2017/01/07 - 2017/01/07
167位(同エリア342件中)
滝山氏照さん
神辺城(かんなべじょう、広島県福山市神辺町大字川北)は神辺平野を一望する標高133mの黄葉山に造られた山城で、建武2年(1335)備後国守護に任ぜられた朝山備前守景連(あさやま・びぜんのかみ・かげつら)の築城とされ、以降歴代守護の居城となります。
その後守護となった山名氏は周防国大内氏に属していましたが天文7年(1538)出雲国尼子氏に通じたことからこれに怒った大内義隆(おおうち・よしたか、1507~1551)は銀山城主杉原理興(すぎはら・ただおき、生誕不詳~1557)に命じて山名氏を討伐、落城した神辺城は理興に与えられ、これを機に理興は「山名」の名跡を名乗ります。
理興はやがて大内から尼子方に転じたため、天文17年(1548)大内義隆の怒りを買い重臣の武将である陶隆房(すえ・たかふさ、1521~1555)に攻められ、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景も加わり対峙、理興は1年を持ちこたえた後尼子氏を頼って出雲に退去することになります。
この後大内氏の家臣平賀氏が6年城代を務め、その後下剋上により大内義隆を敗死させこれを機に改名した陶晴賢(すえ・はるかた)を安芸厳島の戦いにて降した毛利元就(もうり・もとなり、1497~1571)は弘治元年(1555)、理興の復帰を認めるも同3年(1557)理興没後は家老の杉原盛重が城主となります。
天正19年(1591)、出雲月山富田城から毛利元就八男の毛利元康(もうり・もとやす、1560~1601)が入城、毛利氏支配の間は家臣が城代として居城を続けます。
関ケ原合戦にて西軍の総大将毛利輝元は敗戦結果、29万8千石に大減封され周防長門の二国に押し込められ、代わって49万8千石に増加され安芸備後で広島入城した福島正則(ふくしま・まさのり、1561~1624)は3万石を以て神辺城を筆頭家老の福島正澄に預けることになります。
元和5年(1619)福島氏の改易後徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成(みずの・かつなり、1564~1651)が大和郡山から10万石を以て入封、勝成は翌年には山城の不便さと将来の展望を考慮し芦田川河口の常興寺山(現在の福山)に新城を築城し備後の政治の中心は福山城下へと移ることになり280年以上に亘り備後の拠点であった神辺城は廃城となります。
神辺城登城口の傍らに建てられた説明板には下記の事項が記されています。
「神辺城は『道上ノ城』とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功を挙げ
た朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武2年(1335)築城したと伝えられています。
以来、神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師泰・上杉顕能・渋川義兼・山名時義らが守護となり、一時期を除いて山名氏の備後支配が続き、それぞれ守護代が居城しています。
戦国時代には、杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井?玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ、福島時代に完成を見ています。
元和5年(1619)の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓桜や門などが取り壊され移築されたといわれています。実に280数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。
1998(平成10)年3月 神辺町観光協会」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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神辺駅周辺地図
JR福塩線にて福山から10数分の神辺駅下車、改札を出た正面に設置された駅周辺地図を見ると駅舎の東側に迫る山の頂上あたりに神辺城跡が記載されています。 -
かんなべ観光案内図
駅舎を出ると駅広場の一角に神辺観光協会作成による「かんなべ観光案内」と題する看板が建てられています。この地図で再度神辺城の所在を確認、ひとまず歴史民俗資料館を目指す事とします。 -
歴史民俗資料館
国道313号を進み神辺高校を左に見て右折する小道を入り、歴史民俗資料館案内看板を目印に入ると正面の山に城郭に似せた建造物が視野に入ります。 -
吉野山公園
道路の奥に広がった麓の敷地は公園となって遊園設備が配されており、休日などには多数の行楽客が集まっていることと思われます。 -
市街地展望
遊園地を登った道路の途中から市街地を一望します。 -
神辺歴史民俗資料館建物
山の方向に眼を転じると丘陵地に建てられた資料館が迫ってきます。 -
九十九折の登山道
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市街展望
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市街展望
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神辺城登城口
山道を登りつめると平坦に切削された敷地が現れ、右方向は更に山岳が見られ入口の傍には説明板らしきものが建っています。 -
歴史民俗資料館
登城口の東側には歴史民俗資料館建物が見え傍らには資料館開館時間に関する案内板が立っていますが早朝時刻のため入口は鎖で封鎖されている状態です。 -
神辺城登城口(近景)
