![もうだいぶ前の旅になりますが、ふと思い出してはその余韻に浸る。そんな忘れえぬ旅の一つが、この青森紀行です。例によって例のごとく、思い立ったのは25日前。でも青森のお祭りシーズンとあって、宿はどこも満杯です。諦めかけていた時に、天の助けがあり、祭りを最後に店じまいするという弘前の宿を確保することが出来ました。こうなったら、行くっきゃありません。<br /><br />ねぷたとねぶたと立佞武多。そんな「ハレ」を楽しみに訪れたのですが、意外にも思い出すのはいつも「ケ」の方。津軽は暖かい人情に触れることが多く、町歩きが本当に楽しかった!<br /><br />前後を野暮用に挟まれ、確保できたのは丸3日。そのため、往復夜行バスという強行軍。しかしゆっくりと寝ていけるリクライニングシートだったので、疲れも少なく、3日間をフルに使うことが出来ました。<br /><br />★ 8/4弘前、田舎館、弘前<br /> 8/5弘前、青森<br /> 8/6平川、黒石、五所川原<br /><br />新宿を22:15に出発したバスは、予定通り弘前に08:50に到着。身支度を整えて、朝食を食べ、荷物をコインロッカーに入れてさあ出発です。](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/21/84/650x_11218458.jpg?updated_at=1489411061)
2014/08/04 - 2014/08/04
257位(同エリア1433件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 170,211アクセス
- フォロワー41人
もうだいぶ前の旅になりますが、ふと思い出してはその余韻に浸る。そんな忘れえぬ旅の一つが、この青森紀行です。例によって例のごとく、思い立ったのは25日前。でも青森のお祭りシーズンとあって、宿はどこも満杯です。諦めかけていた時に、天の助けがあり、祭りを最後に店じまいするという弘前の宿を確保することが出来ました。こうなったら、行くっきゃありません。
ねぷたとねぶたと立佞武多。そんな「ハレ」を楽しみに訪れたのですが、意外にも思い出すのはいつも「ケ」の方。津軽は暖かい人情に触れることが多く、町歩きが本当に楽しかった!
前後を野暮用に挟まれ、確保できたのは丸3日。そのため、往復夜行バスという強行軍。しかしゆっくりと寝ていけるリクライニングシートだったので、疲れも少なく、3日間をフルに使うことが出来ました。
★ 8/4弘前、田舎館、弘前
8/5弘前、青森
8/6平川、黒石、五所川原
新宿を22:15に出発したバスは、予定通り弘前に08:50に到着。身支度を整えて、朝食を食べ、荷物をコインロッカーに入れてさあ出発です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
夜行バス最後の休憩場所、岩手山SAから見た岩手山です。標高2038mの独立峰で、一目で火山だとわかる、長い裾野を引きずっています。岩手県の最高峰。
-
そして、こちらは青森県の最高峰岩木山。標高1625mとそれほど高くはありませんが、別名津軽富士と呼ばれる、これも独立峰ですねえ。弘前の町に入ってきました。
-
お疲れ様。弘前到着です。バスはこの先青森まで行きます。3列シートで、140度位までリクライニングが可能だったので、十分眠ることが出来ました。
-
これから、弘南鉄道弘南線で、田舎館に向かいます。田んぼアートというイヴェントを知ったのは、つい2週間ほど前のことなのですが、以前イギリスで麦畑を様々な模様に刈り込むアートを見たことがあるので、それに近い「田んぼ」ヴァージョンかなあとろくすっぽ調べもせずにやってきたのです。
弘南鉄道弘南線は弘前、黒石間16.8kmをおよそ30分で結ぶ私鉄で、日中は1時間に2本の割合で発車していました。 -
津軽平野の先にぽっかりと浮かぶ岩木山。この時は雲は多いものの、良い天気だったんですがねえ・・・
-
田んぼアート駅到着です。12月1日から3月31日までは閉鎖されてしまう臨時駅です。田んぼアートの人気で、2013年7月にオープンした新駅なんですって!
-
で、田んぼアートはどこから見学するのかというと、あそこに見える展望台からのようです。展望台の先に見えるのが道の駅いなかだて「弥生の里」で、その施設内にある展望台という設定でした。
田んぼアートはイギリスで見たような麦を刈りこむことで模様を作るのではなく、田んぼに色の異なった10品種7色の稲を植えることで、絵が創られます。
ここニ三年は、全国で行われるようになってきたけれど、田舎館の田んぼアートは元祖、本家とも呼ぶべきもの。村では、1993年から毎年異なった図案で田んぼアートを創作。毎年進化し続けているようです。 -
絵は次第に成長して、背が伸びて、夏のこの頃になるとほぼ完成を迎えるのかしら? 2014年の図案は何だったかというと、「みんなのサザエさん」 でした!
