2014/08/05 - 2014/08/05
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junemayさん
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もうだいぶ前の旅になりますが、ふと思い出してはその余韻に浸る。そんな忘れえぬ旅の一つが、この青森紀行です。例によって例のごとく、思い立ったのは25日前。でも青森のお祭りシーズンとあって、宿はどこも満杯です。諦めかけていた時に、天の助けがあり、祭りを最後に店じまいするという弘前の宿を確保することが出来ました。こうなったら、行くっきゃありません。
ねぷたとねぶたと立佞武多。そんな「ハレ」を楽しみに訪れたのですが、意外にも思い出すのはいつも「ケ」の方。津軽では暖かい人情に触れることが多く、町歩きが本当に楽しかった!
前後を野暮用に挟まれ、確保できたのは丸3日。そのため、往復夜行バスという強行軍。しかしゆっくりと寝ていけるリクライニングシートだったので、疲れも少なく、3日間をフルに使うことが出来ました。
8/4弘前、田舎館、弘前
★ 8/5弘前、青森
8/6平川、黒石、五所川原
あくる日は予報では晴だったのに生憎の雨。ショボショボと降る雨で、町歩きには向かないけれど、涼しいのが嬉しい。さあ、めげずに出かけましょう。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ホテル浜長の朝食風景です。たっぷりのお野菜と
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鮭の塩焼き、そして
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サラミソーセージのマリネー、それにご飯とお味噌汁がつきます。女将の温かい家庭料理が嬉しい! 朝からたっぷりと食べてしまいました。
まだ雨は止まないけれど、昨日の続き、弘前の昭和の町をもう少し歩いてみたいので、ホテルに置いてあった、「弘前の趣のある建物」という小冊子を手にいざ繰り出します。 -
まずやってきたのは、羽州街道沿いの代官町にあるこちらのお店 保村刃物製作所です。古い建物ではないけれど、店の裏に見える煙突が良い味出しています。
刃物と言えば新潟の燕、三条が有名ですが、こちらのご主人も新潟で修行された方。先祖代々鍛冶屋を生業としていて、今のご主人が6代目だそうです。ちょっとお店の中を覗いてみたかったけれど、入りにくかったので、外観だけ。1963(昭和38年)年の建造。 -
続いては東北女子短大の真向かいにあった、こちらの建物。修復されていますが、1928年(昭和3年)の建築だそう。
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小野金商店。今は店を閉めてしまっていますが、わら製品を扱っていたお店でした。看板にある縄莚叺とは、縄(なわ)、莚(むしろ)、叺(かます)と読むのだそうです。なわ、むしろ はわかるけれど、かますってご存知でしたか?
むしろを二つ折りにして袋状にしたもので、穀物や塩、肥料、石炭などを運んだり、保存するのに使われていたものだそう。子供の頃に見たようなかすかな記憶。昔の人は稲を余すところなく利用したんですね。 -
赤いトタン屋根が彩りを添えています。多分きちんと建物の手入れ(修復)をなさっているのでしょう。今にも人が出て来そうな按排。いかにも雪国の商店と言った佇まいですね。
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退色した下見板張りの外壁が風情があって気にいりました。
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雨に濡れた弘前市のマンホールです。卍が市章だと前の旅行記で書きましたが、市章を取り囲むように〇でリンゴが形作られています。
マンホールを見ると必ず撮る習慣があり、マンホール写真集が出来そうです。でもだーれも見たくないって。 -
小野金商店と道を挟んで反対側にぽつんと建っていた立派な蔵のある民家。雪国では、蔵もトタン屋根でした。なんだか不釣り合いのような不思議な気分。
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住宅地を歩いていくと、レトロな出窓のある石壁の民家を発見。表札を見ると歯科医院でした。リフォームされていますが、1929年(昭和4年)の木造建築だそう。
弘前に限りませんが、代々開業医をなさっている方の住まいは、その土地の名士らしい歴史的な重みを感じられるものが多いですね。
手前のぽつんと残った門柱が気になりました。今は駐車場ですが、かつては立派なお屋敷だったのかなあ・・・ -
町の中心土手町に入って参りました。風見鶏のついた時計台のある建物は1900年(明治33年)生まれ。緑と赤のトタン屋根のコントラストが素敵ですね!
