2015/05/04 - 2015/05/04
1580位(同エリア4052件中)
あおしさん
ヴェネチア3日目。
2日間、サンダルで石の道の上を歩き回ったせいか、左足が痛くなってしまいました。
歩くときは左足を引きずるような感じ。
というわけで、今日は最終日でもあるし、聖マルコ広場のあたりをうろうろするだけにしました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 3.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
今日は月曜日なので、観光客も少しは減るかなあ、と期待したのですが、逆に聖マルコ寺院の前には1キロ近い長い行列。
子どもの姿も多かったので、イタリアの祝日だったのかも。
とりあえず、すごい行列の聖マルコ寺院は後回しにして、鐘楼に上ります。
もともとは刑務所として使われていましたが、そこは「最初に商売ありき」のもと、観光業を始めたヴェネチア人。
「観光客への目玉」として昔から登れたようです。
ゲーテをはじめ、多くの著名人がこの鐘楼に上ったことが記録されています。 -
ゲーテらが登ったころは刑務所の中を階段でせっせと登ったようですが、今はエレベーターで。
確かに景色はいいのですが、天気がいまいちなのと、大運河が「S字」に見えなかったのはちょっと残念。 -
海のようなジュデッカ運河の向こうに見えるジュデッカ島と聖ジョルジョ・マジョーレ教会
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鐘楼を下りても、聖マルコ寺院の行列は相変わらず長い。
あきらめて行列に並びましたが、結局30分ほどで中に入れました。
(この写真は午後晴れたときに撮ったものです)。 -
聖マルコは聖書の記者の1人です。
ローマの聖ペテロ(聖ピエトロ)、フェレンツエの聖ヨハネに比べてヴェネチアは無名の聖人しかもっていなかったのですが、あるヴェネチア商人がエジプトからマルコの骨(?)を、ヴェネチアに持って帰ってきたことから、ヴェネチア人は大喜び。
さっそく、聖マルコにヴェネチアの守護聖人になってもらい建てられたのが聖マルコ寺院です。
入口のところにある聖マルコ寺院由来の絵画。
イスラム人の嫌いな豚肉満載の籠の中にマルコの骨を入れてエジプトから持ち出すところです。 -
聖書を片手に持つ聖マルコと翼の生えたライオン。
聖マルコは「翼の生えたライオン」であらわされることから、ヴェネチアの国旗やシンボルにも使われることになりました。
中はさすがに「お金持ち」のヴェネチア人だけあって金をふんだんに使って豪華絢爛(残念ながら写真撮影禁止)。
ローマ人やフィレンツェ人などは「あんな『どこの馬の骨』を崇めるなんて」とヴェネチア人を嘲笑したそうですが、そこは「最初に商売ありき」の現実主義者のヴェネチア人。
人間を崇めると、崇められた人間は政治に介入したり、勢力争いで宗教戦争したり、「国民はみな死んでも現人神・天皇を守る」なんて荒唐無稽な理屈で勝ち目のない戦争をしたりしてしまいますが、「骨」ならその心配はありません。
実際、ヴェネチアは1500年の歴史で宗教弾圧も宗教戦争にも「魔女狩り」にも無縁だったわけで、なかなか賢い人たちだったのです。 -
聖マルコ寺院のテラスから見る、聖マルコ広場。
とにかく観光客でいっぱい。 -
聖マルコ寺院のテラスにある「4頭の馬の像」
西暦1204年、ヴェネチアはフランスの騎士たちで構成された第4次十字軍をだまして、イスラムではなく、東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を征服しました。
本来の目的であるイスラムではなく、同じキリスト教の東ローマ帝国を攻め込んだため「脱線十字軍」と言われます。
これによりヴェネチアは東ローマ帝国に代わり、海運貿易の中心だった地中海の覇権を握り、「地中海の女王」として君臨します。
この「4頭の馬の像」はコンスタンティノープルの宮殿から略奪してきたいわば戦利品。
映画「インフェルノ」でも重要なアイテムとして登場します。
ただし、ホンモノは保存のために今は館内におかれ、これはレプリカ。 -
聖マルコ寺院の次はその隣の「元首の宮殿」
ヴェネチアはその長い歴史においてついに君主制にならず、共和制を守りました。
その共和制のトップにいたのが、選挙でえらばれ、任期は終身の元首(任期は終身の大統領のようなものです。「ドージェ」といいます)。
ここはいわば、ヴェネチア共和国の「大統領官邸」です。 -
