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ベルリン到着翌日、ガス灯屋外博物館を見学した私は、6月17日通り、ブランデンブルウ門、ウンター・デン・リンデンを経てハッケシャーマルクトにやってきました。<br />私の目的はいつも観光客でにぎわうベルリンの観光スポット、ハッケシャー・ヘーフェではありません。<br /><br />この近くはその昔、多くのユダヤ人が住んでいた居住地だったこともあり、ナチスドイツ時代、ユダヤ人が迫害された忌まわしい歴史の痕跡も多く残っています。私もいくつか旅行記で発表しております。<br /><br />今回私がどうしても訪れたかったのは、ベルリンのオスカー・シンドラーと言われた男、ブラシと箒の小さな作業所を営んでいたオットー・ヴァイトの工場です。<br />彼は視覚障害者でした。<br />

2016.5 ベルリンのオスカー・シンドラーと言われた男、オットー・ヴァイトの盲人作業所&まるで廃墟!「ハウス・シュヴァルツェンベルク」

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2016/05/26 - 2016/05/26

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frau.himmel

frau.himmelさん

ベルリン到着翌日、ガス灯屋外博物館を見学した私は、6月17日通り、ブランデンブルウ門、ウンター・デン・リンデンを経てハッケシャーマルクトにやってきました。
私の目的はいつも観光客でにぎわうベルリンの観光スポット、ハッケシャー・ヘーフェではありません。

この近くはその昔、多くのユダヤ人が住んでいた居住地だったこともあり、ナチスドイツ時代、ユダヤ人が迫害された忌まわしい歴史の痕跡も多く残っています。私もいくつか旅行記で発表しております。

今回私がどうしても訪れたかったのは、ベルリンのオスカー・シンドラーと言われた男、ブラシと箒の小さな作業所を営んでいたオットー・ヴァイトの工場です。
彼は視覚障害者でした。

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  • ウンターデンリンデン通りで7人乗り自転車を発見。<br /><br />この自転車、カンファレンス自転車と言うそうです。<br />7人でペダルをこぎながら会議なんてできるのかしら?<br />

    ウンターデンリンデン通りで7人乗り自転車を発見。

    この自転車、カンファレンス自転車と言うそうです。
    7人でペダルをこぎながら会議なんてできるのかしら?

  • ブランデンブルク門から100番バスに乗りアレキサンダープラッツへ向かいます。<br /><br />ベルリンを訪れるたびに通るのに、観光スポットが目白押しのこの通り、ついいつもカメラを向けてしまいます。<br /><br />フンボルト大学と名物古本市。<br />像はアレキサンダー・フォン・フンボルト。<br />フンボルトペンギンは地質学者であった彼の名前に由来するそうです。<br />

    ブランデンブルク門から100番バスに乗りアレキサンダープラッツへ向かいます。

    ベルリンを訪れるたびに通るのに、観光スポットが目白押しのこの通り、ついいつもカメラを向けてしまいます。

    フンボルト大学と名物古本市。
    像はアレキサンダー・フォン・フンボルト。
    フンボルトペンギンは地質学者であった彼の名前に由来するそうです。

  • 重厚な建物はドイツ歴史博物館。<br /><br />今回はこの博物館にもいくつもりでした。<br />

    重厚な建物はドイツ歴史博物館。

    今回はこの博物館にもいくつもりでした。

  • アレキサンダープラッツでバスを降ります。<br />さっきガス灯博物館を見てきたせいか、街灯がとっても気になります。<br />奥に見える塔はマリエン教会です。<br />

    アレキサンダープラッツでバスを降ります。
    さっきガス灯博物館を見てきたせいか、街灯がとっても気になります。
    奥に見える塔はマリエン教会です。

  • テレビ塔とアレキサンダープラッツ駅の屋根。<br /><br />ここからSバーンに乗り換えてハッケシャーマルクト駅に向かいます。

    テレビ塔とアレキサンダープラッツ駅の屋根。

    ここからSバーンに乗り換えてハッケシャーマルクト駅に向かいます。

  • Sバーンで一駅、ハッケシャーマルクト駅に着きました。<br /><br />駅前。ここはいつ訪れても賑やかです。<br />

    Sバーンで一駅、ハッケシャーマルクト駅に着きました。

    駅前。ここはいつ訪れても賑やかです。

  • 煉瓦造りの駅舎。<br />幾何学形のエキゾチックなモザイクの外壁も素敵。<br />

    煉瓦造りの駅舎。
    幾何学形のエキゾチックなモザイクの外壁も素敵。

  • やってきました。<br />ハッケシャーと言えば、このハッケシャー・ヘーフェでしょう。<br />それぞれに異なる壁のタイル模様がいつ見ても素敵。<br />