現在も営業中の一戸時計店が、1920年に前の持ち主から譲り受けたものと書かれていましたので、元々は時計屋さんではなかったようです。 -
イチオシ
ちなみに時計は正確な時刻を示していましたよ。時計台の後ろに天窓が見えていました。
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一戸時計店から1軒置いた隣の建物は、和菓子の老舗開雲堂。生憎今日は火曜日で定休日でした。2階の壁一面に貼られた銅板、年季が入っていますね。
中央の金看板に書かれている文字はあまりに達筆で開という字が読めませんでした。1階の看板の両端にある卍を象った最中が名物だそう。 -
こちらも、小冊子に載っていたので、脇道に入って見学。1959年(昭和34年)の建造以来、外観が変わっていない洋菓子屋兼喫茶店のひまわりです。ここも残念なことにシャッターが下りていました。
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情趣のある錬鉄製の看板が良いかも。
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店先に飾られた金魚ねぷた。明治の頃には、ねぷたの季節になると、棒を付けた灯篭として火が灯され、各家の門口に置かれたそうです。
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土手町の商店街を抜けて、昨日もやってきた弘前市の百石町展示館前を通ります。地名からもわかる通り、この辺りは100石以上の禄高の藩士達が住んでいた町でした。
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県道31号線に面した三上ビルは、弘前無尽株式会社(後の弘前相互銀行)が1927年(昭和2年)に建てた弘前に現存する最も古い鉄筋コンクリートの建物です。国の登録有形文化財に指定されています。
ファサードに装飾は少ないですが、一か所渦巻きを束ねたような模様を発見! アール・デコとか書かれていましたが、数か所に連続する幾何学模様があるからでしょうか? -
見れば見るほど味が出て来そうなファサードでしたよ。
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中では喫茶「時代屋」さんが営業中でした。
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県道に面して、三上ビルの対面にあったのが、津軽塗のお店田中屋です。創業1897年(明治30年)の老舗です。
黒塗りの柱は、旧弘前市役所の木材を再利用したものと書かれていました。旧弘前市役所は現存していませんが、二つ前の旅行記でそのミニチュアを紹介しました。1892年生まれの建物で使われていた木材の一部がいまだにここで現役というのは嬉しい限り!
http://4travel.jp/travelogue/11218458 -
こちらは、百石町側のファサード。シンプルな柱と白壁だけの構成が素敵ですね。
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思わず触って、撫でてみたくなる温もりが感じられる木材です。
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店先に置いてあった置き石。これで「津軽」と読むのだそうですが、読めないなあ・・・
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敷居が高いけれど、中を覗かせていただきました。大正時代に作られたという漆塗りの金看板が迎えてくれました。
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こちらは津軽塗資料館。正面左側に置かれた黒いリンゴが4つ乗った物入れ? がとても印象的でした。資料館と店内を回って、目の保養をさせていただきました。
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見上げるような大きな入母屋屋根が特徴の小堀旅館は1891年(明治24年)に元大工町で創業。1928年(昭和3年)に現在の場所に移ってきました。最初の屋号「東雲館」の金文字看板が今も掲げられています。
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続いて、1913年(大正2年)創業のお蕎麦屋さん「高砂」です。現在の建物は1974年(昭和49年)と言いますから、古くはありません。宗像志功がお気に入りのお店だったと聞きました。
個人的には隣の駐車場に建つ土台部分がレンガ造りの蔵の方が気になりました。 -
近頃トンと見かけなくなったボウリングのピンが空に突き出ています。弘前ではボウリング場が健在でした。この辺りは派手な色の大型施設が軒を連ねていますが、私の目にはやはりレトロに映りました。
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県道31号線を東に進み、土淵川沿いの道を北に進むと、途端に人通りが絶えます。静かな道を少し進むと右手に見えてくるのが、割烹平野。
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ここも趣のある建物の指定を受けていました。門とその周りの豊かな緑が素晴らしい。奥の建物は大正期に建てられたということしかわかっていないそうです。
