2014/08/05 - 2014/08/05
294位(同エリア1426件中)
junemayさん
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もうだいぶ前の旅になりますが、ふと思い出してはその余韻に浸る。そんな忘れえぬ旅の一つが、この青森紀行です。例によって例のごとく、思い立ったのは25日前。でも青森のお祭りシーズンとあって、宿はどこも満杯です。諦めかけていた時に、天の助けがあり、祭りを最後に店じまいするという弘前の宿を確保することが出来ました。こうなったら、行くっきゃありません。
ねぷたとねぶたと立佞武多。そんな「ハレ」を楽しみに訪れたのですが、意外にも思い出すのはいつも「ケ」の方。津軽では暖かい人情に触れることが多く、町歩きが本当に楽しかった!
前後を野暮用に挟まれ、確保できたのは丸3日。そのため、往復夜行バスという強行軍。しかしゆっくりと寝ていけるリクライニングシートだったので、疲れも少なく、3日間をフルに使うことが出来ました。
8/4弘前、田舎館、弘前
★ 8/5弘前、青森
8/6平川、黒石、五所川原
弘前の町の地図を見ると、藤田記念庭園から南西に少し下った辺りに卍のマークが沢山並んでいます。それが全部曹洞宗のお寺だと聞いて、驚きました。ここには曹洞宗のお寺だけ33ケ寺! も集まっていると言うのです。寺町は日本の方々にあるけれど、同じ宗派だけというのは珍しいのでは? ということで、藤田記念庭園の散策はまたの機会にして、南西方向に足を進めました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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真新しい壁に津軽じょんから と書かれている玉田酒造店。じょんがら ではなく、じょんから? 辛口のから と掛け合わせているのかしら?
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寺町の禅林街に向かう道には、他にも酒造店が並んでいました。こちらは、□の中にカタカナのイの字が入っている商号(カクイ)の 成豊酒舗店。古い部分と改修した部分が同居しているようですね。
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2階部分は1932年(昭和7年)の建造だそうです。細かい格子はしっとりした色に仕上がっていますよ。新しい木の部分はこれから少しずつ色を変えていくのでしょうね。10年後、20年後が楽しみです。
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店の裏側には、長く伸びた酒蔵が続いていました。こちらは江戸時代から続く酒蔵だそうです。金色の車の陰に低いレンガの煙突が見えました。ちょっと低すぎるような気がするんですが、今は使われていないのかなあ・・・
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茂森町の禅林街入口には、こんな地図がありました。1610年からたった1年で弘前城を完成させた津軽藩2代信牧が、同じ年に、津軽一円からここに寺を移し、弘前城の南の要にしたのが始まりだそうです。
津軽地方では主に曹洞宗が信仰の中心だったようですが、33という数字にもこだわりましたね。仏教では観音菩薩が33通りに姿を変えるとされているので、33という数字は聖数なのだそうですよ。
そう言えば昨日訪れた景勝院でも、参道に石の観音様が33体ありましたね。 -
寺町に入る前に、変わった建物にまた出会いましたよ。正進会館は、明治時代に歩兵第31連隊の将校たちの集会所として建てられたもので、現在は茂森町青年会館となっていると書かれていました。懐かしい上げ下げ窓と、色の異なるガラスが歴史を感じさせます。
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屋根は波打っているし、壁も一部崩れていて、見たところ「趣がある」と言うよりも「ボロボロ」というイメージだけれど、使用しても大丈夫なのかしら? 駐輪中の自転車が2台置かれていましたが、見たところ、人気は全く感じられませんでした。
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正進会館のお隣にあった弘前消防団西地区団第一分団消防屯所です。この建物にも可愛い望楼がついていました。その下には連窓が! 1936年(昭和11年)の建造です。
建物の右側に、「茂森会館」という古い看板が掲げられていましたが、こちらは町の集会所として現役なのかしら? -
やがて右側に赤板塀の山門が見えてきました。いよいよ寺町禅林街です。先ほどの地図によると、この赤門をくぐると10軒のお寺。まっすぐ進むと長勝寺を中心とした23軒のお寺があります。両方廻れそうにないので、この際真っ直ぐに進みましょう。
赤門前には「山門禁葷酒」と書かれた石標が立っていました。葷というのは、臭いのきついネギ科の野菜(ニンニク、タマネギ、ネギ、ニラ、ラッキョウ)を表した言葉だと聞いています。
我が家の近所にある黄檗宗の寺院前には不許葷酒入山門 と書かれた石碑があります。曹洞宗も禅宗の一派なので、修行に臭いが禁物なのは同じなんですね。
しまったぁ・・・カレーとハヤシにタマネギ入っていましたよ! -
真っ直ぐに進むと、今度は黒い門が姿を見せました。こちらは黒門。禅林街寺町の一番奥に位置する津軽藩の菩提寺長勝寺の総門の役割を担っています。
建造年月日は定かではありませんが、1687年(貞享4年)に作成された「長勝寺耕春院惣構図に載っているそうです。黒門は弘前市文化財に指定されています。 -
ここにも不許葷酒入山門の石標が立っていました。やばっ!