    やってきました。
    ハッケシャーと言えば、このハッケシャー・ヘーフェでしょう。
    それぞれに異なる壁のタイル模様がいつ見ても素敵。

  • ここには8つのホーフ(中庭)があり、複数形のヘーフェになっています。<br /><br />と言いつつ、今日私はこんな華やかな中庭にやってきたのではありません。<br />

    ここには8つのホーフ(中庭)があり、複数形のヘーフェになっています。

    と言いつつ、今日私はこんな華やかな中庭にやってきたのではありません。

  • ここは地味な中庭ですね。<br />バイクや自転車がたくさん停まっていて人も多い。<br /><br />でも私が探しているのはここでもない。<br />

    ここは地味な中庭ですね。
    バイクや自転車がたくさん停まっていて人も多い。

    でも私が探しているのはここでもない。

  • ゾフィーエン通り・・・。<br />ここはいつかテレビでやっていましたね。<br /><br />たしか手工芸の店が数多く軒を連ねていた路地だって。<br />

    ゾフィーエン通り・・・。
    ここはいつかテレビでやっていましたね。

    たしか手工芸の店が数多く軒を連ねていた路地だって。

  • 建物の壁絵がすてき!<br />これも伝統的手工業の様々なモチーフが描かれています。<br />この付近は職人の街として賑わいました。<br /><br />私の探す場所にだんだん近づいてきたような・・・。<br />

    建物の壁絵がすてき!
    これも伝統的手工業の様々なモチーフが描かれています。
    この付近は職人の街として賑わいました。

    私の探す場所にだんだん近づいてきたような・・・。

  • 「つまづきの石」を見つけました。<br /><br />この石は、この場所に住んでいたユダヤ人が、ナチスによって強制収容所に送られ、殺害されたという追悼の碑なのです。<br /><br />この二つは夫婦なのでしょうね。<br />石には、生まれた年や地名、そして1938年プラハに逃亡しようとしたが、フランスで捕まり1942年にアウシュヴィッツに送られ殺害された、みたいなことが書かれています。<br />

    「つまづきの石」を見つけました。

    この石は、この場所に住んでいたユダヤ人が、ナチスによって強制収容所に送られ、殺害されたという追悼の碑なのです。

    この二つは夫婦なのでしょうね。
    石には、生まれた年や地名、そして1938年プラハに逃亡しようとしたが、フランスで捕まり1942年にアウシュヴィッツに送られ殺害された、みたいなことが書かれています。

  • さらにその付近を探し回ると、ありました!「ユダヤ人の歴史」の展示パネル。<br /><br />ハッケーシャーヘーフェからゾフィーエン通り、ローゼンターラー通りがあるこの地区はかってユダヤ人が多く住んでいたユダヤ人街でした。<br />

    さらにその付近を探し回ると、ありました!「ユダヤ人の歴史」の展示パネル。

    ハッケーシャーヘーフェからゾフィーエン通り、ローゼンターラー通りがあるこの地区はかってユダヤ人が多く住んでいたユダヤ人街でした。

  • ローゼンターラー通り39番地、ここが私の探し求めていたところ。<br />入り口にはアンネフランクの写真や、左端には「Gedenkstaette Still helden」の文字、「静かな英雄たちの記念館」つまり、ナチスの支配下、迫害されていたユダヤ人を救おうとした無名の英雄たちの記念館があるのです。<br /><br />それにしてもなんて汚い入り口!!<br />それになんてひどい写真なの。ボケて一部心霊写真のように見えませんか?<br />

    ローゼンターラー通り39番地、ここが私の探し求めていたところ。
    入り口にはアンネフランクの写真や、左端には「Gedenkstaette Still helden」の文字、「静かな英雄たちの記念館」つまり、ナチスの支配下、迫害されていたユダヤ人を救おうとした無名の英雄たちの記念館があるのです。

    それにしてもなんて汚い入り口!!
    それになんてひどい写真なの。ボケて一部心霊写真のように見えませんか?