昼間は営業していませんが、夜、少し気取った食事に訪れたい雰囲気でした。 -
土台部分がレンガ造りの蔵がまたありました。この辺りでは珍しいわけではなさそうです。
こちらは、数の子、するめ、昆布等が入った「つがる漬」の製造元鎌田屋商店の蔵です。創業は1918年(大正8年)。今は駐輪場になっているのかしら? -
蔵の反対側の建物は、外壁のレンガを白く塗ったもののようでした。奥に加工所と書かれた建物がありました。白い服を着た男性が作業をしていたので、そこが食品工場になっているようです。
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津軽漬工場からやや暫く歩いて、弘前文化センターの前までやってきました。建物の前には、昨日のねぷたでも人気者だった津軽為信公像が立っていました。特色のある兜の形ですぐに彼と判ります。
1909年(明治42年)に弘前城内に建立されましたが、第二次大戦中、国に金属を供出するために解体されたという悲しい歴史があります。現在の銅像は2004年(平成16年)の再建です。 -
弘前城の北側、亀甲町に入って参りました。町名は、北を護る神である玄武(蛇のからみついた亀の形をしている)にちなんだ城の亀甲門から名付けられたと言われています。
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この町の更に北側に何軒かの武家屋敷が残されているというので、ブラブラしがてら見学しましょう。
武家屋敷街の象徴はこちらの生垣です。黒く塗られた門がまた良いですね。 -
県重宝の旧岩田家住宅です。今から180年ほど前の寛政年間(1789年から1801年)末から文化年間(1804年から1818年)に建てられたとのことですが、文書は残っていません。柱などの主要構造部分や屋根葺材料等はほぼ建築当初のままだと説明板に書かれていました。
岩田家の子孫の方の遺志により、1979年(昭和56年)、市に寄贈されました。 -
座敷に上がって、庭を眺めた1枚。鮮やかな緑濃い木々が額縁の中の絵のようにすっぽりと納まってくれました。くつろぎを感じます。
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全ての部屋に天井板があるわけではなく、こうした屋根が剥き出しの部屋もありました。
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炉を切ってある場所が2か所ありました。こちらが常居。家族がいつもいる部屋、つまり居間のことです。
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そして台所です。
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常居の奥は、身の回りの物をしまう物置になっていました。これは便利かもしれません。
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土間のへっついと流しです。壁についた煤が、妙に生活感を感じさせますね。一体いつ頃までこの家で生活していたのかしら?
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今まで、全国各地で中級、下級武士の住んでいた住居を何か所も拝見しましたが、どこの屋敷にも共通することは簡素で無駄のない、合理的な造りになっていること。物に溢れた我が家を思い出したくないのに、思い出してしまい赤面。
話は脱線しますが、友人の一人は、東日本大震災を契機に自分の持ち物をスーツケース一つに収まるよう、すべて処分、整理したそうです。旅人生の私もそれに憧れているのですが、根性悪く、なかなか思い切れません。 -
季節の移ろいだけを感じられる空間も良いもんだと本気で考え始めています。
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工事のため道を真っ直ぐに進むことが出来なかったため、一旦亀甲町に戻ります。道を渡った先にあったのは、元津軽藩の米蔵で、現在は津軽の民芸品の工房、土産物店として利用されている津軽藩ねぷた村です。
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そしてもう1軒目についたのが、津軽天然藍染の旗がたなびいていた川崎染工場。寛政年間(1789年から1801年)に創業した染物屋だと書かれていました。
藍の需要が減り、一旦は店を閉めたそうですが、平成になってから、台風で一部倒壊した建物を改修してお店を再開。藍染め体験もできるようです。 -
この暖簾に惹かれました。なんて素敵な色合いでしょう! 藍染めは四国の徳島が発祥のはずなんだけれど・・・と首をかしげながら暖簾をくぐります。
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やはり、藍は徳島から仕入れていました。店では伝統的な工法で染められた藍染めだけでなく、津軽の伝統的な刺し子「こぎん刺し」も取り扱っていたので、気に入った柄のポーチをお買い上げ! 目が点になるほど細かい仕上がりです。
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お濠沿いの道を更に西に進むと、桜の木の陰に何か見えますよ。交通の激しい県道を渡って行ってみると・・・