近づいてみると左手に小路があり、その先には橋が架かっています。 -
神邊城説明板
「神邊城想像図」と題する説明板が建てられ、絵図と説明が掲載されています。この絵図によれば日常は麓の居館にて居住し、敵の侵入に対しては居館を放棄し山頂の城に籠る戦いがなされていたようです。 -
神邊城説明(説明部)
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神邊城想像図(絵図部)
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神辺城連絡歩道橋
敵の侵入を防ぐための堀切が施され、この空堀にはコンクリ-ト製の歩道橋が設置されています。 -
空堀
歩道橋から深い空堀を右に見下ろします。 -
空堀
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堀切跡(通称毛抜堀跡)案内板
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市街展望
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三番櫓跡
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三番櫓跡標石
神辺観光協会による保存と管理によって標石が設置されています。 -
市街展望
神辺駅方向を一望します。黄葉山と称する山が市街に迫っている為展望は極めて良好で、往来する車輌の姿が明確に見えます。 -
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二番櫓跡
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二番櫓跡標石
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乾櫓跡
当地の観光協会が各櫓を案内する標石と共にベンチを設置して訪問者が見学できるように配慮しています。 -
乾櫓跡標石
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二之丸櫓跡
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二之丸跡標石
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本丸跡方向
本丸は明確に一段高くなっています。 -
本丸跡
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本丸説明板
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本丸跡標石
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本丸跡
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井戸跡石標
井戸跡の傍らには祠堂が配されていますが理由がわかりません。 -
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荒布櫓跡標石
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鬼門櫓跡
荒布櫓跡から鬼門櫓跡を見下ろします。 -
鬼門櫓跡標石
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荒布櫓跡
鬼門櫓跡から荒布櫓跡を見上げます。 -
毛抜堀跡(堀切跡)
この後鬼門櫓跡を経て下山し登城口に戻りますが、途中で先に渡った歩道橋から見た空堀がここまで繋がっています。 -
黄葉山山頂
下山途中から神辺城を有する黄葉山山頂が朝の陽光を浴びて輝いています。 -
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黄葉山麓
神辺城を有する黄葉山の麓を走る313号は車輛が頻繁に走っています。 -
神辺高等学校正門
日常は神辺城の城主や家臣たちが居住していたのはこの高校敷地あたりだったとされます。 -
神辺高等学校校舎
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神辺城案内板
国道313号に沿った天別豊姫神社にも神辺城に関する案内板が建てられています。
「 神 辺 城 案 内
延喜(967)貞永(1232)の昔より式内社として著名なる当天別豊姫神社の鎮座まします黄葉山にはその替楓の巨木があったので紅葉山又は霧山と呼ばれていた。その山頂に神辺城(本名紅葉山道上城別名楓山城)が存在したのは今を去る360年前の頃である。建武中興に活躍した浅山備後守篠就公その軍功に依り建武元年備後守護職に補され紅葉山頂に城を築く。時に建武2年(1334)10月26日の事である。城主24代は変われど280余年の間即ち元和8年(1622)8月水野日向守勝成公福山城により神辺城引き継いに至るまで備後守護職の居城として山陽道上にその勇姿を誇示した。寛文13年(1673)に至りその外堀は埋め尽くされ天明の福山百姓一揆(1781)の際、城の石垣は破壊され又、天保14年(1843)時の藩主阿部正弘公老中筆頭職に就かれし際、わが領内に紅葉山の地名有るは将軍家衣城の紅葉山鶴舞城に対して憤りありとして黄葉山と改名された。今山頂の城跡を尋ねれば正に古城の歌そのままの様相を見せつけられる。ここに往時をしのび本標建立を志す。
平成15年(2003)2月吉日 神辺町観光協会 」 -
神辺城案内板
説明板には280余年に亘る神辺城主歴代一蘭が詳細に記載されて参考になります。
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