  • 中に入ってわが目をもう一度疑いました。<br />まるで廃墟。<br />なのに、この混沌とした汚い空間に大勢の観光客がひしめき合っています。<br />

    中に入ってわが目をもう一度疑いました。
    まるで廃墟。
    なのに、この混沌とした汚い空間に大勢の観光客がひしめき合っています。

  • 落書きだらけの壁、ヨレヨレの汚いポスター、外壁が剥がれたまま放置してある建物。<br /><br />この付近は戦災で空襲を免れたそうですが、当時の建物がそのまま遺されているとか!?。<br /><br />何か私、場違いなところへ来たような気がしました。<br />

    落書きだらけの壁、ヨレヨレの汚いポスター、外壁が剥がれたまま放置してある建物。

    この付近は戦災で空襲を免れたそうですが、当時の建物がそのまま遺されているとか!?。

    何か私、場違いなところへ来たような気がしました。

  • ところが、この雑然としたものはすべてアートなのです。<br /><br />ここ「ハウス・シュヴァルツェンベルク」はベルリンの「サブカルチャー」の発祥の地、若いアーティストたちの発表の場となっているそうです。<br /><br />ハッケシャーホーフの華やかな建物とは一線を画して、あえて汚い建物のまま改修しないで残して、それを利用しているのだとか。<br />そして現在ここは市の文化財に指定されているのです。<br />

    ところが、この雑然としたものはすべてアートなのです。

    ここ「ハウス・シュヴァルツェンベルク」はベルリンの「サブカルチャー」の発祥の地、若いアーティストたちの発表の場となっているそうです。

    ハッケシャーホーフの華やかな建物とは一線を画して、あえて汚い建物のまま改修しないで残して、それを利用しているのだとか。
    そして現在ここは市の文化財に指定されているのです。

  • これがアートねぇ~~。私には廃墟としか見えませんけど・・・。<br /><br />でも、そう言われてみると、このどうしようもなく雑然とした中にもアートを感じる(?)から不思議です(笑)。<br />

    これがアートねぇ~~。私には廃墟としか見えませんけど・・・。

    でも、そう言われてみると、このどうしようもなく雑然とした中にもアートを感じる(?)から不思議です(笑)。

  • このホーフの中にはギャラリーや映画館、そして博物館も入っています。<br /><br />ユダヤ人の居住区であったこの地には「アンネ・フランクセンター」や入り口に表示されていた「無名の英雄たちの博物館」などもあり、ナチス支配下のユダヤ人の迫害の歴史や、それを助けた人々の様子なども伝えています。<br />

    このホーフの中にはギャラリーや映画館、そして博物館も入っています。

    ユダヤ人の居住区であったこの地には「アンネ・フランクセンター」や入り口に表示されていた「無名の英雄たちの博物館」などもあり、ナチス支配下のユダヤ人の迫害の歴史や、それを助けた人々の様子なども伝えています。

  • アンネ・フランクセンター入口<br />

    アンネ・フランクセンター入口

  • 私が探し求めていた所、「オットーヴァイトの盲人作業所博物館」。<br /><br />オットー・ヴァイトは、盲人でありながら多くのユダヤ人を救出し、「ベルリンのオスカー・シンドラー」と呼ばれていた人物です。<br />

    私が探し求めていた所、「オットーヴァイトの盲人作業所博物館」。

    オットー・ヴァイトは、盲人でありながら多くのユダヤ人を救出し、「ベルリンのオスカー・シンドラー」と呼ばれていた人物です。

  • 入り口はここ。<br />他と同じように、もの凄い落書き、いえアートに囲まれています。<br />

    入り口はここ。
    他と同じように、もの凄い落書き、いえアートに囲まれています。

  • 中に入ると、外の汚い様子とは打って変わって、至極まっとうな階段、そこを登ると受付です。<br />受付の女性がにこやかに迎えてくれました。<br />見学者は私の他に誰もいなかったので、彼女に「写真撮っていいですか?」って聞いたら、どうぞどうぞ!と。<br />

    中に入ると、外の汚い様子とは打って変わって、至極まっとうな階段、そこを登ると受付です。
    受付の女性がにこやかに迎えてくれました。
    見学者は私の他に誰もいなかったので、彼女に「写真撮っていいですか?」って聞いたら、どうぞどうぞ!と。

