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三原城(みはらじょう、広島県三原市館町)は鎌倉時代に公文所別当(長官)として源頼朝の側近として信任を得て活躍、頼朝没後北条氏の執権政治移行後も宿老として同氏を支えた大江広元(おおえ・ひろもと、1148~1225)を遠祖とする安芸・吉田郡山に拠点を置いた毛利元就(もうり・もとなり、1497~1571)の三男である隆景(たかかげ、1533~1597)が天文13年(1544)養子先の竹原小早川家を、次いで天文19年(1550)に沼田小早川家をそれぞれ相続し安芸国東南部を支配する一大勢力の当主となった後、永禄10年(1567)、それまでの山城の新高山城から拠点を瀬戸内海に面した沼田川河口に浮かぶ大島と小島とを繋いで築いた軍港を兼ねた海城です。<br /><br />上記の如く隆景は本家沼田と分家竹原とに分かれていた両小早川家を統合し、旧本家が居住していた高山城(たかやまじょう、三原市高坂町)に入城しここを拠点としますが、翌年沼田川を挟んだ対岸の砦を拡大整備させて新高山城(にいたかやまじょう、三原市本郷町)と改称して新たな小早川家本拠として活躍します。<br /><br />そもそも小早川氏の先祖は遡る事伊豆に配流の源頼朝が治承4年(1180)平氏に対し反旗を翻した以前から頼朝に仕えた土肥実平(どい・さねひら、生誕不詳~1191)で頼朝挙兵の際には出身の中村一族を率いて参戦、平家追討及び奥州藤原氏討伐などで戦功をあげた譜代の中の譜代として知られ、実平の子遠平(とおひら、生誕不詳~1237)が知行地の相模国早河荘(現在の小田原市)の地名から「小早川」と名乗り、やがて安芸国沼田荘の地頭に補されたことが契機となります。<br /><br />三代目の茂平(しげひら、生誕不詳~1264)時代に発展して竹原まで支配を拡げ、三男雅平(まさひら)が同地に拠点を築き「沼田小早川家」を創設、その勢力は芸予諸島に及び小早川水軍の基礎を築きます。<br /><br />また茂平の四男政景(まさかげ、生没不詳)は竹原荘を分与され「竹原小早川家」と称され室町時代中期には本家と並ぶほどの著しい伸長を有するまでに至り、その後は本家と分家に分かれたまま推移、応仁の乱では本家は細川氏東軍側に分家は山名氏西軍側に分かれこれを機に両小早川氏は対立抗争を続ける敵対関係となります。<br /><br />戦国時代に入ると出雲で勢力を拡大し戦国大名となった尼子氏が南下、芸備地方に勢力を有する大内氏領内に侵入する状況が多発、ついに尼子氏と大内氏との抗争が激化、両小早川氏も尼子・大内氏の争いに巻き込まれるなか、竹原小早川家では天文10年(1541)第13代当主興景(おきかげ、1519~1541)が安芸国佐東の陣にて病没、興景には継嗣なく宿老らの評議を経て毛利元就三男隆景を養子として迎い入れ、更に沼田小早川家でも当主繁平(しげひら、1542~1574)が盲目であったことから隆景は沼田小早川家の家督を相続したことで両家は統一されるに至ります。<br /><br /><br /><br />現地に建てられた説明板にはコンパクトにまとめて紹介されています。<br /><br />「史跡 小早川氏城跡<br />   三 原 城 跡<br />    所在 三原市館町・本町・城町<br />    昭和三十二年十二月十一日指定<br /><br />小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて、瀬戸内海の水軍を掌握していた。隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後して沼田川河口の三原の小島をつないで城郭を築きここに移った。<br /><br />三原城は海に向って舟入りを開き、城郭兼軍港としての機能を備えた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので「浮城」と呼ばれている。<br /><br />小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城となっていたが、国鉄山陽本線及び新幹線が本丸を貫き、今は天守台とそれを巡る濠及びと舟入櫓跡・中門跡などが残るのみである。<br />                   三原市教育委員会 」

安芸三原 元就三男で兄の吉川元春と共に本家を支えた戦国屈指の知将で毛利家の舵取りを担い秀吉からも一目置かれた小早川隆景の軍港『三原城』訪問

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2017/01/07 - 2017/01/07

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滝山氏照

滝山氏照さん

三原城(みはらじょう、広島県三原市館町)は鎌倉時代に公文所別当(長官)として源頼朝の側近として信任を得て活躍、頼朝没後北条氏の執権政治移行後も宿老として同氏を支えた大江広元(おおえ・ひろもと、1148~1225)を遠祖とする安芸・吉田郡山に拠点を置いた毛利元就(もうり・もとなり、1497~1571)の三男である隆景(たかかげ、1533~1597)が天文13年(1544)養子先の竹原小早川家を、次いで天文19年(1550)に沼田小早川家をそれぞれ相続し安芸国東南部を支配する一大勢力の当主となった後、永禄10年(1567)、それまでの山城の新高山城から拠点を瀬戸内海に面した沼田川河口に浮かぶ大島と小島とを繋いで築いた軍港を兼ねた海城です。

