2017/01/07 - 2017/01/07
209位(同エリア307件中)
滝山氏照さん
新高山城(にいたかやまじょう、広島県三原市本郷町本郷・船木)は安芸国吉田郡山に拠点を置き安芸国一円を支配する毛利元就(もうり・もとなり、1497~1571)三男の隆景(たかかげ、1533~1597)が養子先の竹原小早川氏、次いで本家にあたる沼田(ぬた)小早川氏を相続し高山城に入城、翌年の天文21年(1552)沼田川対岸にあった砦を本格的に大改修を行ない、それまでの高山城からこちらの新高山城に本拠を移し慶長元年(1596)に沼田川河口に築城した三原城に拠点を定めるまで隆景居城としました。
もともと小早川氏の始祖は相模国土肥郷から興った土肥氏で源頼朝の御家人として源平合戦で平氏が滅亡し平氏の所領であったこの地を拝領したもので、実平(さねひら)に続く二代目遠平(とおひら)の時、小早川景平(こばやかわ・かげひら)を後継嗣子に迎え、以後小早川姓を名乗ります。
四代茂平(しげひら)の時代に沼田川の東側に高山城を築き、以降小早川氏の本城とし、五代雅平(まさひら)の時に沼田川対岸に副塁を築き砦として活用されていました。
大手道入口に建てられた説明板には下記のように紹介されています。
「史跡 小早川城跡(新高山城跡)
指定年月日 昭和32年(1957)2月11日
所 在 地 三原市本郷町本郷・船本
小早川氏の祖、土肥実平・遠平父子は、源頼朝の平氏追討に当って終始勲功をたて、はじめ備前、備中、備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田荘(沼田川流域一帯、蓮華王院領)の地頭職を得ると一族をあげて相模国から西遷して来た。
鎌倉・室町時代を通じて沼田小早川氏が本拠地とした山城は、沼田川対岸の高山城であったが、沼田小早川家を継いだ隆景は、これまで高山城の副塁であった新高山城の大改革を行ない、天文21年(1552)にここに本拠を移した。
以来慶長元年(1596)に三原城に移るまでの45年間、この新高山城が小早川氏の本拠となった。
この城郭は、標高197.6mの新高山城の天嶮を利用した山城で東西400m、南北500mの全山を城塞としている。
山頂尾根を削平した本丸、二ノ丸、三ノ丸など各種の郭は60余に及ぶ広大なもので、城主や家臣の居館を山頂にあげた中世山城から近世の城郭への過渡期を示す城郭である。
三 原 市」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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「新高山城跡大手道入口」柱標
JR本郷駅から徒歩約20分、国道33号を進み橋を渡ると沼田川に沿って北進、左手に「新高山城跡大手道入口」と書かれた標柱が眼に入ります。 -
新高山城登山道・案内板
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新高山城・案内板
大手道を進むと突き当りに新高山城案内板が待ち構えています。左側には「史跡 小早川城跡(新高山城跡)」と記載された説明、右側には「新高山城跡の整備イメ-ジ」と記した絵図が掲載され、北西から南東に蛇行した沼田川を見降ろす山岳に城跡が設けられています。 -
史跡 小早川氏城跡(新高山城跡)説明板
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新高山城跡の整備イメ-ジ画
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空堀
早速険しい大手道にさらされ登坂にてこずります。 -
竪堀
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大手道と「鐘の段」
左折すると「鐘の段」ですがこのまま大手道を直進します。 -
「番所跡」
大手道に面して「番所跡」方向板が認められ、右側の入口には「番所跡」と題された説明板が建てられ、「軽石の段、中の段、下の段の山郭からなり、大手道を警固する番所が設けられていたところである。この番所の東方と西方にもそれぞれ東の番所、西の番所と呼ばれる郭が残っている」の説明があります。 -
「番所跡」説明板
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匡真寺跡
大手道を登り切った空間の敷地は本丸かと思いきや、実は匡真寺という社寺の跡地でした。 -
匡真寺跡説明板
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匡真寺跡境内風景
旧境内の一部に石垣が残されています。 -
匡真寺跡境内風景
旧匡真寺境内には庭園跡を思わせるようなたたずまいが有されています。 -
匡真寺跡に配されたベンチ
「新高山城跡を守る会」により設置されたベンチが置かれ訪問者が休憩できる様になっています。 -
急峻な山頂からの展望
眼下に流れる沼田川と共にJR本郷駅方向を展望します。新高山城は沼田川を挟んで西側に俊立する標高190mに及ぶ相当に急峻な山城に位置していることがわかります。 -
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中の丸(二ノ丸)跡
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中の丸(二之丸)跡説明板
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イチオシ
崩れた石垣
隆景は三原城築城に際し、沼田川河口に浮かぶ島々を利用して城郭とするために新高山城の石垣を解体し持ち出したそうですがかなりの石が残っています。 -
本丸跡案内板
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大手門跡へ
石垣で覆われた本丸の左側にある帯郭をつたって廻りこみ、本丸に繋がる大手門跡に向かうことにします。 -
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釣井の段(井戸郭)案内板
説明板によれば「井戸郭は上下二段からなり、東西・南北共に50mという城内最大の郭である」と書かれ、更に「城主を始め多数の家臣たちが城内で生活していたことを物語って」います。 -
本丸跡敷地と大手門跡
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本丸跡敷地
隆景居城時代に父の毛利元就と長兄の隆元がこの城を訪れ、滞在中は連歌の会が催されました。 -
大手門跡・説明板
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本丸跡・説明板
説明板によれば「本丸は山頂尾根を削平した四段で構成され東西125mに及ぶ広さを有し、居館の跡と思われる礎石が一部露出している」とのことです。 -
本丸からの展望
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本丸跡敷地風景
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