右側には「長勝寺構 1611年(慶長16年)弘前城を造営した津軽信牧公がここに禅院33ケ寺を集め、宗教、思想、文化の上に大きな役目をして今日に至った 昭和27年 弘前城址と共に特別史蹟地に指定された」と書かれていました。
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黒門をくぐって程なく、左側に見えてくるのがこちらの朱色の六角堂です。
1839年(天保10年)頃、弘前の豪商中田嘉兵衛の寄進による建物だそう。六角堂またの名を栄螺堂は、関東から東北に多い建物で、会津にある栄螺堂には、ロワーヌのシャンポール城も真っ青の二重螺旋階段があったことを思い出しました。
こちらの六角堂は小ぶりなので、右回りの螺旋廻廊と直進階段が併用されているとのことです。中を覗いて見たかったのですが、事前に管理寺に連絡する必要有だったので断念しました。 -
杉並木の続く道の両側に、延々と寺が続きます。
一つずつ寺を訪ねる時間はないので、私も山門から覗いてみただけです。金華山泉光院は朱塗りの立派な山門が目を惹きました。 -
龍屓山京徳寺。弘前に移った400年前から一度も火災に会っていない寺だそうで、本堂は1760年(宝暦10年)に建てられたものですが、一見新しく見えます。
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どの寺も大変立派。33ヵ寺も集まれば、どうしても周りが気になるのが常。人口減少により檀家が少なくなっている今、寺を維持していくのは大変なご苦労がありそう。
大浦山海蔵寺には、津軽藩の財政力アップに大きく貢献した武田源左衛門の墓がありました。この方、徹底的な倹約と重税を課したことで方々から恨みを買い、藩主津軽信政の死後藩主となった延壽には嫌われ、終いには切腹させられてしまいます。 -
別霆山宝積院には門前に立派な石碑があり、秋葉大権現 と彫られていました。なんでもこの秋葉大権現、誰も見たことのない秘仏なのだそうですよ。勿論、お寺の住職もですって。見ると祟りがあるからと先祖から固く禁止されているのだとか・・・しかし、「見るな~」と言われると、見たくなるのが人の常ですよね。
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赤い門と真新しい本堂が目立ちました。石を効果的に配置したお庭が素敵です。嶺松院です。
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金平山蘭庭院。黒門の傍にあった六角堂内部を見学する際には、こちらのお寺に連絡して、鍵を借りるのだそうですよ。
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黒長山福寿院。ここは狭いながら、庭に形の良い松が左右に植えられていました。
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また雨がやや激しく降りだしました。唐糸山万蔵寺は白い漆喰と黒板のコントラストが美しい塀に囲まれていました。緑が多く、歴史を感じさせる本堂の建築にも興味を覚えたのですが、木々から雨のしずくが沢山落ちて来そうで今回は門前のみ。
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突き当り長勝寺のすぐ手前にあった嶺応山梅林寺です。新しそうな仁王像が迎えてくれました。門越しに見ると、本堂脇に掃除小僧と居眠り小僧の石像が置かれているのがとてもユニーク! 天気が良かったらここも入りたかった・・・
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で、ようやく杉並木の終点、太平山長勝寺三門前にやってきました。この寺では山門とは言わずに三門と呼んでいます。
山門というのは、お寺の門を指しますが、三門は、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)という悟りに至る三つの境地を指す言葉。
全ての事物・現象は本来空(くう)で、固定した姿を持たず=無相(むそう)、因縁によって生じたものでもなく、よって生ずることも滅することもない=無作(むさ)のだそう。
分からないような、分からないような・・・(汗)! -
その三門の前に立ちました。1629年(寛永6年)の建造で、こちらも二代藩主信牧の時代のものです。高さが16.2mあり、1階から2階までの通し柱が使われているそうです。一体どれだけ大きな木を使ったのでしょう?