展望台からだと、どうしても1枚に入りきりません。パノラマ写真は好まないので、2枚に分けてご紹介。 -
こちらが後ろ半分。サザエさん一家大集合です。
-
1枚にと思い、頑張ってみたけれど、コンデジのレンズではこれが限度。サザエさんとマスオさんがちょん切れてしまいました。
-
驚いたのは稲の色です。背景色の緑の他、赤米というのは見たことがありましたが、こんな白や橙の稲は初めてです。説明書きによると、白(煙、列車上部分等)、橙(サザエさんの上着)、赤(サザエさんの列車下部分)は田んぼアート用に開発された観賞用稲だということです。
-
これは、この展望台(第二会場)の後に訪れた田舎館村役場(第一会場)前の田んぼにあった実物の白い稲「ゆきあそび」です。
白というよりはやはり緑に見えますが、成長すると段々白さが増し、穂が出る寸前に最も白くなるそうです。 -
こちらが橙の「あかねあそび」。葉の色は赤紫と黄緑が混じり合い、遠目に見ると橙に見えるのだそう。
-
そして、赤の「べにあそび」。もっと成長すると全体にピンク色を呈するのだとか。
-
ついでに、他の稲もここで紹介してしまいましょう。
鮮やかな黄の葉色は「黄大黒」。こちらは古代米ですが、やはり鑑賞用です。食べるにはちょっとという味だそう。 -
絵先頭の機関車に使われていた紫は「紫大黒」。モチゴメなんですって。昔から神事用に栽培されてきました。
-
緑が少し濃い「緑大黒」。サザエさんの「ザ」の字がそう。まだこの時点ではあまり目立ちませんね。
そして、少し薄い、背景となっている緑色は、おいしいお米「つがるろまん」ですよ!! -
風が吹くたびに、稲が一斉にたなびき、一瞬一瞬で絵が変化する、生きたアートでした。この角度からの遠近法で描かれていて、制作にはご苦労も多かったと思います。稲が穂を出した頃にもう一度見て見たいですねえ。
-
汽車は、岩木山を目指して進んでいます。段々雲が多くなってきたなあ。嫌な予感・・・
-
下に下りてから眺めた「サザエさん」です。これじゃあ、誰だかわかりませんね。
-
タラちゃんとフネさんもご覧の通り。
ここから田舎館村の無料シャトル「たさあべ号」(9人乗りのマイクロバス)で、第一会場のある役場に移動します。途中「遊稲の館」、「埋蔵文化財センター前」を経由しておよそ10分で到着です。
この車中で、日本に留学中のスペインムルシア出身の学生ペドロ(医者の卵)と会い、「日本語」でおしゃべり。日本の夏は耐え難いと思っていましたが、ムルシアの夏は50℃になることも珍しくないと聞きました。
どっちもいや! って単なるわがままでしょ! 勿論青森は30℃に届かない、比較的穏やかな気温でした。 -
田舎館村の村役場です。凄い! お城のようです。こちらの城の天守閣が第一会場の展望台になっていました。人数の制限があるため、1時間待ちの状態。平日でしたが、夏休み、それもねぷたと重なって大入り満員の状態です。
待ち時間を利用して、少し村を歩いてみました。 -
田舎館(いなかだて)という地名は、蝦夷の住む中心であったことから蝦中(えなか)と呼ばれた、稲作地帯であったことから稲家(いなか)と呼ばれた、田舎の館から転じた と諸説あるようですが、ほのぼのとした良い名前ですねえ。
弘南線の終点黒石はクジス(蝦夷の住むところ)が転訛したそうですので、蝦中説が有力かもしれません。北海道だけでなく、青森にも蝦夷に纏わる地名が多いのには驚きました。
毎度恒例のマンホール・アート。田舎館版です。第二展望台のそばにあった弥生時代の垂柳遺跡から発掘された土器を稲穂が取り囲んでいます。こちらもほのぼの!! -
出店が沢山出ていたので、名物のお団子を戴きました。きなこをまぶしたちょい甘のお団子でした。
-
カラフルな稲が植わっているあぜ道を歩きます。
田んぼアートはまず展望台から見て不自然でない、遠くの上部を大きく、近くの下部を小さくする遠近法を考慮した下絵を作り、使用する稲の色を決めます。次に下絵を元に設計図をおこし、測量地点を決めます。
そして測量図を見ながらナイロンテープと1万本の葦で田んぼに輪郭を描いていきます。この作業に1週間かかるそう。最後に一般の人達も参加して稲が植えられます(田植えです!)が、その前日に難しい箇所は農協のお姉さま方が予め植えておくのだそうです。 -
稲の品種により、随分と丈に違いがあることが分かりました。全般的に、緑色の一般的な品種の方が成長が早いのかしら? 田植えの日をずらしたりする必要があるのだとすると、大変な手間ですね。
-
田んぼの先には、大きな山がデザインされているようでした。岩木山かな?
お後の楽しみに取っておきましょう。 -
戦国時代には田舎館城があったという城址には何もなく、その傍に生魂神社が建っていました。生魂の神(いくむすびのかみ)を祀っているそうですが、神社は何と読んだらよいのでしょう?
-
この立派な城門をくぐって、役場に戻ります。とてもお役所の門とは思えません。
-
立派な田舎館城…ではなく、田舎館村役場です。田舎館城主だった千徳掃部政武公を偲んで建物全体を城に見えるよう設計したと説明書きには書かれていました。
-
村民の振り? をして、少しの間うろつかせてもらいました。左にはこの村出身の大関栃ノ海の写真が飾られていました。昭和38年に彼が優勝したときのものです。
前方の津軽凧絵も素敵ですねえ。津軽藩士の内職として、江戸時代から作り始められたそうです。ねぶた、ねぷたの絵とも共通点がありますね。 -
展望台への順番がようやく回ってきました。エレベータで4階に向かいます。この時見た立佞武多のポスターが衝撃でした。8/4から8日開催だって! これは絶対見たい!!