上記の如く隆景は本家沼田と分家竹原とに分かれていた両小早川家を統合し、旧本家が居住していた高山城(たかやまじょう、三原市高坂町)に入城しここを拠点としますが、翌年沼田川を挟んだ対岸の砦を拡大整備させて新高山城(にいたかやまじょう、三原市本郷町)と改称して新たな小早川家本拠として活躍します。

そもそも小早川氏の先祖は遡る事伊豆に配流の源頼朝が治承4年(1180)平氏に対し反旗を翻した以前から頼朝に仕えた土肥実平(どい・さねひら、生誕不詳~1191)で頼朝挙兵の際には出身の中村一族を率いて参戦、平家追討及び奥州藤原氏討伐などで戦功をあげた譜代の中の譜代として知られ、実平の子遠平(とおひら、生誕不詳~1237)が知行地の相模国早河荘(現在の小田原市)の地名から「小早川」と名乗り、やがて安芸国沼田荘の地頭に補されたことが契機となります。

三代目の茂平(しげひら、生誕不詳~1264)時代に発展して竹原まで支配を拡げ、三男雅平(まさひら)が同地に拠点を築き「沼田小早川家」を創設、その勢力は芸予諸島に及び小早川水軍の基礎を築きます。

また茂平の四男政景(まさかげ、生没不詳)は竹原荘を分与され「竹原小早川家」と称され室町時代中期には本家と並ぶほどの著しい伸長を有するまでに至り、その後は本家と分家に分かれたまま推移、応仁の乱では本家は細川氏東軍側に分家は山名氏西軍側に分かれこれを機に両小早川氏は対立抗争を続ける敵対関係となります。

戦国時代に入ると出雲で勢力を拡大し戦国大名となった尼子氏が南下、芸備地方に勢力を有する大内氏領内に侵入する状況が多発、ついに尼子氏と大内氏との抗争が激化、両小早川氏も尼子・大内氏の争いに巻き込まれるなか、竹原小早川家では天文10年(1541)第13代当主興景(おきかげ、1519~1541)が安芸国佐東の陣にて病没、興景には継嗣なく宿老らの評議を経て毛利元就三男隆景を養子として迎い入れ、更に沼田小早川家でも当主繁平(しげひら、1542~1574)が盲目であったことから隆景は沼田小早川家の家督を相続したことで両家は統一されるに至ります。



現地に建てられた説明板にはコンパクトにまとめて紹介されています。

「史跡 小早川氏城跡
   三 原 城 跡
    所在 三原市館町・本町・城町
    昭和三十二年十二月十一日指定

小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて、瀬戸内海の水軍を掌握していた。隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後して沼田川河口の三原の小島をつないで城郭を築きここに移った。

三原城は海に向って舟入りを開き、城郭兼軍港としての機能を備えた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので「浮城」と呼ばれている。

小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城となっていたが、国鉄山陽本線及び新幹線が本丸を貫き、今は天守台とそれを巡る濠及びと舟入櫓跡・中門跡などが残るのみである。
                   三原市教育委員会 」

交通手段
高速・路線バス JRローカル
  • 瀬戸内三原築城キャンぺ-ン<br /><br />JR三原駅舎に連なる店舗には「瀬戸内三原 築城450年」と題する看板が大きく掲示されています。

    瀬戸内三原築城キャンぺ-ン

    JR三原駅舎に連なる店舗には「瀬戸内三原 築城450年」と題する看板が大きく掲示されています。

  • 三原キャンぺ-ンポスタ-<br /><br />「いざ三原へ!」と書かれた三原城の築城450年事業キャンぺ-ンが繰り広げられ、三原駅舎のみならず周辺の商店街にもそのポスタ-が掲示されています。.

    三原キャンぺ-ンポスタ-

    「いざ三原へ!」と書かれた三原城の築城450年事業キャンぺ-ンが繰り広げられ、三原駅舎のみならず周辺の商店街にもそのポスタ-が掲示されています。.

