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この時期にしては珍しく暖かい日でしたので、松原通を下(南)に折れ、六波羅蜜寺~陶器神社として知られている若宮八幡宮~大谷本廟をそぞろ歩きしてみました。<br />六波羅蜜寺は狭い境内でありながら見所も多く、中でも宝物館には教科書でお馴染みの口から6体のの阿弥陀像を出す空也上人像や伝平清盛像があり、圧巻です。また、秘仏ですが本尊の十一面観音立像は国宝指定です。<br />六波羅は、古くは鴨川東岸、五条大路(現松原通)から七条大路一帯の地を指す地名での現在は東山区六原学区一帯の地名とされ、「六原」とも記され、古い地名である轆轤原(ろくろがはら)に由来するそうです。「六波羅蜜」は仏教用語で6種類の修行を意味します。<br />http://www.rokuhara.or.jp/<br /><br />次に訪れたのは、五条坂にある古社 若宮八幡宮です。元々は、源頼義(八幡太郎義家の父)が六条醒ヶ井(さめがい)の邸内に後冷泉天皇の勅願により八幡の若宮として石清水八幡を勧請したのが始まりです。頼義は、鎌倉の鶴岡八幡宮を創建した人物でもあります。源氏や足利氏の崇敬を集めて室町時代に隆盛を極めました。その後、応仁の乱で荒廃して各地への移転を繰り返しますが、江戸時代に現在の地に移り、昭和時代には陶祖 椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を合祀して「陶器神社」と呼ばれるようになりました。毎年8月7~10日の間には若宮祭と陶器祭が行われます。<br />https://kyoto-design.jp/report/14033

萬福笑來 京都東山逍遥③六波羅蜜寺・若宮八幡宮・大谷本廟(エピローグ)

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2017/02/04 - 2017/02/04

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

この時期にしては珍しく暖かい日でしたので、松原通を下(南)に折れ、六波羅蜜寺~陶器神社として知られている若宮八幡宮~大谷本廟をそぞろ歩きしてみました。
六波羅蜜寺は狭い境内でありながら見所も多く、中でも宝物館には教科書でお馴染みの口から6体のの阿弥陀像を出す空也上人像や伝平清盛像があり、圧巻です。また、秘仏ですが本尊の十一面観音立像は国宝指定です。
六波羅は、古くは鴨川東岸、五条大路(現松原通)から七条大路一帯の地を指す地名での現在は東山区六原学区一帯の地名とされ、「六原」とも記され、古い地名である轆轤原(ろくろがはら)に由来するそうです。「六波羅蜜」は仏教用語で6種類の修行を意味します。
http://www.rokuhara.or.jp/

次に訪れたのは、五条坂にある古社 若宮八幡宮です。元々は、源頼義(八幡太郎義家の父)が六条醒ヶ井(さめがい)の邸内に後冷泉天皇の勅願により八幡の若宮として石清水八幡を勧請したのが始まりです。頼義は、鎌倉の鶴岡八幡宮を創建した人物でもあります。源氏や足利氏の崇敬を集めて室町時代に隆盛を極めました。その後、応仁の乱で荒廃して各地への移転を繰り返しますが、江戸時代に現在の地に移り、昭和時代には陶祖 椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を合祀して「陶器神社」と呼ばれるようになりました。毎年8月7~10日の間には若宮祭と陶器祭が行われます。
https://kyoto-design.jp/report/14033

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄 徒歩

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  • 六波羅蜜寺<br />境内に入り十一面観音立像のすぐ右にあるのが「一願石」です。六波羅蜜寺と書かれた石柱に回転する石が嵌め込まれており、祈りを込めてその石を手前に3回まわすと願いが叶うと言われています。この円状の石にはいくつもの梵字が書かれているのですが、中に一字だけ金色で書かれた梵字があります。そこを正面にして回してください。ただし「一願石」は名前の通りお願い事は一つだけですので、欲張って複数のお願い事はしないようにしましょう。<br />しかし現実は、回すことに夢中になり、すっかり願い事をするのを忘れてしまいました。これでは、何のために回したのか判りませんね!

    六波羅蜜寺
    境内に入り十一面観音立像のすぐ右にあるのが「一願石」です。六波羅蜜寺と書かれた石柱に回転する石が嵌め込まれており、祈りを込めてその石を手前に3回まわすと願いが叶うと言われています。この円状の石にはいくつもの梵字が書かれているのですが、中に一字だけ金色で書かれた梵字があります。そこを正面にして回してください。ただし「一願石」は名前の通りお願い事は一つだけですので、欲張って複数のお願い事はしないようにしましょう。
    しかし現実は、回すことに夢中になり、すっかり願い事をするのを忘れてしまいました。これでは、何のために回したのか判りませんね!

  • 六波羅蜜寺<br />本堂の手前には本尊の十一面観音立像のレプリカが立っています。<br />本物は本堂中央の厨子に安置されていますが、秘仏とされ、12年に一度、辰年の11~12月にかけての33日間のみご開帳されます。因みに次回のご開帳は2024年になります。<br />10世紀頃の作風を示し、空也が彫ったものとされています。像高258cmの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一材から彫り出した一木造だそうです。表情は柔和であり、平安前期から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例として歴史的にも重要であり、1999年に国宝に指定されています。<br />因みに本堂にある十一面観音立像にお参りすると、縁結びと夫婦円満のご利益を授かれると言われています。

    六波羅蜜寺
    本堂の手前には本尊の十一面観音立像のレプリカが立っています。
    本物は本堂中央の厨子に安置されていますが、秘仏とされ、12年に一度、辰年の11~12月にかけての33日間のみご開帳されます。因みに次回のご開帳は2024年になります。
    10世紀頃の作風を示し、空也が彫ったものとされています。像高258cmの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一材から彫り出した一木造だそうです。表情は柔和であり、平安前期から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例として歴史的にも重要であり、1999年に国宝に指定されています。
    因みに本堂にある十一面観音立像にお参りすると、縁結びと夫婦円満のご利益を授かれると言われています。

  • 六波羅蜜寺 本堂<br />山号を補陀洛山といい、951(天暦5)年に醍醐天皇の第2皇子で「踊り念仏」で知られる市聖 空也上人により開創された西光寺が前身です。往時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら刻んだ十一面観音像を車に安置して市中を曵き回り、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えながら病魔を鎮めたといいます。その時、病人に梅と昆布の入ったお茶を飲ませたものが、今日の正月3箇日に六波羅蜜寺で振る舞われる皇服茶になったそうです。<br />その後、弟子の比叡山の僧 中信が、地名の「六原」と仏教語の「六波羅蜜」を掛け合わせて現在の寺名に改名しました。「六波羅蜜」とは、この世に生かされたまま仏様の境涯に到るための6つの修行をいいます。そして波羅蜜とは、彼岸(悟りの世界)に到ることを指します。<br />現在は、真言宗智山派の寺院として西国三十三所第17番札所となっています。平安時代の末には、この付近に六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれていました。また、後に鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近です。