  • この人物がオットー・ヴァイト。<br />彼はガチガチの反ナチス主義者で、彼自身は非ユダヤ人です。<br /><br />幼いころ家族と共にロストックからベルリンに移り住み、家具職人として技術を身につけました。<br />ところが第一次大戦中の負傷がもとで視力をなくします。<br />

    この人物がオットー・ヴァイト。
    彼はガチガチの反ナチス主義者で、彼自身は非ユダヤ人です。

    幼いころ家族と共にロストックからベルリンに移り住み、家具職人として技術を身につけました。
    ところが第一次大戦中の負傷がもとで視力をなくします。

  • ナチスが絶対的な権力を持っていたころ、ヴァイトはローゼンターラー39番地に、当時視覚障害者の代表的な仕事だったブラシや箒づくりの作業所を立ち上げます。<br />従業員は30人ほど、ほとんどが当時迫害されていたユダヤ人障害者でした。<br /><br />写真はオットーヴァイトと盲人作業所の人々。<br />

    ナチスが絶対的な権力を持っていたころ、ヴァイトはローゼンターラー39番地に、当時視覚障害者の代表的な仕事だったブラシや箒づくりの作業所を立ち上げます。
    従業員は30人ほど、ほとんどが当時迫害されていたユダヤ人障害者でした。

    写真はオットーヴァイトと盲人作業所の人々。

  • ヒトラー率いるナチスはさまざまな方法でユダヤ人の迫害を図り、財産をはく奪します。<br /><br />ベルリンに住んでいた多くのユダヤ人は国外に逃亡しましたが、障害者は受け入れを拒否され、家族と離れてベルリンに残らざるを得ませんでした。<br />

    ヒトラー率いるナチスはさまざまな方法でユダヤ人の迫害を図り、財産をはく奪します。

    ベルリンに住んでいた多くのユダヤ人は国外に逃亡しましたが、障害者は受け入れを拒否され、家族と離れてベルリンに残らざるを得ませんでした。

  • 当時、軍隊では箒やブラシは軍事用の必需品でした。<br /><br />ナチスから軍需工場として認可を得たヴァイトは、ユダヤ人の視聴覚障害者を雇用するという名目で匿うことができました。<br />

    当時、軍隊では箒やブラシは軍事用の必需品でした。

    ナチスから軍需工場として認可を得たヴァイトは、ユダヤ人の視聴覚障害者を雇用するという名目で匿うことができました。

  • エーリッヒ・フライは元銀行員でした。<br />しかしユダヤ人であることから職を奪われ、また迫害も厳しくなり、家族と共に国外に逃げようと思いました。<br /><br />ところが障害者であるという理由で入国を拒否され、身を寄せたのがヴァイトの工場でした。<br />幸いに、子供たちは国外に逃がすことができました。<br /><br />右・エーリッヒ・フライ、左・フライの子供たちと家族<br />

    エーリッヒ・フライは元銀行員でした。
    しかしユダヤ人であることから職を奪われ、また迫害も厳しくなり、家族と共に国外に逃げようと思いました。

    ところが障害者であるという理由で入国を拒否され、身を寄せたのがヴァイトの工場でした。
    幸いに、子供たちは国外に逃がすことができました。

    右・エーリッヒ・フライ、左・フライの子供たちと家族

  • あるとき、作業所に警察のトラックが入ってきて、従業員は全員、収容所に強制連行されました。<br /><br />ヴァイトはナチスに必死に抗議しました。<br />「従業員たちを連れていかれると、国防上重要な軍需品を作れなくなる」と。<br />そして多額の賄賂を使い、ユダヤ人の従業員たち全員を連れ出すことに成功したのです。<br /><br /><br />

    あるとき、作業所に警察のトラックが入ってきて、従業員は全員、収容所に強制連行されました。

    ヴァイトはナチスに必死に抗議しました。
    「従業員たちを連れていかれると、国防上重要な軍需品を作れなくなる」と。
    そして多額の賄賂を使い、ユダヤ人の従業員たち全員を連れ出すことに成功したのです。