-
4階の天守閣に到着。ふと前方を見たら凄い! 雨が近づいてきます。今、あの鉄塔の向こうでは土砂降りの雨が降っていそう・・・
-
目指すものはこちらでした。真っ直ぐに伸びた田んぼに天女が舞っています。羽衣伝説だそう。
羽衣伝説は日本各地にありますが、これは駿河の国三保の松原を舞台にした伝説でしょう。手前が三保の松原と駿河湾。松の枝にかけた羽衣を地元の漁師に取られてしまい、漁師が交換条件として踊りを催促すると、天空で月の世界の舞いを披露したというお話です。
松林の緑のグラデーションが見事ですね。 -
イチオシ
ここでも、白い「ゆきあそび」が効いていますね。この白がなかったら、羽衣は表現が難しそうです。
-
そして、駿河湾の奥には、霊峰富士山がこれもぽっかりと浮かんでいました。岩木山ではなく富士山だったんだぁ・・・
-
駿河湾に浮かぶ一層の小舟が印象的です。田んぼは実に素晴らしいキャンバスと化していました。
-
先ほど歩いた辺りです。平面的ではなく、そそり立つ立体的な富士山が迫ってきました。視覚的な効果バッチリです!
-
イチオシ
もう一度両方の絵が入るように、何とか1枚。一緒に展望台に上がってきたペドロは興奮状態でした。
-
最後に頂上付近が雲に覆われて、ギザギザの3つの峰が無くなり、のっぺりした姿になった岩木山を撮って、展望台を後にしました。
-
やっぱり雨に追いつかれてしまいました。一時歩けないほどの土砂降りになりましたが、直に小雨に変わりました。
弘前に戻るには、先ほど乗ってきた「たさあべ号」(英語表記がTa Survey Goになっていました! 田さ あべ! というのは田んぼに行こう! と言う意味なのだそう)で田んぼアートの駅に戻るか、田舎館の駅まで歩く、弘前行きのバスに乗るという3つの選択肢がありましたが、ちょうど良い時刻にバスがあったので、待ち時間にバス停から撮った1枚です。 -
弘前に戻ってまずはチェックイン。悲しいことに今はもうなくなっているはずのホテル浜長です。
弘前市が数十年前から行っている区画整理のため、駅から5分ほどのこの辺りはむき出しの凸凹の地面が金網で囲ってある殺風景な空き地が続きます。そこにぽつんと1軒だけ建っていたホテル。ねぷたが終わったら、宿を閉じるのだと、女将が寂しそうに笑って教えてくれました。
区画整理で、連れ合いの故郷の町を思い出しました。何十年もかかってようやく区画整理は完了したものの、その跡に建つ家はまばら。古くからの宿場町の面影はすっかり消え、何の風情も感じられない街になってしまいました。
「リンゴを主とした農産物の卸商や倉庫、住宅、旅館、飲食店などが混在し、無秩序な市街地が形成された」のを解消するための事業だそうですが、人口減少著しい地域で、一体どんな都市構想を持っておられるのでしょうか? -
チェックインした途端、差し入れがありましたよ。生で食べられるトウモロコシとほおずきトマトですって!
トウモロコシはこの頃生で食べるものが徐々に出回ってきましたが、トマトは初めて。 -
赤くはないけれど、ほうずきそっくりでしょう? 恐る恐る食べてみたけれど、普通のトマトの味がしました。勿論、トウモロコシは柔らかくて、甘くて絶品でした。
女将さんの温かいおもてなしに感謝! -
余りにも散らかった部屋の写真しかなかったので、こちらは省略して、早速町歩き開始です。朝駅構内の観光案内所でいただいた地図を片手にウロウロ。どんよりと曇ってはいますが、雨は降っていません。今夜はねぷたの桟敷を予約しているんです。お天気何とかもってほしいなあ・・・
-
弘前で一番の繁華街土手町、青森銀行土手町支店前を通過中。道の所々にお祭りの出店が出ていて、ひやかすのも楽しい。イカと野菜をミンチにして揚げた「いがめんち」がとてもおいしかったのですが、写真取り忘れました。
さっきから食べてばかり(汗)・・・ -
やってきたのは、土手町から2本通りを入ったところにある日本聖公会 弘前昇天教会です。日本聖公会というのは、英国で生まれた英国国教会に近い宗派で、全国に300以上ある教会の一つがこちら。1920年建造の100年近くたった建物です。立派なゴシック様式ですよ!