    六波羅蜜寺 本堂
    山号を補陀洛山といい、951(天暦5)年に醍醐天皇の第2皇子で「踊り念仏」で知られる市聖 空也上人により開創された西光寺が前身です。往時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら刻んだ十一面観音像を車に安置して市中を曵き回り、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えながら病魔を鎮めたといいます。その時、病人に梅と昆布の入ったお茶を飲ませたものが、今日の正月3箇日に六波羅蜜寺で振る舞われる皇服茶になったそうです。
    その後、弟子の比叡山の僧 中信が、地名の「六原」と仏教語の「六波羅蜜」を掛け合わせて現在の寺名に改名しました。「六波羅蜜」とは、この世に生かされたまま仏様の境涯に到るための6つの修行をいいます。そして波羅蜜とは、彼岸(悟りの世界)に到ることを指します。
    現在は、真言宗智山派の寺院として西国三十三所第17番札所となっています。平安時代の末には、この付近に六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれていました。また、後に鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近です。

  • 六波羅蜜寺 本堂<br />江戸時代までは大伽藍を連ねていたそうですが、明治維新の廃仏毀釈の影響を受けて大幅に寺域を縮小しています。現在、寺の周囲は民家に囲まれて境内は狭く、主な建物は本堂(南北朝時代、重文)と弁財天堂、本堂の裏にある宝物収蔵庫のみです。<br />本堂は、外陣を板敷きとし、蔀戸で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台式建築で1363(貞治2)年の再建です。<br />空也踊躍(ゆやく)念仏は空也上人が疫病や天災に苦しむ民衆の心の救済として始めたものですが、鎌倉幕府に弾圧されながらも六波羅蜜寺では密かに続けられてきました。人目につかない薄暮に屏風で隠して行ってきたことから、「かくれ念仏」とも呼ばれていました。

    六波羅蜜寺 本堂
    江戸時代までは大伽藍を連ねていたそうですが、明治維新の廃仏毀釈の影響を受けて大幅に寺域を縮小しています。現在、寺の周囲は民家に囲まれて境内は狭く、主な建物は本堂(南北朝時代、重文)と弁財天堂、本堂の裏にある宝物収蔵庫のみです。
    本堂は、外陣を板敷きとし、蔀戸で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台式建築で1363(貞治2)年の再建です。
    空也踊躍(ゆやく)念仏は空也上人が疫病や天災に苦しむ民衆の心の救済として始めたものですが、鎌倉幕府に弾圧されながらも六波羅蜜寺では密かに続けられてきました。人目につかない薄暮に屏風で隠して行ってきたことから、「かくれ念仏」とも呼ばれていました。

  • 六波羅蜜寺 本堂<br />正面に掲げられた扁額です。端正な文字は藤原佐理(すけまさ)の揮毫になり、小野道風や藤原行成と共に三蹟のひとりに数えられています。<br />波羅蜜とは仏教の修行において獲得すべきものを表し、六波羅蜜は悟りを得るために必要とされる資質を表します。具体的には、布施(見返りを求めない応分の施し)、自戒(時に応じて自らを戒める)、忍辱(如何なる辱めを受けても堪え忍ぶこと)、精進(日々誠心誠意尽くすこと、不断の努力)、禅定(冷静に第三者の立場で自分自身をみつめること)、智慧(怒りや愚痴によって大切な智慧を失わない)を言います。

    六波羅蜜寺 本堂
    正面に掲げられた扁額です。端正な文字は藤原佐理(すけまさ)の揮毫になり、小野道風や藤原行成と共に三蹟のひとりに数えられています。
    波羅蜜とは仏教の修行において獲得すべきものを表し、六波羅蜜は悟りを得るために必要とされる資質を表します。具体的には、布施(見返りを求めない応分の施し)、自戒(時に応じて自らを戒める)、忍辱(如何なる辱めを受けても堪え忍ぶこと)、精進(日々誠心誠意尽くすこと、不断の努力)、禅定(冷静に第三者の立場で自分自身をみつめること)、智慧(怒りや愚痴によって大切な智慧を失わない)を言います。

  • 六波羅蜜寺 本殿<br />極彩色に彩色された組物の三斗(みつど)などや朱塗りの垂木が目に鮮やかです。<br />弁財天の祠の南側に寺務所があり、そこで拝観料を払うと宝物館に入れます。宝物殿に入らない限り、拝観料は発生しませんが、ここの宝物殿は三十三間堂と並ぶ木製彫刻の宝庫ですので素通りするのはもったいない気がします。<br />本堂に回された縁を辿った裏側にあります。教科書で有名な空也像をはじめ、伝平清盛像、運慶・湛慶像、弘法大師像などが勢ぞろいし、六波羅蜜寺一番の見所です。<br />特に運慶・湛慶の父子の像は感動的でした。父運慶は、いかにもたたき上げの職人という野趣あふれる感じです。対して息子湛慶はふくよかで育ちが良さそうです。<br />父運慶と子湛慶の像が並んでいるため、その人柄の違いが見て取れ、親子の会話まで聞こえてきそうな雰囲気です。<br /><br />空也上人立像 鎌倉時代(重要文化財)<br />運慶の四男康勝の作。胸に金鼓を、右手に撞木を、左手に鹿の杖をつき、膝を露に草鞋を履いています。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えた瞬間にその一音一音が阿弥陀仏になったという伝説が彫刻化されたもので、口から6体の仏が並ぶ不思議な像です。痩せた体から空也上人が民衆と共に生きたことを伝える力強い作品で、慈悲深い人柄が伝わるすばらしいものです。<br />平清盛坐像 鎌倉時代(重要文化財)<br />「空也上人立像」の隣には、神妙な面持ちでお経を読む「平清盛像」があります。この像は太政大臣になると同時にすでに仏門へ入っていた頃の清盛の姿です。ですから、経巻を手にしたその風姿は平家物語に描かれている清盛の傲慢さは微塵もなく、仏者としての気品に溢れています。一門の武運長久を祈願し、朱の中へ血を点じて写経した頃の清盛公の像と言えます。<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA

    六波羅蜜寺 本殿
    極彩色に彩色された組物の三斗(みつど)などや朱塗りの垂木が目に鮮やかです。
    弁財天の祠の南側に寺務所があり、そこで拝観料を払うと宝物館に入れます。宝物殿に入らない限り、拝観料は発生しませんが、ここの宝物殿は三十三間堂と並ぶ木製彫刻の宝庫ですので素通りするのはもったいない気がします。
    本堂に回された縁を辿った裏側にあります。教科書で有名な空也像をはじめ、伝平清盛像、運慶・湛慶像、弘法大師像などが勢ぞろいし、六波羅蜜寺一番の見所です。
    特に運慶・湛慶の父子の像は感動的でした。父運慶は、いかにもたたき上げの職人という野趣あふれる感じです。対して息子湛慶はふくよかで育ちが良さそうです。
    父運慶と子湛慶の像が並んでいるため、その人柄の違いが見て取れ、親子の会話まで聞こえてきそうな雰囲気です。