  • ヴァイトはナチスへの協力という建前の元、賄賂、書類や身分証明書の偽造など、あらゆる手段を講じてユダヤ人障害者を助けようとしました。<br />

    ヴァイトはナチスへの協力という建前の元、賄賂、書類や身分証明書の偽造など、あらゆる手段を講じてユダヤ人障害者を助けようとしました。

  • ホルン家の人々は作業所の奥に造られた狭い隠れ家に匿われました。<br />アリス・リヒト(後述)とその両親は箒工場の倉庫に匿われます。<br /><br />しかしあるときホルンは旧友に会い、隠れ家のことを話してしまうのです。<br />その旧友は密告者で、すぐにゲシュタポ(秘密警察)がやってきて、ホルン家の人々とアリスとその両親を連行しました。<br />

    ホルン家の人々は作業所の奥に造られた狭い隠れ家に匿われました。
    アリス・リヒト(後述)とその両親は箒工場の倉庫に匿われます。

    しかしあるときホルンは旧友に会い、隠れ家のことを話してしまうのです。
    その旧友は密告者で、すぐにゲシュタポ(秘密警察)がやってきて、ホルン家の人々とアリスとその両親を連行しました。

  • 従業員たちを連れ去られてもヴァイトは諦めず、収容所に食料や薬などを送り続けました。<br /><br />アリス・リヒトの父、ゲオルク・リヒトは収容先のテレージエンシュタットから暗号を使い、ヴァイトに食料を送ってほしい旨はがきを送り、ヴァイトはそれに応えました。<br /><br />

    従業員たちを連れ去られてもヴァイトは諦めず、収容所に食料や薬などを送り続けました。

    アリス・リヒトの父、ゲオルク・リヒトは収容先のテレージエンシュタットから暗号を使い、ヴァイトに食料を送ってほしい旨はがきを送り、ヴァイトはそれに応えました。

  • ベルリンが陥落し、戦争も終わり収容所も開放されましたが、ホロコーストの犠牲者は600万人にも達しました。<br />ヴァイトが必死で守ろうとした従業員たちもほとんど収容所で命を落としていました。<br /><br />他の部屋が当時の作業所を再現した形で壁などきれいになっているのに、この部屋だけは当時のまま改装されずにそのまま残されていました。<br /><br />ここには数少ない生存者のことが紹介されていました。<br />

    ベルリンが陥落し、戦争も終わり収容所も開放されましたが、ホロコーストの犠牲者は600万人にも達しました。
    ヴァイトが必死で守ろうとした従業員たちもほとんど収容所で命を落としていました。

    他の部屋が当時の作業所を再現した形で壁などきれいになっているのに、この部屋だけは当時のまま改装されずにそのまま残されていました。

    ここには数少ない生存者のことが紹介されていました。

  • その中の一人、ハンス・イズラエロヴィッチ。<br />

    その中の一人、ハンス・イズラエロヴィッチ。

  • アリス・リヒト。<br /><br />両親(父はゲオルク・リヒト)と共にゲシュタポに連行され、アウシュヴィッツに送られました。<br />ヴァイトは戦争終結直前に彼女が収容されていたアウシュヴィッツに行き、収容所に出入りできる男に賄賂を渡し、手紙・薬などを密かに届けてもらいました。<br /><br />そしてアウシュヴィッツから他の収容所への「死の行進」の際に逃亡に成功した彼女は、ヴァイトのもとに身を寄せました。<br />終戦後、彼女は米国に渡りました。<br /><br />彼女の両親は収容所で殺害されました。<br />

    アリス・リヒト。

    両親(父はゲオルク・リヒト)と共にゲシュタポに連行され、アウシュヴィッツに送られました。
    ヴァイトは戦争終結直前に彼女が収容されていたアウシュヴィッツに行き、収容所に出入りできる男に賄賂を渡し、手紙・薬などを密かに届けてもらいました。

    そしてアウシュヴィッツから他の収容所への「死の行進」の際に逃亡に成功した彼女は、ヴァイトのもとに身を寄せました。
    終戦後、彼女は米国に渡りました。

    彼女の両親は収容所で殺害されました。

  • 最後は、インゲ・ドイチェクローンさん。<br />彼女はクリーニング屋の夫妻に匿われ、ヴァイトによって偽造証明書を作ってもらい奇跡的に生き延びることができました。<br /><br />そして、この博物館保存活動に大きな役割を担いました。<br />この部屋が昔の儘で残っているのもインゲさんの提案だそうです。<br /><br />その後、ヴァイトのことを知る唯一の生存者として、彼の勇敢な記録を出版したり、学生たちにヴァイト博物館を案内したり、彼の顕彰活動に生涯をかけて取り組んでいます。<br /><br />現在もベルリンに住んでパワフルに活動していらっしゃるそうです。<br />