-
日本各地に聖公会の教会を建てたアメリカ人建築家ジェームス・カーディナーの設計で、シンメトリーを崩した扉と鐘楼の配置が良いですね。鐘楼のアーチはトレフォイル(三つ葉)型。レンガの積み方は一部を除いて、一段目には正面にレンガの長辺を、二段目には短辺をそれぞれ正面に向けて並べるイギリス積みでした。
-
扉が閉まっていたので、開いていないと思い、内部を見なかったのが悔やまれます。上の写真にある左側の建物から入れたのかもしれません。
レンガと鉄板で葺いた屋根が雪国らしいです。町の雰囲気にもバッチリです。 -
教会をぐるりと回って西の方向に進むと、昭和らしい佇まいが現れましたよ。今朝乗車した弘南鉄道のもう一つの路線大鰐線の終着駅 中央弘前駅です。総延長13.9kmを28分かけて走ります。大鰐へはJRでも行けるけれど、繁華街の土手町からならこちらの路線の方が便利ですね。
-
何ともレトロな看板をくぐって駅構内へ。
大鰐線は、1975年には年間乗降客が379万人でしたが、2015年には47万人にまで減ってしまっています。地方の弱小私鉄路線を応援したくてよく乗り鉄するのですが、今日は見学だけ。ごめんなさい。 -
自動改札に見慣れた目にはなんとも嬉しい「人」が主役の改札口です。祭りに合わせて大鰐温泉宿泊客に便利な臨時列車が運行されていました。この期間以外は終電がなんと21:30! 飲み過ぎたら乗り遅れますよ。
-
断って1枚だけ写真を撮らせていただきました。大鰐温泉に向かうにふさわしい「いでゆ」号でした。
-
駅の外に出て、岩木川の支流土淵川にかかる橋の上からもう1枚。大鰐線は万年赤字が続き、一旦は今年2017年3月で営業を終了するという話も出たよう。その後白紙撤回されたものの、このままだと先細りを食い止める有効な手段もないまま、廃止となりかねません。
弘前市は沿線の中高生や住民への利用促進ツールを配布したり、ゆるキャララッセル君のPRやイヴェント開催等を行っていますが、効果のほどはいかに?
日本最北の私営電気鉄道会社。頑張れ! 弘南鉄道! -
中央弘前駅から歩くこと5、6分。ブラ〇モリなら、おおー高低差!なんて言うかしら?
弘前城の南、土淵川と寺沢川の合流地点の上にそびえる絶好の防衛拠点になりそうな高台に続く階段を上ります。 -
赤い鳥居は八坂神社です。坂上田村麻呂が782年-802年の延暦年間に開いた大円寺の鎮守として勧請されたと伝えられています。
神仏混合時代の特色が良く出ていて、寺と神社は仲良く隣通し…と思ったら、1871年の神仏分離の際に大円寺は大鰐に移り、現在は景勝院という寺になっていました。
赤い鳥居の次の鳥居にご注目。二番手の鳥居が直角に交わっているって、珍しくないですか? 神仏分離で無理やり境内を分けたのでしょうね。 -
見たかったのは、こちらの五重塔なので、神社はオミットして山門をくぐります。
卯歳一代様 って何だろう? と思い、調べてみたら、津軽地方には一代(いちだい)様と呼ばれる、生まれ年の干支を詣でる習慣があるのだそうです。一般的には津軽一代様と呼ばれていて、自分の干支により、守り神として参拝する神社が異なるんですね。
こちらは卯なので、卯歳生まれの人が信仰する文殊菩薩が景勝院内に安置されているのだそうですよ。しかしここはお寺ですよねぇ。守り神が菩薩っていうのは神道なの? それとも仏教?
一度ごっちゃになった神仏を分離するのは容易にはいきませんでしたね。 -
山門をくぐると、すぐ左手に五重塔が見えましたが、木の陰になってしまっているので、もう少し進みます。
-
津軽はもう秋の風情? 8月だというのに、モミジが色づいていましたよ。このお寺は津軽地方では初詣で、一番人出の多いお寺と言われています。モミジの下にずらりと並んだ石仏は観音様です。とても立派!
-
振り返って、山門を内側から眺めた1枚。参道の両側に観音様が並んでいます。その数33体だそう。
-
階段を上って振り返ると、素晴らしい五重塔が眺められる絶景地点でした。大鰐に移った大円寺が1667年に建立したもので、日本最北端の五重塔です。重要文化財に指定されていました。
津軽藩主初代為信が津軽を統一した際に戦死した敵味方すべての兵を弔うために、、三代津軽藩主信義、四大藩主信政の寄進により10年をかけて建造されたと説明板には書かれていました。 -
塔の総高は31.2m。特徴は塔の上部の相輪部分が長い事、柱と柱の間(柱間)が上に行くにつれて狭くなり、最上階の5層目の柱間は1層目の半分の長さになっているのだそうです。ここからだと5層目(五重目)の柱間はよく見えませんが、視覚的に一番美しく見えるよう、創意工夫が随所に施されていました。
-
イチオシ
初重部分がよく見える場所からもう1枚。まことに均整の取れた美しい五重塔を味わうことが出来ました。
大円寺は、この五重塔を置いて大鰐に移らされ、藩の永世祈願所だった景勝院は、統括していた寺11寺が総て廃寺とされ、ここに廃寺の檀家衆を引き連れて移ってきたと言います。明治の神仏分離は強引なやり方で行われ、多くの歴史的、文化的な文物が失われました。五重塔 よくぞ残っていてくれたという感謝の気持ちで一杯です。 -
卯代一代様のことは存じ上げなかったので、お参りせずに次に進んでしまいました。ちなみに卯歳生まれではありません。
こちらは養生幼稚園の敷地内にあった、津軽藩士伊東広之進の旧宅で、1852年、東北地方を遊歴中の吉田松陰がここを訪れて、国事、および津軽藩の軍事、および教育について論じた場所。松陰堂と名付けられていました。 -
料亭の看板の向こうに見えてきたのは、旧第五十九銀行本店本館だった青森銀行記念館です。ここからだと、中央に大きなかまぼこ型をした越屋根が見えています。クーポラと一緒で採光と換気のための屋根になります。周りの屋根は桟瓦葺き。複雑な屋根構造ですねえ。和洋折衷という一言では言い表せない面白い建築です。
本を見たら、ルネサンス様式だと書かれていました。・・・???そうなんだぁ・・・ -
1879年(明治12年)に旧弘前藩士族の金禄公債を資本に設立された青森県初の銀行は、1897年には全国で59番目に設立された国立銀行 第五十九銀行と名前を変え、1904年(明治37年)になってここ元長町に本店が建てられました。
設計者は、弘前生まれの大工棟梁堀江佐吉で、彼は1500棟を超える建物を手掛けています。この建物を含め、彼が設計した旧弘前市立図書館や、金木の太宰治生家、旧弘前偕行社などは、国の重要文化財や県の重宝に指定されています。 -
横道からファサード側に出てきました。木造ですが、壁は内部に瓦を張ってその上を漆喰で仕上げた防火対策をしているそうです。下の方は石を貼った腰壁になっていました。薄緑色部分も漆喰なんですね。中方立のある連窓がルネサンス様式かしら?