木の表面はかなり色あせ、山号の「太平山」と書かれた額の字がほとんど消えかかっています。大きな入母屋造りの屋根はとち葺きだと書かれていました。国の重要文化財です。 -
三門を内側から見た1枚です。両脇に急な階段があるのに気が付きました。
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三門からまっすぐ続く参道の先に1610年(慶長15年)建造の本堂が見えました。こちらも入母屋造りの屋根ですが、こけら葺きとのこと。何度も改修されていますが、2008年に建造当初の姿に復元されました。
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柵があって、ここから先は入れません。あまりに美しく整いすぎていて、近寄りがたい雰囲気。本堂の入口がどこにも見当たらないのは何故? と思ったのですが、庫裏からしか出入り出来ないような造りになっているようでした。
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そして、本堂に向かって右側に建つ、本堂とよく似た造りの建物は庫裏です。屋根が切妻でこちらは茅葺。同じ寺にある3つの屋根の葺き方がそれぞれ異なるのは珍しいかもしれません。
長勝寺のある場所は城の南西の方角で、裏鬼門(坤 ひつじさる)に当たっていました。寺は裏鬼門の鎮護として、場所を選んで建立されたものでした。 -
ちなみに、城の鬼門に当たる北東の方角(艮 うしとら)には、最勝院初め12の寺、神社がかつては存在していましたが、明治の神仏分離の際に、多くが廃寺になってしまったそうです。鬼門鎮守の神弘前八幡宮だけが現存しています。裏鬼門の33ヶ寺はよくもまあ御無事で!
庫裏を正面から撮った1枚です。 -
そして、庫裏の右隣りにあるこちらの鐘楼には、鎌倉時代の1306年(嘉元4年)という年号が入った銅鐘が納められています。鐘の寄進者の筆頭に鎌倉幕府執権北条貞時の法名があると説明板にありました。残念ながら文献は残っていないようですが、鎌倉時代にも津軽と鎌倉の交流があったという確かな証拠になりますね。
なんと、三門、本堂、庫裏、そしてこちらの鐘楼、全てが重要文化財に指定されています。素晴らしい建築の宝庫なのに、訪れる人はまばら。勿体ない! -
丁度弘前市のヴォランティア・ガイドさんが3、4人のグループを案内していらしたので、その後にちゃっかりついて行って、こちらの建物蒼龍窟にお邪魔しました。
かつては座禅堂として使われていた建物です。 -
お堂正面にあった説明板によると、1580年(天正8年)、岩木山神社の鎮守として祀られた三所大権現の本地佛を、明治の神仏分離の際にここに移して安置したとのこと。三所とは、観音、阿弥陀、薬師を表わし、岩木山神社には、この三所を祀る3つのお堂があったのだそうです。
岩木山も典型的な神仏混合の修験道の本拠地だったのですね。
肝心の写真はモードを間違えたらしく、全てピンボケ(泣)! 中央には立派な厨子に入った三尊佛、その手前に安寿姫、厨子王丸、他何体かが並んでいました。 -
厨子の左右には色とりどりの衣をまとった五百羅漢が所狭しと並べられていました。これは圧巻です。
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こちらは左側の羅漢さん達。一番手前に、「いや、写真を撮るのは待て!」とポーズをつけている? 羅漢さんがいらっしゃいましたよ(笑)。
このようなひな壇に並べられた羅漢さんを見るのは初めてです。 -
右側は一段とお顔の表情が豊かでした。着ているものが凄くカラフルですよね。石仏の地味な羅漢さんしか見たことのなかったのでビックリ!
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左右の壁の上方にも、ご覧の通り、並びきらない羅漢さん達がずら~りと並んでいました。
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こちらを拝見する限り、津軽という土地は昔から色彩感覚に溢れた土地柄だったのではと思われます。躍動感あふれるねぷたの本場らしい羅漢さん達でした。
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蒼龍窟の外に出て、建物の右側に回ります。板塀の向こうに見えるのは津軽家の霊屋のようです。ここは津軽家の菩提寺ですからね。
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次に振り向いてみて唖然・・・
蒼龍窟の右壁に沿って長い庇が伸びていて、中にはおびただしい数の木像が安置されていました。
先ほどから勝手にご一緒させていただいているヴォランティアガイドさんの説明が始まったので聞き耳を立てると、なんと、中央に見える絵が描かれた板のようなものは棺で、中には20年前まで津軽第11代藩主津軽順承(ゆきつぐ)の養子承祐(つぐとみ)のミイラが収められていたというお話でした。ギョギョ!! -
で帰ってから早速調べましたよ。お馴染みウィキペディアには、1954年(昭和29年)の長勝寺の墓地の移転の際に、座棺(座った姿勢で遺体を納める棺)に土葬された承祐が自然にミイラ化した状態でみつかったと書かれていました。津軽家を継ぐために養子になったものの、18歳の若さで病死したそうです。わざわざミイラにしたわけではなかったんですね。ホッ!