    空也上人立像 鎌倉時代(重要文化財)
    運慶の四男康勝の作。胸に金鼓を、右手に撞木を、左手に鹿の杖をつき、膝を露に草鞋を履いています。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えた瞬間にその一音一音が阿弥陀仏になったという伝説が彫刻化されたもので、口から6体の仏が並ぶ不思議な像です。 痩せた体から空也上人が民衆と共に生きたことを伝える力強い作品で、慈悲深い人柄が伝わるすばらしいものです。
    平清盛坐像 鎌倉時代(重要文化財)
    「空也上人立像」の隣には、神妙な面持ちでお経を読む「平清盛像」があります。この像は太政大臣になると同時にすでに仏門へ入っていた頃の清盛の姿です。ですから、経巻を手にしたその風姿は平家物語に描かれている清盛の傲慢さは微塵もなく、仏者としての気品に溢れています。一門の武運長久を祈願し、朱の中へ血を点じて写経した頃の清盛公の像と言えます。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA

  • 六波羅蜜寺 道元禅師御説法遺蹟の碑<br />1243(寛元元)年4月29日に永平寺を開山した深草興聖寺の道元は、ここで『正法眼蔵』『古仏心』の説法を行いました。<br />それを顕彰した石標なのか、「曹洞宗高祖 道元禅師御説法遺蹟」とあります。

    六波羅蜜寺 道元禅師御説法遺蹟の碑
    1243(寛元元)年4月29日に永平寺を開山した深草興聖寺の道元は、ここで『正法眼蔵』『古仏心』の説法を行いました。
    それを顕彰した石標なのか、「曹洞宗高祖 道元禅師御説法遺蹟」とあります。

  • 六波羅蜜寺 撫で牛<br />自分の体の悪い部分と同じ場所をなでると病気が平癒すると信仰されています。

    六波羅蜜寺 撫で牛
    自分の体の悪い部分と同じ場所をなでると病気が平癒すると信仰されています。

  • 六波羅蜜寺 水掛不動尊<br />境内の北側にも堂宇があり、こちらで御朱印がいただけます。<br />ここには、銭洗弁財天、水掛不動尊、水子地蔵尊が祀られています。<br />水掛不動尊は、源義経が平家追討の際、この不動尊の横にあった松の木に兜を掛け、不動尊に水を掛けて戦の勝利を祈願したと伝えられており、勝運成就の功徳があるとされます。<br />受験合格や試合での勝利など、あらゆる勝負事の勝運を願ってお参りされる方が多いそうです。

    六波羅蜜寺 水掛不動尊
    境内の北側にも堂宇があり、こちらで御朱印がいただけます。
    ここには、銭洗弁財天、水掛不動尊、水子地蔵尊が祀られています。
    水掛不動尊は、源義経が平家追討の際、この不動尊の横にあった松の木に兜を掛け、不動尊に水を掛けて戦の勝利を祈願したと伝えられており、勝運成就の功徳があるとされます。
    受験合格や試合での勝利など、あらゆる勝負事の勝運を願ってお参りされる方が多いそうです。

  • 六波羅蜜寺 清盛塚<br />平清盛を祀った供養塔で、六波羅の地が平家の本拠地だったことを偲ばせます。この五輪塔は、造型からみて江戸時代に入ってから造られたものと思われます。<br />太政大臣にまで昇り、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言わしめた清盛が亡くなった場所は、九条河原口の平盛国の邸宅でした。盛国は、清盛の祖父正盛の従兄弟に当たり、盛国の米寿の祝いに訪れた時のことでした。清盛は急に頭痛を訴え、盛国の邸宅で休むことにしました。しかし、何日経っても良くならず、毎日、高熱にうなされ続けました。あまりの高熱だったため、氷を入れた水風呂に清盛がつかると、水がお湯に変わったとも伝えられています。清盛の病は都の人々にも広まり、様々な噂がささやかれるようになり、その噂には「興福寺を焼き討ちした仏罰」というものもあったそうです。熱病はマラリアだったというのが通説ですが、その説には懐疑的な意見も多々あり、性病説も採り上げられています。<br />清盛は、この熱病に勝つことができず、64歳でこの世を去りました。清盛が亡くなる半年ほど前、平治の乱で命を助けた源頼朝が平家追討のために挙兵しました。清盛はこれが許せず、亡くなる前に「頼朝の首をわが墓前に供えよ」と言い残したと伝えられています。

    六波羅蜜寺 清盛塚
    平清盛を祀った供養塔で、六波羅の地が平家の本拠地だったことを偲ばせます。この五輪塔は、造型からみて江戸時代に入ってから造られたものと思われます。
    太政大臣にまで昇り、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言わしめた清盛が亡くなった場所は、九条河原口の平盛国の邸宅でした。盛国は、清盛の祖父正盛の従兄弟に当たり、盛国の米寿の祝いに訪れた時のことでした。清盛は急に頭痛を訴え、盛国の邸宅で休むことにしました。しかし、何日経っても良くならず、毎日、高熱にうなされ続けました。あまりの高熱だったため、氷を入れた水風呂に清盛がつかると、水がお湯に変わったとも伝えられています。清盛の病は都の人々にも広まり、様々な噂がささやかれるようになり、その噂には「興福寺を焼き討ちした仏罰」というものもあったそうです。熱病はマラリアだったというのが通説ですが、その説には懐疑的な意見も多々あり、性病説も採り上げられています。
    清盛は、この熱病に勝つことができず、64歳でこの世を去りました。清盛が亡くなる半年ほど前、平治の乱で命を助けた源頼朝が平家追討のために挙兵しました。清盛はこれが許せず、亡くなる前に「頼朝の首をわが墓前に供えよ」と言い残したと伝えられています。

  • 六波羅蜜寺 阿古屋塚<br />歌舞伎の演目にもなっている『壇ノ浦兜軍記』に登場する阿古屋の塚です。源頼朝暗殺計画を企てた悪七郎と呼ばれた平景清の愛人であり五条坂の白拍子だった、阿古屋の菩提を弔っています。<br />平家の残党を探す代官 畠山重忠は、景清の子を身籠った阿古屋を捕らえ、詮議のために琴・三味線・胡弓を弾かせるという琴責めを敢行します。しかしその音色に一糸の乱れもなかったことから、重忠はそれに感動して「阿古屋は景清の所在を知らない」とし、無罪放免したそうです。<br />鎌倉時代中期に造られた花崗岩製の石造宝塔であり、台座は古墳の家型石棺の蓋が代用されています。この辺りは鳥辺野葬場の入口であり、遺骸を荼毘に付す下火(あこ)という点火作法が行われていました。やがて江戸時代に近松門左衛門『出世景清』で「阿古屋の琴責め」が有名になり、この阿古屋の名と下火が同音であることから、阿古屋塚と呼ばれるようになったとされています。