  • 三原城跡天守台案内板<br /><br />JR三原駅を降り構内を北側に向かうと三原城跡天守台跡に導く案内板が設置されてります。

    三原城跡天守台案内板

    JR三原駅を降り構内を北側に向かうと三原城跡天守台跡に導く案内板が設置されてります。

  • 三原城古地図<br /><br />天守台案内板の脇には三原城古地図が大きく掲げられており、瀬戸内海に面した小島を繋げて城郭とした海城の姿がよく描かれています。

    三原城古地図

    天守台案内板の脇には三原城古地図が大きく掲げられており、瀬戸内海に面した小島を繋げて城郭とした海城の姿がよく描かれています。

  • 三原城跡天守台と堀<br /><br />駅舎階段を上り切ると天守台へ向かう踊り場があり、この地点から天守台石垣と眼下には堀が目に入ります。

    三原城跡天守台と堀

    駅舎階段を上り切ると天守台へ向かう踊り場があり、この地点から天守台石垣と眼下には堀が目に入ります。

  • 三原城跡天守台石垣

    三原城跡天守台石垣

  • 三原城跡説明板<br /><br />天守台内部の中央には「史跡 小早川氏城跡 三原城」と題した説明板が建てられています。

    三原城跡説明板

    天守台内部の中央には「史跡 小早川氏城跡 三原城」と題した説明板が建てられています。

  • 三原城跡天守台

    三原城跡天守台

  • 三原城跡天守台<br /><br />天守台内部中央部には「国指定 史跡 三原城跡」と書かれた看板が建っています。

    三原城跡天守台

    天守台内部中央部には「国指定 史跡 三原城跡」と書かれた看板が建っています。

  • 三原城跡天守台展望<br /><br />天守台内部から北側の堀を一望します。

    三原城跡天守台展望

    天守台内部から北側の堀を一望します。

  • 三原城跡天守台展望<br /><br />天守台の南端部には山陽新幹線ホ-ムが走っています。

    三原城跡天守台展望

    天守台の南端部には山陽新幹線ホ-ムが走っています。

  • 三原城跡天守台<br /><br />今度は堀側から三原城跡天守台を一望します。の南端は山陽新幹線ホ-ムが食い込んでいる状態です。

    三原城跡天守台

    今度は堀側から三原城跡天守台を一望します。の南端は山陽新幹線ホ-ムが食い込んでいる状態です。

  • 三原城跡天守台

    三原城跡天守台

  • 三原城跡天守台跡案内板

    三原城跡天守台跡案内板

  • 三原城跡天守台と堀

    三原城跡天守台と堀

  • 「明治時代の天守台跡周辺古写真」説明板

    「明治時代の天守台跡周辺古写真」説明板

  • 三原城跡歴史公園風景

    三原城跡歴史公園風景

  • 三原城跡歴史公園案内板

    三原城跡歴史公園案内板

  • 三原城跡天守台石垣<br /><br />説明板によれば「北東隅は江戸時代に修復された箇所である」と記述されており、実際に該当部分を見ると従来の石垣に比して新たな石で積まれているようです。

    イチオシ

    三原城跡天守台石垣

    説明板によれば「北東隅は江戸時代に修復された箇所である」と記述されており、実際に該当部分を見ると従来の石垣に比して新たな石で積まれているようです。

  • 「後藤門の石垣」説明板

    「後藤門の石垣」説明板

  • 三原城跡歴史公園風景

    三原城跡歴史公園風景

  • 「後藤門石垣」案内板

    「後藤門石垣」案内板

  • 三原城跡歴史公園風景

    三原城跡歴史公園風景

  • 「天守台のうつりかわり」説明板

    「天守台のうつりかわり」説明板

  • 三原城跡歴史公園風景

    三原城跡歴史公園風景

  • 「西国街道の石列」説明板

    「西国街道の石列」説明板

  • 「天守台石垣」説明板<br /><br />「天守台石垣 (館町)<br /><br />日本一の規模を持つこの天守台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持つ。三原城が造られた1567年より約10年後に信長によって安土城が造られ、初めて天守台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。然しこの三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の築城です。<br /><br />この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」という特殊の工法は、古式の石積形式を立派に伝えております。<br /><br />1707年の大地震では、城内を役夫2万5千人を動員して修理した。しかし破損個所は・・・・「元のごとくなりがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、これは東北陵面のことと推測します。」

    「天守台石垣」説明板

    「天守台石垣 (館町)

    日本一の規模を持つこの天守台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持つ。三原城が造られた1567年より約10年後に信長によって安土城が造られ、初めて天守台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。然しこの三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の築城です。

    この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」という特殊の工法は、古式の石積形式を立派に伝えております。

    1707年の大地震では、城内を役夫2万5千人を動員して修理した。しかし破損個所は・・・・「元のごとくなりがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、これは東北陵面のことと推測します。」

  • 三原城天守台石垣<br /><br /><br /><br />

    三原城天守台石垣



  • 三原城跡天守台石垣<br /><br />山陽新幹線側から見た天守台石垣はに立派な雄姿を見せてくれます。<br /><br />

    イチオシ

    三原城跡天守台石垣

    山陽新幹線側から見た天守台石垣はに立派な雄姿を見せてくれます。

  • 小早川隆景座像

    小早川隆景座像

  • 小早川隆景説明板

    小早川隆景説明板

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