蛇足ですが、津軽家の要望で、ミイラは再度荼毘に付されたそうです。 -
それにしても、この仏様何体あるのでしょうか?
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こちらは右側。よく見ると、一体一体全てお顔が異なりますが、皆柔和な表情をしています。丁寧に彫られた、作った人の温もりを感じることの出来る仏様でした。
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蒼龍窟に時間を取られて、肝心の庫裏と本堂には入らずじまいで出て来てしまいました。これはまた次回に取っておきましょう。
いやあ~、津軽の町歩き楽しい!って又言っている。 -
雨は降ったり止んだり。そうひどくはなりません。道には津軽のリンゴが!
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ツタに覆われたひょろ長いひまわりが密生していました。あまり世話をされなかったみたい。
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雨はひどくないと書いたばかりですが、今度は土砂降りです。今日の青森ねぶたはどうなることやら。
再び趣のある家巡りを兼ねて雨の弘前をお散歩。茂森新町にあった下山家住宅は1945年(昭和20年)の建築。一般の家庭なので、写真はこれ1枚だけ。門の奥に見える屋根の大きな住宅は高さもありますね。白いしっくい壁に格子の木組みが今見て来たばかりの長勝寺本堂にも通ずる堂々たる風格を感じます。 -
お次の鋏屋さん 正式名称は田澤刃物製作所ですが、看板にはリンゴの絵の下に「鋏は清水一國」と書かれています。リンゴの剪定用の鋏を制作している津軽打刃物のお店です。清水一國印が商標だそうですよ。青森らしいですね。
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建物は少々くたびれていますが、屋根とその上に乗った2本の煙突が愛嬌あります。趣のある建物というよりは、日本の誇る匠の技はこうした建物の中で育まれているんだなと感慨にふけりました。
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千嶋たたみ製作所の店先には、畳で作った扇ねぷたが飾られていました。たたみに使われている縁の模様は高麗という伝統的な紋だそうですよ。
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茂森町から新寺町新割町に抜ける曲がりくねった坂にも、古い家屋が残っていました。道の右側にあるのは、味噌醤油醸造元の加藤商店。この坂、加藤坂とも呼ばれているんですって。
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道路を渡ってもう1枚。一番左に見えているのが店舗。その裏が住居でしょうか。
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イチオシ
だいぶ古ぼけた蔵とそれに続く倉庫です。この情緒溢れる風景には坂道が一役買っていますね。う~ん 素敵!
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道路の反対側にも古い木造の奥に長い建物が続いていました。
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で、こちらが加藤味噌醤油醸造元の店舗部分を撮った1枚。1871年(明治4年)以来無添加の津軽味噌と醤油を醸造し続けているそうです。看板の真ん中にある山印の下に當という商標はやまとうと読みます。この金文字の書かれた看板そのものが味わい深いですね。
味噌醤油の他にも煙草、塩、という看板が見えていました。 -
実は弘前にはもう一つ大きな寺町があり、それがこちらの交通量の多い県道28号線に沿って伸びています。名前は新寺町。先ほど訪れた禅林街が曹洞宗のみでしたが、こちらは様々な宗派の寺が並んでいると聞きました。
新とつくのは、1649年(慶安2年)に、元々寺のあった町(昨日訪れた石場旅館や日本基督教団弘前教会のある通り沿い)が火事で焼失、こちらの場所に移ってきたからなのだそうです。石場旅館等がある町名は現在元寺町と呼ばれています。まことに分かりやすい。
写真は明治時代の商家町田家住宅。1階は漆喰壁。2階は板張り。雰囲気が随分異なりますね。 -
時間の都合により、新寺町も山門をいくつか写しただけで、本堂には近寄らずじまいでした。
こちらは浄土真宗大谷派の正蓮寺。本当だ!曹洞宗以外の寺初めて発見! 本堂を覆い隠すような立派な樹木とその後ろの緑に塗られた階段が目につきました。 -
真言宗遍照寺。山門の先、およそお寺らしくない、軒の低い建物は観音堂。そして、山門横のお堂は閻魔堂です。一説によれば、中にいらっしゃるのは閻魔婆様だそうです。
門前の掲示板には 火と水の 世の悲しみに むせび泣く なみだのそこに ひびく よびごえ とありました。 -
日蓮宗のお寺には必ずある南無妙法蓮華経と書かれた石碑が立つ本行寺。黒板塀に映える赤塗りの門が印象的です。
このお寺には1716年(享保元年)頃に建てられた方形造りの護国堂があり、県の重宝に指定されています。 -
県道28号線の交通量があまりに多いので、町歩きには不適とばかりに、途中から北に折れて弘前大学近くの住宅街にやって参りました。雨はますます強くなるばかり。暗雲立ち込めていますぞ。今宵のねぶた!