-
ファサード側からの1枚。建物てっぺんの窓の上には、請花(うけばな)と呼ばれる花形の飾りがついています。そして、2階屋根部分には手摺が見えています。Balustradeと呼ばれていますが、西洋建築でもよく見られる欄干ですね。よく使われるようになったのは、ルネサンス初期だそうですから、こちらもルネサンス様式と呼ばれる所以の一つかしら? この建物の場合、雪国にはなくてはならない、雪止めの役割も果たしているそうですよ。
シンメトリで重厚感漂う堂々とした構えです。 -
1965年に老朽化のために取り壊される運命でしたが、弘前市民の保存を求める声に応え、保存されることになったそうです。良かった良かった。
中央扉上のルーネット部分(と呼んでいいの?)透かし彫りが大層美しい。 -
開館中だったので、内部を見学しましょう。こちらは1階部分。カウンター部分にある柱のみで支える大空間です。展示コーナーでは第五十九銀行から青森銀行へと変わっていった歴史的な文書が保管されていました。
-
どこもかしこにピッカピカに磨き上げられています。
-
長い、欅の一枚板のカウンターも素晴らしい。全長5.1mあるそうです。こういうカウンターのある銀行なら預金する気分になるかも??
-
天井と吊り下げられたシャンデリアです。これは復元品でしょうね。
-
珍しいお札発見! 写真の女性は神功皇后(じんぐうこうごう)。日本書紀に出てくる第14代天皇仲哀天皇の后で、夫亡き後三韓征伐を指揮した方だそうですよ。西暦で言うと3世紀初めの頃の方です。エキゾティックな顔立ちと思ったら、このお札、イタリア人のエドワルド・キヨソーネに図案を依頼したものだそう。道理で。イタリア人かと思ったわ。
明治14年発行と言いますから、1881年に発行された1円(壹圓)札です。 -
美しい曲がり階段は、欅が使われていました。1954年(昭和29年)に取り外されましたが、1984年の保存修理工事で復元したもの。優雅なシルエットです。
スリッパに履き替えて、かつては大株主しか上ることを許されなかった階段を上って2階へ。 -
2階フロアは、更に広い空間で驚きました。壁から壁までの長さが14.544mあるそうです。1本の柱もありませんよ!
-
クーポラじゃあなかった越屋根の展望室へと続く階段は残念ながら上れず。
-
天井には和紙に金箔などを貼り、版木に当てて凹凸の模様を浮き上がらせた金唐革紙(きんからかわし)が貼られていました。
ファサード側には応接室、会議室等に使われた小部屋が並んでいました。 -
奥の会議室です。ここのテーブルもピッカピカ! PCやペットボトルは似合いません。
-
窓からは日本庭園が見渡せます。こちらは完全に和の世界。
-
右側中央に見える長い板は重要文化財の「棟札」で、建築主・棟梁の名・工事の目的などが記されています。この札は棟木や梁等、建物の高い場所に取り付けてあるのが通例です。平安時代から始まった習慣だと書かれていました。全長1.5mのひのき製。
-
左側に見える階段はオリジナルだそうです。その横には、なぜか火消の纏(まとい)。見たら、地元親方町「親組」の纏でした。
上の丸いのが芥子、下の四角いのが桝。合わせて「消し・ます」なのだそう。ご存知でしたか? -
纏を上から覗き込んだところです。
-
設計者堀江佐吉コーナーもあり、資料が展示されていました。いかにも大工の棟梁と言った面構えの方ですね。
-
通常は入場料がかかりますが、ねぷたまつり期間中ということで無料で見せていただきました。弘前に来たら、是非訪れてほしい場所の一つです。
最後に素敵なメイン扉を1枚。 -
外に出てみてびっくり!
出番を待っているねぷたの山車にビニールカバーが掛けられているではありませんか!!