    最後は、インゲ・ドイチェクローンさん。
    彼女はクリーニング屋の夫妻に匿われ、ヴァイトによって偽造証明書を作ってもらい奇跡的に生き延びることができました。

    そして、この博物館保存活動に大きな役割を担いました。
    この部屋が昔の儘で残っているのもインゲさんの提案だそうです。

    その後、ヴァイトのことを知る唯一の生存者として、彼の勇敢な記録を出版したり、学生たちにヴァイト博物館を案内したり、彼の顕彰活動に生涯をかけて取り組んでいます。

    現在もベルリンに住んでパワフルに活動していらっしゃるそうです。

  • この部屋を見たインゲさんが、この部屋は改装しないで昔のままで残してほしいと要望したのだそうです。<br /><br />この部屋を出た奥の方に、ホルン一家が匿われた隠れ家の入り口があったそうですが、私は気が付きませんでした。<br />

    この部屋を見たインゲさんが、この部屋は改装しないで昔のままで残してほしいと要望したのだそうです。

    この部屋を出た奥の方に、ホルン一家が匿われた隠れ家の入り口があったそうですが、私は気が付きませんでした。

  • 係員の女性にお礼を言って外に出ます。<br /><br />でも、オットーヴァイトってすごいですね。<br />反ナチ主義者でありながら、ナチスの軍需工場という立場を隠れ蓑に、ナチスから迫害されていたユダヤ人をあの手この手で助けたのですから。<br />当然大変なリスクもあったでしょうし、一歩間違えば彼自身も政治犯になる可能性もありましたよね。<br /><br />でも彼自身が障害者だったからこそ、二重苦(ユダヤ人であり、なおかつ障害者である)で苦しんでいるユダヤ人をそのままにしてはいられなかったのでしょうね。<br />

    係員の女性にお礼を言って外に出ます。

    でも、オットーヴァイトってすごいですね。
    反ナチ主義者でありながら、ナチスの軍需工場という立場を隠れ蓑に、ナチスから迫害されていたユダヤ人をあの手この手で助けたのですから。
    当然大変なリスクもあったでしょうし、一歩間違えば彼自身も政治犯になる可能性もありましたよね。

    でも彼自身が障害者だったからこそ、二重苦(ユダヤ人であり、なおかつ障害者である)で苦しんでいるユダヤ人をそのままにしてはいられなかったのでしょうね。

  • ベルリンのオスカー・シンドラー、「オットーヴァイト」。<br />彼の功績をたたえる記念のプレートがハウス・シュヴァルツェンベルクの入り口付近に埋め込んでありました。<br /><br />終戦後はユダヤ人孤児のために孤児院を、またホロコーストを生き延びたユダヤ人老人たちのために老人ホームを設置するのに尽力し、1947年にその生涯を閉じました。<br /><br />彼のお墓にはベルリン市により栄誉墓碑の称号が与えられています。<br />

    ベルリンのオスカー・シンドラー、「オットーヴァイト」。
    彼の功績をたたえる記念のプレートがハウス・シュヴァルツェンベルクの入り口付近に埋め込んでありました。

    終戦後はユダヤ人孤児のために孤児院を、またホロコーストを生き延びたユダヤ人老人たちのために老人ホームを設置するのに尽力し、1947年にその生涯を閉じました。

    彼のお墓にはベルリン市により栄誉墓碑の称号が与えられています。

  • この近くに住んでいたユダヤ人2家族の「つまづきの石」を、またもや見つけました。<br />それぞれ、アウシュヴィッツとリガで殺害されたと記してありました。<br />

    この近くに住んでいたユダヤ人2家族の「つまづきの石」を、またもや見つけました。
    それぞれ、アウシュヴィッツとリガで殺害されたと記してありました。

  • ここにもその昔、幸せな生活を営んでいたユダヤ人家族が住んでいたのでしょうね。<br />そんなことを考えながらハッケシャーホーフの中庭を通って駅に向かいます。<br />