    六波羅蜜寺 阿古屋塚
    歌舞伎の演目にもなっている『壇ノ浦兜軍記』に登場する阿古屋の塚です。源頼朝暗殺計画を企てた悪七郎と呼ばれた平景清の愛人であり五条坂の白拍子だった、阿古屋の菩提を弔っています。
    平家の残党を探す代官 畠山重忠は、景清の子を身籠った阿古屋を捕らえ、詮議のために琴・三味線・胡弓を弾かせるという琴責めを敢行します。しかしその音色に一糸の乱れもなかったことから、重忠はそれに感動して「阿古屋は景清の所在を知らない」とし、無罪放免したそうです。
    鎌倉時代中期に造られた花崗岩製の石造宝塔であり、台座は古墳の家型石棺の蓋が代用されています。この辺りは鳥辺野葬場の入口であり、遺骸を荼毘に付す下火(あこ)という点火作法が行われていました。やがて江戸時代に近松門左衛門『出世景清』で「阿古屋の琴責め」が有名になり、この阿古屋の名と下火が同音であることから、阿古屋塚と呼ばれるようになったとされています。

  • 六波羅蜜寺 六波羅浄心苑 <br />この先にあるのは墓地で、ここでは樹木葬で葬られます。樹木葬とは、遺骨を自然に戻す納骨方法であり、一度納骨すると取り出すことができないそうです。<br />入口に安置されているこの地蔵尊は、1969(昭和44)年の本堂解体修理の際に発掘されたものです。現在は頭部を他の石碑と繋ぎ合わせた異様なものになっていますが、以前は胴体があり、胴体と頭部の石質が異なることが話題になっていました。どうして胴体から外してしまったのか謎です。

    六波羅蜜寺 六波羅浄心苑 
    この先にあるのは墓地で、ここでは樹木葬で葬られます。樹木葬とは、遺骨を自然に戻す納骨方法であり、一度納骨すると取り出すことができないそうです。
    入口に安置されているこの地蔵尊は、1969(昭和44)年の本堂解体修理の際に発掘されたものです。現在は頭部を他の石碑と繋ぎ合わせた異様なものになっていますが、以前は胴体があり、胴体と頭部の石質が異なることが話題になっていました。どうして胴体から外してしまったのか謎です。

  • 六波羅蜜寺 弁財天<br />南門の近くにある護摩堂に祀られているのは、弁財天です。「都七福神めぐり」のおひとりでもあります<br />1156年に崇徳天皇は保元の乱で皇位争いに敗れ、讃岐に流刑されて亡くなりました。その後、天皇が寵愛した阿波内侍は屋敷を寺院(現在の祇園歌舞練場付近)に改め、弁財天を祀りました。明治時代の廃仏毀釈によりその寺院は廃寺となり、弁財天がこの地に遷されたと言われています。

    六波羅蜜寺 弁財天
    南門の近くにある護摩堂に祀られているのは、弁財天です。「都七福神めぐり」のおひとりでもあります
    1156年に崇徳天皇は保元の乱で皇位争いに敗れ、讃岐に流刑されて亡くなりました。その後、天皇が寵愛した阿波内侍は屋敷を寺院(現在の祇園歌舞練場付近)に改め、弁財天を祀りました。明治時代の廃仏毀釈によりその寺院は廃寺となり、弁財天がこの地に遷されたと言われています。

  • 六波羅蜜寺 弁財天<br />香炉の獅子がひょうきんな表情をしていて可愛いです。<br />七福神は京都が発祥の地とされ、「都七福神」の巡拝は古くから行われています。七福神の神々の力をもって福運を授かろうとする民衆の儚い願いであり、特に新春に巡拝すると「七難即滅、七福即生極まりなし」と言われ、功徳が大きいとされています。<br />技芸上達のご利益を授けてくれる弁財天ですから、芸能関係の仕事をされている方や職人さんがお参りしておくと、仕事がうまくいきそうですね!

    六波羅蜜寺 弁財天
    香炉の獅子がひょうきんな表情をしていて可愛いです。
    七福神は京都が発祥の地とされ、「都七福神」の巡拝は古くから行われています。七福神の神々の力をもって福運を授かろうとする民衆の儚い願いであり、特に新春に巡拝すると「七難即滅、七福即生極まりなし」と言われ、功徳が大きいとされています。
    技芸上達のご利益を授けてくれる弁財天ですから、芸能関係の仕事をされている方や職人さんがお参りしておくと、仕事がうまくいきそうですね!

  • 六波羅蜜寺 弁財天<br />まず、ドラを鳴らして弁財天に参詣に来たことをお知らせします。<br />扁額には「祥寿院」とあります。<br />

    六波羅蜜寺 弁財天
    まず、ドラを鳴らして弁財天に参詣に来たことをお知らせします。
    扁額には「祥寿院」とあります。

  • 六波羅蜜寺 弁財天<br />福寿弁財天は、平安時代後期、崇徳天皇の夢告により禅海が造ったと伝わる、高さ30cm程と小柄ながらまばゆい金色の光を放つゴージャスな艶っぽい女神です。この弁財天は、8本の手を持ち、それぞれの手に弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索を持つ、力強い弁財天です。まるで戦に向かうかのような出で立ちですが、弁財天と言えば七福神の中の毘沙門天に横恋慕し、妻の吉祥天から強引に略奪しようとした肉食系女子でもあります。<br />そうしたいわれから、この福寿弁財天は、特に縁結びにご利益があるそうです。その他のご利益は、金運と勝負運、芸事の上達と言われています。また、弁財天が水を司る女神であったことから、水がすべての穢れを清めるよう、苦しみを洗い流してくれる力もあると言われています。つまり、何でもありということのようです。

    六波羅蜜寺 弁財天
    福寿弁財天は、平安時代後期、崇徳天皇の夢告により禅海が造ったと伝わる、高さ30cm程と小柄ながらまばゆい金色の光を放つゴージャスな艶っぽい女神です。この弁財天は、8本の手を持ち、それぞれの手に弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索を持つ、力強い弁財天です。まるで戦に向かうかのような出で立ちですが、弁財天と言えば七福神の中の毘沙門天に横恋慕し、妻の吉祥天から強引に略奪しようとした肉食系女子でもあります。
    そうしたいわれから、この福寿弁財天は、特に縁結びにご利益があるそうです。その他のご利益は、金運と勝負運、芸事の上達と言われています。また、弁財天が水を司る女神であったことから、水がすべての穢れを清めるよう、苦しみを洗い流してくれる力もあると言われています。つまり、何でもありということのようです。

  • 六波羅蜜寺 弁財天<br />現在の都七福神めぐりは、京都恵比須神社の恵比須神、松ヶ崎大黒天妙圓寺の大黒天、六波羅蜜寺の弁財天、東寺の毘沙門天、萬福寺の布袋尊、赤山禅院の福禄寿、革堂(行願寺)の寿老人になっています。