基本、骨組みに和紙を貼り、水性の顔料や染料で色が付けられている山車ですから、雨には弱いことは十分わかるのですが、まるで想像したことがなかったのです。大ショック! ビニール掛けの山車を見たくはないなあ(涙)…
どうにか、お天気がもって欲しい。今更ですが神頼みです。 -
ずらりと並んだビニール掛けの山車の姿に、それまで高まっていたテンションが一気に下がってしまいました。
数年前に、おわら風の盆を見に行った時のこと。それまで良いお天気だったのに、突然の雨、三味線、胡弓、太鼓、どれも雨が降ると使用不能になる楽器なので、楽しみにしていた町流しが見れなかった時のことを思い出しました。
なんとか晴れて、ビニールのない山車が見れますように! -
ねぷたの開始にはまだ少し時間があるので、右に弘前城を見ながら青森銀行記念館前の道を進んでいくと、今度は旧東奥義塾外人教師館が見えてきました。
東奥義塾というのは1872年(明治5年)に弘前に誕生した県内初の私学で、外国の文化(そして英語!)を学ぶため、外国人宣教師を多く招聘しました。津軽は教育熱心だったんですね。最初の建物は火事で焼失したため、この建物は1903年(明治36年)に、前述の堀江佐吉(あるいは本間俊平? という説もあり)によって再建されたものです。
レンガの煙突がアクセントになっています。ここからは見えませんが、煙突は反対側にももう1本ありました。 -
よく見ると、建物の基礎部分にもレンガが使われていました。設計はアメリカのメゾジスト伝道本部によるもので、屋根はトラス構造で寄棟鉄板葺きだそうです。当然のことながら、玄関で靴を脱いだりする必要のない洋館ですが、どことなく、日本情緒も感じられる建物ですね。
現在、中はレストランになっていました。ちょっと覗いてみましょうか。 -
天井が高くて、広々とした室内でした。まだ夕食には早い時間なのでお客様の姿はありませんでした。
-
続いてお隣の旧弘前市立図書館の建物に参りましょう。こちらは、日露戦争前の資材調達、兵営建設等、いわゆる戦争景気で大儲けをした実業家斎藤主(つかさ)、前述の堀江佐吉ら5人の篤志家によって1906年(明治39年)に建てられ、弘前市に寄贈された建物で、1931年(総和6年)まで市立図書館として利用されてきました。
こちらもルネサンス様式。佐吉さんはルネサンスがお好きだったようですね。正面に回って、じっくり眺めようと思ったんですが・・・ -
やはり、こちらが気になります。ご、ごめんなさい! でもどうしても粗大ごみにしか見えないんですよね。これだと。
-
折角の力作が、はぁ・・・と出るのはため息ばかり。
-
気を取り直して、旧弘前市立図書館の正面に廻ってみました。おお、これは見事。今まで見て来たどの和洋折衷の建物とも似ていません。中央部を二つの八角形をした塔で挟んだ形で、赤い鉄板で葺いたクーポラが何ともキュートですね。クーポラ上の飾りも和風のイメージはありません。
窓を多く配置したのは、図書館だからでしょうねえ。中央部の屋根中央にあるドーマー窓からも太陽光がさんさんと差し込みそうです。窓枠も非常に凝っています。教会建築によく見られる渦巻き模様が取り入れられています。佐吉はどこでこうした装飾を目にしたのでしょうか?
少々見えにくいですが、左下の人がいる辺りの玄関の庇のそりだけが和風でしたよ。 -
手前が旧弘前市立図書館、奥が旧東奥義塾外人教師館です。共に青森県重宝に指定されています。
弘前。なんて面白い町なんでしょう。 -
旧弘前市立図書館と旧東奥義塾外人教師館の南側に広がる旧追手門広場には、明治から大正にかけて市内で作られた建造物の1/10のミニチュアが14棟展示されていました。
-
こちらがその14棟の案内図。現存しているものばかりではなさそうですが、入場自由なので、早速見学。
-
その1.この建物、商家ですが、何を扱っていたと思われますか?
全く予想が外れました。呉服屋さんだそうです。町一番の繁華街下土手町にあった3階建て洋館の呉服屋さん「角み」だそうです。□の中にひらがなで「み」と書かれた商号です。1893年(明治26年)に建てられた建物で、昭和になってから閉店。その後火事で焼失したそうです。中央の塔屋が目立ちますねえ。洋館で呉服とはこれいかに?
ちなみに、建物が建っていた道は今でも「かくみ小路」と呼ばれているんですって。 -
その2.こちらは旧弘前偕行社。藩政時代に鷹狩場、別邸、庭園があった場所に陸軍の第八師団の厚生施設と建てられたもので、1907年(明治40年)の建造。
偕行社は帝国陸軍の将校、准士官の親睦、互助、学術研究を行った組織で、現在でも自衛隊の元幹部の親睦組織として存在しているんですね(ウィキペディアによる)。
建物は堀江佐吉の設計で、これまたルネサンス様式。現存していて、1980年(昭和55年)まで弘前女子厚生学院の保育舎として使用されてきましたが、現在は記念館と言う扱いになっています。中央突き出したポーチの部分には、旧弘前市立図書館にあるものに似たドーマー窓があります。バラストレードも見ることが出来ますね。
国の重要文化財に指定されています。 -
その3.私が弘前で最初に訪れた弘前昇天教会聖堂。1921年。
-
その4.左は菊池薬店。1906年の創業当時から昭和後期まで、2階部分に、文字に金箔を貼った、大層目立つ金看板を20以上掲げていました。流石に現在は建物が新しくなっていますが、薬店は引き続き営業を続けています。最近の写真を見てごくごく普通の外観になっていた・・・と書こうと思ったのですが、よく見たら金の看板が1枚だけ中央に掲げられていました。20枚全部飾ればよいのにお思わないわけでもありません。
その5.奥は角弘金物店。1884年(明治26年)に建てられたもので、津軽藩家老だった大道寺繁禎含め15人の発起人が出資した弘前農具会社が前身です。現存していません。
どちらも店の前が雁木造りになっていてほのぼの。 -
その6.日本基督教団弘前教会堂。これは今から見に行きます。
1906年(明治39年)に日本メソヂスト教会の聖堂として建設されたもので、これはフランス風のゴシックですよ! パリのノートルダム寺院をモデルにしたと説明板にありました。 -
その7.1923年(大正12年)に華々しくオープンした東方地方最初のデパート「かくは宮川」は下土手町にありました。てっぺんの飾りが昭和ですねえ。デパート衰退の波により、1978年に閉店したそうです。屋上にミニ遊園地のある典型的な昭和のデパート。うう~ん、寂しい~!