    ここにもその昔、幸せな生活を営んでいたユダヤ人家族が住んでいたのでしょうね。
    そんなことを考えながらハッケシャーホーフの中庭を通って駅に向かいます。

  • ハッケシャーマルクト駅まで来たら、お腹が空いていることに気が付きました。<br />もう3時過ぎですから当然ですね。<br /><br />3人旅の時はほぼ時間通りに食事をとっていましたが、一人旅になると時間がルーズになっていけません。<br /><br />雰囲気よさげな「1840」というレストランのオープンテラスに座ります。<br />

    ハッケシャーマルクト駅まで来たら、お腹が空いていることに気が付きました。
    もう3時過ぎですから当然ですね。

    3人旅の時はほぼ時間通りに食事をとっていましたが、一人旅になると時間がルーズになっていけません。

    雰囲気よさげな「1840」というレストランのオープンテラスに座ります。

  • 今回のベルリン初のちゃんとしたレストラン食事ですから、まずは挨拶代わりにベルリナーヴァイセをいただきます。<br />ストローでいただくビールです。<br />今日は赤にします。<br />

    今回のベルリン初のちゃんとしたレストラン食事ですから、まずは挨拶代わりにベルリナーヴァイセをいただきます。
    ストローでいただくビールです。
    今日は赤にします。

  • お料理はここでもシュパーゲル。<br />15日間一緒に旅を共にしたK氏I女史のことが思いだされます。<br />シュパーゲルは3人で何度もいただきましたね~。<br /><br />今頃はお二人とも日本に到着して、おうちでゆっくりしていらっしゃる頃かしら。<br />

    お料理はここでもシュパーゲル。
    15日間一緒に旅を共にしたK氏I女史のことが思いだされます。
    シュパーゲルは3人で何度もいただきましたね~。

    今頃はお二人とも日本に到着して、おうちでゆっくりしていらっしゃる頃かしら。

  • 時間は4時過ぎ。<br /><br />ハッケシャーマルクト駅から次へ移動します。<br />

    時間は4時過ぎ。

    ハッケシャーマルクト駅から次へ移動します。

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  • jijidarumaさん 2017/04/25 01:00:11
    ベルリンのオスカー・シンドラーと言われた男、オットー・ヴァイト
    himmelさん
    こんばんは。いつもながら健筆をふるっておられますね。
    オットー・ヴァイトの功績については良く知りませんでしたので、
    なるほどこうした人もいたのだと。ドイツ人もいろいろです。

    彼らがイスラエルから称えられて、「諸国民の中の正義の人」となっていますが、
    2016年1月1日現在でなんと26,120人もの方々がリストアップされているとの事です。
    だから、私たちは殆どの方の事績を知らないことになるわけですね。
    各国の一部の数字を下記しますと、

    ドイツ    587人
    ポーランド 6620人
    オランダ  5516人
    フランス  3925人

    日本は杉原千畝氏が唯一人リストアップされています。
    日本人は“俺が俺がのタイプではない”ので、多分歴史に埋もれた方々が
    もっといるように思います。
    オスカー・シンドラー(1962年)もオットー・ヴァイト(1971年)も
    戦後早く顕彰されていますが、もっと称えられても良い杉原千畝氏は1985年です。

    さて、私はオットー・ヴァイトに対して枕詞として、ベルリンのシンドラーと呼ぶのは
    いささか躊躇します。イギリスにもフランスにも中国にも、「諸国民の中の正義の人」
    と顕彰された人がいますが、例えばイギリス人には「イギリスのシンドラー」の
    枕詞が付きます。
    日本人の杉原千畝氏のケースでも「アジアのシンドラー、日本のシンドラー」と、
    とかく書かれるのが普通になっています。

    個人的にはオスカー・シンドラーが「西欧(もしくはドイツ)の杉原千畝」と
    呼ばれても良い気がしています。
    それはともかく、「諸国民の中の正義の人・杉原千畝氏」・・と呼んだほうが
    良いように思います。

    杉原千畝氏の妻の幸子さんの言葉で、『私たちの事は、金の絡んだシンドラー氏の事とは違います』と語ったとされていることを、その言わんとした事を理解できる気がします。

    以上、雑感を書いてみました。

    jijidaruma

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2017/04/25 22:21:43
    RE: ベルリンのオスカー・シンドラーと言われた男、オットー・ヴァイト
    jijidarumaさん、こんばんは。