ここ在府町は、前述した元寺町の火事の後に、上級武士が移り住んだと言われる格式高い住宅街です。途中で見かけた黒板塀が回った、凄みのある松が茂るお宅です。住居部分は新しいですが、塀と門は古いままのようですね。 -
木々に隠れて建物がよく見えませんが、そのお隣も漆喰壁に木組みが美しい住宅でした。
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こちらは、蔵と住居が一体化したような建物。蔵と玄関の庇上の装飾が面白い! 鬼瓦の代わりかな?
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中でも広大な敷地が黒板塀で囲まれていたこちらの木村家は藩のかなり重鎮だった方のお屋敷のようです。住宅の部分がよく見えませんが、個人のお宅なのでこれ以上はためらわれました。
門は扉のない藥医門でした。黒板塀に降りしきる無常の雨!! -
道路の反対側から撮った1枚。広大な面積を占めていました。住居部分は江戸時代の建築だそうですが、全く見えませんねえ。
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老舗の大阪屋は津軽藩御用菓子舗で、1630年(寛永7年)の創業だそうです。現在のご主人はその13代目。ここでも金看板が光っていますね。伝統の味黒砂糖羊羹が絶品だそうですよ。甘くてずっしりと重いのだとか。
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元質屋の蔵を改造した料理屋 なる海 懐石料理のお店です。1833年(天保4年)の建造。
出窓は後から付けられたものでしょうが、風情ありますねえ。夜はやや値が張りますが、ランチは1600円位から楽しめるようです。 -
町歩きの最後は旧第八師団長官舎。堀江佐吉の長男 堀江彦三郎の設計によるもので、1917年(大正6年)の建造です。玄関の上の赤い破風、3つある(ここからだと2つしか見えませんが)天窓のミニ破風が印象的です。
第二次大戦後はアメリカの進駐軍司令官の官舎、そして市に払下げ後は市長公舎として使われたという歴史があります。現在は資料館になっているのかしら? 無料公開中とありましたが、もう時間切れ。青森に行かなくっちゃ!
というわけで、弘前の「趣のある建物」全40か所の内、28箇所を回ることが出来ました。絶対に続きを見に行こう…と思い続けて早2年半たってしまいました・・・横浜からの旅人さんもおっしゃっていましたが、弘前は旅人を惹き付けて止まない、魔力のある町でした。 -
駅に向かうバスの中から撮った1枚。祭り会場へと山車を曳く男性です。今日は駅前が会場になります。どうにか止んで欲しいなあ・・・
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青森に到着したのは17時過ぎ。幸い雨はまだ降っていませんでした。
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2001年以来、久しぶりの青森。なんだか見慣れぬものが沢山ありますよ。青森駅を跨ぐベイブリッジは見た記憶があるけれど・・・
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こんな建物あったかしら? Aファクトリー???
見覚えがないはずです。2010年12月、東北新幹線の新青森駅開業に合わせてオープンしたJR経営の施設で、青森の特産品はすべてここで購入できます。お土産だけでなく、青森特産のリンゴで作るシードルの工房やご当地グルメのお店もありました。 -
ベイブリッジの先は海です。遠く浅虫辺りの山々までくっきりと見えていて、これは期待できるぞ! とこの時は思ったのですが・・・
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懐かしい青函連絡船のような大きな船がゆっくりと煙を吐きながら通過していきました。
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Aファクトリーを通り過ぎ、ねぶたの家ワ・ラッセに潜入します。これも13年前にはなかった施設。2011年にオープンした青森市の文化観光施設です。建物全体がこの赤いペラペラのルーバーですっぽりと覆われているので、大変目立ちます
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青森県の地図を背後に、三内丸山遺跡の縄文人ねぶた(勝手にそう思っただけです)が出迎えてくれましたよ。顔はやっぱりお馴染みの顔ですねえ!