    六波羅蜜寺 弁財天
    現在の都七福神めぐりは、京都恵比須神社の恵比須神、松ヶ崎大黒天妙圓寺の大黒天、六波羅蜜寺の弁財天、東寺の毘沙門天、萬福寺の布袋尊、赤山禅院の福禄寿、革堂(行願寺)の寿老人になっています。

  • 六波羅蜜寺 無事かえる<br />手水舎の横に立札があります。<br />通常、「無事かえる」とあれば漫画チックなカエルの彫像が置かれているのですが、盗まれてしまったのでしょうか?<br />よく観ると、白い石には2匹のカエルが浮き彫りにされています。これを拝むと「無事に帰る」功徳があるそうです。確かに単なるカエルの彫像よりは功徳がありそうな気がします。<br />

    六波羅蜜寺 無事かえる
    手水舎の横に立札があります。
    通常、「無事かえる」とあれば漫画チックなカエルの彫像が置かれているのですが、盗まれてしまったのでしょうか?
    よく観ると、白い石には2匹のカエルが浮き彫りにされています。これを拝むと「無事に帰る」功徳があるそうです。確かに単なるカエルの彫像よりは功徳がありそうな気がします。

  • 若宮八幡宮<br />五条通は清水寺から東は東海道と呼ばれる街道で、現現在8車線からなる日本列島の大動脈となっています。<br />石造りの一の鳥居の手前左側には「清水焼発祥之地 五条坂」の石碑が立てられています。<br />源頼義(八幡太郎義家の父)が六条醒ヶ井(さめがい)の邸内に社を造り、八幡様を私的に祀りました。その後、1058(天喜5)年に後冷泉天皇の勅願により八幡様の「若宮の社」として石清水八幡を勧請したのが始まりです。源氏が強いのは八幡様への信仰が篤い故との解釈が広まり、源氏やその後の足利氏の崇敬を集めて室町時代に隆盛を極めました。その後、応仁の乱で荒廃して各地への移転を繰り返しますが、江戸時代の1605(慶長10)年に方広寺の北から現在の地に移り、1949(昭和24)年には陶祖 椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を合祀して「陶器神社」と呼ばれるようになりました。<br />勿論、八幡宮ですので、応神天皇(八幡神の主神)とその父母・仲哀天皇及び神功皇后を主祭神とし、左の相殿に仲恭天皇を祀っています。仲恭天皇は初めて聞く鎌倉時代の天皇ですが、明治時代に歴代天皇に加えられた在位78日の最も短命な天皇だったそうです。明治天皇は、慶光天皇や淳仁天皇などの諡号を追贈したことで知られていますが、何故仲恭天皇が優遇されたのか知りたいところです。こうしたことから武神と陶芸の神が合祀された不思議な社になっています。

    若宮八幡宮
    五条通は清水寺から東は東海道と呼ばれる街道で、現現在8車線からなる日本列島の大動脈となっています。
    石造りの一の鳥居の手前左側には「清水焼発祥之地 五条坂」の石碑が立てられています。
    源頼義(八幡太郎義家の父)が六条醒ヶ井(さめがい)の邸内に社を造り、八幡様を私的に祀りました。その後、1058(天喜5)年に後冷泉天皇の勅願により八幡様の「若宮の社」として石清水八幡を勧請したのが始まりです。源氏が強いのは八幡様への信仰が篤い故との解釈が広まり、源氏やその後の足利氏の崇敬を集めて室町時代に隆盛を極めました。その後、応仁の乱で荒廃して各地への移転を繰り返しますが、江戸時代の1605(慶長10)年に方広寺の北から現在の地に移り、1949(昭和24)年には陶祖 椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を合祀して「陶器神社」と呼ばれるようになりました。
    勿論、八幡宮ですので、応神天皇(八幡神の主神)とその父母・仲哀天皇及び神功皇后を主祭神とし、左の相殿に仲恭天皇を祀っています。仲恭天皇は初めて聞く鎌倉時代の天皇ですが、明治時代に歴代天皇に加えられた在位78日の最も短命な天皇だったそうです。明治天皇は、慶光天皇や淳仁天皇などの諡号を追贈したことで知られていますが、何故仲恭天皇が優遇されたのか知りたいところです。こうしたことから武神と陶芸の神が合祀された不思議な社になっています。

  • 若宮八幡宮<br />「美貌の神のお札」や「美貌御守」「縁結び御守」を授けていただけます。「美貌の神」・「縁結びの神」の由来は、主祭神として祀られている美人として有名だった神宮皇后からかもしれませんが、確かなことは判っていません。<br />拝殿の前には、2の木が一つに連理した「縁結びのご神木」や「ハートの形をした神石」、足利尊氏が献上したと伝わるご神威あらたかな「蓬莱石」が安置され、境内は縁結びのご利益がありそうな雰囲気に満ちています。<br />長寿も司り、いつまでも若々しくいられるようにと女性だけでなく老若男女が訪れています。美貌と若さと良縁を一挙に手にすることができるとあれば、女性にとってはこの上ない祈願スポットかもしれません。

    若宮八幡宮
    「美貌の神のお札」や「美貌御守」「縁結び御守」を授けていただけます。「美貌の神」・「縁結びの神」の由来は、主祭神として祀られている美人として有名だった神宮皇后からかもしれませんが、確かなことは判っていません。
    拝殿の前には、2の木が一つに連理した「縁結びのご神木」や「ハートの形をした神石」、足利尊氏が献上したと伝わるご神威あらたかな「蓬莱石」が安置され、境内は縁結びのご利益がありそうな雰囲気に満ちています。
    長寿も司り、いつまでも若々しくいられるようにと女性だけでなく老若男女が訪れています。美貌と若さと良縁を一挙に手にすることができるとあれば、女性にとってはこの上ない祈願スポットかもしれません。

  • 若宮八幡宮<br />本殿は三間社流造銅板葺です。身舎正面の庇部分を前室とし、更にその前に向拝を付けた前室付流造という京都では珍しい建築技法を採用しています。屋根は当初は檜皮葺だったそうです。因みに現在の本殿は、1654(承応3)年に再建されたものです。<br />流造とは社殿の正面前方の屋根が長く伸びている建築様式です。

    若宮八幡宮
    本殿は三間社流造銅板葺です。身舎正面の庇部分を前室とし、更にその前に向拝を付けた前室付流造という京都では珍しい建築技法を採用しています。屋根は当初は檜皮葺だったそうです。因みに現在の本殿は、1654(承応3)年に再建されたものです。
    流造とは社殿の正面前方の屋根が長く伸びている建築様式です。