    うわーー、詳しく調べてくださったのですね。感謝です。
    「諸国民の中の正義の人」。
    こんなに大勢の人が顕彰されているのですか。
    私が知っていたのは、シンドラー、オットーヴァイト、それに杉原千畝氏。
    26,120分の3、全く恥かしい限りです。
    でもさすがにドイツ人は少ないですね。

    なるほど、jijidarumaさんがおっしゃること、よく解ります。
    そういう人に対して誰でも彼でも枕詞に「○○○のシンドラー」って言うのはちょっと違うのではないかということですね。
    そうですねー、確かに。
    ただあのスピルバーク監督の映画「シンドラーのリスト」は大反響をよびましたものね。
    危険を顧みずユダヤ人を救った人は上記のように2万6千人以上いても、あの映画の大ヒットでシンドラー一人がクローズアップされました。
    枕詞に「シンドラー」って名前が付くと、あっこの人もユダヤ人を救った勇敢な人なのだなーと直ちに認知できるのは大きいですね。

    オスカー・シンドラーを「西欧(もしくはドイツ)の杉浦千畝」と呼んだ方が・・・・。
    そうですそうです!
    シンドラーは、まあ言い方は悪いかも知れませんが、自分が経営するナチスの軍需工場でユダヤ人を安い賃金(あるいは無賃金)で雇用して儲けたわけですよね。
    でも杉原千畝氏は違います。本当に人道的な高邁なお考えで危険を冒された・・・。

    シンドラーとヴァイトはともに軍需工場という立場でユダヤ人と触れ合うことができた。そして次第にナチスに対する憤りが湧き出て、あのような勇気ある行動に変わった。
    まあそんな短絡的なものではないとは思いますが。
    面白いと思ったのは、オットーヴァイトがガチガチの反ナチだったのに対して、シンドラーはナチス党員でしたね。

    シンドラーと言えば、2013年にフランクフルトを訪れた時、ユダヤ博物館でシンドラー展をやっていました。旅行記で発表するつもりで写真をたくさん撮ってきたのですが、いつのことになりますやら(笑)。
    フランクフルトはシンドラーが晩年、不遇な時代を過ごした地なのですね。


    jjidarumaさん、昨年の秋の旅行記が始まっていますね。
    私も今年は秋のドイツ旅を計画していますので、参考にさせていただきますね。
    と言っても車ではなく、列車旅というのが悲しいところです。

    ありがとうございました。

    himmel
  • ペコリーノさん 2017/04/24 16:34:11
    オットー・ヴァイトの盲人作業所
    frau.himmelさん、こんにちは。

    「オットー・ヴァイトの盲人作業所」の中を見学されたのですね。
    しっかりと説明つきで見せていただきました。ありがとうございます。
    わたしはなんだかんだと言っているうちに、いつもいかずに終わってしまっていました。

    作業所のある入り口、独特ですよね。これが、ベルリンじゃなくて、別の場所だったら、絶対に足を踏み入れてはいけない場所という感じですよね。
    でも、ベルリンだから、なんとなく許せる。日本人の女性一人でも入って行ける。

    何年か前、偶然この場所を見つけて入った私も、これほど観光客はいなかったものの、入っていけたのが不思議でした。
    いつまでもそんな安全なベルリンでいてほしいと思います。

    ペコリーノ

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2017/04/24 22:20:05
    RE: オットー・ヴァイトの盲人作業所
    ペコリーノさん、こんばんは。

    > 「オットー・ヴァイトの盲人作業所」の中を見学されたのですね。

    いつぞやは、オットーヴァイトの件ではお世話になりました。
    お写真を貸していただいて、その節はありがとうございました。
    実はあそこ、私2度目なのです。
    ペコリーノさんが行かれたあと、2015年10月に訪れたのですが、私の不注意で写真がみんな消えてしまって・・。今年はリベンジでした。

    ホント、あの入り口ちょっと異様な雰囲気で、入るのに足がすくみますね。
    でも、先駆者ペコリーノさんが経験していらっしゃるので、全然心配しませんでした(笑)。
    な〜んて、私結構好奇心旺盛ですから、ベルリンで人がいる所なら入っていくでしょうね。

    あの近辺はペコリーノさんにとってはお庭みたいなところですよね。
    行きたいところがいろいろおありになり、オットーヴァイトの見学までは手が回らなかったのではありませんか。

    私も今回ベルリンでは変なところばかり回っていまして、これを旅行記にどう纏めればいいのか、頭を悩ませています。

    himmel

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