-
もう1枚。町の商業施設の代表格だったデパート。ここもその昔は呉服商を営んでいました。
町で一番の大店は決まって呉服屋さん。それがデパートに替わり、次いでショッピングセンターとなり、それでも集客が減少を続け、幽霊ビル化しているところが各地にありますね。土手町は駅から離れていることが、集客力の低下に拍車をかけたようですが、今や駅前でもデパートやショッピングセンターは苦戦を強いられているようです。 -
その8.複雑な屋根の構造が興味深いこちらの建物はかつての弘前郵便局で、1902年(明治35年)建造。窓の上に組木の模様のペディメントがあるのが特徴で、木造ロシア風建築だと書かれていました。残念ながら1962年(昭和37年)に解体されてしまいました。
-
その9.こちらは、先ほどお邪魔した旧第五十九銀行です。屋根の周りの欄干(バルストレード)がこうやって見ると建物を引き立てていますね。
-
その10.旧弘前市役所です。1892年(明治25年)の建造。見事な和洋折衷です。屋根は入母屋という、寄棟の上に切妻を乗せた構造で、古くから最も格式のある屋根とされてきました。玄関のポーチがまた味わいがあります。
おやぁ、どなたかバルコニーの上にいらっしゃいますよ。市長さんかしら? 残念ながらこれも現存していません。1958年(昭和33年)に解体されています。 -
その11.尖がり屋根の塔屋が可愛い建物は、青森県で最初に出来た映画館というか、活動写真館の慈善館です。1914年(大正3年)に建てられ、多くの観客を集めました。ここにも屋根にドーマー窓がついていました。後ろの建物が映画館の部分ですね。
残っていたらなぁと心底思った建物の一つでした。1978年(昭和53年)に閉館したそうです。 -
その12.旧弘前図書館です。目の前に本物があるという、不思議な光景。
-
その13.旧制弘前高等学校講堂は1923年(大正12年)に建てられました。採光と換気を兼ねた大きな越屋根が特徴的です。1920年(大正9年)に設立された高等学校ですが、最初の3年は仮校舎で授業を行い、1924年1月にはこの講堂で落成式が行われた と説明板に書かれていました。太宰治は1927年(昭和2年)から3年間、この高校の文甲科に在籍していました。
バルコニーに肩カバン姿の高校生のフィギアがポーズを決めていました。 -
その14.最後は旧弘前市公会堂。1923年(大正12年)建造です。説明板には、「1897年にウィーンで始まった芸術革新運動ゼツェッシオン(ウィーン分離派)の影響を受けた」と書かれていました。ウィーン分離派と言えばクリムトではないですか!
絵画については少しだけ知識がありましたが、建築に関しては全く知りませんでしたが、オットー・ワーグナー、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒなどの建築家が名を連ねています。
進取の精神が旺盛な津軽人らしさが表れていますね。 -
弘前出身の実業家藤田謙一の寄付で建てられたそうですよ。市内に残る藤田記念庭園は明日訪問予定です。
大阪の中之島にある大阪市公会堂と似ていると説明板にありましたので、早速比較してみましょう。 -
私はここを2014年3月に訪れていますが、外観は裏側だけ見て、中を見学し、そのまま出て来てしまいました。そのため、表側のファサードを見るのは、実はこれが初めてです。写真はウィキペディアからお借りしました。
素晴らしい建物ですね。中央のアーチ部分が大変インパクトがあります。構造的に似ていると言えば似ていますが、微妙・・・
大阪市公会堂は1913年(大正2年)着工で、1918年に完成。国の重要文化財の指定を受けています。 -
ミニチュア建築は、もう少し暗くなると、建物の中に明かりがともるのだそうですよ。
昔々、訪れたオランダのマドローダム(ミニチュアタウン)のことを思い出しながら、弘前城のお濠沿いの道を歩きます。ただ今の時刻は18:20。祭りが始まる時刻まであと40分あります。あと少しだけ町歩きを続けましょう。 -
道路を占領した山車の列が続きます。雨は小降りになったり、止んだりの繰り返し。雲の切れ間も見えるので、何とか持ちそう・・・
-
ねぷたが練り歩く会場にほど近い、元寺町にある日本基督教団弘前教会堂です。ミニチュア建築で見て来たので、すぐにわかりました。
建物は1906年(明治39年)に、設計はクリスチャン棟梁の櫻庭駒五郎、施工は堀江佐吉の四男 斎藤伊三郎(斎藤家に養子入り)によって建てられました。木造ですがゴシック様式で、青森県の重要文化財の指定を受けています。 -
木が邪魔だったので、少し角度を変えてもう1枚。入場可能でしたが、16:00まででもう閉まっていました。ここからだとよく見えませんが、脇にはちゃんとゴシック特有の控え壁(バットレス)があります。
石造りの教会と異なり、柔らかな、木の温もりが感じられますね。青森産のヒバ材を使用しているそうです。左右の塔屋の最上階にあるブラインドアーチがとても良い雰囲気です。
もうほとんど見えなくなった看板には「日本基督教団広崎教會」と書かれていました。 -
教会のお隣にあったこちらの旅館は1880年(明治21年)創業の石場旅館。多分何度も改装をしているのでしょうが、創業当時の写真とあまり変わっていません。
弘前は第二次大戦の空襲を免れた町なのだそう。それで古い建物が残ったのですね。ねぷた期間中や桜の時期は満室でしょうが、それ以外の時期を狙って泊まってみたい趣のある宿でした。
玄関に金魚ねぷたがぶら下がっていますよ! -
石場旅館の道から北に向かい、次の角を右に入ったところにあるカトリック弘前教会です。なんと弘前に着いてから三番目の教会!