  • 若宮八幡宮<br />最近発掘されたという縁結びのハート形神石です。その手間には小さなハート形の小石が置かれています。

    若宮八幡宮
    最近発掘されたという縁結びのハート形神石です。その手間には小さなハート形の小石が置かれています。

  • 若宮八幡宮<br />足利尊氏が奉納した珍宝七種の一つのパワーストーン「蓬莱石」 です。確かに不思議な模様をした石塊です。<br />ある時、足利尊氏が病気に罹ります。そこで、若宮八幡宮に祈願したところ病気が治ったことから、珍宝七種を献上しました。そのひとつがこの蓬莱石であり、不可思議なご神徳やご加護があると伝えられています。<br />由緒書には、本殿の片隅に埋もれていたものを650年ぶりに発見したと記載されています。しかし、若宮八幡宮がこの地に移ってきたのは400年ほど前ですので、時系列が合いません。遷移の際に元の社の境内で発掘された蓬莱石も一緒に移ってきたと言うことなのでしょう。

    若宮八幡宮
    足利尊氏が奉納した珍宝七種の一つのパワーストーン「蓬莱石」 です。確かに不思議な模様をした石塊です。
    ある時、足利尊氏が病気に罹ります。そこで、若宮八幡宮に祈願したところ病気が治ったことから、珍宝七種を献上しました。そのひとつがこの蓬莱石であり、不可思議なご神徳やご加護があると伝えられています。
    由緒書には、本殿の片隅に埋もれていたものを650年ぶりに発見したと記載されています。しかし、若宮八幡宮がこの地に移ってきたのは400年ほど前ですので、時系列が合いません。遷移の際に元の社の境内で発掘された蓬莱石も一緒に移ってきたと言うことなのでしょう。

  • 若宮八幡宮<br />境内東側には池があり、そこには風流な石橋が架けられています。現在は渡ることができないようです。<br />五条坂陶器まつりが行われる期間には六道珍皇寺の六道まいりが行われており、両地点を結ぶ近道として若宮八幡宮の裏口が開かれ、この石橋も幻想的にライトアップされるようです。<br />背の高い紅梅が満開です。

    若宮八幡宮
    境内東側には池があり、そこには風流な石橋が架けられています。現在は渡ることができないようです。
    五条坂陶器まつりが行われる期間には六道珍皇寺の六道まいりが行われており、両地点を結ぶ近道として若宮八幡宮の裏口が開かれ、この石橋も幻想的にライトアップされるようです。
    背の高い紅梅が満開です。

  • 若宮八幡宮 紅梅<br />この梅一本しかないので華やかさに欠けるのですが、春の訪れを気づかせてくれています。

    若宮八幡宮 紅梅
    この梅一本しかないので華やかさに欠けるのですが、春の訪れを気づかせてくれています。

  • 大谷本廟 円通橋<br />さらに五条坂を上って行くと東大路を渡った右手に見られます。<br />円通橋は、大谷本廟の参道入口近くにある皓月池(こうげついけ)に奇巧を尽くして架けられた橋です。1856(安政3)年に架けられ、長さ40m、幅6mあり、橋脚・敷石板・欄干など全て花崗岩で造られています。橋脚の2つの真円アーチの他にも、高欄の親柱に用いられた頭飾りは「逆蓮頭)」と言い、神社仏閣特有の飾り付けで名前の通り蓮の花を反対にかぶせたような珍しい姿をしています。<br />橋脚によって作られた2つのアーチが水面に映る姿が眼鏡のように見えることから、別称「めがね橋」とも呼ばれています。幕末の1864(元治元)年に刊行された『花洛名勝図会』にも紹介されたそうです。江戸時代後期の歌人で古筆刀剣の鑑定で知られる能勢春臣こと竹屋春臣は、この橋を「はちす咲池にかけたる玉橋は涼しき国に通ふなりけり」と歌っています。歌にある「はちす」とは蓮のことであり、今でも夏には美しい蓮を咲かせます。

    大谷本廟 円通橋
    さらに五条坂を上って行くと東大路を渡った右手に見られます。
    円通橋は、大谷本廟の参道入口近くにある皓月池(こうげついけ)に奇巧を尽くして架けられた橋です。1856(安政3)年に架けられ、長さ40m、幅6mあり、橋脚・敷石板・欄干など全て花崗岩で造られています。橋脚の2つの真円アーチの他にも、高欄の親柱に用いられた頭飾りは「逆蓮頭)」と言い、神社仏閣特有の飾り付けで名前の通り蓮の花を反対にかぶせたような珍しい姿をしています。
    橋脚によって作られた2つのアーチが水面に映る姿が眼鏡のように見えることから、別称「めがね橋」とも呼ばれています。幕末の1864(元治元)年に刊行された『花洛名勝図会』にも紹介されたそうです。江戸時代後期の歌人で古筆刀剣の鑑定で知られる能勢春臣こと竹屋春臣は、この橋を「はちす咲池にかけたる玉橋は涼しき国に通ふなりけり」と歌っています。歌にある「はちす」とは蓮のことであり、今でも夏には美しい蓮を咲かせます。

  • 大谷本廟 総門<br />本願寺第14代寂如宗主の時代の1710(宝永7)年に建立され、1796(寛政8)年、第18代文如宗主の時代に現在の四脚門に改築されました。<br />寂如上人は詩文や書道に秀でた学徳の方であり、大谷本廟の「明著堂」や総門に掲げられている「龍谷山」の額は上人の筆跡になります。

    大谷本廟 総門
    本願寺第14代寂如宗主の時代の1710(宝永7)年に建立され、1796(寛政8)年、第18代文如宗主の時代に現在の四脚門に改築されました。
    寂如上人は詩文や書道に秀でた学徳の方であり、大谷本廟の「明著堂」や総門に掲げられている「龍谷山」の額は上人の筆跡になります。

  • 大谷本廟 総門<br />大谷本廟は宗祖親鸞聖人の廟所であり、祖廟とも呼ばれています。親鸞は、1262(弘長2)年に舎弟尋有僧都の住坊「善法坊」、現在の角坊別院において90歳で往生となり鳥辺山南辺、現在の大谷本廟の御荼毘所で火葬し奉り、遺骨は鳥辺野北辺「大谷」に納められました。<br />総門に掲げられる「大谷本廟」の扁額は、1860(万延元)年に書かれたもので第20代広如宗主の直筆です。

    大谷本廟 総門
    大谷本廟は宗祖親鸞聖人の廟所であり、祖廟とも呼ばれています。親鸞は、1262(弘長2)年に舎弟尋有僧都の住坊「善法坊」、現在の角坊別院において90歳で往生となり鳥辺山南辺、現在の大谷本廟の御荼毘所で火葬し奉り、遺骨は鳥辺野北辺「大谷」に納められました。
    総門に掲げられる「大谷本廟」の扁額は、1860(万延元)年に書かれたもので第20代広如宗主の直筆です。

  • 大谷本廟 総門<br />ここには、親鸞聖人はじめ本願寺の歴代宗主、お裏方の全ての墓所があります。そしてその全ての墓石は北木石で造られています。<br />仏殿や総門付近にある石燈籠も北木石製であり、円通橋も含めて石文化の殿堂とも言えます。