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館内にはねぶたミュージアムがあり、ねぶたの歴史や実物の組ねぶたを1年を通して見学することが出来ます。でも今日は本物のお祭りの日なので、流石に入場する気にはなれません。
1階奥にはミュージアムショップがありました。 -
ショップの奥から一部ミュージアムが覗けるようになっていたので、アングルがいまいちですが、無理して撮影。
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顔ねぶたの下には、絵師(ねぶた師)達の紹介パネルが並んでいました。
元々はねぶたが大好きな人達が集まって制作されていたねぶたですが、近頃ではスキルの高い絵師は専門職となり、ねぶた師という名で呼ばれるようになったそうです。
男性だけでなく、史上初の女性のねぶた師も誕生。六代目ねぶた名人北村隆氏の令嬢麻子さんのプロフィールも紹介されていました。彼女の制作したねぶたは2012年、2015年、2016年と優秀製作者賞を受賞しています。 -
イチオシ
暗闇の中に浮かび上がる妖艶な世界です。
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ねぶた一体を制作するのに、3か月から4か月は優にかかるそうですよ。
こんなねぶたにも弱点が一つ。それは雨に弱い事。和紙に水性顔料や染料を使って描くのですから当然のことではありますが、日本の夏は雨が多い。そこでビニールにすっぽりとくるまれて登場と相成るわけです。最近では紙、染料とも水に強いものが次々と開発されてきているようですが、少しの雨ならともかく、土砂降りじゃあねえ・・・。 -
入場無料の部分だけで恐縮ですが、こちらの「青森ねぶた祭り由来」のパネルも面白かった。坂上田村麻呂が蝦夷退治に用いた人形灯篭がその起源だとは、初めて知りました。トロイの木馬にも通じるものがあります。
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パネルは3つありましたが、どれも大体同じ事が書かれていました。
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まだもう少し時間があるので、青森県観光物産館アスパムに向かいます。こちらは1986年(昭和61年)の開業ですが、足を踏み入れるのは初めて。建物の三角形はあおもりのAを象ったものだそうですよ。高さ76m、地上15階建てで、青森県では一番高い建物です。
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この位置から見ると、壁の厚みが感じられないので巨大なパネルのようにも見えますね。
おお、やってるやってる。祭りのムード満点です。アスパムの中は巨大なショッピングセンターになっていました。ここで青森の名産品をゲット。 -
アスパムから外に出ると、 わっ 出た~ ビニールねぶたに遭遇してしまいました。この雲行きでは雨は免れませんが、ううん、そこをなんとか・・・
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日本海運ねぶた実行委員会の組ねぶたの背面には、雲たなびく紅富士の姿がありました。弘前とは全く趣が異なり、複雑な造りを見ているだけでも楽しいのですが・・・
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JRねぶた実行プロジェクトの今年のお題は「相馬太郎良門 妖術を修る」。
相馬太郎良門とは平将門の嫡男で、父の無念の死後、姉共々奥州に隠れ住み、密かに武術を磨いた青年。その彼が妖術師肉芝山と会って父の果たせなかった思いを伝えられ、妖術を身に付けて、一族再興を決意する場面です。 -
相馬太郎良門が掲げている旗は、「繋ぎ馬」。平将門、相馬太郎良門らが戦の際に使用したとされています。
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パラパラと降ってきましたが、まだこの時点では大したことなかったんですがね。
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町中で見かけた金魚ねぶた。白いひれが可愛い。弘前のものとは少し異なる気がします。その下に見える水色のものは、巾着ねぶたと呼ばれていて、祭りのときに、女の子が持って歩いたものだそうですよ。これは初めて見ました。
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今日も椅子席を確保してあったので、かぶりつきで祭り見物。大きな太鼓が通り過ぎていきました。
2014年の青森のねぶたは大型の組ねぶたが22台。市内の目抜き通り新町通りを中心にしたおよそ3.2kmのコース上に予め待機していたねぶたが、開始の合図とともに一斉に動き出すという仕掛けになっていました。3.2kmに22台ですからね。弘前と違い、一つの団体から次の団体が到着するまで時間がかかります。 -
弘前と異なる点がもう一つ。青森ねぶたは、大企業のスポンサーによる山車がほとんどであること。ご覧のNTTとかJRとか日本通運とか・・・弘前のような町内会はほんの数台しかありません。他に自衛隊、県庁、市役所等の公共団体が参加していました。
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NTTグループねぶたのお題は「酒呑童子」。弘前でもお目見えしましたね。お読みになっていない方はこちらからどうぞ。左が酒呑童子、右は童子を征伐した頼光四天王の一人源頼光です。