元首官邸とはいえ、そこは地中海貿易でお金持ちになったヴェネチアの「大統領官邸」。
他の君主国の宮殿に負けない規模と豪華さです。 -
各部屋も豪華で、多くの美しい絵で飾られています。
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ヴェネチア共和国国会の議場に使われた部屋。
ヴェネチアでは貴族階級の男子1000人ほどで国会(議会)が設けられました。
アメリカ議会でいえば、「下院」にあたります。 -
元老院の部屋。
1000人の国会議員のうち、100人ほどが「上院」である元老院の議員にえらばれました。
この元老院議員から、元首やその閣僚たちが「内閣」を作っていました。 -
共和国国会の部屋には歴代元首の肖像画があります。
ナポレオンによってヴェネチア共和国が滅ぼされるまで、歴代元首は120人にのぼります。 -
レパントの海戦を描いた巨大な絵。
「地中海の女王」として地中海に君臨していたヴェネチアでしたが、東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国がその強大な軍事力で地中海の覇権を握りました。
ヴェネチアはオスマン・トルコ帝国の前に連戦連敗で苦しめられましたが、1571年、ヴェネチア海軍はスペイン海軍とともに、オスマン・トルコの海軍に大勝しました。
ヴェネチアにとっては「栄光の勝利」だったのでしょう。 -
元首宮殿のあとは、聖マルコ寺院の反対側にあるコレール博物館へ。
ここはかつて教会がありましたが、1797年、29歳の若きフランスの将軍・ナポレオンにヴェネチアが占領されたときに(これにより1500年以上の歴史を持つヴェネチア共和国は滅亡しました)、ナポレオンの「官邸」として作られた建物です。 -
ナポレオンの「官邸」として作られた建物なので、なんとなくフランス風味。
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展示物は今一つだったでしたが、この博物館の「目玉」はカラパッチォ作「2人の貴婦人の像」。
2,3年前だったか日本にも来たことがあります。
ヴェネチアの女性は胸元が大きく空き、「谷間」の見える服を好みました。
そのため、ほかの国からは「ヴェネチアの女性は娼婦のようだ」と言われ、この絵も長年「2人の娼婦」という題名でした。
ヴェネチアの女性はもともと髪の毛は黒いのですが、シャンプー・ハットのような帽子でわざと髪を日焼けにするという「男性には絶対理解不可能な努力」(ヴェネチアの歴史をテーマにした「海の都の物語」の作者・塩野七生女史)でブロンドにしたとか。
ちなみにカラパッチォの展覧会がイギリスで行われたときに出された料理にカラパッチォという名前が付いたそうです(料理の名前にうとい私にはどんな料理がよくわかりませんが)。
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足が痛くなったので、ここで観光は終わりにして、聖マルコ広場にある「カフェ・フローリアン」で一息。
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1720年の開業だそうで、日本でいえば江戸幕府・8代将軍徳川吉宗の時代、ナポレオンもここで一服したかもしれないところです。
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カフェのセット
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店の前のオープン席では楽団が演奏をしていました。
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3時まで聖マルコ広場でぼーっとして、ホテルに戻って荷物を持って、ヴェネチアの駅へ。
足は痛かったけど、もう1回町をゆっくり歩きながら、時には道に迷いながら駅に向かいました。 -
ヴェネチアの駅では「オリエント・エクスプレス」が停車していました。
乗降口には赤じゅうたんが敷かれ、スタッフが出迎えてくれます。
「オリエント・エキスプレス」はパリまで運行され、1泊30万円くらいかかります。
なぜか、日本の若い女性(35歳くらいか?)の2人組が乗っていきました。
お金持ちだなあ。
明日の帰国に備えて、空港のあるミラノへ、17時30分の特急で向かいました。
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