    大谷本廟 総門
    ここには、親鸞聖人はじめ本願寺の歴代宗主、お裏方の全ての墓所があります。そしてその全ての墓石は北木石で造られています。
    仏殿や総門付近にある石燈籠も北木石製であり、円通橋も含めて石文化の殿堂とも言えます。

  • 大谷本廟 守衛所<br />宗教施設のように見えますが、守衛所と説明がありました。しかし、屋根上部には太鼓楼らしきものが載せられています。自動販売機がちょっと無粋ですが、風格のある建物です。

    大谷本廟 守衛所
    宗教施設のように見えますが、守衛所と説明がありました。しかし、屋根上部には太鼓楼らしきものが載せられています。自動販売機がちょっと無粋ですが、風格のある建物です。

  • 大谷本廟 仏殿(本堂)<br />第13代良如上人の時代、1661(寛文元)年に創建され、1867(慶応3)年に隣接する二天門からの出火で焼失しました。現在の建物は、1870(明治3)年に再建されたもので、内陣には寂如上人御作の阿弥陀如来像を中心に、歴代宗主、左余間には七高僧・聖徳太子、右余間には覚信尼さまのご絵像が奉懸されています。堂内の「龍谷山」の額は、寂如上人のご染筆によるものです。

    大谷本廟 仏殿(本堂)
    第13代良如上人の時代、1661(寛文元)年に創建され、1867(慶応3)年に隣接する二天門からの出火で焼失しました。現在の建物は、1870(明治3)年に再建されたもので、内陣には寂如上人御作の阿弥陀如来像を中心に、歴代宗主、左余間には七高僧・聖徳太子、右余間には覚信尼さまのご絵像が奉懸されています。堂内の「龍谷山」の額は、寂如上人のご染筆によるものです。

  • 八坂神社 西楼門<br />八坂神社まで戻ってきました。<br />普段は通り過ぎることが多いのですが、せっかくですので参詣してみました。<br />四条通東方面への突き当たり、石段の上で目に飛び込んでくるのが2頭の青銅製の狛犬と朱塗りの楼門です。応仁の乱での焼失後、1497(明応6)年の再建で重文に指定され、八坂神社そして東山の象徴として市民や観光客からも親しまれていますが、実際の正門は南楼門になります。<br />古くは夜叉門や籠門と呼ばれ、その両脇には寺院の表門で見かける仁王像ではなく、随身(平安時代の貴族の護衛役)の木像2体が置かれています。2007年には94年ぶりに瓦が葺き替えられ、朱色も塗り直されています。<br />この西楼門は、八坂神社の七不思議のひとつに数えられているのですが、その理由は蜘蛛の巣が張ったことがないと言われているためです。そして、屋根から雨垂れがしないため、石段には雨垂れの跡が一切ないとも言われています。<br />八坂神社は見所が沢山あり、今回の訪問はダイジェスト版になっています。詳細を知りたい方は次のサイトを参照してください。<br />http://www.kyotonikanpai.com/spot/02_01_gion_higashiyama/yasaka_jinja.shtml

    八坂神社 西楼門
    八坂神社まで戻ってきました。
    普段は通り過ぎることが多いのですが、せっかくですので参詣してみました。
    四条通東方面への突き当たり、石段の上で目に飛び込んでくるのが2頭の青銅製の狛犬と朱塗りの楼門です。応仁の乱での焼失後、1497(明応6)年の再建で重文に指定され、八坂神社そして東山の象徴として市民や観光客からも親しまれていますが、実際の正門は南楼門になります。
    古くは夜叉門や籠門と呼ばれ、その両脇には寺院の表門で見かける仁王像ではなく、随身(平安時代の貴族の護衛役)の木像2体が置かれています。2007年には94年ぶりに瓦が葺き替えられ、朱色も塗り直されています。
    この西楼門は、八坂神社の七不思議のひとつに数えられているのですが、その理由は蜘蛛の巣が張ったことがないと言われているためです。そして、屋根から雨垂れがしないため、石段には雨垂れの跡が一切ないとも言われています。
    八坂神社は見所が沢山あり、今回の訪問はダイジェスト版になっています。詳細を知りたい方は次のサイトを参照してください。
    http://www.kyotonikanpai.com/spot/02_01_gion_higashiyama/yasaka_jinja.shtml

  • 八坂神社 西楼門<br />「祇園さん」と京都市民に親しまれ、京都のシンボル的存在ですが、八坂神社の由来を知ってる人は少ないそうです。現在は、素戔鳴尊(スサノオノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコカミ) の3柱を祀っています。<br />八坂神社の前身は祇園感神院と言い、牛の頭をした守護神 牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていました。牛頭天皇は、陰陽師 安倍晴明の祖先に当たる吉備真備が、遣唐使として中国に渡った際、九尾の狐と一緒に日本に連れて来たと言われています。<br />牛頭天王は、日本の神仏習合における神であり、祇園や播磨国広峰山に鎮座する神として蘇民将来説話の武塔天神と同一視されています。インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園神という祇園信仰の神であります。神仏習合では薬師如来の垂迹であると共に、スサノオの本地(本来の姿)ともされています。<br />現在では牛頭天王を祀っていた社のほとんどがスサノオを祭神とするようになりました。これは、明治時代に発布された神仏分離令という神道と仏教を区分する政策の影響によるものとされています。<br /><br />右端にある焼きガニの屋台に注目してください。撮影禁止とあります。何故、撮影禁止なのか?それは、カニではなく「カニカマ」なのです。ですから、買う人に日本人はいません。聖域でこのような商売を許していいものなのか…。

    八坂神社 西楼門
    「祇園さん」と京都市民に親しまれ、京都のシンボル的存在ですが、八坂神社の由来を知ってる人は少ないそうです。現在は、素戔鳴尊(スサノオノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコカミ) の3柱を祀っています。
    八坂神社の前身は祇園感神院と言い、牛の頭をした守護神 牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていました。牛頭天皇は、陰陽師 安倍晴明の祖先に当たる吉備真備が、遣唐使として中国に渡った際、九尾の狐と一緒に日本に連れて来たと言われています。
    牛頭天王は、日本の神仏習合における神であり、祇園や播磨国広峰山に鎮座する神として蘇民将来説話の武塔天神と同一視されています。インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園神という祇園信仰の神であります。神仏習合では薬師如来の垂迹であると共に、スサノオの本地(本来の姿)ともされています。
    現在では牛頭天王を祀っていた社のほとんどがスサノオを祭神とするようになりました。これは、明治時代に発布された神仏分離令という神道と仏教を区分する政策の影響によるものとされています。

    右端にある焼きガニの屋台に注目してください。撮影禁止とあります。何故、撮影禁止なのか?それは、カニではなく「カニカマ」なのです。ですから、買う人に日本人はいません。聖域でこのような商売を許していいものなのか…。