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見えてきたのは弘前城に5つ残されている門の内、一番規模が大きく、最古の形式を呈する亀甲門。前述した北を護る門ですね。
城門は全て国の重要文化財に指定されています。ここまで来てもう少し傍まで行って写せば良かったのにと今頃になって後悔・・・ -
その亀甲門から出て、道を渡ったところにあったのが、これまた重要文化財の津軽藩出入りの商家石場家住宅です。かなり大きな住宅です。この位置でないと、全体が入らないのですが、もう少し近づいてと。
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電信柱が邪魔ですねえ。石場家は今日最初の方で訪れた小野金商店と同じく藁製品の商いを行ってきたそうですが、現在では酒とたばこの販売がメインとなっています。屋根はこちらの方向から見ると入母屋造ですが、北側には切妻の屋根も見えていますね。
1700年代(江戸中期)の建造だと推定されていますが、文書は残っていません。 -
入場料を払えば、中を見せてくださいますが、生活の場として使用しているため、座敷には上がれません。愛層の良い女将さんとおしゃべりに花が咲いて、肝心の写真は皆ボケていました。
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話題に上ったのは、こんなところでぐっすり寝込んでいる愛犬についてが中心。大きな声でおしゃべりしていても、知らぬ存ぜぬでホント気持ちよさそうに寝ているんだから・・・
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お店の前の「こみせ」。津軽独特の長い庇が特徴的な雁木造、いわゆるアーケードが真っ直ぐに伸びていました。
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この石場家住宅の角を曲がって、再度武家屋敷街を目指します。
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まだまだ続く。いやあ、女将さん笑いこけていたけれど、これは維持管理が大変そう。
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黒板塀と生垣が続く整然とした街並みです。そう言えば、雨ようやく上がったみたい・・・
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またまたコレクショングッズ発見! 消火栓にも卍。
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汚水管マンホールは、卍の周りが蹴鞠のような模様になっていました。
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武家屋敷第2陣は、旧笹森家住宅です。一見近代的な家に見えますが、なんと1756年の文献(御家中屋舗建屋図)に記録が残っている最古の武家屋敷だそう。市北東部の小人町にあったものを、寄贈を受けた市がここに移築したものです。
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とはいえ、やはり新しさが気になりますね。どうにも落ち着きません。よそ様の家に勝手にお邪魔しているような気分・・・
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庭にあった横に折れ曲がった松に風情を感じました。後で知ることになるのですが、針葉樹に石灯籠、石で形作られた津軽地方独特の庭の形態をしています。
古い住居の保存は大切ですが、やはり住みながらの保存を考えないと限界がありそうです。石造りの家なら、外観を残したまま、内装を変えることが出来るけれど、木造建築の場合は難しそうですね。 -
旧笹森家近くで咲いていたこの白い花は何でしょうか? 花びらの一部が無数の細い糸状になって伸びているところは烏瓜に似ていますが、夜間にしか咲かないはず。萎んだふうでもありません。これから咲くのかしら???
もっと開いたところを見てみたかった・・・ -
素晴らしい松が塀から覗いている旧伊東家は修復工事中でした。しかし、この黒板塀、雰囲気ありますね。旧伊東家は藩医を務めていたそうで、敷地も屋敷も、前の二つと比べてやや大きくて立派なようにお見受けしました。
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「趣のある建物」巡りに戻ります。石場家住宅から更に西に進んだ紺屋町にある元畳屋さん山口製畳所。現在は営業していないそうです。
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角をぐるりと曲がったこちらの方が正面。やはりこみせのある造りで、間口が広いのが特徴です。
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イチオシ
同じ紺屋町にあった望楼が可愛い「旧弘前市消防団西地区団第四分団消防屯所」。長いお名前ですこと! レゴブロックで作ったような建物ですよ。
現在は右側に「第五部紺組消防置き場」、左側に「紺屋町巡査派出所」と書かれていましたが、右から書かれているので、これも古いものなのかしら? 警察官の方がいらっしゃいましたから、現在も使用されていることは間違いありません。 -
