗覚居士 康俊舎弟監物天正十八庚寅年三月廾九日依山中落城為秀吉公討死 教誉宗円居士 監物嫡源十郎』と記されているようです。
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後北条方の三基の墓です。左側から上州箕輪城主・多米出羽守長定墓、長谷川志摩守平近秀墓、追沼帯刀先生氏雅墓です。
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基壇の上に設けられた、立派な墓の光景です。墓碑の左右には、石灯篭が置かれていました。消えかかっていた墓碑の文字は読み取れませんでした。
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正面右側にある山中城主の松田直長墓です。直長は秀植とも称し、氏康の諱を貰い康秀、康長とも称したとされます。松田直長(1562~1657年)は、小田原征伐の際の山中城の戦いで戦死した父・康長の跡を継いだ、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将です。後北条氏に仕えた後、江戸幕府旗本となりました。
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かつては敵味方に分かれて戦った北条軍、豊臣軍の将兵が眠る『宗閑寺』の墓地の光景です。創建には、北条軍の山中城主の松田直長とその娘のお久の方が尽力し、関東大震災で荒れ果てていたお寺の整備には、岱崎出丸の攻防戦で亡くなった豊臣軍の一柳直末の子孫に当たる、一柳子爵が尽力されました。
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手向けの花の代わりに紹介した、白いツツジの花の光景です。ヒラドツツジのような、大型の花を咲かせるツツジでした。
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『史蹟・山中城趾記念之碑』の文字が刻まれた石標の光景です。『従二位勲一等・松室到書』の落款がありました。『八分(はっぷん)』などと呼ばれる隷書体のようです。『松室 致(まつむろ・いたす:1852~1931年)』は、司法官僚で政治家です。検事総長、司法大臣を務めました。
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『芝切地蔵』の題字があった立看板の光景です。少し拾い読みしますと、現在の山中城址がある山中新田の旅籠に泊まり、急な腹痛で亡くなった旅人に纏わる逸話が紹介されていました。その逸話のキーワードが、地蔵尊と小麦饅頭でした。
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石段の下から眺めた、『芝切地蔵』の社の光景です。亡くなった旅人が言ったとおりに地蔵尊を祀り、7月1日の縁日に作った小麦饅頭が人気を呼び、小麦饅頭の売上とお賽銭で、山中村が潤ったことが紹介されていました。
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三の丸の入口付近に戻って来ました。これで日本百名城の40番、『山中城』の紹介はおしまいです。梅雨時とは言え好天に恵まれ、昨年の梅雨時とはまた違った、山中城の姿を見ることが出来きました。
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