http://4travel.jp/travelogue/11220376 -
弘前のように鑑絵、見送り絵という分け方はないようです。ねぶた師は北村春一さん。ねぶた師北村蓮明氏(北村隆氏の双子の弟!)のご子息なので、初の女性ねぶた師の北村麻子さんとは従兄妹同士です。
共に30代。若い世代に確実に伝統が引き継がれているようで、頼もしい限りです。 -
マルハニチロ佞武多会のねぶたで、「雷神」です。日本の沢山の神々の中で、最も身近な神の一人かもしれません。水滸伝、三国志よりこちらの方が分かりやすい気がします。
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こちらは、前ねぶたと呼ばれる、メインのねぶたが登場する前に露払いとして運行する小型の山車です。青森青年会議所の「後継者育成ねぶた」と書かれていました。お題は「天岩戸」
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青森青年会議所メインのねぶたは何故か電気系統の故障か、灯りが灯っていませんでした。お題は「運漢」。そう、弘前の扇ねぷたには必ずこの二文字がありましたね。中国から伝わったとされる「天の川」のことです。
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大型ねぶたの後に太鼓部隊。そしてその後に「跳人」(はねと)が続きます。この跳人が、青森ねぶたを最高に盛り上げてくれます。誰でも参加、出入り自由の踊り子集団。「ラッセラーラッセラー」の掛け声、跳人が跳ねる、太鼓の大音響が聞こえないほど跳人がつけている鈴の音が鳴り響くと、自分の意思とは関係なく、体が勝手に動き出すこと請け合い。
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青森県庁ねぶた実行委員会の「袴垂保輔(はかまだれやすすけ)と鬼童丸(きどうまる) 妖術合戦」。妖術が多いですね。
袴垂保輔は本名藤原保輔。平安時代のれっきとした官人ですが、盗賊としての方が有名で、今でいう強盗、殺人、傷害犯。盗賊としての名前が苗字の代わりに用いられることが多い人物。初めて切腹をした人としても知られています。
鬼童丸はこれまた興味深い境遇。前に出てきた酒呑童子がさらってきた女性との間に生まれた子供だという説があり、父の仇として源頼光をつけ狙ったと言われています。
こちらは、袴垂保輔(右)が呪文で大蛇(右端)を出したところ、鬼童丸がカラス天狗達(3人いますね)を操って、応戦する場面だそうです。 -
青森菱友会の「大間の天妃神 千里眼と哪?(なた)」天妃とは、台湾や中国、東南アジアで信仰されている媽祖(まそ)のこと。大間に住む一人の漁師があるとき、海でしけに会い、天妃様に助けてもらったことから、大間では毎年天妃様行列という、天妃様に感謝を捧げるお祭りが開催されるそうです。大間は媽祖が祀られる最北端ではないのかしら?
天妃の左側にいるのが哪?(なた)。彼は道教で崇められている少年神。そして右側にいるのが、心入れ替えて天妃に使役されている、鬼の千里眼。共に7月中旬頃行われる大間の天妃様行列に加わっているとのこと。これは是非一度見てみたいですねえ。
こちらのねぶたは、2014年の青森知事賞、ねぶた師の竹浪比呂央氏は最優秀製作者賞を獲得しました。パチパチパチ、素晴らしい! 生で見たかった(まだ言っている)・・・ -
山車の後ろには、龍のしっぽが見えていました。大迫力!
ここまで見て来た青森ねぶた、いずれも日本古来の物語が中心でしたね。 -
青森山田学園の「姫路城の刑部姫」は、ねぶた師北村隆氏の作品。灯りが半分消えていて、よく見えなかったのが残念。
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ねぶた愛好会の「滝夜叉姫」。平将門の娘とされる伝説上の妖術使いです。凄い形相の姫ですねえ。妖術使い大人気! 同じく平将門の遺児で、前述した相馬太郎良門の姉に当たります。日本の場合、怨念で鬼と化すケースが多いですね。
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に組・東芝の「武内宿禰 (たけしうちのすくね)宝珠を得る」。
武内宿禰というのは、古事記、日本書紀に登場する景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたとされる忠臣で、295歳まで生きた、いや360歳余で行方知らずになった等々、沢山の説がある方です。
彼に纏わる話は第14代の仲哀天皇の死後、奥方の神功皇后と赤子だった第15代応神天皇を援護する時代に最も多くなっています。龍宮からもたらされた、あらゆる願いが叶うという、潮の満ち欠けを操る2つの宝珠を得て、神功皇后の前に立ちはだかった困難を解消、戦を勝利に導いています。
そう言えば、明治時代に発行された神功皇后の顔が描かれたお札、弘前の青森銀行資料館で見ましたねえ。
http://4travel.jp/travelogue/11218458 -
これじゃあなんだかわかりませんねえ・・・
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青森市役所ねぶた実行委員会の「剛力 白藤彦七郎」。
本能寺の変の後、明知勢を追った秀吉がとっさに放った馬を徒手で軽々と持ち上げ、田に投げ飛ばしたのが、明知の四天王の一人が白藤彦七郎。左が秀吉ですね。馬を持ち上げているようには見えないのが少々残念。 -
アスパムから出たところで見かけたJRグループの登場です。
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平将門の遺児相馬太郎良門がおいでになりましたよ!