今度はロマネスクですよ! どこが? と言われると返答に詰まりますが、中央扉上のルーネット部分位でしょうか。左右の上にピナクルが乗った柱型もロマネスクっぽいですね。
1910年(明治43年)に弘前天主公教会として建てられました。この教会も堀江佐吉一家が関わっています。設計はパリ外国宣教会のオージェ神父、施工は佐吉の弟でクリスチャンだった横山常吉(横山家に養子入り)だそうです。
この教会は奇跡的にまだ開いていましたので、入場します。 -
シンプルな左右の白い漆喰壁には、鮮やかなステンドグラスのある窓が配置されています。天井はこげ茶色の木でリヴの部分を縁どりされたクロスヴォールトでした。本格的です。
奥に、素晴らしい木製の祭壇が置かれていました。 -
手前のバルストレードは透かし彫りがとても見事。ゴシック様式の見事な楢材の祭壇はアムステルダムの聖トマス教会から譲り受けたそうで、1939年(昭和13年)に設置されました。イ・ア・オールによる1866年の制作だそうです。写真がピンボケなので、最上段にいる方の顔がはっきりしません。
内陣の両脇には左にキリストの養父聖ヨセフと右に聖母子の彫像が立っていました。 -
ステンドグラスは比較的新しいもので、教会前の説明板には、1984年(昭和59年)にカナダ人の神父が制作したものと書かれていました。「神の人間への救いの歴史」がテーマだそうです。
こちらは主祭壇に向かって左側の大きめのステンドグラスです。3枚ありました。
奥の1枚目で印象的だったのは、上から四段目には中央の円の周りに三味線、リンゴ、スキー、など津軽の名産品が、そして一番下には岩木山の姿があることです。ここにしかない、ローカルな味わいが感じられます。
2枚目には上から二段目に「磔」、四段目に「聖誕」が描かれていました。 -
左側3枚目のステンドグラスには、四段目に知恵の実を食べたアダムとイヴ、五段目にカインのアベル殺し、バベルの塔、ノアの方舟などを見ることが出来ました。
-
例によって例のごとく写真の出来ばえが最悪ですが、カウンターファサード部分です。これ1枚しか撮っていないので、ご容赦下さい。バラ窓はシンプルな十字架ですね。
主祭壇向かって右側のステンドグラス3枚は、あまりにひどい出来なのでオミットしました。今気が付いたのですが、中央扉上のルーネット部分にもステンドグラスがはめ込まれていました。
弘前では明治初期に東奥義塾という私学が設立され、大勢の外国人宣教師が教師としてやってきました。彼らは主にプロテスタント系だったようですが、一番最初にやってきたのはパリ外国宣教会のアリヴェ神父でした。彼は1872年(明治5年)から布教を始めています。
誰もいない教会を独り占めしながら、弘前がたどった明治以降の歩みに思いを馳せました。 -
外に出て、指定された祭りの会場へと向かっています。途中でねぷたの山車の保管庫らしきものを発見!
-
最後にやってきたのは、こちらの百石町展示館です。元々は呉服屋「角三」(なぜ皆角がつくのかしら?)として1884年(明治16年)にオープンしたこちらの建物は、その後1917年(大正6年)に津軽銀行に譲渡され、銀行の店舗として改装が行われました。津軽銀行と青森銀行の合併後は青森銀行津軽支店として使用されていました。
2001年(平成13年)に市に寄贈され、その3年後に展示館(貸出スペースが主)としてのデビューを果たしました。 -
防火を第一に考えた土蔵造りの堂々とした建物です。白いしっくい壁の上には雪国ではあまり見ない黒光りした瓦屋根が目を惹きます。
土蔵造りなのに洋風な付け柱やペディメントが見られるところが面白いですね。 -
中はがらんとしていて寂しげなイメージでしたが、ここでも銀行時代の立派なカウンターが光っていました。ううーん。お金を預けたくなりますねえ。またかよ~、ないくせに~ と言われそう!
長くなりましたので、この続きはねぷたとねぶたと立佞武多 青森紀行 その2 弘前ねぷた で。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
128