  • 八坂神社 参道<br />節分祭の翌日でしたので穴場だと思って来てみたのですが、この混雑ぶりには愕然としました。でもよく観ると日本人の姿は少ないように思います。そうです、中国では春節祭の真っ只中だったことを失念していました。京都観光では、悲しいことにお隣の国の事情まで考慮しなくてはなりません。<br /><br />牛頭天王とスサノオは共に行疫神(疫病を流行らせる神)とされますが、反面、薬師如来は医薬の仏として信仰されています。これについては、疾病を流行らせることもできれば治すこともできる、つまり疾病を司る神であると解釈することができます。そう考えると、薬師如来にも牛頭天王との繋がりが見えてきます。<br /><br />蘇民将来説話とはおよそ次のようなものです。<br />旅の途中で一夜の宿を請うた武塔神(むとうのかみ)を裕福な弟の巨旦(こたん)将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながら粟で作った食事で厚くもてなしました。後に再訪した武塔神は、弟の巨旦将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟の巨旦将来の一族を滅ぼしました。武塔神は自ら速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとされます。<br />この故事に因み、祇園祭では「蘇民将来子孫也」の護符を身に付けて祭りに奉仕するそうです。また、スサノオのご利益のお守りとされている茅の輪が起源とされる粽(ちまき)のお守りを家の玄関に付けたりするのが慣わしになっています。

    八坂神社 参道
    節分祭の翌日でしたので穴場だと思って来てみたのですが、この混雑ぶりには愕然としました。でもよく観ると日本人の姿は少ないように思います。そうです、中国では春節祭の真っ只中だったことを失念していました。京都観光では、悲しいことにお隣の国の事情まで考慮しなくてはなりません。

    牛頭天王とスサノオは共に行疫神(疫病を流行らせる神)とされますが、反面、薬師如来は医薬の仏として信仰されています。これについては、疾病を流行らせることもできれば治すこともできる、つまり疾病を司る神であると解釈することができます。そう考えると、薬師如来にも牛頭天王との繋がりが見えてきます。

    蘇民将来説話とはおよそ次のようなものです。
    旅の途中で一夜の宿を請うた武塔神(むとうのかみ)を裕福な弟の巨旦(こたん)将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながら粟で作った食事で厚くもてなしました。後に再訪した武塔神は、弟の巨旦将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟の巨旦将来の一族を滅ぼしました。武塔神は自ら速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとされます。
    この故事に因み、祇園祭では「蘇民将来子孫也」の護符を身に付けて祭りに奉仕するそうです。また、スサノオのご利益のお守りとされている茅の輪が起源とされる粽(ちまき)のお守りを家の玄関に付けたりするのが慣わしになっています。

  • 八坂神社 本殿<br />高さ15m、広さ400坪にも及ぶ桧の皮を重ねた大きな屋根を冠し、本殿と拝殿を一つ屋根で覆うその建築様式は他に類を見ないことから「祇園造」と呼ばれます。平安時代初期、藤原基経がこの地に観慶寺感神院を建て、寺内に本殿を設けたのが始まりとされ、現在の建物は1654(承応3)年に徳川家綱が紫宸殿を模して再建しました。重文に指定されているこの建物の下には池があり、古来大地のエネルギーが集結する龍穴として青龍が棲み、京都を守ってきたという伝説があります。<br />また、八坂神社の神紋は胡瓜を輪切りにした際の切り口に似ていることから、京都には祇園祭の期間中は胡瓜を食べないという慣習があります。

    八坂神社 本殿
    高さ15m、広さ400坪にも及ぶ桧の皮を重ねた大きな屋根を冠し、本殿と拝殿を一つ屋根で覆うその建築様式は他に類を見ないことから「祇園造」と呼ばれます。平安時代初期、藤原基経がこの地に観慶寺感神院を建て、寺内に本殿を設けたのが始まりとされ、現在の建物は1654(承応3)年に徳川家綱が紫宸殿を模して再建しました。重文に指定されているこの建物の下には池があり、古来大地のエネルギーが集結する龍穴として青龍が棲み、京都を守ってきたという伝説があります。
    また、八坂神社の神紋は胡瓜を輪切りにした際の切り口に似ていることから、京都には祇園祭の期間中は胡瓜を食べないという慣習があります。

  • 八坂神社 本殿<br />本殿の右の柱の下で西(左)を向き、強く柏手を打つと「パィ~ン」と大きく反響して聞こえます。天井に描かれた龍が鳴いているのだと言われていますが、何故この場所だけ柏手の音が「鳴き龍」のように反響するのか、今もその原因は解明されていません。<br />実は東の柱にはそれらしきものが配され、それが反響に関係しているとも言われています。東の柱の上の方に目を向けると、木鼻に獏の頭が東に向けられているのが判ります。この形相は「龍吼(りゅうぼえ)」とも呼ばれ、反響音は獏が柏手に応えて鳴くのだと言われています。

    八坂神社 本殿
    本殿の右の柱の下で西(左)を向き、強く柏手を打つと「パィ~ン」と大きく反響して聞こえます。天井に描かれた龍が鳴いているのだと言われていますが、何故この場所だけ柏手の音が「鳴き龍」のように反響するのか、今もその原因は解明されていません。
    実は東の柱にはそれらしきものが配され、それが反響に関係しているとも言われています。東の柱の上の方に目を向けると、木鼻に獏の頭が東に向けられているのが判ります。この形相は「龍吼(りゅうぼえ)」とも呼ばれ、反響音は獏が柏手に応えて鳴くのだと言われています。

  • 八坂神社 舞殿<br />1866(慶応2)年に南楼門と共に焼失後、1903(明治36)年に再建されています。2015年に46年ぶりに修復され屋根の葺き替え工事が行われたました。<br />奉納行事の舞台となる他、近年では結婚式も行われる舞台となっています。<br />周囲には花街の置屋や老舗料亭から奉納された祇園情緒溢れる提灯が吊り下げられ、明かりが灯されると境内は幻想的な雰囲気に包まれます。

    八坂神社 舞殿
    1866(慶応2)年に南楼門と共に焼失後、1903(明治36)年に再建されています。2015年に46年ぶりに修復され屋根の葺き替え工事が行われたました。
    奉納行事の舞台となる他、近年では結婚式も行われる舞台となっています。
    周囲には花街の置屋や老舗料亭から奉納された祇園情緒溢れる提灯が吊り下げられ、明かりが灯されると境内は幻想的な雰囲気に包まれます。

  • 今回の京都初詣で授与していただいたお守りです。<br />左側は、六波羅蜜寺宝物館限定のお守りのひとつです。「美し守」の他にも色々あります。<br />旅行記を読んでいただいた方にも、ご利益があるように祈念させていただきます。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    今回の京都初詣で授与していただいたお守りです。
    左側は、六波羅蜜寺宝物館限定のお守りのひとつです。「美し守」の他にも色々あります。
    旅行記を読んでいただいた方にも、ご利益があるように祈念させていただきます。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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