1933年8昭和8年)頃の建造で、地元の名士の寄付によるものだそうですよ。望楼の高さは14.3m。建物のすぐ後ろがお濠の桜並木なので、花が咲いている時にもう一回写真を撮りに来たいなと思いました。
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一陽橋を渡って、ここから弘前城に入ります。以前天守閣には入場しているので、今日は北から南へ、城の中央を縦断して、天守閣は素通りするつもりです。
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北西角にあったのは護国神社。明治維新以降に国のために亡くなられた青森県出身者20,971柱の御霊が祀られています。
今まで不勉強でしたが、ウィキペディアによると護国神社は東京と神奈川を除く全国道府県に建立されているそうです。神奈川は完成間近の社殿が戦火で焼け、再建が間に合わなかった、東京は目黒に護国神社があったが、後を継ぐ者がなく、2008年(平成20年)に取り壊されたとありました。全く知らぬことばかり。靖国神社との関係も複雑です。 -
護国神社を出て、桜並木が続く道を東に進むと、もう一つ大きな鳥居が現れました。鳥居をくぐって、更に進んでから南に折れます。
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やや暫く歩くと中濠が見えてきました。木々の間に姿を見せているのは丑寅櫓。江戸時代初期の建造でこちらも重要文化財。オリジナルがこれほど沢山残っている城も珍しいです。
大きな桜の木が何本も水面に向かって枝を伸ばしていました。 -
続いて現れたのは二の丸東門与力番所です。説明板によると、城内の主要な箇所の見張り所として、江戸時代には全部で12箇所に建てられていたそうです。江戸時代初期に建てられたものを中期以降に改修したのではないかと言われています。
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どこかで見たことのある石だと思ったら、太宰の故郷金木町(現五所川原市)特産の玉鹿石(ぎょっかせき)でした。碧玉、玉髄、めのう等と同じ成分を含み、磨くと一段と艶と輝きを増すそうです。
東京の三鷹駅に近いの玉川上水沿いには、太宰治が入水自殺した辺りに、これよりもやや小ぶりの玉鹿石が置かれていて、以前からその特徴的な色を記憶していたので、すぐにそれと判りました。 -
今見るとあまり似ていないけれど(汗)、こちらが太宰の入水現場に置かれている玉鹿石です。
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左手に見えてきたのは東内門。門を出て真っ直ぐに進むと東門に通じます。こちらも江戸初期1610年の建築で重要文化財。400歳を迎えています。門の左側に見えているのは、日本最古のソメイヨシノだそうですよ。
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桜並木の向こうに天守閣の姿がちらっ!
ご存知の方も多いでしょうが、弘前城天守閣は今この位置にありません。2014年秋から天守閣下の石垣を補修する工事のため、石垣から離れた場所に天守閣を移動させ、石垣の崩落を防ぐ大工事が現在進行中。元の場所に戻るまでは2014年の段階で10年と書かれていましたから、まだ7年位はかかる見込みです。 -
そうそう、ここです。
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イチオシ
赤い欄干の下乗橋から見る小さな天守閣。1619年(寛永4年)に焼失した天守閣に代わるものとして、1811年(文化3年)になってから建てられました。幕府への遠慮もあって、天守閣という言葉は使わず、三重櫓の一つを改修するという名目で作られたものです。この位置でのお花見は2014年の春が最後でした。
実は明治時代にも弘前城は曳家を経験しています。天守閣下の石垣が崩落し始め、1897年(明治30年)から18年の歳月をかけ、堀江佐吉率いる堀江組が工事を行っています。地盤が軟弱なのかもしれません。今度こそ、抜本的な修復となるよう、今は見守るしかありませんね。 -
石垣が膨らんでいるのが分かると言われましたが、そう言われれば、向かって右側の石垣の斜面が途中から少し飛び出しているようにも見えます。
石垣は2016年頃よりすべて解体し、積み直しを行う予定になっていますから、2017年春の下乗橋からのお花見は、天守閣も石垣もない、城着工前の状態なのかもしれません。 -
藩士もここで馬を下りたという下乗橋の烏帽子のついた欄干です。以前は烏帽子が十二支を象ったものだったと説明板にありました。
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なおも、二の丸を桜並木に沿って歩きます。桜追っかけ人なのですが、地方の桜の場合にはなかなか見頃と合うことがありません。
以前弘前を訪れた時には、仕事の関係でGWしか休めず、すでにソメイヨシノは終わっていて、お濠は見事なピンク色をしていました。かろうじて、天守閣傍の枝垂れ桜には間に合った記憶があります。その翌年は函館と松前に赴きましたが、まだ桜は津軽海峡を渡って来ておらず、固い蕾を愛でただけでした。 -
1914年(大正3年)に宮城県人会から寄贈された、城内で最も太い幹の枝垂桜。
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満開の頃の見事な花をご覧ください。