青森ねぶたで唯一撮ったへぼ動画をどうか見ておくんなせえ
https://youtu.be/MvL-IUFvcvs -
初めて登場の中国ものです。日立連合ねぶた会の「鍾馗(しょうき)」。中国の魔除けの神様だそうです。日本では五月人形に「しょうきさま」を飾りますね。端午の節句の起源も中国だったんだと初めて知りました。
ねぶた師は北村蓮明氏で、このねぶたは市長賞、囃子賞を受賞しました。 -
弘前と比べると宣伝が目立つなあ・・・
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こちらは、日本通運ねぶた実行委員会の「新田義貞 龍神伝説」。
新田義貞が鎌倉に攻め入った時に、稲村ケ崎の岩に行く手を阻まれ、万事休すと誰もが思ったとき、義貞が宝刀を掲げ、「龍神よ。どうか道を開いてください。」と祈りを捧げて黄金の太刀を海に投げ入れると、たちまち潮が引いて砂浜が現れ、ここを突破できたという伝説を元にしています。昔稲村ケ崎で明治天皇の歌碑を見た記憶があります。 -
この山車の背景が紅富士だったんだぁ・・・
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太鼓奏者に女性が沢山参加していたのが印象的でしたよ。
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青森自衛隊ねぶた協賛会。弘前共々自衛隊が庶民のお祭りに溶け込んでいる気がします。お題は「南祖坊と八之太郎」。
十和田湖誕生の伝説にまつわるお話。村のマタギをしていた若者八之太郎(八郎太郎)がある時、イワナを仲間の分まで食べてしまったところ、急に喉が渇き、水をがぶがぶ飲むうちに、とうとう33尺(およそ100m)の龍に姿が変わり、十和田山の頂付近に湖を作ってそこの主となりました。それが今の十和田湖だそうです。
南祖坊は、その八之太郎相手に法華経を武器に戦い、湖から八之太郎を追い出したお坊さんです。この物語にはまだ続きがあって、八郎潟、田沢湖へと続くのですが、長いので省略。物語を知っているのと知らないのとでは、ねぶたを見る楽しみが違いますねえ。 -
こちらは東北電力ねぶた愛好会の「鬼神 人首丸(ひとこうべまる) 伝説」です。人首丸は平安時代にこの地に住んでいた蝦夷と呼ばれる人々の頭領 悪路王(あくろおう)の弟大武丸の子。二人のかしらが討たれた後も最後まで抵抗を続けた人物で、大変な美少年だったとされています。
様々な民話や伝説の世界が次々と光の中に浮かび上がっては消えていきます。歴史を駆け抜けていった人物について、思いを巡らせるにはまことに良い機会でしたが、事前の勉強が足りなかったことを痛感。 -
丁度山車が一巡した頃に、雨が激しくなってきて、座っていられなくなったので、お祭りとは逆方向に、駅に向かって歩きます。
数十年前に見たねぶたには、頭のてっぺんからつま先まで、全身を貫くようなオーラを感じたのですが、今回は天候のせいもあるけれど、あまりにも冷静に見過ぎている自分がいるばかりでて、少々拍子抜け。悪い意味で、コマーシャリズムが目立ち過ぎたのも、少々がっかりでした。 -
弘前に戻って、悲しいニュースを知りました。今夜行われた弘前ねぷたで、扇ねぷたを上下させる昇降機に挟まれて死者が出たというニュースでした。激しくなるばかりの雨の中で、弘前の町は灯が消えたように静まり返っていました。
おお、なんと暗いお祭りの夜でしょう。念願のねぷたとねぶたをこの目で見ることが出来たのに、雨が気分を台無しにしてしまいました。こんな日はお風呂に入って早く寝るしかないですね。というわけで、この続きはねぷたとねぶたと立佞武多 青森紀行 その5 平川から黒石へ で。
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