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先ほど見た東内門とよく似た南内門から出て、弘前城を後にします。こちらも東内門同様1610年の建造で重要文化財になっています。
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外側から見ると、2階部分に□や△の鉄砲狭間や中央に「物見」があり、実戦に備えた造りになっていました。
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南内門を出ると今度は中濠の上に架かる杉の大橋を渡ります。下乗橋とよく似た形状です。以前は杉で作られていましたが、1812年(文政4年)、ヒノキで架け替えられ、その際に擬宝珠と欄干が付いたとのこと。
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深い緑の中に、大変目立つ赤い橋。
北の一陽橋から南の杉の大橋まで30分かけてゆっくり移動して来ました。天守閣や東側にある植物園等も見学するのであれば全部で2時間くらいは必要だと思います。
わずか4万5千石の小さな藩だったにもかかわらず、広大な土地に6つの櫓を有し、三重の濠が回る、そして築城当初は五重の天守閣まであったという弘前城。それをわずか1年で建てたという津軽家二代目信牧という人物が、俄然私の頭の中で脚光を浴び始めましたよ。 -
杉の大橋から尚も南下し、市民会館ホールから外濠を抜けたところにある藤田記念庭園までやってきました。庭園と聞いていましたが、立派な洋館が建っていましたよ。
手掛けたのは御馴染堀江佐吉の六男 金造と七男幸治。佐吉には一体何人の息子がいたのでしょう!! 少なくとも九男までいたことは確認できましたが、男女合わせ、子供達が全部で何人かは分かりませんでした。息子達は佐吉の手ほどきを受け皆棟梁となり、素晴らしい建造物を残しています。 -
門を入ると、向かって右側に書院造の和風館。
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そして左側に先ほど塀越しに見えた洋風館が建っていました。共に国の有形登録文化財となっています。赤い尖がり屋根の塔と煙突が立つ長い傾斜の急な屋根がユニークですねえ。
洋風館の1階は大正浪漫喫茶室となっていました。お昼の時間だったので、丁度良いわ、とここでランチを取ることにしました。 -
お昼の時間は済んだというのに、店内は非常に込み合っていました。これは期待が持てます。ちょうどカレーフェアを行っていたので、欲張りの私が注文したのは、カレーとハヤシの合い盛り というメニュー!
窓から庭園の一部も見渡すことが出来ました。 -
シャンデリアの下の大きな楕円形のテーブルで、隣に座っていらっっしゃた男性とふとしたことからお話させて頂き、彼が「横浜からの旅人」という名前で弘前の写真を撮っていらっしゃることを知りました。
弘前が好きで、何度も訪れているうちに写真集を出版することが決まったとのことで、その後もメールでお付き合いさせていただいております。弘前への愛情がたっぷりと注がれた素晴らしい写真集は今、私の手元にもあります。こちらのサイトで、その内容を確認することが出来ますよ。
http://sharakuet.at.webry.info/ -
「横浜からの旅人」さんとのお話に夢中になってしまい、肝心のカレーとハヤシのコラボは食べ始めてから気が付いたのでカット! と相成りました(泣)。食後のアップルパイもお勧めです。
長くなりましたので、この続きは弘前再び(後編)で。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 琉球熱さん 2017/04/02 14:24:13
- 立佞武多 最高
- junemayさん
旅行記への投票ありがとうございます。
青森県のねぷた、ねぶた、立佞武多は一度は見ておきたい祭りですね。
私の中では立佞武多が一番なのですが、明るく素朴な雰囲気がその理由です。
青森のねぶたは洗練されているし、弘前のねぷたは「陰」の世界、どれも違った魅力がありますね。
とは言え、東京からはなかなか気軽に行けない場所でもあり、かつて仙台に単身赴任していた頃、この時期を逃したら次はないかも!と思い強行軍で見物に行ったことを思い出しました。
- junemayさん からの返信 2017/04/03 18:24:24
- RE: 立佞武多 最高
- 琉球熱さん こんにちは!
素敵なコメントをありがとうございました。数十年前に初めて見たねぶたの躍動感が随分と長く体に残っていて、あの体が勝手に動き出すようなリズム感を味わいたくて青森に向かったのですが、生憎の天気と時間的な制約もあり、祭りの方は少々消化不良に終わりました。まともに見られたのは弘前だけ。弘前が静なら青森は動。五所川原は躍でしょうか?
数十年前、私も父の単身赴任先の仙台から青森に向かったのですが、まだ新幹線のない時代、仙台、青森間がものすごく時間がかかったように記憶しています。今はわずかな時間で行くことが可能ですが、あえて時間のかかる旅を好んで選んでいる自分がいます。
沖縄は観光地でなく、昔からの住宅が並ぶ町をのんびり散策してみたいなと思っています。石敢當やシーサーを求めて彷徨いたいです。またお邪魔させていただきます。
junemay
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